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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
最近、仕事やチェンジズの連載をいずれも書きあぐねています。
一つには、チェンジズでずっと連載していたものをベースにした本を脱稿しました。
原稿が勝手に生産されていたシステムが、ここで打ち止まっているということが大きくあります。
本は9月の下旬くらいに出るのですが、新しい連載をやらなければいけません。
その勢いで仕事が書き止まってしまっているという状況です。
仕事が溜まってくるという時のパターンです。
GDDレイを洗い出しをする時のパターンです。
先日から土曜日のセミナーでも、
ウィニコットという人を散々出してきています。
今はこれがテーマです。
このテーマで一つ、チェンジズか仕事のどちらかはこれでいきたいなというのが今あるんですよ。
詳しくは、スライド付きで話をしたので、
詳しくは土曜日のセミナーを動画販売されるので見ていただけると、
この番組でしゃべっていることがだいぶわかりやすくなるので、
お勧めしたいのですが、
見ないという方も当然いらっしゃると思うので、
運と急いで説明します。
こういう時にスライドって便利だなと思いますが、
ウィニコットはクラインの弟弟子みたいな感じの人なんですね。
メラニー・クラインという人はフロイトに直接従事した人で、
指示した人で、彼女はすごいんですよ。
私は非常にいい事例だと思っているんですけど、
肩書きない人なんですね。ミセス・クラインになっちゃうんですよ。
これは今では認められないんですね。
精神分析というのは最低でも大学院卒業相当を要するんですよ、要件として。
そんな日本なんかでは全然流行ってもいないものだし、
それで本当にクエルになろうかぐらいなものなのに、
えらいなる要件は厳しいという、
あんまり多くの人が日本では少なくともなりそうにない職業なんですよね。
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これが一つの僕は問題だなと思うんだけど、
僕が考えてもしょうがないことなので、
私は精神分析科ではないし、
そっちの訓練も受けるという気配もなかったですから、
知り合いにはいますけどね、さすがに。
とはいえ、それだってアメリカでやっているわけだから、
分析をやっているとも言い難いですしね。
やっぱり日本には馴染み深くないものではありますよね。
とにかくミセス・クラインは大学院なんてとんでもなく、
大学もたぶん卒業しているのかなぐらいな普通の人で、
そういう学歴一切ないんだけどすごいんですよ。
すごい分析的な能力が高いという人で、
その後のお弟子さんというのかな、
結構欠別とかもするんですよね。
それが難しいなと思うんですが、
そのうちの一人がウィニコットで、この人は超有名な人です。
し、ちゃんとしたすごい、いわゆるヒストリーもちゃんとしている人ですね。
この人の発想の中に、ライナスの毛布があるんですよね。
異向対称と言うんですけど、この異向対称の話をセミナーでしたんですよ。
考えてみると結構すごいことをやっているなと思うんですけどね。
異向対称というのはすごく誤解されやすいんだよなと思ってしゃべって、
やっぱり誤解されるんだなということを感じました。
今日もうちょっと誤解なきようしゃべろうと、今後もそういうふうにしようとつくづく思ったんですけど、
異向対称というのは、異向期にそいつを使って、
一言で言うと、現実に適応していくために気がつくと使っているみたいなものなんですね。
決してこれを使って、俺は現実に対応してやるぜみたいな、
そういうあまりにも意識的というか、装備的なものとはだいぶ違うものなんですよ。
本当にそれが役に立つのっていうようなものが、実はすごく役に立つんだっていう感じのものなんですね。
だからライナスの毛布なんですよ。
お母さん恋しいからといって、ちょっと毛布をしがみつきながらこれからやっていきます。
それはダメじゃないですか。そんな毛布でどうにもならないんですよね。
しかもその子は別にこの毛布があればお母さんいらないもんねとか思っているわけじゃないんだけど、
やむを得ずそうなっているわけですよね。
竹見恵子さんの風と木の歌という漫画で、チルベールという少年が、
幼い頃に毛布にしがみついているんですよ。
ママに言うんですよね。それなんですよね、意向対象というのは。
何がポイントかというと、この時子供は万能感というものを持っていると言うんですよ。
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万能感というのは万能じゃないだろうという話をしちゃダメなものなんです。
外から見て万能か万能じゃないかの話はしていなくて、自分はやっていけるという感じを抱いている。
この時もすごい大事なのが、お母さんと子供が一体だからそうなんですよ。
子供だけの子供はいない、赤ちゃんだけの子供はいないという言い方を上にするんですけど、
お母さんと一体だからやっていけるんですよ。
それじゃダメだろうという考え方を取る人は、あまりにも客観的なものの見方をしすぎているんですね。
例えば魚というのは万能じゃないですか。水の中にいる限りは。
水なければ生きていけないだろうとか言うのはダメじゃないですか。こういうことなんですよね。
これを私たちは意外に言いたがる世の中に今生きているんですよ。
これはすっごいおかしなことだと思うんですね。
母子一体というのは抱っこしている姿ではイメージしにくければ子宮の中をイメージしちゃえばいいんですよ。
絶対に無理やり引きずり出したら赤ん坊は生きていけないんだから赤ん坊は十分努力があるとは言えないという言い方っておかしいと思うんですね。
これ時々面白い話題になるんですけど、子宮の中にいた時の赤ちゃんは用水のタンスというのを踊れるんだそうです。
言ってみればある程度泳げるみたいな感じなんですかね。
ある意味そうですよね。水の中にいるわけですからね。
だけど生まれたての赤ん坊って多分水の中ではすぐ死んじゃうと思うんですよね。
ちょっと浅い水でも。
ってことは生まれたての赤ん坊というのは前に持っていた能力を失っているってことになりますよね。
でもこの種のことって実はしょっちゅう起こるじゃないですか。
環境が変わるともともとあった能力って私たちは身につけた能力は累積されて積み上がっていくって思い込みすぎるんですけれども、
そういうことはある程度ありますけどね。
例えば私アメリカから帰ってきてもピークだった頃の10%くらいまで英語力はないですよ。
これはもったいないっていう人がいらっしゃるんですけど、僕はそれはすごい違うと思うんですよね。
用水のダンスは用水の中にいる時にだけ必要な能力じゃないですか。
別に子宮から出てきたら二度とその能力はいらないんですよね。
だって用水で踊ることはもうないでしょ。
この種のことって実は起きているはずなんですよね。
子宮の中にいる時は万能じゃないですか。
だって子宮の中にいる以上その中でやるべきことが全部できればいいはずで、できなければ絶対死んじゃいますよね。
できてるんですよ。全員。
これって結構すごいことですよね。
で、その時でもできるというのは万能なのはお母さんと一緒だからなんですよ。
テレビ番組みたいですけどね。
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で、このお母さんと一緒というのは文字通りじゃないですか。完全に一体ですよね。
母子で一つですよね。
ここら辺までもいいや。この話は置いといて。
そうすると、そのお母さんというのは何をしているのかという話になった時に環境を供給していますという言い方をするんですよね。
実際一体なんだから環境の供給という言い方は変なんだけど、そこをあえて図式的に割ってみると母親は環境を供給している一方でですね。
で、赤ちゃんはその環境の中で万能に生きているというそういう見方なんですね。
で、その時赤ちゃんは万能であることよりも大事なのは万能感を持って生きている。
つまり、自分は現実に対応できるんだという感じを持っているわけです。
ただ、生きているということは変動しますから、いつか地球から出る日が来ますよね。
こういう時に私たちは現実に不適応という感じになるなんていうかね、そのリスクを一番追いがちなんですね。
それをトラウマとトラウマの契機みたいな言い方をするんですけど、そういうことが起こりやすいと。
それをウィニコットは移行期と呼んだんですよ。
まあ移行期というのかな、移行なんですよ。現実が移行してしまう。
そういうタイミングがあるわけですね。
その時に現実に思いっきりドーンとぶつかる。
急激にってことですよね。急激にやっちゃうと、やべやべ、対応できないわということになって引きこもっちゃうので。
彼は引きこもるという言い方をするんですよ。
引きこもっちゃうので、そうならないために移行現象が起こる必要があるという言い方をするんですよ。
これはですね、非常に微妙かつ難しく、かつ私がここで喋るのも難しいんですけど。
グッドワイブスでいうイリュージョンと似てるんですね。
意味付けとイリュージョンをうまく使って移行現象というものを作り出してそこを乗り切るんですね。
そういう感じなんです。
現実そのものにぶつかってしまうと、大変恐ろしい感じがしてしまうので。
あるいは一歩間違えたと死んじゃったりしか出ないので、そこで少なくとも心理的にはですね。
言ってみれば、うまく夢を見る能力を発揮するという感じなんですね。
子宮から出てくる時は一番わかりやすいじゃないですか。
それはものすごく現実感ありますよね。
この時に出たくないんだけどって普通に思うじゃないですか。
だから赤ちゃんは泣くんですよね。
私だったらアメリカに行った時はそんな感じじゃないですか。
日本子宮みたいなものですよね。
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ここから出るとなると現実がぶつかってくるじゃないですか。
そういう時に万能感っているんですよ。
なんとかなるだろうってやつですよね。
いやなんともならないかもしれないじゃないかっていう話は無しなんですよ。
なんとかなるだろうと思ってないと移行できなくなっちゃうからね。
赤ちゃんがそういうことを言い出すのは無しじゃないですか。
やっと月10日経ったけどまだ準備できてないんです。
この種の子という人っていっぱい現実にはいるんだけど、
赤ちゃんとかはそういうことを言うことは許されずに引っ張り出されるわけですよね。
だから準備できてるんですよということは。
うまくその時大体行くということは準備できているわけです。
だから英語力がまだ十分じゃないんですとか、
そういうことを言うのは無しなわけですね。
万能感を持ってやりましょうと。
万能感を持ってやるためにはイリュージョンがあるといいよねっていうのが、
例えば俺は今までなんとかなってきたからなんとかなるだろうみたいな根拠のないやつですよ。
幻想とかっていうのもそういう話なんですが、
これが非常に大事だとミニコットは言うわけですね。
その時に今までお母さんが供給していたものが新しい世界では途絶えちゃうから、
例えば支給はもう途絶えますよね出ていけば。
だから代わりに移行対象が必要なわけですね。
いや必要なわけではないんだけど、
多くの場合は移行対象というものを身につけるというか見出すわけです。
ただそれは自然と見出されるんですよ。
この移行対象が何かお守りみたいなものに、
でもお守りも移行対象であり得るか、
でもお守りとか防護とかじゃないってことです。
守るための何かみたいなものじゃないんですよ。
万能感を発揮するための自然と見出される何かであって、
万能感を発揮するのではなく、万能感を維持するためですね。
今まで万能感はあったわけだから、
そいつを維持するためにそういうものを見出して新しい環境に移行していくと。
私にとってそれはタスクシュートだったという話をしたんですね。
なぜならタスクシュートを私がちょうど使い出した頃って、
今から思うと移行期にあたるんですよ。
アメリカからちょうど帰ってきて、
日本でしかもそれまでお金を稼ぐような仕事ってしたことがなかったのに、
そういうことを八重洲さんという人が誘ってくれたからできるようになったと。
でも危ないじゃないですか。
それまでちゃんと社会人で仕事をしたことがほぼなくて、
しかも直前までアメリカにいて5年もですね、
日本の状況も5年分は空いてるわけですよ。
大きな割と変化ですよね。
徐々に移行するのが良いとミニコって言ってるけど、
この変化どう考えても徐々にじゃないんですよ。
ドーンと移動する。
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こういう時に外省的に現実に出会うと、
やばい、自分無理だわってなるじゃないですか。
で、ウィズドローしちゃうわけですよね。
これを引きこもりというわけです。
で、ウィズドローしないためには、
現実に対応すればいいんですけど、
その時に何よりも絶対に欠かせてはいけないのが万能感という。
万能に自分はやれると。
万能にってつまりどんな現実があってもという意味であって、
それはあり得る現実の話をしてるわけですよ。
いきなりライガーになりましたみたいな話はしてないから、
そうしたら無理ですよね。
引きこもるしかないですよ。
例えば、それこそ月に生かされましたとか、
そういう話ではないんですよね。
月に行ったら死んじゃいますよね、当然。
酸素とかはちゃんと供給されてるわけじゃないですか。
つまり万能というのは何て言うんですかね。
超越者になるとかではないってことですよね。
スポーツ万能とかって言葉あるじゃないですか。
あの子スポーツ万能だって。
その子は別に大谷翔平に投げて打たれないとか言ってる話ではないですよね。
あくまでもスポーツをやらせれば、
ちゃんと適応的にできるという話であって、
万能というのはそのレベルでいいはずなんですね。
子宮の中にいる時はちゃんと子宮の中で生きていられれば万能なんですよ。
ただ移行期があるから移行期に万能感を見失いがちになるので、
多分これは見失うだけなんです。
もともと持っているものだし、
普通一生持ち続けないと人はやっぱりやっていけないんで、
一生持ち続けてやっていくためには移行対象みたいなものが役に立つことがあるわけです。
実際に世の中に出てみて、
ダメだと思った後で移行対象を見つけて何とかするという話では全くないんですよ。
そういう意味での新しい移行対象が出てくるということがあるにしても、
それは結局自分の環境に過酷だから緩めるとか不足分を補うとかいうものではないということですね。
そういうケースでもあるんですけどね。
この辺が説明がややこしくなりやすいところなわけです。
何にしても移行対象というものが私にとってはマスクシュートだったわけですよ。
ここでグッドイナフマザーという言葉が非常に役に立つんですね。
お母さん環境供給してくれるんですけど、
子宮内はまさにそうだし、生まれた後もお母さんがいろいろ面倒見てくれる。
これはお父さんがやってもいいじゃないかという話が今はあって、
そうですけれどもお父さんがやってもいいんですが、
生まれてきてから2時間目3時間目とかお父さんがいきなり変わるのは難しいですよ。
やっぱり今の現実ではまだね。
そういう意味でやっぱりお母さんのケアが絶大であるという瞬間はあってですね。
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この環境供給をグッドイナフって言うんですよ。
ただグッドイナフなんですよね。
つまり完璧であることはあり得ないんですが、
これはあくまでも例え話に、本当にこうなんでしょうけども、
でもやっぱり例え話みたいなところもありまして、
私にとってのタスクシュートは意向対象だったからグッドイナフマザーなんですよ。
こう考えれば当然じゃないですか。
タスクシュートがパーフェクトであるってのは明らかにおかしいですよ。
アメリカから帰ってきて慣れない仕事を始めましたと。
ライティングの仕事だから、
デイリーの連載の仕事だから慣れないといっても、
まだできる方の仕事ではありましたが、
慣れない仕事をやるようになりましたという時に、
タスクシュートがあれば代わりに書いてくれるんですとかって、
そういうことはないじゃないですか。
パーフェクトであるっていうことは、
私何もしなくていいってことですよね。
そういうことってあり得ないですよね。
どんな場合でもグッドイナフに決まってるわけですよ。
だからマザーがグッドイナフだってのも当然で、
例えば子宮の中だとしても、
赤ちゃんはそこで生きているわけだから、
パーフェクトであるってのがおかしいんですよ。
パーフェクトであるっていうことは、
どういうことかというとですね、
ずっと戻っていけばパーフェクトに近づけるんですよ。
母は。
私だったら、最近お腹の中を、
お腹の中を超音波みたいなので写真撮れたり、
動画を見ることもできるんですけど、
3Dにすることもできるんですけどね。
豆粒ですよ、完全に。
あの豆粒の時はパーフェクトじゃないですか。
マザーはパーフェクトに近い。
だってあの豆粒、作り出したのすらある意味では、
マザーなんだから完璧ですよね。
ってことはどういうことかというと、
マザーが完璧な時ってのは、
私はほぼほぼ存在してないんですよ。
ギリギリ存在し始めた瞬間ぐらいが、
たぶん一番完璧ですよね。
私にとって不都合が一切ないですよね。
その前って、つまり私存在してない。
ある意味ではだから、私が存在しなければ、
母は完璧なんですよ。
母しかいないんだから、そこには。
私と母になった瞬間に、
少しずつ完璧から離れていきますよね。
で、生まれ落ちてしまったらもう完全に、
母の存在が完璧であるということはあり得ないですよ。
完璧であるってことは、
四六時中母と一緒にいるから、
やっぱり母しかいないから完璧なんですよ。
母と私になったらもう完璧じゃないんですよね。
グッドイナフになるわけです。
で、グッドイナフっていったって、
もうほとんどバッドなんじゃないかぐらいなケースも
ないわけじゃないっていうのは、
これもさっきのタスクシュートで、
よくわかるところだと思うんです。
タスクシュートは私たまたま良かったですが、
良くないって人だって言うわけですよ。
その場合、移行対象にならないと思うんですけども、
21:01
移行対象はGTDであったり、
Evernoteであったり、いろいろしますよね。
このように考えていくとですね、
移行対象がすることの重要なポイントは、
環境供給とは言い難いんですよ。
確かにタスクシュートは私に環境を供給してくれたんですよ。
時間どのくらい使えるのかとか、
何をどのくらい繰り返しているのかを知るという意味で、
そういうのを教えてくれるという意味で、
環境を供給してくれているし、
その意味は大きかったんですが、
とはいえ仕事をほとんどやっているのは、
私に決まっているじゃないですか。
私はアメリカで英語で論文を書いて、
英語で喋って、議事のカウンセリングを英語で受ける
というようなことをやっていたわけですよね。
もちろんアメリカのスーパーに行って、
ウォルマートとかに行って買い物をするとか、
そういうふうに、
それはそれなりに万能にやってきたの。
全部と全く違う世界でやっていく時に、
タスクシュート1個あればこと足りるんです。
そうはいかないんですよね。
そうはいかないんだけれども、
あれがあればやっていけるような気がしてたんですよ。
これを万能感と言うんですね。
実際に万能感で動いている人は万能なんですよ、結局。
それはタスクシュートがあるから万能なのかというと、
そうじゃないんだけど、
でも万能感が維持できていれば、
やっぱりその人は万能なんですよね。
事前に5年間の日本で何があったかレクチャーとかを
受ける必要はないということですよ。
例えば、そういうのをやらないと不安だという人も
いらっしゃると思うんですけど、
その時やっていた連載とか読者ターゲットに対して
どういうことを書いていくのが正しいライターの
あり方なのかとか、そういうレクチャーは
僕は一切受けた記憶はないんですけども、
やれるんですよ、やれると思っていれば。
このやれると思っていられるかどうかというところが
ものすごく重要とミニコットは言うわけで、
これすごいグッドバイブスと似てるなと
私は思うんですけどね。
最強で価値マックスの自分で、
現実はなんとかなるって言ってるのと、
現実に対して万能感を保持していれば、
万能であり、万能であれるっていうのとは
僕はすごい似てると思うんですよ。
現実適応的な話を、現実適応的ってよく言うんですよね、
カウンセリングでも。
そういうことだと思うんです。
もし現実適応的でなくなると、
いやちょっともう連載毎日とても無理っていうことになってくると
引きこもるんですよね、人は。
人々の中から、ここがちょっとややこしいんですけど、
万能感を失うので、人に対してついた手を立てたくなるんですよ。
自分のこの万能でない私は、
現実と対応していると大変なことになってしまうような気がするので、
24:01
隔離して安全なところに閉じ込めると。
これの究極経営に近いのが、
本当に部屋に引きこもっちゃうことなんですけど、
そこまでは行かない。
多くの場合、自信を猛烈に失うという言い方をするじゃないですか。
すっかり失って、代わりに偽物の自分というものを作り出すんですよ。
これを分裂というんだという言い方。
この偽物の自分も専門用語なので、
あれなんですけど、要はそれ専用の自分みたいなやつですよね。
例えばライティング専用の自分みたいなものを作っちゃって、
人の文章のコピーみたいなのを書きまくるようなケースってあるじゃないですか。
自分に全然自信がないので、
本物の自分は本物の自分というのを言うんですよ。
本物の自分という言葉は良くないと思うんだけれどもしょうがないんですよね。
何がどこの部分が本物なんだよという感じがすごいする。
この文脈でも。
でも引きこもるんですよね。
本物の自分は万能感を持っている自分はどっか行っちゃったんで、
万能感を持っている自分はいない。
もっと別の万能感で生きていられるようなところまで交代しましたと。
こういうのを対抗って言うんですよね。
とにかく払ってしまいました。
でも現実には対応しなきゃいけないから、
対応する偽の自分というやつを作り出すんですね。
こいつがやりますと。
今後はこいつがやりますと。
偽の佐々木がやりますと。
この偽の佐々木はだいたい偽っぽく振る舞うんですよ。
だからさっき言ったように分かりやすい事例で言えば、
どっかからひたすらひたすらコピーしてくると。
自分はそこにいなくていいような自分なんですね。
そういういかにも最もらしいそれっぽいやつを用意して、
これっていう感じにすると。
それは本体じゃないから分裂しちゃっているわけですよね。
そういうのをいっぱい作り出していくのが分裂、消失って言うんでしょうね。
そういうふうに偽の自分だらけになっていて。
だからその人はなんとなくですね。
なんとなく分かんないんですけど、
なんとなくその人は、なんて言えばいいんですかね。
盗作気味なんですね。
本当はこの本当の自分が生きていたいからやってる事じゃないですか。
全部。この本当の自分が傷つかないように守ってるわけなんだけど。
いつしか守ることが目的になっていく。
というか最初からそうなってるんですよね。
これが起きているというか。
ある程度僕らみんなこれやってますよね。
多少はやりますよ。
ものすごく全然これ、
例えばそうですね。
僕らの文章の世界で言えば、
全然このブログの記事いいなと思ってなくても、
すげえ親しいから、
いやいいじゃない、どんどん書きなよとかって言うじゃないですか。
偽の自分が。
27:00
こういうことで現実適応的にやりますよね。
やりすぎるのは大きな問題だと思うんですけど、
全くやらずに済むかって言うと、
それは難しいと思うんですよ。
本物の自分が見てしまうと、
よろしくないので、
本物の自分がそういうのを見たり読んだり、
いろいろ言ったりはしないと。
偽の自分に対応させるんですよ。
こういうのはもっと儀式的な世界では、
例えば親戚のあんまりかなり好きじゃないおじさんが亡くなった時に、
深く悲しんだ顔をしなきゃならないとか、
そういう話ですよね。
今のは漫画みたいな話ですけど、
そういう時に本物が引き払っているっていうことは、
実はよくあることだと思うんだけども、
本当の意味でとことん本物が引きこもってしまうとですね、
つまりそれは万能感がほぼ完全に失われた状態なんですね。
万能感がほぼ完全に失われると、
本物の自分がやることっていうのは、
ある意味、空想だけになってしまうんですよ。
例えば、後悔に近いやつもありますよね。
あの時まだアメリカにいれば、
野橋哲夫というかいう人と一緒に仕事さえしなければ、
今頃自分はPhDになって、
アメリカで教授にでもなって、
すごい良い状態だったんだろうなみたいな空想をひたすらするわけですよ。
原稿書く方の仕事はコピペの佐々木に書かせると。
こういうようなことが起こるんですよね。
これを分裂と言うんだけれども、
この時もう一つ大事なことがしばしば起こりまして、
それがですね、前回この番組で言ったフェッチなんですよ。
フェティシズムってやつですね。
なんでフェチが起こるかというと、
こういう時にフェティシズムが起きて、
なんでフェチが起こるかというと、
こういう時に意向対象にのめり込むんですよね。
でも私これは経験済みだなとつくづく思うんです。
しょっちゅうやってた気がします。
その偽の自分に仕事させるというようなことも、
私ももの書く時はさすがにほぼしなかったと思いますよ。
結構書いたけど、
全く絶対に常に本物で書いたかというと、
ちょっと微妙だけど、
ひたすらコピペで逃げるみたいなところまではやったことないです。
例えばですけど、
タスク修行を完璧にやるみたいなのを目的化するってことは、
やるんですよ、やっぱり。
これどういうことかというと、
ここが誤解のポイントでもあるし、
実際そういうことは起こっちゃうっていう難しさもあるんですけど、
お母さん環境供給してくれるわけじゃないですか。
グッド・イナフなわけですが、
お母さんをパーフェクトにしよう。
これさっきの話と同じなんですよ。
お母さんパーフェクトになるってことは、
私生まれてない時がパーフェクトなんですよ。
でも私は現実に適応する自信がもうないから、
万能感はなくなった。
いや、私全然万能じゃないですから。
ものはもう書けませんから。
30:00
今まで書いてたのは嘘ばっかりですから。
非常になんか謙虚な人っているじゃないですか。
そういう人は表に出るとつらいので、
引き込んでいるわけですね。
そうすると、
お母さんを完璧にする作戦に出るケースが
とても多いわけですね。
お母さんをパーフェクトにしましょうと。
お母さんをパーフェクトにすると言っても、
今の場合、私の場合はですね、
自分の母親に仕事を頼んでも
論外なのはもう十分わかっていますから、
大体の人はそうじゃないですか。
年老いたお母さんを引っ張り出してきて、
ちょっと日系ビジネス問題というのに
確認、自信なくなったから
ちょっとお母さん全部書いといて、
そうはいかないですよね。
お父さんでも同じなんですけど。
私は意向対象はタスクシュートだったので、
タスクシュートにのめり込むことで
この事態を乗り切ろうとするんですね。
エヴァノートでもいいんですけれども、
これを完璧に使いこなせば、
俺は万能になれる。
ここに倒作があるんですよ。
まだあくまでグッドイナフだから
自分が万能感を持っているんじゃないですか。
逆になっちゃってるんですね。
環境供給というものの環境が完璧ならば
自分の万能感は回復できるという
考え方をしちゃうんですけど、
そもそも環境供給がパーフェクトだったら
自分はいなくなっちゃうんですよ。
ここを逆に考える。
そこにすごい倒作があるんですけれども、
倒作的になりますよね。
ライフハックとか。
ライフハックをのめり込んでいる人は
明らかに目的と手段が逆転している。
そもそもお母さんはグッドイナフで
なきゃいけないんですよ。
なるべく控えめに環境供給するのが
それって大変なことなんだけど、
でもそれがベストですよね。
精神分析とかカウンセリングでも
しょっちゅうこの話は出るわけです。
過剰介入みたいな言い方をするのも
聞いたことあるんですけど、
要するに来ている人の代わりに
人生を生きちゃダメなわけですよね。
それはすごい強いアドバイスをする
っていうのも含むんですが、
問題になっているのは
本人がどうやって現実に適応していくか
って話じゃないですか。
お母さんが一緒に行って
英語も代わりに全部通訳してあげて
身の回りの世話も全部してあげて
レポートも代わりに書いてくれるんだったら
その子は行く必要なくなるじゃないですか。
アメリカなんて。
つまり意向対象というものは
ほぼ無力であるからいいんですよ、むしろ。
ライナスの毛布なんですよ。
毛布はほぼ無力ですよね。
ただ、ライナス君に万能感を与えてくれる
そこだけでいいんですよ。
タスクシュートもそうなんですよ。
本当はエヴァノートだろうと
同じなんですよね。
グッドイナフなんですよ。
パーフェクトにしようとするということは
ところがこれがまた面白いんですけどね。
パーフェクトにしようとすると
倒作が起きますよね。
でも世の中にはフェテシズムというのは
一つの文化じゃないですか。
これが私に現に起きたことなんですけれども
33:02
タスクシュートをパーフェクトに使いこなすとか
パーフェクトなエヴァノートの使い方をするということ自体が
ビジネスになっていくんですよね。
そうですよね、実際。
これもう性的な話になっちゃいますけれども
ショートの女の子じゃないと感じないみたいな
男の人がいたとして
ショートであるということが
一つのビジネスになっていきますよね。
完全にフェチになる。
これならまだしも分かりやすいけど
例えばリンゴを手袋をはめて持っている女性じゃないと
ダメというようなところまで
こういう話は行くんですよね。
そうするとそれってレアだから
高く売れたりするじゃないですか。
美人の人が手袋をはめて
リンゴを持っているポーズを撮るみたいな。
非常にこういうことって
人間の世の中ではあることだから
意向対象に過剰に入れ込むというのは
基本的に健康的に
基本的に健全なことじゃないけれども
でも文化的に世の中にはそういうことはあって
普通にあるというのも本当ですよね。
ここが難しいところだと思うんですよ。
例えば将棋ってあれじゃないですか。
戦争のシミュレーションですよね。
普通に考えれば将棋というのは
ビジネスにならないはずなんだけど
事実上今は将棋指しというのは立派な職業ですよね。
あれはフェティなんだろうか。
それとも文化なんだろうかという議論は
あんまり意味がないと思うんですよ。
でもですね。
じゃあタスクシュートでですよ。
朝から晩まで1分単位で本当にね。
今娘にこう言いました。
ブラシを取り上げました。
ブラシで髪をとかしました。
べっちり完璧につけていたら
それは見る人にはある種面白さを
与えられるかもしれませんが
自分の動画でやれば
もしかすると人気が出るかもしれませんが
かなり不毛な感じもしますよね。
かなり不毛な感じも私でもします。
つまりそこには盗作としか
言いようがないような何かを
感じるんだけれども
でもそれが仕事になるというケースも
ないわけじゃないと。
意向対象というものには常に
そういう面ってあると思うんですよ。
やっぱりぬいぐるみとかもそうですけど
テディペアとかも
本当に文化じゃないですか。
でもあれはどう考えたって
幼い子のお母さん代わりから
スタートしたようなものだと
思えるんですよね。
それが例えば100万円とかになったら
それってどうなのって感じも
ないわけじゃないけれども
でもそれはとてもいいことだ
というふうにも
一方ではなっていますよね。
そういうことっていうのは
意向対象では
常々起こるんですよ。
で、私は結局
1回目っていうのかな
36:00
何度も何度も起こりますけど
アメリカに行く時も
当然意向対象はありました。
それが何であったかっていうのを
はっきり思い出せないんですけど
この辺が本来あるべき
意向対象の姿だと思うんですね。
あったんだけどなくなっちゃうし
それが何であったのかも
後になるとも思い出せない。
2度目はつまり
日本に戻ってきてからは
はっきりわかるんですよ。
タスクシュートがそうだったと
これは意向対象としては
強く機能しすぎている感じはあるけれど
代わりにそれがビジネスにもなっている
こういうものでもあるんですよね。
だから非常に
ウィニコットっていう人の説明では
よく本でも
矛盾をはらうとか
逆説的であるとか
何の説明もしていない
ような感じもするんだけど
でもそういう意味です。
今のフェティみたいな話もそうですし
タスクシュートが仕事をしてくれるわけじゃない。
でも私はタスクシュートがあるから
仕事ができた感じがある。
つまりタスクシュートが
現実に何かをしてくれるわけでは
絶対ない。
でもタスクシュートがあるから
現実に適応できたというのは確かだ。
でもタスクシュートがあるから
現実に適応できたというのは確かだ。
現実に適応できたというのは確かだ。
こういうのって逆説的ですよね。
確かに。
それでグッドイナフであると。
パーフェクトじゃないじゃないか議論
しょっちゅうありますよね。
こうすればパーフェクトになるんじゃないか。
これと組み合わせるべきじゃないか。
GTDと一緒にセットにして考えるべきじゃないか。
私はどうしても乗れなかったわけですよ。
最初は直感的に乗れなくて
今はその理由がよく分かる気がして
やっぱり乗れないんですね。
移行対象を強化するというのは
いまいちな話なんですよね。
移行対象は決して装備じゃない。
武器でもない。防護でもない。
お守りでもないんですよ。
ただお守りが移行対象として
機能することはありますよ。
でもお守りのようなものでは
ないと思うんですね。
あくまでも環境を控えめに
供給してくれる。
そうすることで
以前から抱いている万能感を
寸断せずにおく。
そうすることで
なるべく本当の自分が
引きこもらないようにする。
トラウマで怖くなって
現実感ですね。
引きこもっちゃうということが
なるべく起きないようにする。
まして偽の自分がそこで
大活躍しないようにする。
同時に移行対象に過剰に
入れ込まないようでありたい
という感じなんですね。