2023-04-14 52:25

【768】超自我と縁を切る

肉体も部分対象なのかもしれない
平日感についての話
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
1月14日、金曜日の朝8時ですね。
毎日毎日、今週は平日感をわざわざ強く出すようなことを言ってきたんですが、
これはですね、この時しか意識しないんですよ。
ある意味、グッドモーニング・ボイスを喋っている最中だけ、僕の中で平日感というものがあって、
結局フリーランスって、平日も休日も同じなので、朝起きる時間が違うぐらいしか違うことがなくて、
僕正直、平日の1日を休みにするとか、
昔誰だっけな、あれはね、佐藤和夫さんという方が、白いタオルみたいなのをデザインするのかな、
詳しくないんで私すいません。
そういうような方がですね、すごい方なんですよ、きっと。
1日休日を作るっていうのをやってたんですけど、
僕もその頃はそういうのを真似るべきだって思ってたから真似てたんですけど、
いつしか必ずそこをやむやになるということがあって、
僕はこういうの全然向かないんだなというふうにすぐ諦めた記憶が。
確かね、佐藤さんは火曜日を休みにする、それはなんかわかる気がするんですよ。
火曜日とかっていろんな意味で休む価値が高いそうじゃないですか。
でも下手に火曜日を休みにするとかをするとですね、
なんかお気に入りのパン屋も火曜日は休みとかね。
うちの近くって割とそうなんですよ。
美味しい目のところのレストランはことごとく火曜は休むんで、
火曜休日にするメリットって実は何にもないんですよね。
火曜を休日にすると本当に何もしない1日が、
なんていうんですかね、何にもできない1日が出来上がっちゃうんですよね、その日は。
結局そういう時にぼんやり休んでると奥さんから買い物とかバンバン頼まれて、
いつもより忙しい休日が出来上がるぐらいなんで、
そうやってそこをうやむやになってくるんですよね。
日常におけるタスク管理についての話
だからといって土曜日を休みとかにしてもですね、
いや土曜日はオンラインタスク周到会がありますからとかって、
あっさりこう他から入ってきて、
昨日言った通り僕は人と仕事してるんでね。
だから土曜日を休みにするとかは、
自分の仕事をしない日が出来上がるだけでやっぱり意味がないんですよ、あんまりね。
こういうことをいろいろ考えていくとすごいめんどくさいだけになって、
嫌になっちゃったんで即やめましたね、これはね。
ほとんど前日火曜日、前日休曜日みたいな、
そういう風にしている感じがあります。
ただ春になって間違いなく火曜感が上がってるんで、
これは休みが終わったせいもあるんですけどね、娘の。
結局なんだかんだ僕は冬の活動量が低下していくということが、
なんとなく今年は的面に出ている気がしますけども、
そういうのがある感じですね。
今の話と関係があるような内容なんですけど、
これはセッション中に聞かれたんで、
ちょっと簡単にお答えしておこうと思うんですが、
私は別に四六時中ですね、
モーニング娘。ブッドバイブスとか万能空想のこととか、
四六時中それをやって生きているわけではないんですよ。
こういう誤解はもしかすると、
ある種の活動している人には付きまとうのかもしれないですけど、
僕は結構最近はちょっとお気楽すぎるくらい
お気楽に生きているところがありまして、
頭の中は、例えば昨日の夜とかになっちゃうとですね、
ほとんどなぜロッテはメルセデスを使って負けるんだとか、
そういうことしか考えていなくてですね、
毎日毎日長時間が堂々として、
自分のストレスがこうなってとかを、
毎日考えてはいるけど、
毎秒毎秒そういうことを考えて生きているわけではないですね。
これは以前タスクカフェでも言われたんですけど、
僕は別に毎秒毎秒タスクシュートのことについて考えて、
タスクシュートの記録を取っているわけではないんですよ。
そういう人もいるのかもしれないけど、
私はそんなことはしていなくてですね、
タスクシュートが一番頭の中で稼働しているのは、
せいぜい起きてからの3時間くらい。
この辺はやっぱりぎゅうぎゅうめになるわけじゃない。
なりやすいですよね。僕はないですけど、
何時までにこれとこれとこれをしてみたいな、
非常に過密スケジュールになりやすい時間帯とかってあるから、
そういう時にタスクシュートを使うんですけど、
昼とかね、
グッドモーニング・ボイスにおける話題の取り扱いについての話
今の生活で、
昼とかになったらもうだらーっとなって、
平気で昼食休憩100分みたいな、
昔ね、
イタリアの特急列車って100分遅れとか書いてあって、
すごい禁食をかけた時代があったらしいんですけど、
そういう世界になっちゃうんですよね。
で、そういう時に何もですね、
別に奥さんともワヒャイヤイと喋ってるんであれば、
長時間学校主だとか万能空想が足だとか、
グッドバイブスでいうところのこれは偽りの恐怖だから、
とかって考えて生きてるわけではないんですよ。
そういうことをずっとやらなければならないとすると、
それは、
かなり厳しい状況でありまして、
今の私の状況は全然厳しくないんですよね、
本当に。
あえて問題を提起するならば、
ここかな、みたいなのを
意識しないとですね、
あんまり意識することすら少なくなってきているというのが実情です。
グッドフォニンボイズでは、
さも何か問題があるような風をしてですね、
一生懸命これをピックアップしてはこうだ、
みたいな話をしてるんですけど、
これは人に聞いた話もあれば本で読んだ話もあるんですよ。
でもそれを全部喋るわけにはいかないので、
全部喋るためにはどうすればいいかというと、
全部自分の問題にしてしまうのが一番いいんですね。
自分としてはそうすれば、
どこがプライバシーに引っかかるとか、
どこが他の人の著作権に関わるとかいったことを、
いちいち断りを入れずに話すことができるじゃないですか。
私はさもものすごい大量の問題を、
グッドフォニンボイズなり精神分析なりで、
日々徹底的に格闘して頑張って生きているように、
聞こえるかもしれませんが、
私の人生はそんなに今、
深刻な状況には申し訳ないとちょっと思うんですよ。
もっと深刻な人はいるわけですからね。
でも私は実際はそうではないので、
なぜこういうことをしゃべっているかというと、
セッションとセミナーで1、2度かな、
自己と世界の関係について
最近ちょっと質問を受けて、
佐々木さんはあんなにすごい状態を、
そうやって乗り切ってすごいけど、
私はそれに比べてみたいな話をされたことがありまして、
それに比べるのであればですね、
私の方が多分楽しているとは思いますね。
私の方が厳しい状態で、
せいぜいファイナンスの経済的な問題であって、
それも一時期に比べると完全にそこを打った感じがありまして、
おかげさまで、
今はそんなに、
毎日毎日、毎秒毎秒ですね、
やれ、タスクシュートで改善しようとか、
ここはもうグッドバイオスで頑張って乗り切らねばだめだみたいな、
そういう瞬間がありまして、
それに比べると、
ポータルで見ると、
二重感と深刻さ
日頃はそんなことはほとんど意識していないです。
もう本当、
昼食中から以降はですね、
ミーティングが入っている時間だけ仕事をしていれば、
まあまあ回っていくかなみたいな、
もう少し頑張ってはいますけど、
あんまり、
あんまり、
もう少し頑張ってはいますけど、
あんまりもう昼以降頑張るというような感じではなくなりつつあるというのが、
まあ、
だからそんなに一日中やってられないよねっていうのは、
よくわかりますよ。
タスクシュートだってそうですよ。
百チャレの人向けにも喋っておりますけれども、
一日中頑張って記録取るのができませんとか言うのはですね、
悩みの星に本当に入らないと思うんですよね。
そんなことは別に、
できる人はいるけれども、私も一応できますけど、
そんなことしなくても全然いいと思うんですよね。
まあそういう風に、
グッドバイブスであれタスクシュートであれ、
こうやってこう完璧にして、
そもそもその発想と相入れない方法論だと思うんですよね、
どっちもね。
いずれにしてもその、
例えば私が、
グッドバイブスファクトリーというオンラインコミュニティ向けのTVでですね、
悩み相談をグラドノさんにするときは、
ややですね、
やや一般的な話に寄せもするし、
私として深刻な方法を採用するんですよ。
少し深刻ブルってことですよ。
そういうことをしないとらしくならないじゃないですか。
実はどっちでも本当に良かったらダメだと思うんですよね。
ここって本当に微妙なところで、
そういう風に思って意識してしゃべっていると、
そういう風にも思えてくるってことはあるんですよね。
認識の問題だっていうことです。
このまま話に入ってしまうんですけれども、
以前グラドノさんが多分ですね、
サミナー間何かで数堂話になっていた、
機関車トーマスの話があるんですよね。
私はあれは、
確認事項だってよく思っているんですよ。
どういうことかというと、
機関車トーマスをご存知ないという方は、
ちょっとイメージしてほしいんですけど、
機関車に顔がついているんですね。
つまり擬人化した機関車なんですよ。
機関車イコール私なんですね、トーマスは。
トーマスは機関車なんですよ。
そして顔がついていて、要するに、
そういう漫画っていっぱいあるじゃないですか。
昔、私全然見てないから間違ってるかもしれないけど、
艦隊コレクションとかそういう世界なんじゃないかと。
そういう世界っていっぱいありますよね。
物に顔がついていて、
物が人化しているやつでやっていくという話ですね。
昔の絵本ってそういうのいっぱいあったと思うんですけど、
今でも絵本にはいっぱいあると思うんですけど、
要するに物に顔をつけたら人になっちゃうんですよね。
我々は顔というものを使って人を認識しているから。
機関車トーマスの話をなぜクラノムさんがされていたかというと、
確認事項だといったのはですね、
そうなったら立ち止まって考えるべきだからなんですよ。
立ち止まって考えるべきだからなんですよ。
途中私、認識の問題と言いましたよね。
要するに私たちは、
別に体が私だと思っててもいいっていうのはおかしいんですけど、
体が私だと思うことも当然あると思うんですね。
ポイントになってくるのは、
体がイコール私で、
私は体以外の何者でもないのかどうかっていう辺なんですよ。
機関車トーマスの絵はですね、
トーマスは機関車以外の何者でもなくなっているわけですね。
私たちはああいう風に生きているんですけど、
体に顔がついてるから、
言ってみれば二重になっているわけです。
体は世界の一部でもあるから、
私はこの体なんだけど、
それは確かなんだけど、
同時に世界でもあるっていうこの部分を
忘れ去っちゃわないようにしましょうね、
という話なんですよ。
忘れ去るんですよね。
しかも今の世の中では、
むしろ忘れ去る方が推奨されているようなところがあるから、
一層忘れやすくなってるんで、
で、忘れてても結構なんですが、
結構な時には、
これを忘れるですね、結構じゃない時が訪れることが多いんですよ。
その時に思い出しましょうと。
その時だけ思い出すっていうのは、
実はとっても無理があるんですね。
逆なんですよ、多くの場合。
何にも起きてない時ほど、
例えば家庭で奥さんと喧嘩してないとか、
会社でも平穏にやってますとか、
今の私のさっき言ったような状態ですよね。
気楽に生きている時であれば、
いいんですよ、どっちでも。
でも気楽に生きている時ほど、
この二重感は実は意識しやすいんですね。
時代が深刻になればなるほど、
さっき私深刻ぶるって言いましたが、
深刻ぶるとですね、むしろ忘れる方向に向かうんですよ。
逆なんですよ、これがね。
深刻な時ほど世界でもあるってことを思い出しましょうってことなんだけど、
深刻な時だけ世界でもあることを思い出すのは、
喋ってて思うんですけど、
つくづく無理があるんですよね。
深刻であればあるほどどんどん僕らはトーマス化していくんですよ。
機関車トーマス化していくんですね。
身体性と自己意識
深刻になるということは、
そもそも機関車トーマス化するってことなんですよ。
だからその時に、
自分は身体だけの存在じゃないんだと思いたかったら、
普段からそういう意識づけを持っておきましょうね、
という話を、
グッドバイオスでよくされているんだと思っているんですね。
この話は何度も何度もしていると思います、
この番組では。
でも、
この番組もきっとそうだと思うんですけど、
100回くらい飛ばして聞くと、
大きく話は変わっているんじゃないかと思うんですね。
ということはつまり、
こうやって全く同じ話をぐるぐるしているうちに、
どこか進行していくんですよね。
この辺はブログでも起こる現象だったんだけど、
大変興味深いですよね。
テーマは何でも起こりますね、この現象は。
名前がどんどん出てこなくなるんですね。
小暮雅人さんって、
非常に超有名な、
日本で一番有名なんじゃないですかね。
そんなことはないのかな、ブロガーとして。
あの人は私の大学の先輩なんですが、
ネタフルというブログを書いて、
超有名な方なんですけど、
そのお友達の方に、
名前を完全に忘れたんですが、
見たいもんっていうブログを書かれている方がいらっしゃっていて、
見たいもんっていうのは、見たいから見たいもんなんだと思うんですけど、
今は真見たいもんとかになっていて、
昔僕が知っていた見たいもんとは全く違うブログになっているんだけど、
毎日書いていることって、
ほとんど同じような雰囲気だったんですよ。
今でもそうなんだと思うんだけど、
でも、私もそういうところから、
RSSを読むみたいな習慣が、
変化しているものですから、
間が2年くらい空いているわけですよね。
そうすると全然違う、真見たいもんと見たいもんも、
全く違うものに見えるんですよ。
そういう雰囲気が起きているんじゃないかなと思うので、
それは良いことというか、毎日やってて当然そうなるんですよね。
不思議なんですよ。
昨日と今日僕が喋っていることって、ほとんど同じような気がするんですが、
これが100回くらい開くと、
不思議と結構変化しているんですよね。
小さいこと、久しぶりにあったみたいなやつですよね。
大きくなったわね、みたいなことって言うじゃないですか。
あれが起こる気がするんですよね。
自分が身体的に成長って言うんでしょうね。
私はこれが成長なのかどうかが分からないんですけどね。
変化はしていると思うんですね。
帰還者トーマスの例えというのは、
私は確認で使うんですよ。
あ、今トーマス化しすぎている。
トーマス化はするんですよ。
自分が身体じゃなくなったというのは、
私は有体離脱感というのは、
自分が身体ではない感情を抱くということはあったんだけど、
それは人生の中でも、
本当に0.01%以下ですよね。
ほとんどの時間は、
自分は自分の身体ではあると考えるんだけど、
だけであると考えているときは、
大体危機的状況にある。
これ以外のものでありえないみたいになったときは、
あれなんですよ。
昨日お話した、おとといお話した、
超自我同一化、これ不思議ですよね。
自分の身体以外の何者でもないと言っているくせに、
超自我には同一化しているし、
いいおっぱいにも同一化しているんですよ。
完全にその世界に入り込むんですよね。
私が思うにね、
妄想分裂ポジションというのは、
僕らは頻繁にそこにポジションを取るし、
ここから完全に脱出することは、
ほとんどの人はほとんどないと思うんですけど、
でも欲打つポジションにも片足突っ込んでいるわけですね。
ここが欲打つポジションから完全に行けなくなったときに、
妄想分裂ポジションどっぷりになるわけですけど、
これがひどく進行した状態が、
機関車トーマス状態になるわけですよ。
機関車トーマスも、
過度に興奮して熱くなって、
機関車トーマスがボーッとなっていくじゃないですか。
そして、もう機関車以外の何者でもない感じになった、
あの感じと妄想分裂ポジションが
すっごい似てるんですよ。
だいたいそういう時、トーマスは暴走気味で、
悪いことをして、
社長の人みたいに
後でお説教されるわけですけど、
あの話もそうですけど、
感じるものがあるんですよ。
だから私は確認事項だと思ってるんですね。
クラゾンさんがこの話をしたときに、
これを、つまり、なってないかのチェックに
使えばいいんだろうなって感じがするんですよ。
世界というか、
自分は世界でもあるっていうのを
感覚として表現するのは難しいんですけど、
自分の本体が
すごく前の方にあるときは
トーマス感が強いですね。
自分の感覚が
体をコントロールしている、
体の一番後方に
中心が下がったような感じがしたときが、
僕の中ではですね、
最近、普通に一番経験できている平安な
妄想分裂ポジションと機関車トーマス化
位置なんですね。
欲打つポジションの欲打つがない状態
ってやつなんですよ。
だからクラゾンさんの表現するところの
愛そのものっていうのは、
この状態に近いんだろうなって思うんですよ。
恐れと不安が全くない状態。
現実にいるって感じがする状態なんですね。
現実以外のところに心が行っちゃってないという、
そういう状態なんです。
これも喋ってると不思議なんですよね。
目がギンギンになって
トーマスがボーっとなっているときは、
すごく現実に向かっている感じがするじゃないですか。
だけれども、あのときって、
私は完全に妄想分裂ポジションって言うだけのことがあって、
妄想ポジションと超自画になる状態
妄想分裂というよりは、
ひたすら妄想ポジションみたいな感じがするんですよ。
頭の中で作っている現実の中に、
そこに何か向かって、
邁進している感じがするんですね。
超自画になるぞ、みたいな感じです。
超自画になる以外は、
絶対にありえない、みたいな感じがするんですよ。
で、
先日、
これは先日だけではなく、
クラゾンさんのポッドキャストでも、
出しているんだけど、不思議なんですよね。
許せない、みたいな感じ。
これはどういう感じなんだって思うんですよ。
絶対に許してはいけない、みたいな、そういうですね。
だから超自画と同一化するぐらいだから、
やっぱり正さねば、
っていうことなんですよね。
超自画というのは、正しさの権限みたいな存在ですから。
ほら、あるじゃないですか。
清く正しくっていうやつ。
なんかね、清さと正しさがそこには、
集中している感じがして、
だから部分対象なんですけどね。
世の中に清さと美しさが集中している場所ってないわけじゃないですか。
そんなものは。
そこを無理やり作り出して、
それ以外は全部、
汚染と悪みたいになっていくわけですよ。
そういうところにはとてもいられないから、
そんな風には思わないんですよね。
ここにとにかく、自動一化することによって、
正規が完遂するみたいな、
なんか戦前の日本人みたいになっちゃうんですけど、
そういう目がちばしたみたいな感じになると、
万能になれるわけですよね、やっぱりね。
だからもう、これを選択しないでどうするんだ、
みたいなのが突きつけられている感じ。
それの反対側を考えてみると、
とっても不思議なんですよ。
例えば、ある種の人は絶対こういうシチュエーションにするを言うと思うんですけど、
例えば私が、
編集さんにですね、
編集さんと、
この名前しかなかったけど、
打ち合わせましょうっていう話があって、
品川のクリエというカフェに来てくださいと言われて、
もうこの段階でですね、
人によっては呼び出されている感みたいなものを、
持つのかもしれませんよね。
でも13時になって、
13時に待ち合わせって言った時に、
12時45分くらいに、
30分遅くなりそうですみたいなのがメールとして入るわけじゃないですか。
こういう風に叫ぶわけじゃないですけどね、メールだから。
そうか、しょうがないなと思って、
まずは書店でしながらやるんで、
寄って行くなり、あるいは、
そこで待って本を読んでいると、
30分経っても来ないと。
そうするとだんだんですね、さっきのフォーマス感が出てくるわけですよ。
だんだん自分がこう、
世界でもあるなどということは全く意識しなくなって、
私はこの肉体である、ここが面白いところだと思うんですよね。
この出来事と、
自分は肉体以外の何物でもないということとか、
イコールとして結びつくには、
実はロジックで言うと結構なステップがあると思うんだけど、
これは一瞬で起きるんですよ。
理屈は分かりやすいんですよ。
損をしたから、
損をしたということがストレスになるという感じを抱きますよね。
この損をしているというのも、
時間を損をしているという考え方なんで、
非常に部分対象というのかな、
空想なんですよね。
ここをですね、
細かく説明するのは結構骨が折れるところなんですが、
要はこういうことだと思うんですよ。
30分間、本当であれば、
例えば、
時間の有効活用
ここで出す必要はないんだけど、
名前を出してみると、
大橋さんがね、
映画を見ることができたかもしれないと思うのかな。
私の場合、野球を見ることができたかもしれないと言おうとしたんだけど、
野球っていうのは、
ライブで見ないと意味がないとある意味思うので、
こういう時に30分野球を見ておくということは不可能なんですよね。
そこを録画で見てもしょうがないんですよ。
結果知っているような野球の中継を。
なぜ今映画って思いついたかというと、
映画はタイムシフトしやすいと思うからなんですよね。
でも僕は映画見ないんで、
大橋さんの名前を意味もなく出してしまっているんだけど、
要するに映画を見ることができたかもしれない。
その分、ただ待たされて損をした。
ということは自分の、
例えば人生が100年ちょうどであったとして、
ここの100年から20分分が無駄な、
ただ待つという時間に使われたから、
これは絶望的な損だみたいに、
このロジック全部喋ると結構めんどくさいじゃないですか。
なぜこれを一瞬で僕らが空想できるのかがすごいなと思うんですけど、
今のは空想ですよ。
でも明らかに。
多分ここで、
それは事実として損をしているんだと言われるのかもしれないですけど、
あえてこのロジックに乗って考えてみると、
我々は好きに使ったら20分は無駄なのかもしれない。
じゃあ我々は好きに使ったら20分を
常に映画によって埋め尽くすかというと、
そうはしないじゃないですか。いくら映画が好きな人であっても。
つまり20分をどう使ったら本当に特価が
実用されているとか、
証明されているというわけでもないのに、
ここで20分コーヒー飲むことが
絶望的に損であるという決定を下すのは、
実際には無理だと思うんですよ。
時間とファンタジー
この無理をあえてやっているのは何者かというと、
それを長寿がと呼ぶんですよ。
それは時間を損したならずと、
時間というものをもっと有効活用し、
どんな時間であってもそれを例えばお金を稼ぐことに使うなり、
自分が大好きなことをやることに
全部当てるべきだという考え方をですね、
どこかで、どこかでというか、
親とか先生とか先輩とか友達とか、
競争も世界の中で固めていったことによって、
この固めていくというプロセス、
それ自体が実にファンタジーで、
そのファンタジーに基づいて今の時間というものを
測って、それが無駄になったという風に
判断しようとするから、
やっぱり全部ファンタジーだと思うんですよね。
ここにあるのは、こういうファンタジーによって、
自体をより重く見ているという事情があると思うんです。
価値の判断と部分対象の限界
多少イライラするのはですね、
待たされるというか、
世の中の一般的な価値基準において、
少し軽んじられているというのかな、
そういう価値判断があるからなんでしょう。
でもこれ自体は、多分割とさらっと流せるレベルだと思うんですよ。
ここを軽く考えちゃいけないんだと、
長寿が命じてくるんですよ。
この長寿がそれ自体が、
空想の産物ですから、
長寿がというのは部分対象ですからね。
親がそう言ったというのは、親の全体を指していません。
先生がそう言ったというのも、先生の全体を指していない。
文化がそう言ったといっても、文化の全体が、
私たちは知っているわけじゃないんですよ。
日本文化とは、そういうことを価値判断として判定して、
20分損をさせて、片っ端から処罰するとか、
そういうわけじゃないじゃないですか。
そういうのを信じている人もいれば、
まるでそういうのどうでもいいと思っている人もいるという意味で、
やっぱり部分対象なんですよ。
部分対象をくっつけて作り出したものは、
部分対象の塊でしかなくて、
つまりどこにもそういうものは本当はないということです。
世の中に部分だけでできているものはないですから。
こうやってすごくロジックで頑張っていってみても、
何ができているかというと、
ここでできていることは、
せいぜいが20分損をしたということが許せないという話を、
ただただ、
何としてでもそれを正当化するための、
何かをひねり出しているようなことでしかないんですよ。
ストレスとエレイジング
さらに、
これによって、
多分人によっては、
編集を罰するということが出てくると思うんですね。
その時に当然ですが、
編集さんを罰するというのは、
苦思い、心理的負担も大きな作業になってくるから、
ここでですね、
この心理的負担をどうしてくれるんだという気持ちが必ず湧くと思うんですよ。
一旦罰すると決めた場合。
罰すると決めているということは、
かなりの部分、その人は本来よりもはるかに
長時間寄りの自分になっているので、
悲しみと怒りはかなりあるんですよ。
ここまで来ている時に、
編集さんを罰さずに置くというのは、
かなりストレス的に耐えられない感じがすると思うんですね。
身体反応がでかかっていると思うんですよ。
お腹のあたりか知りませんけど、
僕の場合これだったら腹だなって感じです。
僕の場合はですね、
昔よくあったんですけど、
左のあばら骨の下付近が痛くなるんですよね。
この辺に何かあるのかなと思うんですけどね。
今のような扁桃体から何かが分泌されてくると、
多分この辺がなんとなく締め付けられるような感じがするんですよね。
人によって場所が違うと思うんですけど。
今は全然痛くならなくなりましたもんね。
だからこういうのを解放されるのが本当に大きいと思うんですよ。
これは日頃からやっていないといけないんですよ。
人によっては。
長時間に自分をぐっと寄せていく過程で、
すでに長時間的に言うと、
許しがたい事態に自分が置かれ始めたから、
なんとかしてこのストレスをなんとかしなければいけないから、
もっと長時間に同一化するわけですよ。
完全に長時間になってしまいたい。
長時間に自分をぐっと寄せていく過程で、
すでに長時間的に言うと、
許しがたい事態に自分が置かれ始めたから、
なんとかしてこのストレスをなんとかしなければいけないから、
もっと長時間に同一化するわけですよ。
完全に長時間になってしまいたい。
そうしないとこのストレスをどうにもできなくなるから、
っていう考え方がある。
そうした場合、非常に機関車トーマス化しているわけですよ。
機関車の顔が、
機関車そのものになっている顔に、
どんどん変化しているわけですね。
体の100年という、
この100年というのは過程なんだけどね、
100年という寿命の20分という分を削り取られたというか、
無駄にされたと言ったところから始まっているので、
これは体の存在なんですね。
だから自分が体と一体化するということと、
自分が長時間と一体化していくということが、
同じ意味を持っているわけです。
あるいは同じ価値を持っている。
同じ価値を持っているから。
このストレスがあるがゆえに、
このストレスをどうにかできることすなわち万能だということです。
万能空想の万能というのは、
これも何回かこのやつと言っている通り、
万能空想の万能の意味は、
スーパーマンのように何でもできるというよりは、
自分のこのひどいストレスを完全に、
エレイジすることができる、消去しきることができる、
すごい能力だということですよね。
罰と負担
だってこれが一番やりたいじゃないですか、人は。
どれぐらいのストレスを抱えてしまったときには。
ただこのストレスは森に盛られている。
実際にただ20分コーヒーを飲んだだけなんだよ。
これがものすごいストレスだというのは、
ものすごくたくさんの今言ったような意味付けがなされている。
成果と言えばいいのかな。
二度とこういう目に私を合わせてはならないから、
こういう目に合わせたやつは、
このロジックもおかしいと思うんだけど、
とことんのっちめなければならないんだけど、
ここで負担があるわけですよ。
だってその編集さんが弱々しそうで、
ダメそうで言えば何でもはいはい言いそうな、
フニャーっとした、僕が昔よく
少年野球で怒られていた時の僕みたいですなら、
そういうことを言うのも簡単だと思うんだけど、
もしかすると、
ここでまた人の名前を出すことはないんですけどね、
ノーセカンドライフの橘さんみたいな方が
どんと現れたら、
言いたいことはそれはいっぱい。
別に橘さんと何の関係もないですよ。
通貌の問題だけを喋ってるんですけど、
僕は例えば170cmないんだけど、
2m近いとかなわけじゃないですか。
表面的な対応からの切り離し
すみません遅くなりましたみたいなことを言われたら、
言えないじゃないですか。
そこで怒りがどれほどたぎっていても、
すげえ言いにくいと思いますね、端的に言って。
謝ると思いますよ、そういう人って。
そういう人で、昔大学時代
ラクビーやってましたみたいな人だった場合、
絶対その人に言えば謝ると思うんだけど、
いきなりタックルとかすることは
絶対考えられないんだけど、
多分言いにくいと思うんですよね。
特に自分が女性だったりした場合にも言えないですよね。
で、その場合ですよ。
何をするというかというと、
まず一つは我慢するというのがあると思うんですけど、
これは平堅いですよね。
まさに機関車トーマスが真っ赤になったような状態。
真っ黒なんですけどね。
多くの場合、選択するのがここで、
まず本を読んだり、
SNSを読んだりして、
目に映るべき記事を探すと思うんですよ。
目に映るべき記事を探すと思うんですよ。
あなたを軽んじるような人と我慢して付き合ってはいけません。
あなたを軽んじるような人と我慢して付き合ってはいけません。
そういう人と付き合ってると人生は台無しになっていくし、
そういう風にして人は心を病んでいくんです。
クラゾンさんが書きそうにないことですよ。
だから、人を選ぶってことですよね。
こういう時に我々は。
自分が読むべき人を選ぶはずなんですよ。
そう思いたいからこういう記事を探してるんですよ。
これが我々がイリュージョンによって現実を作るという意味なんだけれども、
これが我々がイリュージョンによって現実を作るという意味なんだけれども、
超自我と縁を切る
ちなみに断っておきますけど、
タチさんは私との待ち合わせで1分たりとも遅れたことはないですからね。
これは全部架空の話ですか。
架空だってところがすっごく大事だと思うんですよね。
こういう話では。
実は僕らはリアルに何かを体験してる時も、
架空とばっかり付き合う癖があるんですよ。
いろんな意味でですね。
さっきも言ったけど、読むべき人を選ぶじゃないですか。
だから我々は知覚をしているようで、
本当はただ現実を作っているようなところがあるんですよ。
こういうパフォーマンス状態になってそれができるっていうのは、
大変な高い能力だとある意味で思うんですよね。
そして家に帰ってからですね、
やると思うんですよ。
長いメールを書くとかね。
あるいはあなたの今回の企画は申し訳ないけど辞退させていただきますとか、
突然切るとかね。
突然切るってすごいですよ。
この段階でどの段階か知らんけど、
もうすぐ本できるみたいな段階だったら結構厳しいと思うんですよね。
でもそんなのは織り込み済みなのかもしれませんけどね。
とにかく結構な罰を与えられるというふうに
真摯で行動をとるわけじゃないですか。
これがつまりフラトノさんがおっしゃる
罪と罰の一つのパターンだろうと。
一つの事例、実例ではない。
全部花粉の話だ。
一つのサンプルみたいなものになると思うし、
私の今日喋った文脈でいうと
超自我と一体化した瞬間なんですよね。
罰をついに与えたと。
これにより私は万能な存在になって、
清く正しい私というものを取り戻してですね、
損害を与えられたかもしれないけど、
その損害は清算することができた。
そしてスプリットオフできた。
自分のストレスがすっきりした。
なんなら相手の編集さんが
もう本当に申し訳ありません、
何とかお考え直しいただけないでしょうか、
みたいなことを読むとすごく気分が良くなるのかもしれない。
実は僕この経験ないんで、
どんな気分になるか今推測で喋っちゃってるんですよね。
なんか申し訳ないことしたなみたいな気持ちになるような気も
今喋っててしたんで何とも言えなくなったんですけれども、
でもすっきりする部分はあると思うんですよ。
相手がすごいコアモテな感じなら
余計ね、自分も結構まんざら、
弱々しくはないなみたいにも思えるじゃないですか。
それなんかニーチェの保証みたいな考え方に近づいてる気がするんですけど。
まあいいや。
で、そういう風に
表示画と自分が完全に一体化したような気がした時に
達成されるそういう万能感というものと
すっきり感ですよね、単純に言って。
すっきりしてるだけとも言えなくはないです。
で、
ひるがえってですね。
ひるがえってっていうのもおかしいですが、
そうやって機関車トーマス化してる時はそれで良くはないけど、
そうなんでしょうが、
僕この事態を考えてみると一体これは何なんだって感じが
僕はやっぱり喋っていてはするんですよね。
自分がその状態に巻き込まれていれば
すっきりで話は終わるかもしれないけど、
人生は続きますからね。
一見したところ、
空想を大量に寄せ集めて作った現実は
一見したところ現実っぽさがありますが、
型から見てみると、
客観的な現実への到達
技術的に見るとっていうのかな。
そういうことを文章化してみて、
そこにある様々な情緒的な、
あるいは意味付けみたいなのを取り除いてみると、
コーヒー屋さんで20分余計に過ごして、
もうすぐ出来上がる本を書くことをやめて、
それによって入ってくるはずの収入は無くなり、
っていう状態なんですよ、これは。
これが長寿画と一体化するということによって、
私たちに残される
客観的な方の現実だと思います。
これはですね、私は、
自分が後ろに少しでも下がれば、
さっき言ったような、
自分が身体とイコールではないではなくて、
身体とイコールなんだけれども、
普段の自分に近い自分まで交代すれば、
見えてくると思うんですよ。
見えてきた時に、
幸福になるんじゃないかと思うんですよね。
少なからず。
やばいことしちゃってないかっていうのが、
どっかに入ると思うんですよ。
なぜならば、自分は長寿画と同一化するのは、
超自我と縁を切る
すでに解かれつつあるから、
長寿画はいいんですよ。目的達成したから。
このような目に二度と会ってはならないんだから、
この20分コーヒーを飲んで、
時間についての報復を果たした。
道外報復って言うんですけどね。精神分析でも。
精神分析だけではないですけどね。
道外報復って、同じ害を報復として与える。
果たしたと。つまり、親が、
早く寝なさいって言ったような、
時のすっきり感と同じものを得たんですよ。
そういうふうなことを、
親に言われてることのない人って少ないと思うんですね。
早く寝なさいって言って寝ると。
そういうふうに自体をコントロールするということに、
カタルシスを、言われた方がなぜこれでカタルシスを覚えるのかってのは、
以前話したんで、
今日はもう時間も長いですし、
細々とは言いませんが、そういうことになるんです。
親は正しいっていうふうにして生きてますから、
親の言う通りだ。私はちゃんと早く寝るべきだったんだ。
寝るっていう、この展開をスパッとできたっていうことに、
言われた方、怒られた方もカタルシスを得てしまうんですよ。
だから、長寿がに同一化する能力を身につけるんですね、人は。
で、今のような形で長寿がに同一化して、
編集を増して、編集も心を入れ替えたらしいと。
素晴らしいわけですが、
長寿がとの同一化が一旦解けますと、
長寿が極めてこの場合無責任ですから。
なぜならば、実態がないから責任はないんですよ、長寿がに。
そういう風にできてるってことを忘れちゃいけないんですよね。
部分対象というのは現実にはないものなんですから。
部分だけでできてるものはないし、そもそも
自分の心の中にある対象というものは、
実態はないわけじゃないですか。
長寿がは目的を果たしてすっきりするけれども、
現実に生きている私たちはここに取り残されるんですよ。
長寿ががすっきりしたということで、はい、目的果たしました。
さようならって言って、いなくなっちゃうんですよね、長寿がは。
そしてポツッと残った自分としては、
仕事がなくなっていて、直接仕事に関わっている人との縁は切れて、
そしてコーヒーを20分余計に飲んだという、
ただそれだけが残ってるわけですよ。
困るじゃないですか、これは。
で、私が思うに、これでとっても困るので、
人によってはですね、ここで抑鬱的な気分に陥るんですよ。
でも、僕が思うにですけれども、人にもよりますけれども、
ここでひたすら抑鬱的な気分になるほど恐ろしいことはないわけですよ。
だって仕事は減っていて、関係者との縁も悪くなっていて、
しかも余計な時間を少し無駄に使って、
自分の寿命を余計なものに回してしまったというこの一連の出来事の後で、
しかも自分はただ抑鬱的な気分になって、
ここを抑鬱ポジションの入り口なんですけどね。
抑鬱的な気分になっているというこの状況は大変難いですよね。
そんな風にして生きていたら、生きていけなくなるのではないだろうという不安にどっと襲われると思うんですよね。
そこで、この事態本質的に悪かったのは誰だという話を始めてしまうと思うんです、私は。
人は元気にならなきゃ生きていけないところがありますからね。
その時に自分が悪いんだと思ってどことん自分を責め出すというケースの方もいらっしゃるんですけど、
その時にもう一回長時間呼び出されているということに着目してほしいんですよね。
さっきは編集さんに罰を与えるという意味で長時間一旦退いた目的を果たしたので、解除されてみると、
再び長時間必要な事態がここに発生しているわけですよね。
一体こんなひどいことになったのは何のせいなんだ。
その時に私のせいだということになると、今度は私を責め始めるということが起こるわけですよ。
決して長時間は長時間を責めないんですよ。
ちょっとずるいと思うんだけどね。
多分僕は長時間長時間を責めることはほぼないと思うんですね。構造上。
自分を責めるんですね。
そういう時に例えばですけれども、あんな編集さんと組んでしまった自分が悪いという形を取り始めるんです。
そうして長時間と同一化していけばいくほど過去の自分を責めるという形を取るんですね。
これがおそらく欲打つで最もよく見られる後悔という心理状態だと思います。
当然のことながらもう一つの選択肢がありますよね。
あんな編集をやっているのは許せないみたいな。
他にもいろいろな形があるでしょうけれども、
おかげで私は書いた原稿も無駄になっているし収入も減っていくし生きていくのも難しくなる。
本当にひどい話だと思います。
出版業界というのはあてにならないと思います。
こういうことを真剣に考え始めるという方向を取ることもあります。
これはさっきの帰還者トーマスの方向に再び戻っていくということです。
そうして元気を取り戻すわけですよ。
いずれの方向でも事態は少しも良くならないような感じが私はするんですよね。
長寿画と円を切る
この種の罪悪感というのは…
つまりこの種の罪悪感を作っているのは長寿画なんですけど今言ったような意味で。
これと私は円を切るという決定というのが近いんですけどにしたわけですよ。
その時にやっぱり戻ってくるんですよね。認識の問題なんですよこれは。
長寿画と円を切るというのは普段は…普段じゃないな。
こういうトーマス化している時は無理だったと思うんですよね。
長寿画と自分が同一化しようとしている時に円を切るというのはとてもじゃないけど無理な感じがしたんですよ。
何度か私はチャレンジしてみてこの時だけやるのは無理だなと思うようになったんですね。
普段から長寿画とはもう円を切っておこうと。
長寿画と円を切ることと親と円を切ることを分けられるようにさえなれば僕について言えばこと足りたんですよ。
どれほどお前の親は強権的だったのかと言われると逆なんですよね。
そうでもなかったからこそこの努力を必要とした面があるんですよ。
同化からの解放
親が明らかに同化していれば長寿画と円を切るという方向性を持つことは実はそれはそれで難しいんだけど
ロジカルにはそう無理がないと思うんですよ。
親はもともと無茶苦茶だっていうことで。
親がそこそこ真っ直ぐだと本当に円を切っていいんだろうかという問いが発生しちゃうんですよね。
だから私は長寿画と円を切るというのにグッドファイブスが非常に重要な影響を及ぼしたというのは端的に言ってそういう言い方ができると思うんです。
もう少し進んで言うならば長寿画と円を切るのが僕は一番この件については確実だなと思うんですよ。
それが無くなると罪と罰のシステムが使えなくなるっていう話は
失礼しました。長くなりすぎたせいなのか。
いきなりアラームが鳴り出したというチンジが起きてしまって
倉園さんがよくおっしゃっているのでそっちを聞いてほしいと思うんだけど
要は罪と罰のシステムを使わないということは私の文脈で言うと長寿画と円を切るということになるんですね。
長寿画と円を切るために罪と罰のシステムを採用しないということは同じことなので
グッドファイブスの文脈でこれは乗っていればできるというか乗っているだけでできるということは簡単じゃないけど
その気になって決意すればできる。
そしてその際私が一番頼りにしたのは
現実への回帰
現実の側に戻るんですよね。
その時現実と自分を自分は現実であるという感じを持つということ。
だからこれはそのいつものあれなんですよ。世界そのものである。
先日宇宙代表っていう変な表現を使ってみましたけどそういうことでもあるわけです。
現実の側にいればいけるはずだ。信用する。
だからこれが現実を信頼するという表現で倉野さんがお話になるあれですね。
要するにトーマス辞めるってことなんですよ。
トーマスは辞められないんだけれども普段のトーマスの状態に戻るということですね。
普段のトーマスも機関車と一体化してるかもしれないけど私の場合はそうはならない。
普段の状態に戻れば肉体ではあるんだけれども同時に現実でもあるっていう風な感じになるんですね。
そういう二重感を持つことが普通の状態ではむしろ普通であるっていう感じですね。
この状態に戻るというのは部分対象と自己同一を避けるってことにほかならないんですよ。
だから言うならばですね、私の肉体だと私が思っているものは多分私の部分対象なんですよ。
そう考えればこの話の続きつまは割と簡単に合うような気がします。
長寿がだけが部分対象ではないですよね。良いおっぱいも部分対象だし、いろんな部分対象があります。
異向対象とか機械な対象とかね。機械な対象とか異向対象とかに自己同一化するっていうのは本当ありえないし普通で考えればとてもあったら危険なことなんじゃないかと思うんですけど
長寿がに同一化しそうになることは私の人生でも多々ありました。
良いおっぱいとはもちろんのことですね。それは依存的な状態を生むんだけれども。
私の肉体と同一化しちゃう瞬間っていうのがそれらとよく似ているんですよね。
今後その話をしていけばいいのかなと今ふと思いついたんですけれども。
同一化からの解放
要はどんな同一化であれ、原則として同一化なんてものは避けるってことですよ。
現実に私はすでに存在しているはずだから。
これはおかしな言い方じゃないですよね。現実に私は存在してますよね。
その現実の存在に戻るってことですよ。
そうすると途中何度も言った通り、現実に部分対象として存在できるものはないんですよ。
だから部分対象と同一化するなどということさえしなければ、私は現実に全体対象として存在することができるはずなんですね。
その時に長寿がと縁は自然と切れるんですよね。
ロジカルにそうだと僕は今は思えてますね。
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