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おはようございます。働くメンタルをとり戻すグッドモーニングボイス1116回をお送りします。
1月7日火曜日、朝9時23分です。 昨日はね、ついついというか、当然仕事を始めとしてこれを撮るつもりだったわけですが、
うっかり寝過ごしまして、実に単純な理由でして。 あともう一つ、昨日暗くて寒かったじゃないですか。
もう僕は伸びたくの状態なんで、暗くて寒くて面倒くさいことは基本やる気がしないんですよ。
というわけで、昨日はすっかりスパッと飛ばしてしまったんですけど、
今日がですね、新春の1月1日にすでにお出ししてますけれども、だったと思いますけれども、
一応そろそろ本格的指導を始めようかというところです。
解消したのは、2025年に解消したのはすでにお伝えした通りなんですが、グッドモーニングボイスに戻しました。
今日はですね、3ヶ月チャレンジの第9期を来月からスタートいたしますので、そのお知らせをしたいと思います。
ノートにですね、久しぶりにちゃかちゃか書いてたんですけど、これが続くかどうかは分かりませんし、
今のところノートの方からの申し込みというものはないんだなということが分かったので、
このポッドキャストで改めてお知らせしていくのが、一番今までの流れからするとスムーズかなと思いまして、
3ヶ月チャレンジを見てみてねということなわけですけど、
一番私としてはこれが望ましいと思っているのがお試しのやつですね。
Googleカレンダーの予約ページから私が空いてる日程を出しておりますので、
こちらの日程にひょいっとお申し込みいただきまして、
2万円を支払いいただいたら、この2万円は3ヶ月チャレンジをもし、
9期ご参加になるといった場合にはその2万円はそのまま適用できますというやつです。
要するにお試しなんでね、この2万円は無駄にはなりませんという、
その他に3チャレンジの所定料金を払っていただくのではなくて、
その2万円をそのまま流用していただけると、
追加で支払う分は2万円を差し引いた分ということですね。
この辺よくわからないという方がもしいらっしゃったらですね、
直接聞いていただければと思うので、
予約ページの中に、
屈合の良い日程が二次児がないという場合には、
私の方にDMをいただければですね、
なるべく日程調整はギリギリまで可能な部分させていただきますので、
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2番目に良いのはそのままお申し込みいただいちゃうことなんです。
なぜかというと、あれでGoogle Meetが自動的にURLをセットされるので、
私はうっかりする人間なんでね、
そういうところがもうすでに皆様のお申し込みの方で、
準備が万端に整っているというのが、
一番私としては安心感はありますが、
DMいただければ日程調整をさせていただきます。
あとGoogle Meetでやりたいんですよ。
動画が残るので、それを後ほどすぐにですね、
参加者さんにフィードバックさせてもらえると、
要するにその動画を送ることができますので、
見たくないという方は見ないでいただいて結構なんですけど、
後から見たくなるかもしれないじゃないですか。
私の方では一時見ませんけれども、
ご利用いただいた方に見ていただければと思うので、
これがZoomだとですね、できなくはないんですよ。
できなくはないんですけど、
Google Meetの方がGoogleカレンダーとの連携で
自動的に録画も始まって、大変楽なんですよ。
確実に残っていく。
そしてZoomだと残った先のサーバー料金が
すごい高いという状態で、
消していかねばならないので、
永遠には残せないんですけど、
Google Meetの場合は3ヶ月ぐらいは、
私2テラを契約しているので、
Googleとはですね、非常に安心感があるわけですね。
そういったわけで、Googleの方でやっていただくと、
いろいろと都合がいいという感じです。
でも、Zoomでも対応はさせていただきます。
動画アーカイブはちょっと残せるかどうか、
Zoomの場合は心もとないんですけど、
何せ5ギガしかないんで、
すぐ埋まるって取っておくとですね、
Googleの方であればですね、
3ヶ月ぐらいは残せますので、
3ヶ月チャレンジの間中、
Googleセッションの動画とかは、
全部そのままご視聴いただけます。
しかも私は編集は、
この番組もそうですけど、
一切全くしませんので、
アツさんという方との対談のやつもね、
アツさんの方は、
余計なところは豆にカットするっていう、
素晴らしくやっていただいてるんですけど、
私はもう取って出しなんで、
サイズを縮小してそのまま出すみたいな感じで、
しかやりませんので、
前後も切らないんで、
前後も都合の悪いところをしゃべってたら、
切ろうと思ったんですけど、
別に都合悪くないんで、
そのまま出すというのはですね、
実はこだわりがありまして、
うっかり言い間違えたこととか、
炎上しか出ないネタも、
ギリギリのところまでは、
私は出していきたいんですよ。
隠したくはないということですね。
隠すと当然小切れになるわけですけど、
これはもうサンチャレの紹介に入ってますけどね、
例の上にコットンのいいところのあれですよ、
偽りの事故を私の場合出すことになるじゃないですか、
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偽りの事故じゃない、
いるんですよ、
必要なんですよ、
学校行くなり、
会社行くなり、
働くなりには絶対いるんだけど、
僕らは偽りの事故のせいで、
世界との隔たりができるわけですね。
自分の本当の事故は引きこもらせることになってしまう。
何よりもいけないと思うのは、
私はこの話はですね、
していくと実に複雑になっていくんだということが、
最近よく分かってきたんですけど、
捨てざるを得ないと思ってるんで、
転移と逆転移ってやつですね、
これが私の場合ギリギリのラインまで引き止めておきたいというか、
ラグを作っておきたいというか、
なんて言えばいいのか、
取っておきたいというか、
無しで済むなら無しで済ませたいと思っておりまして、
起きるんだけど、
転移を引き起こさないためには、
自己開示をしまくることに限ると思うんですよね、
私はね。
だから佐々木昌吾とはどういう人間で、
どういうミスを犯し、
どういう炎上し、
どんなしくじりをし、
こいつと付き合うとどういうことになりやすいのかということを、
なるべく多く知っておいてほしいわけですよね、
気のままの私をですね、
隠してない私ですね、
これは皆さんが隠してはいいとか、
いけないという話ではないんですよ、
私がという人間が、
佐々木昌吾らしさみたいな、
仏教でいうとこの自生ってやつなんですけど、
自生ってやつを知ってしまうと、
私をブランクスクリーンにできないんですね、
私に投影するんですよ、
それでもね、
皆さんは私に皆さんのいいところ、
皆さんの嫌なところを、
私に投影してしまうんだけど、
極力それを回避すると、
そうするとそれでもする部分が、
明らかに現れてきますよね、
これが三ヶ月チャレンジでは、
私はもう欠かせないと思ってるんですよ、
今日の話は終始これの話になりますけれども、
三ヶ月チャレンジというのはですね、
皆様が私という歪んだ鏡を、
どう使うかにかかってるんですよ、
それしかないんですね、
何かワークをやるとか、
ダスクシュートについてお話しするとか、
行動変容を促すとか、
そういうことは私は何にもしないんですよ、
私の役割はたった一つですね、
皆さんの鏡になる、
ただしこの鏡はフラットでもなければ、
クリアでもない、
曇ってる上に歪んでるんですよ、
この歪みや曇りを、
どのように参加者さんが利用するか、
私をどうやって利用するか、
ということにかかってるんですよ、
例えば皆さんの中には、
私を搾取するという方針の方も、
いらっしゃるかもしれない、
あるいは私に搾取されるという無意識のね、
方針の方もいらっしゃるかもしれない、
そういうものを通じて、
皆様が現実社会で、
こんな私にすらする投影だから、
必ず会社に行ったらしなきゃなんだ、
だって会社の上司のことなんて知らないじゃないですか、
会社の上司の性癖なんて知らないじゃないですか、
会社の上司はどういう炎上の仕方をし、
本当の会社の上司はどういう人間なのかなって、
09:02
知らないことがたくさんあるじゃないですか、
当然彼らは分かっているようで、
ブランクスクリーンなんですよ、
だから私たちは会社に行ってしまえば、
会社の上司に私のいいところや、
私の嫌なところを見てしまう、
関わってしまう、
それを上司の人柄だと思い込んでしまう、
こうして会社に行きにくくなる何かが、
発生していくはずだというのが私の、
この話をすれば当たり前ですけれども、
いやいや会社の上司がひどいんだって、
私が自分の嫌なところを会社の上司に投影しているから、
会社に行くのが嫌だっていうのは、
私の自己責任論になるじゃないか、
っていう話になるんですよね、
現代社会っていうのは、
昔からそうですけど、
現代は特にそうなるんですよ、
なぜならそれは、
一社真理で生きているからなんですよ、
私たちが、
私たちは一社真理で生きている世界なんて、
私の考えではないんですけど、
あり得ないんだけど、
一社真理で生きているから、
ついつい私たちは、
やりやすい仕事とか、
やりにくい仕事とか、
重たい仕事とか、
軽いタスクとか、
そういう言い方をして、
またかもタスクの重さというものが、
客観的な指針によって決定されているかのような、
誤解をするんですよ、
こうして重たいタスクというものは、
本当に重たくなって、
手がつけられないという、
不思議な現象があったって、
重たさっていうのは、
じゃあタスクを体重計に乗せると、
その重さが出るかというと出ないでしょ、
それを客観的基準で何かうまく、
出せないかと思って、
フラグをつけたり、
色を変えたり、
優先順位つけたり、
タグをつけたり、
モードをつけたりするんですけれどもね、
役に立つとは僕には思えないわけですよ、
なぜならそれは、
嘘なラベルを張ってるだけなんで、
重くしたり軽くしたりは、
自分の投影次第で、
いくらでもできちゃうことなのに、
あだかもそれが、
事実に即しているかのように思おうとするんですよ、
この場合の事実って何かっていうと、
その人の主観だと思っているものなんですが、
実はその主観というのが、
自分一人で決まるものだというのが、
僕が思うにですね、
3カ月チャレンジの存在意義なんですよ、
自分一人では決まらないものなんだけど、
自分一人で決まると思ってしまうんですよね、
それが可能であるというふうに、
世の中では普通に今は信じられるようになり、
それが可能であるというのが、
当然の文化的な主張になってしまったので、
なっちゃったんでね、
もう戻せないですよ、
そんなに簡単には、
一旦そこから退避するっていうのが、
私の考えでは必要だと思ってですね、
3カ月チャレンジとは、
それをやるための退避所なんですよ、
退避所でワークやるっていうのは、
私の考えでは言語道断というか、
本末転倒もいいところなんで、
退避所でワークはしません、
行動変容もしません、
どうしたらいいかって話もしないです、
退避所なんで、
退避してるだけなんで、
基本的にまず退避してやることは、
何もしないってことなんでね、
何もしないってことはどういうことかってことが、
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一応大事かなというふうに思うんですね、
外に行ってしまうと、
我々は即座に偽りの事故を作り始めてですね、
炎上しないようにして、
ミスもしないようにして、
先送りもしないようにして、
人がどう思ってるのかを気にして、
人がこう思うであろうことはしない、
ということをやるってことに、
終始してなきゃなんなくなるじゃないですか、
少なからぬ人はそういうことが起こると、
あるいはもうそんなのやってられないから、
俺は俺で行くんだっていう、
私を作り出しちゃったりするじゃないですか、
こういうのからなかなか逃れられなくなっていくじゃないですか、
これを逃れるためには、
逃れるためにっていうのか、
こういうことが起きるという大前提の下、
そこに来ている人間は、
利用していい人間なんだっていう条件を、
セットするしかないという、
その考え方は精神分析というものの中にあるんだけれども、
それについて話し合えばですね、
それが必然的に巻き起こってくるしかないんではないかと、
佐々木という人間はこの3ヶ月チャレンジで、
いいように使っていい人間なんですよ、
代わりにそのお金を支払っていただくと、
いいように使っていいんですよ、
愚痴をひたすら喋るとか、
そんなのはもう全然、
なんていうのかな、女の愚痴なんですけれども、
とにかくいいように使っていい、
ドタキャンもしてもいいし、
ドタキャンするはずだったんだけど、
やっぱりやるって言うんでもいいし、
どれだけいいように使えるか、
いいようにというのはつまり、
その人の性癖が出るってことなんですけれども、
私の話を聞いてて寝ちゃうとかね、
あるいは私を絶対寝させないように、
膜仕立てるとか、
マシンガントークの相手にするとか、
でも普段私は全然喋んないんですけど、
みたいなそういうことがあっていいわけですよ。
なんでそうなってるのかっていうのが、
とてもとても大事なわけです。
なぜ普段全く喋らないのに、
佐々木相手にはマシンガントークになっちゃうのかっていうのを、
知らなきゃいけないんですよ。
そこに本当と偽りという、
私の前ですら偽っちゃうというのが、
たぶん、
偽りまくる人にとっては出ちゃうんですよね。
そういうことも当然あります。
あれですよ、
河合俳夫さんが、
ちょっとしたユーモアですけれども、
美容院行く前にはきちっと髪をセットして、
絶対に髪がいじられないようにセットしてからじゃないと、
美容院行かないんだみたいな人がいたと、
という夢を見たみたいな話だったかな。
これがまさに偽りの事故の究極形みたいなやつですよね。
何のために髪を切ってもらいに行くのかっていう。
髪を切ってもらいに行くときに、
字が出ちゃダメってことですよね。
とにかく字を出さないという生き方をしている方っていらっしゃるじゃないですか。
そういう方の生き方というのは、
見ていて必ず他の人にはわかるんで、
それが字になっちゃうんですけれども。
この偽りの事故というのはですね、
私たちがどういう、
ここですよね。
ここで使うべき言葉が、
夢とかになってしまうんですよね。
先日ノートにですね、
一歳児がお相撲さんをチョンと追従すると、
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お相撲さんが肯定してゴロンと転がってくれるというね、
動画を紹介して、
これ3ヶ月チャレンジではよく皆さんに見ていただく動画なんですけれども、
なんてことはないんですよ。
よくバズった動画ってやつでね。
私はあれをいつも見ては仕事だって思うわけですよ。
このお相撲さん仕事しているわけですね。
チョンと疲れてゴロンと転がったら一歳児嬉しいだろうというふうに思いますよ。
それは現実の相撲じゃないんですよね。
でも一歳児にとっては、
本当に相撲を取った気持ちっていうのがそこで得られます。
本当のところ一歳児は何が起きているのかわかりませんが、
これが現実でないと言えるかというと、
一歳児が夢を見た、
こういうお相撲さんとお相撲とっては夢を見たのと、
実際に手でチョンとついて相手がゴロンと転がったのは、
厳密にはちょっと違いますよね。
私はだから別の言葉で言うと、
ままごとという意外、方法がないと思うんですよ。
現実を使って自分の夢の世界というものを生きるんですよ。
ただ私たちはみんなこうやって生きてるんですよ、
人間というのは。
どうしても僕は交差点というのを持ち出したくなるんですよ。
交差点ってまさに人間の夢の象徴だと私はよく思うんですよね。
あそこにはルールがあり、
何なら警察というお父さんも登場し得る世界であり、
色分けがあって、
人間が渡るという時間帯とか場所とか、
車が止まるとか、
すべて作り出された現実ですよね。
あのルールというものを理解できないやつが、
やつかというか人が交差点に入ってくれば、
いきなり大惨事が起きますよね。
これを実存って言うんじゃないかと僕は思うんだけれども、
とにかく交差点というものはトラウマの起きる可能性にも
十分なり得る場所であり、
いろんな意味で人間社会というものを象徴していると思うんですよ。
そこに何を見るかはまさに投影の産物で、
投影ができない人はあれを使えないんですけれども、
だから三歳児とかを交差点に一人で行かせちゃ絶対ダメなんですよね。
象徴というものがよくわかっていませんから、
象徴というものがわからない人は、
やっぱり交差点を使うことはできないわけですよね。
これは文字通りの意味で使うなんですよ、僕が思うに。
交差点を搾取するとか、
交差点を利用して一丁儲けてやるとか、
そういう人っていないじゃないですか。
人間はまさに使うべきものを使うんですよね、夢の中で。
ままごとの中で食器とか茶碗に見立てたものとか、
お皿に見立てたものとか、
肉団子に見立てた泥団子とかを使うようにですね。
現実というものを使って夢の世界というものを操作し、
なんならば必要なサービスを提供すると。
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3カ月チャレンジもそういうものの一つとして、
私はこれはだから仕事だと思ってるんですけど、
仕事というのは、いかに大人が上手にままごとをするかと。
演劇がやっぱり近いんですけど、演劇も小道具って使うじゃないですか。
小道具を搾取するとか、小道具を利用するとかっていうのはおかしいじゃないですか。
小道具は使うものですよね。
小道具を使うということによって演劇というのは成り立つんですよ。
しばしばしかも小道具に使われるじゃないですか。
うまいこと小道具を見せると、小道具が場面というものを奪ってしまったりできますよね。
そこにあるなんでもいいんですけど、お茶のセットみたいなものが大きな意味を持つような演劇があったとして、
お茶を光を当ててうんとクローズアップして人間が見えないように持っていくとですね、
お茶が主人公みたいになることもありますよね。
小道具が場面を支配するってことは往々にして起きるんですよ。
こういうようなことって全部でも人間にしか意味をなさないですよね、絶対に。
これが意味をなすって時は常にそこには2社以上がいると思うんですね。
だから仕事なんですけどね。
1社だけでは決まらないんですよ、そのものの価値っていうのは決してですね。
だから私は話が唐突に飛ぶようなんですけど、タスクに色を付けるとか、重要度順に重要順を付けるとか、
締め切りをセットするとか、スケジュールにするとかいいと思うんだけど、
そしてだからといって次に自分がやるべきことを自然と炙り出すという考え方は全然ついていけないんで、
やるのは構わないと思うんですよね。
でも私はやんないんですよ。
次に私がやるべきことが機械によって決められるとは思えないということですよね。
どんな場合でもとは言わないんですけど、
明日が3月15日で確定申告の準備はまだ全然してませんという場合には、
でもそれは機械が決めなくたって私が決めますよね。
しないっていうケースもあり得るじゃないですか。
このしないっていうのが機械にはなかなか分かりにくいんでしょうけれども、
もちろんしないってこともできるわけですよ。
つまり違反するっていうのもオプションなんだと僕は思うんですよね。
違反がオプションでないっていうのは人間社会のルールというものにあまりにも合わせすぎていて、
やっぱりそれは偽りの事故だと思うんですよね。
本当の事故は、いやそれにはもう付き合ってられんわっていう確定申告やってられんわとか、
税金なんか俺収めないしみたいな人だっているんですから、人間なんですからね、ここはね。
ルールっていうものは交差点なわけですよ。
象徴に自分が支配されていると信じ切る理由はないわけですよね。
象徴というのは使うものなんで。
この辺ね、非常に微妙な話にはなってくるんですけど、
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この微妙さが私たちにとってのモチベーションとかやる気というものを消すのであって、
決してですね、リーズナブルな、特に機械がリーズナブルだと判断するようなものによって判断できるほど、
この辺がこう、なんて言えばいいんですかね、
緻密さを欠いていても成り立つようなものではないと思うんですよ。
もっとややこしくて複雑な部分がいっぱいあって、
それを判定できるのは私はやっぱり人間だけだと思うんですね。
なんていうのかな、それによって自分のダメージを負ったりする、
心理的なね、あるいは心理的に大変大きな負担になり得るっていう部分がそこに入ってないと、
ひとつ交差点に差し掛かるっていうのを取っても、それだけでもうパニックになってしまうっていう人はいるんでね。
そこで重大な事故を子供の時に経験したとかね、
そういうことっていうのが入ってこないじゃないですか。
AIなりだけでは不十分だと僕は思うんですよ。
本当の意味では傷つかないわけですからね、機械は。
だからそういう海水浴場とかでも全部同じですよね。
その光景がどう見えるかはその人によって全く違う。
しかもその光景がどう見えるかは、
人がそれをどう作ったかによっても大きく左右されるので、
ここには2者以上が存在しなければいけないわけですよ。
1者だけである行動の難しさなり重要性なりが欠することは絶対ないと思うんですよ。
だいたい確定申告が重要なのは、私がそう思ったからではないですよね。
税務署というものがあり、納税という概念があって、憲法にまで書いてあるから大事なのであって、
私にとっては全然大事じゃないんで、
つまりこれが大事だというのは思い込ませられるんだけども、
それは象徴によって思い込ませられるわけじゃないですか。
言葉によって、憲法って象徴ですからね。
言葉によって思い知らされるわけですよね。
何なら、すいません、何ならですね、
徴税というものがあるから思い知らされるわけですよ。
重要か重要でないかというのは、私一人で決めることがあり得ないものだと思うんですね。
常に動的に2者以上の関係の中で決まっていく。
ところが、ここでさらにおかしなややこしいことがあって、
2者という相手に対して、私が何かを冒頭で言った通り、投影するんですね。
例えば、私は多分税務署に父親を見ている。
父親といっても実際の私の父親ではないですよね。
私の自己愛的な世界というものに対して高圧的な態度を取ることができる存在。
昔で言うとヤンキーの親玉みたいなやつですよ。
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そういうものを見ている。
だから私は確定申告というタスクが、はなはなに嫌なものになっていくんですよね。
小分けにするとか、小分けにして断片化してみたところで、
その断片の中にヤクザの親玉みたいなものが入ってきちゃうんで、
税務署の人これ聞いてたら、それはちょっとそう思わないでくださいよって思われるかもしれませんけど、
そういうのも含み込みますからね。
いやいやそういうんじゃないんだよな、みたいなのも含み込みますから。
含み込んでも一層ややこしいものになっていくんですよ。
フラットにそれが見えるってことは、私にとってはあり得ないですね。
作業そのものは簡単ですよね。
私にとってあの作業が難しいとかつらいとかは、
ナンセンスもはなはなしくて、
一日で全部終えられるんですよ、余裕で。
で、ちょっとずつやるとかは関係ないんですよ。
ちょっとずつやれば毎日やることになり、
毎日それと対面させられることになって、
毎日嫌な気分にならなきゃならないんで、
私は毎日もう絶対やんないんですけれども、
あの楽かどうかなんて関係ないんでね、
楽でもなんでもないんで、
このなんつーんですかね、
真理ってそういうものではないと私は思うんでね。
2社が絶対関係、2社が絡んでないんだったら、
そもそも私納税しませんからね。
2社が絡んでるに決まってるわけですよ。
そうすると、
1社だけの世界を反映させている私のタスクシュートに、
それをどのように表現させるかによって、
取り組みやすさが変わらないんですよ。
取り組みやすさというものは、
相手と私との力関係とか、
例えば私がいくらこの年で儲けてるとか、
なんなら昨日いくらお金を手に入れたかとか、
そういうことによっても変わってくるし、
私の真理が変わるから。
で、税務署というものに対して、
私が何を投影しているか、
なかなかいい私を投影できないんだよね。
やっぱりこう、
嫌なお父さんを投影しがちなんですよね。
嫌なお母さんとかね。
嫌なお母さんを投影すると、
今度はその時の逆転位、
逆転位っていうのはおかしいか、この場合。
投影でいつか起きて、
なんなら、
まあでもやっぱり逆転位みたいなもんだと思うんですけどね。
嫌なお母さんに叱られて、
しゅんとしてる時の私っていうものが、
これ対抗と1社心理的に言うんでしょうけど、
やっぱり私はここも2社心理的に言うべきだと思う。
対抗が起きるわけじゃないんですよね。
ポジションが変わるとせめて言うべきだと思うんですよ。
妄想分裂ポジションに変わって、
迫害不安が生まれると。
そういう言い方をした方が、
妥当だと思うんですよね。
僕がポジションを変える。
相手次第で私はポジションを変えるわけですよ。
野球で言うと、
相手がちょっとね、
引っ張りにかかるから、
セカンドだけど、
ショート寄りにポジションを移すとかするじゃないですか。
相手あってのことなんですよ、
ポジションなんてものは。
当然なんだけれども。
だから、
対抗じゃないんですよね。
ポジションを変えるわけ。
私がですね。
このポジションを変えた時に、
不安の色も変わるんですよ。
通常はよく打つポジションにいて、
よく打つ不安を持っている。
ものなんだけれども。
だから私は思いやりを持って、
人に対して、
例えば今、
私がね、
あの、
税務署の話をしましたが、
妄想分裂ポジションにいて、
27:01
迫害不安の時は、
いやもう、
確定申告とか、
本当迫害してくるし、
迫害はしてないんだけど、
迫害不安ってそういうものなんですよ。
ポジションを移すと、
迫害してくるように思える。
別に迫害してくるように思えるのは、
不思議じゃないじゃないですか。
多くの人がそう言ってるしね。
税金をむしり取られるとかね。
むしり取られた人はいないと思うんだけど、
これはだから、
迫害不安的表現なんですよ。
その時、
妄想分裂ポジションという、
ポジションを取るわけですよ。
でもちょっと思い直して、
心理的なバランスが変わって、
よく打つポジションに戻ると。
通常こっちにいるんでね、
やっぱり。
私も、
ああいや、
こういう思いやりのある不安に変わるわけですよ。
事務所の人だって大変なんだよね、
みたいな。
そういう、
二者というものが視野に入ってきやすくなるわけですね。
二者心理なんで、
どっちにしても。
だから、
よく打つ不安という、
償わなければ、
かわいそうだ、
みたいな不安に変わっていくわけですよね。
こっちの方が成熟してる感じっていうのは、
確かにありますよね。
でもこれは、
単純な成熟じゃなくて、
直線状にあるものではなくて、
生まれていけば必ず、
よく打つポジションの方に自分が成長していく。
だから、
妄想分裂ポジションは卒業しました、
みたいにはならないということ。
ポジションを移してるだけなんで、
元には戻るんですよ。
ポジションってのは常にあるものだから。
だから私たちは、
迫害不安に陥ったり、
よく打つ不安になってみたりっていうのは、
やっぱり、
いろいろと経験していくわけですよね。
将来にわたって、
永遠に、
妄想分裂ポジションの迫害不安は、
永遠におさらばしたいと思っている人は、
いっぱいいらっしゃると思うんですけど、
無理って話なんですよ、
そういうことは。
ポジションが変われば不安は変わる。
相手次第でポジションは変えるんで、
我々はね。
ずっと同じポジションに固定的にいる人っていないんで。
だってそうじゃないですか。
だから対抗とか、
成長っていう概念は、
無理があると思うんですよね。
まるでそれは自然と成長していって、
自然と思いやりのある人が育ちますみたいな、
そういうケースが多く見えるから、
一社心理でもそんなにおかしくはないのかもしれないんですけれども、
私は一社心理でタスクシュートを操作していて、
色分けしモードを変えて旗立てれば、
次の自然に行えるタスクが発生しますよっていうのは、
登場しますよっていうのは、
この順番通りにやっていけばいいんですよっていうのは、
全然やっぱり納得がいかないんですよね。
それって現実と関係のないところで、
私の心持ちだけの話をしているのであって、
現実ってのは動きますからね。
常に動いてるんで、
ダイナミックに動いていくんで、
その重要性というのは、
その秒ごとに変わっていくものなので、
3ヶ月チャレンジやってると、
本当にそのことはつくつく感じるんですよ。
この人はこういう人だから、
これをこのタイミングで言えばいいみたいなことって一つもなくて、
一瞬一瞬で言うべきことが言うべきでなくなったりするっていうのは、
これで言ってると臨床審議の話してるみたいになっちゃうんですけど、
30:03
臨床審議であってもなくても関係なくてですね、
言えるべきことなんて決まってないんだなと。
だから私はその新ネス書を読んで、
またこれを言うと、
またこれも迫害不安的な話になってるんですけど。
ワンオンワンの今セッションの本って割と出てるんですけど、
このような姿勢で言いましょうとか、
このように言いましょうっていうのが、
やっぱりその読者の不安というものをすごく感じさせるんだなって思うんですよ。
言うべきことがあると、正解はあるんだと。
こういうタイプに最初の時に相手はこういう不安を持ってるから、
こう言いましょうみたいなものが決められるように、
基準と解があるように見えてしまう。
もうあのとことん一者的なんですよ。
二者いないんですよね、そこにはね。
それはまるでパターンで決まってしまうんですよ。
二者いるってことはお互いが投影し合うんだから、
シチュエーションは秒ごとに変わるっていうのを忘れちゃいけないと思うんですよね。
その人は、しかにその前のタイミングでは脅迫的な人だったんだけど、
次のタイミングではもう違う人になってるんですよ。
しかも私次第で変わっちゃうんですよね。
一番何に似てるって言うと、
機械的な話をするならば量子力学的なんですよ。
観察者次第で対象は形を変えるんです。
だからどんな本を読んでいて、相手がこういう人だったらこうだっていうのって、
自分がAIになる場合はいいんですよ。
自分が人間じゃないって言うんだったら、それしかできませんし、
相手がはっきり言ってAIを前にしたって人って変わりますからね。
どんなAIかによって人って変わるんで、
本当はそういうことってできないと思うんですけれども、
私次第で相手が変わるのに、そして私は相手次第で変わるのに、
答えがあるということが原理的におかしいわけじゃないですか。
この感覚に慣れられないときに、
僕らはやっぱり仕事ってものが一気に難しくなるんだと思うんですよね。
やっぱりお相撲さんはなぜ衣をしてあげるかというと、
相手が一切地だからであって、
やっぱり一切地に思いっきり張り手するとか、
ダメじゃないですか。
それが自然と判定がつくはずですよね。
一斜心理的に私はもう相撲を取るんだから、
常にどんな相手でも全力で行くんだからみたいな、
全力というのがとにかく相手を突き飛ばして吹っ飛ばすっていう、
それが相手が一切地でも全然変化がありませんっていうんじゃおかしいじゃないですか。
やっぱりその相手その相手によってやること変わらなければダメですよね。
つまり共有、やっぱり一緒になってやるままごとは、
相手次第で変えるしかないですよねと。
何ならままごとするかしないかも相手次第によって変わるしかないですよねと。
交差点っていうのはやっぱり全く同じ状況っていうのは一つもないんですよ。
評価書に書いてあることはありますけれども、
33:00
でもやっぱり表集所のビデオっていうのも大変よくできていて、
こんな時はどうしますかみたいなのって、
かなり意外性のある話を作り出してくるじゃないですか。
不意に左から人が現れた。
もっともっと現実は怪しげでややこしいことがいっぱいあるわけじゃないですか。
急に目が見えなくなった人が車で突っ込んでくるとか、
そういうことが起きてしまうわけじゃないですか。
起きちゃいけないことが起きてしまうわけじゃないですか。
それがやっぱり僕は、それを人はどうやって、
しかしそれすらも夢という世界に紡ぎ上げていくみたいなことをするしかない。
一番僕が無理のある夢だと思うものの一つに裁判ってやつがあるんですけれどね。
あれは本当に難しい夢だと思うんですよ。
でもあれだって人間ならではじゃないですか。
口頭だろうとなんだろうとチンパンジーがあんなことやるわけないですよね。
あれはだから自然に発生するようなもんではないと思うんですよ。
この場合の自然も相当怪しげな使い方をしてますけれども。
いろんな夢を共有させる。
だってあれに例えば殺人を犯した人とかが、
あの夢に乗っかってくるっていうのはそもそも不思議ですよね。
無理やり乗せられてるだけとも言えるんですけれども、
乗っかってくるっていうことが行われるわけですよ。
で、無理やり心理的な言葉を使うならば、
多分あそこで犯罪の人にも欲打つポジションに入って、
欲打つ不安を持ってもらうってことを人は望んでるんでしょうね。
でもだいたい、まず最初は少なくともですね、
逮捕される、それは社会に迫害されたって感じると思うんですよね。
迫害不安一遍倒だと思うんですよ、最初は。
そうでないというのが、なかなか期待できない世界だろうと。
だから、著者名忘れましたけど、
反省させると犯罪者になりますみたいな本に書かれているようなことを
書く人も登場されるんだと思うんですけどね。
いずれにしても変に重い話になっちゃったんですけど、
3カ月チャレンジというものでやりたいことはですね、
私たちは夢を共有するというやり方でしか
仕事って進められないと思うんですね。
一社だけで見る夢をただ構築するっていうだけだと、
それは仕事というよりは引きこもった生産物みたいになってしまうと思うんですね。
それが仕事になる場合もあるんですけど、
その場合は夢の共有に向かって何かやりだしてるわけじゃないですか。
昔からずっと書き溜めてきた小説をSNSで出してみましたみたいなのっていうのは
仕事としての方向にお金を取る取らないは別として、
仕事としての方向を向いた瞬間に、
他の人とこの夢についての共有ってものがスタートしてしまうと思うんですよ。
だいたい最初に引っかかってきて抵抗があって嫌なのはそこだと思うんですね。
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これを一切しない仕事っていうのはあり得ないと思うんですね。
人が絶対に見ない仕事っていうのはあり得ないと思うんですよ。
何かこう、地下室に籠って作り上げる、
ミケラン・ジェロモビックリの芸術作品みたいな、
そういう世界になってしまうと思うんです。
それは仕事とは違うものだと思うんですよね。
自分の自己愛的な、
自己愛っていうのは自分を愛するっていう意味では全くないんですけど、
ナルシシズムの世界における自分の世界というものを、
物質化したものみたいな感じ。
そういうものになるんだろうと思うんです。
そういうふうに私たちはでも、
なぜか割とそういうのが良いと言わないまでもですね、
一人一人は独立した嫁の世界を生きているんだっていうのが、
現代の個人主義みたいに思われているんですが、
私はでもあれは、すごくその競技は実は、
この世に本当にあるんだろうかって思うように最近はなってきたんですけれども、
いずれそういうふうな話ってありますから、
そうなんですよね、最近Xでほとんど和訳者になってますが、
やっぱり新年そうそう和訳者なのが良いですよね。
和訳者じゃないものを作り出そうとするっていうのを、
今締めたいわけですよ、私自身は。
なんだっけな、Xってなんだっけ、
怒っている人相手に甘えているんだって、
あれは私もすごく言いそうな話で、非常にそうなんだよなと思った。
だから腹が立つっていうんじゃなくて、
私はこの人に甘えたいんだって思えれば、光は自然と収まっていく。
Xでそう書いたからって言って怒った時に、
それを思い出せるかどうかはまた別の問題なんですけど、
それはいつも私がこのポッドキャストでも、
村園圭三さんのGood Vibesを借りるような形でも、
とにかく言ってることではあるんですよね。
例えば何でもいいんですけど、奥さんに理不尽に怒られたけれども、
それに対して腹が立つと言い返してやるっていうのは、
甘えがなければ無理な話ですよね、土台。
甘えられない相手、全然甘えられない相手だとして、
例えば外でヤクザのすごい怖そうな人に睨まれて、
理不尽な言い掛かりをつけられても、絶対怒ろうとしないじゃないですか。
そういうヤクザの怖そうな人に僕が甘えられるわけがないから、
当然早く一刻前ここを立ち去りたいって思う以外は何も思わないですよね。
僕様が相手だから甘えられるんであって、
甘えられるから理不尽だとか言い返せるんであってね。
甘えたいんですよね、やっぱり。
それでここまでは私は全く二者心理的だと思うんですよ。
でもこれに反論があって、当然あるんだけど、
そういうケースもあるだろうけど、
本当に怒らなければダメな時もあるでしょうっていう話があって、
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必ずこの話出てくるんですよね。
社会問題を論じるならそうでしょう。
相手が大統領でも弾劾しなければいけないことはあるみたいな話はそうでしょう。
だけど感情的な怒りの話にこれを持ち出すということは、
やっぱり一者心理的世界だと思うんですよね。
基準がそこにあり得るという話をしちゃってる。
こういう目にあった時は怒らなければならないんだっていう、
こういう目というのを客観的に表現したり記述したりできるっていう不思議さがあるんですよ。
僕はそこに基準を持ち込めるはずないと思うんですよね。
そんなのは力関係で決まっちゃうんだし、
その人の感情の日々ってものが秒ごとに変わるんで、
何をもって理不尽だと感じるかは人によって変わるけど、
その人がそれを理不尽だと感じるかどうかも時間帯によって変わるし、
相手が誰であるか、さっき言ったみたいにものすごい小表の、
その筋の人かうちの奥さんかで全然話が違ってくるじゃないですか。
理不尽なことを言ってきたのが、じゃあ強い人だから弱い人だからなのかっていうと、
例えば1歳半になるうちの娘が私に理不尽なことを言ってきました。
全然腹立たないじゃないですか。
言ってる内容によって決められるとは思えないんですよ。
二者心理だと思うんですよ、ここには。
しかももう1個大事な問題があるんですよ。
という夢を見てましただった場合、この怒りというのは正当なのか、
だって私たちは夢見てる時にそうであるとは気づかないわけですからね。
マトリックスなんで、夢の中で奥さんに理不尽なことを言われました。
この時起こるのは正当かどうかみたいな議論って意味がないじゃないですか。
でも夢見てるかどうか本人が気づけないのに、そこに基準持ち込むことってナンセンスじゃないですか。
だから僕は一者心理って無理があると思うんですよ。
基準持ち込んでも別に良くて、ここまでは我慢すればここからは起こるみたいな基準を作っといたって構わないんですけど、
そんな基準がリアルに適用できるような気はまるでしないんですよね。
やっぱり起こる時は起こっちゃうよねっていうような話でしかないと思うんですよ。
やっぱ我慢できない時はできないよねとか、やっぱりクラソンさんが何を言おうと許せないと思っちゃうよねみたいなそういうのって、
方針とか基準とかが、そういう機能を全然してないなと私は思うんですよね。
一人で生きてるわけじゃないですから、そして相手は変化自在なんで。
なのでX4の時もそうなんだけどそうじゃないだろうなという感じなんですよね。
この基準を持ち込める、起こるべき時があるみたいな話というのは常に何かこう、自分一人の世界というものがそこに出現している感じがするわけです。
世界とはこのようである、技術的、このようであるべきだという言い方をすることができ、こういう状態に差し掛かるという言い方ができると。
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できないと思うんですよね。私はそのように私と世界っていう風に、そういう私と世界、私というのは自生しているもので、その佐々木賞吾らしさみたいなものがあって、
その佐々木賞吾らしさみたいな客観性を持っていて、佐々木が鳥になれないように、佐々木は佐々木でしかありえないんだみたいなことが言えるという話になってるんだけど、
私はですね、母を前にした時の賞吾と父を前にした時の賞吾は別人になっている。
つまり相手次第で私は何者にでもあり得るという、これがちょっと仏教っぽいんだけれども、でも私はこれは真実だと思うんですよ。
鳥には確かになれないかもしれないけれども、私あらゆる人であるんですよ。だって会う人によって違うんで。
私本体みたいな人間はいるとはとても思えないんですよね。私がもう娘がいる時の私、私の娘と私の妻がいる時の私。
別なんですよ。絶対に。出てこない奴が出てくる。で、出てこない奴は出てこない。
サンチャレでも、全てのユーザーさんと対している私は、いちいち全然違う。
それはこういう自分で行こうとか思ってるわけではないんで、そういう自分になってしまう。慣らされてしまう。
だから転移と逆転移は起きちゃうって話なんですけど。大橋哲夫さんとのいる時の私は彼といる時にしか出てこないんですよ。絶対に。微妙な差ですよ。それはもちろん。
別人になっちゃうよねとは誰も言わないけれども、明らかに私の中では彼の前にいる時の私でしかない私っていうのがいる。
だからこのタスクが重いとか軽いとか言ったって、例えば大橋さんと会うタスクは重いよねとか言ったって、それは誰が言ってんだよってことなんですよ。
娘といる時に大橋さんといるタスクは重いだろうかっていう時と、妻といる時に大橋さんといるタスクは重いだろうかって言ったら、重さ変わるんですよ。絶対に。間違いなく変わりますよ。
例えばうちの奥さんは結構大橋さんとやってるっていうことを割と高く買ってくれてるんですね。だから大橋さんとはちゃんとやっていかなきゃダメだよみたいに言うわけですよ。
言わないまでも思ってるってことは分かるんですよ。伝わってくる。そうするとどうなるか。タスク軽く感じますよね。
別にそういう人はいないと思うんだけど、他のユーザーさんが例えばいたとして、大橋さんとの仕事はいいと思いませんねみたいなことを言う人がいたとするじゃないですか。
その人と一緒にいたときにもし大橋さんとやるスケジュールについて考えると、重く感じられますよね。当然。
いや、やんない方がいいと思ってる人もいるのかみたいに思いながらタスクのことを考えるから。こうしてタスクの重さって、会う人によって変わるんですよ。関係ない人であったとしてもですね、変わるんですよ。
そういうことっていっぱいあるじゃないですか。いつも勉強する気がしなかった子なんだけど、その先生と一緒だったらする気になるとかいうことが起きてるじゃないですか。
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一貫した私にとってのその一貫したタスクのありようとかってないじゃないですか。僕はこれは全くないと思うんですよ。あり得るはずがないと思うんですよ。
私ってどこにもいないんで、そういう意味では。一貫している私っていない。既に会う人によって、気温によって、天気によって、天候によってですよね。
で、締め切りまでの日数、締め切りまでの秒数によって急速に変わっていきますんで。テドリスの難しさみたいなもんなんで、最近ハマってるんでね。
毎秒ごとにあれは、毎秒ごとではないかもしれないけど毎回ごとに変わるじゃないですか。その組み合わせはほぼ無限じゃないですか。対戦型になってくると完全に無限なんですよ。
テドリスの難しさについて一言で言うとか、ナンセンスじゃないですか。優しいとか難しいとか言っても無駄だと思うんですよ。速度変えれば当然変わるんで。速度は変わりますし、ゲームの最中に。
こういう状況に僕らは生きているはずなんですよね。現実世界というのはそういうふうに毎秒ごとに変化し、常に私は世界の中にいるわけだから毎秒ごとに変化させられていて。
で、決められないんですよ。何一つとして。で、この何一つとして決められないものを決めちゃうんですよね。反復してしまう。
会社とはこういうところで、仕事始めとお疲れ様ですが、仕事始めというものはこういうもので、辛いものでと決まっていくように自分が定めていって。
で、その定めの中で偽りの自分というのを作り出して、偽りの自分が対処していき、自分がだんだん窒息していくという状態が起きたときの対比状がいるような日が私はするんですよね。息継ぎの場ですよね。