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2025-01-08 46:49

「うちの子が原神ばかりしていて心配だ」【1117】

私が行動科学によれない理由。、
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00:05
おはようございます。働くメンタルを取り戻すグッドモーニングボイス、第1117回をお送りします。
1月8日、水曜日、7時36分です。仕事を始めとともに、学校を始めかな。お疲れ様です。
7時36分で、今、手元の温度が3度。
まあ、やっぱ寒いですよね、この時期って。小寒とか大寒とか、大寒っていうのかな。そろそろそういう季節で。
ようやくね、朝が一番遅い時期に一応過ぎた。これ1月6日だと思うんですよ。
昼の長さが一番短いのが当時で、12月毎年22日付近、21日だと思うんですけど。
当時とは別に、当時の前からも日が落ちる時間は少しずつ遅くなっていって、つまり夜は少しずつ長くなって、遅くくるって感じがしてくると思うんですよね。
だけど朝は相変わらず遅くなり続けて、1月6日までその状態が続いて、そこをようやく理解したばっかりで、ここからはわりと昼がぐんぐん長く感じられる時期なんですよね。
朝が始まるのが早くなり、夜が始まるのが遅くなるんでね。
私も当時をきっかけに旅行だと思ったんだけど、そうじゃないんですよね。1月6日をきっかけに最終的にはその状態に入るらしいんですよ。
ここからまだしばらく寒いんですけれども、寒さもだいたいそこを打ちますよね。2月入ってすぐだんだん、今は温暖化のせいかもしれませんけど、さらにその傾向が強い気がします。
天候で1分以上喋ってしゃいけないんですけど、引き続き3ヶ月チャレンジのお知らせで、第9期の3ヶ月チャレンジを働くメンタルを取り戻すより、働くメンタルを思い出すの方がいいんじゃないかと思い始めたんですけど、
まだ次回は変えずにおいて、その次ぐらいから第10期ですからね。第10期、100日チャレンジはリニューアルして、
ジェイ・松崎さんのが大々的に成功して、彼がやることはうまくいって今いいよなぁと思いながら、私は一緒にやってるんだけど、彼の発想が当たってるって感じがしますね。
私もいろいろ考えてはいるんですけどね、一応ね。考えてばっかりいても、なかなか拉致が開かないところがあるんで、やりながらいろいろ持っていくしかないなと思いますが、
とにかく9期の3チャレが2月1日からなので、よろしければちょっとチェックしてやってください。
1月中に4回のセッションを2万円で受けていただくと、その後どうするかを決められるというお試しコースが今のところあります。
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これもずっとやっぱりオープンにしておこうと思ったのと、いつかやろうとは思ってたんだけれども、
1回だけワンセッションをやるというのもこの後用意していくとして、それはお試しのところを利用して作っちゃえばこと足りるんですけどね。
あとレクチャー会みたいなものをオープンにしていくっていうのもちょっとやろうと思ってます。
ただ、これは私がこのポッドキャストで無料で喋ってる内容に告示していくので、告示するはずなので、
あんまりわざわざ改めて月に1回やるほどのことなんだろうかというのもあるんですけどね、その辺ちょっと考えます。
どうせ他の人がそれこそ藤山直樹さんの集中講義、精神分析みたいなものから漁ってくるね、だだしなっていう、
そういうあれを読んでいただければこと足りるのに私が喋ることってあるんだろうかみたいな、
これ大体余計なことで、本なんか読みたくないっていう人もいっぱいいらっしゃるわけですから、
やればいいんですけどね、黙ってね、その辺ちょっとやろうかどうしようかを今一生懸命考えてる次第ですというところですね。
その3ヶ月チャレンジでこれから私が、そうなるとは限らないんですけど、3ヶ月チャレンジでやっていることというのを下敷きにしつつ、
要は精神分析について喋りますと、告示文なんかで書いてるわけですが、精神分析について喋るというのはどういう意味があるのかという話をお伝えしたいと思います。
精神分析について喋るというか、私が精神分析というものを生半可であろうと短編的であろうとそういう知識を入れながらですね、
3ヶ月チャレンジでワンオンセッションしたりグループセッションしたりするというのは、言ってみればですね、種を明かしながらマジックを見せていくみたいな感じなんですよ。
最低最悪の手品になっちゃうんですけど、私がやらんとしていることはそういうことになるんですよね。
ひたすら、これの種はこうです、これの種はこうです、みたいなのを喋りながら、ではハトがこれから出ますよ、みたいな、そういう感じなんですよ。
およそバカなことやってんなって感じもするんですけど、これが私の考えるすごく大事なことなんですよね。
精神分析の人がこれをやってくれればね、私の仕事はなくなるんですけれども、これを精神分析の人はやらないよなっていう感じがするんですよね。
まして無料とかでは。非常にいろいろと向こうには向こうの縛りがあるということがだんだんわかってきたので、私は縛りがないからやれることをやってるんだなという感じなんですよね。
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まあ、とにかく自分が考えつく種は全部明かすみたいな、考えつけばね、考えつかないことだってありますから、それにこれがだから間違ってるというケースはあると思うんですよ。でも間違っててもいいんですよ。
なぜなら究極的な意味では正解がないし、この解釈って言われてるものはしばしば誤解されてるんですけど、解釈は正解をヒットさせるものだみたいな考え方があるんですよね。
もちろん解釈なんで、正解をヒットさせようとしなければダメだとは思う。ダメってことはないけどさせようとすると思うんですけど、分析家の人はあなたが今言ったのはこういう意味ですねみたいな、これは非常に素朴な解釈ですけど、そういうことをしてるんですが、外れるんですよ絶対に。
で、当たってるかどうかなんて実は誰にもわかんないですね。当たったってクライアントさんっていうのかな、利用者さんはいやいやそんなことはないですよって言うかもしれないんで。
だってそんな当てられるのが嫌だってことはあるわけですからね。それに対してあなたにも当てられるとか私にこうだって思われることに抵抗を示したんですみたいなことを言うとますますは相手が怒るかもしれないじゃないですか。
この解釈が人間関係に直結していってしまうっていうのを避ける、避けられるはずがないので、転移ってものはそういうところにどんどん刻していくわけですけれども、解釈が当たればいいってもんではないし、
当たらなきゃいけないってことではないし、解釈するってことはするでしょうねっていう話はありますよね。
アドバイスだってある意味解釈を絶対に含むんで、解釈しないでアドバイスできるかっていうとそんなことありえないわけですから、
もうすごい素朴なところでですね、私は仕事をする気がしないんですって言った時に、例えば、あなたは仕事する気がしないんですねだって一つの解釈じゃないですか、ただのオウム解釈だけど。
だけどこれに対して相手のユーザーさんは、いやいや今嘘言ったんですよっていうかもしれないじゃないですか、わかんないわけですよ、そこに究極の解なんてものは絶対にありえない。
このやりとりで何をやってるのかというのを、分析的な知識が考えつく限りは種明かしをしていって、実はここにハトだということにしていたさっきのやつがあるんですみたいなのを言っていって、
この場合の解釈っていうのはこういうことを言おうとしてるんだとフロイトは言ってましたみたいなことを、今のは例ですよ。
あのどんどんどんどん言っていくことによってですね、何をしているのかということを、つまりその場合いわゆるカウンセリングとかいわゆるコーチングとかいわゆる認知行動療法でもいいんですけど、行動療法なり産業カウンセリングで行われることというのは、
どれほど力動的な話を精神分析的な、なんでここで力動って言いたいかというとですね、分析だけをベースにしていないからなんですね。
力がそこにかかってきているっていう部分が、もっともある意味避けようとしてきて避けられてない部分だと私は一気に話がこみっちゃいましたけれども、そういうことを僕は言いたいわけですよ。
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行動療法っていうのは、その無意識の力みたいなものを棚上げにしたんですよ。分からんということにして、ブラックボックスだ、分かんない、でもネズミというのは無意識があろうとなかろうと、地図が出ればレバーを倒すようになるよね。これが行動の変化を生み出せるよね。
会社に行きたくない人だって無意識でどう思ってるのか知らないけど、会社に行けば100万円ずつくれるなら行くでしょうみたいな、そういうノリがあるんですよ。今のは極端ですけどね。
だから、力度を無視しようとしてるんですよ、ある意味では。精神力度というものを精神の力によって行く、行かないが制されるというのかな、制止される、ブレーキがかけられる。非常に簡単なことなのに、例えば、例えばですよ、確定申告なんて非常に簡単なことじゃないですか。
あんなもん、なんでもいいんですよ、パスポートの申請であろうとなんだろうと、そういう手続きって難しいとか言われてるけどそんなことないじゃないですか。難しくはないですよ。難しくはないけど、できないってことはあるわけですよ。できないんだったら、そこには何か精神の力がかかってるって見るわけですね。精神力度という考え方をとる。
行動両方みたいな、行動変容みたいな考え方、行動両方ですね、なんでもいいですけど、だとすると報酬に向かって人はやはり行動するんだし、罰は避けようとするから、パスポートの申請できない、それはパスポート会社に、パスポート会社とかないか、申請したいお役所がすげー怒ったからだ、罰を回避したいからあなたはパスポート取れないんだよね。でも大丈夫、怒んないところはいっぱいあるから、そういう考え方じゃないですか。
これは力度ではないんですよね。報酬なんですよ。でも、力度で考えると、ここにまず力が働いているというふうに考えるので、家から出ようとすると出られないと、国から出ようとすると出られないと、力が働いていると、で、どうしてそんな力が精神で働いちゃってるんだろう。精神で、国から出ようとすると、ブレーキがかかる、精神的なブレーキがかかる、精神的なブレーキですよ。
つまり精神力度ですよ。なんでだろうって考えてみると、昔お母さんが罰として押入れに入れて、しかもその押入れの中で縄までつけやがったみたいな話が出てくる。だとあるんですよ、こういう話って、今でも。で、そのことを無意識水準で思い出してしまうから、思い出さないんだけどね。思い出さないんだけど、無意識水準でそういう力が機能しちゃってるから、
家から出ようとすると、抑止がかかる。まして国から出ようとすると、それはとんでもないことに思えてくるというわけで、ファスフォートの申請はできません。という話に行き着くことがあるんですよ。3ヶ月チャレンジをやっているぐらいでも。だから私はこれを精神力度と言いたいわけです。ここに力がかかってるからですね。
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ブレーキって力ですよね。車を止める力ですよ。分析って言ってもいいんですけれども、これを常に精神分析だけでやってきたわけではないんですよ。この精神力度的なものを排除しようとしてきた歴史っていうものがあるんですよ。私の知る限り。明らかに言ってますもん。認知療法ですね。認知療法を最初に始めた人たちは言ってますもん。
あの100年間の古臭いあれを排除するんだみたいな。廃棄するんだ我々はみたいな。それだって1960、70年で今となって古典的な感じがしてしまう時代の話ではありますが、でも私は1980年ではすでに物心ついてたから、1970年の話で別にそんなに古臭い感じはしないんですよ。73年に私生まれた人間ですから。
で、その頃にはもう盛んに行動量、行動価格ってものがあってですね。力度じゃないんだ。報酬なんだと。人間とかネズミでもいいんですけど、鳩とかは環境次第で動くものなのであって、心の奥底で働いてるんだかどうだかも分からないような力のことは、いいんだ。考えなくて大丈夫なんだ。その方がスッキリするじゃんという。何時間に1回チーズ与えればこういう行動が起こると。
なんでファスポートが取れないのが、昔押し入れにいられたっていうミステリーみたいな話をほじくり出してこないと分からんと思ってるんだと。という風になってきたんですよ。その後の展開なんですね。この今起きていることって。
でも私は行動量法の話を伺ってても、認知行動量法の話を伺ってても、ましてコーチングともなってくるとですね、断片的に聞いた中に既に力度が混ざってるのを感じずにはいられない。既に力度が混ざってきてる。
なのに力度そのものは全く見えようとしないっていうこの態度におかしなものを感じるんだ。ですね僕はね。僕は。感じなければ別にそれはそれでいいんですよね。だけどなんで、まあしつこくて申し訳ない気もするんですけど、なんでボーダーラインとかって言うんだよっていう感じがする。
その線、そのボーダー、ボーダーは線ですが、線は何の線だよっていう。神経症と精神病の線じゃんっていう。その精神病の線、ボーダーラインはボーダーライン以下はタブーであるって言った人がいたじゃん。昔、アンナフロイトさんとかね。そういう話と関係なくそのボーダーって言葉出てこないじゃんっていう気がするんですよね。気がしなければそれはそれでいいんですよ。別に。
私はするってことですよ。私はその行動変容とか報酬というもので夫婦関係を見てもいいんですけど、見えますよ。いろんなことがある程度。でも私には力度を見るよりははるかに乏しい気がするんです。
私の感覚では、私自身の夫婦関係というものを見た時にも、認知とか行動を見ていくというのに寄っていられる情報は、力度を見た時に比べるとえらい乏しい感じがするんですよ。
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私はやっぱりすべて人間関係の対象関係の中で対象関係ですね。見ていくのが一番豊富な材料をそこに見ることができるから。情報って言ってしまってもいいですよ。そこに最大のマックスの情報を見ることができているのは今のところ対象関係からなので。
これを見ずしては、関係は理解できないなって、人間関係は私には理解できないな、特にこじれた人間関係を理解するにはこれがどうしてもこの力度が絶対にいる感じがする。特に対象関係的に見ていく必要というものを感じるんですよ。
だから対象関係というものが人間関係の中でどういうふうに適応できるのかということを種明かしをしながらでも間違いながらでもいいからやっていくと、人間関係というものに対するいろんな示唆がヒントが大量に得られると、私はそう感じているからそれをやっているということになる。
具体的な話をしないとわけわかんないと思うのでしますが、例えば子どもが勉強しない。よくあることじゃないですか。子どもがゲームばっかりしている。ゲームばっかりして勉強しないんです。
例えばそういうのをグッドワイブスとかクラゾン慶三さんとかにお話しすると、いや心配いらないんですよって話がどこかで出てくると思うんですよ。僕もいらないと思うし心配する必要なんて。心配されたいですか。信頼されたいですかみたいな話も出てくるんですよ。
必ず。で、自分のこと考えてみようよねっていう話なんだけど、なかなかそれができないんですよ。で、なかなかできないからクラゾンさんもワンオンセッションというものを、つまりなかなかできない人向けに個別カスタマイズして時間をかけて解きほぐしていくってことをやるわけですが、これをみんなやるんですが、最終的にはここに行き着くと思うんですね。一般論では拉致が開かなくなりますからね。
心配しなくていいと一般論として理解しても心配せずにはいられないというのはどういう力道なのかと僕は考えるわけですね。
グッドファイブスが答えを示してくれたとしても、その答えに行き着けない力道ってものが働くとするとそれはどうしてなんだろうって僕は考えるわけですね。
で、報酬でいけばいいじゃんって考え方もあると思うんです。そういうグッドファイブスとか言ってないでね。勉強したらお小遣い増やすことにすればいいんだよって考え方もあると思うんですよ、別に。それでいけないとは思わないんだけど、意外とできないよな、それって思うんですよ、人は。なかなかそういうことができないと。
罰を与えるっていっぱいあるじゃないですか。勉強しなければゲーム隠すとかね。なんだっけあれ。あんなゲー名前も散々読んだのに格ゲーやるゲームの漫画ですよ。
はー、知ったっけ。いや、ちょっと信じられないですね。なんとかレンスケさんが、あの、著者名すら出てこないというね。とにかく、そういうスト2のゲームをどれほど楽しくやってるかのラブコメを混ぜたような漫画ね。非常に私も興奮して読んだわけですけど、何しろスト2下手だけどめちゃくちゃやりました。
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ちなみに僕チュンリでやるんですよね。だってボタン覚えるのめんどくさいんで、ひたすらボタン連打してれば蹴りが入るんで、すごいダメなやつなんですけど、まあそれはいいとして。チュンリ好きだったしみたいな、そういうこともなくはないんですけど、途中でそんなことはどうでもよくなるんですけど。
動き早いのが良かったんですよね。これもどうでもいいんですけど。あの漫画の話をなぜ今私はしたかというとですね。えー、なんでしたんだ。そもそも何の話してたっけ。もうそういうふうに頭の中が鳴ってるんですよね。このポッドキャスト中は。2秒ぐらいしか記憶が持たないんですよ。
えーと、なんか変異の話をしていたような気がするんですけど。要はそうそうゲームね。ゲームを隠すと。だからあのゲームのあの漫画の中でもやってましたけど、勉強しなきゃゲームさせないからねみたいなやつね。勉強しないじゃないですか。行動両方の難しいところはそれを適応できたからといってうまくいくとは限らないということなんですよ。いくらかはすると思いますけどね。
そもそもそこに口頭のやりとりが混じってますからね。ネズミとは絶対やってない。私あれは盲点ということはありえないと思うんだけど。誰だって絶対意識してると思うんですけど、口頭のやりとりがそこに入っているというのは、ネバー倒しをネズミにさせるのと全然違うよなって私は思うんですけどね。
まあいいんですけど、仕組み化って言うじゃないですか。ライフハックの世界でもよく言うけど、仕組み化には言語が入ってこないっていうのが大事なポイントなんですよね。言語が入ると多分仕組み化の邪魔になるだろうなって私は思うんですけどね。
何が言いたいかというとですね、子供の行動が心配であると。そういう話は3ヶ月チャレンジでも普通に起こります。働くメンタルどこ行ったって話なんだけど、働くためには子供との関係が、子供のことが心配で心配で仕事なんかやってる場合じゃない感じがしてくると、働けなくはならないけど働きにくくなったりはするわけですよ。
その時私は前にも言ってますけど、これすごい大事なポイントなんですけどね。文字通りに相手の人のおっしゃってること、文字通りに受け止めるんです。そのまんま信じる。なぜならそれはサイキックリアリティだ。心的現実だから。こういう時に精神力度しかないと思うんですよね。
事実はどうなんだって話にしちゃうじゃないですか。行動科学ってそうじゃないですか。だってネズミがレバー倒しをするっていうのはネズミがチーズを取る夢を見たんじゃ。夢見ますからねネズミはね。話にならないじゃないですか。リアルにチーズが出てくる。リアルに出てきているっていう証拠はどこにあるんだと。
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そんな話する必要ないけど、私たちはいわゆるカウンセリング的な形式1on1セッションにおいて、子供がゲームばかりをして勉強をしないシーンは1秒も見ることができないんですよ。構造上見せてもらうことは不可能なんです。子供と一緒に話を聞いたって無理ですよ。子供嘘ついてるかもしれないんだから。
これはものすごい大事なポイントだ。文字通りに信じる以外の選択肢は我々には、我々って誰だよって話だけど、残されてない。子供が勉強しないと思ってるんですよ。お母さん、お父さん、多くの場合お母さん。
ゲームばかりしていると思ってるんですよ。ここが大事なんですよ。子供が勉強しているかしていないか、ゲームをしているかしていないかは度外視していいんですよ。大事なのは子供が勉強しないと思ってるんですよ。これを文字通りに受け止めるんですよ。
それ以上のことを受け止めちゃダメなんですよ。子供勉強してね困るみたいに思っちゃダメですよ。だから心配はいらないという答えが出せるんですよ。私の立場なら。これが定義なんですよ。アドバイスではないんですよね。
これは定義だと私は、ある意味定義。定義的なものでもいいですよ。精神分析じゃないから、カウンセリングでもないから。でも定義的なものは絶対にここに発生しているだろうがない。そして真的現実という言葉の意味がもう非常に重くなってくる。だって本当は子供勉強してるかもしれない。
もっと言うとですよ。もっと言うとというか、私絶対意識はしますけどね。一応ね。本当にその子供は存在してるんだろうかって問いは出しますよ。自分の中で。相手には申し上げないし、そんなこと言うと頭おかしい世界になっちゃうかもしれないんで言いませんけど、本当にでも子供はいらっしゃるんだろうかって思いますよ。必ず1回1回以上。
毎度のように可能な限り考えるようにします。ここまでは考えるべきだと私は思うんですよ。やっぱり。もしかすると子供が勉強しない夢を毎晩見るのかもしれないぐらいのことは考えておく必要があると思うんですよ。やっぱり。もしかするとお子さんはそもそもいらっしゃらないのかもしれない。あるいは戸籍状の親子ではないのかもしれない。このぐらいのことはあり得ますからね。リアルに。
ないと思われているかもしれないですけれどもこれを聞いている方は、アンセリングってのはこれぐらいのことまでは想定しないと話にはならないとは思うんですよ。つまりここには二重性があるってことです。少なくとも。事実と心的現実は別だってことですよ。だってご主人に聞いたらいやいや勉強よくしてるっていう可能性はいくらもあるんですよ。それに子供が勉強しないの意味ってくざすなんですよ。
簡単なような話ですけどね。例えばですよ。私の母は正午は全く勉強しない。いつも高校時代起こってました。でもですよ。私は大学で言語学を比較言語学ができるぐらいの英語の知識は持ってたんですよ。普通にできるんですよ。
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うちの母は和英辞典一つまともには引けないんですよ。その母が私に対して正午は英語が全然わかってないって平気で言うんですよ。でも母にとってはそれは神的な事実なんです。完璧に真実なんです。嘘はどこにもないんですよ。母の世界の中では正午くんは全然勉強しない。英語も全くできない。赤点ばっかり取ってくる。これは事実なんですけどね。
早稲田の英語って難しすぎるんですよ。大学入ってすげー楽になったって思いましたもん。英語学科ですよ。そういう狂ったことをやってるからそういう話になってくるんだけど、とりあえずそんなことはどうでもいいんですよ。問題なのは母の中では息子の正午は全く勉強しないんですよ。全く英語が全然できないんですよ。でも自分よりはずっとできるんですよ。そういう部分は無視される。なぜならば神的現実だから。
まあもうちょっと言うと母には、母の私には私の自己愛的万能感ってものがある。つまり世の中の現実は関係ない世界で生きてる。これは私は万人に認められる一つの事実だと思うんですよ。我々は自己愛的万能感の世界に生きてる。
自己愛的万能感というのは何かというと、自分は健康で病気にもならず、明日食べるものにも困らず、空気はいつまでもちゃんと酸素があって、重力のことなんて重力クソくらいだと思いながらも重力にべったり頼って生きていけるという自己愛的万能感。つまり万能空想の世界に生きているはずなんです。万能空想はちょっとずれるんだけど。
でも、これは昨日そういう話が出たからあえて一つ言っておくんですけど、一つというか正しがきね。自己愛的万能感は主観的に狂った世界ではないんですよ。自己愛的万能感を80億の人間が命名持っていたとしても、他の人と共有するケースも多々あるんだけど、命名持っていたとしても、他の人と共通言語と象徴機能を使って、現実的にかなりの部分正確なやり取りはできる。
だから交差点に入ったらちゃんと赤になったら車は止まり、歩行者はその間歩くという整然とした世界をそこに作り出すことができるんです。みんな命名自分勝手なことを夢見ているにもかかわらず、ちゃんと象徴機能は象徴として機能するところが偉いんですよ。人間という種と。
この生き方は他の動物には到底理解できない極めて魔術的で奇妙な生き方だと僕は思うんですよね。全然違いますもん、やってることがね。かなりの高等動物でも違うけど、そもそも高等動物って地球上に少ないから、カラスとか見てると全然違いますよね。
いっくら網をかけてここはゴミ捨て場のゴミだからお前らの餌ではないって言っても、カラスには何も通じないからひたすらそこからなんかティッシュとかをガンガンガンガン出して毎日毎日、最近年末年始でゴミ溜まってたんで、この街でもそこら中で惨事が起きてるわけですよね。カラスとの戦いですよね。
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あれは象徴機能というものを全く理解できないカラスにしてみれば、人間の餌ってことって意味不明だから、いやそこに餌があるんだから食べるでしょみたいなそういうノリなんで、それが当たり前じゃないですか。それが象徴機能のない現実世界なんですよね。狂うということがあり得ないと言ってもいいと思うんですよね。カラスはいつも正気。人間だけですよね。こんなに狂気がはびこっている世界みたいなところに生きてる。
で、二つあるってことはもう絶対だと思うんですよね。このいわゆるセッション的な、いわゆるアドバイス的な世界には二種ある、絶対に。私とその人の真的現実の世界、そして私とその人の事実の世界。で、その世界は私の預かり知れないところなんですよ。
だから、真的現実の中で勉強しないという話を私は聞き、この真的現実の勉強しないという話に対して私が、私の真的現実では何がいい、どういう話になるのかというか、どういう話をしたくなるんだろうっていうのを常に探りながらやり取りをしていく世界。これが二重にあるってことですよね。
実は三重にあるんですよ。もう一つ絶対ある。それが私とユーザーさんとの関係。そもそも息子が勉強しない、BMばっかりしてるっていうのは私に対して言ってるわけでしょ。それは私に対しての批判でも必ずあるはずなんですよ。いくらか。
つまりお前もっと勉強しろと、ヘドレスばっかりやってんじゃないよっていうそういうすくみが、意識は絶対してませんよ、たぶん。3ヶ月チャレンジ水準でこれを意識されてるとは思わないんですよ。意識はされてないけれども、これは必ず含み込みとしてある。私に対するこれは批判なんですよ。ここが変だろうって思われると思うんですよね。
でも私は精神分析の世界で考えれば、これは少しも変じゃないと思うんですよ。で、私は世の中でなされているアドバイスなり、それへの反論なり、いわゆる対談とかいうものは全部こういう構造を持ってると信じているというか、これを意識せずにいられるのが僕にはよくわからないんですよね。
だってなんでその人に向かってそれを言うのかっていうと、やっぱりそれはその人に向かって言いたいことがあるからじゃないですか。気持ちの上ではね。で、逆もあるんですよ。このいわゆる投影の世界ってのはすぐに言ってますけど、いつもエナクメントの世界は逆転するんで。これは自己批判でもある。これはわかりやすいですよね。うちの子勉強しないんですって言ってるときは自分を批判されてるわけですよ。
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私ダメな人間なんです。ある意味私勉強しないんです。私ゲームばっかりやっちゃってるんです。それを佐々木さん攻めてますよねっていう側面があるんですよ。ここに。だから言ってみれば四重の構造がここにある。で、この四重の構造はいつも四重を同時に意識しておかないと話が始まらないだろうと僕は思うんですよね。絶対に。
これをやるのに訓練がいりますってのは私は信用できないんですよ。これをやる程度のことに訓練がいるはずはないと思うかも。だって夫婦関係でみんなやってますもん。訓練なんかせずに。もしこれをやるためには訓練なりパスなり資格なりが絶対いるってんなら夫婦ってものが全員精神分析の訓練を受けなきゃならないってことになるんだけど。
僕はそれはナンセンスだとしか思えないんですよね。そんな馬鹿な話はないと思う。だってフロイトがいる前から夫婦っていくらもいたんだから。だからうまくいかないんだよって言われるかもしれないけど、そんなことを言ってしまったら、じゃあフロイトの親子関係はうまくいってたのかって言いたくなるじゃないですか。あんなフロイトとジグモンとフロイトの関係は。彼らは精神分析までしちゃいましたけどね。正気とはとても思いませんけど。だって精神分析ですよ。
あのお父さんにこういつも性的に欲情してしまうんですっていうような話をお父さんとするんですよ。おかしいじゃないですかそれは。っていうのがなんで直感的にあの人たちにはピンとこないんだろうっていうのが僕にはやっぱり不思議なんだけどやっぱり創始者の世界って難しいんだろうなとは思うんですよ。私は娘となんかとんでもねえなって思いますよ。
あの、だからえっと私が思うにですね、こういうことに訓練した方がいいっていうのはわかるし、訓練欠かせないっていう主張もわかるんだけど、でも訓練せずにこれをやってる我々は絶対に四重の構造を夫婦間は常に僕は持ってると思うんですね。
意識しろという話じゃないですよ。無意識にやってるってことです。無意識に少なくとも私は妻の話のいくつかは心的現実以外の何ものでもない事実かどうかの操作はいらないと思うんです。例えばうちの妻はあの子も本当に勉強しないっていうのを言うんだけど、僕の心的現実の中ではうちの子よく勉強してるなあですからね。
客観的事実として妻は喋ってますよね間違いなく。うちの子はちょっとねえ、厳審ばっかりでね、まあ厳審やたらやってますけどね。厳審ばっかりやってることと勉強しないことは関係ないなって僕は思う。厳審ゼロに無理やりすることはできますけど、あのね、今だったらなんだっけ、ゲーム時間のこう、なんちゅうのこう、上限を設けるとか、僕そんなことはしたくないんでしないんですけど。
しろって妻が言った時はちょっと考えますけど、しょうがないから、するフリぐらいはするかみたいな、まあ実際にしておくかみたいな、しょうがないから、娘に言い含めておいて、上限ねえ、みたいな感じで意味が全くあるとは思わないんだけど、しょうがないからね。
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だからこれは心的現実なんですよね。だから妻の持つ心的現実の中では、客観的に娘は勉強せずに厳審ばかりしている。でも私の心的現実はそうはなってない。そして本当のことは分からない。本当のことを測れば分かるじゃんって言うけど。
な、四六時中娘の横にいて勉強してるか、ゲームしてるか、チェックみたいな、できないじゃないですか。今スマホ持ってるんだから娘はね。どうでもいいことなんですよ、そんなことは。そういうことをどうでもよくないと思えるというのが、つまり他人は自分であると思っちゃえるというところが僕らのすごいところなんですよ。
自分だってスマホ持ってれば、いやスマホ持ってゲームしてるけど勉強だってちゃんとしてるしって思いながら親はゼロだと思われて、親にはゼロだと思われてる。いくらでもあるんですよ。心配するっていうことの中にはすごい複雑な問題がある。どんな親だって子供が24時間何してるかを知ってる親なんていないんだから。
例えば夜、どんな夢見てるかなんて知らないわけですからね。知らないに決まってるじゃないですか。これをなんか機械を持って夜見ている夢もチェックみたいなのをすると、もう狂気の世界ですよね、完全にね。
これで二重ありますよね。夫婦間でもお互いの心的現実が食い違うが、事実について話してるわけではないという部分。意識する親は別ですよ。もう一つありますよね。このお互いの会話は必ずお互いへの批判を含んでますよね。
あの子勉強しないのよ、なんとかしてよって実際私は言われますから。なんとかするのは私なんですよ。つまりお前が悪いんだってことですよ。勉強しないあの子が悪いということは、つまり佐々木が悪い。どっちも佐々木ですけどね。あんたが悪いのよ、勉強させなさいよ。
これはつまり完全に娘に向かっている発言というのは、実は私に向かってるってことですよね。さっきのことと全く同じじゃないですか。これはつまり自己批判ですよね。あなたのような勉強させることもできない夫を持ってる私の人生は最低だって言ってるわけですよ。
これが40目ですよ。この40は常に起きてるはずなんですよ。で、このようなことが今のあくまでも勉強しない子っていうそこら中にある事例を引っ張り出しただけであって、いやこれは私の事例だって聞いてる方の中に思われる方いらっしゃるかもしれませんが、そんなことはありえないんですよね。
この事例は多分世の中で一番多いんじゃないかって、これをもう少し先に行かせると不登校みたいな話になるんですけど、もう今SC、スクールカウンセリングの話で不登校が出ない日はXではないぐらいじゃないですか。だから、いかに僕らが自意識というものを中心に生きてるかですよね。
不登校のことって言えばうちの子のこと、勉強しない子のことって言えばうちの子のことってなっちゃうんだけど、それは日本中の子のことなんですよ。だって考えてみれば誰だっけな、村瀬さんかな。これは子供の教育心理みたいな話になってきちゃうんですけど。
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だって子供、学校行かないと当たり前じゃんみたいなこと書いてあって、福沢諭吉の話読んでみましょうみたいな感じで、立診出生のために学問しろって言って、もう一回学問のすすめですよね。だけど今学問イコール立診出生になってないじゃないですか。
明治時代だったら、畑仕事ばっかりやってて勉強全然しない子っていうのは、いずれ資本化にいいようにされてしまうから勉強しましょうね。職人化されちゃダメだよねっていう。それはみんなが勉強するめちゃくちゃ高いモチベーションになったよね。
良し悪しは別にして、なったよねと。勉強しに行って資本化になった方が、そりゃあの時代だったら絶対いいよねって、蟹公宣読めば一発でわかるじゃんと。嫌で嫌でしょうがないものから脱するために勉強しろっていうのは、実に理にかなってた。今そういうことになるかと。
高教育を普通に受けてバリバリ勉強することによって、なんかね、子作能とか、それこそ蟹公宣の乗組みみたいなのを脱して資本化になるっていう風になるか。なるかもしれないけど、めっちゃ大変じゃないですか。そこまで行くには。そして大半の人はそれと全然関係ないじゃないですか。
いくらなんでも、いくら今の時代で勝ち組とかになれなかったとしても、これもとっくに昔に死後になってる気がするけど、蟹公宣に乗んなきゃならないってことはないじゃないですか。わからんけど。だから、そういう話に直結しないのに、同じモチベーションで学校行くはずないじゃんっていう、あれはすごく正しいと思うんですよ僕は。
モチベーションが違うよねってことですよね。昔はだから国民会教育って言ったら99%の人が黙って学校行ってて、てか、先走って学校行ってた時代もあったけど、その前の時代行かなかったんですけどね。今はその前の時代みたいなところとは違いますけど、行かないんですよ。行く理由がすごく薄くなったっていうのは確かにあると思うんですよ。
今私だって、うちの娘よく行ってるなーぐらいに思ってますからね。本音のところでは。そこまでは言わないにしても、ちゃんと行っててすごいよなぐらいには思ってますから。だからそれっていうのはつまり、行かないよって言っている人が増えてくるっていうのは当たり前といえば当たり前のことで、そういうのに対応する人っていうのがカウンセラーの方に持ち込まれるのも、これはもう当たり前中の当たり前であって。
日本中でこの問題っていうか、問題だと思われていることが問題視されているというのは真理現実だと僕は思うんだけど、だって両親ともに問題にしていることが別の問題ですからね。で、そういうふうに30、40になっていると思うんですよ。
だっていずれは心理カウンセラーって学校に行かせることができなければ、それがどんなに上手いこと言われていたってお前学校に行かせられてねーだろっていうことで責めるじゃない。責められるじゃないですか。それってつまり自分の子供を責める代わりにカウンセラーを責めるわけじゃないですか。そういう転移って必ず起きるはずだと思うんですよ。
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かわいい早尾さんが散々言ってた通り、35万キロ先の月にロケットを出せるのに、600メートル先の学校に我が子を置けない、連れていけないのはどうしてだっていう話になるわけですよね。それをかわいい早尾さんに言うわけですよね。相談してる人はあなたの責任で連れていけと。そういう話ありますもんね。
カウンセリングの実際問題って本の中で早く連れてってくれ早く連れてってくれって言って、かわいい早尾さんが逆切れするという。あなた方は学校に連れてけって俺に言うけど、俺は赤の他人だからねって。この子がここに行こうとどうしようとか、俺関係ないしみたいなことを言うっていうシーンはとても私はいいシーンだと思うんですけど。
学校行かせたけれども、お前ら行かせろよっていう話ですよね。でも、かわいい早尾さんはカウンセラーだからと思っちゃうわけですよね。家族の人たちは。いやあなたの責任で学校連れてってよと。これ1960,70年代、1980年の頃の話じゃないですか。今から見るともう4,50年前ってことになるじゃないですか。今全く同じ問題が多分今日も起きてると思うんですよ。
で、みんなにとってはっていうのか、その人にとってはその人の世界が全てだから、いやうちの子の問題であって、カウンセラーさんはうちの子のこと言ってるんでしょうみたいに思うかもしれないけど、そんなことはありえないわけですよね。そこら中で起きてる問題だとすればですけどね。問題なわけですよ。
で、この問題はいつもこの40世ぐらいの40の構造みたいなのがいつも同時に走っていて、さっき言った通りかわいいさんにしてみれば、その子なんてバカの他人ですからどうでもいいわけです。
で、このどうでもいいってのがめちゃくちゃ大事だと思うんですよ。やっぱりタスク管理でも、それこそ仕事でも、会社に行く行かないでも、いつもジェームス沢木とも僕よくしゃべりますけども、どっちでも同じなんだと。
で、これはいろんな意味でどっちでも同じなんですよ。どっちでも同じだっていうこの観点がA、全然持つことができないとすると、それやっぱりどこか完全に正気を変えちゃってるんですよ。長自我絶対の世界みたいなところに生きているわけじゃないですか。長自我は正気ではないですからね。長自我はSですからね。
Sに属するようなものですから。自我こそが言ってみれば正気ですから、人間の世界においてはですね。どれほど文化に適応しているように見えたって、適応さえしていれば正気なわけでは決してないんで。
学校は絶対行かなきゃダメなんだよ。理由はいらないんだよ。赤の他人であろうと何であろうと無理やりでもいいから、鎖に繋いでもいいから連れてってよっていうのは全然正気じゃないわけですよ。ただ学校に行ってるっていうだけでしかなくて。
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その人赤の他人であるっていうのが現実の見当がついてるってことじゃないですか。究極、かわいさんにしてみれば、うちの子が学校に行ってもいかなくてもどっちでもいいっていうのが現実じゃないですか。現実ってのはそういうもんじゃないですか。現実というものは立場により状況により時と場合により健康により変化するじゃないですか。
であるべきというものが進路7で学校は明らかに壊れそうなのに今日も学校に行くのが正しいんだっておかしいじゃないですか。でも現実見当というものをしないで行動の基準を決めてその行動をとってさえいればいいっていうのは明らかに精神病という水準に入っちゃってるわけですよ。
現実見当がつくというのがその時々で判断をかけられるというのが正解なのであって正解っちゃ正解。正解はないんだけどつまり正解がないっていうのが正解なのであって、そのことを理解するためには立場が変わるという立場が変われば視点と価値観とその他が変わると。
それはダイナミックにチェンジし続けているんだと昨日もそういう話をしつこくしましたけどもしつこくするしかないと思うんですよね。
それを目の前の人と実際に実演することが実際に実演ですよ。シミュレーションじゃないんですよ。やれるというのがカウンセリングっていうだから実際に料金を払う必要があるわけですよね。実際にできれば私はあってませんけどオンラインですけどね。
だから真的現実は真的現実なんですよ。どれほどそれが本当らしく聞こえても本当かどうかはわからないんだから本当かどうかはわからないっていう位置に留まる必要があるわけですよね。
相手のお子さんは本当にいるのか本当に学校に行っていないのか勉強しないのかそんなことはわからないんですから。わからないって立場に僕は永遠に立ち続けるしかないわけですよね。
勉強しないことが心配だっていうのだけがその時言われているならそれだけが事実。この意味は必ずしもお子さんが勉強しないという意味には取れない。
佐々木が悪いという意味なのかもしれない。青居駿が悪いという意味なのかもしれない。私が悪いという意味なのかもしれない。意味はつとつと変化しているわけですよ。
いずれ年齢が30歳とか過ぎるとね、どういう経緯があろうとも息子さんが例えばお金持ちになってでもお母さんに1円もくれないとかそういうことが起きるのかもしれない。
その時何かこう、どっかの施設に、わからないですよ全ては架空の話してるんで入れられてすごい寂しいって思ってるのかもしれない。わからないですよ。
それは何でかというとあの時勉強しろと言われたから俺は恨んでるんだみたいな話なのかもしれない。だったら勉強しろって言わない方がいいことなんですよっていうのも本当なのかもしれない。
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それはわからないことですよね。永遠に。で、このわからないことはわからないままなんですよ。
これをわかっておかないと安心できないという心理があるとすると僕ら多分そういうふうにしつけられたとかそういうふうにそれこそ行動学習させられてしまって、
わかってからでなければ安心できないという矛盾に突き落とされてしまったわけですよ。
わかるはずのないことがわかんだければ安心できないんだったらつまり一生安心は絶対できませんよって言ってる話になるじゃないですか。
でも私たちは生まれてきた時に必ずどこかで安心した瞬間っていうのがあったはずで、その時は何もかもわかったからではなかったはずなんですよ。
だから私たちは私たちって言っちゃいけないんですけど、私は3ヶ月チャレンジとかでわからないという部分はどこにあるのかっていうのをいつも意識しないわけにはいかなくて、
わからないということを常に意識するとさっき言ったような何重もの構造が現れてくる。
この立場に立つからここがわからないとか、というかここがわからないというのはこの立場から言ってることだし、ここがわからないのはあの立場から言ってることだ。
これを繰り返し繰り返しやってるうちにどこかでしざがですね、視点がって言ったらいいのかな。
しざがある程度適当なところに落ち着く瞬間というものが見出すことができるタイミングみたいなものがあって、すっごい言い回しがおにょおにょしてますけどあって、こういうものの可能性を探ることができるから私は力道がいいんじゃないかなと思ってるんでしょうね。
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