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2023-04-17 45:56

【769】グッドバイブス編 受動的に生きる

能動的に生きるには超自我のコントロール下に置かれることになる
タイミングの良し悪し
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
昨日の日曜日ですね。
つまり今日は月曜日なんですけど、
これを撮ってるのは4月の17日月曜日、朝4時37分なんですね。
これを撮って出しようということになってるんですが、
今日グッドバイブス編ですね。
これ実は昨日撮ったのがあったんですよ。
でも昨日の朝10時に撮って、これはもう相当いけるなと思ったんだけど、
なんかこうやっぱり撮って出しをしないやつはですね、
上げにくくなるんだなっていうことを学んだのと、
やっぱり日曜の朝はダメなんだなっていう途中でですね、
切れちゃったんですよね。
なんつうんですかね、途中で切れたのは、
単に黒猫さんがやってきたからということなんだけれども、
やっぱりなんつうんですかね、スムーズにいかないタイミングなんだなと思いましたね。
いやタイミングじゃないんだな、あれ撮って出したら、
あそこで切ることなく頑張ったと思うんだけど、
荷物は受け取るにしても、
撮って出しじゃないっていう意識がやっぱり入ってしまっていたんでしょうね。
まあそういうことで、
これタスクシュートの話だったらタイミングみたいなのももう少し強調するんですが、
私はそのタイミングというものは信じてないので正直なところ、
ここは難しいんですよね。
文脈が大きく変わっちゃうんで、コンテクストがですね、
タスクシュートの話をしているのと、そうでない時とではですね、
どうしても評価の仕方が違うんですよね。
基準が違うとしか言いようがないんですが、
タイミングの良し悪しっていうのは結局のところ、
分からないわけですよ。本当のことは分からないから。
で、この本当のことが分からないと言っているのも、
そうそう佐々木さんは倉津野さんの影響を受けているからでしょうねって言われるんでしょうけど、
でもよく考えた方がいいと思うんですよね、僕らは。
タイミングが良いって思っている、そのタイミングが良いっていうのは、
本当にタイミングが良いんですかねってことなんですよ。
そこで黒猫さんが来ちゃうのはタイミングが悪いから、
だからタスクシュートみたいなことを言うとですね、
場合にはそうじゃない時間帯に取りましょうねと。
これはこれで妥当性はあると思うんですね。
ただし、視野は狭まっているってことを忘れちゃいけないと思うんですよ。
教養豊かな先生との出会い
やっぱりそこの時に取り忘れたから炎上しないで済んだのかもしれませんしね。
これだって視野は広くないんだけど、少し広げるだけでもそういうことが言えるわけじゃないですか。
こういうふうに何でもかんでも意識で自分がコントロールできていると思うのは、
やっぱり変だと思うんですよね。
なぜなら意識っていうものはそもそも視野が広いものではないから。
タスクシュート自体がそういうことはすでに考えているから、
ログを大量に取りましょうという、
これちょっとAI的な話に近いところもあるんだけど、
そういうことも言えるわけじゃないですか。
結局そこで、昨日の私が日曜日に収録したあれをそのままアップしたほうが良かったのかそうでないのか、
本当のところはわからないですよね、という話なんです。
これは別にクラソノさんにだけ僕が言われてきたわけじゃないんですよ。
そういうことは、それこそ私の大学の先生が盛んに言っていたことでもあるわけですよ。
あの先生は別にユング派ってわけじゃないんだけど、
英文学の人なんですが、
英米文学か、でも英文学の人なんですよ。
そういう非常に教養豊かな人でしたから、
観点がどうしても前敵とかフロイト敵みたいなところはあるわけですよね。
英文学の先生がフロイト戦士を全部読んでいるというのは、
全部読んでいて当然なのかもしれないけど、
全部読んでいるってすごいなと今思うと思うんですよね。
ものすごい頭の良い人だったから、
当然地変調で生きている人なんですけれども、
もうなんかこうちょっと通じや考えられないような感じの人だなというのが私の中ではありまして、
やっぱりこの先生がですね、
倉園さんと全く同じことを昔、
私は当時は今よりはるかにそういうものを受け入れが良くなかったから、
また先生そういうことを言ってっていう感じでしたけど、
本当に繰り返し言われてたんですよね。
本当のことはわからないんだぞと。
こんなに頭の良い人が、あんなに知識が豊かな人がですね、
本当のことはわからないというのが、
多分一番多く聞いた、その先生から聞いたっていうのがですね、
やっぱり僕はすごい残ってるんですよね。
本当のことはわからない
当時私は尖がってましたから、尖がってたと言うか探れてましたから、
もう先生僕は別にそんなロレンスとかに興味ないんですよと、
彼女ができればよくてこのゼミに入ったんですみたいなことを言うと、
先生が面白いことを言うんですよね。
君な、結婚なんてな、本当のことはわからないんだぞというわけですよ。
これがですね、当時の僕には全く理解できていなかったんですけど、
今思うとあの先生には予言されてたようなもんだな、
自分の人生って思うことも少なからずありましたね。
結婚なんて本当のことはわからない。
そもそも私はその通りなんですけどね、
そもそも結婚をしたいっては言ってないわけですよ。
彼女が欲しいとしか言ってないんだけど、
あの先生には結局私のような人間が望んでるようなことはわかっちゃうんですよね。
何をこいつは欲して、どういう状態に今あるのかみたいなのがある程度はわかっちゃう。
たくさん学生と接してきたってことももちろんあるでしょうし、
フロイトをそれこそ知ってるってことも、
その観点から子供を見るとですね、子供みたいなもんですよね。
当時あの先生すでに歓歴間近で、
私は当時20そこそこですから、20、ジャスト20くらいだったかもしれない。
受動的に生きる
そういうわけで、結婚しても幸せになれるかどうか、
頭で描いてる通りでは決してないんだよというのは、
まあ当たり前っちゃ当たり前なんですけれども、
そのタイミングで言う言葉としてはやっぱりそのものズバリだったなっていう。
あとからですね、なんかこう、
自分が思い通りに生きてるだろうかっていうふうに、
そういう瞬間ってありますよね。
どうしてもこう、いろんなことがうまくいってるような時に、
割と幸せでなかったり、いろんなことがうまくいってなくて幸せでなかったり、
した瞬間に、ふとあの先生が言ってたことがよぎるんですけど、
必ずそこにくっついてくるのが、本当のこと分からないんだぞっていうね、
そういう言葉だったわけですよ。
だから、タイミングが良いだろう悪いだろうっていうのは、
本当のことは分からないわけで、
だから私はこうやって月曜日になって、
全く同じような、しかし全然違うアプローチから展開してきているんだけど、
グッドファイブス編をですね、撮ろうとしているわけです。
2度目になるわけですよ。
これが無駄なのかどうかとか、
あの時黒猫が来ていた方が良かったのか良くなかったのかとか、
本当のことは分からないんですよね、本当に。
これがグッドファイブスの影響でだけそういうことを、
本当は昨日1回で撮った方が良かったに決まってるのに、
そう言ってるってわけじゃないってことなんですよ。
これが分かるはずがないと思うんですよね。
この話また後日、
豚山さんたら豚山さんという絵本を返してしたいと思っているんですが、
その後日がいつになるかはそれこそ分かりませんけれども、
そういう話はおいおい随時にしていきたいなとは思っています。
これがつまり前振りでして、
グッドファイブスは様々なアプローチがありますよね。
本当のことは分からないというのもそうですし、
私が最近なるべく心がけているのは、
とにかくもう半歩でも受動的に生きる。
これはですね、何か逆張りみたいな風に聞こえると思うんですよ。
僕なんかが喋るからなんだけど。
つまり、もともと自分は少なくとも先読みして生きるっていうのは嘘くさいっていうのはずっと
言ってる通りだし思っていたんですよ。
これはですね、やっぱり大橋哲夫さんとの渋谷でのミーティングが私には響いているんですよね。
震災のその日にですよ。
私は彼より先読みができている人を知らないんですよ、個人的には。
テレビでとかなら分からないけど、
具体的に目の前で生きていて間違いなくこの人生きているんだろうなと言える人の中で、
彼より先読みが実人生において先読みできているって人が、
僕の目の前に現れたことがないんですよね。
彼はそれぐらい僕の目には慎重だってことなんですよ。
慎重さにおいては少なくとも僕は彼をかわすことはできないなと、
総力を上げてもあれより慎重に生きるのは無理だなって感じがするんですね。
それぐらいトータルでの慎重さにおいては偏差値75ぐらいには見える。
偏差値77ぐらいに見えるんですよね。
これより慎重に生きている人もいるかもしれないけど、
それでそこそこの成果を上げるのはもう難しいんじゃないかなっていう域にある意味達しているんですよ。
これが全部褒め言葉に聞こえるかどうかは別ですけどね。
その人が渋谷の球会で私とミーティングをしていた時、
かなりのリスクを背負っていたっていう事実を私はですね、やっぱり考えてしまうんですよね。
無理ですよ。そこを望んでも無理なんだけど、
あのミーティングはやむを得なかったと思うんだけど、
あるいは不可抗力としては言いようがないんですよ。
でも先読みができているとは言えない行動だったんですよ、僕からしてみるとですね。
もちろん僕は全然ダメですよ。もう死にかけてるだろうお前って感じなんだけど、
僕は最初からその慎重さ偏差値で言うと53ぐらいしかない人間ですから、
彼には遠く及ばないわけですね。
で、結局のところ人が先読みできる半径はこのぐらいだと思うんですね。
1秒後のことは怪しいもんだなと思うんですよね。
1分後とかまして1日後は論外ですね。
これをできているという話を聞いた時に、
私はその人の先読み能力に関しては100%信じないんですよ。
なぜならば、それでできていると思うというのは甘いからなんですよね、結局。
で、これは僕から言うとただそれは非なんじゃないです。しょうがないんですよ。
分かっていて生きている人なんて僕の考えではですね、僕の考えではゼロ人なんです。
一人もいないんですよ。
だから大橋さんが筆頭なんです。
彼ができるんなら可能性を感じるんだけど、
彼にもできないことは僕にはできない。
だから私は諦めようと、そういう話なんですね。
こういうのって測る時、やっぱり一番できている人で測るのがいいじゃないですか。
もちろん彼に迫っている人とかはいるんだと思うし、
私の知らないところでは彼以上の人もいるかもしれないけど、
知らないんだからそこはしょうがないし、迫っているとかはあんまり意味ないわけですよ。
やっぱり一番できている人を測りに、尺度にするのが一番いいと思うんですね。
それでも難しいってことになったら、諦めた方がいいんじゃないかなっていうのが、
私の感じ方としてはそういうことになるわけですよ。
その上で、そういうふうに彼とずっと付き合ってきているわけですからね。
その上で倉殿さんのような方が、2度目なんだけどパッと現れて、
先のことは分からないっていう話をして、とどめを指すわけですね。
先のことが分かった試しがない。
タスクシュートと無意味な行為
こういうことはずっと僕も意識していたから、意識させられるんですよ。
ここが私が多分タスクシュートをやってきた一つの理由なんですよ。
逆説的なんですね。
タスクシュートをやって1日後、ひどくなってくると1週間後の予測を立てると。
この行為無駄だよな。100%無駄だろうな。
だから、人はそこに意思で決めるべきことと、自動的に決めるべきことが分けられるとでも思ってしまうんですね。
そういうことを本当に周りに言われたことがあるんですよ。ある編集さんに。
佐々木さんね、自信は予測できないかもしれないけど、
明日筋トレをするということは予定立てられるでしょう。
私はそれは全く間違ってると思うんですよね。
つまり、それは明日生きているという前提を持っちゃってますよね。
それが分からないっていう話を僕はしたいわけですよ。
筋トレだって、そこに筋肉があるっていう前提を持っちゃってますよね。
それが、最も私の知ってる関係で分かってそうな人、つまりオアシスだよね、が分かってないのに、
あんたに分かると、私には信じられない。
私に分かると、ますます信じられない。
だから私はそれを信じない。
ので、ここに書いてあることはデタラメだと思うんですよね、タスクシュートに書いてあるのは。
これを僕は、場の当たりにするためにこれやってるんだなって感じをいつも抱いてるんですよ。
つまりこれは無意味な行為なんだなと。
だったらやめればいいじゃんって思われると思います。
現実を捻じ伏せる犯罪
それはそうなんだけれども、ただですね、
これは目の前にして無意味だって感じるのと、
頭の中でついやっていてそれに無意味だと気づくのだとでは、
後者の方がディフィカルトなんですよ。
難易度が上がるんです。
頭の中でやってる時は、これが無意味だってことにすごい気づきにくい。
僕は多分タスクシュートをやっていたからグッドバイブスが
はるかに頭に入ってきやすかった部分が少なくないと思ってるんですね。
あれをやらずにいたらですね。
いかに自分の計画がデタラメかということに気づくのは、
多分もっと大変だっただろうというふうに思ってます。
何しろ目の前で裏切られていきますから、
目の前でどんどんどんどん裏切られていく。
もう一つ、今日の本題はこっちなんだけど、
すっごい大事なのはここから先なんですよ。
ここを曖昧なケースがあるんですよ。
つまりこの通りになっているとのように見える時っていうのが
タスクシュートではありまして、
過去のデータを膨大に用意していますからね。
そしてこの種のことをやる人は生活を整えにかかるので、
整ってくると再現性が一見成立しているように見える時があるわけですよ。
再現性が一見成立しているように見えるというのは、
その合理的な流れの中で私が立てたプラン通りに
現実が進行しているように見えることがあるわけですよ。
あれですね、ちょうどものすごく視界進行にうるさい人が
式次第とか結婚式とかで、
一分の狂いもなく式を進行させるほどに
全力を尽くしているとその通りになるような
ああいった感じを実現できている感じがするケースがあるんですね。
で、私がこれもデタラメだと実は思っているんですけど、
何がどうデタラメなのかというと、
そこは捻じ伏せているんですよ、現実を。
自分が捻じ伏せられる犯刑の中で現実を捻じ伏せているんですよ。
これが今日のグッドバイオスのテーマでして、
独裁者的なプランナー
つまり、何で私がですね、
受動的にということに今そんなにこだわっているかというと、
堂々的にやりまくった結果、
私は自分を危機に追い込んだせいなんですね。
一番僕がですね、この種のことで納得できないのは、
つまり、タスクというものでもいいのですが、
どっちかというとさっきの別婚式の指揮主体がいいですね。
プログラムというものを組み、
このプログラム通りに動いていると自分が錯覚しそうになるというのは、
プログラム通りに自分が権力を振るって動かしているんですよ。
ただしその権力が震える犯刑は至って狭くて、
私のように家族の中でも微妙な人間は自分だけになっちゃうんですね。
自分で自分に対する人民共和国の独裁者みたいになるんだけど、
そこの人民は自分しかいないんですよ。
独裁者イコール人民みたいになって。
昨日の、これが先週繰り返しお話した長寿賀のもう一つの顔なんですよ。
長寿賀は私を乗っ取ってですね、
つまり私の独裁者になってしまうんですよ。
具体的に動いている奴隷みたいになっているのは私なんですよ。
だって実行しているのは私だから。
頭の中で考えているプランでしょう、プランというものは。
常にどんな場合でも。
なぜならそのプランはまだ現実のものになっていないわけですから。
独裁者みたいなプランナーがいてですね。
そいつが、だってなんとか共和国でも同じじゃないですか。
なんとか計画とか五可燃計画とか弾道ミサイルにするとか、
全部頭の中で考えている人はその独裁者じゃないですか。
でもそれは未来の話をしていますよね。
まだ現実になっていない。
そのために必死になってですね、
空も食わずなのかもしれないけど、
とにかく自分の快適な生活とか一切犠牲にして、
つまりこの21世紀で得られる生活の標準で便利さみたいなものは全て犠牲にして、
でもミサイルを作るという方向を優先させるということに決めたから、
そしてそのために逆らうことができない状態にあるから、
あれが実現可能になるわけじゃないですか。
ふんとこの規模を小さくした上で、
これを実現させるのが長寿画なんですよ。
時間の貯蓄の意味
長寿画は一見したところ、
あの人民共和国の独裁者よりは優しそうに見えるから、
これで納得してやってしまって、
しかもさっき言った通り、一番最初に言った通り、
ベストタイミングがあるんだという考え方に踊らされそうになるんですね、僕らは。
この通りにやれば僕の人生は、
言ってることは全く同じじゃないですか。
この通りに五可燃計画をやれば、
この国の人民は幸せに生きられるから、
あなたの個人的に、
例えばあの地域は相当寒いから、
暖房設備を部屋に入れたいとか我慢しなさいとか、
入れてもいいけど、
日本では使ってないような旧式のやつで我慢しろと、
代わりに長距離、
宇宙空間まで飛んでいくような大砲を手に入れた方が、
幸せになるんだっていうのを信じているわけじゃないですか。
本当のことは分からないという考え方が認められないと、
こういうことが起こるんだと思うんですよ。
で、私はそれがどんなに短いタームに切り替えてみたところで、
事態は変わらないと思いますね。
本当のことは分からないんですよ。
でも分かるってなった途端に、
長寿が独裁が始まって、だって分かるんだから、
その通りにするべきではないですか。
こういうタイミングがベストであるということが明らかだと。
今、日曜日に、つまり月曜日公開文は、
日曜日に前倒しで収録する。
これがいいと。
なぜならば前倒しはいいことだから。
で、昔の人たちはみんな、
昔大人たちが私とかに教えたことも全く同じような教えでした。
これをですね、何かよく分からないんだけど、
この界隈ではですね、
遵守されてるんですよ。
自分の頭で考えるのが大切だという話が出る割には、
それは大切だとは思うんだけれども、
自分の頭で考えるのがどうでもいいことだとは思わないんですけれども、
でも自分の頭で考えるという割にはですね、
前倒しは絶対いいことだというところで、
思考が止まってる感じがするんですよね。
先日、教示画の思考停止には
様々なものがある話をしてきたと思うんだけれども、
私は中でもとびきりひどいなと思うのが、
時間を大切にしなさい。
この教えが当たり前で絶対是非みたいに語られている。
これは相当怪しい考え方だと僕は思うんですよね。
あんまり相性が良くないので、
控えめにしてないかな、私の性格だから。
でも今ほどベラボーには言ってないつもりなんですが、
言ってこなかったつもりなんですけど、
2015年からずっとですね、私はこの会議は強烈でした。
時間は大切かっていうのが非常にありましたね。
なぜなら、私これはブログにも書いたし、
いごたのにも書きましたが、時間とっておけませんからね。
時間は貯蓄ができない。
ドラえもんの動画にあったんですよね。
時間貯蓄機みたいなのが。
まさにそれですよね。
時間貯蓄機はタイムマシンと同じで、
絶対ありえないものなんですよ。
それこそ量子力学で、
0.コンマ何秒戻るとかそういう話だったら知りません。
それは電子レベルならあり得るのかもしれませんが、
我々の生活圏に0.03秒戻ったところで、
何か役に立つとは思えないので、
マッハさんとかの飛行機に乗ると、
我々はその瞬間1秒ぐらいは年を取らないみたいな、
相対的な話ですけど。
意味が果たしてあるのかってことですけどね。
つまり、そういうことでなくて、
時間は貯蓄できないわけですよ。
前倒しでこの番組を収録したところで、
だいたい4,50分、あいにょては60分。
60分が貯蓄できるなら、
まだそこに可能性を感じなくもないですけど、
60分は60円の価値すらないですよ、この場合。
だってそれはただ日曜日にこの収録をやったというだけであり、
この60分を月曜日には多分別のことに使う。
これを皆さん、いいことだって言っているわけじゃないですか。
その間に、何か他のことをした方がいいと。
なんでそうなのかなって感じはするんですよね。
何か他のことができた。
例えばその間に筋トレをする。
筋トレがめちゃくちゃ大好きでね。
私がこういったときのファン座のある女優さんにはまったようなレベルで、
筋トレをしている最中にずっとオーガニズムに近い状態だってんなら、
話はまだわかります。
でも多分その筋トレもまた、
いやいや、筋トレをしていないと老後に階段登ったときこけやすくなるから。
またしてもこれが何か別の時間のために置き換わっているんですよ。
こうやって時間の節約といって我々がやっていることというのは、
未来の何かのために今の時間を使うという意味で、
取り替えるということがまず一つ。
これがほとんどのケースで言われているんですね。
私、昨日たまたまノートの記事をあげてみたんですけど、
あれはたまたまではないんだけどね。
これから少し考えていることがあって、
あの種の記事をずっと書いていこうと。
基本的には時間の貯蓄に対するアンチテーゼを書いていこうということなんですけれども、
それは計画通り行くかどうかわかりませんけどね。
ただ、これを僕は言っていかないとなっているのが一つある程度あるわけですよ。
なぜならば、時間の貯蓄はデタラメなんでね。
今言った通り、何かの代わりに何かをするという意味以外の意味がほぼない。
ほとんどの場合、これを言うんですよ。
つまり、今勉強しておけば後で楽になれる。
時間の使い方について
だから、常に後に何か楽なことをするために今苦しむという発想なんですよ。
しかも、大概の場合、この発想を一度取ってしまうと、
常に今何かを楽をするというのは、時間を消費しているように感じるらしいので、
常に貯蓄に走るためには、常に今の苦しみを使って後を楽にするという考え方を掘り続けることになる。
なぜなら、取っておくことができないからですね。
その間、何もしないでおくという。
何もしないでおくと、何もしないことに時間を使っちゃうので、
大概、時間を節約したい人にとって、これが一番つらいことなので、
何もしないという時間の使い方をするという。
つまり、時間をその間、経過させないということはできないということですね。
必ず経過しちゃうわけですよ。
これをしかも寿命に置き換える。
これが一番僕は悪いことだと思う。
まあ、よしやしを言っちゃうんですけどね。
僕はこれが一番、今アンチテージとして書こうとしていることなんですよ。
寿命を時間で置き換えるという。
僕はこれは観念を一番暴力的に振り回している感じがちょっとするんですよね。
それはとりあえず今はいいとしてですね。
例えば、勉強することによって後が楽になる。
つまり、後で何かをしないで済むという発想ですね。
その後で何かをしないで済むところにフランス語を当てて、
これあくまで例ですよ。
筋トレでも散歩でも読書でもいいんだけど、
とにかく入れて、そしてまた後に時間に何かをしないで済むようにする。
これは永遠に生きるのでない限りは意味のない行為だと思うんですね。
永遠に生きるなら別ですが、
永遠に生きるんじゃない以上、こうやって置き換えて置き換えて置き換えた後に、
人は寿命が尽きますからね。
いずれは何かをしないで済むという時間の意味が存在しなくなるはずなんですよ。
お金とは違うんですよね、時間というのは。
あくまでも使わずに置くことはできないんで、
絶対に使い続けるしかないわけだから、
私は唯一合理的な時間の使い方というのはですね、
この観点を取るならばですね、
筋トレとか読書とかそういうことをするんじゃなしに、
つまり今やりたくもないことをするんではなく、
今やりたいことをする以外はないだろうなと思うんです。
私が合理的な時間の節約という観点で見た場合の合理的な使い方は、
私はファン座だと思うんですよ、本当に。
これが私の合理的な結論なんです。
感覚的な結論ではないですよ、これは。
もう一回言いますよ。
これは合理的な結論なんですよ。
今一番確実に身体的に気持ちが良くなれることをすること以外、
時間というのは使わずに置くことはできない。
そして未来に何が起きるかを完璧に言い当てることができない以上はですね、
いまいま間違いなく身体的に凶悪が得られるということ以外は、
合理的な意味は僕は持たないと思います。
通貨の安定性について
全く。
これはですね、いつ暴落するか全く理解できない通貨をずっとご所を大事に抱え込み、
しかもしょっちゅう暴落する通貨を持っているようなものなんです。
しかもその通貨を使わずに貯めることができないって考えなきゃいけないんですよ。
その通貨は常に使い続けなきゃいけないんですよ。
だったら一番欲しいものをその場で買うのが一番合理的なはずですよ、結論としては。
で、どっちにしてもギャンブルになってしまう。
これは通貨でも本当は同じなんだけど、通貨はまだしもその通貨の安定性というものがある程度、
これも相当怪しいもんですけどね。
でも円は多分ペソよりは安定してるでしょう。これが一つ。
もう一つは円は使わずに売ることはできますよね、頑張れば。
この理由だけでも私はですね、これも2013年ぐらいからやったんですけど、
時間はお金より大切だというのはネタラメだと思うんですよね。
どっちかという話をするならばお金の方がよっぽど大切だとは思います。
時間は取っておけないというのが致命的なんですよ。
絶対に使わざるを得なくなる。
もう一つは時間はお金よりも遥かに先にどうなるか、これはでも意味のないことを喋ってるんです。
時間はつまり所有できないということを僕は言っているので、所有はできないんですよ。
1日はみんなに24時間平等だというのも、あれも全く真実ではないと僕は思うんですね。
時間と寿命について
1日は1日なんですよ。
太陽がどこにいるかという話をしているだけでいい。
1日を48時間にするのが簡単なんですよ。
1秒を半分の長さにすればいいじゃないですか。
つまりどう刻むかという話をしているだけじゃないですか。
僕はこれに対してですね、いや佐々木さんはそう言うけどって言うんですけれども、
そうじゃなくて合理的な反論が聞きたいですよね。
時間の量を増やすというのはどういうことを意味するという話なのか。
私にはただそれを24等分にするか12等分にするか、昔12等分でしたから、
だから減ったのかというと減っちゃいないですよね。
ただ12等分にしただけですよね。
時間は円で表せるじゃないですか。
毎日毎日1日という円を24等分にするから24時間なんですよ。
30等分にすれば30時間になりますが、全く増えてませんよね。
こういうことでしかないんですよ。
時間を増やす唯一の方法は寿命を延ばすことでしょうね。
だけれども寿命を延ばすということがそもそもできませんよね。
もちろん僕らは医療によって長生きはできますが、
何歳に自分が死ぬかは決まってないわけだから、
時間を延ばすということには意味がないわけですよ。
何歳で死ぬことにあなたが決まってますって昔中国の古事にありました。
現実と物語の違い
19歳でお前は死ぬことになってるけど、ここに99歳と書き足してやろうみたいな。
あれができるなら時間の節約には若干にせよ意味があるのかもしれないけど、
多分あれは物語なんで、現実はあわなってないですから意味ないと思うんですね。
ここまで考えてきたときにずっとお前ファンザばっかり見てるのかというとそうはならない。
そうはならないということはどういうことかというと、
僕はですね、結局人は完全に能動的に生きるということはありえないと思うんですね。
完全に能動的に生きるというのはつまり、プランニングですよ、そうですよね。
次に何をする、次に何をする、それがいいっていう考え方ですね。
ずっと能動的に生きるということは、でも私はできないわけですよ。
少なくとも私は全然できないわけです。
なぜならば、人はいつも同じ人間ではないから、
これは結局僕はここに、それこそ精神分析であれ、グッドバイブスでもそうですし、
タスク集とデスラスそうなんですよ。
実際に私はですね、私という人間は一人の一貫した人であるっていう主張を従うところにも
長寿がってのはすっごく無理があると思うんですよね。
長寿がというのを言ってることってすごい無茶苦茶だと思うわけです。
だって朝起きるときはもっと寝てたいっていうのが私たちじゃないですか。
今日私は月曜日なんで眠いんですよね。どうしても眠い。
5時半に起きましたからね。
でも夜寝るときはまだもうちょっと起きていたいっていうのが私たちじゃないですか。
つまり朝起きたときと夜寝るときすでに真逆のことを要求してますよね。
そしてさらに長寿がとかは朝早く起きろとか言い出すんですよ。
それもなぜなのかについては一切実は合理的な答えはない。
朝早く起きることはいいことだ。
断言明報ってやつなんですよね。
それは正しいことだから正しいこと。
昔オタカさんってあんまりこれを言ってもしょうがないかなと言った過去って方だった。
社会党の党首でやるっきゃないって言ってわりと人気を博したからね。
ダメなものはダメ。あれなんですよね。
長寿がっていつもそういう言い方しかできないんですよ。
正しいことは正しいとかね。
価値あるものは価値があるとか。
意義のあるものはいいが。
全然意味のあることを喋ってる感じがしない。
同じことを2度繰り返しているだけで。
ところが僕らはこれにすごく引きずられてしまう。
そしていつも自分は同じ人間だという誤解をずっと与えられていて
あなたのやりたいことをやりなさいっていう割にはですね
今はやりたくないことを無理やりやりなさい。
そうすればあなたはいつもやりたいことがやれる人間になれるんですっていう
デタラメな理屈を並べ立てては
人にプランニングというのをさせて
能動的に生きているという誤解を与えるんですよ。
私たちは長寿がに対して受動的
私はいつも長寿がに対して受動的に生きちゃうわけですね。
長寿ががやるなといったことをやろうとすると怖くなる。
長寿がが罰しろといったものを罰せないと
自分がダメな人間のような気がしてくる。
長寿がが起きろといった時間に起きないと
怠けているような感じがするし
長寿ががそいつを嫌いになれといった人間と一緒にいると
何か自分がですね
侵食されているような感じがしてくる。
いっつも私は長寿がに対して受動的で続けさせられているわけです。
これが私がずっとグッドバイブス以前に続けて続けて続けてきたために
追い詰められた場所なんですよ。
それでも抵抗はしてたんですよ。
今もずっと喋ってきたようにですね。
長寿がの言う通りになったことはないし
そうすることもできないし
そこに合理性も認められない。
なのに私はですね
時間管理をしてお金の管理をして
部屋を求めてこういう風に言ってるだけでも不思議ですよね。
いいことしかしてないように聞こえちゃうじゃないですか。
皆さんの長寿がと私の長寿がの間のコンセンサスが近いからなんですよねこれが。
これが私は非常に今
なんつうんですかね
これをやり続けると
こうになるとしか思えないから
長寿がというものに対して受動的であることはないです。
いい加減にしようと。
先日絶縁とか書いちゃったんですけど
絶縁は難しいかなっていうのが本音のところにはあります。
絶縁とは違うんですよね結局。
長寿がをオフにするという
絶縁とオフにするが違わないような気もするんですけど
電気的に言うと。
でもとにかく長寿がというものに対して受動的になることはやめると。
一切合切基本的にはやめたいという感じがします。
長寿がというのはすぐ
独裁者なんですよ要するに。
他に計画を立てて
1D1計画を立てて
僕はそれも立てないようにしてますけれども
最初やっぱり抵抗がありました。
1日のも立てないとなってくるとね。
1日のも僕は今立ててないんですけど
1日のも立てないとなると
抵抗はあった。
別に読書も
読書ということはしないし
メモを取らない。
記録も原則は残さない。
残しちゃうのはありますよ。
原則は取らないし
ましてレビューはしない。
これはもう徹底してます。
レビューは絶対しないですね。
これはそのうちお話ししようと思うんですけども
とにかく大事なことは
正しいことは分かっている。
先のことは分かっている。
だから能動的に生きる。
これがないと能動的に生きようがないですから。
先のこととか正しいことが分からないのに
能動的に生きるということの限界
能動的って無理じゃないですか。
私は冗談で言ったわけじゃないですよ。
協力的に生きるというのは
合理的な結論だったという話をしたじゃないですか。
それは確実に自分が快感は少なくとも得られることが
良いことかは分からないし
それで健康的だとも思えないけど
ハンザにのめり込むとかね。
でも少なくともそれは快感はもたらず
それは間違いないということを知ってたから
それも1日後とかじゃないんでね。
10分後には快感をもたらすことを知ってたから
これはかけていいっていう風に考えたんです。
これが私の合理的な結論だったんです。
これに比べると英語とか話にならないと思ってたんですよ。
本当に。
全く役に立たなくなる可能性がある。
ソロ版みたいなものになっちゃう可能性がある。
昔あのDOSVっていう知識がですね
就職には必須だってされていた時代があったんですよ。
多分今聞いたこともないっていう人が多い
MS-DOSだね。
多分今の若い人がそれをやるってことになったら
工図家ですよ。物好きがやることになってしまうと思うんですね。
僕はそれが英語がいつそうなっても
全然もう不思議のないところまで来たなって感じはする。
それは英語をやるのが無駄だって話ではないですよ。
無駄かもしれないっていう話です。
こういうのが私の考え方では合理的でなさすぎるので
驚楽だけが一応信じられるものだったんですけど
あれだってですね
日に三度となってくると結構ただの辛い作業になっちゃうんですよ。
つまり能動的には生きられないんですよね。
合理的に考えて必ずこうなるっていうのを
意識してそれをやるのが能動的ですよね。
私が主体性を持って
私がこういう計画を立て
そこで現実をねじ伏せ
例えばたとえ地震が来ようが何がしようが
一切人助けとかをしないで
だってそうしないと過去に立てたプラン通りには生きられなくなるじゃないですか。
能動的っていうのはそういう風なニュアンスを含むじゃないですか。
どうしたって。
つまり何が起きるかが完全に分かってないと
能動的に生きる人っていうのは単なる異常な人になってしまうんですよ。
たぶん我々は状況を見てですね
修正につぶ修正をしているからこそ
なんとなくまともに生きているように見えるんですよ。
そうじゃないとマシンみたいになってしまいますからね。
だから実は私たちは能動一辺等では全然生きていないんですよね。
で、その能動で生きるっていうことを
やめていくとですね。
一つ一つやめていくと不思議なことに
超自我とバッティングするシーンばかりになってくるんですよ。
たぶんだから私は主体性って言葉を聞いたときに
必ず警戒してしまうのは
そこに超自我というものの力を感じるからだと思うんですね。
そしてそこに分かっているからっていうニュアンスを汲み取るからだと思うんですよ。
次に起きることぐらいは分かっているから。
いやいや、分かってたことがないからっていうのが
ずっとあるわけです。
そしてずっとこうやって能動的に生きるということが
限界を迎えつつあるなと。
それでも無理して私は当時まだ
おじはるんとかには起きてたわけですね。
で、そういうことをすると
どんどんどんどん家庭の雰囲気が悪くなり
何かよくわからない喧嘩をしなければならなくなり
生じがという対象の特徴
自分の身体症状がどんどん不健康になっていく。
これも先に言っておきますが
たとえグッドバイブスをすぐに始めたからといって
あるいはタスクシュートをやめたからといって
そして能動的に生きるのをすぐやめたからといって
はちまち皮膚の状態がすごく良くなって
はちまち家庭内環境がめちゃくちゃ仲良しになるとか
そういう意味ではないですよ。
それは多分シチュエーションによって
いろいろあるはずなんで
そういう意味ではないです。
そういう意味ではないけれども
僕の場合は明らかにあのやり方は無理があったわけです。
全然現実と状況関係なく自分の計画している通り
その計画は当時としては
真っ当なものだと思ってたんですけどね。
そのまんま生きるということをやっても
ちっとも自分が幸福な方向になっていかないんですよね。
それは別にタスクシュートのせいじゃないんですよ。
タスクシュートに私が書いていることのせいなんです。
早く起きるとか。書かなきゃいいんですよそんなこと。
つまり5時半に起きるようにセットしなければいいわけです。
で、そうやってずっと押してみると
生じがに対して受動的に生きるということが
つまり私が能動的に生きるということと
全く同じ意味になっている。
生じがだけなんで
何が良くて何がこの先を来て
何が正しいのか分かっているのか
私の中で主張するのは生じがだけなんで。
そしてその生じがという対象なんですが
嘘つきなんですよ要は。
これは本人はでかい人じゃないんだけど
嘘をついているつもりはありません。
つまりうちの親と同じなんですよ。
うちの親はそういうことを言ってたから
私の子供のころに。
将来のために勉強しなさい。
つまり勉強することは将来のためになるということを
私は知っているよという主張ですよね。
これが生じがの雰囲気なんですよ。
持っている意識。
嘘をついているつもりはないんだけど
本当のことは言えてないって感じね。
能動的に生きることの意味
そして私のために言っていることは確かなんだけど
私のためになっているとは限らないってことです。
だから別に腹立たしい時もありますが
なんていうんですかね。
絶縁する対象というのとは違うんですよね。
要はこういうことなんですよね。
グッドバイクスに接するべき対象なんですよね。
その恐れと不安を取り除いてあげればいい相手なんですよ。
やっぱり結局は。
そしてその時に私が要するに分かったことは
今のような話はぐだぐだぐだぐだと述べてきましたが
これだけの材料は結局いるんですよね。
整理はされていないだけであって
これだけの材料は僕はいる気がします。
長寿画に対して受動的になるのではなく
私が主体的に生きるのではなくて
現実に対して受動的になるしかないんです。
これがだから途中散々述べてきたことなんです。
現実に対して受け身的になれば
長寿画に対して受け身的にならなくて済むんです。
この意見はバッティングすることがありますが
この際には長寿画の恐れと不安を
言ってみればなだめてあげればいい。
結局長寿画の恐れと不安というのは
私の恐れと不安ですから。
長寿画って私の一部ですから。
これさえできるようになってくればですね
要するにあれですよ。
現実から要求されたことには原則すべて受け入れる。
なぜならば
それを受け入れるなと言ってるのは長寿画だけだから。
長寿画の主張を受け入れないならば
現実に対して常に自動的に対応するというのは
実は簡単なことなんですね。
これがグッドバイブスです。
そして今日のグッドバイブス編の
基本的なテーマというか
ずっと今やっている最中のテーマでもあるわけです。
だからよく言うところの
現実にそうやってずっと対応していては
未来の行き先が定まらないから
未来の行き先はもともと定まってないんですよ。
もう一つが
そうやって現実に対応していては
搾取されるから。
これは長寿画の恐れと不安なんで
我々のコンセンサスが取れつつあるところにあるんです。
社会全体がそういう考え方になってますからね。
社会全体はなってない。
しかし社会には
この考え方を良しとする
それなりの勢力がありますから
コンセンサスを取っている限り
そこは搾取になるんだろうけれども
代わりに
長寿画のゆとりと幸せの関係
我々はその現実からの搾取を
とことん避けようとするのは
長寿画にかなり搾取されている
搾取はされてないんだけど
長寿画にかなりコントロールされているっていうのも
同時に意識しておく必要はあると思うんですよ。
もう一つが
そうやって現実に対応し続けていると
これもよくある言い方だし
大学の医者とよく大して違わないんですけれども
例えばさっき言ったような言い方で言うと
時間は無駄にするしお金にはならないし
何が言いたいかというと
幸せになれないよっていうことだと
これはまさに私が親に言われてきたことのまんまです。
つまり長寿画のゆとりにしてれば
幸せになれるって言ってるわけですよ。
これがそうじゃなかったから
2010、少なくとも9年以降は
私は路線を明らかに変えてきている
ということになりますよね。
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