2021-07-20 24:18

【GMV 421】なぜスキャンダルを追いたくなるか?

現実の厳しさは公平であってほしい
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今日も右壁に切り上げる必要があるので、なるべくコンパクトにいきたいと思うんですけど、
こういう時に一つあれなんだなと思いました。
無テーマっていうのの難しさがありますね。
テーマがないので、一旦それで始めると長くなっちゃいそうな時に、
どうするんだっていうのが一切ないので、
ノープランなんですけど、
ノープランといえば4期の書き上げ塾が始まりました。おかげさまで大盛況なんですが、
6ヶ月後に5期がありますので、きっとこれよろしければ念頭に置いておいていただければ幸いですと思います。
論文というのが、論文をメインで募集はかけませんが、
論文を書きたいという方も今回もいらっしゃっているので、
そういう方向けにもできると思うので、ぜひ検討していただければと思います。
今日考えているのは発言こまちみたいなやつ。
別にそれを見るとか読むのが良くないとは少しも僕は思わないんですが、
ただそれに5時間くらいかけちゃうとか3時間くらいかけてしまうという話が時々あって、
しかもできればゼロにしたいみたいな、それは無理だって僕は思うんですよ。
3時間もやるものをゼロにしようというのは無理ですよね。
よく子供とかが急にやるじゃないですか、男主みたいな感じ。
漫画を絶つぞみたいな感じで、まあ無理ですよね。
かえって伸びたりします。
悪癖っていうんですかね、俗に時間を無駄にする。
この辺が全然グッドバイブスでは出てこない概念なんですが、
この世に悪癖は私もないと思いますし、
犯罪的な例えばドラッグとかになってくると、
これはなんとかしないわけにはいかないんですけどね、社会的な理由で。
ただ私は非常にラディカルな言い方をすればですね、
なぜそれを人の社会が悪癖だとみなしているかを理解するまでは、
それを悪癖だとみなしてみたところで、
なかなか問題は解決しないだろうなとも思いますね。
今回はそこまで話はでかくなくて、
要するに発言こまちを見る時間を程々にしたいと。
YouTubeでもいいんですし、
Yahoo知恵袋とか、
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相談して答えているというのを延々見る。
たぶん、そこで私が聞いたものの一つに
叱られている人を見たいと。
これはそもそも運営の趣旨とは違うと思うんですよ。
知恵袋っていうのは叱られコレクターとかじゃないので、
知恵袋を見に行って叱られている人を見て、
気持ちを奮い立たせたいのか、
納得したいのか分かりませんが、
バッシングを見たいみたいな感じなんですよね。
でもTwitterって別にバッシング装置じゃないじゃないですか。
趣旨としてそれは違いますよね。
だからTwitterを楽しむということと、
バッシングを眺めたいというのは
イコールで結んじゃいけないと思うんですよ。
運営している人たちからしてもそういう風では、
私は分かりませんが、
盛り上がるのは結構だと思うんですけど、
そうであってほしいとは思っていない気がするんですね。
で、なんでこの種のものがそんなに3時間とか、
私はバッシングを1時間とか見ていたいとは思いませんが、
思うのかと。
さまざまあって、ぶっちゃけ相談。
クラスノケゾさんとやっているYouTubeのあれもですね、
ハガキが一時結構来てるんですけど、止まるんですよね。
止まるのはしょうがないかなと思うんですけども、
お悩み相談があったら言っていただければと思います。
あそこでクラスノさんがすでに答えていただいている内容に
同じようなものがありまして、
あれでいい、ああいうことだと思うんです、私も。
私は今日はただちょっと違う、同じ話を私が
ここでもう1回してもしょうがないので、
しょうがなくはないけど、
違うことをちょっと考えたので、そっちを喋りたいんですけど、
まずですね、ちょっと昨日累積外傷という言葉を少し出しました。
要するにこれについては今後、
しごたなとかチェンジ図とかで書いていきたいなと思っていますが、
累積外傷というのは、要するに大きな外傷的な事件がなくても、
それが積もっていくうちにトラウマになると。
上司のちょっとした言動がね、連日のように来ると、
1個1個でのトラウマなんてないけれど、
なんかそれが2年となるとトラウマになってしまうみたいな、
そういうやつだと。
私なんか満員電車だってあるんですけどね、
あれをやっぱり6年間、私は中学高校6年間、
ひどいもんだったんですよ、高田のババとか。
これは駅の行為か、これがっていうような感じだったんで、
累積外傷というのはちょっと大げさかもしれませんけど、
あれをでもやっぱり2000日近くやればですね、
嫌になっちゃうんですよね。
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これは一種の累積外傷かなと思うんだけど、
要するに現実にドーンとぶつかった時に、
この番組でも時々言っている、
私たちは基本万能感を携えてまずいくんですよ。
で、これの次に、でもお前万能じゃないだろうっていう議論と、
結構万能じゃないかという意見で僕は分かれると思うんですね。
万能だったのは運が良かったからだっていう言い方は、
私は基本的には正しくないと思うんですね。
運の悪いところにいきなり生み落とされることはあんまりないと思うんですよ。
例えば目高の卵は一番、
環境的に望ましいところに降り落ちていく。
少なくとも間違っても水の外っていうことはないと思うんですね。
いろんな意味で。
たまーにはあるかもしれませんけど、
基本的にはそういうことはないと思うんですよ。
つまり環境というものは、
万能にその何か生物であればってことですけど、
働くように多分なっているはずなんですね。
ある程度が大事で、
ある程度そうなっていれば
万能感というものを失うような出来事はそもそもないと。
これをですね、
だから万能感があるんじゃなくて、
万能感があれば万能になれるという、
そういう路線で持っていきたいというところなんですよ。
逆にしてしまうと、
たまーには、
そういうところなんですよ。
逆にしてしまうと、
たぶんいつまで経っても万能感って得られないと思うんですよ。
万能じゃなきゃ万能感を持っちゃダメみたいになると、
まず無理だと思うんですよね。
そうした時に、
累積外傷というのは一つ大きなネックになると僕は思うんです。
要するに累積外傷というのは、
お前私万能じゃなかったということを結果思い知るということになるので、
いろんな意味でこれが問題を引き起こす。
特に仕事ではたぶん引き起こすだろうと。
そういう時に私はですね、
万能感を人は取り戻す努力をきっとするんだろうと思うんですね。
私なんかだったらですね、
子供時代にやったことに戻るというのを、
割と咄嗟に使うんですね。
咄嗟に使うというのは、
咄嗟というのは要するに対抗というのかもしれないけど、
対抗とは思えないので、
かなり部分的な対抗というのがいいかなと思います。
部分的に子供に戻る。
そうすることによって、
子供時代のことであれば万能じゃないですか。
漫画を読めるということは、
漫画を読む上では万能なんですよ。
ここが非常に大事なんですよ。
万能というのは環境と無関係には出てこないんですよ。
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スポーツ万能とかって言うじゃないですか。
スポーツが万能なんですよ。
宇宙ですべてのことが万能にできるという存在はないので、
万能というのは何て言えばいいんですかね。
超越ではないんですよね、要するに。
適応できていれば万能なんです。
子供時代に戻るというのは、
昔万能な感というものはあったところまでは戻れるから、
なぜならばそこをくぐり抜けてきていなければ、
基本適応できていなければ、
生きていないに等しい状態だと思います。
だから生きてきたということは、
以前の状態には適応できたということになるので、
少々厳しくてもですね。
だから万能なんですよ。
タスクシュートの一つのポイントに、
断続的に今やっていることを記録していくというのがありますね。
そうすると記録は必ず後ろに残ってきます。
これを消さないということです。
私はこれを消さなければいいと思うんですよ。
ライフログとして残すとか、
そういうことを別にことさら考える必要はないと思うんです。
現在の記録が残っているんだから、
過去に記録は蓄積されていくじゃないですか。
ちょっと人生と似ているんですけど、
それでいいと思うんですよ。
そうすれば自分が万能であったし、
つい最近までというか、
今の直前まで万能であったことがちゃんと分かるんですよ。
この万能を優越とか超越でやっぱり捉えちゃダメなんですよね。
誰よりもそれができるという意味ではないんです。
どんなことでも直面する現実には対応できるというような意味でしかないんです。
でも累積外傷みたいな、
常識がきついとか、
満員電車がきついとか、
さまざま朝起きるのがきついとか、
さまざまありますが、
さまざまあって、
自分万能じゃない気がする、
ここの現実には適応できる気がしないみたいになった時に、
少し対抗するという考え方があるんですね。
対抗してそこで万能感を取り戻してまた出かけていく。
私これ理にかなったやり方だなと思うんですね。
だから漫画とか読むんですよ。
ゲームとかしたりですね。
少し戻る。
少し戻れば自分が万能だったことを感覚として思い出せるので、
やっていけるんだ自分はということになる。
僕はそれがですね、発言小町というようなもの、
ヤフー知恵袋というようなものを読むということで、
何らかの形で少し戻って取り戻すというものの、
試みの一つなんだなと。
そういう風に思うんですよ。
大体バッシングを見るとか、
人を罰されているところを眺めるというのは、
現実と何かが格闘している感じってありますよね。
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あんまり僕は例を出したくないんですけど、
一つ例を出します。
私、千葉ロッテマリンズのファンなんで、
最近千葉ロッテマリンズである選手が、
コロナ禍の中で不倫したみたいな話で、
いろいろバッシングされて、結局辞めさせられちゃったんですね。
私は非常にしょうがないと思うんですよ。
聞こえが悪いという意味で、
ただ、かわいそうだなとも思うんですよ。
つまり、これと全く同じようなことを、
という言い方ではないな。
コロナ禍ではないですからね。
でも似たようなことはあっただろうに、
クビになった人はクビになっていない人の方が
多いぐらいだろうにとも思うんですよ。
問題になっているのは、そういうことでは全くなくて、
問題になるのは、ここでみんながバッシングをしている人、
少なくともそれを眺めている中で、
何かそれによって胸の使いが取れるとか、
つまり、私はたまたまファンだったからね、
そういう方面で見ることはできないんですけれども、
胸の使いが取れるとか、
なんとなく世の中がいい方向に向かったような感じを抱くとか、
あると思うんです。
なければ、こういうものが視聴率を取れたりはしないと思うんですよ。
トレンド入りしたりですね。
つまり、ここには感じの悪い話になってしまうんですけど、
ただここには、自分が現実に直面していて、
累積外傷とかもくらっていて、
つまり小さなトラウマの蓄積みたいなものをくらっていて、
少し自分が苦しんで戻っているという時に、
基本的に世の中には問題があると。
基本的に人はですね、生物はみんなだと僕は思いますが、
万能感を携えてやっていきたいし、
みんな万能感を発揮できると思うんだけれども、
できなかったということになると、辛いんですよね。
二重に辛い。
一つは、そもそも万能感が潰されかけて辛い。
もう一つは、自分だけが劣等感を持たなければならないような気がして、
他の人、つまりこれは万能感というのは人と比べるものではないんですけれども、
すぐ人と比べてしまうんですね。
彼は万能だが自分は万能ではないとか、
もうちょっと本音を言うと、
自分は万能だが他は万能でなくあってほしいとかですね。
そういうのがあると思うんですよ。
ここに競争というものがあるから、
そういう感覚ってあると思うんですね。
だから競争はゲームであるべきなんですよ、本当は。
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ここを見失うから、何かこう実存的って言うんですかね。
人生全体を賭けたゲームみたいになってしまって、
どっちが万能かゲームみたいになっちゃうんですけど、
そうでは本当はないはずなんですね。
ゲームというのはルールがあってゲームなんで、
どっちが優秀かということは、
何かの基準があって初めて優秀ですよね。
でもその基準はあくまでも人工的に作り上げられたものであって、
つまりイリュージョンじゃないとおかしいんですよ。
手を使っちゃいけないからサッカーなんですよ。
手を使ったら私の方が上手いかもしれないじゃないですか、
プロの選手より。
手を使ってずっと走っていけばいいって、
ラクビーみたいになっちゃいますよね。
だから万能感というものは、
そういうものじゃないんですね。
スポーツの世界は優越感というものが起こるようにできていると思うんです。
それでも頑張ってそれと格闘してますけれども、
でも起こるようにはできていると思うんです。
だって100m走やったら一発じゃないですか、
どっちが速いかすぐ分かります。
でもそれは100m走をやるからですよね。
100m走の速い方が人生を万能に生きられるという話ではないわけで、
あくまでも100m走ではこっちの方が速いって話をできる。
それは当然そういうことをやれば順位というものをつけることができるんだけれども、
これでトラウマを食らう理由はないはずなんですよ、本当は。
自分は最下位だったからトラウマになった。
本当はそういうのっておかしいと思うんですよ。
自分は最下位だから人生万能じゃないっていうのは全然違うと思うんですよね。
時々メダカの話を出しますが、真下にいるからなんですが、
メダカはこのビオトープの中で生きていければ万能なんですよ。
100m走は遅いに決まってるじゃないですか。
そんなことで別にトラウマは受けないですよね。
つまり生きていければそれで十分という意味で万能なら、
それで十分という意味で万能ならいいんであって、
それと優越感は別物なんですね。
私たちの世界はでも優越感というものをいろんなところで測られるようになってるから、
この二つを混ぜるんだと思うんです。
その時に自分がかなり万能感を失いつつある時は、
どうしても同じような失敗によって万能感というものをもっと厳しい失い方をして、
しかもそのことを社会的な制裁を受けているという図を見たくなるんだと思うんです。
これは私は逆だと本当は思うんですけれども、
打開してそういうことが起こる気はするんですよ。
見たくなるんだと思うんです。
そうなの。万能感を失うような失敗をする者は、
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社会的な制裁を受けて劣等感を抱えて一生苦しまなければならないというものを見たくなる。
つまりそのルールは厳然として、全く厳然としてないんですが厳然として要を支配しているというのを見たくなる。
そうしないと自分の苦しみが全くわけのわからんものになるじゃないですか。
実はその方が僕はいいと思うんですけど、
グッドワイブズで言っていることはそれに近いと思うんですけどね。
自分の苦しみは全く根拠のないものだと知れば苦しみが取れるじゃないですか。
ところが外して私たちは逆に走るんですね。苦しみは取れないと信じるようになると。
取れないんだったらせめてこの苦しみには公平感があってほしいみたいなところが出てくるんだと思うんですよ。
でもよく考えてみると全人類を統一するルールとかってありえないって、
この苦しみが本当のものであって十分な根拠に基づくものだという必然性が見当たらなくなるんだと思うんですね。
この話をしているうちに時間がとても経っているのでもうやめますけど、
この話なんか昔ニーチェが言っていたようなこととよく似てる気がします。
つまり統一のルールというものは何かというと、彼は強いか弱いかだって言ったんですよね。
あれは強い皮肉だと思うんですけれども、ものすごいラディカルという言い方もできますよね。
正しいかどうかではないと、強いかどうかだと。
これはでも非常に哲学者らしいなという気がします。
果たしてそうだろうかと言えるような問題っていっぱい残っちゃいますからね。
例えば2×2は4というのを2×2は10にこれからするという世界最強の人が言ったとしても、
ほとんどの人は納得できないんじゃないかなという気がするんですよ。
それに近い状況が出現することは確かにありますけれども、
でもやっぱりそういうふうにはなりきらない気がしますね。
ただあの人はそういうことをどこかで言い切るということが必要だと思ったんだと思います。
結局統一のルールってでもないんですよ。
嫁姑の関係が同じ家にいれば必ず不幸になるみたいな、
そういうルールがあるところを見たいという気持ちにもなるんですよね。
自分が苦しんでいる時にはその現象で。
こうしているからだめなのに、自分にはそれは今どうにもできないが、
せめてこれがルールであった方がいいかもしれない。
この苦しみに特殊性みたいなものを、あまりにも自分だけが運が悪いというふうに捉えずに済むからですね。
きっとそういうところが、あれをずっと眺めているということによって、
なんかこうやっぱり世の中にはですね、過酷なルールみたいなものが支配していると。
そして制裁を加えられてしまうということを、
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一定の納得を得る。
やむを得ず自分は満員電車に乗っているみたいな、
そういう満員電車に乗っているという苦しみを、
かつげんこまちで納得するのは難しいので、
やっぱり人間関係になるのかなという感じはします。
もう一つは、気をつけようと思うということだと思うんですよね。
やっぱりものすごくバッシングされるという、
これはツイッターとかでものすごくバッシングされるケースもあると。
意外にそれは本人がよく見ると、本人が気をつけうるものでもないようにも見えると。
それだけにやっぱり人生は非常に慎重に生きていかなければならない。
今日の話はフェットワイブスと正反対の方から考えてみているんだけど、
私はこれはとても大事だと思うんですよね。
これ以外に世界の味方が存在しないとするならば、かなりきついと思うんですよ。
だから多分、自分はフェットワイブスの話を一生懸命している面があって、
こういうとフェットワイブスというのは幻想的な希望を抱かせるもののようなんですけれども、
一つ大きなポイントとして、
フェットワイブスというのは、
あって当然のものだという合理的な理由はあると思うんです。
さっき途中申し上げた通りで、
生物は基本的には望ましい環境の下に生まれ落ちるように作られているし、
作られているということは、
フェットワイブスというのは、
フェットワイブスというのは、
フェットワイブスというのは、
基本的に望ましい環境の下に生まれ落ちるように作られているし、
作られているということは、
そういうものは十分可能だという話であるから、
これを人と比較しなければ本当にいいんですよ。
よく考えてみると、
万能感が失われるときは、
必ず劣等感に結びつくはずなんです。
これは例外がないと思います。
ところで、劣等感と万能感は何の関係もないんです。
これは優越感なんですよね。
優越感と万能感は異なる次元のものなんですよ。
だから、当然、劣等感と万能感は
対にならない考え方なんです。
なのに、この二つが対になるうちに、
自分なんかが万能感なんて持っていちゃダメなんだと、
そういう過酷なルールが世の中にあるんだということを、
わざわざスキャンダルとか知恵袋とかで確認、
それを何時間もかけて確認するということを
これも、つまり僕は一種の部分的な対抗で、
これぐらい、こういうところを自分はでも
何とか乗り切っていけそうだと思うと、
仕事にまた再復帰できるのかもしれないんですけど、
このやり方は、僕はいい方法だとは思わないんですよ。
これだったら、漫画を読んでいる方が
マシなんじゃないかというふうに思うんですね。
たぶん、漫画を読むときってそうじゃないですか。
24:00
誰も他人と比較しないですよね、自分は。
漫画を読む速さとか、漫画を読む理解できる能力とか、
誰とも比較してないと思うんですよ。
こういう感覚じゃないと万能感ではないと思うんですね。
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