2021-07-13 29:31

【GMV 416】投影同一化というコミュニケーション

伝える意思がなくて伝わってくること
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
時間がないというのにですね、テイク2なんですね。
分かってきたんですが、最近、とりあえず私、CMから入ってるんですよ。
これは、話が2つあって、単純ででしてね。
1つは、CMから入らないと、CMのことを忘れるんですね。
喋ってしまうと、もうすっかり忘れて終わってしまうと。
そうすると、あって後から思って、残念なので、一応先にやる。
もう1つが、CMから入ってるうちに話が流れていくんですよ。
っていうパターンを作っちゃったんで、形なんですよね。
これをやることによってですね、しばしば話がよく分かんなくなっていくんで、
テイク2になったりするんで、今日はCMから入るのやめようと、
さっきCMから入って失敗したんですよ、要するに。
この番組の目的って、何らCMじゃないんですけども、
何にも、こういうのって難しいですね。
キャンペーンのためのものじゃなかったんだけど、
キャンペーンにも役立つようになってきたっていう感じなんですけど、
世の中ではマーケティングっていうんですか、
そういうものって、私はそもそも得意としてこなかったし、
しかも今や得意としなくてもいいような気がしてきているわけですね。
そうすると、でもそういうのっていうのも一応やるじゃないですか。
やることがいいのかどうかも、もう分からないんですよ、僕の中では。
でもやることはやるじゃないですか。
やってることによって何か展開していくような気になりやすいんですよね。
世の中の潮流って強いなってそういう意味では思います。
それが正しいとされていると、いくら正しさを手放そうとしていても、
いくらイリュージョンにしか見えなくても、
やっぱり完全に無視するとかいうわけにはいかないんですよね。
そういうところがあって、しかも時々はうまくいったりするじゃないですか。
完全にランダム強化な感じなんだけれども、
だから喋っておくみたいになるんだけど、
本当はこれにどういう意味があってどうなのかっていうのは、
やや分からずやってるかなというところがあります。
今日お話ししたいのは、そういうことではなくてね。
力がかかってくるということ。
力道とかっていう言い方をするやつなんですが、
もうちょっと単純に言うと、東映同一化なんだろうなって思います。
この言葉も番組では何度も出してるんですけど、
要するにこれはフロイトの一番弟子さんの、
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昨日も言ったかな、メラニー・クラインという人が言い出したことです。
ものすごく僕は今は大事な概念で、
もしかすると一番大事な概念かもって思うようになったんですが、
こういうのってどうなんだろうな。
成人分析って知られていなさすぎるので、
なんか卑怯みたいになっちゃってるんですよね。
丸日の教えみたいな。
そうである必要ってどのくらいあるんだろうっていうふうに思うんですよ。
本だけじゃ学べないというのは確かなんだけど、
部分的には既に活用されてしまっていることもありますし、
部分的には活用するのもいいんじゃないかと思うんです。
僕はこれを今コミュニケーションのスキルとか言っちゃうと確かに変な感じがするし、
また全く意味のないことを喋っていると分析しているような人には聞こえるんだと思うんですけれども、
でも確かにそういう側面もあるとも思うんですね。
例えばすごいクレームが来たとか、
アマゾンで星1ってすごい描かれたとかいうのも、
今私の目にはグッドバイブスとは少し違う、
違わないんだけど、
グッドバイブスのオプションのような感じで、
私の目には少し違う意味を帯びているんですよ。
やっぱりコミュニケーションに見えるようになったんですね、明らかに。
ドキッとするとか嫌になるとか、
人間だからそう思うのはしょうがないとか言うじゃないですか。
そうじゃなくてですね、ドキッとしたり落ち込んだ気分になるっていうことがとても大事なんですよ。
つまり東英ドイツ化っていうのは僕はよく、これは感染だって思うんですね。
汚染っていう表現を使うケースもあるんだけど、
元の言文がドイツ語ですからね。
私ドイツ語とかのニュアンスなんか全然分かりませんから、
汚染と感染、つまり移るんだと僕は思うんです。
移されるんですよ。
この移されるってすごい考えようによっては嫌なことかもしれないけど、
非常に興味深いじゃないですか。
移されるってことは、相手の気持ちが読めるっていう話にもなり得るじゃないですか。
読めてるのがどれほど限定的でも、
人の気持ちって結局グッドバイブスでも言う通り、
心理学でもよく言うように本当のところは分からないじゃないですか。
どれほど忖度してみても。
ところが何もしなくても分かることがあることに、
東英ドイツ化っていうのが嘘でなければそういうことになるわけですよ。
例えば私が前もありましたけど、
Amazonのレビューで1がついて、
本当にこう佐々木が言うことが2点3点して信用ならないっていうのが書かれていると。
読むと、他の人が読んでも多分なんてことないと思うんですよ。
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でも僕が読むと来るわけですよ。
この来るなんですけど、
その気持ちの悪さ、気分の悪さが、
この書いた人の気持ちなんだっていうのが東英ドイツ化なんですよね。
そうやって考えてみると、
なんかすごくですね、
なるほどこういうふうに表現するのも最もだっていう感じが手に入るっていうのかな。
あからさまになるんですね。
それまでは、なんでこんなこと書くんだろうって思っちゃうんですよ。
別に星1つけてそれを書いたところでその人を得るところってほとんどないじゃないですか。
社会正義に何か役に立つんだろうかぐらいなことを累々するんですよね。
こんなの読むんじゃないぞみんなっていうことが少しは社会の正義に貢献できるんだろうか。
これは無理のある解釈だと思うんだけど、これぐらいしか考えつかないんですよね。
どういうメリットがあるのかがわからないってなっちゃうんですけど、
この気分、なんていうんですかね。
落ち込んで刺されたような気分っていうものがこの人の気分なんだって思った時に、
そうかなるほどなって思えるんですよ。
ここが言葉では非常に伝わりにくいんで、言葉ではないんですよね。
言葉じゃないから東映同一化なんですよ。
東映同一化っていうのは、五字熟語で投げる影、同一化ですよ。
同じになっちゃうと。
誰が誰と同じになるんだよっていう話なんですが、
やっぱり一つの比喩なんですけれども、
お母さんが赤ちゃんと同一化しちゃうんですね。
そういうことってありました。
子供の世話してる時にギュワーと鳴くと。
ギュワーと鳴くからこっちもウワーっていう気持ちに少しはなるわけですよ。
可愛いけどね。でも少しはなるわけですよ。
ウワーってなるわけですよ。
ウワーってならないと伝わらないんですよね。
赤ちゃんはお腹空いたって言わないんですよね、絶対に。
お締め取り替えたって言わないんです。
そんなものは知りませんからね。
喉乾いたとも言わない。熱いとも言わない。
ギュワーと言うわけですよ。
で、なんか伝わる。
で、この時同一化してるじゃないですか。
赤ちゃんのネガティブで不快だ、ひどいっていう気持ちが私に入ってくる。
そうすることによって私がそうか何とかしようってなる。
してくれないと赤ちゃん困りますよね。
これと同じことっていうのはつまり言葉によらないわけですけれども、
来るわけですね。
その時必ず赤ちゃんじゃないんだよね、相手は。
必ず赤ちゃんでも同じなんだけど、起こることとして
被害を受けている私と被害を与えている存在っていうものがセットで投げ込まれるんですよね。
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これを対象とかって言うんですけれども、
あ、そういうことなんだと。
つまり必ずその種の赤ちゃんの鳴き声だって一つのクレームとも取れるわけじゃないですか。
で、クレームってのは私いつも矛盾があるってよく思ってたんですよ。
被害者であると同時に加害者になってるじゃないですか。
クレームという形で加害してる。
加害言ったら言い過ぎか。
でも攻撃してるわけだ。
で、同時にこのクレームの内容っていつも攻撃されているよっていう内容なんですよ。
で、この2つが同時に投げ込まれると、私の中に矛盾した気持ちが投げ込まれるはずなんですよね。
例えば、だから妄想分裂ポジションとかって言うんですけどね。
赤ちゃんはお母さんに食ってかかる。
ものすごい攻撃をする。
どうしてくれるんだと。
よくわかんないんだけどね。
お腹が空いてるのかどっか痛いのか痒いのか知らないけど、とにかくどうしてくれるんだと。
で、あんまり攻撃しちゃほんとはダメじゃないですか。
お母さんは多分大体大丈夫だけれども、余裕がないこともありますからね。
お母さんを攻撃するっていうのはこの場合妥当な行動じゃないですよね。
赤ちゃんがやるから妥当だけど、これが大きな人になると当然妥当な行動じゃないわけです。
だってお母さんがそれによって気分を害して世話してくれなくなったら困るのは赤ちゃんですよね。
ってことまでは考えられないからこれでいいんですけれども、大人になってこうなったらいけないわけですよね。
だからこの行動には矛盾があるわけですよ。
相手に依存しているにもかかわらず、相手を破壊しようとしているという意味で先鋭な矛盾があるわけですよね。
ってところを私たちは全員取ってきてるわけじゃないですか。
つまり私たちはいざとなると本当に物を考えられないようになってしまうと、この種の行動を取るはずなんですよね。
昔々そういうことを取ってきた存在なので、
おそらくそういうところまで対抗っていうのはこういうことを言うんでしょうけど、
対抗って言ってしまうと本当に赤ちゃんに戻っちゃうみたいなところがありますから、
そうではなくて部分的にこうなってしまうということが起こるんですよね。
それが私はある意味では強いクレームとかそういうものだなと思うんです。
グッとこう戻ってしまって、攻撃されているんだぞという強い攻撃を与えるんですよ。
これが私の中にドーンと投げ込まれると、赤ちゃんってそうじゃないですか。
つまり問題の解決をすることはできないから問題の解決を投げるんですよね。
それに対して周りの人が問題を解決すると。
つまり母子は一体なんですよ、そういう意味で。
それと同じ構図が間違いなくクレームというものによって、
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クレーマーと私がしたいわけじゃないんだけど一体になるわけですよ。
だから話がちょっと飛ぶようなんですけど、だから怒っちゃいけないんですよ。
怒るということになると、一体化したくもない人と完璧に一体化してしまうわけじゃないですか。
完全に巻き込まれるというのかな、そういう形になってしまう。
それをしたくなければ少なくとも怒らないことは必須なんだと思うんですね。
でも怒りますわね、怒ることにすると。
そうすると自分の中では何が起こるかというと、
怒られている私と怒る私が同居するんですよ。
これがまさにおそらくですよ。
おそらくはまさにと言っておそらくは変だけど、
まさにクレーマーの人が直面した現実の広さってやつなんだと思うんですね。
クレーマーっていう言い方だからこれは良くないんですよ。
私たちはみんなクレームを出すんだと思うんです。
少なくとも母に出したことは絶対あるんですよ。
極めて理不尽なやつ。しょうがないですよ、もちろん。
でもしょうがないんですよ、そんなことを言えば。
クレームを出すのはみんな同じなんでね。
だからクレーマーっていないんだと思うんですよ。
人がクレームを出す、出させられる現実に直面したら出しちゃうんですよね。
それを受け止めた人もクレームを出したい気持ちと全く同じ気持ちになるんですよ。
これが東映同一化なんだと思うんです。
つまり私がクレームを受けた時にはどうなるかというと、
例えばですけれども、なんとかデジタルノートは最悪だと。
お前はその一味でそんなことをしていて恥ずかしくないのかと言われると、
まず意味がよくわからないという気持ちになりますよね。
これがまず一点。意味がよくわからないという気持ちに相手もなっているんですよ。
理由は知りませんがなっているんですよね。意味がわからない。
で、そのなんとかノートみたいなのっていうのは、
強大な権力を持っているっていう誤解があるんですよ。
全く同じ誤解を私はこの文章を読んで相手から感じます。
相手はすごい強いやつだって感じがなんかするんですよね。
この辺が面白い現象なんですよ。
何を言ってるのかわかんないんだけど、相手はすごいやつだって感じがするんですよ。
私の痛いところを的確についてきて、
なんていうんですかね、僕この種のメッセージをいただいた時、
必ず感じることがあって、
なんで相手は私のことがこんなに的確にわかるんだろうっていう感じを持つんですよ。
当たってないんですよ。全然的確にわかってないんだけど、
的確にわかっている感じを受けるんですよ。
この的確に指摘する強大な能力の持ち主が敵であるっていう感じを
多分出した人も持ってるんですよ。
これが映るんですね。力動的に。力と動きで映るんです。
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もう一つが、それを受けたことによる恐怖感ですよね。
この恐怖と相手の強大さは当然一体化ですよね。
巨大な秘密組織みたいなのに見張られている感じ。
ここまで来ると育外妄想なんだけど、
そういう感じは少しは受けるんですよね。
これがとっても嫌な感じなんですよ。
そういうことが本当に可能だとしたら嫌ですよね。
まず絶対不可能なんだと思うんだけど、
不可能なんだと思うためには考える能力がいるんですよね。
この巨大な敵によって見張られたり迫害されている恐怖感っていうものを感じて、
この無力な自分がこういう敵と戦わなければならない
理不尽さに対する怒りが4番目に来るんですよね。
このセットが、今4つに分けましたけど、
ごくシンプルに言うと2つになるわけですよ。
巨大な敵に対する恐怖感とそれに対抗する無力な自分という怒りですよね。
このセットになる。
このセットになるということは、
このセットになった自分というのは、
クレームを出した人のその出した時の心理状態と
おそらくほとんど一致するっていうのがトエドイツカっていう。
これをですね、メラニー・クラインという人は
糞便を母の体内に打ち込むというファンタジーによって
対象がどうたらこうたらって説明の仕方をするもんだから
読んでも全然わからなかったわけですよ。
でも確かにその種の臨床例の話とかを読んでいくと
こういうことが書いてあるんだということが
じわじわじわと伝わってくる感じがあるんです。
もうちょっとわかりやすい言葉で
現代の人たちが書いている臨床の話を読むと
今の私が言った説明で大体ずれてないはずです。
これ完全に同じような話って作れないですよね。
今の僕が客食したような、実際に受けた話に客食したような話作りましたけれども
こういうことはあるんだけれども
全く同じことはないわけですよ。
で、所詮比喩なんですよね。
赤ちゃんがどういうファンタジー抱いているかなんてわからないじゃないですか。
私たちはきっと、きっとですよね、あくまでも。
きっとこういう理不尽な真似を母親にしたことはあるよねと。
だからそういうようなことを誰だってするような
心理状態まで赤ちゃんが入りすることはあるよね
っていうぐらいに受け止めておくのがいいんだと思うんです。
何歳児になるとこういうポジションに入り
それを脱する時には何歳児になって成長して脱して
こういうところに戻るのは
要するに赤ちゃんが入りの対抗ですって言うほど
そういう教科書に書けるようなのとはちょっと違うんですよ、この話やっぱり。
で、同じになるじゃないですか。
同じなんだってわかると。
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共感はできないんですけど
でもやっぱり共感っていうのは多分
こういう時にむしろ大事な言葉なんだと思うんですね。
共感はできないんですけれども
この人は恐らくこの強大な敵
なんとかノートとかね、ライフハックとか
強大な敵にいつも見張られているという感覚を
何らかのきっかけで持ったんだと思うんですね。
で、自分はものすごく無力だという感じを抱いている。
だけれども相手はよくわからない
例えば、そうですね、何でもいいんですけどね
タグ付けとか
あるいはこう、何ですかね
そういう言葉についてはよくわかるというのであれば
例えばこうなんとかノートの使い方を知すという本を出すと
100万部売れるような方法を知っている
すごい悪いやつだと
私はそういうのにすごい詳しくはなれるけれども
お金は全く入らない
要するに無力な市市民で
それに対して何かうまいことをやれる
多分政界とかと通じている巨大な組織が
巨大なネットワークみたいなものがあるような感じ
これどういう感じなのかなとやっぱり思うんですけど
これがまた比喩なんですが
メラニクラインってやっぱ正しいと思うんですよ
悪いお父さんなんじゃないかと
悪いお母さんとかも言うんですけどね
悪い親に睨まれた時の小さな子供っていう比喩は
自ら一番誰にでも連想しやすいんですよね
今の悪の組織みたいな
なんかちょっとね
戦隊ものの
あの戦隊ものの
最近私ちょっとだいぶ前だ見たんですけど
プリキュアとかあるじゃないですか
あれで出てきている悪役がやっぱり悪いお父さんですよ
昔で言えばヤマンバとかああいうのなんですよ
結局その連想って詰めていくとですね
多分悪いお父さん
ただ悪いお父さんじゃダメなんですよ本当は
なんかね
だから精神分裂はやっぱり実際にやらないと始まらなくて
悪いお父さんなんでしょうけれども
その前にそういうことを連想させる
かなり個人的なエピソードがあると思うんですね
いじめっ子がいたとか
人によっては犬に噛まれたとかなんですよそれが
あるいはそうですね
最近の話の考えて聞いて私も連想したんですけど
飛び箱で怪我をしたとかね
その時に怪我をしたのに
先生はとても冷たかったとか厳しかったとか
そういう体験なんですよ
これをトラウマと言っちゃうんですけれども
トラウマというよりはパーソナルな
とっても詩的なエピソード
これ出てこないんで忘れてますからね
21:00
しかも根掘り葉掘り他人に聞けないですよね
そんなことは
だから精神分析という話になるんですよね
毎週毎週やる
細かいことまでどんどん自由連想でしゃべっていく
そうしていかないと出てきやしないんですよ
そんなのは問い詰めたところで出てこないですから
そういうのが悪いお父さんや悪いお母さん
つまり子供の頃すっごい怒られて厳しい思いをしたという
気持ちと結びついているかどうかっていうのも
本人にしかわからないし
普通にしゃべってると
いやいやうちの親は結構常識的で
私にはむしろ甘いぐらいでしたみたいな話になっちゃうじゃないですか
それじゃ全然出てこない何かがあるはずだ
っていうようなところがあるんですね
これとその悪の組織みたいなのが結びつき
それも無意識ですよ
無意識ってのはつまり
よく思い出せるレベルではないってことですね
さらにそれが例えば現代の
なんとか発行を使って
甘い汁を吸っている悪人どもみたいな感じになり
そういうことは事実上ないんですけど
何て言うんだろうな
昔の社会派と呼ばれていた推理小説に出てくる
総理大臣とかに靴紐を結ばせる悪いおじいさんみたいな
そういう空想上の産物ですよね
言ってみれば
でも信じちゃう人もいるじゃないですか
私の父でさえですね
そういう推理ものを読んでは
こういう何ですかね
昔の総理とかの陰にいる悪い人が
あざぶ一丁目とかに住んでいるような話を
僕にしてたりしましたからね
そういうことって
例えば目白とかに住んでたりするわけじゃないですか
だからそういう空想って
私たちは簡単にしちゃいますよね
そういうことってないんですよ
ないんだけど
空想上はあるんですよね
例えば甘い汁を吸っている人たちが
何ですかね
クレジットカードの登録をしたら
契約もしてないのに
どんどんどんどんお金を吸い上げると
いうようなイリュージョンですよね
そういうイリュージョンを抱きつつ
自分は何とそれに対抗する
いかなる術も持っていない
というところから
私の本とかを読んで
ものすごい怒りに駆られるという
違うな
なんか違うんですよね
とてもこう
手がかりがないって感じなのかなと思います
最初に私意味不明って申しましたが
その手がかりの無さがあるんだと思うんですよ
結局そういうネットワークとか
そういう組織とかは
実在しないじゃないですか
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ってことは
尻尾をつかめないじゃないですか
巧妙に姿を隠しているとか
って表現あるけれども
そもそも存在しないものなのかもしれない
っていう話がないから
結局それは
あるものとした場合
巧妙に姿を隠すことになるわけですよね
よくやっぱり出るんですよ
例えば
難しい精神状態になっている人がいらっしゃって
その人は普通に生活してるんですけれども
親とはとてもしっくりこない
親御さんも精神科医のところに行くと
私たちはごく普通に育ててきて
特別他の皆さんの一般のご両親と
違うことはしてないつもりなんですが
途端に血相変えて怒り出すっていう
クライアントさんみたいなのを
よくそういう話は聞きますね
私もそういうのは見たことがあるけれども
つまりそれは
巧妙に姿を隠しているわけじゃないですか
どこまで嘘をつくんだって感じたんですよ
ところが
喋ってる容姿は多分
本当にそういうつもりしかないから
まさかどれがその人にとっての
真に悪いお父さんを意味してるんだろう
っていうのがわからないんですよね
誰にも
現に
クライアントさんも
ご両親は具体的にどういうことをしたのかというと
具体的には何もしていないか
っていうような言い方になるわけですよね
この辺から意味のわからなさってものが出てきて
意味のわからなさは恐怖なんですよ
巧妙に姿を隠してますからね
私もその種の話ってしばしば聞くんですけど
この番組でも時々喋ってますが
ATMに見張られている
これはよく聞く話なんですよね
非常に不気味じゃないですか
街中のATMが自分を見張っているとすればですね
このATMというのは
やっぱり
仲をいじっている人からすれば
お笑い草でしょうけれども
素人にとっては非常にある意味
不思議な機械ですよね
うまく操作すると金が出てくるみたいなね
それは実に子供じみた考え方であって
実際はあの中にお金が入っているに決まっていますし
いろんな
昔あったじゃないですか
私の妻も言ってましたが
子供の頃はテレビをつけた時に
アナウンサーが喋るのは
あれをつけた瞬間に喋り出すんだと思ってたから
消した時は休んでるという風に思ってたと
人の類推能力から考えて
現象面を見た後に
見えないところについて類推すれば
いろんな類推を可能としますよね
そしてそれは
おおむね子供じみたものには
なっちゃうんですけれども
そういうことは起こるわけだと思うんです
つまり中がブラックボックスであるものは全部ね
27:01
私のやっぱりこれは軽い
そういう
なんか感じがある方なんだろうと思うんですけど
信号ごとに
車のナンバーをチェックしている信号が
今は多く設置されているんだっていう
妄想をお持ちの方もいらっしゃいました
全くの嘘じゃないですよね
そういう交差点ごとに
なんていうんですかね
カーナビのシステムと連動して
車線からずれてしまったりした時に
ピーピーって言うっていうシステムって
現に今ありますからね
なんかこう動向をウォッチして
速度超過の車を逮捕するためのものではないと思うんですが
その辺のことってある意味難しいとは思うんですよ
自分がそういう厳しいところの監視家みたいなのに
晒されてきたという人にとっては
逆もありますからね
せっかく自分が育てた
この言い方も相当なもんだと思うんですけど
せっかく自分が苦労してお金をかけて育てた子供が
自分を見捨てて
吸い取るものだけ吸い取って
いなくなろうとしているという妄想を持つ
というケースもあるわけだから
常に監視家に置かれているということが
妄想とは言い切れませんから
難しいんですけれども
そういうことが全部
この東洋ドイツ化っていう概念の中には
含み込まれてくるなっていうのを
すごく最近考えるようになったんですよ
これがコミュニケーションに準ずるっていうんですかね
形を取るような気がするんですね
それが私たちが割と使えるんじゃないかと
つまりこれ必ずしも妄想ばかりが問題なんじゃなくて
要は自分がある感情とか気持ちになったとき
なぜなのかがはっきりしないときには
誰かが何かを伝えてきている
ただしそれが明示的でなく
その人には伝えようという意思すらないから
わからないんだけれども
きっと何かを伝えてきていると思うと
非常に見えてくるところがありまして
しかも必ずしも嫌なことばかりじゃなくなっていく
という良さがあるわけです
29:31

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