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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日、書き上げ塾という、倉園圭三さんと主催している本を書くための塾の第3期の2回目が終わったんですね。
昨日、本当にかなり長くの時間が、倉園さんによる赤入れの実例集みたいな感じだったんですよ。
あれ見ていてですね、つくづくあの赤入れ、
やっぱり多くの人が経験されることを、僕としてはすごくこう、
なんていうかな、受けたらいいなぁと思うので、良ければ3月14日、まだ若干なんですけど結構埋まってきてるんで、
第2日曜日ですね。 よろしければ赤入れ体験してみてください。
第1土曜日の3月の6日に、もう間もなくですが、
こっちはこっちで違うやつですね。いわゆるグッドバイブスのセミナーなんですが、
シーズン2、これも第2回目ということで、
カジマックスの自分と。 今日はそれと何の関係もない話ってこの番組でも多分したことはほぼないと思うんですけど、
ちょっとまた、久しぶりに昨日喋ってですね、
頭がこう触発されてタスクシュートの話を、今日は全然タスクシュートらしくはないこととも交えながらしようかなと思ってますが、
3月の6日にカジマックスで、人の作ったものを、
人が作ってないものと。 あの朝とか思うんですよ。人の作ってないものが非常に
活発だなという感じがします。やっぱり昼はですね、都市部に住んでいると特にそうですが、人が作ったもの、
前世みたいな時間帯ってありますよね。 朝日が昇ってきた頃というのは非常に人が作ってないものが
これから行きますみたいな感じで、自分朝好きなのはその辺にあるんじゃないかと時々思うんですけど、
そういう意味では夜もそうなんですが、 夜は今はまあともかくとして結構人の作ったもの万歳みたいな時間じゃないですか。
東京とかはね。 地方は全然そうじゃないと思うんですけど。
私も昔青森県の宇都市というところにいたんですが、あの辺になると夜とかも人が作ったものが存在しないかのような気配になっちゃって、あれはあれで怖いんですけどね。
この辺の話があるかなと思って。
で、私が今日したくなったタスクシュートの話というのはですね、
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タスクシュートってまあいろんな意味付けがそれこそそこにあるわけですが、
私のやっぱり考えではですね、究極的には一語一英なんだなと。
昨日喋っていて思ったんですよ。 今ここ、今ここ、今ここなんですよ。
でもまあ使い始めた時はですね、少なくともこれに興味を持った人は時間がないぞって話だと思うんですよ。
自分の時間がありませんもそうだけど、自分の時間だけとは限らないじゃないですか。
とにかく時間がないんだと。会社に行っても仕事終わんないし、残業ばっかりだし、
いろいろと大変なんですよと。タスクシュートが何をしてくれるのか知らないけど、時間を何とかしてくれるツールだということになってるし、
時間でびっしりエクセルを埋めるようなところから始めたわけですから、何かこう時間管理というのか、
時間を上手にやりくりできないかと。まあそういう話ですよね。
で、そういう話なんですよ実際に。
で、私は時間だけではありませんけれども、私たちってですね、
いろんなところでいろんな見落としをするんです。これはもう宿命みたいなもので、しょうがないと思うんですが、
この時間に関しては多分この世に時間というものが存在しないか、
したとしても人間には近くできないから存在しないも同然か、どっちかの理由で何にしても時間というものは近くできないんですね。
時計を見ることしかできないんです。で、脳には時間矢というものはないんですよ。
視覚矢とか聴覚矢とか嗅覚矢というのはあるんですが、つまり目を開けて脳が働けばですね、そこにこの像は偽物ですよ。
この像通りに世界がなっているはずがないですよね。だっていくつかの色は無視しているわけじゃないですか。
例えば、蚊だったら見える紫外線のある種の紫は無視して見ないことにしている。
狭いんですよ、蚊子光線というやつは。で、視覚矢はそれを使って作るんですけれども、その像は当然デタラメですよね。
でもまあ、現実に生きていくのには差し支えないようにできています。一応ね、空間を歩くとかで。
この蚊子光線だけ使ってもどんどんどっかにぶっかったりしないですよね。 ちゃんとこうヤバそうな生物を避けることができます。
これがいろいろ問題を生むんですけどね。ちょっとヤバそうなおじさんに勝手な意味付けをして、それに不安を覚えておかしな行動をとるとか。
グッドバイブスでもおなじみの展開はこの狭い現実情報を頼りに、それが現実そのものだと勝手に思い込むところから来るんですけれども、
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時間矢というのはとにかくないんですよ。時間というものを知覚する方法は存在しないんです。
だから私たちは時間を無視して生きているようなもんなんですけど、現代社会はですね、時間がさも現実に存在しているかのような顔をしているところがあるので、
時間というものがあるのかないのかもはや分かんないままですね。 これお金も似てると思うんですが、
それがすっかりこう外在するような顔をして、 我々は行動している。それも大体において、さっきも言いましたが追い立てられていて、
ほぼそれに対しては不安を抱くような仕組みになってきちゃったんですね。
で、これが時間、たとえ時間のやりくりを上手にやるという目的にしてもですね、
いいことはないんですよ。 時間について不安を覚える。多くの場合は締め切りが迫るとか、
時間がないという感じを抱くとかそういうことですが、 そういうふうな気持ちを抱くほど多分ますます焦って時間を失うという状態になるんですね。
これを解消してくれるのが多分タスクシュートというやつなんです。 なので私はこれはタスク管理という話とは少し違うかもしれないし、
GTDというものともあんまり関係はないと思っているし、そう喋ってきているんですね。
つまり、タスクシュートで私は毎朝、今日も朝からですね、
起きて、自分はいつも平安でいたいとかいう言葉を読んで、
娘の学校の支度をしてですね、月曜日だから。
起こして、ご飯を食べさせて、送って、目高に餌をやって、これを今摂ってるというのを全部記録に残しているんですよ。
途中トイレに3回行ったみたいな。
で、これは何をしているんだろうとしばしば思うわけです。
別にやんなくったっていいわけですよ。
私がやんないのはいろいろ問題だとはいえ、結局やらなくってもいいわけですよ。
何をしているんだろうと。
記録を残しているって言い方が一般的ですけど、もうちょっと詰めてですね、何をしているんだろうと。
これはですね、一番最初に始まった時のことを思い出すと、やっぱり時間に追われていたような気がするわけです。
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その不安が半端なかったんですよ。
何しろタスクシュート以前ですからね。
グッドバイオ推薦どころではなく、タスクシュート以前ですよ。
フリーランスやるしかもうなくなっていたわけですね。
アメリカで大学の博士課程を取るというのも、行ってしまえば手放しちゃったんで。
大橋哲夫さんという人と日経ビジネスオンラインというところで連載を書いておりましたが、
要はもうこれをやっていくしかないんだと。
これとは何なのかすらよくわからないけどこれですよ。
やっていくしかないんだと。
なった時に、僕は自分にサラリーマンは務まらないと思って、
向いてないとかじゃなくて務まらないと思っていたので、
これをやっていくしかないとなった時に猛烈にやっぱり恐怖感が襲ってくるわけですよね。
大変強い不安があって、実家にいたからまだいろいろマシだったんですけど、
私はもうそういうところでカッコつけて独立したいとかは思わないんですよ。
とにかく死ぬのだけは避けよう。
それしかなかったんですね。
そういう時期もあったわけです。
ちょっとでも収入が減ったりすると途端に青ざめるわけですね。
恐ろしいんですよ、とにかく。
だから時間に追い立てられるようにして何でもいいからやっていると。
でも実際にミーリーになる仕事って日経ビジネスオンラインで書くぐらいしかなかったんですよ、当時は。
それはそれなりにいただいていたんでカッコがついてはいたんだけど、
それだけで一生、そもそもその仕事1年で終わっちゃいましたし、
一生やっていくとかいうことを考えれば考えるほど絶望的な感じがしてきたんですね。
絶望的というのはちょっと違うんですよね。
何かに絶望してきたわけではないんですね。
巨大な不安、圧倒的な不安がやってくるみたいな、そういうところにいたわけです。
その中で、でもそれなりに連載読まれて忙しくなってきたわけですよ。
本とかも書き始めてですね。
そうするとそれはそれで不安になってくるわけです。
こんなに忙しいので、なんかこう、しでかしちゃったりやらかしちゃったり、具体性がないんですけどね、
こういう時に考えることって単なる不安なんで、具体性のないことを考え始めるんですよ。
しでかすとかやらかすとか、中身がよくわかんないんだけどとにかく悪いことが起こるということに、
強い不安を覚えたわけです。
その時にタスクシュートをやり始めたんですね。
つまり、時間を何とかやりくりすれば多分何とかなるだろう。
これも大変抽象的ですよね。具体性がないんですよ。
こういうふうにすればどうなるって言っても、
例えば時間のやりくりを上手にすれば連載が続くとか、そういう因果率は成り立たないじゃないですか。
ニッケ・ジンソン・ラインが打ち切られた理由は時間不足によるものではなかったんですよ。
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そんなことは、今思えば当然で、連載が終わるというのは、
はっきり言って、大体の場合、媒体側の都合であって、
書き手の話とは、書き手の状態とか状況云々とは関係ないんですよね。
ますます不安になるんだけど関係はないんですよ。
で、関係ないから不安になるわけですね。
自分にはどうにもできないことが原因で自分の首が締まるから不安になるわけですね。
で、そうした時に時間というものに僕はすがったわけですね、言ってみれば。
これなんじゃないかと思うんですね、私たちは多くの場合。
どうにもならないことについて不安になると何かにすがるじゃないですか。
神様とか。で、私は時間だったわけですよ。
時間があれば何とかなるんじゃないかと思ったんですよ。
そして厳に忙しかったからどんどんタスクシュートの仕組みに乗って、
言われるがままに仕事をどんどんすると。
これが当たったんですね。非常に回るようになったわけです。
そして一時強い安心感に切り替わっていくわけです。
この時だと私は思うんですね、何が起きたのかと。
神様にすがって上手くいったって良かったと思うんですよ、別に。
上手くいく限りにおいては、結局のところ我々の頭というのは
因果律というものを勝手に生み出すものなので、
そこに本当に因果関係があるかどうかではないと思うんですよ。
この言い方だと非常に釈然とされないかもしれませんが、
ただしですね、今だって例えば結構大きめの企業が車とか新車とか作ると
お払いとかしてもらうはずなんですよ。
これは誰もお払いをしたからといってですね、
その車が売れるとかリコールが発生しないとかそんなはずはないじゃないですか。
そんなことはみんなじゃないかもしれないけど、
多分お払いしている人の大半は分かっていると思うんですよ。
でも私たちの気持ちの中の因果律ってそういうふうには働かない。
何かをやって何かが上手くいくとそれを勝手に結びつけるんですよね。
あのネズミのレバー倒しだってそうじゃないですか。
ネズミはレバーを倒して地図が出てくること、そのからくりは知らないんですよ。
大事なのは倒すと出てくるってことなんですよ。
もっと言うと倒すと報酬があるってことなんですよ。
そうすると倒すことと報酬を勝手に結びつけているわけじゃないですか。
我々は後ろで人間側だからそのからくりを背後から知っているから、
そこには理屈が働いていること、つまり確実に因果律が発生することが分かっています。
もし出てこなかったらこれは故障だということで直しますから絶対出てくるわけじゃないですか。
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だけれどもそんなことはネズミは知らないわけですよね。
だけれども倒すと。なぜならば倒せばいいことがあるから。
こういうふうに我々は哺乳類以来ですね。
哺乳類以来じゃないだろうな。
多分もうもっと昔から勝手に因果律を作り出すという傾向を持っているわけですよね。
じゃあ、お祓いには何の意味もないのかというとそれは分からないです。
タスクシュートには何の意味もないのかというとそれはあるんです。
ここが大事なんですよ。
タスクシュートは僕の考えでは単なるお祓いではないんですよ。
ただお祓い的な要素もあるということです。
つまりやってみてうまくいったらそれにすがる度が、それにすがる程度が強まるということです。
私はこれはGTDであろうとタスク管理であろうとグッドファイブスであろうと
ここのからくりが働くという部分については共通していると思うんですよね。
つまり何かをやってみてそれがうまくいったら私たちの脳内では強烈な因果関係がそこで働いて
それを繰り返しそれにコミットする程度が上がっていく。
これは働いたと思うんですよ。
その上でどういう有効成分、皆さん多分というか今の時代はこっちの方が大事にされているんですよね。
ただもう一回繰り返すようですけど薬はプラシーボの方が有効成分よりよく効いているケースの方が普通です。
もちろん有効成分は大事です。
でも多くの病気は少なくともそんなに重くない病気は砂糖水飲んどけば治っちゃうという現実もなくはないわけです。
あれです。台湾では今では知りませんけどね。
葡萄糖注射すると治るんですよ。多くの病気は。注射進行があるから。
でも葡萄糖に有効成分は何もないですよね。
栄養ドリンクの程度の隠蔽すらない可能性があると思うんですが、でも治るわけですよ。
それはなぜかというとこの辺から本題なんですが、治す力が私たち自身にあるからじゃないですか。
結局あれですよ。いわゆる自然治癒力とか自己治癒力とかいう言葉で言われているやつです。
その正体はやや不明ながらあるわけです。
別の言い方をすると自然のものは元に戻る傾向があるということでもありますよね。
ここが大事なんですね。
実は私はタスクシュートというのは何にもしていないと思っているんですよ。
もししていることが何かあるとすると、それは現実を把握しているだけだと思うんですね。
基本が今やっていることを記録するから。
でも私はここで繰り返し繰り返し言ってきたんですけど、嘘ついてはいけないって言ってきたと思うんですよ。
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これをやってないのにそれをやっているという記録を残しちゃいけません。
DMMとかファン座とかをずっと見ていたのにずっと英語の勉強をしていましたという記録を残しちゃいけません。
ここだけ守るべきだと思ったんですね。
ここさえ守ればあとは何をしたっていいんですよ。
記録がやった通り、自分の心の中でこの記録は私がやった通りですと言えるならばいいと思うんですね。
そこで分裂しちゃいけない、隠し事しちゃいけないということですね。
なぜかというと、そうしないと現実は何とかなっているということが分かるようにならないからだと思うんですよ。
これはブットバイオスでフラソノさんが言っている言葉を聞きながら私がそういうことなんだなと自分のタスクシュートを解釈したわけですけれども、
特に未来の計画を立ててその通りにしていくというやり方を私は推奨してお勧め誰にもしなかったつもりだし、
そういうふうにタスクシュートを解釈し使っていくという考え方も成立するとは僕は思うんです。
なぜならばあれはそういうものにも見えるから、でも私はそのやり方はお勧めしません。
やりたいんだったらそういうことが書いてあるものを参考になさってくださいという言い方だったと思うんですよ。
だから私と橋越雄さんとでやっているオンラインサロンというのかな、オンラインのスクールみたいなものも、
スクールなんだけどもあんまりカリキュラムとかこれを受けるとどういうことになるのかみたいな話を少なくとも私自身ではしたくないんですよ。
これに対する一つの暗示提前みたいなところがあるんです。
グッドバイブスにもありますが、
あれです、倉園さんの言葉を借りるならば、なりなさい自分ってやつですね。
なりたい自分って言うじゃないですか、なりたい自分になりなさいっていう本もありますが、
なりたい自分とか、ましてやなりなさい自分とか、そういうことを否定するところにタスクシュートの良さがあると思うんですよ。
なりなさい自分っていうのはあれです。筋肉で胸が割れてる自分とか、ああいうやつですよ。腹が。
腹筋がある自分とか、シュッとした自分とか、英語が喋れる自分とか、仕事ができる自分ですよね。何でもいいですよ。
このなりなさい自分というものを一番自分の手元のところから否定していくのがタスクシュートだと私は思うんです。
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だからタスクシュートがなりなさい自分に加担しちゃいけないと私は思うんですよ。
タスクシュートのオンラインスクールでなりなさい自分になる方法を教えるようであったら良くないと思うんですね。
そこには妥協点はあると思います。妥協すべき要素は多少あると思いますよ。
最初はなりたい自分からスタートするんだっていう話は分からないではないです。
でもなりたい自分になるというためにああいうものを使うというのは結局今やった自分のこの行動の良し悪しを図るって話に必ずつながってきますよね。
そしてそれをやろうということになってくるとだんだんだんだん嘘をつき始めると思うんですよ。
今やっていることはこれだが本当はこれをしたかったとか
一方も今やったことはこれだが本当はこれをやってないことにしようみたいな感じに心が傾くではないかと。
そっちに行ってはダメなんですね。そっちに行ったら何にもならないんですよ。
つまりタスクシュートだけではないかもしれませんが
とりあえずタスクシュートというのは今この自分がすでに現実を何とかしてきているということを知るためのツール。
完全な自分はここにいるんだということを思い出すためのツールだと思うんです。
完全に現実に対応できている自分っていうのは
あるいはそういう力がのをすでに備えている人がここにいるのっていう
それを自分に思い出させるというためのツールなのになりなさい自分のためにこれを使ってしまうと
今ここにいる自分は不完全な自分だということを思い出しちゃうではないですか。
それがダメなんですよ。
それをやってるから時間に追われて不安になって圧倒的な将来への不安で押しつぶされそうになるんですよ。
押しつぶされない力を持っているだけの自分がここにいるっていうことを
あれによって認識する必要がある。
あれはそれを認識することを助けてくれるツールとしては大変有効だと思うんですね。
この点でGTDとは全く違うと思うんです。
GTDが見せてくれるのは多分今ここにいる私の十分さとかではない気がするんですよ。
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タスクシュートが見せてくれるのは今ここにいる私は
人の力とか環境要因を加味しつつ
それらとトータルで完全だと
私のこのタスクシュートには今では倉園さんとの仕事とかが頻繁に登場するわけじゃないですか。
えのかしさんとの仕事っていうのも頻繁に登場してきて
食事って書いてあったらそれは奥さんが作ってくれたと。
こういうふうにして私っていうものが現実と適応してるわけですよね。
適応しているというのが堅ければ生きているわけですよ。
不安のもともとの始まりは生きていけないんではないかということだったはずなんですね。
フリーランスなんかやっていて日経ビジネスオンラインの連載を打ち切られて
生きていけなくなるんではないかと。
それが作り出すものですよね。圧倒的な不安というのは。
逆にサラリーマンやればいいじゃないかと言っても自分はできないという不安を持っているわけです。
そしていろんな仕事が立て込んできたときミスしてつまづいて仕事がなくなるんじゃないかという不安を持っているわけですよ。
だけれどもそれらの不安はことごとくいわゆる起湯であって空が落ちてくる心配ってやつで
現実に残っていく記録はそうはなってないよねということが
私がイメージした通りとかそれこそなりたい自分によってのすごい勢いで本を量産して
勝間和夫さんのように売れまくるとかいう自分には慣れてないけれども
でも死んじゃったりしていない。死んじゃったりしていれば記録途切れるんで
死んじゃったりしてないということがここに残っているわけじゃないですか。
しかも助けてくれる人が都度都度登場していることもここに残っているわけですよ。
誰がいつ助けてくれるとかいう計画を立てることはできないですよね。
それは不意に訪れるんだけどそれも計画に残って記録に残っているわけです。
2018とか19とかに倉園さんがグッドバイオスを書いたということも
書いたということが記録に残ってはいませんが
そういう本を読んだという記録は残っているわけですよね。
こういうことが起こるんだと。起こすんではなくて起こるんだと。
起こる出来事というものが不安になっているときは
ひどいことばっかりが起きるわけじゃないですか。
立て込み、仕事が全然なくてお金がなくなり路頭に迷うとか
仕事が立て込んできてやらかして路頭に迷うとか
とにかくそういう想像をするわけですよね。
でもそういう想像は想像でしかなくて
リアルにはそういうことが起きていないから
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そういう記録は残らないわけですよ。
このことを自分に絶対の確信を抱かせるためには
嘘を書いてはいけないんですよ。
この記録の中には嘘が混じってるかもしれないと思ったら
その記録のことを現実として信用できなくなりますよね。
そして私たちは元に戻っちゃうと思うんですよ。
こんな記録は信用ならないから
将来に対するこの不安でいっぱいの空想の方を
信用しようということになってしまうんですよ。
それって本当は明らかにおかしなことなんですが
不安になっているとそうなりやすいので
それに対するカウンターバランスとしてですね
リアルな自分というものはどういうものなのか
どれくらい信用できてどれくらいのことがやれるのか
ということを見てみると
実になかなかそこそこいける。
いけてなければ多分
悠長にここで記録とってはいられないんですね。
今日もう一つ追加しますと
これが全くタスクシュート的ではないと思われると思うんですが
物作業というやつなんですよ。物仕事と言いますね。
物仕事とは何か。
例えばですよ。あんまりこういう話はしたくないのですが
例えば娘の葬式をしましたと。私が。
記録が残るかというと僕は残らないと思っているんですよ。
そんな記録は残せないですね。今の私では。
これはどういうことかというと
記録をとっていられる自分というのは
結構気楽にやっているわけですね。
物仕事というのはこれが私は
つまりうつということとほとんどイコールだと思うんですが
現実に適応できない。
あらゆる宗教に、グッドバイブスでもそれに近いけど
タスクシュートですら私はそれを込めてしまっていますが
リアルというものに適応していくしか
私たちは生きていきようがないですよね。
自分の期待に沿って生きるわけにはいかないですよね。
期待に沿って生きていければいいならば
私の書いた本が急に10回増すりが決まり
仕事をしなくてもよくなりましたみたいな期待をするではないですか。
そうすると期待に沿って生きていけるんだったらこれでいいわけですよね。
でも現実はそうはならないから
現実に適応しなければいけないんですよ。
この時現実が残酷だとか
砂漠のようだとかなんとか言うけれども
現実は結構よくしてくれるから
私たちは生きていけるわけですよね。
本当に残酷で砂漠のようだったら死んでますよね。
ところがしばしば現実は
私たちの都合に合わせてくれているとは限らないわけだから
とても酷いことが起こり得ないとは限らない。
その時に私たちはすぐ現実に適応できないんですよ。
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それができる人はやっぱりおかしいでしょう。
私のケースではさっき最悪の事態を一つ言いましたが
すぐに適応できたらおかしいですよね。
何事もなかったかのように
翌日に普通に働き始めるというのはおかしいと思うんです。
ここでギャップが発生しますよね、どうしても。
どれほど現実を直視しようとしているつもりでも
やっぱり直視しきれないところというのがどこかにあって
自分の要するに期待とか内的なイメージというものが
現実とずれてしまう、大きく。
その時に調整をしなければいけないんですよ。
その時間が物時間と言ったり物仕事と言ったりするはずなんですね。
この時間は僕は記録に残らない。
非常にしばしば記憶にすら残らない。
やっぱりそれぐらい人はダメージを受けるんでね、そういうことが起こると。
逆に考えるとタスクシュートに記録が残っているということは
すでに適応できているということだと自分は思うんです。
これを大事にしましょうと。
適応できている私というものを大事にしましょうと。
適応できているからにはある程度はリピートするはずなんですよ。
同じことを繰り返すはずなんです。
だって太陽を見てもそうですが、太陽が回っているわけではないんだけど
サイクルをとっているじゃないですか、自然というものは。
ある程度気温は同じ時期は同じような気温だし
同じ時期は同じような日の出日の入りの時間をとると。
つまりこういうサイクルがある。
合わせて起きてみるとわかるんですけど、鳥が鳴くんですよ。
ほんの20分ぐらい前に一斉に鳴き出すんですよ。
動物はだいたいそうなんですよね。
サイクルにのっとって生きているわけですが
このサイクルがあるということは私たちを安定させてくれるわけですよね。
でも家の中がむちゃくちゃだとですね
自然がどんなにサイクルを回してくれていても
家は想像サイクル通りにいかないんですよ。
むちゃくちゃになっていってしまう。
これが忙しいということだと自分は思うんですけれども
タスクシュートというのはそういうふうに作られているんですよ。
リピートがゆっくり回っているときは安定していられるはずなんですね。
安定しているということは適応しやすいということだと思うんです。
昨日と今日が大幅に違う。
しかも毎日毎日大幅に違う。
会う人もやる仕事も全然違うというようなことになったら
生きていくのは大変難しくなります。
私はこれが崩壊している家庭だったり崩壊している学校だったり
そういうところで起こることだと思うんです。
毎日毎日がとんでもないことが起きると。
全然予測がつかないと。
そういう現実はあり得るわけじゃないですか。
だから自分のタスクが同じことが繰り返すことが大半で成立しており
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しかもその記録が残っているということは
かなり安心してやっていけるという意味だと思うんですね。
この状態に対してリピートが多すぎてなりたい自分になれませんというのは
私には何と言えばいいんでしょう。
過剰な贅沢というふうに思っちゃうんですよ。
崩壊しかけている家庭ならばそんなことは言っていられない。
単発で入ってくるタスクというのはやはり手強いんですよ。
単発で入ってくるタスクはあります。私の場合でもね。
それはむしろいいことだと思っておいたほうがいいと思うんです。
基本のところ何事も、これも仏教的でもあるしグッドバイブス的でもありますが
何事も繰り返しませんから全く同じ形では。
全てがリピートだというのはおかしいし
リピートというのは一つの繰り返しの同じことの繰り返しではないんですよ。
ないんだけど私たちはやっぱり
そんなにスーパーサバイバルでは生きていけないので
ある程度は緩やかにサイクルみたいなものに沿っているほうが楽なのは確かですよね。
生きやすい。
だけれども全く同じことの繰り返しでしかないなんてことはないわけですから
そういう意味では単発のタスクが入ってくるというのは
いいことだとしか思えないんですね。
だけれども単発のタスクだけで朝から晩までというのでは
そもそも朝から晩までという概念が成立しないレベルになってしまうので
それはダメですよね。
戦争やってるんじゃないんで。
これらのことは全てがやっぱり
同じことを意味していると思うんですね。
今ここにいる自分
これから開始遅刻を押す自分というのが
100%であると。
私はまさに間もなく
このグッドモーニングワイブスを終了し
妻を起こしっていう新しい展開に変わっていくわけですけど
それをするにあたって
終了をして開始を押す時のその自分の
存在というものは
欠損はない。
欠けているところがない。
あれば物仕事をしなければならない。
それでなくて
普通にある意味気楽に
記録を残していられるということは
欠損はない。
それはやっぱり
いろんな人のおかげなわけじゃないですか。
そして自分が
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従前だからだと思うんですね。
いろんな人だけじゃないですよね。
今ここに日が差してますが
ということのおかげだったりもするわけじゃないですか。
つまり村園さんの言うところの
人が作っていないもののおかげというのも
ものすごくこう思ってるわけですよ。
息ができなくなりますからね。
酸素がなくなったりすれば。
そういうようなことの上で
一見サイクルらしきものを
回していくことができるわけですよね。
これを
何て言うんですかね。
見失わないために
タスクシュートがあるんですよ。
ということだったんですよ。
そんなにそれほどのものなのかと言われると
ちょっと大げさに聞こえるとは思いますが
でもですね。
最初の入り口は結局
やっぱり生きていくことへの不安だったわけじゃないですか。
そんなに不安がなくても大丈夫なんだと
いうことを知ることは
大変な力になるじゃないですか。
この力を
仕事術的に
与えてくれるツールと
そういう言い方もできるんですよ。
だから多分このツールは
手放せなくなるのだし
一旦ハマればね。
手放せなくなることがあるし
これを使っていれば自分はいけるんじゃないかと。
それは
なりたい自分とかなりなさい自分に
なれるツールだからではないんですよ。
何をしているのかと言われると
今日しゃべったようなことをしている
んですね。