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2021-06-29 39:45

【GMV406】時間がなくなるのは私を見失うから

意識の切り替わりを発見する
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日ですね、オンラインの小さなグループセッションみたいなのがありまして、そこで私、ほとんどいつも言っていることなんだけれども、時間はなくならないって話を少ししたんですね。
これは本当にたまたまなんですけれども、グッドワイブスでもそういう言い方をしますよね。
これもまたたまたまなんですが、そういうことを別に言われているわけじゃないんですけれども、私タスクシュートを使っていて最初に気づいたのはそのことだったんですよ。
気づいたと言っても、それは事実なのかっていうツッコミは入ると思うんだけど、タスクシュートというものを最初に使うようになって数日して、時間ってのはなくならないんだって思ったんですよ。
これはもう2000年多分、少なくとも9年よりは前の話なんですよ。
だから、以来10年間くらい私は時間ってのはなくなりはしないんだなという意識でずっと来ているんですね。
これが昔から別にその時間はいつかなくなるんだと思っていたわけではないんだけど、このことについて議論が起こっちゃうというのがいつも考えていて、どうしてなんだろうっていうのがまずあるんですね。
この話はこの番組では頻繁にしていますし、自分のセミナーとかでも頻繁にするんですけど、なんか受け入れられる感じって少ないんですよね。
一部しか受け入れてもらえない。
でも、時間がなくなるっていう確信がある方にとってのなくなるという意味は割とまちまちだったり曖昧だったりするんですね。
お金がなくなるっていうのはわかるんですよ。
お金がなくなると非常に困るから、お金があるうちに何かをするっていうのはわかるんですけど、少なからぬ人が現代の人はお金より時間が大事だって言うんですよね。
そうするとお金が全くなくなったときに時間は依然として多分あるんですよね。どのくらいあるにせよ。
私はそうなったときに果たして時間とお金でお金のほうが、時間のほうが大事だってその人は思うかなっていつも考えるんですよ。
すっごい極端なケースを考えるんですけど、若くして何らかの理由により身内もう誰もいませんと。
無一文です。家もないです。時間はあると思うんですよ。この人が欲しいのはお金じゃないかなって思うんですよね。
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つまりそうはならないっていう認識があると思うんですけど、多分そうなんでしょうが、そうはならないんでしょうけど、その場合にその人は何で時間が大事だって言うんだろうって思うんですよ。
多分時間を使ってお金を稼ごうとしているケースが非常に多いと思うんだけれども、お金と時間では時間のほうが大事だっていう話になってるんですよね。
それであればですね、お金のある間はある意味何をしていてもいいはずじゃないですか。その人が自由じゃないと思っているのが多分時間が大事だって話なんですけど、自由じゃないって思うのはどうしてなんだろうと思うんですよ。
やっぱりお金を稼がなきゃいけないと思うからなんじゃないんだろうなと。
もう一つですね、時期が迫ってるっていうケースがあるかもしれないですけど、これはですね、私がセミナーとかセッションとかで議論をした中では一例もないんですよね。
時間がない、私はこれが本当の意味で時間がないに等しい話なのかなと思うんだけれども、これを持ち出されている方は今のところいらっしゃらないんですよね。
そんなに私には時間が残されていないんだっていうセリフがあるじゃないですか。あれは本当だと思うんですよね。
あれはですね、私聞いたことがないんですよ、そういう意味では。
だから時間がないというのはやっぱりどういう意味なんだろうっていうことを考えるんですね。
それは現代の人にとっては共通認識として時間がないらしいんだけれども、タスクシュートっていうのは面白くて、何をする時でも必ずタスク名に開始時刻っていうのを入れるんですね。
時間がないというのは私にとってはこれを入れることができなくなった瞬間だと思うんですね。
開始時刻を入れることが何らかの理由で許されなくなりました。
エクセル2ですよ。エクセル2、例えば今だと0818って入れるんですけど、そうやって入れようとしても受け付けてくれません。時間なくなりました。
ないんですよね。起こるような気が全くしない。なんかそれはもうこの世の法則が崩壊したくらいの勢いだと思うんですよね。
自分ではそれを入れられないという事態が発生したと、2つしか考えられないと思うんですよね。
1つは死ぬ時。もう1つは同じようなものですが、意識を完全に失った時。
これは確かに時間がないんですよね。でもその時に問題になるというか、その時多分問題にならないんですが、その時問題になることがあるとすれば、
それは認識というものが今とは全く違っている状態なので、これを心配することはほぼ意味がないと思うんですよ。
タスクシュートでは一時流行った言葉に打刻って言葉があるんですよね。刻を打つって言うんですよ。
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ちょっと面白い言いましたなと思って一時使ってたんですけど、ちょっとこうなんか不自然だなと思ってやめたんですが、
時刻を打つわけですね。時刻が打てません。僕はこれが時間がないってことだと思うんですよね。これ以外ないと思うんですよ。
タスクシュートのもう1つ私は非常に興味深いと思っていることはですね、全タスクを平等に扱うんですよ。
だから、全行動を平等に扱うんですよ。これが非常に面白くて、私はこの開発者の藤井聡さんがなぜこんなことを考えついたんだろうって思う時が時々あるんですけど、
最初のいきさつからするとですね、ここまで最初から考えてたかどうかはともかくとして、結局このツールはそういうものを含んでいるんですよね。
僕はこの感覚がね、割と大事だと思っているんです。フロイトなんかもそういうところあるんですけども、結局これをやるってことはこういうことを意味しちゃうよねっていうのを本人が意識していようとしていないと、そういうことを含んでいると思うんですよ。
タスクショットの全てを平等に扱うというのは、例えば、今から原稿を書きたいと思ったんで、原稿を書くと打刻するわけですよ。0820、原稿開始って書くわけですね。時間があるわけですよ。
今頃がとても原稿を書く気がしないなと思って、なんでもいいんですけどね、YouTubeを見始めました。
0821に終了するんですよ、原稿を書くのは。そして0821にYouTube視聴開始なんですよ。
ここをですね、私は多くの人が誤解していると思うんですよね。
一つに時間がないっていう発想を持っている。それは大きな誤解だと思うんですよ。時間があるからこれができるんですよ。
もう一つは、これをしちゃいけないのに自分はしちゃってるという考え方を持っている。
で、その時にしちゃいけないと言っているのは誰なのかについては一切考えようとしないっていうのは、私は何かを誤解していると思うんですね。
例えばそれをしちゃいけませんと、社会が言ってきました。でも社会は人じゃないので、社会は言ってないんですよね。
誰かが言うんですよ。で、誰も言ってないなら別にそれをしてもいいはずなんですよ。
しちゃいけないと自分で言うならば、それは自分なのか自分の親なのか先生なのか上司なのかとにかく誰かがいるはずなんですよ。
しちゃいけないと決められるような、そういう権威を持った誰かが。
いないって言うならば、それはしちゃいけないってことにはならないと思うんですね。
とにかくここに8時21分YouTube視聴開始っていう風に入れるじゃないですか。
この瞬間にさっきの原稿を書くってことと視聴ってものがYouTubeを見るってことがですね、対等になるんですよ、私の考えでは。
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で、この状態が永遠にできるんですね。死ぬまでできるんですよ、これを。
何をやってもいいって、こういうことを意味、僕の中ではしてるんですね。
何もしない時間があったんですって言うんですけど、そんなことはありえないんですよ。
例えば、出発するかどうかで悩んだって言うなら、悩むっていうのを入れるべきなんですよ。
ただ悩むのは好意かどうかがちょっと微妙なところですが、
大概悩んでる時、人は何かするんですよね。
何か読んじゃうとか、メールをしちゃうとかするんですよ。
そしたらそれは全部メールをするとか、漫画を読むとか入れるんですよ。
そして全てが対等になっていくんですね。
だから僕はこのどれかを無駄だから削るべきだったとか、
PDCA的に見て価値のない行動は削除していくっていう言い方が気に入らないんですね。
そういうランク付けはできないだろうと思うんですよ。
これ打刻っていうのかな、開始時刻を入れ終了時刻も入れたと。
もう一つの好意なんですよね、この世の中でしてしまった好意なんです。
この好意に評価付けできる人はこの世にいないと思うんですよ。
いるっていうならばその名前を挙げてほしいんですよね。
この人は間違いなく私のYouTubeよりも私が原稿を書くべきだと言い切れる人なんです。
どの観点から見てもそうするべきだったと言い切れる人なんです。
神様みたいな人なんですっていうことが言える権威者というものがいて、
それを全世界の人に納得させられるのであればそれは正しいと言えると僕は思うんだけど、
そういう人はいないと思うんですよね。
どっちでもいいんじゃないかっていう人は必ずいると思うんですよね。
そうするともうダメだと思うんですよ。
それは少なくとも絶対的な評価にはならないですよね。
大概の場合それよりも遥か以前にそもそもそれを言える人がいないんですよ、誰も。
自分とかいうことになってしまうんですよね。
あるいは自分の内心みたいな。
それがもし本当ならば原稿を書くほうが絶対にYouTubeよりもいいんだと自分が思っている間違いない。
どう考えてもそうだと言い切れるって言うんだらその人はYouTubeは見ないと思うんですよ。
ここに何かがあると思うんですよね。
私は誤解って言うんですけど何かを解釈し損ねているっていう感じがするんですよね、その時。
時間がないというのはさっきも言った通り、この一連の開始時刻を打つということを
どこかで強制的に停止させられるような事態が発生したら、それは時間がないです。
でも私はそのような事態は絶対発生し得ないと思うので、
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つまりこの世の中に生きるという原理とタスクシュートのエクセルで打つという原理の中では
そういう事態が発生したことが僕は一回もないんですよね。
常に全てのタスクは平等に扱うことができていて、
常に何かのタスクを開始するということを打つということができるんですよね。
ということは時間は無くならないということであって、
私は何かを必ず、永遠になくならない時間の中で何かを必ず実行する、
し続けるということになると思うんですね。
これがベースだと思うんですよ。
そしてこの話から、私は禅の主人公であって、
今日はスキップするので、気になる方は調べてみてください。
禅で主人公って入れると禅宗の禅ですね。
私はここにいろんなヒントを見ているんですけれども、
要するに自分というのが二人で、
自分が何をしているのかというと、
要するに自分というのが二人で、
一人はどっちがどっちというのかよく分からないんですけれども、
一人は主人公なんですよ。
もう一人は主人公に呼びかける人なんですね。
主人公が後遺者なんだと思うんですけどね。
だから私はタスク集会をやるときに、
あれとほぼ同じことをしているんですね。
自分に呼びかける。
自分は主人公なので、
必ずどんなことでもできるはずなんですね。
主人公ですからね。
どんなことでもできるというのが現実にあって、
しかもそれをするための時間は永遠に失われることがないと、
これだけははっきりしていると思うので、
何かをするということが、
何かができないということを
意味しないと思うんですね。
ずっと何をやっていても、
その次に何かやりたいことが出てきたら、
それをすればいい。
それをただひたすらひたすら繰り返していくことができると。
このときに二人というのは面白くてですね、
倉園さんがよくグッドバイブスでも二人という話をされるんですけど、
これよりはもっと明快に分かれてますけどね、
倉園さんの言うところの二人は。
問題なのは、
僕が今意識しているのはその二人という話であって、
二人は私の中で二人いるということになったら、
少なくとも何らかのズレがありますよね。
自分はそのズレが今非常に重大だと思っているんです。
一人は何て言うんですかね、
何にしてもズレている。
ズレているということは、
このズレがあるからこそ、
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どういう行動をとっていても、
その行動そのものは私にとって絶対的な意味にはならない、
という感じをすごく抱くようになったんですね。
これちょっと説明しにくいんですけど、
タスクシュートの記録を後で読み返したときにも
似たような感じが今まであったんですよ。
あそこに現れているのは間違いなく絶対に私なんだけど、
でも何て言えばいいんですかね、
物理的で現世の私だって感じなんですよ。
こうじゃない自分が必ずいまして、
中にというのか外にというのかは分からないんですけど、
少なくともズレていまして、
このズレている方の私はある意味絶対なんですよね。
このズレている方の私がいなくなったり、
中心からズレたりしなければ、
この物理的な方の私が、あるいは現世的な方の私が
何を思って、どう考えて、何をしようと、
ある意味大丈夫なんですよ。
これはですね、なんか哲学みたいになっちゃうんですよね。
でもそういうことではなしに、
というか哲学みたいなのかもしれないんだけど、
こういう現象が間違いなくあるということなんですね。
だからすごく大事なことなんですよね。
だからすごく大事なんですよ。
僕の中でさっきの脱線ってよくタスク修道で言ってたんですけど、
私も脱線という言い方はしないんですよ。
脱線というと評価が入るじゃないですか。
評価が入らないと思っておりまして、
だから私が行動を切り替えるという時に、
必ずその切り替えるというものを観察できる自分がいるんですよ。
だって切り替えたと思うってことは、
本当はそこに何かのスイッチが入ってて、
カチャっていったりしてるわけじゃないんだから、
行動を切り替えたという決定的な根拠は内面にしかないじゃないですか。
例えば原稿を書いていて、
さっきの漫画読むとかはもっと明瞭なんですけど、
そうじゃなくて、
例えば何でもいいんですけど、
性的なことを考えたとかにしましょう。
その瞬間に原稿を書いてないんですよ。
体制が全く変わってなくても切り替わるんですよね。
今私そこまではさすがにめんどくさいんでしないんですけど、
一時はそういうことが起きたら書いてたんですよ、タスクシュートに。
で、なんでそういうことをするのかって言った時に、
すごく面倒くさそうだとかストイックだとか言われるんですけど、
そういうことではないんですよ。
これはストイックに見えたり面倒に見えるというのは、
このタスクシュートの記録が何か厳正的な役に立つような気がするからなんだと思うんです。
立つんですけどね。
時間の節約とか、
何か有効な行動をとって得をするとか、
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そういうふうに考えられるから、
その得に対してその手間は払うに値するのか、
というふうに考えられているんだと思うんです。
そうではないんですよ。
このスイッチをする自分を観察できている自分というものが、
いなくなっていないってことが大事で、
それだけが大事なんですよ。
だからスイッチしたっていうことを記録するんです。
なぜなら私はスイッチしたっていうことを観察する自分がいなくならなければ
記録しなくてもいいんだけど、
記録しないでいるとこの観察している自分がどっか行っちゃうんですね。
意識から消えてしまったような感じになるんです。
消えないんですけどね。
思い出せなくなってしまうんですよ。
この自分がいたことが。
肉体的、厳正的に張り付いている自分と完全に重なっちゃったように思えてきて、
一緒になって行動しちゃうんですよ。
これが一番僕はダメだと思っているんですね。
必ずこの禅でいうところの主人公とその呼びかけている人は、
何て言えばいいんですかね。
二者いなきゃいけない気がするんです。
二者いることを確実にしてくれるのがタスクシュートなんですよ。
私にとってはそうだったんです。
グッドマイムスを知ってからは、
タスクシュートがなくても多分、
二者いることを見失うことはなくなりましたけど、
ほぼ。
それでもタスクシュートがある方がより確実な感じはあるんですね。
長らく僕はタスクシュートをやってきましたからね。
この話をすると、どうしても実用的な感じがせず、
ライフハックっぽく聞こえないから、
こういう話が哲学的とか言われるんだけど、
そうじゃないと僕は思うんですよ。
多分、この二者がいる方は絶対に実用的にもいいんですよ。
なぜならば、
自分の行動が切り替わったということを見失うと、
実用的な意味での時間も膨大に無駄になるんですよ、結局。
皆さんって言うのかな、そうじゃないな。
時間というものがなくなるなくなると言って心配されている方は、
この切り替えを全部見失っているので、
何かをしようとしている自分の連続的継続性というのかな、
もうダメなんですよね。
かき上げ軸で赤が入る系なんですけど、
そうとしか言いようがないんですよ。
例えば、原稿を書くぞと決めたと。
その原稿を書くぞと決め、原に原稿を書く自分というのが、
1日、正味厳密に徹底的に水を持ってという意味ですよ。
1日、16、17分取れれば、原稿って絶対に30日で相当の量進むんですよ。
これをできないというのは、原稿を書いている形になっているんです。
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書斎について言おうと、書いてないんですよ。
違うことを考えているんです。
その書いていもしない自分を見失っているうちに、時間がなくなるんですよ。
それは大きな誤解なんですけど、時間はなくならないんでね、別に。
ただ、その連続的な継続性というのは、
自分が見失っているときに、
見失わないようにしないと、この継続というのは、
僕らはなぜかできないような生き方をしちゃってるんだと思うんですよ。
これ、黙っていてもできるんですよ、このコンテンツのアドバイス。
だから、絶対に時間がなくなるんですよ。
見失わないようにしないと、この継続っていうのは、僕らはなぜかできないような、そういう生き方をしちゃってるんだと思うんですよ。
これ、黙っててもできるんですよ。子供とかはできてますもん。
2歳児、3歳児はある程度できるんですよね、こういうことが。
できなくさせられたんですよ、私たちは、この世の中、生きている中で。
もうすっかりそれが状態と化していて、状態といったら日常の状ですね、態度の態度、状態。
つまり、ほとんどいつもやっていることと頭の中身は不一致ですっていう状態が、しかもそれはいいっていう考え方まであるんですよ。
なんかね、マルチなんとかとか言うんですよね。マルチ思考みたいな言い方をする人もいらっしゃるんですけど。
僕が聞いた中で一番衝撃を受けたのは、歯の治療中は歯の治療のことは考えないというお話がありまして、衝撃を受けたんですけど。
私の考えでは、私の歯の治療中は歯の治療のことを考えていて欲しいと思うんですよね。
別にその人が日頃何を考えていてもいいじゃないですか。
でも私の歯の、特に親知らずにドリルを当てる時に一致なこととか考えていて欲しくないじゃないですかって僕は思ったんですよ。
つまり、思考内容と行動内容が一致する必要って必ずしも人はないってことですよね。
運転中とか考えてみればよくわかると思うんです。
免許教習センターに行ってる時は別として、ベテランのドライバーともなればですね、運転中にそれ以外のことを考えるのは容易ですよね。
容易なんですが、私が考えたいのはですね、不一致であることはそもそもあんまりいいとは思わないけど、
その不一致、何をきっかけに、いつ起きたのかを人は答えられなくなってるって方が気になるんです。
何か思考を始めると、運転中に何か考えごとを始めると、
うちの娘の受験勉強の問題について考え始めると、考え始めた瞬間があるんですよ。
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その瞬間は何かがスイッチしたはずなんですね。
そのスイッチを見失ってると、そのスイッチに気づく自分っているんですよ。
常にいるはずなんです。というか、いるんですよ、実際に。
これに気づく自分というものが常時自分と一緒にいればですね、
私の感じではかなりグッドバイブスというものはずっと継続できるんです。
だから過度に疲労するとか、時間がない感じにいつも追われるっていうのは、
このスイッチをずっと見失ってるっていう意味のはずなんですよね、私の感じでは。
やろうと思ったことが継続できていないということは、
どこかで自分が別の状態になってしまったじゃないですか。
これを極端にどうしてもダメだというなら、これを許さなければ時間はなくならないんですよ、絶対に。
ところが実際に時間がなくなるということは、これを常時見失ってるっていう意味のはずなんですね。
だからタスクシュートですげえつけろって言うんですよ、記録を。
ところがこの記録をすごいつけろという話、つまり打刻しろってことなんだけれども、
話は必ずその記録が何の役に立つのかって話になっちゃう。
この記録をするのは、この記録をすることが役に立つんですね。
でもその記録を読み返してみて、無駄な時間を無駄じゃないようにしましょうって話にはならない。
同じような話になりますよ。
結局脱線してYouTube見ちゃった時間を無くせば、修行と進みますよね、仕事進むんですよ。
問題なのは、後からそれを見たって無くせないってことなんですね。
無くすためにはその切り替えが起きるときに、切り替えないようにできなきゃいけない。
そのためには切り替えるという自分に気づかなきゃいけないんです。
それに気づくために記録をするのであって、
後からそれを振り返って、後から修正しよう、
明日から修正するためにそれを役に立てようっていう考え方では追いつかないし、
切り替えが必ず起きちゃうんですよ、そのやり方では。
もう一つが、時間があったか無かったか確認をしたいっていう話に、
記録ってのはどうしても考えられるみたいですけど、
時間があったか無かったかも何も記録が続いているってことは、
時間は常にあったってことなんですよ。
だからそういう観点ではダメなんですね。
記録を取ったやつを後で役に立てるという観点では。
常にそのとき役に立てるというか、記録をするその瞬間に、
自分がどうなろうとしているのかっていうんですね。
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自分がどういう風になろうとしているかということに常に発見がある。
だから私は同じように考えてグッドワイブスをやっているわけですよ。
誰かが自分の観点からすれば、自分の観点っていうのが大事なんですが、
良くないことをしようとしているという風に考えると、
それを罰しようとするんですよ、私という人間は。
これも一つの脱線であって切り替わりなんですね。
この瞬間に気づくと、これはグッドワイブス的にあれなんじゃないだろうかって気づけるじゃないですか。
声がないとですね、自動的にそういう切り替えが起こってしまって、
そっちに行ってしまうんですね。
これそっちに行ってはいけないという話とは違うんです。
ただ、そっちに行かないようにするための私がいたはずなのに、
そいつがどこかに行ってしまった、眠っちゃったみたいな感じもありますが、
それを防止するんだよね。
だから同じようなことをやっている感じが僕の中にはずっとあるわけです。
だから時間がなくならないというのは非常に大事なんですよ。
時間がなくなったと思うようでは、そもそもいかんわけですよ。
時間がなくなったと思うということは、
私たちは行動の継続はどこかで打ち切らなければならないから、
結局のところ継続性は失われるんですが、
その継続性はただただ失われているうちに、
どう失われたのかがわからなくなるほど失われてはいけないんですね。
必ずどのように切り替えたのかを自分が知っていてしかるべき。
最初はタスクシフトをやっていても、
読み直してみてここで切り替わってきているんだなというのに
気づくという感じになるんですけれども、
そのうちリアルタイムに気づくように、
というかリアルタイムに気づき続けるようになっていくんです。
これもよく問題というか、
ほぼ話を半分に聞いていただいていると思うんですけれども、
トイレに行くというのを私はすごい大事にしているのは、
トイレって絶対に気づかされるんですよ。
無意識のうちにはいけないからですね。
もう一つが、
そうそう、この話をしようと思っていたんですよね。
7月10日にセミナーをやるわけですが、
オンラインの、
倉園平塚さんとのグッドバイブス勉強会。
これで人を罰するということをですね、
倉園さんはそこに罪を認めるという言い方をするんですけれども、
要するに罪というものを人に見てしまうと、
それを罰したくなって、
対外の場合は罰せないので、
後で復讐したくなるという形をとるんですけれども、
30:03
その罪を見るというのが、
切り替えとして起こる、必ず起こるんですね。
タスク習得のようなことをやっている人は特に、
これは気をつけるところだと思うんですけれども、
自分に用事を言いつける人を罪だとみなすんですよ。
この話は二重に問題があって、
気がつかないうちにそれをやってしまうということと、
気づかないうちに自分の連続性が壊れていくと。
その依頼に即座に答えるというのは、
多くの方が嫌がるじゃないですか。
割り込みだし脱線になるから。
でもこれはですね、
ポイントは、
さっきも繰り返し出ている、
もう一つのずれている私というもの、
つまり用事に即座に答える私じゃなくて、
それを観察できている私というものがいなくならない限り、
即座に何をしようと関係ないんですよ。
時間がなくならないんだから。
即座に何をしたからといって、
このスイッチが自在にできるようになってさえいればですね、
時間とか機会を失うということは多分ないんですね。
なぜならば、いつでもその観察している自分が、
それを握っているからなんだと思うんです。
この表現も伝わりにくいですよね。
でも世の中から時間がなくならずに、
自分が依頼されたことでもいいんですけど、
自由にそれをできることをやるのであればですね、
それが何かを、機会とかチャンスとかメリットとかを
失ったという意味にはならないような気がしません。
もしそれをやってしまうと、
自分が今やっている行為の連続性が失われるということだけが問題ならば、
後で必ずそこに戻ってきたら連続性が確保されるじゃないですか。
しかもそれを自分の自由にできるということはですね、
できないことよりも僕は連続性が強く確保されていると思うんですよ。
原稿を書くということが、原稿を書いているときに
妻に選択の取り込みを言われて一旦停止し、再開するということが
自在にできるということはですね、
自在にできないときよりも、
その原稿を書くことの連続性は強く保証されていると思うんですね。
だってトイレに行くっていうのがまさにそうなんですけど、
継続が打ち切られる可能性って、
現実に生きている限り常にあるわけだから、
打ち切られた瞬間にそれが崩壊してしまうというのは不自由だと思うんですよね。
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だから後で必ずつなぐことができるということによってですね、
時間ってやっぱり死ぬまでなくならないと言い切れるようになると思うんです。
これが何か他人に委ねられていたり、
自分の集中力とかいうよくわからないものに委ねられているから、
何らかの条件が揃わない限り継続性が打ち切られて崩壊してしまうという
そういう不安と危なっかしさの上に立っている感じがあるんですね。
これが時間がないというときの大きな問題だと思うんです。
だから観察している自分というのはある意味現実原則から自由なので、
それは何にもできませんけどね、観察しているだけだから。
でも現実の中にいるわけではないし、
肉体的制約に縛られていないので、
観察している自分というものが見失われない限り自由なんですよ、完全に。
現実原則からは。
これがある限りはですね、時間とだからよく似てるんですよ。
いつでもその時間を使うことができますからね。
永遠になくならないものみたいな、死んだときはわかりませんよ。
死んだときはわかりませんけれども、
そうでなければ永遠になくならないものという感じが、
実際そうなんですよね。
この現実にはいなくならない私と、
現実にはなくならない時間というものをピタッと合わせておけば、
平行させておけばですね、
その間にいる、物理的に動いている肉体としての私、
ないし主人公みたいなものはですね、
何やってたっていいんですよ。
逆に言うと、ありとあらゆることをやるほどいい気がするんですよね。
これはどうせ肉体なんでありとあらゆることなんかできませんけど、
だとすると他種多様なことをやればやるほどいいような気がするんです。
それが自由ってことだと思うんですよ。
肉体的な自分というものとしては。
これを固定的なことしかさせずに、
しかも時間がなくなるということになっていて、
しかも観察する私が消え失せるということになったらですね、
何にもできなくなっちゃいますよね。
一歩間違うと。
ハンデをしたようなこと以外は本当に何にもできなくなってしまう。
そして実際にはそうではないんですよね。
ということだと最近思います。
さっきの話ですが、つまり7月の10日土曜日にやりますと。
この罪悪感と罰に関しては、
私よりはるかにクラスの方が分かりやすく話してくださいますので、
これをぜひ機会に何を得ていただきたいかというと、
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怒らないということを得ていただければと思うんですね。
私最近怒るということがめっきり減った。
ほぼなくなったんですよ。
で、これをやっぱり腹が立つということ自体がほとんどなくなったんですね。
で、びっくりしたことがありまして、
いろいろあるんですけれども、
これはちょっと前にウッドワイオスで知ったとかいう話とは全然違ってですね。
怒るということには、もちろん罰するということもあるんですけれども、
そういうことをしなきゃいけないという感じがつきまとうんですね。
これは説明としてちょっと難しいんですけれども、
怒ると、例えば夫が許せないから離婚するって時には、
多分、ただ別れるでは済まされないと思うんですよ。
医者料200万ドルとか、
壮大なことをやらなければいけないような、
壮大なことをしないと完結しないような感じというものを抱きちゃうんですよね。
これが日常のかなり些細なことでも、
いちいちそういう風船がうわーって膨らんで、
これを全部やらなければいけないような感じになるので、
怒るということはタスクを増やすんですよ。
タスク管理的な表現をとるならば。
それも膨大に増やすんですよ。
これはもう一つあって、
このエネルギーに見合うだけのことを、
私が貸せられたみたいな感じがちょっと発生するんです。
これから解放されると、
えらいまた自由になれます。
怒るだけでも嫌だと思うんですけれども、
怒った時のことをよく、
今度怒った時があったら観察してみてほしいんですが、
いろんなことをしようとしてます。
いろんなことをすることは、
時間的にそれこそ不可能なので、
復習することになるんですよ。
これ私、実は怒りの先送りだという気がするんですけどね。
いつか、このおとしまいをつけさせようみたいな感じで、
このいつかはサブデイなんですよね。
GTDのサブデイリストみたいに。
非常にやることを増やすんですよ。
怒りが覚めれば全タスク消滅しますけどね。
だから非常に価値観は怪しげなものがあります。
これを手放せればデカいんですね。
そういうことを最近思ったので、
本当に怒るっていうのは、
これ損得はないんだけど、
実に損だなって思うようになりました。
腹が立つってことが損臭いんですよ。
この損、相手が負わせてると思うから、
余計腹が立つんですけどね。
つまりその損失っていうものを、
39:05
自分が罰することによってのみ、
相手を罰することによってのみ、
全部回収できると思ってしまうから、
非常に大変なことになるわけです。
一歩間違うと、
何かを完全に破壊するまでは、
止まらなくなってしまいますよね。
でも結果としてできることって、
全部を破壊することになってしまうので、
何にも手に入らないんじゃないですか。
すごい多分手間がかかるのに、
何にも手に入らないんです。
これを7月10日で手放せたら、
いいんじゃないかと思います。
39:45

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