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  2. 【603GMV】共感性羞恥と甘え
2022-05-23 34:40

【603GMV】共感性羞恥と甘え

恥いる自分と白眼視する自分
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
繰り返しお伝えしていますが、6月4日の土曜日に、
橘武さんと共同でセミナーをしますが、
一つ、この点があまりにもあからさまなので言及されないのかもしれないのですが、
言及されていないポイントとして、
橘さんは体が大きいのですが、
私、もうすぐ50歳になりますが、
最近思うようになったのですが、
体力って大事だなと。
橘さんは体力があるなと、
それはわからないことかもしれないけど、見ていると感じたのです。
ライフハックとか仕事術というものも、
体力勝負ではないのですが、
でも体力がある方が有利だとは思うのです。
有利と言っても、競争しているわけではないのですが、
例えば書籍を片付けるという、ただそれだけであっても、
体力がある方が物事が進むと思うのですが、
背が大きいとか、体が頑犬だと言ったことは、
意外に馬鹿にならないなということも留意しながら、
当日私はトークしたいかなと思っています。
そのことをダイレクトに聞いてもしょうがないので、
そういうふうにはお尋ねしませんが、
私なんかはちっこいんですよ。
いわゆる男性としては、
日本で今時では昔だったらそうでもなかったと思うのですが、
大きさというか、体の丈夫さみたいなもの、
体力みたいなもの、MPとか難しい概念ではなくて、
単純に体力といったものが、
やっぱり橘さんが昔、
昔そういう30代とかに、
いわゆる職場で大変だったとか、
そういった話は私はあまり聞いてきていないのですが、
でもそういうのも、
私の年よりも先まで会社員やられていたんだから、
どうなのかな、その辺ちょっと微妙かもしれないですが、
でも多分そうだと思うんですよね。
だからそういう意味では、
なんかですね、
単純に私たちが考えるタスクというものは、
リストのタスクというものは、
さほど体力を使うようには見えないわけなんですけれども、
でも私は最近、何をやる気というよりは、
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何がタスクを実行する際に割と気にかかっているかというと、
身体状態だなって思うんですよね。
例えば、このタイミングで外に出て庭仕事をしたら、
もう一日私は使い物にならなくなるぞとか、
そういったことなんですよ。
だから、これはもうモチベーションとかの話ではないので、
その辺は割と今のところ話題になっていないんですけれども、
でも30から40の間というのはですね、
何かやっぱりあるんですよ、しばしば。
だから、これはメンタルと皆さん言うんだけど、
本当にメンタルなのかなと、
フィジカルなんじゃないのっていうのを最近思うようになりました。
50差し掛かってきてからですね、やっぱり気をつけてないと、
気をつけるというのはごくごく些細なことなんですが、
気をつけずにやってしまうとダメだなと。
それは非常に単純な話なんですけどね、
規則正しい生活とか、
ちゃんと寝ましょうとか、
寒い日に薄着して外に出まくってちゃダメですとか、
本当にごく常識的なんですが、
そういうことを気にしなくてもですね、
20代後半の仕事が始まった頃は、
私仕事始めてなかったけど、留学してたんですけどね、
ああいう時は何とかなっちゃってたんですよ。
1日ぐらい体調悪くても、
翌日になれば完全に元に戻っているっていう感じで、
ところが今になってみるとですね、
やらかして一歩間違って1ヶ月ぐらい不調を引きずるということになるんですよね。
なんかアスリートみたいだなとある意味では、
肉体が全てみたいなところが出てきてしまっているので、
そういう話はライフハックでは確かに、
実は昔あんまり話題になってないですよね、
ライフハックでは。
昔はでも健康ハックとか時々出てきたったし、
今でもそういうのは、
例えばオンラインでライフハッカーの記事とかでも、
上がってくるんだけれども、
この辺もまた微妙じゃないですか。
そういう話ばっかりしているとですね、
ネタになりやすいからそういう話ばっかりするってことになるんだけど、
睡眠トラッカーとかカフェインの量とか、
そういう話ばっかりしているとですね、
肝心の仕事の話が出てこなくなってくるんですよね。
今度は。
まるで健康オタクみたいな話になっていっちゃって、
健康の話さえしていれば、
ライフハックっぽく見えるという感じになるんだけど、
それもまたどうかと思うんですね。
それだったら、
病院にあるパンフレットとかを持って
読んでいれば良さそうな話になっちゃうんで、
そういうものでもないと。
ただ、やっぱり体力ってバカにならないなということをですね、
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4日はちょっと意識していようかなと思っております。
要するに、今はその体力がありそうな、
いかにもそういう感じの人っていうのと、
あんまりライフハックって結びついてこなかったと思うんですね。
私が要するに一番意識しているのは何かというのは、
やっぱり結局ライフハックはアメリカ初ですと。
そしてアメリカ人というのは非常に体力が違うんですよ、我々とは。
留学した時、それ本当に思ったんですよね。
本当に私が行った大学はアメフト盛んだったんで、
相撲取りみたいな人ばっかりそこら中に徘徊しているというか、
そこら中で目にする人が非常にたくましいわけですよね。
あの人たちと少なくともアメフトでは勝負できないなみたいな、
そういうのがありましたし、やっぱり強いわけですよ。
荷物持つとかもひょいっとですしね、本当に。
その辺のことちょっと時々すごく重視しているというわけではないけど、
多少は考えていったらいいんじゃないかと思っています。
そうは言っても、そういう話にはこれで7分も使っていますけど、全然違う。
先日ですね、専門用語じゃないと僕は思っているんですが、
共感性周知の話題がグッドバイオスファクトリーという
コミュニティの定例の無料の相談会みたいなところで出たんですね。
皆さん、ファクトリーぜひよろしければ無料体験できますので、
ご参加いただければと思います。
最近メンバーが結構固定してきていて、減ってなくてすごいんだけども、
いわば固定してきているんですね。
だからとりあえず体験してみるというのも悪くないと思うので、
結構コンテンツ盛りだくさんですので、
コミュニティってコンテンツ盛りだくさんにだんだんしていく傾向が出るんですよね。
運営者のやる気さえあれば。
クラザの経路さんはすごいその辺、それこそ手を全く抜かないので、
すごくいろいろ朝から今日のグッドバイオスとかも出てくるし、
充実しているのでよろしければということですが、
定例の月一の相談会みたいなやつで、
共感性周知に時々悩むんですというお話をいただいて、
そういう言葉は使われませんでしたけど、
共感性周知、私この言葉を知ったのはたぶんブロガーの
言いたいこと山々ですの山間昭さんに教えていただいたんだと思うんです、この言葉は。
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確かにそういうこともないわけじゃない。
あんまり私は頓着してきていないんですけれども、
何しろ共感性周知ってどういうことかというと、
たとえば奥さんが何かちょっとこう、
何でもいいんですよ、外で何かちょっとこう、
自分からするとみっともないことをやって、
自分がいたたまれなくなるという気持ちのことを指すんだと思うんですね。
だけど私は人からよくどっちかというと、
お前が恥ずかしい奴だって言われる人間だから、
共感性周知なんかに頓着していられないわけですね。
そんなことを考えている暇があったら、
お前自分何とかしろ的な人間なんで。
ただその共感性周知っていうのが、
いわば自分の友達なり、
友達はあまりないと思うんですけど、
部下とか後輩とか子供とか、
要するに少し自分の上下関係がある世界の中での下の方の人が、
自分の目からするとやらかしているのを見て、
何とか自分がすごく恥ずかしくなると。
あるいは全然関係ないシュエーションで言うと、
テレビの中でドッキリとか仕掛けられた人を見て、
恥ずかしくて気の毒になるみたいなのも、
そういうものだと思うんですね。
この辺は人間の投影力の高さだなとは思うんですけどね。
昨日パッと考えついたのが、
これはつまり甘えに違いないと思ったんですよ。
ある意味酷く甘えていますからね、その発想って。
ドイタケオさんの言う甘えですよ。
甘えの構造で言うところの甘え。
でも甘えと言っていいと思うんですよね。
いたたまれなさっていう表現が日本語にある。
そしてそのいたたまれないっていうのは、
非常に精神分析好みな感じがする言葉なので、
いたたまれないと。
しかもちょっとセクシャルな雰囲気もないわけじゃないじゃないですか、
いたたまれないっていうのは。
非常に精神分析的だと思ったので、
これは甘えに近い話というか、ほぼ甘えだと思うんですね。
どこが甘えなのかと。
先日これも発見だったというか、
改めてびっくりしたという、
ドイタケオさんの本の最後の方に、
甘えと同一かは同じだと。
つまり甘えと同一かは、
フロイトが言うところの同一かと甘えは、
ほぼ等しいというのを読んで、
ああそうかと。
これで分かりやすくなるんですね。
これ同一かですよね、共感性周知って。
完全に同一かだと思うんですね。
後輩なり、子供なり、奥さんなり、
それこそドッキリしかけられた人なりに、
自分が同一かしているわけですよ。
東映と言ってもいいんですけれどもね。
要するにその人になっちゃっているというふうに、
誤解してしまっていると。
心理的に。
同一かと言えば、
AGSPが思い出されるわけですね。
繊細さんなわけですよ。
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他の人が怒られているんだけど、
自分が怖くなる。やめてほしい。
それが繊細さんによく言われる話ですよね。
共感力が高いって言うじゃないですか。
共感力が高いというのは、
別の言い方をすると、
自分が無くなりやすいとも言えるんですよ。
ただ、この場合の自分が無いは、
決して統合失調系の話ではないってことです。
分裂病ではないですよね。
あくまでも、
東映をしやすいというだけであって、
例えば物語を読んでいると、
すぐ主人公になって泣くみたいな。
これはもう非常に東映しやすいと。
その分、自分はオルスになっているわけだから、
孫悟空とかになっちゃって、
あるいはケンシロウとかになったりしているわけで、
自分じゃなくなっていますよね。
自分の無い、
非常に健康な形態と言っていいと思うんですね。
共感性周知も、
その延長線に近いと思うんですよ。
これは全部、
同一化で説明はつくと思うんですね。
私たちはつまり、
いつもいつも自分自身に同一化しているわけではなく、
しょっちゅう他人に同一化する。
例えば私なんかは、
仕事をごくごく最初の頃、
2056年の頃、
日経ビジネスオンラインというのを書いていたときは、
頻繁に大橋哲夫さんに東映して、
同一化していましたよ。
自分は大橋哲夫になったつもりで文章を書くみたいな、
そういうことができちゃうんですね。
分かりませんよ、他の人から見て、
そうできていたかどうかなというのは。
やっているのが自分だという話であって、
これをあまり僕はテクニカルには、
お勧めしたくないんですよね。
結局自分の文章をどう書いていたのか、
分からなくなっちゃいますからね、
こんなことばっかりやっていると。
大橋さんと一緒に住みましたけど、
それは当時は少なくとも、
大橋さんの考え方と私の考え方を告示していたから、
そういうことをやっても大した影響はなかったんだけど、
あんまりやるもんじゃないとは思うんですよ、
クリエイターであれば。
自分がない状態をわざわざ作り出すことはないと思うんですよね。
こういうのって、
ライフハックのネタにするとウケそうじゃないですか。
アイデアリゼーションを使って文章を書くスキルみたいな、
やめたほうがいいと思うんですよ。
そんな難しいことじゃないですよ。
昔よく勧められたわけじゃないけど、
例えば、しがなおやになったつもりで、
あの人文章うまいですし、
非常にウケのいい文章を今風に書くには、
しがなおやさんみたいなのを参考にするって非常にいいと思うんだけれども、
だからといってですね、
しがなおやになりきって文章を書くとか、
やめたほうがいいと思うんですよ。
昔、アマゾンの、
アメリカの方のアマゾンのコンテストに、
ジョン・アップダイクになるっていう、
まさに今言った通りのようなことを応募してたんですよね。
応募で、ジョン・アップダイク風に書いてみようみたいな、
実にジョン・アップダイク風に出てくるんですよ。
ラビットランとか有名な作品、三部作みたいなのがあるんですけども、
つまり、非常に現代風で小気味よく書くっていうね、
そういうのを応募する理由は、
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アカラサモじゃないですか。
アマゾンめちゃめちゃ儲かりますよね。
そういうことなんだけど、
そういうことばっかりで、
やっぱりやるもんじゃないと思うんですよね。
非常にあれが上手にできる人ってすごいなと思うんですけど、
あれですよ。
なんだあれは。
コミケとかでも、
ほとんど原作者さんと見守るような絵で書ける人っているじゃないですか。
ああいうお遊びなんだと思うんですけれども。
共感性周知。
つまり、自分の恥ずかしい部分を投影するんですね。
同一化していく。
自分の恥ずかしい部分を外に投影するというのは、
私たちは実はこれもしょっちゅうテレビでも頻繁に行われて、
最近ちょっと批判の対象にもなってますけれども、
要するにみんなが人前でそういうことをしたくないなということを、
あえてやらせるか、やってしまっている人を盗み取りするんですよ。
そうすると、ある程度の釘付け感って得られるじゃないですか。
視聴率を稼ぐっていうんですね。
そういうふうにして使うんですね、これは。
それぐらい僕らはこれを簡単にやってしまうわけです。
この時、何が苦しくなるのかというと、
それを見ている人にも投影してるんですね。
私はこういう構造からしても、これはやっぱり甘えに限りなく近いというか、
ほぼ甘えだと思うんです。
まず第一に、外の人がそういう振る舞いをしてほしくないってことになってるじゃないですか。
当然のことだから。
今はあんまりやらないですけど、ほとんど全く見たことがないけど、
昔はタチションとか平気でしていた時代がありまして、
私だってしていた時代があったんですよ。
昭和の50年の前半、昭和45年とかはまだそれが全然普通にOKだった時代が、
私がちょうど7歳とかその辺の頃なんですよね。
それをテレビで撮ってタチションしてる奴を笑うみたいなね。
そういう番組が現実にあったんですよね。
顔はなんかモザイク入ってたような気がするんですけれども、
そういう時代だったんですよね、まだ。
みんなしたことはあるんですよ、男は多分その頃だったら。
よほど家柄がいいとかは別だと思うんですけど、
大体したことはみんなあるんですよね、その頃。
だから自分がそういうのをするっていうのに投影しちゃうじゃないですか。
ところがですね、当時はまだそれが軽犯罪ではあったんだけど、
それをわざわざ咎め立てるというほどの時代じゃなかったので、
つまりですね、私は共感性周知というものを感じるというのは
一つの甘えだと思うんですね。
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自分もやってるぐらいのことを人がやっているのを見て恥ずかしく思うっていうのは、
人にそれをやってほしくないっていう話に結局なってしまうんですね。
人にそれをやってほしくないっていう話に結局なってるわけですね。
でもそんなことを言う権利は別にないと思うんですよ。
つまりそれはその人がそれをやらなければ私はこんなに恥ずかしくならなくて済むのにっていう甘えなんですよ。
これがですね、もっと今時の共感性周知ってひどいなと思うのがあるんだけど、
くだらねえ質問をしやがってこっちが恥ずかしくなる。
これ完全に甘えですよね。
質問した人にめちゃくちゃ甘えてますよね。
その人がくだらない質問をするのは自由だし、
くだらない質問をしてその人が恥をかくのも自由だし、
つまり自分がなくなっちゃうわけです。
自分は自分だから彼は彼なんだから彼がやることは好きにさせておけばいいっていう
そういう普通に起こるはずの自他の区別ができなくなるんですね。
なぜできなくなるかってことなんです。
一つは自分の恥ずかしい部分を人に投影したからなんですが、
恥ずかしいっていうのは、これは昨日の相談会でも出た話なんですけど、
オーディエンスに対して恥ずかしいわけですよね。
二人だけでいるときには恥ずかしくはないわけですよ。
つまり恥ずかしいということは三角関係がそこにあると、
精神分析用語で言う三角関係なんですね。
第三者の視点が入ってくるわけです。
第一者、第二者は一者が二者目に投影しているわけです。
あの人は恥ずかしいことをしているというのは、私の恥ずかしいことをしているという風に見えているわけですね。
一つのイリュージョンなんですよ。
全く同じことをしているはずはないから、まだ私はその人じゃないですからね。
その人が私にとっては恥ずかしいことをしているような気がするというのが、
実は最も厳密に言った言い方で、
それがもう私だったら間違いなく恥ずかしいことをやつはやらかしているようになったんですよ。
そしてオーディエンスにも自分は投影しているんですね。
恥ずかしいというのは自分の判断ですよね。
ということはオーディエンスは彼を恥ずかしいやつだと思うだろうぐらいかな。
これは長寿がに近いと思います。
つまりオーディエンスに対して私はバスする側に投影するんですね。
私は二者、二つの投影をやる。
これもしょっちゅう起こることです。
実際人は無意識、これが私はフロイドの言うところの無意識だと思うんですよ。
もちろんこれを意識できるって人はいますよ。
誰もがこれを無意識でやるとは言い切れないんだけど、
多分これを無意識でやっちゃうという人は多々いて、
あいつは恥ずかしいやつだ、みんな白姫で見てるんじゃない。
これは一人芝居なんですよ。
恥ずかしいことをやっているという人に対して、
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私が恥ずかしい人になっているという投影を一つでやっておいて、
もう一つは白い目で見る人っていうのも自分でオーディエンスに投影する。
つまり自分の心の中の恥ずかしい部分と、
それをバスする部分っていうのがあってですね、
それぞれを方やオーディエンスに投影し、
方や恥ずかしいことをしでかしている人間に投影する。
全部自分の一人芝居なんですね。
これが甘えの構造ですよね。
同一化を分裂させてやっているわけです。
お好みけいごさんがよく話題にされるんですけれども、
兄弟、自分の子供、二人子供がいてですね、
その子供たちは兄弟だと。
姉妹というのが話題になっていたかな。
方やお姫様のようにして扱って、
方や下女のようにして、
全然その人の親にとっては不思議な感じがしないと。
これはよくある話なんだというふうに書いていたんですけれども、
お姫様にしている子は、自分のいい部分を投影している。
下女のようにしている子は、自分の嫌な部分を投影するから、
これで本人の親は少しも違和感を感じずに済んじゃうということが起こるんですね。
これは精神分析ではあるあるの話でしょっちゅう出てきますね。
だからよっぽどこういうことはですね、
昔の親御さんでしている人にとっては、
その親御さんでしている人はいたんでしょうね。
何かよくわかんないなって思うんですけど、
高階良子先生、ピアノ園田殺人事件とかで有名な先生が、
私はまさにその下女扱いされていたと。
お姉ちゃんはお姫様なんですよ。
そのシーンにもピタッと書かれていて、
おこのぎさんの本なりを参考にされているのかもしれないし、
自分の経験から間違って簡単にそういうふうに言えたのかもしれないけど、
非常にあからさまにそれを行われているというケースがあるんだなと。
私たちはそういうことをしょっちゅうやって、
自分の心の中のドラマを現実に見るんですね。
だからいたたまれなくなるわけです。
あとはどっち側にいるかってことなんですよね。
後輩との側にいる。
これは後輩の側だと後輩の方で思わないかもしれませんけどね、
後輩の側だとか夫の側だとか。
つまり恥ずかしい側につくのか、つくというか恥ずかしい側にいるのか、
それとも罰ろ側にいるのかと。
これもそれによって来行態度が変わるんだよ。
実はやっていることが変わらないんですよ。
こういう構図で見る限りは。
恥ずかしい側にいればいたたまれなくなる。
24:00
で、罰ろ側にいればほぼパージする側に回りますよね。
これも気持ちもすごく違うんだけど、
完全にやっていることは実は同じだったりするわけです。
これをですね、その具体的な場面で自分の中で入れ替わってしまうことがあるんですよ。
最初はいたたまれなかったけど途中から腹立たしくなってくるとかね。
全然不思議なことはないんですよ。
東亜高井戸さんがものすごく一生懸命頑張ってきた企業家が
時々万引きをするというのがやめられなくなっていると。
万引きをしてうまくいったときだけ超自我から逃れられてすごくリラックスできると。
東二はそういう分析をしていないから、
なぜ万引きしてうまく逃げ合わせた感じがするとものすごくすっきりするのかがわからないんですけれども、
その人は、つまり超自我というのはこの場合も犯罪者を罰する存在ですよね。
心の中にあります。
自分は万引きとかをする、つまりサボったり仕事を手に抜いたり
簡単に儲けに走れそうな仕事に走ったりすることを戒めている自分がいるわけです。
でもそれは大変苦しいですよね。経営者なんですから。
少しの休みもできなくなるし、ちょっとしたズルも一切許されない。
そういう心理状態で頑張らなければいけないんですよね。
だから現実にその心理状態が出ていっちゃうんですよね。
漏れ出ていくみたいな感じですよね。
で、投影すると。
そうすると自分のサボりたい、いい加減にやりたいというそういう気持ちの
ずっと抑止されてきた部分が万引きをすると。
で、それが逃げられたということは超自我というものを振り切ったという感覚ができるんですよね。
これがものすごくリラックスにつながる非常に厳しい心理状態で
しかもこれはずっと繰り返さなければならなくなりますから。
で、最後になんですけど、このいたたまれないという表現。
甘えないという表現。
これがですね、どいさんが甘えという言葉を使って
強く押し進めたいと思っていた話というか概念なんですね。
つまり共感性周知のような表現を使うなと
どいさんは考えていたらしいんですよ。
本を読んだときも思ったんですけど
例えば甘えるって甘えることができないからやむっていうのも
統合失調症とか、それこそ自己愛性とか
境界例とか言わなきゃいいじゃんっていう話なんですよ。
拗ねるとか、ひがむとか、噛みつくとか、人をなめるとか
それこそいたたまれないとか
言われればすぐわかることを使ったらいいでしょうということなんですよ。
日本語には精神分析が専門として使っている用語が
全部揃っていないかもしれないけど
27:00
日本的には十分揃っていると、出揃っていると。
一時ナルシシズムなどと言わなくて甘えと言ったらいいんだと。
つまりこの甘えというのは日本独特の感覚だというのは
いかにどいさんが言ったこととかけ離れているかということなんですよ。
どいさんが言ったことはほぼ逆なんですよ。
甘えというのは世界に普遍的にある
ただしドイツ人は甘えとは言わないと言っているに過ぎないんですよ。
現にドイツ人なりがナルシシズムといえば
それは和語の甘えに近いような
つまり専門用語感のむしろ少ない言葉に違いないというのを言っているんですよね。
カウンセリングの場でも普通の人が聞いて
すぐにそれと理解できるようなやり取りがなされていると
こうでなくちゃいけないと彼は書いていますね。
なぜかそれが全く違う方向に曲解されていっているんですけれども
彼は要するに和語を使って精神分析なりカウンセリングなりを
もっとやりやすい形でやるようにこれからしていきましょうというつもりで
ああいう話を書いた面があるんですよね。
だから共感性周知と言わず
いたたまれないと言いなさいという話なんですよ。
そうなっていないんですけれどもね。
日本はやっぱりそれこそ和語の方が
明治時代に文明改革の形を取ったから
要語を変換するということが学問で一番最初にやらなきゃならないことになっていますよね。
音楽が一番僕はいい例だと思うんですよ。
小学校6年とか小学校1、2年の頃の私が重ねた音楽の課題って
つまりあれは全部翻訳でしかないなって思うんですよ。
ドレミファソラシドってイタリア語じゃないですか。
これをCDEFGABCとか
それは英語に直しているだけじゃないですか。
しかもうちの娘とかはバイオリンはドイツだから
ゲーセンとかアーセンとか
それはアーベイセーデーでドイツ語なだけじゃないですか。
それをただGマイナーとか言ってみたり
エイデュアーとか言ってみたり
ドイツ風に読むか英語風に読むか
トチョウチョウと言ってみたり
トチョウチョウって変な言葉ですよね。
そういう風に言う必要って絶対ないような気がするんだけど
ハニホヘとイロハだけが日本語なんですけども
急に日本語出てきたりするわけですよね。
ト音記号とかもそうですよね。
あそこだけ日本語になっているんですよ。
だからそういう感じって心理学にも頻繁にあって
ただ言葉を日本語に直すというのが心理学になっちゃってるけど
それは翻訳だよねっていう話なんですよね。
スキゾフェルニアという言葉を
知ってるだけで良いことになってるんだけど
そんなはずないじゃないですか。
これとよく似た話だなと思うんですね。
30:02
いたたまれないという風にしばしば説明されてるんですよ。
いたたまれなくなる。
これを共感性周知という。
それ説明になってないんですよ。
全く同じことを専門用語っぽく言うのか
日常用語っぽく言うのかという風に選択しているだけであって
どっちかだけにある現象ではないから
両方にある、つまり普遍的な現象なんですよね。
これを同一化と呼んでみたり甘いと呼んでみるだけでは
やっぱり済まなくて大事なのは
どうしてそれが起こるのかってことじゃないですか。
私はどうしてそれが起こるのかについては
フロイトの説明以上に説得力のある説明というのは
まだ全くどこにもないんじゃないのっていう気がするんですよ。
こんなによくある人をそれなりに考えさせる心理現象なのに
これについての説明が非常に不十分だという気がしますよね。
共感性周知というのはそういう心理状態ですって
ただそれだけの説明で終わってしまう。
日本人はしばしばそれをいたたまれないと感じます。
それは説明になってないという感じがするんですよ。
一番ポイントになるのは
オーディエンスに自分の長自我らしきものを投影しているってことですよね。
あいつ恥ずかしいから罰してやりたいというその気持ちが
オーディエンスの方に投影されていなければ
そもそもこの気持ちっていうのは
発生しえないものなんですよ。
つまりこれ三角関係の中だけで起こるものだし
三角関係の中で第二者、第三者に対する
無意識の投影ってものが起きていると。
多分最終的に一番ポイントになるのは
このような無意識の心理状態が起きたときは
相当頭が切れたり相当内省的な人であっても
自分が亡くなるんですよね。
自分がそれをやっている主体であるということが
失われていくというか
その時には気づかないということが起こる。
投影同一化っていう現象でよく起こることですけど
要は我を忘れて怒ってしまうとか
我を忘れるんですよね。
この我を忘れるといった現象が起きたときに
我があったところに井戸が置かれるっていう
独特の表現があるんだけど
つまり不意に主体が消えるっていう
この心理状態が言ってみれば神経症の
多分根底にあるもので
この我を忘れるという状態を
それは難しい話になってくるんですけど
我を忘れるという状態に気づけるようになってくると
自体は少なくとも神経症というものは
消えていきますよというか
33:01
それで深刻に悩まなくて済みますよ
っていう話なんですよ。
これを私が一番気づかされるのは
私は静電気恐怖症なんだけど
静電気が起きそうなものに触れられない時なんですね。
あの時私は我を忘れるんですよ。
普通の人はもちろん静電気嫌じゃないですか。
でも私ほどじゃない人は
あの時我を忘れないんですよ。
我を忘れてしまうから
触ることができなくなってしまう。
鍵をかけたかどうかを頻繁に確かめる人もそうです。
我を忘れてしまうから
かけた時にかけたという記憶が残らないし
その後に自我が主体になって
記憶を呼び覚ますということをしっかりやれれば
間違いなく閉めたという確信が得られるんだけど
そうじゃない可能性があるという
わけの分からない観念に囚われてしまうのは
結局そこに自分がないんですよね、その時に。
二つのタイミングで自分がいなくなってしまう。
それがつまり神経症というものを作り出している。
そういう意味で共感性周知も同じなんですけど
この共感性周知とか電気の恐怖症とか
脅迫神経症とか全く共通点が見出せないような
様々な心理的なちょっとした悩ましさのようなものに
実は共通の構造を見出せるということを考え出したのが
フロイトのすごいところだという感じがします。
34:40

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