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2024-03-29 49:58

超自我を「神化」させない【GMV 956】

3 Stars
「客観的」に注意。
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
3月も終わりですね。3月の29日金曜日、10時30分です。
最近ね、ちょいちょい落としてしまって、本当にごめんなさい。
春休みが始まりまして、どうしても朝ね、みんなで寝てまして、
そういう酔いっぱり感が少し出ているので、朝起きてすぐに出かけなければいけないと言ったような日もありまして、
どうしても落としてしまうんですよね。
毎日聞いてくださっている方がいらっしゃるので、極力平日は毎日行きたいんですけれども、
どうしても夜撮るということになるとですね、そういう生活をしているため、夜は仕事に回ってしまっておりまして、
これを撮るとなると朝しかないというところが最近はちょっとあったんですね。
これはすぐ元に戻りますけどね。
はい、そんな感じです。
4月に入って、間もなく7日に手帳セミナー、タスクシュート手帳セミナーですね。
タスクシュート手帳の会をやります。
場所は神田。
オンライン講座もハイブリッドで行います。
すでに少しずつご参加いただけることになっていて、10名は超えてくると思いますし、
上限も割と細かく設定しております。
というのも、今回第1回のこれは試みでしてね。
どんなふうにまだやれば何人ぐらい行けるのかというのがまるで分かっておりませんので、
そこは想像で賄うことになりますので、あんまりたくさんというのもちょっとお考えものでして、
とりあえずこのぐらいは確実に行けるかなという数字に抑えておりますんでね。
今回うまくいきましたら、次回以降はまた少しずつ手探りで増やしていこうかなというふうに思っていますが、
ハイブリッドっていうのは意外と難しいんですよね。
音声はハウリングを起こしやすいし、オンラインの人が置き去りになりがちだし、
どうしてもそういうところありますからね。
ここを何とかするためにオンラインの人専用のニーテトレーナーさんにもいらっしゃっていただいたりして、
何とかそうならないように頑張ろうとは思っております。
で、できるだろうとは思ってるんだけど、やっぱりどうしても見えない部分っていうのがあるので、
そこを何とかしていこうといった次第ですね。
で、4月の、これは7ね、タスク集と手帳の回は7。
03:06
4月の21日にまだ告知ができてなくて申し訳ないんですが、
倉園圭三さんと恒例のGood Vibes タスク集と、今回はちょっとプレミアム感を出しまして、
4月春先ということですので、うまいこと新年度に乗れるような特別なプログラムを倉園さんにお願いしたいですね。
例によって私は人にお願いする、こういう体操な話になってくるとすぐそういうところがあるんですが、
とはいえ私の方でもちょっと最近あんまり喋らなかった、ちょっと控えてたんですよ、私なりに。
私なりに控えることもあるということですね。
タスク集とをマニアックに使うやり方というのは、あんまり最近こういう流れは歓迎されてないかなと思いまして、
別に全然歓迎されてなくても全然いいんですけど、
タスク集とをどちらかというと敷居を下げて誰にでも使える、これはすごい重要な我々のミッションですので、
私の趣味で仕事をやってるわけじゃないからね。
でも私はやっぱりマニアックに使っている方なので、もうそういう自覚はさすがにありますから、
マニアックに使うというののメリットについてマニアックにお伝えしていきたいと。
こういうのにだから興味ある人は、ちょっとお高めに値段設定しちゃうんですけど、
ぜひ来ていただけますと、今回は3回セットという、ちょっと合成になりましたので、
4月の21日と5月の中頃と、さらに5月の末に3回セットで、この日付も明らかにしてから告知させていただきますので、
どうぞよろしくお願いいたします。
タスクシュートマニアックスみたいな、そんなものはないけど、
佐々木式と言うんですかね、そういう名前を関するのって難しいじゃないですか。
倉園さんだって、やっぱりグッドワイブズっておっしゃっているわけですよね。
倉園教とか言い出しちゃったらやばい感じがしますよね。
でも大体そうなってるんですよね。
例えばキリスト教とかって言っちゃうじゃないですか。
ユング心理学とかね。
フロイト心理学とかはあんまり言わないんですけど、そこはフロイトがすごい頑張ったんですよ、多分。
精神分析という名前で、絶対にメソッドと組織を押すんだという、
彼のある意味、脅迫的なものを感じるほどのものすごい意志力が彼にあったと思うんですね。
やっぱり大体、もっとある意味別の意味ですごい人たちは、すごいじゃないですか。
ユング心理学っておかしいですよね。
佐々木心理学とか言い始めちゃったら、かなりやばい感じがすると思うんですね。
普通に考えればね。
ところが日本にもやっぱりモニタ療法ありますからね。
名前がついちゃうというのがね。
06:02
これは本人がすごいんだと思うんですよ。
クモン式とかってすごいじゃないですか。
佐々木式ってタスクシュートで言うのもはばかられるけど、
クモン式ってもう学習方法が、なんかこう、固有名詞みたいになっちゃってますもんね。
私、クモンさんがいるなんて子供の頃は思いませんでしたもん。
クモンに行くもののあれですけどね。
あれはクモン式って苗字ですよね。
バイオリンの世界に、これはもうね、これしかないって言っていいぐらい、
苗字からの、バイオリンというかやっぱり苗字からやらないと結構厳しいんですよ。
苗字からの日本のメソッドはもう名前がついてるんですよ。
続けメソッドって言うんですよ。
しかもこれかなり古いから。
昔はですね、メソッドって言ってなくて、メソードってなってて、
続けメソードって書いてあるんですよ。
何のことだろうって思ったんですけど、
日本ではそういうものがね、主流なんですね。
続きなんてすごい日本で2話目に多いんだっけ、苗字ですから。
もうなんかこう、続きメソッドって他に何メソッドがあるのっていうと、
他には何のメソッドもないという。
だから日本でバイオリンを子供が習うときは、
普通続きメソッドに習うんですよ。
これってすごいなって。
本当、つまりこれが独占ってやつですよね。
タスク管理といえば、なんかJ松崎メソッドだったら、
もう僕らは天下絶対なものじゃないですか。
Jメソッドとかね、言い始めちゃったらね。
言わないですけど。
タスクシュートはタスクシュート。
やっぱりこの固有名詞に人名つけないというのは、
一定の努力の賜物だと僕は思うんですよ。
GTDもデビッド公式とかって言ってないわけですよね。
でもこの人名いくっていうのは、
やっぱりその人の強い個性の表れだろうなって思うんですよね。
本人はそう言ってないんじゃないかと思うんですけど、
日本でアドラー心理学とかって言うじゃないですか。
名前をつけとけば簡単ってこともあるのかな。
そういうこともあるのかと思うんですけどね。
認知心理学のテストでも有名なのは、
長谷川先生が考案した、長谷川四季って言いますね。
こういうやつですよね。
人名つくのはすごいですが、
人名つけるとやばそうな気がします。
なのでこういう打弁で8分くらい使っちゃうんですけど、
タスクシュートは佐々木四季とかは絶対言わない。
僕はそういうキャラじゃないなと思うので、
基本言わない。
野木場四季とかはさらに言わない。
言わないけど、
今回はマニアックな方向を、
クラゾンさんと共にお伝えしていきたいので、
こちらぜひご参加いただけますと春先ですし、
五月病云々って言葉もあるので、
よろしければぜひお願いします。
今日は先日あるカウンセリングのところに、
興味本位だけで行ったわけじゃないんですけど、
行ったんですね。
通おうかなと思ってるんですけど、
お前調子はおかしくなったのかって言われると、
調子がおかしくなったわけではなく、
09:01
昔からやっぱり訴えたい一つ、
私にとっては割と、
これを何とかしたいという主想っていうのかな。
またグッドファイブス方面とはまた違った意味で、
極めて専門的な話を聞いてみたいっていうのがあったわけですよ。
専門家の意見が聞きたいっていうのと、
自分の問題を解決したい。
厳密にはちょっと100%自分のと言えないってところあるんだけど、
そういう課題を解決したいっていうのはあり、
もちろん興味本位もあり、行ってみたんですね。
行った感想を話しつつ、
ちょっと今日は昨日、
倉園さんと久しぶりにグッドファイブスTVを収録しに行って、
やっぱり彼と直接接触して長い時間話すと、
いろんなことがまたクリアになります。
新しい知見だみたいなことは、
さすがにもうほぼなくなってしまったんですけど、
これはやっぱりクリアになるなっていうのはあるんですよね。
今までちょっとクリアになるじゃないですか、
下手なカメラを映す人って、僕そうなんだけど、
ちゃんとピント合わせてるつもりでいるのに、
ちょっとボケてるんですよね。
少しピントずれてる。
すごい上手い人がいるともっとクリアになる。
あれを見ておーって思うんだけど、
これがやっぱり倉園さんとお話ししてると、
特にグッドファイブスに関わることでは当然なんですが、
彼が最初の人なんで、クリアになるんですね。
ピントがもっと合った。
合ってると思ってたけど、今までのはちょっとぼやけてた、
みたいなのが起こる。
これはきっとね、僕は岡瀬一夫さんとタスクシュートに関する話を、
コンコンと誰か話せば絶対こういう現象起こるって思うんですね。
分かってると思ってても、
彼の方が分かってるってことがあって、
ピントが一段と合うみたいなことが起こる。
これはやっぱりオリジナルっていうのの僕が、
オリジナル好きっていうのがあるんですよね。
多分あると思うんですよ。
なんだかんだフロイトすごいなってことと近いんですね。
青春分析の話では、それこそメラニー・クラインでも、
ウィニコットでもみんなすごいんだけど、
ユングもすごいんだけど、
フロイトの本を読んで、
ある程度分かるようになってしばらく読んでくると、
この人はすごいんだなっていうのをね、
いろんな意味で感じさせられるところがありますね。
そういう話だと思うんです。
でですね。
何の話をしてたんだ。
まずカウンセリングに私が通い始めた。
多分ですよ。
まだ一回行ったっきりなんで、
どういう方向性になるのかすら決まってない。
そもそも本当にやっていくのかどうかすら分かんないんですけど、
コストだと思います。
精神分析的心理的心理療養。
サポーティブセラピーってやつですね。
でね。
なんていうのかな。
12:00
感想を言いたいって方は多いと思うんですけど、
まだ決まってないんで何とも言えないし、
第1回では何もある意味ないんですけど、
物思いってのがやっぱり僕は一番実感しました。
物思いにふけてもらうということですね。
私のために物思いにふけてもらうっていうのは、
まずちょっとね。
過剰にもてなされてる感っていうのに私はちょっととらわれたんですよ。
まず。
私こういうやっぱり有意義ポイントがあるんだなっていうのがまず思うんですね。
人のケアを素直に受け入れられない。
結構これは大きなポイントだと思うんですよ。
自分では。
思想がここにあるとかじゃないんですけどね。
この辺がやっぱりこの種のものの一つの特徴だと思います。
つまり私が訴えたこととは直接何の関係もないんだけど、
そこが私にとって一番インパクトがあって。
この物思いにふけるって何よって言われると困るんですけど、
あるじゃないですかとしかまず言いようがないですね。
専門用語だからといって何か専門的な出来事が起きてると考えるよりは、
やっぱりまずこの言葉で普通に我々が何をするかを考えた方がいいと思うんです。
物思いにふけてる時って要するにある意味、
手を打ちあぐねてるって感じですよね。
例えば私、原稿書いててそうなるんですよね。
よしよしはもう関係ないですよね。
気がつくとそうなってる瞬間が何度もあって、
書いてるじゃないですか。
気がつくと物思いにふけてるんですよ。
で、その時じゃあこれから書く次の文章について考えてるのかというと、
考えてるわけ違うことを考えてたりするんですよ。
例えば今で言うとドラクエの、
間違った、スーパーマリオRPGのことを考えてたりするんだけど、
その時に原稿のことを考えてなくかというとそういうわけじゃないんですよ。
こういう時に集中って言葉を、
私は皆さんというのかな、皆さんは主語がでかいんだけど、
多くの人が御用してると僕は思うんですね。
よく授業中に物思いをふけてると先生に、
今喋ったことをさらに言ってみろみたいなことを言って怒られるんだけど、
あれは私おかしいと思うんですよね。
なんかですね、例えば複素数の、
何でもいいんですよね。
複素数の式から生まれてくる平面図の面積を求めなさいみたいなのが出た時、
めんどくせーとか思うわけですよ。
めんどくせーとか思ってるうちに物思いにふけるんだけど、
あれは私は問題について考えてないわけじゃないんですよ。
でもなんか全然違うことを考えたりするわけですね。
水嶋真一の漫画とかね。
僕は当時、土下弁をよく読んでましたから。
授業中読んでて没収されたりもしましたからね。
この物思いにふけるというのを人のためにやるってことになってくると、
何が起きてるかというと、それはやっぱり赤ちゃんとか母親。
15:01
これしょっちゅうありますね。
私も娘が小さかった、本当に幼かった頃、一緒にいて物思いにふけり出すんですね。
これが絶対大事なんですよ。
この時間が僕は親子関係で一番充実している時間の一つだと、
昔からずっと思ってきたところがあるんですね。
私の親がそうなんですよ。
私は親とは仲良かったんです。
父がよく当場を描いている。
坊主なんでね、当場をいっぱい描くんですよ。
うちは宗派が独特で、弾家さんの数がやけに多いんで、
当場地獄とかするんですね、ある日にお盆とかの時には。
当場で部屋が埋まるんですよね。描いても描いても終わらないという。
そこに僕がいて、別に何もしないんですよ。
当場運ぶの手伝うとあれ重いんですよね。
一度に僕じゃ30本がいいところでしたね。
親父は100本とか運ぶんだけど、肩痛めたり腰痛めたりするんです。
バカな話ですけど。
とにかく当場の描く部屋にいるわけですね。
別に何の話もしないんですよ。
というか父は当場描くの忙しくて人と話している場合じゃないんで、
話して、なんかでもポツポツ喋ったりすることあるんですけど、
これなんですよね、一緒にいるってのがね。
私がよく思う、いるのはつらいよで、小畑海斗さんが話題にしているやつですね。
こういう時に、特にまだ赤ちゃんだった場合、
この赤ちゃんのことについて何も考えないというわけにいかないじゃないですか。
私は結構大きくなってたから、
父は別に私が一緒にいても、私について何か考えてなかったと思うんですよ。
いるなぐらいに思ってただけだと思うんですね。
物思いにふけるというのは、私のためにとか赤ちゃんのために何か考えてるんだけど、
それが意外とフォーカスされないんですよね、どこかに考える。
だから集中している感じがしない、そういうことって起こりますよね。
ぼんやりしてるってやつですね。
あの時に僕は、非言語コミュニケーションのやりとりがものすごく活発に行われている感覚が生じるんですね。
言葉によらないんですよ。
何でかっていうと、赤ちゃんは別に何も要求してこないから。
具体的な言葉で要求できないからですね。
だから物思いにふけるしかないんですね。
つまり推測するしかない。
よくて、お腹空いてんのかなと。
それすらも全て満たされても、なお赤ちゃんが不機嫌だったり、ご機嫌だったとしてもそうなんですよ。
一緒に遊んでほしいとも限らないですしね。
赤ちゃんは結構、もちろん成人に比べればなんてことはないですけど、
でも先の行動は予測しにくいところはありますよね。
だから自分の思念っていうのかな、思考が一箇所に集中していちゃダメなんですよね。
漂うように広がっていないと、多分相手の要求というものが引っかかってこなくなってしまう。
18:04
ある種の要求。
なんとかなのかなが、全部ミルクかなみたいになっちゃったらダメじゃないですか。
だからミルクじゃなくて他に何かあるっていうのは、
受け身でぼんやりしているときに、あ、そうか、これがしてほしいのかみたいになる。
こういうのが何かに相談されたときっていうのは、道しるしく出てくるんですね。
私、3ヶ月チャレンジとかタスクカフェとかでも昔そうでしたし、
タスク修道に関することでもそうなんですよ。
特にちょっとクレームっぽくなってくると特にそうなんですよね。
ぼんやりし始めるんですよ。
話聞いてるんですかって言われたことも再三あるんですけど、話は聞いてるんですよ。
話、だからそのクレームっぽい場合ね。
今は3ヶ月チャレンジとかでもないんだけど、
でもこの話聞いてるのかってのはすごい大事なポイントで、
僕も言っちゃうんですよね、時々ね。
昔はこういうこと言っちゃダメだなみたいな、いわゆるグッドワイブス流に言うと攻撃っぽい攻撃なんですよね、事実。
でも違うんですよ。
これを口にするということはリフレクションが働いてるはずで、
話聞いてるのかと言いたいのは相手だったりするんですよ。
相手の人だったり。
ただ相手の人がそれを口に出せない場合、私が口に出すんですよ。
こういうことが物思いに吹けてるとすごく起きやすくなる、なるんですね。
東映ドイツクが起きやすくなると専門的に言えばそうなんだけど、
要はこの怒る人が怒られるのか、怒られる人が怒るのかの役割は、
次から次へと人の関係の中では変わるということなんです。
これはですね、個人ってことに囚われてるとすっごい分かりにくいんだけど、
子供なんか本当によく分かってますよね。
役割交代ってのがすごくママゴトとか見てても頻繁に起きてるんですよ。
これは私娘を観察してものすごくよく分かったんですけど、
娘がもう一人の友達と遊んでたりするじゃないですか。
だいたい女の子同士ですよね。
じゃああなたお母さん、私女の子みたいになって始まるんだけど、
いきなりもう次の瞬間には役割が逆転してたりするんですね。
でもあれをやるのは何でしょう、あうんの呼吸でできちゃうんですよね、子供はね。
要するにそこでやるのは家族ごっこができればいいのであって、
どっちがどっちの役をやるかってのは大事なことじゃなくて、
その時その時キッチンの方に近いやつがお母さんとか、
でもキッチンで今ご飯作ってるのは子供みたいに。
そうやってどんどんどんどん切り替えていくわけです。
どうせ想像の世界の話なんです。
こういう交種交代みたいなのが猛烈な勢いで起きるところってあって、
それが物思いにふけてると。
だから赤ちゃんとのやりとりってそうですよ。
やっぱりちょっとでも大きくなってくると赤ちゃんは親役をやりたがったり、
例えばアフラックのCMとかやだら見てると僕散々やらされてたんだけど、
悪いアフラックのアヒル役とかをやらされたり、
21:00
いろんなことをしたいわけですね。
あのロールプレイをね。
だからそれはその人のその子の心の中にあるものを実演して見せたいという、
その手近にいる人間を使って配役をやる。
しかもそれは別にその固定される理由は何もないから、
どんどんどんどん役が交代していくっていうことが起こるんですよね。
全てセットなんです。
だから話聞いてるのかという問いはどっちが端でも別にいいんですね。
これはすっごい大事なことだと僕はいつも思うんですよ。
だからついしゃべっちゃったとかつい攻撃しちゃったってことはないんです、本当はね。
ある程度その場を私が主催している3カ月チャレンジ、
タスクシュートでもそうだけど主催してるんだから、
主催者の責任においてマネジメントする必要はあるんだけど、
講師をどんどん交代していいから、
実は攻撃するとか攻撃されるっていうのは、
どっちかがやってるって考えてはいけないんですよね。
そうではなく、ここに攻撃を攻撃されるという、
なんていうのかな、これはな。
必ずしもそれが演技じゃないんですよ。
ここがミソで演技じゃ困るんですよね。
そうそう、でも演技なんですよ。
コミュニケーションってそういうものなんですよ。
スーパーマリオRPGで面白いなと僕思ったんですけど、
スーパーマリオたちが何か出来事があったのを伝えるときって、
言葉にしないんですよね、結構。
RPGなんで引き出しになってピロピロピロピロピロってやって、
セリフ出てくるんだけど、
スーパーマリオはすごいやっぱり現代的なので、
自分はこういう目にあったんだみたいなのを、
例えばマリオが急にクッパに負けて、
クッパに攻撃されているっていうシーンを見せて、
マリオはマリオに戻ってこういう風にやられて、
ピーチ姫がさらわれたみたいなのを、
全部実演して見せるんです。
コミュニケーションってそうじゃないですか。
これを結局は実演して伝えられるんだったら、
その方が早いっていうケースがたくさんありますよね。
私は親にこういう風に無視されて、
こういう風に辛いんですって言葉で説明してもいいんだけど、
言葉で説明するよりは、
やっぱり化けて実態で演じて伝えられるんだな、
その方がいいですよね。
そういう風に思う時があれば、
その人は親役もやり、
親が攻撃している役もやりっていうことになると、
自分があなた子供だとしましょうみたいな、
親に攻撃されるのがこんな感じだったらどう思います、
みたいなのを実際に演じてやるのが一番いいんで、
そうした時に反発したい気持ちになったら、
反発するっていうのは必要じゃないですか。
だからこれは自分が自分であるっていうのを、
時々やめなきゃいけないっていうのを含めて、
いろんなことがそこの中で進行していくんだと思うんですね。
これはすごい大事なんですよ。
だから何役でも一応できないといけないみたいな、
24:00
だけどそれを自分らしくやっていいみたいなね、
そういうのがあるんだと思うんですよね。
これが全部物思いと含まれていて、
自分が物思いにふけられると、相手が物思いにふけて、
私も物思いにふけてしまうんですよ。
気がつくと時間経つじゃないですか。
でもこの時間は有料なんで、
そういう時に複雑な思いがいろいろと交錯していくっていうのが、
まず一つ大事な、私にとっては一つのインパクトだったんです。
そうか、なるほどなと思って、
まず正式な人に話し聞かれるというのはどういうことなのかというのを、
その時自分はどんなことを考えるのかというのが、
拝見しに行った部分も大きいなと思いました。
これでまた人の話を聞くときに、
そうか、聞かれるとはこういう気分になる可能性があるんだな、
ぐらいのことはわかる気がします、少しはね。
これは結局すごく個人的な体験なんで、
本当は多分こういうところで喋るべきものでもないと思うんで、
とりあえず私はこういう職業なんで喋ってますけれども、
まあまあ普通はね、
パーソナルでプライベートなものだとは思います。
でも出せる限りにおいては、
出していったら何かの参考になるかもしれないなと思って、
喋ってみております。
もちろんこれ興味深いだけでいいってわけじゃないですからね、
だけではない、だけでいくにはちょっと高いです。
僕はお金がそんなに無いので、
お金がそんなに潤沢に資金がありますとかじゃないんで、
これはまたちょっと別途考えなきゃいけないことでありまして、
お金が続かなくなったらそもそも辞めなきゃならないから、
いろんな意味で考えなきゃいけないことはあるわけですね。
この話の流れの中にはないんだけど、
昨日、ラゾノさんとのTVを受けてきてですね、
特にやっぱり私が思ったというか、
その話の中でも、
ラゾノさんとのTVを受けてきてですね、
思ったというか、その話の中でも、
この話と関係ないんだけど関係ないわけじゃない話に、
クラゾノさんが言うところのですね、
怖い私っていうのが出てきたんですね。
この怖い私というのはつまり、
まあそうだなあ、
これ人によるんですよ、
まずどのぐらい怖いか。
もう一つは、その人その人にとってどういう時に
その怖い私がひどくか大活躍するか。
大活躍するシーンがやっぱりあるんですよね。
でもまあ、私が話を伺う限りにおいては、
例えばタスクシュートでも先送り関係のセミナーでも、
3ヶ月チャレンジでも、
やっぱり怖い私問題っていうのは、
非常にこう主流だなとは思います。
で、
そうですね、
僕はこの怖い私を何と呼ぶかっていうのを、
すごい最近、
27:00
いろいろ考えるようになったんですね。
私自身はやっぱりこの怖い私に一番振り回されて、
一番困っていたのは、
老人時代かな。
老人化後に降参、老人。
この辺がピークでしたね。
一番苦しんでた気がしますね。
これに苦しめられるということと、
最近、暮らどのさんのところでお話したときの、
ミドルクライスはちょっと違うんですよね。
この怖い私は重要な敗役なんだけど、
最大の敗役ではなかったんですよ、
あの時には。
この怖い私っていうのは、
僕は長寿がかなと思うんだけれども、
特にですね、苦手としていることを、
うまくやろうという無理な発想を取った時の、
長寿がの後方なんていうんですかね、
悪い暴走みたいな感じなんですよね。
これもですね、
どうせ人間にもあるものだから、
だからプラノンさんもグッドファイブスで、
この話出してくるんだと思うんですね。
一般論として話せる話なので、
あっちゃいけないとか言ってもダメなんですよ。
どうしようもないんですね。
私はこれ、
エンマ様っていう時が時々、
自分の中ではあるんですね。
エンマ様っていうのは要するに、
捌くことしかしない神様みたいに、
私たちの中でなっているんです。
本当は違うと思うんだけど、
大元をたどればね、
エンマ様って、
罪状を調べ上げるっていうフェーズがあるんですよね。
だいたい捌きの神なんで、
罪状が必要なわけですね。
あなたが生前に示唆した罪の全てを調べ上げる、
というわけですよ。
この段階ですでに、
科学的でも合理的でもなんでもないなって思うんですね。
何が言いたいかというと、
それが罪かどうかっていうのは、
受け止めた人によってエルライチが、
これを認識しないことは、
むしろ今の時代は不可能になりつつあると思うんですよね。
主観の問題だと言いたいのではないんですよ。
むしろそういうことよりも面倒な問題が今の時代はあって、
加害とかパワハラって言葉が出てきて以来ですね、
誰かが自分が、
辛い目にあったら、
それは全て誰かが加害しているんだ、
っていう考え方が出てきたんですね。
全ての人がそう考えているわけでは決してないんだけれども、
こう考えるっていうのはですね、
やっぱりその人の真性をすごくよく僕は表してしまっていると思うんですよね。
これにもっと私たちは同情的になるべきなんだけど、
その人たちが社会的に結構力強かったりすると、
同情している場合ではなかったりもするわけですよ。
30:01
抗議されているのに同情している場合じゃないわけですよ。
そこが難しいんですよね。
とにかく、
罪状を全て洗い上げるって言った時に、
加害しているつもりが全くなく、
事実上世の中で加害とみなされていないんだけれども、
私は被害者です、あなた加害者なんですよって言った時の、
この加害はそういう縁馬様の罪に
該当するんだろうかって考えただけでも、
罪を客観的に決められると思うのは、
僕は考え方として非常に緩い感じがするんですね。
まあやっぱり、
それこそ7000年前とかの人類が考えたことだから、
それにしてはよくできていると言ってもいいかもしれませんけれどもね。
ある意味ボノボチンパンジーの、
さらに進化した動物の考えた発想としては、
すごい発想ではあると思うんですよ。
つまり僕は、あれは完全にエディフスコンプレックスの、
原型に近いものだと思うんですよ。
大体父親っぽいしね。
縁馬様が女性像であるっていうのを見たことがないっていうだけでも、
すでに何かの偏見を感じてしまうわけですね。
だけど縁馬様なんですよ、私はやっぱり思う。
この私の中の罪状を全て洗い出すことができる存在、
というのは、
縁馬様ぐらいしかいないですよね。
つまり架空の存在ですよね。
現実の存在にそんなことができるはずはない。
現実の存在にそんなことができるはずはないと思うんですよ。
だって全人類の全罪をデータベース化できている人しか、
そういうことができないんですね。
それができる人いないでしょ。
例外が一人いるなと思うんですよ。
この例外は僕は例外になり得ないと思うんですけど、
自分なんですよね、これは。
自分しかいないと思う。
自分のやったことを全て知ってるなんてのは自分しかいないと思うんですよ。
これは罪の意識ってやつなんですよね。
だからさっき言った、
気がつかないところでしている加害は、
自分ではこれを罪とみなしてないなって気がするんですよ。
言われるまで気づかないでしょ、そんな話は。
ある種の話になってくると、
本当に明らかにそれは言いがかりでしょうっていう話が出てきうるわけですね。
例えば、
私が昔、エヴァノートの本を書きました。
例えばある読者さんが、
私はあの本を読んで感銘を受けてずっとエヴァノートを使っていたんですけど、
何ですか最近、レガシーがなくなったじゃないですか、
どうしてくれるんですか佐々木さんみたいになったら、
これは私加害者ですかって話になっちゃうじゃないですか。
こういうのも閻魔様は罪としてあげるだろうかって考えてみると、
どうなんでしょうね。
少なくとも私は、
この話をクレームとして持ってこられたことが実はあるんだけれども、
もしなかったとしたらですね、
死後これ思い出さないだろうな、
エヴァノートを書いたことが罪でした、罪みませんでした、
多分全く思わないだろうなって思うんですよね。
つまり加害というのはですね、
33:01
加害すなじ罪であるっていう話をする人もいらっしゃいますし、
そういう考え方もあるんですけど、
やっぱりあまりにも無理があるだろうとは思うんですよね。
気をつけなきゃいけないよっていうのが言いたいのはわからなくはないんだけれども、
ものにはやっぱり限界というものがあって、
そこをどこまでも広げていくっていうのはですね、
僕はすっごくエクストリームな思想を生み出す以上のものにはならないと思うんですよね。
そしてそれはすごいヤバいものを生み出してしまうだろうと、
やっぱ思うんですよ。
ポルポトでしたっけ、
大卒者以上は基本的には死刑みたいな、
これはどちらかというと、
大卒者以上は基本的には死刑みたいな、
これはどちらかというと、
世間脱出時に起きた事態なんで、
それでも大問題になったんだけれども、
世間脱出時に起きることって、
ちょっとやっぱりエクストリームな話になりやすいですよね。
ポルポトに言わせれば大卒者というのは罪人なのかもしれないんですけれども、
やっぱり非常に危険な発想だなって感じがするんですよ。
そういう、
何にも本人に罪の意識がないものを
罪だって言い出すっていうのは、
だけれども、
ここって本当にいわゆる革命時っていうのは普通にあることであって、
フランス革命ってそういうところありましたもんね。
やっぱり、贅沢は罪だって話をし始めたじゃないですか。
やっぱり、贅沢は罪だって話をし始めたじゃないですか。
あれは基本はそういうためにやったことでは多分なかったと思うんですけど、
世間脱出時にはそういう運動って起きちゃうんですよね。
だからそういう話でしかないんだけれども、
ちょいちょいやっぱり日本は平和だから、
そんな風にはならないはずなんだけれども、
やっぱりあれはものすごく貧乏な人たちがものすごく理不尽な目に遭うから、
そういう発想に訴えてでもみたいなところがあると思うんですよ。
どう考えても、
今の日本でそこまで行くとは思えないんですけれども、
課会は自分の気づいてないところでも
いっぱいしてるんだよってのは、
どう考えても本当に、
普通には行きづらい雰囲気しか出てこないだろうとは思いますね。
で、なんですよ。
この話をしたいわけでは全然全くなくてですね。
で、この怖い自分。
つまり怖い自分というのは、
ある意味では人に好かれるように努力しましょうみたいな
雰囲気を帯びてもいるんですけれども、
昨日そういう話も出たんですけれども、
怖い自分というのは、
これやっぱり僕は超自我だよなとは思うんですね。
精神分析の用語でもどれで言うんだって考えると超自我だよな。
どれで言ってもいいんだけど、
自分だってことだけは間違いないなと。
超自我って自我ですからね。
超がついてたって自我ですからね。
やっぱ自分ですよね。
つまり他人じゃないってことなんですよ。
閻魔様は外にはいないよってことですね。
そうじゃないとおかしいと思うんですよね。
36:01
なんで私のしたことを洗いざらい全部言えるんだと。
自分だって言えないのにね。
例えばゼロ歳児にした罪ってなんだよって話なんですよね。
おっぱい噛みましたとかあるのかもしれないけど、
知らんがなって感じがするじゃないですか。
それを書き留めてありますなんていうのは当然デタラメであって、
記憶してすらいませんよ。
でも自分のしたことを全部知ってるというのは、
まずどう考えても自分だろうと。
それが神になってる。
ここが閻魔様は神なんだと僕は思うんですけど、
これも昨日のTVの中で出てきた話なんですけど、
すごい大事なポイントだと思うんですね。
だから私は客観と人が言い出したときは、
非常に注意して聞くんですね。
人が客観と言ったときは、
私じゃないものがその認定ができるって言ってるんですよ。
例えば私が悪いことをしたのは客観的に間違いない
みたいな言葉が出てきたとき、
非常に大事なことを聞いた気がするんですね。
それはリアルについての話ではないんですよ。
その人の心の中で起こっている何かについて
喋っていらっしゃる。
私はこれを絶対に許せないこととして、
自分の行為として認識しているんですっていう表現なんですね。
客観というものが、
私が悪いことをしたとか、
私が罪悪を犯したのは客観的な事実だみたいな、
あるいはもうちょっとマイルドに、
みんなが私のことを迷惑がってるのは、
どうも客観的に見てそうだと思う、
みたいな言い方が起きたときには、
すごい大事なポイントなんだと思うんですね。
まず絶対それはあり得ないことだし、
例えば私がそれを聞いてても、
ただそういうことが起こるんですね。
そうすると私という人間が見ているこの目線に客観はないことになっちゃうんですよね、
その人にとって。
佐々木は客観ではないみたいな、
それって非常に微妙じゃないですか。
なぜ私の観点だけはいきなり、
他の人たちは客観という地位を保てているのに、
私の目線だけは客観に準ずるものみたいなところに
落としめられたのはなぜなんだっていう、
これを目の前で聞いてるからとか、
ある程度親しいからとか、
いろんなことが言えると思うんですけど、
でも客観といったときにやっぱり私は、
やや哲学的で申し訳ないかもしれないけど、
神って感じがするんですよね。
つまりよくやってたじゃないですか、
我を思う上に我ありの人ですよ、
あの時代に一生懸命やってましたよね、
誰が見てもあるのわかるよねって、
これは客観ってことですよね。
私の罪も客観ですって言ったときには、
害罪するよってことになってしまうんですよね。
害罪しないでしょ。
非常にそこの認定も難しいですよね。
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裁判ってものを見てるとよくわかりますよね。
多くの人がすぐに非常に簡単に断罪しがちなところに、
あいつすごい悪いよねみたいな、
結論になってないみたいな話ってすぐ起こるじゃないですか。
でもあれは今までの事例と一生懸命照らし合わせたり、
いろんなことを勘案すると、
結局そんな簡単に結論が出せないから、
ああなってるわけですよね。
つまりそこにすごく簡単に結論を出すべきだというのは、
処罰欲求があるってことですよね。
そしてその処罰欲求がこともあろう、
自分自身に向いている。
客観的に私は悪いことをしているとか、
客観的に私は迷惑をかけているっていう表現を取った時には、
強く私を罰したい私が心の中にいますっていう、
ある意味、
カミングアウトだと、
私は思うんですよ。
カミングアウトというほどではないのかもしれない。
ここがすっごい不思議なんですよね。
普通に考えれば、
自分で自分を罰したい人はいないはずなんですよ。
何なのかとこれを。
これはやっぱり私は、
エンマ様と自分が同一化していきたいという気持ちの表れだとしか思えない。
この人たちはセットなんだと思うんですよ。
クラゾナさんの言う怖い私っていうのは、
怖い私に私はなりたいっていう気持ち。
怖い私になりたい、
そして怖い私としてダメな私を罰したいという気持ちがセットなんですよね。
私はこれはすごく脅迫的な感じもするし、
超自我的な感じもするんだけど、
この怖い私というのが、
いとも簡単に理想の私になってしまうんですよ。
エンマ様が理想かって話になってくると非常に不思議なんだけど、
でもそういうことなんですよね。
例えばテストの点とかだと分かりやすいんですよね。
100点を取る私でいたい。
100点を取る私は、
ものすごく怖い私のはずなんですよね。
ムチ打ちで叩き直したいぐらいに思ってると思うんですよ。
で、こうして怖い私がダメな私を
ムチでビシビシ打つわけですね。
心の中でですけどね。
そうすると欲打症状というものが、
僕は絶対少なくとも欲打的になるぐらいは避けようがないでしょうと思うんですよ。
シュンとなる。
そのぐらいはもう絶対避けられない。
そして非常におかしな話なんですけども、
シュンとなる、元気がなくなる、
勉強しなくなるってセットじゃないかなと思うんですよ。
ここが面白いですよね。
理想の私は100点を取らなきゃいけないはずなんだけども、
30点を取りました。ひどい自分だと。
中から見て70点も低いと。
どうしようもないと。ムチで打とうと。
で、打つと100点が遠ざかると思うんですよね。
認識できたと仮にしても、だからと言って、
怖い私を無力化し、
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元気になって勉強してみたいにはならないんですよね。
まずその前に100点というものには
何の価値もないっていうところに行き着かなければならない。
少なくとも100点でも30点でも同じですという話に
行かなければならなくなるんですよ。
この閻魔様が力を失うというのはまさにそういうことなんで、
やりたくもない勉強をしなきゃいいじゃんってことを
受け入れなきゃならない。
だから30点というのがひどいんだ、ダメなんだ、
ムチ打ちなんだって思わないで済ませるようにするためには、
というか思わないで済ませるようにしてほしいという風に
願うわけですけれども、そういう風に願うためには
100点に価値がないっていうのを
受け入れなきゃならないわけですね。
この辺の話は全部セットですよね。
いつも出てきている話ばっかりです。
私からアプローチしても全く差し支えはないと僕は思うんだけれども、
この怖い私からアプローチするときには、
やっぱり必ずこの怖い私というのは
私であり私の中にある神なんですよ。
神かそれに準ずる存在ですね。
そしてこの神様は私について
全知全能であり、
処罰感情に満ち溢れやすい。
これがそれほど処罰感情に満ち溢れないケースもあります。
例えば比較的簡単に100点取りまくることができる人とかは、
ここがそんなに怖くなる必要がないですからね。
つまりソフィス意味で
社会的合成というものがすごくここが問われてしまうんですよ。
残念ながら。
不公平かもしれないんだけれども、
勉強得意なこと、そうでないことではですね、
怖い私の暗躍度はだいぶ違うんですね。
そしてまた、勉強得意不得意っていうのは
学校の難度にもよって大きく変わるんで、
比較的優しい、だからですね、
だから恵まれている子が比較的この怖い私に
ひどい目に遭わずに住むので罪悪感がなく、
比較的接しやすい人になりやすいというのは、
残念ながらあり得ることなんですよ。
例えば家が裕福で
そんなに難しい新学校に行かずに住み、
でも私立受験はできるという程度に頭が良くてみたいな子は、
性格がマイルドになっても不思議はないじゃないですか。
だってその学校で100点取りまくるって
別に難しいことじゃないんでね、そのぐらいの子にとってみれば。
この子多分もっとすげえ頑張れば、
それこそ5,3系みたいなところ行けるんだけど、
そうすると怖い私が伸びなきゃなんなくなるわけですよ。
ここ行くとひどい点取ることになりますからね。
この程度のからくりなんだけれども、
この程度のからくりがですね、
特に仕事なんかしてると出てきますよね。
仕事で迷惑をかけていると。
人はこの仕事をちゃんとやらないと、
最近の小林製薬みたいな話の時にこういうのが暗躍すると
私は思うんですよね。
こういう風になってくるとテストで100点ぐらいでは
済まない感じがするんでね。
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その感じをさせるのもやっぱり同じなんですよね。
絶対あそこに閻魔様っぽい言動って出てきますもん。
二度と許してはならないとか、
許されざることだとか、
全て何かこう、閻魔様的なものがあるじゃないですか。
なんて言うんだろうな。
あなたはいつからそれほどの権力を持ちましたかっていう
雰囲気の発言が飛び出すんですよね。
舌を引っこ抜いてもいいぐらいに
言っちゃいかねないところがあるわけです。
そういうことは許されてないですよね。
神じゃないんです。
ただその人の心の中にある何かすごく
絶大なものなんですよね。
そしてこの絶大なものが絶大な権力を
発揮して捌いていい相手って
自分自身だけなんですよ。
例外ないんですよね。
時々僕はこの話をある種のやり取りの中で聞いて
非常に驚かされるんですよ。
ラブルスタンダードを取ってしまうんですね。
客観という言葉が出てきておきながら
ラブルスタンダードは平気でできて
例外は唯一、ただ私にだけ罰を与える上で
いくらやってもいいんだっていうね。
これはね、聞き様によっては冗談みたいなんですけれども
あるいはものすごくただ謙虚な発言をしているだけ
みたいに聞こえる時もあるんですけれども
やっぱりですね、これが結構威力を発揮するんだなと。
あんまり私はこの例を持ち出したくないんですけど
やっぱりこの話、一番僕が実感として湧くのは
うつぱんという漫画ですね。
あの人はずっと
縁馬様に小突き回され続けています。
あの漫画の中ではね。
ひたすらひたすら縁馬様だなと。
でもあれを緩めている最後、唯一救いが出てきているのが
お母さんが優しかったって話なんで。
ここ母子だなっていうのがね。
この母子っていうのもあんまり出したくないんですよ。
やっぱり母親神話みたいに今
批判の対象になっているところもあるんで。
あれはお父さんじゃダメなのかというと
お父さんでも全然いいんですよ。
それはお姉ちゃんだって構わない。
でもあれは母親であるケースは多いとは言えるでしょうね。
っていうのと
あれぐらいもう見えなくなってきていると
縁馬様絶対みたいになっちゃっていると
なんていうんですかね。
記念料ってあの本の中でも
いっぱい出てきていますけれども
そこじゃないなって思うんですよね。
そういうことを平気で言えるのは
要するに縁馬様が幼いからなんですよ。
漫画みたいじゃないですか。
死刑って言ってる漫画ありましたよね。
似てますよね。
神だからそんなことが許されるっていうのは
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非常に対抗というものが進んでいるわけですよね。
この辺の話になってくると
つまり
所詮縁馬様はお父さんなんですよ。
そこまでいけるとですね
だんだん縁馬様って要するに自分なんだなと
自分父親になり得ますからね。
自分神様になることは絶対できないけど
父親にはなれますからね。
こういう風になっているっていうのが
対抗というものが
実際はすごく
ちゃんとした社会的なものには思えないにもかかわらず
ひどく社会的な意味を帯びているっていうのが
ここにあるひとつの変な矛盾なんでしょうね。
そんな気がします。
いきなり社会の、例えば社内プレゼンのミスを
神が裁くっておかしいじゃないですか。
だけれども我々は心の中ではそういうことをやりがちだと。
なるべくここを人間にして
なるべくここを父親だという風に持ってって
なるべくここを自分だという風に近づけていければ
この問題は
多分
かなりの程度整理がつく。
あとはそれこそGood Vibesにでもセッション受けに行くとかで
いいんですよ。
ここら辺の整理をある程度つけていきながら
その種の
サポートを得るっていうのが
一番僕は王道な感じが最近しています。
これについて
客観客観言っているときほど
主観性が進行していることはないので
客観性というものがないということを
理解するというか実感するために
他者っていうものは有効なんですね。
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