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2025-01-30 42:27

自分の「意外な」ニードを「発見」するために【1129】

心理士とか師とかにつなぐというのはとても難しいものなのです。
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おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1129回をお送りします。
1月30日ですね。1月30日木曜日、7時43分。少し遅くはなりましたが、まあまあ、勝手に精神分析的言うとすると…。
13分遅刻って、なんかいい感じですよね。遅刻に意味がありそうじゃないですか。ないんですけど。
トイレ行ってただけなんですが、13分の遅刻とかって、意味を持ち出しそうです。トイレに意味を見出そうとしますからね、精神分析って。
当然、遅刻には意味を見出すわけですけど、誰も待ってませんからね。
まあ、遊びなんで。とりあえず、今週はこれで遊べてきたかなというふうには思っています。
3ヶ月チャレンジのですね、2月1日から開始する第9期の3ヶ月チャレンジで、
これからですね、この放送でも時々はノートみたいなところ、Xでもいいんですが、いろいろと確信していこうかなとは思っておりまして、
3ヶ月チャレンジってこういうところなんだというのがお伝えできればいいかなと。
もう私の中で心理療法ではまるでないというのは確信できたんですよ。
最近ちょっとですね、心理療法界隈というべきなのか何なのかわかりませんが、心理臨床界隈というべきなのか、
なんかエアリップが改めて話題になってて、さすが心理師の方々だけあって、
エアリップについてこんなに心理的に、私はとても面白いと思って読んでしまうんだけど、
でも取り扱い方がマニアックすぎて、心理臨床の人じゃないとここまで考えようという、なかなかモチベーションが湧かないんじゃないかなと。
わかんないですけどね、そんなことはね。
でも面白いけど、心理臨床の人々の、私はそういうことをやってますから、
何をやってるか、心理臨床の人たちばかりを集めたリストを作っては、
なんか結構同じような話題にちゃんと沸騰していくところが、まあ界隈を追うってそういうことなのかもしれないけど、
すごいこうなんて言えばいいのかわかりませんが、職業が物の見方を作り出すというべきなのか、
同じようなものの見方をしている人が同じような職業について行かれるということなのか、そんなことを考えてしまいましたね。
つまり別にだからなんだってわけじゃなくて、単なる僕の趣味なんですが、
03:03
エアリップというもの一つとってもこうできるのかと。
ライフワーク界隈ならきっと違う話になっていくだろうなとは思いますね。
どういう話になっていくかとかわかんないですけど、
同じようにはならないというのだけは、同じような言葉を使わないですからね、やっぱりね。
そういうこともあります。
今の話が果たして聞いていらした方に面白かったかどうかは、なかなかわからないんですけどね。
あともう一つ、ついでにと言っちゃなんですけど、そのおかげでここが大事なんですよね。
そうやってエアリップで心理臨床界隈の人がワーッと集まって来られるんですよ。
不思議なことにね、僕からすると。
するとそこで心理臨床界隈という人たちのXのアカウントがどんどん集まるから、僕がどんどんリストを拡充していけるというね。
ほぼこのためにこういうことをやってるんじゃないかというぐらいなんですけれども、
フォローしなくてもリストって追加できるんですよ。
リストにどんどん臨床心理師、公認心理師ってスラッシュで入れてる方とか、
こなれた方になってくると死死っていうね、医師の死と侍をスラッシュでつなぐだけで、
あ、心理師ねっていうことがね、あるんで、それは僕の心理師リストにコレクトされていくという、
すごい、なんて言えばいいのかな、迷惑多いんじゃないと思うんですよ、別にね。
そういうことをライフカークリストとか作っていらして、公営にも私をそこに入れてくださってる方も何名もいらっしゃるんで、
別に僕のフォローとかしてくれなくたって、もうこれはフォローと同じじゃないですか。
フォローより良いと思うんですよ。
フォローするということが分からずにその人のアカウントを追えるという意味で、
まあね、Xとかツイッターとか使用すぐ変えるんで、そういうのが一気に機能しなくなったりするんですけれども時々、
それはそれでいいですよね。そしたらもうそんなリストは諦めて、見なくなればそれでいい話なんで。
デジタルというのは本当こういうところが楽で、これがリアルなボックスとか作っちゃうと、
そこの箱に埃がどんどん溜まるばかりでですね、本当に勘弁してほしいことになっちゃうわけですよね。
デジタルなんで別に放置しておいてもなんてことはないというね、そこが非常にデジタルの素晴らしいところだと、
まあ私は思うんですけど。
まあでもこのね、決して心理師リストだけ僕は持ってるわけじゃないんだけど、
僕がほとんどXで見てるのはこの心理師リストだけだなと最近なってきてるんで、
もう心理師の人がうわーっと入っていて、全然その中にはね、もうポストされてない方も当然いらっしゃるわけですけど、
まあ面白いわけですよ。僕はね、何が僕はしたいんでしょうねっていう気もしますけれども、
多分こういうので、例えばこうなんていうのかな、緊縮財政派のリストを作ってみたり、
あるいはこうなんでもいいんですよね、そういうものを作っている方は当然いらっしゃると思うんですけど、
06:04
私のやっぱり読んでいて唯一面白いのが心理師リスト。
あとはもうロッテファンリストなんで、はっきり言って。
ロッテファンなんて僕のXが勝手に解析してくれるんで、おすすめを見てるとロッテの話ばっかり出てくるんで、
別にロッテリストとか作る必要すらないというね、
狼鬼が言って残念だっていうのがうわーっと僕のところには並ぶという、当然なんですよ。
最近は佐々木狼鬼選手にもみんな目線が暖かくなってきて、
そして今年はなんかビッグボスのファイターズが強いんじゃないかなという懸念が何となくそこはかとなく伝わってきて、
僕の懸念と非常に共有されているわけですけど。
全然本題に入れないですね。本題に入りましょう。
3ヶ月チャレンジは2月1日からスタートするわけですけど、
何度も何度も飽きるほど申し上げている通り、
ここでやってることってつまり、何となくお話しいただいていることを何となく私が一生懸命聞いて、
そして頭の中に、要するに僕の中に起こった自由連想の中で差し支えないものをフィードバックしていくということを繰り返す。
そしてテーマの主軸はあくまでも参加者さんの不安なり、お悩みなり、何にもなければ適当な話題なり。
それをなるべく私は精神分析的な、放っておいてもそうなるんだけど、精神分析的な文脈という文脈というかモードですね。
精神分析的なモードに自分をしておいて聞くということをやるわけですね。
そして自然とそうすると戻っていくフィードバックが精神分析の話題でなくても精神分析的なモードでするテーマに絞られていき、
そうする中で、物事を進展させるような観点が見つかりやすくなるような気がいたします。
あんまり嫌な思いをせずっていうことですね。
そんな感じで何のPRになったのか微妙な感じですけど、
具体的に言いますと、昨日ですね、藤山直樹さんの精神分析という営みについての話が出たんですよ、ある方から。
これはもう決して珍しいことではなくて、だからこの界隈では藤山直樹さんは超メジャーになっているという、超メジャーしても小さな小さな集団なので、
本の売り益とかにプラスにどの程度なっているのか、一応だいたい買うことになるんですよ。
買ってねとは言ってないんです。高いんで、高くないだろうって言われるかもしれませんが、本の値段としてやっぱり安くはないんで、買ってねとは言えないんですよ。
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この物にはやっぱりなんかあるじゃないですか、その物にまとわりつく値段ってしょうがないと思うんですよね。
例えばiPhoneとかiPadとかは高いんですよ。でもそれはなんかこうタブレットの値段とはまたiPadの値段は違うんですよね。
そういう、まあこれは経済学ではなんかありましたけど、そういうことってありまして、僕なるべく外して考えたいと思うけど、やっぱ本はですね、満単位しちゃいけないものなんですよ。
本は先端位で、その先端位でも真ん中よりは下でないとすごく高く見えるんですよ。そういうもんですよね。
やっぱどんなに物価が高くなったって言ったって、やっぱり缶ジュースの値段が1匹とか700円とかしたら、それはちょっとぼったくり装置だよねみたいな感じがするじゃないですか。そういうことですよ。
でもまあ心理臨床界隈のそれこそ本はですね、安くはないんで、これはもう高い値段を張ってでも買うということはですね、それだけものすごく興味を持ってるかあるいはものすごく困ってるということでもあるんですよ。
まあ両方同時に進行していくという気もするんですけどね。その藤山さんの本の中のある症例の話がテーマに上がった時にですね、つまりこういうことを3ヶ月チャレンジではやるわけですね。
3ヶ月チャレンジでその話その種の話が出るということは、もう自分の話をしているということなんですよ。これは。それを心理臨床だというわけではないんだけれども、ご自分の話をされているんですよ。
だって少なくとも本を読んだという体験自体はご自分の体験じゃないですか。で、ここで正解を探す必要が一切ないっていうのがとてもとても意味があると私は思うんですね。
まずですね、我々の脅迫的な部分は正解を喋ってないとダメだろうって思いがちなんですよ。これ一つとっても話題に取り上げる価値があると思うんですね。
つまり失敗ってのは絶対するものなんだけど、その失敗せずに生きていきたいと思う人もいるわけですよ。それが脅迫的なものになっていくと僕は思うんだけど、いずれにしても人前で渋滞を晒したくないという思いが、これは自然な思いですよ。
大事なのは人前で渋滞を一生晒してはならないにこれがなると、ほぼ不可能な願いになりますよね。つまり現実見当を欠いていると感じられるわけですよ。
例えば渋滞を人前で晒したらぐらいなら死んだ方がマシだってなると、少なくとも現代の日本ではこれはもう現実的ではない願いになっていくわけですね。
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そういうところにスティグマ的なものが現れてくるじゃないですか。渋滞を晒してるのにあいつ生きてるみたい。だから私は渋滞を晒して生きていたいと思うんですよ。
これは渋滞を晒してでも生きていたいではないんですよ。渋滞を晒すということに対して、何て言うのかな、何も感じずにというのは無理だけど、必要、何て言うのかな、草木のようにって言ったらいいのかな。
とにかく渋滞を晒しても欲打つ状態にならないとか、渋滞を晒してもいつまでもPSポジションには留め置かれないとか、そういうふうにして生きていけるはずだと思ってるわけですね。
幸いなことにと言いますか、私は簡単に渋滞を晒してしまう人間じゃないですか。これがある意味、ミニコットの言うところの失敗に相当するだろうと思う。だから私はできれば、よりによってする失敗をしたいんですよね。
すげーあいつ、なんか俺だったらいたたまれないという激しい共感性周知を醸し出したいわけですよ。それなのにあいつは生きてるっていうこれなんですよね。これが生き延びるってことに私は定食していくと思うんですよ。
あえてやることに僕の仕事上は近いんだけど、一種僕の仕事だなって思うんですよね。本当はあいつなってないよねみたいな。でもなんか死んでないよねみたいな。そうすることによって、渋滞を晒しても大丈夫なんだっていう感じを抱けるじゃないですか。
さすがに絶滅の恐怖とかはないと思うんですよ。破綻恐怖とか、渋滞を晒すぐらいは。でもなんかね、結構致命的だって感じちゃう人は結構いらっしゃるんですよ。そうだったらいたたまれない、それじゃもうとても生きていけないみたいに思っちゃう。
この例を挙げるとするとですね。例えば幼稚園の時にお漏らししちゃったと。僕もしちゃったんですけど、これを覚えてる子が何人か周りにいたとして、僕が生徒会長とかになったとするじゃないですか。生徒会長になったことはないけど、学年計画委員、副委員長とかになったことがあるんですよ。
その時に、あいつ幼稚園の時お漏らししたくせに、みたいな感じって持つ子っているんですよ。こういう感じなんですよ。でもなんかシレッドっていうのかな。全然抑圧的にならず堂々とやってられるみたいな。これを私は体現したいんですよ。
お漏らししまくりたいってことですよ。要するに簡単に言うと。でも偉そうに仕事してられるっていうのかな。堂々と仕事してられる。ここを壮的にやらずに抑圧的にもならずに普通にやっていけるようになるっていうのが僕の仕事にある程度求められてることかなと思うんですね。
15:13
なんかねここをすごく割と私は、だから専門家が見るとめっちゃ恥ずかしいことをここで、しかも自分では全然恥ずかしいと思わずにここ大事なんですよ。防衛的になりながらやるんではなくて、全然自分はちゃんとまともなことやってるよねってその方が恥ずかしいじゃないですか。
全然自分はまともなことをやってるよねと。なんならちょっといい気持ちになっちゃってるよねっていう時、これを言ってるってことはまだダメなんですよね。もうこういうことに意識が回らないぐらいトクトクとやっていて、ものすごくひどいこと、ものすごく馬鹿げたことを喋っているっていう状態をこの番組では実現したいんですよ。実演したいんです。
そうすることによって、もう本当に正規の人から見たら、もう全然わかってないよあいつっていう状態でも生きていける、食ってもいける、仕事もできる、ビジネスも続けられる。
これを見せたい。そうすると皆さんがもっと安心して仕事をすることができると思うんです。特に脅迫的な気持ちになっている人の場合は。そこで頑張って想的にならずに、想的になっちゃうとどうしても理想を打つっていう問題に引っかかってくると思いますし、そこで怒りを持ってしまうとやっぱり自分が傷つくんで、
その怒りって多分出しどころないんですよね。出しどころのない怒りってやっぱり自分を傷つけるより他なくなると思うんですよ。あるいはそういう目に遭いたくないと思うから何もできなくなっていく。この脅迫的なところの嫌なところって、一つそれによって警戒をすると、もう元の自分ではないんですよ。
昨日、新城ビッグボスが似たようなことを言っていて面白いなと思ったんですよ。野球選手っていうのは、感じてたかな?ちょっとね、趣旨しか覚えてないですけど、失敗というものを怖がるようになると、元には戻れなくなるんだっていう、あれはやっぱり彼は選手としてすごかったですから、すごい選手でしたから、よっぽどこういうことを気をつけてたんだろうなっていうのは感じたんですよね。
そういうことになるんですよ。失敗を恐れて一歩、手を打ってしまうと、最初に手を打った時の自分ではもうないんですよ。手を打った上に失敗を恐れている自分というものに、一段階前へ進んでしまうんですよ。
これが僕は、人を物を欠けなくさせる原因だし、新城監督はスランプとは言い言葉を使っていなかったんだけど、言ってることはほとんどスランプに近い。元に戻ろうとしちゃいけないんだっていうのを、彼はすっごい繰り返し言っていて、新しい選手になるんだっていうことを言ってて、これは本当にね、あの人らしいなって感じがしたんですよ。
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元に戻るというのって、なんて言えばいいんですかね、この脅迫的なものって本当に嫌なところがありまして、例えばですね、私が鍵を落として失敗したと妻がすごい言ってきたということがあったとするじゃないですか。あったんですけど、かつてね。
だから鍵にエアタグをつけました。この瞬間に僕は、鍵を落とすことを心配する佐々木翔吾から、鍵を落とすことを心配してエアタグをつけた佐々木翔吾に一段と深みにはまるんですよ。こうやって一歩一歩一歩一歩自分を追い込んでいくんですよ。だから私はこの種のことをもうしないことにしてるんですね。
鍵を落とすことを心配しているのに比べて、エアタグをつけてなお鍵のことを心配している私は一段と苦しんでるんですよ。で、この道は同じじゃないし元に戻るのも非常に難しいんですよ。
エアタグを外せばいいんだけど、この場合は。これを心理的に進めてしまうと、そう簡単には元に戻れないんですよね。だからこの種のことっていうのは同じじゃない。変わっていくんですよ。実現していくじゃないですか。現実を変えていきますよね。鍵にエアタグがついてる時というのは、ついてない時の現実は違うんですよ。
こうして自分の現実を一つ一つ自分の心配によって実現していくことによって独特の自己実現ですよね。現実がだんだんだんだん心配性の自分によって作られた環境に変化していく。これは私はすごく嫌だなと思ってるんですよね。
かつてそれをやったんで、今はとことん剥ぎ取っていて、剥ぎ取るようになってどんだけ自分が息苦しい世界に住んでいたかということに気づいたんですよ。その過程で病気がだんだん治っていくという、本当に恐ろしいんで、勘弁してくれって思うようになったんですよね。
今思うとなんですけど、今思うと母は勇敢を見ては、日本では生後用の何かを作ってくださったわけですよ。おかげで僕はどんどんどんどん病気になっていくんですよ。
ミュウヘハウゼン症候群にちょっと近いホラフキダンシャクってやつね。あれは要するにかなりあれで、子供にある意味毒を手に投入して、病気になったかわいそうにって言って一生懸命看病して、そのことに自覚すらなくなっていくという精神病なんですけど、
それまでは言ってないけど、結局のところヨーグルトが肌に良いとか、寒風摩擦が喘息に良いとかやってるしに、僕は喘息になったりアトピーになったりしなければならなかったわけですよ。そういう意図はないですよ、もちろんお互いね。お互い治そうとしてるとだけ思ってるんだけど、でも確実に言えることは、これらのことを一切やめ、母から離れたところに住んでみたら、喘息は止まったってことなんですよ。
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こういうことってあるんで、私は脅迫的であるということは、人を無傷では置かないぞっていうのはですね、体験してきたはずなんだけど私はよく分かってなかったんですよね、これがね。ほこりが減ったから自分全足治ったんじゃんぐらいに思うというね、ほこりなんて減っちゃいないんですよ、はっきり言って。
別にうちは寺だったし、掃除してくれるお手伝いさんも、お手伝いさんって当時呼んでたんですけどね、2人もいて、しかも母もいてだったから、そんなに汚かったわけでは全然ないわけですよね。
まあでも、大学病院では血液をいっぱい取って、ダニがいっぱいいますみたいなわけわかんないことを言って、母が激怒してましたけど、でも僕はそれでバルサンたきまくったりして、いよいよ皮膚とか喘息を悪化させたりしてたわけですよ。面白いじゃないですか、面白くないか。
まあ面白い話ですよ、はっきり言ってでもね。精神だけが動いてるわけではないんですよ。現実を動かしてしまうんですよね。それで、話が少しだけずれるんですけど、だから藤山直樹さんの話はずれてないね。
精神分析という営みという本なんですけどね。ここに出てくるお話がありまして、非常に不思議な話なんですけど、小動物みたいな表現をとる。でも藤山さんは小動物って結構連想するんだなっていう、セロリをかじるモルモットみたいな表現も出てくるんだけど、
小動物が穴に入っていて、包み込まれているっていう感じがこの人は欲しいんだって、そういうニードを持っているって話が出てきて、私も全く同じニードを持ってきたんですよ。私も小動物のように包み込まれたかったんですよ、20代の時。
わかります?小動物のように包み込まれたかったんだっていうのはニードなんですよ。本人はそうだとわかってないんですね。わかってなかったんですよ、その患者さんについて。その話が出た時に私の頭によぎったのは自分の20代なんですよ。この話はその3ヶ月チャレンジのその時はしませんでしたけど、でもよぎったんですよ。このよぎるってのが大事なんですよね。一瞬よぎったんですよ。でも一瞬よぎったことは後で思い出したんですよね。
それは藤山さんがよく小動物という例えを出してくるからなんだと思うんですよ。身を寄せ合うようにして潜り込む小動物。私はそういうニードを持ってたんですよ。やっぱりね、母は少し私を突き放すようなところがあったんだと思うんですよね。
でも私はそれが全然理解できなかったんで、私のニードに包み込まれたい小動物のようなニードがあったんでしょうけれども、それは私が20代の時には女の子とセックス次第に変換されてしまうんですよ。
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このニーズは嘘ではないけれどもニーズですよね。ニーズとしてはこうなるんですよ。ニードはもっとわけわかんないものですよ。小動物的ニードなんですよ。ニーズがセックスなんですよ。でもこれってかけ離れちゃってるじゃないですか。かけ離れちゃってるんですよね。
女の子と肌を合わせればこのニードがいくらかは満たされる感じがするんですけど、包み込まれるには程遠い感じもするんですよ。で、結局のところ自分わかっていなかったからここがすごく難しいんですよ。わかったのはいつかと。いつわかるんだそれ。このニードっていう言葉を知ったのでさえもう40代ですからね。
で、その時にはすでに妻もおり子もいて、まあ後の祭りじゃないですか。後の祭りっていうのはこの場合正しくないか。でも後の祭りじゃないですか。気がついたら妻もいて子もいるんですよ。あれ俺のニードは?っていう話ですよね。
で、包み込まれたかったのは土に包み込まれたかったわけではさすがにないと思うんですね。母になんですよ。で、母親を見るともうニードとニーズと言っても、あの言葉がは?は?っていう風になっちゃってるおばあちゃんが目の前にいるだけなんですよ。だから人生って何て言えばいいのか難しいですね。
っていうことなんですよ。あ、そうか。20代の時にこのニードに気づいたからといってもぐらになるわけにいかないし、あの母に包み込んでもらうわけにもいかないんですが、でも発想を変えることはできますよ。
少なくともじゃあ大学のサークルに入って女の子と仲良くなろうっていうこの路線はあらゆる意味で間違ってるわけです。しかも私はその時に彼女はできないしセックスもできなかったからなんか絶望的な気分になっていくわけですよ。ものすごいなんか自分が安定のかな。これも間違ってはいないんだけど排除されてる気がするんですね。
で、よくこれは松木邦博さんが書くんですけど、人々が世の中の人が当然のように手に入れているものを自分だけがそこから隔たれたり、それが手に入らないように生きさせられているという苦しみっていう、これはいい表現で私もそう思ってたんですよ。でもそれはみんなが彼女がいるのに自分だけはいないという苦しみに変換されてたんですよ。こういう表現になってた。
嘘ではないんだけど嘘だよね。だから小動物だったらみんな穴の中に潜ったりして包み込まれているわけですよ。ああ幸せだと。まあそれは幸せなのかどうか知りませんがまあまあ一応幸せだと。
自分だけはどういうわけか穴の外にいて寒いみたいなそういう感じ。こういうニードがあったとしてそれは土の中に潜ったらいいじゃないですか。まあそういうわけにいかないんだけどこれは冗長的な話だ。でもまあ少なくとも彼女とかは必要ないんですよ。この意味ではね。
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だけどみんなはみんなはそういうものを手に入れているのに自分だけが手に入れてない。ひもてって言葉、当時はそういう言葉も知りませんでしたけどに変換しちゃうんですよ。こうして検討違いのニーズを自分が持ってしまい、検討違いのニーズを提供されて、つまりもう暑くてもう太ってほしいんだけどなって言ったらミルクが出てきちゃうわけですよ。
ミルクでもいいかみたいに赤ちゃんはそう思うかどうかは知りませんけど、ミルク飲んでいって大きくなって太っていき、なんかすまんだみたいになっていくっていう赤ちゃんはいるのかなっていうことをこの伊兵衛さんが書いてるんだけどいるんじゃないかなって私も思うわけ。
つまり自分のニードがはっきりわからないときにそれっぽいニーズが提供されて、そういうニーズで自分の欲望をごまかし続けているとものすごくすじ違いな欲求不満。私の場合これが性的欲求不満だと完全に勘違いしていたんだけどすっごいすじ違いなわけですよ。
全然違うものが必要だったのにそれをひたすら求めて頑張るみたいな。でもまあそれでによって人生を一応回してたから後から考えればそれはそれでいいんじゃないのってことになるんだけど、ただすっごい何て言えばいいんですかね、大きな誤解をしている人生というものを長い年月進めていたんですよね。
多分その軌道を修正したりするために精神分析っていうようなものが出てくるんでしょうね。だからあれは長い年月を要するんですよ。だって長い年月かけて間違ってきた道をある意味戻っていくような過程だから、ほとんど同数の年月が必要だったりしてもそんなに不思議な話ではないんですよね。
そういったことが全て精神分析について話をし合っていくっていうことの中に含まれていくと思うんですね。それを私はある程度黙論でもいるということでもあるわけです。
Xの話がさっき出たついでに、これも心理リスト界隈で話題に上がっていたんですけどね。この方のポスト好きなんですけど、精神科医の方が、要するに自傷カウンセラーは覚悟が足りるみたいなことを書いてたんで、
覚悟足りないって言われても、僕自傷カウンセラーじゃないけどねっていう感じなんだけど、覚悟をしたからといって、覚悟すれば足りる話なんだろうかって、大体自分がユーザーですからね、私はどっちかっていうとね、カウンセラーの。
いや正規の人に覚悟とか決められても困るしなっていう、俺の一言によって人生が変わるっていう覚悟を俺は持ってやってるぞみたいな、いやそんな覚悟を持つよりも、もっと普通にやってくれよっていう感じが、だからこれは重度によるのかもしれませんけれども、別にそんなすげえ覚悟とかをして、いや嫌じゃないですか。
30:19
やっぱりこれからね、私なんかどうしても歯医者さんと企画しちゃうわけですよ、歯医者さんと企画して、いや覚悟を持ってやってるからって言われても、いや覚悟を持たないでいいから痛くしないでくださいみたいになるじゃないですか、そんな覚悟とか欲しくないよっていう感じが私なんかはするんですけどね、あんまり自分のケアをしてくれる専門家に覚悟とかを持ってやってほしくないなって思いますけど、覚悟じゃなくて確実にやってくださいみたいな。
そういうふうに思うんですけど、その自傷カウンセラーと言ってもこの問題難しくて、それで良くなる人もいるし、その人だって苦しんできたんだろうしね、みたいなこと書いて、ただ本当に医療が必要なときは正規に行ったほうがいいです、みたいに書いてあったんですけど、よくわかるんですよ、非常にこういいポジションだなと思ったんだけど、
ただその本当に医療が必要って心理においてはどうやって判断すりゃいいんだっていう、まあそういうことを僕ノートにも書きましたけどですね、あの即に精神分析について話すみたいなことやってたとき、この人は本当に医療必要としてます、こっちの人は本当は必要としませんなってことは言えないと思うんですよね。
で、仮にじゃあ言えたとするじゃないですか、その言えたとするじゃないですか、それを言っていいのかって問題が、だってあのね、そのそれっぽい教科書みたいなところにまあ素人アセスメントやめましょうみたいなことがさらっとあっさり当然のように書いてあるわけですよ、アセスメントしないんだったらその人に本当の医療が必要なのか必要でないのかは当然我々には判断できない。
でもこの話はパラドックスみたいな話で、そんなこと言い出したら誰も正規には書かれないってことになりますよね。だって行く人は素人で普通はあるわけだから、つまりあの例えばあのね、これ普通の身体医療でも同じこと言えますよね。
身体医療について素人が勝手な判断をするのはやめましょうっていうことを言ったら、でもじゃあどういう時に医者に行ったらいいのかの判断が一切できないことに、まあこれは極論ですけど、でもよくあるじゃないですか、その公共広告機構みたいなやつで、そんなことで救急車呼んじゃダメだよみたいな、でもその人は救急車呼ぼうと思ったわけですよね。
あの、それで救急車呼んじゃったの?みたいな子供の絵が書いてあるんだけど、だって判断しちゃいけないんだったら、ちょっとでも心配になったら呼ぶことになってしまうじゃないですか、場合によっては。ましてするに心理ってことになってくると、ちょっとでも心配になったらすぐ心理にかかるみたいな話になった場合、最近ちょっと寝られなくてとか、最近ちょっと奥さんと口論してとか、全部行くことになるじゃないですか。
33:09
今はあんまり多くの人が行かないから、そういう前提で、どんなことでもいいんですよみたいになってると思うんですけど、本当にどんなことでもいいってことになったら多分、それはそれで野良カウンセラーってすごい必要とされるようになると思うんですよ。
だってたぶん現在の、いわゆる正規の人たちのキャパシティというものと、どんなことでも相談するの、比重は全然合ってませんからね。全然合ってないですよ、本当に。1日中患者さんの相手をしていても、リストは増える一方になるはずですよね。
現に私一の寺だったって話をよくしてますけれども、お葬式のリスト、これはお悩み相談じゃないですからね。お葬式のリストが満パンで、比較的余裕のあるお寺さんに応援を頼むっていうことをやってましたから。
それぐらい人口っているんですよね。お葬式ってのは亡くなった人が信者さんの中にいない限りは、お坊さんが呼ばれることはないけど、最大で1日3件がいいところですよ。やっぱりお葬式に出られるなんて。
それでももううちの父とか、疲労困憊になって、もう何種の殺人的スケジュールになっちゃうんですよ。もう1秒の余裕もないみたいな。そっちに行って、次にこっちに行って、さらにそっちに行くみたいなことをやらない限りは、この間、普通にやってる寺での御仁の時間も全部やらなきゃならないんで、とんでもないことになるわけですよ。
そういうのが、しかも連日続くと倒れるんですよ、坊主って。結構倒れるんですよ、そういうことでね。あとお経を上げすぎて声が出なくなるとかね。ほとんど1日中唱えてるみたいな世界になっていきますから。でも足りないんですよ。だから応援を頼むわけですよね。心理師さんも全く同じ事態になると思う。本当にどんなことでもいいんですよ、実現した場合にはそうなると思うんですよね。
そしたら結局のところ、ノラカウンセラーが必要とされるんですよ。そうなるはずなんですよね。そうは今なってないし、なる気配もないから、ああいう風なポストになるんでしょうけど。だから本当に医療が必要なっていうのを、本当に私は藤山直樹さんの読んでいて、考えさせられるんですよね。だって大概の人は社会適応度が高いんですよ。
そもそも藤山さんの金枝に書いてあったのを見読む限り、週3以上は来るべきだって感じなわけですよ。週3ってことは1回1万円だとすると、1週間3万円で、月に最低12万円じゃないですか。もうちょっと安くしてあげるのかもしれないけど10万かかる通じないですか。これは社会適応度の低い人には到底支払える金額ではないですよね。
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つまりその人は片目には一見して完全に健康で正常なんですよ。その人は本当に医療的に心理性の相談を必要としているのかいないのかって、たぶん素人が判断したら必要ないってことなんですよ。だから難しいんですよ。でもあんなに必要としている人はいないと思うんですよね。
だって小動物が体をどこかに預けるようにすることすらできないほど緊張している人の話。つまりその人のニードに近いものを私は20代に持っていて絶望していたわけですけれども、当時私に一番必要だったのは心理師ですよ。間違いなく心理カウンセリングだったと思うんだけど。
自分でそのニードを認識できなかったから。本当に必要としている人ほど正規が必要だっていうのは理屈としてはその通りだと思うんですけど、どうやってそれを判断すればいいのか。今思ってあの当時の私にそれができたかというとできた気がしないんですよ。周りの人も誰一人として心理カウンセリングは進めませんでした。今と時代は違いますが。
だからいろんな意味で風俗を勧める人もいれば、その他クリスマスに合コンを勧める人もいて、私は風俗ってめちゃくちゃ怖かったんで結局一度も行かなかったんですけれども、一度も行かなかったどころか未だに予約サイトを見るってことすらやったことがないし、当時はできなかったと思うんですよ。恐ろしすぎて。
この恐ろしさにいろんなものがあったんですけれども、今思ってわからないわけですよ。この恐ろしさ当然母に怒られる恐ろしさなんですよ。それすら私は全く自覚できてなかったんですよね。母が怒るはずないじゃないですか。見れば怒るかもしれないけど見せるはずがないじゃないですか。怒られるわけがないじゃないですか。怒られるから怖くて予約サイトすら見られないというか、そういう風になっていたのは何でなのかを考えるということができなかったんですよね。
剥奪されてたんですよ。久しぶりに思い出したんで、あれですよ。アドックイズアドックイズアドックなんですよ。行き詰まるんですよ、完全に。犬は犬であるは犬であるってうまい表現だなと思うんですけど、どうしようもないんですよね。何でそれができないのかがそもそもわかってない。何でそれをしちゃいけないのかもそもそもわかってないという。
要するに例えば人に笑われてはいけないは笑われてはいけないは笑われてはいけないからであるっていうようなものなんですよ。絶対ダメなんですよ、それはね。そこには行き着くことができないどころか、行くことも見ることもすれることもできなくなっていくんですよ。恐ろしすぎて。何で恐ろしいのかももう全然わかってないから、何が恐ろしいのって他の人が訪ねることすらしない世界に入っていくんだと思うんですよね。
で、それを訪ねてくれるわけですよね。非常に僕もノート書いていて、後でああと思って後悔してるんですけど。
39:04
でも消すかどうかっていうのはまた別の問題なんですけど、寂しすぎてレズ風俗に行きましたの人が、彼女は心理カウンセリングに行って、そんなのやめてハグしてくれっていうふうに泣き叫んでいる小さな駒があって、非常に胸を疲れるなって思うんですけどね、時々。
で風俗に行きましたって話したんですよ。僕はこれものすごく考えさせられるんですよ、はっきり言って。これ風俗でいいんだろうかみたいな適当な甘い締めをしてしまったことを私は後悔してるんだけど、彼女はもう風俗に行くしかなかったと思うんですよね。これこそカウンセリングじゃんって思うんですよ。そういうことが書きたかったんですよね。
カウンセリングに行くべきでしたって話に多分まとめられてしまうんですけど、それは現代的な、いかにも現代的なんですよね。そうじゃないだろうって思うんですよ。人が本当に困ってるというときに、その人がニードというものが分かってないときに提供されるニーズっていうのはかぶりつくじゃないですか。
それを我々は提供せざるを得ないときってありますよね。赤ちゃんがものすごい泣いてるんですよ。ものすごい泣いてる。お母さん操るじゃないですか。よしよしと。ほぼ無意味だっていうのは分かってますよね誰だって。私もやっててほぼ無意味だこれは。操したってこの子にはもう今通らないっていうのは分かってるんだけど、でもそれが電車の中です。操さずにはおけないでしょ。操すしかないじゃないですか。
そのニーズがどれほど間違っていたって、もうこれしかないんですよ。これしかない以上はこれを提供するんですよ。どん詰まりに近いんだけれども、でも操すことが大事じゃないですか。赤ちゃんを操してほしいわけじゃないのはもう誰の目にも明らかなわけ。でも操すんですよ。やっぱり他のお客さんも気の毒だなと思ってる人もいれば、うるさいなと思ってる人もいるかもしれない。
私もそう思いながら電車に乗ってたんだけど、でも他のお客さんにしても、いやまあ怪しとけよと。泣き合わないかもしれないけど怪しとけよっていう。だから怪すってこともあるじゃないですか。他の風俗に行くってのも同じだと思うんですよ。ああいう風になってしまえばですね。そこをいやいや正規に行くべきだ。本当は医療が必要なんだからって言っても。
だけども、それはそう気づいて、しかもその選択肢を自分が取ることができるという風になった後の話であって、その前はどこでバトンを引き継ぐにしても、引き継がないよりはいいんじゃないかなと。そこでね、なんか手品師みたいな人が出てきてくれて、出てきてくれなかったですけど、赤ちゃんに手品を見せたらけろっと穏やかになったみたいなミラクル話も世の中に時々あるのだろうと思うんですよ。
でもそれはミラクルなんで、いつも期待はできないんで、正規の心理師さんはミラクルを引き起こせるのかもしれないんですけれども、でもその場にいなければミラクルは引き起こせないじゃないですか。近くに行ける、近くにいるかどうかっていうのも大きいと思うんですよ。
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私の身内は徒歩、しかも数分圏内でなければ行くことすらできないんですよ。本当にその半径内に正規の人がそもそもいるかと来てはくれないわけじゃないですか。
42:27

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