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2023-07-18 53:06

ゆるせない時には「芝居」を疑う【GMV816】グッドバイブス編

人は病気と信じて病気になる

サマリー

7月18日火曜日の朝、朝7時44分のグッドモーニングボイスでは、倉園圭造さんとリアルなぶっちゃけ相談が行われています。桃のタルトの美味しさや3ヶ月チャレンジのお知らせもありました。話はマイクの話からフィルターの話に進み、夢を見ていることについて考えます。自分が許せないと感じたり、怖いと思ったりした場合でも、現実を疑い、夢かもしれないと思うことで心の平穏を得ることができるそうです。フィルタリングには、怪病よりも真に確信を持って演技するための役割があるのだとか。なぜなら、フィルターがなければ芝居ができなくなるからです。今回のエピソードでは、芝居を通して人が許せないときにどんなフィルターをかけてしまうかについて話しています。芝居を演じることで、自分の好みに合わせて世の中を動かすシナリオを作ることができるそうです。また、被害感に満ちたフィルターを通して見ることで、自分の立場を弱者にすることもできるというポイントも紹介されています。精神病のようなものでは、自分の病気に固執することが精神的な話の動力になっているそうです。被害的に語られることで連鎖的にひどいことが起きていると感じる話は、100年前にも解明されているそうです。芝居をすることが重要なのです。

ぶっちゃけ相談と桃のタルト
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
7月18日火曜日、朝7時44分ですね。
昨日海の日だったんで、お休みをいただきまして、その代わりにではないんだけど、
倉園圭造さんとリアルなぶっちゃけ相談というので、YouTubeで以前ですね、ぶっちゃけ相談というものを、
はがきを僕が読み上げるという体で、お悩み相談をいただいて、私がある程度それにお答えして、
さらに必要な補足を倉園さんが割とガッツリお話になり、合わせて30分切るみたいな、そんな感じのやってたんですが、
お便りがなかなか激減いたしまして、しばらく中断していたわけですね。
それをリアルで再開してみたというのを、昨日池袋から10分くらいかな、神板橋という駅で、
その次が東武練馬だったような気がするんですけども、よく覚えてないんですけどね。
そんなところでやってきました。
大変良い回だったと思うんですよね。食べ物も大変美味しかったし、
昨日は調子に乗って桃のタルトとかを食べてしまって、俺大丈夫かなと思ったんですけど、
大丈夫でした。大丈夫だったから、これはとても良い経験。桃のタルトなんて本当、生まれて初めてですね、多分食べるの。
私糖質制限、今はほぼしてないけどしてたんで、
私が糖質制限をする以前のこの世の中に、日本にはあまり桃のタルトとかって出回ってなかったんですよ。
今もあまり出回ってない気がするんだけど、タルトはありましたけど、
当時でティラミスとかが流行ってた時代なんですよね。その辺から糖質制限を始めて、
えらい世のスイーツブームとは、まるで無縁に生きてきたから当然ですけどね、スイーツは無理なんで。
果物でさえカットしてたのに、スイーツとかも入れようものなら的なところがありましたから、
そんな話はいいとして、でもタルトも美味しかったんで、
あれを食べに行くだけでも、昨日飲んでたんだったら割に合うんじゃないかというぐらい、
美味しくていい回でした。
3ヶ月チャレンジお知らせ
お悩み相談もですね、5名の方がいらっしゃって、5名それぞれから、
よくいろいろお話を聞いたんですけれども、それに私がいつも通りある程度お答えして、
倉殿さんがバッチリ答えてくれるという回でした。
またやってもいいんじゃないかと思うほど良かったですね。
まずはCMをしたいわけですよ。
それも終わりましたから。
次はですね、第3期、3ヶ月チャレンジが。
すでにお申し込みをいただいておりますが、
まだ定員には頑張って今回1人か2人は増やして挑戦しようと思っておりまして、
夏は調子が良いからというのもあるんですけど、
これだけ暑いとですね、昨日も暑かったんだけど、
暑くて本当に頭がホワイトアウトしたんですけどね。
歩いてる最中、外を歩くのは良くないなって思うんですよね。
まっぴる間に。
昨日最高気温が11時台に来てたらしくて、
いい時間に出たつもりでいたんだけどとんでもなくてですね、
気がついたらなぜかラーメンを食べていて、
なんで俺ラーメン食ってんだろうなと思ったんですよ。
いろいろイキサスあったにせよですね、
多分反弾力が低下していて、
なんとなくフラフラっと。
あとしょっぱいものが多分相当食べたくなってたんだろうなと思うんですよね。
最近やっぱり僕のように汗かかない人間でも、
寝て起きると塩水が欲しくなる勢いなんですよ。
クーラーつけてるんですけどね。
クーラーつけてるなんて昔僕寝られなかったんですけど、
今やクーラーをつけてても朝塩水が飲みたくなるという、
すごい状態だなって思いますが、
また脱線してますが3ヶ月チャレンジというのをやっていて、
これは私は、私単独の仕事としては、
他の方とやってる仕事は他の方とやってる仕事で100%いくんですけど、
僕は自分でやってる仕事としてはこれを100%でいきたいと。
ちょうど立ち立ってくださっている、サポートしてくれている添恵さんという方とも、
僕の感じでは、これはもうこれについて言えば最高の体制だと。
体制なんですよね、私の感じでは。
体制が整ったってやつですね。
あとはお客さんが来ていただくのみなんで、
勝手にこっちが体制を整えてても需要がなければどうしようもない。
受表がなくはないんじゃないかと思って、
ゼロではないから第3期までやってこれているわけですが、
4月29日に説明会をやりまして、
これはもう既にご参加いただいている方には必要のないものなんですけど、
今期どういうふうにやっていくのかというのと、
趣旨ってやつですかね、精神分析というか、
最初にご相談したいことをお伺いしていくといった会を
7月29日に参加いただいて、
これを1回やったらレクチャーはもうなくてですね。
あとは毎週毎週個別の相談とグループセッション。
このグループセッションも素晴らしいんですよ、と僕は思っているんですね。
私が答えているというよりは、
私が答えていくのを周りで聞いていただくというのがこれのミソで、
だんだんだんだんですね、やっぱり専門用語も飛び交うようになってきて、
大変僕はこれはやってる甲斐あるなと。
精神分析の専門の方が聞いたらどう思うかは、
もはや考えたくもありませんが、
ていうか考えませんけど私は、
そこを考える必要は僕はないと思い始めているので考えないんですけど、
専門用語も飛び交うと。
新書にもあるような専門用語ですけどね。
専門的な話をしているというのではなくて、
こういうふうに見る見方もこの世の中にあるよねと。
これすら世の中に出回らないんだったら、
多分このように精神分析というのは、
ないも同然のものになってしまうと思うんですよ。
だからこれはいいんじゃないかなというふうに思っています。
そのグループセッションを各週ぐらいでやると。
その辺がもうメインですね。
あとは私がですね、
メンタル系のセミナーをやった時には無料でご参加いただけると。
この3本ぐらいがセットになっている3ヶ月コースで、
正式には8月の1から始めて、
8月で6月、10月の31までが正式といった形になります。
11月から4期がやれたら嬉しいなというふうに思っていますね。
これが僕の仕事から無くなってしまうと、
いきなり路頭に迷うとかは全然そんなことはないんですけど、
これが僕の仕事から無くなってしまうと、
まず自分のメインの軸でやっているものは何もない状態になってしまうというのと、
これ無くなると、
いつもの人の手伝ってりゃいいやモードになってしまいそうなので、
私がやっているよという感じの仕事がゼロになる感じがするんですよ。
家の仕事とかが自分のメイン。
今日もやっていたんですよ、さっきまで。
だからこの時間なんですね。
少し遅れてるんだけど、
庭の整理、庭のケアとかね。
もうね、日が出てから水まいたんで、
会うとね、本当に立ちまし水はお湯になり、
お湯を吸った植物は潮れていくっていう。
何のために水やってるかわかんない。
やらないほうがいいくらいなんだけど、
こう日出りがひどいのに水やらないというのは潮れていくので、
本当にご時代にできれば水まきをしたいという感じなんですよね。
夜も7時直前ぐらいになってからじゃないとね、
水の温度が上がりすぎてしまって、とんでもないんですよね。
なんかそういうことをやっていればいいわけじゃないと思っているので、
やっぱり3ヶ月チャレンジは何とか続けていきたいなというふうに思っています。
それだけやっていこうと思っているわけではないんですけど、
これは僕にとってはかなり大事に。
以前倉園さんがよくお話しされていたところでは、
東京ライファ研究会と水の話
かき上げ塾のようなものが私にとっての3ヶ月チャレンジになっているなという感じがします。
それでですね、だから8月からやるから7月29日のこちら。
動画も撮っておきますので、もしご参加いただく方があればですね。
てか動画やらなくてもいいんですよね。
この方が29日がすごい悪いのであれば、他の日でも単独でレクチャーやりますんで。
時間は2時間はやりませんけど、やりますので。
それでぜひ、レクチャーの回なんていうのは何日でも別にいいわけですから、
3ヶ月が始まってからでも別に8月の10日とかでもいいと思うので、
そういう感じで、ご本人がよろしければですけどね。
やっていただくといいかなというふうに私は思っております。
そうだ、すいません。
7月30日に東京来伐研究会で、私もゲスト講師として登壇させていただきますので、
こちらもどこかのタイミングでピタッとお申し込みに止まったんですけど、
これもですね、バッチョ売りでみんなで、そういうのが好きな方が集まって喋れれば、
もうそれでいいんじゃないかと思うんですよ。
僕はもちろんタスク管理について、タスクシュートについて、
今最新の情報をありとあらゆる形で、とはいえ1時間弱で詰め込んでお話はしますが、
それもご興味ある方には面白いかとは思うんですけど、
それとお茶会みたいな感じで、もちろん北深夜さんも久しぶりにリアルでお話になるので、
最近も背景だったセルフマネジメントの話、ブログで書かれてたじゃないですか、
あれの細かいところで、僕もクラフトとかセッションとかいうツールは全然全く知らなかったので、
相変わらず面白いものをご存知だなと思っておりますので、
ああいう話を聞きたいといった方はぜひご検討ください。
これもいいんじゃないかと思うんですよ。
何しろ今暑いからもう午後に移動している場合じゃないんじゃないかと。
これだと移動時間絶対9時台になりますよね。
だから9時台に移動して、こう集まると。
その方が身のためなんじゃないかなと。
7月30日いったい何度になるんだかわからないですもんね。
ぜひご検討いただければと。
何しろ格安ですからね。
この値段で会場費出るのかぐらいな値段なんで、
ぜひこれは久しぶりですので、
またこれを買わないといけないんで、
またこれを買わないといけないんで、
これを買わないといけないので、
この値段で会場費出るのかぐらいな値段なんで、
ぜひこれは久しぶりですので、
またこれを買わきりにですね。
またメンタル的な話が出来たらいいなとは思っております。
ツールの話は北さんがしてくださるでしょうから。
私はツールと言ってもタスクシュート1本なんで本当に。
Googleカレンダーは使ってますけど、
皆さん別にこの東京ライファ研究会で
グーグルカレンダーの話は聞きたくないと思うんですよ、別に。
それに僕は特別な使い方してるわけじゃなくて、
ただ予定入れてるだけなんで、ほんとに。
あれは誰でもこう、ググればそれこそね。
もちろん聞かれればお答えいたしますけれども、
ほんと、それだけのために
研究会はないだろって感じはさすがにしますので、
まあ分かんないですけどね。
どっちか中と、そういうふうに
いろんな話が最新情報で、
盛りだくさんです。かっこやすです。
しかもお茶会もできます。
そういう感じでご検討いただきたいと思います。
でですね、
今日はそのぶっちゃけ相談をリアルでせっかくして、
その余韻がありましてですね、
いくつかまた考えるところがあったので、
その辺の話をしたいと思うんですよ。
で、ちょっとあれだな。
ちょっとこう、一旦つなぎますね。
すいません。あのー、水を飲んだんですね。
もうこう、なんていうんですかね、
こう、タンが詰まるとかじゃないんですよね。
そんなのは全然ないんですけど、
あの、喉が渇くんだということが分かりました。
あの、喋ってるとですね、あっという間に喉が渇いて、
これはもう水を横に置いとかないと、
とてもじゃないけど、無理だなというふうに今思って、
ちょっと水を用意したんですよ。
フィルターの話と夢を疑う
あのー、すごいですね、この状態って本当に。
クーラーかけてるんだけど。
あのー、一つですね、私今やってて、
こう、今まで全然考えてもなかったんですけど、
このマイクって耳に当たるんですね。
で、耳から熱くなっていくという。
あの、冬は良かったんですけど、
考えたこともなかったんで、そんなことは。
えーと、いやこれ耳熱くなるから熱いんだということに
今気づいたんですよ。
とはいえ、このマイクが今一番良いんでですね、
またマイクを買うと、
マイク沼なんですよね、レンズ沼じゃなくて。
あのー、くだらない話をしてると、
本題にいつまで立ってもいけないもん、
ホワイトアウトしそうなんで。
えー、本題に行きますが。
昨日ですね、そのー、
クラドノさんとぶっちゃけ相談をしていて、
あのー、フィルターの話がやっぱ出てきたんですね。
僕はこのフィルターの話は、
もう特にクラドノさんとセッションされているという方には、
えーと、もう聞き飽きてるんじゃないかと思って、
ついですね、こう、
違う話をしたくなっちゃうんですね。
でも、この、これ以外はもう浮かばないようなご質問だったから、
もう私は、えー、いいやと思ってですね、
フィルターの話を、クラドノさんの言葉ではフィルター。
色々あるんですが、
まあ、マトリックスなんですね。
私の一番良いので言うと、
夢を見ていると疑いましょうってやつですね。
あのー、許せないって話が出てきた場合、
まあ例えば、何でもいいんですよ、本当に。
えーと、なんかね、そうだなー、
電車の中で、えーと、なんか、
よくわからないイチャモンをつけられた。
まあその人が許せないという気持ちで、
1ヶ月引きずるとかね、そういうお話が出た時に、
僕は、まあやっぱり、
僕が自分で一番やることは、
本当にそうであることもあるからなんですけど、
夢を見ているんじゃないかと疑えというやつなんですね。
まあ奥さんに言われて、
ものすごい腹が立って、
こう、攻撃したくなったとか、
罰したくなった時も同じで、
えー、本当に僕は夢を見ていることもそれでありましたからね。
えーと、夢を見ていると疑え。
本当にこの目の前に人がいるのかどうかを、
そもそも疑いましょう。
で、これを言うと、やっぱり、
なぜかうまく伝わらないというか、
えーと、そうだな、そういうわけじゃないんだな。
いざという時、これが思い出せませんって話をされるんですね。
で、これはもう僕には、えーと、まさにですね、
えー、大橋絵蔵さんとずーっとやってきたやつを思い出すわけですよ。
タスクシュートのことをいざという時忘れるんです。
これをですね、思い出すリマインダーをかけること、
できないわけですね、絶対に。
だってタスクシュートがリマインダーなんだから、
リマインドのことを忘れるリマインダーっていうのは、
かけるタイミングというものがないわけですよ。
忘れた時にかけるしかないんですが、
えーと、忘れた時というのを、
まあ、えー、いいことだとは思いませんけど、
将来はね、あのね、そのですね、
ノウハウとかが、忘れているノウハウが出たらリマインドする。
これ煩わしくてしょうがないと思うんですよね、
最初の頃は。
忘れることとタスクシュート
えーと、思い出すことはこれでできるでしょうけど、
なんかね、忘れそうになったらタスクシュートみたいなことを叫ぶGPTみたいなのが出てくると、
えー、思い出すことはできるでしょうけど、
果たしてそれでタスクシュートを続ける気になりますかね、人はね。
えー、大変疑わしいと思います。
グッドバイブスでも同じで、
えーと、まさにこう、バラバラってね、
目の前のやつをとっちめようとしている真っ最中に、
それでいいんですかっていう声が、
クラドノさんの声でね、リマインドされるとかは、
それをやれば確かに思い出せるでしょうけど、
果たしてそれで怒りが収められるものなんだろうかっていうのはありますね。
やっぱこの、自分で思い出すことに意味があるわけですね、きっとこれは。
で、私はこれはですね、
おかしなことを言っているとか、
とっぴなことを喋っているつもりは全然ないんですよ。
だって映画マトリックスがあれほど普及したということは、
えー、そういうことだと思うんですね。
目の前で見ている現実が本当に現実でないということは、
実に多くの人がすでに気づいていることだと思うんですよ。
これをわざわざ指摘したからといって、
なんか佐々木が聞いたこともない話をしていると思われるはずはないから、
僕喋ってるつもりでいるんですね。
だってマトリックスのあの映画の主題は、
まあ、構成もありますし、
エンターテイメントとしての意味もあるから、
そのものづわりではないけど、
要はそういうことですよ。
あの、目の前の現実は現実じゃないんだよっていうことを、
大掛かりにあれは演出してみせたわけじゃないですか。
で、あれを見てさっぱり意味がわからんっていう人もいらっしゃると思うんですよ。
この世の中の現実が疑いようのないものであることは確実でしょうと確信している人は、
あれ見ても意味わかんないはずですよ。
あれ見て意味がわかるということは、
あの種の経験をしたことがあるという話であって、
ああいう解釈を自分の頭でしてみたこともあるんですよ。
で、だったらこれを一番使い出のあるところはどこかというと、
まさに自分が今目の前の人を攻撃しようとしているか、
あるいは攻撃されていて大変困っていると思う状況、その時ですよね。
この時が一番、私がこの現実は見ている通りなんだろうかな。
で、マトリックスが教えてくれた通り、
教えてくれたとは思わないですけどね、僕は。
マトリックスが教えてくれた通り、絶対そうではないんですよ。
目の前で、自分が認識している通りの現実があるというのは、
16世紀から常に否定されて批判の窓だったわけですよ。
デビッド・ヒュームとかですね、極端な人たちはいろいろいるんですけれども、
デカルトがそうですね、
とにかく我を思うゆえに我ありなんて言っているということは、
すでに目の前で、あるいは自分が感じている通りに現実がありますよというのは、
実に素朴な発想で、そんなことはありえないっていうのも、
19世紀とかじゃないですからね、もっとずっと前から。
仏教もそうだから、本当はもう紀元前からなんですけど、
盛んにこれは言われている話で、
で、これをどこでとに適用するかってことなんですよね。
一番適用したい時に忘れるって話が出てきて、
忘れるって話が出てくるんですよ。
目の前の現実こそが現実だと一番思いたくない時に、
なぜか一番そう思っちゃうということなんですよね。
この人が私に酷いことをしたとか、
この人は本当に怖い人だとか、
昨日もキーワードとして怖いっていうのはやっぱり、
品出するタイミングがあるんですよね。
いや本当に怖いことがあったんだと。
こうなった時に、私が共感しかできないんだとすると、
本当は相談している人には何の意味もないことになっちゃうとは思いますね。
いや本当それは怖いですよねって言ったらそこで話が終わる。
そしてそういうふうに僕が共感したからといって、
多分その人にとって何か意味のあることが起こらないわけじゃないですか。
あと例えば、夫が本当にひどいんですと。
もうこういうことをして本当にひどいと思いませんかと言われた時に、
クラゾノさん何がありますか?本当にひどいねと言ったら、
だから何になるんだろうって感じがするじゃないですか。
これがでも人が求めるところなんですけどね、ある意味では。
相談した時に求めてしまうんだよ。
本当それはひどいねグッドバイブスってずっと言ってきたけど、
現実を疑う
それだけはひどいと思うわって言って、
家に帰ったらですね、何をしたらいいのかと。
夫は本当にひどいともう一回確認すれば、
クラゾノさんもそう言ってたよと言ったからって、
何かが解決するわけじゃないじゃないですか。
だからこのひどいと思う認定をみんなで確認し合ってみたところで、
何もならないと思うんですよね。
これじゃあダメだろうと。
何にもそこから進展が得られないような感じがするんですよ。
まさに発砲塞がりをますます塞いでおいておしまいっていうことになってしまうんで、
これではどうにもならないわけですね。
そして幸いなことにだと私は思うんですけど、
これはクラゾノさんがよくおっしゃる言い方なんですけどね。
幸いなことに目の前で見てそれをひどいと判断したほど、
その通りの現実が起きているわけではないと思うことができるんですね。
私たちはやろうと思えば。
これが幸いではないって感じがするんですが幸いなんですね、これが。
だってひどくないかもしれないってことですからね。
これはひどい人とか怖い人が実は善人だとか言っているわけではないじゃないですか。
これはですね、仏教の経典にそのものズバリがほぼあるんですけど、
汚いわけではなく汚くないわけでもなくっていう表現があるんです。
汚いわけではなく汚くないわけではなくみたいな表現だったと思うんですね。
これがニュートラルっていうふうにクラゾノさんがおっしゃるそれなんですよ。
ひどいことが起きたわけではないが、ひどくないわけでもないんですよ。
つまり本当のことはわからないんですよ。
それが何の救いになるのかと思われるかもしれないんですが、ひどいかもしれないってことなんですよね。
そうするとひどいことが確定しているよりはマシなんですよ、現実としては。
でも僕はそれよりももうちょっとこれを一気に払拭する形として、夢かもしれない。
夢だったらOKでしょう。
これが面白いところだと思うんですけどね、人間は。
電車の中で肩をぶつけられて、しかも謝りもせず、チッとか言われたと。
すごい傷つく人にとっては傷つくシチュエーションだと思うんですけど、
でもその人は実在しないかもしれない。
それこそバーチャルかもしれない。
でなると僕らは、出来事がそう起こったって思ったことについては全く変わらないにも関わらず、全然傷つかずに済むんですよ。
これはとっても重要なポイントだと思います。
謎野さんが罪悪感という話と罰って話で説明されているのは、このところに全部含まれていると自分は思うんですけどね。
悪い奴がこの世に実在するのかそうでないのかは大きな違いを生むんですよ。
だからチッって言われたってこと、ぶつかられたってことを僕らは被害だとだけ思っているつもりでいるんですが、そういう時にはそうではないんですね。
このような人間がこの世にいてはいけないという、非常にさばいているというような部分があるはずなんですよ。
だから夢ならばOKなんですね。
夢とか実在しないんだったら全然気持ちが楽になる。
ってことは、裁かずに済むならば実に楽になるっていうことなんですね。
こういう話は何度も何度もふらぞのさんがポッドキャストとかでされているし、ワンオンワンでも絶対出てきているはずだと思うんですね。
これを何度繰り返してもいいと思うんですけどね、私は。
でもいざといって思い出せないという人に、ただ繰り返すのもあれだなと思って、夜道熱い中ちょっと考えてみたんですが、
考えれば考えるほどですね、これはやっぱり古典的にフロイトだなって思ったんですよ。
不思議な連想だったんですけれども、許せないっていうキーワードはやっぱりね、ドラを思い出させるんですよね。
フィルタリングの果たしている役割
ドラがやっぱり一番許せないってことを切々と、そうではないのかもしれないけど、僕の読んだ印象と内容から切々と訴えてきていた。
というのはドラってのはやっぱり正気ですからね、ある意味ね。
思春期の女性としては非常に正気なことを言ってる。
でもフロイトが診断しなければならない。
そしてヒステリー症例として報告されている。
それは当然だろうと私も思うし、まさにああいうのをヒステリーと当時は呼んだんだろうと思うんですけど、
ドラが泣き喚えたとかでは全然ないですよ。
分かんないですけど、実際にどういうことが起きたのかなっていうのは、
それこそ見てきたようなことをいくら書かれても全部信じるわけにはいきませんし、分かりませんが、
でもドラが確実にこういう空想をしたんじゃないかと、やっぱり読むとどうしても連想させられるのがお父さんが許せないんですよね。
この許せないっていうのがキーワードに僕はなって、
倉澤さんがこのケースで言う話とフロイトが100年前に言ったケースは原則変わりは全くないと思います。
ドラはお父さんが愛人を作っているのが許せないと。
フィルタリングってのはどういうことかというと、
お父さんは本当に良くないことをしているというフィルターが、
フィルターがドラの目にかかっていると言えばいいのかな、脳にかかっていると言えばいいのか、心にかかっているというのか、
リアルな現実そのものをお父さんは見えないんですよ、彼女には。
やっぱりどうしてもフィルターがかかったお父さんを見ちゃう、当然ですよね、当然です。
大好きですしね、ドラは間違いなくお父さんが大好きなんですよ。
で、どうも系婦人という人と浮気をしていると。
ドラは系婦人のことも好きだからいよいよややこしいんですけど、
系婦人はお母さん代わりなんですよね。
ドラのお父さんにとってもほぼお母さん代わりになっちゃってる。
この辺も非常にメロドラマみたいですけれども、
見る人によっていろんな解釈が起こるでしょ、ここには。
ただ僕が見たところ、ドラは結局お父さんと系婦人が何かしている。
まあ多分生々しく思い描くかどうかは微妙なところでしょうけど、
でも思春期ですから興味がないはずは絶対ないと思うんで、100年前だろうと。
むしろ100年前ならば尚のこと。退屈ですからね。
SNSもなければアニメも何もない時代にこんな刺激的なことが起これば、
絶対にそれなりのイメージを膨らませてしまう。
ここにフィルタリングの重要な要素があるわけです。
どこかやっぱり非常に妬ましい、非常にいやらしいということが混ざってきますよね。
そしてドラは病気になるわけですよ。病気になるわけですよ。
この病気になるというのが許せなさから来ているのは当然ですけれども、
病気になったドラはこういう空想をするんじゃないですかね。
本当に苦しいと。お父さんにお願いがあるのと。
この病気多分ね、系夫人と別れてくれなくてもいいんだけど、
会わなくなったりすると、これ別れろってことになるんですけど、
会わなくしてくれたりするときっと良くなると思う。
で、お父さんがそうか、わかった。私が悪かった。
ドラが元気になるなら、私はそういうことはしょうがないから、
そういう風にするよっていう風に言った空想をするんですよ。心の中で。
この空想が、分かんないですよ。分かんない。
人の空想は100年前の空想だからね。
でもこういうことをすっごく気持ちいいじゃないですか。
絶対僕はこれを空想してるときの青春期の女の子は気持ちいいと思いますね。
僕の物の見方が少し間違ってるかもしれませんが、
僕の感じではきっとこれはさぞ気持ちいいに違いないと思う。
問題はリアルのお父さんは絶対そういう反応をしないってことですけどね。
これは空想ですよね、完全に。
でもドラが病気になって効果が上がるはずだと思って、
本当に彼女は病気になっちゃったんだから、
この空想に近い観点で父親を見ているわけですよ。
リアルな父親を見てはいないんですよね。
リアルな父親はこういう反応しなかったわけだから、
ロイト呼んであんた治してくれよ、娘のことって言っちゃったわけだから、
明らかに違うんですよ、やっぱりね。
リアルのお父さん。
フィルターってのはこういうことなんですよ。
マトリックスでも同じです。夢を見ているのも一緒です。
真に確信の演技
つまりドラはお父さんを自分の空想上のお父さんでほぼ賄っちゃってるわけですね。
リアルなお父さんは見えてないんです。
ちなみにさっきの夢って明らかにお父さんはもう恋愛対象になってますよね。
だからこれはもう典型的に言ってしまえばファザコンなんだけど、
別にそれはおかしなことじゃないと思うんですよね。
ここにヒステリーというものがあって、そういう症状が出てくる。
お医者さんにいくら見せても身体どこも悪くないですねと当然言われますね。
100年前だってそう言われますよ。
いろいろ調べるけど、健康そのものだと。
でもドラは気持ちが悪いとかお腹が痛いとか頭が上がらないとか、
いろんなことを言い出すはずなんですよね。
それはさっきのようなシチュエーションを夢見ていて、
ここからが大事だと思うんですけど、
つまり言ってしまえばそれは怪病でしょってことになるんですが、
本人がそれを真の病気だとしたいじゃないですか。
やっぱりどうしてもフィルタリングというのはここも関わってくると思うんですけど、
心象と言ってもイリュージョンと言ってもそれはいいんですが、
要はそういうふうにお父さんを自分の見たいお父さんにすると。
自分の見たいお父さんとしてお父さんを見ると、
なんか世の中で厳ずに起きていることが見えてないんだけど、
彼女には刑婦人とイチャイチャしてるというようなことが許せないという。
この私の知っているお父さんの行為としては絶対に許すことができない。
そうして気絶するとか極端なケースではそういうことが起きてくるんですが、
このフィルタリングの果たしている役割というのは結局、
怪病より真に確信の演技をさせたいと。
そういうことなのね。
芝居が勝手じゃ台無しじゃないですか。
やっぱり息も絶え絶えになって、
お父さんが刑婦人と一緒にいなければこの病気本当に良くなると思うんだけど、
でもこのままだと私死んじゃうかもしれないとかっていうと、
これがいかに大根じゃなくできるかってことなんですよ、問題は。
いかにこれが真に迫ってるかリアルにできるかという勝負どころだと思うんですね。
そういう時にやっぱりこれは昨日もいらっしゃっていた矢部聖子さんならよくご存知だと思うんですけど、
矢部聖子さんは倉澤さんといつもスタッフでお手伝いしてくださってる方なんですけど、
私も非常にお世話になってますが、彼女はお芝居やる方なんです。
芝居やる人はみんな知ってると思うんですけど、
私が今やったような全然真に迫っていない演技ではないはずなんですよ。
これはつまり僕は今のようなのは意識の上でしかできない。
ここに無意識ってものが出てくるわけですね。
意識の上でしかできないような芝居ではお父さんは騙せませんよね。
やっぱり私もこのままだと死ぬかもしれないってのを真に受けてもらうためには、
確信の演技っていうんじゃないですか。これが必要なわけですよ。
これをするには、している時にはその人は本当に自分病気なんだ。
信じられるレベルまでいかなきゃなんだ。
そのためにはやっぱり無意識の力も借りてこないと。
無意識も意識も全部総動員で、
私は病気で、愛するお父さんがあんないやらしいことをしなければでもこれは治ると。
そうしないと死んでしまうっていうこれがね、
信じられるレベルに入っていく必要はあると思うんですよ。
ここに昨日のフィルタリングという、つまりひどい人がいるんです。
この場合ひどい人がひどいと。
やっぱり意識無意識上げて総動員で信じなければ、
自分はひどい目にあってるっていうこの確信を得ることができないんですよ。
なぜその人がそういうことをしなければならないかというのは、
ドーラが教えてくれてるものなんですよ。
やっぱり私好みの世界に実現させるために、この芝居は必須だという。
しかも本人はそれをこの芝居は必須だっていう考えじゃやっぱりダメですよね。
これは芝居ではない。
本当に起きてるんだっていうふうに絶対的な確信を持たないと、
大根役さんで役者になっちゃうと思うんですよ。
これは水戸孝文とかでもやってるじゃないですか。
芝居と現実の区別
絶対あの越後屋だけは許せないと。
わかんないんですけど、役者の方はもうかなりその世界にどっぷり浸ってやってるんじゃないかと思うんですよね。
でも別に越後屋やってる人は、
本当に越後屋で悪者やってる、本当に悪人なわけじゃないわけじゃない。
芝居なわけですよね。
北山治虫さんという、僕は全然知らないんですが、
フォークソングで有名な人が精神科医でもあって、精神分析もやってて、なんだかもう多芸な人なんですけども、
彼がですね、やっぱり書いていた中で非常にこれが正しいと思ったのが、
ミステリーというのはつまり本人だけがみんなにバレてないと思っている芝居をやってる人なんだっていうね。
私はすごい芝居上手いでしょうって思っている下手なお芝居を見させられているのが精神分析科なんだっていう、これは非常に正しいと思うんですよね。
別に北山さんがあえて指摘しなくても全くその通りだとは思うんですけれども、
でもやっぱり本人だけが気づいていない芝居にみんなが付き合わされているのがミステリーっていうのは、
とてもよくある現象だし、だから僕は今でもですね、ミステリーって言葉をなくさない方がいいのにと思うんですけれども、
まあこれは差別的だということになっちゃってるのでしょうがないんですけれどもね。
みんなやりますよ。多少は。多少はやりますよ。だってけびを使って学校休んだことのある人なんていっぱいいると思うんですよ。
この時も同じですよ。大根茶、いやあんたそんなこと言ってないで学校行けって言われて終わってしまうんで、
そこでもうちょっと熱が高いしって言いながら体温計とかをストーブに当てたりしているわけじゃないですか。
これをいかにうまくやれるかっていうときにやっぱり無意識の力を使ってしまうんですよね。
本当に自分病気なんじゃないんだろうか。本当にお腹痛くなってきたなみたいな。
そうなって初めて自分の好みの現実というものを作り出すことができるわけです。
その時に無意識というものに一役買わせるというわけですよね。
これのためにはやっぱりフィルターが必須ですよね。この世の中の実装には興味ないですよ。
こういう時にはエチゴヤは本当に悪人なんだって思っている世界を見ないと、その人はやっぱり芝居に入り込めないです。
私は本当に病気なんだ。お父さんは本当に許せないことをしているんだという極めてバイアスのかかった見方なんですが、
このバイアスがバイアスではないと思えばれば思えるほど自分の演技にも磨きがかかっていき、
やがてその病気を治らなくなっていきますよとフロイトが強い警告をドーラに発しているわけですね。
当然ドーラの怒りを買うと、この人もわかってくれないなということになるわけですよ。
つまりそういうことなんですよね。
だからその芝居やめた方がいいんじゃないでしょうかというのを伝えるためにフィルターを取った方がいい。
そのフィルターを取ったら芝居はできなくなりますから。
そのフィルターでメガネをつかけて見ているから芝居は悪く見えるんで、
あの人は本当は芝居じゃなくて役者なんです。これ夢を見ているのと全く変わらないと思うんですよね。
あの人は本当は役者であって、別に悪人でもなんでもないから、
フィルターをかける場面での立場
整敗のために切って捨てたりしなくていいんですってことになれば、当然演技には身が入らなくなります。
で、その人はこの演技で世の中を変えてやろうと思っているんだから、
そのフィルターを手放すわけには絶対いかないんですよ。
今思い出したんですけど、倉殿さんこのフィルターが一種のアイデンティティみたいになっているっておっしゃってたんですが、
その統合オリなんですよ。
このフィルターを通して見るからこそ、自分という役者がどんな役を演じて、
どんなふうに振る舞えば世の中を自分の好みに合わせて動かすことができるかというシナリオがあるわけですね。
そこはアイデンティティそっくりになっていくわけですね。
自分とこういう役割を演じれば、お父さんをあの刑婦人と別れさせることができるというシナリオを実現するために必須なんですよ、このフィルターというのは。
で、この種のフィルターをかけるときの人というのは立場が若干にせよ弱い。
少なくとも相手を圧倒できない。
ドラとお父さんの関係を見れば、ドラと刑婦人の関係を見れば非常によくわかりますよね。
明らかにドラは子供扱いされている。
子供だってね。
お父さんとドラで見るとですね、どんなにドラがかわいいと思っていようとですね、結局お父さんを胃のままに操るわけにはいかないわけですよ。
でもお父さんはほぼドラを好きなようにできてしまうという、そういう力関係がある。
こういう言ってみれば、被害的な気持ちになりやすいときにどんなフィルターかけてみるかは明らかですよね。
自分がどんな役割を演じるべきなのか。
お父さんより圧倒的に自分の方が強いという妄想を抱いてもあまり自体良くなりそうにないですよ。
お父さんより自分の立場が弱いのは、権力がないのは明らかだから、自分が被害にあっているというこのシナリオが一番効くはずなんですよ。
やっぱり、だいたいけびを使って病気になって人の気持ちを動かそうというのは立場の強い人がやることではないですよね。
立場のとしらくというと弱いからこそ、そういう情に訴える作戦に出ているわけです。
そうすると自分が弱いということ、自分はひどい目にばっかりあっているということ、
なんかもう偶然なのかなんなのか知らないけど、私はもう本当にトラブルには遭うし、
お父さんは浮気するし、刑婦人はひどい人だし、家庭教師は迫ってくるし、本当にひどい人ばっかりっていうこの悲劇のヒロイン感がないとですね、
うまいお芝居にならないと思うんですよ。
だからこの種のフィルターが非常に被害感に満ちたものになり、
何の偶然か、私は道を歩けば犬に飼われるし、ドブに落ちるし、店員さんは暴言を吐いてくるし、
上司はいつものように悪行憎悪法を並べ立てるというのは決して偶然起こっていることではないってことですね。
これはこういうと、だからここでやっぱり引っかかりが出てくるんだと思うんですけど、
フィルターが必須なんですよ。みんなが私にひどいことをしてくるというフィルター。
これはみんなが善人だって話ではないんですよ、さっきも言った通り。
ひどいことをしているかもしれないし、していないかもしれないしなんですよ。
ひどい目にあってるかもしれないし、あってないかもしれないしっていうことであって、
みんながニコニコしていて善人なのを、私がフィルターによってみんなが激怒しているように見えるっていうほどの楽さはそこにはないんです。
お父さんが系婦人とおそらく不倫関係にあるのは間違いないところだし、
それがひどいという解釈をするのも別に不思議なことではない。
ただし当時のあの世界であればウィーンですかね、
まだ別にそういうことが特別犯罪的に扱われたとは言い難い気がしますね。
現にドーラのお兄さんはお父さんのことはあれで、
お父さんの系婦人のことは君の口に出すところじゃないよっていうふうにあっさりと切って捨ててしまうんですね。
お父さんのことをお母さんは全然ちゃんとケアしてないんだから、
ああいう関係になるのは当然だろうと。
当時の常識ではある意味そうなんですよ。
だからドーラの空想というのはいかにも無理のある空想なんだけど、
でも彼女はちゃんと言ってるんですよね、フロイトに。
私はどうしてもそう考えることができないんです。
お父さんのことがどうしても許せないんです。
これはお父さんを許さないという台本にのっとったそういう観点で、
物を見る眼鏡みたいなものを自分にくっつけて見ているからそういうふうに見える、
だということをフロイトは切々と訴えるわけですよ。
介入なんですね、完全に。
解釈だけでやっていない当時の精神分析なんだけど、
被害感を抱くフィルターの効果
でも非常に介入がましい精神分析であって、これを訴える。
当然そこには転移も起こって、フロイトこそ理想のお父さんだったのに、
やっぱりこいつもダメだったということになって、
治療関係は崩壊するという。
だからこれは失敗事例なんだけど、ものすごく私は読んでいて、
人が許せないときには基本これだというふうに思うんですよ。
芝居というものをここに考えることによって、
芝居という名は何も変わらないじゃないですか。
つまりこれも倉園さんのお言葉ではないけれども、
よく使う言葉で偽りの事故。
つまり偽りですよね、お芝居なんだから。
偽りの私が偽りの病気になる。
それがいつしか本当になってしまうのが精神病なわけですね。
古典的な病気ですよね。
思いの色勢と言ってもいいと思います。
つまり怪病が病気になってしまうということですね。
そして常識的にはそうなんですけど、フロイトもそう言った通り、
誰が考えてもそうですが、怪病を病気にする癖をつけると、
いつかその病気治せなくなりますからやめたほうがいいですよ。
言うならばそういうことを言っただけなんですよ。
そしてドラはそれを拒否したと。
そういう話なんですね、多分と僕は考えています。
だから完全に偽りの事故が自分を乗っ取っていくんですよ。
ここが怖いと言えば厄介なところ。
これも倉須野さんがよくおっしゃっている通りで、
本当の事故というものが言ってみれば力を失うんですね。
本来の事故とか本当の事故って、そもそも何なの?みたいに思われるかもしれませんけど、
今の文脈からすると、ここも当然あるよねと考えるべきだと思うんですよ。
偽りの事故があるんだから、けびょうなんだから、
そして本人はもう芝居に懲りすぎてけびょうがけびょうであることを忘れつつあるんだから、
本来の事故はそこにいたじゃないですか。
病気になっていませんという私、偽りの私じゃない私、お芝居してない私がいるでしょう。
いなきゃおかしいですよね。
お芝居している私がいるんだったら、そのお芝居誰がしてるんですかってことですよ。
当然お芝居してない私がいるはずじゃないですか。本当の私ですよね。
それがつまり本来の私なんだと思うんですよ。
その本来の私は知ってるはずだということなんですよ。
これを健康な私と呼んでもいいんですけども。
そういうような言い方を臨床の世界ではよくしますよね。
健全な私とか健全な事故とか、そういう言い方。
つまり健康な方がいいんだ。
夢の中で病気になってそれが本当の病気になっちゃうという事態は倒作的だと。
物事がひっくり返ってしまっていると。
本来の在り方に戻した方がいいんだって思ってる私は絶対そこにいるはずだという話をよくグラゾンさんはなさっていて。
ここにおかしなところとか不思議なところは何もないと思うんですよ。
オカルトなところとかね。
本来の私がいなければお芝居する私がいるわけがないじゃないですか。
お芝居する私がいるってことは事故分裂が起きているってことのはずなんですよね。
ここで本来の私なんてどこにもいませんという話になってしまったら、
だったらどうやって偽ることができるんだということなんだ。
偽ることが嘘をつくことができるという人は本当のことは知ってるはずなんですよ。
だから嘘をついているわけじゃないですか。
これが病理の中ではいつしか嘘が本当になっちゃって、
嘘だか本当だかが分からなくなりましたってことがつまり精神病なんですね。
そこまでいったら一応精神病水準ということになるんだと思うんですよ。
つまり夢を見ていて現実だと思い込んでしまっていると。
完全にそれが起きれば我々は無有病者ですよね。
どこでもトイレしちゃうし、関係ない人をお母さんと呼んでしまうと。
そういうことが起きれば、現実検討式が完全に失われているというような話になっていって、
それをみんな精神障害だと考えるのは別に不足はない。
芝居と精神病の関係
その一番入り口のところにドラが立ったんですよね。
そのキロのところでフロイトが親切にもそこでストップしたほうがいいよと。
そこで引き返せばまだまだ取り返しはつきますから。
そのお父さんを自分の病気でいいように操って、仮に成功しないんだけど、
仮にそれが成功し、平夫人とそれによって別れるなんてことが起きてしまったら、
あなたはお父さんのことで気に入らないことが少しでもあれば、
必ず病気になるようになりますよと。
僕が思う時、人が許せないというのはつまりはそういうことなんだと思うんですね。
気に入らないことがあれば、常にこの許せないという気持ちを発動する。
たぶん以前どこかの段階で私が十分ありそうなことですけれども、
例えば妹相手とか権力が通じる相手にそれは許せないねって言ったら、
何かがうまくいったっていう経験があったと思うんですよね。
人を罰するということ、犬でもいいんだけど、ペットでもいいんだけど、
罰するということによって自分好みの現実を本当はできないんですけども、
出現させられたと。
もうちょっと簡単に言うと、
娘がいつまで経ってもゲームをやめずに、勉強もしなければご飯も食べない。
いい加減にしろと。
そうなったら、娘がビクッとして立ち上がって、
そこを勉強を始めたり、ご飯を食べ始めたということになって、
スカッとするとですね、これいい方法なんだって。
僕らは学んじゃうわけですよ。
これをかなり込み入ったやり方で学んだのがドーラであって、
ヒステリーという症状であって、
だから私たちはそこでグッと止まるとか、
罰しないとか砲撃しないって話を聞くと腹が立つわけじゃないですか。
私のこのスカッとしたいという気持ちはどうすればいいんだってことになるんだけど、
これはそれこそネズミのレバー倒しなんですよ。
この真相真理とかいかなくても実に表層的なところにあるんですよ。
報酬を得ちゃったということです。
自分が人を罰するとか、何らかの形で。
怪病になるのも罰なんで、お父さんにとっては。
それもプロイトはすっごくしつこく言ってますよね。
あなたをお父さんがどんなに大事に思ってるか、あなたは知ってるでしょう。
これ非常にいいセリフだと思うんですよ。
あなたが病気になるということをお父さんがどれほど苦しむかも、あなたは知ってるでしょう。
だから病気になるんでしょう。
これを言われれば、それは腹を立てますよね。
偽りの事故が仮の病気になって、お父さんをコントロールするということが、すごく気分いいというふうになってしまったら、
あなたは何度も何度もそれを使うようになるでしょう。
世の中そういう人はいっぱいいたんですよ。
ヒステリーの人が山ほどいたということはきっとそういうことなんだと。
もっと込み入ってるケースはもちろんありますが、どれほど込み入っててもやってることはこれなんですね。
だからこれを自分がやってると、今まさに思うということが、
怒りを買うかもしれませんけれども、やめれば健康になれる。
健康はやっぱり病気より楽だと思うんですよね。
比較してしまうならばですね、その病気がどれほど甘美な感じがしようと、
精神病の固執と被害的な話
気持ちよさそうな感じがしようと、やっぱり病気は病気なんで、
健康の方が楽なんですよ。
このことに気づくっていうのはおかしな話で、
僕らは健康の方が病気より良いって思ってるから医者に行くのであって、
逆ってことは考えにくいんですけれども、
でも精神病のようなものっていうのは、ここが逆になりやすい。
医者にわざわざ行っておいて自分の病気に固執する。
固執するのが精神的な話の動力になっているので、
それは当然といえば当然なんだけれども、
そういうことが昨日、許せない問題というものが語られたとき、
どうしてそれは被害的に語られ、自分は弱い立場ということになり、
ひどいことが連鎖的に起きているような感じがするのかという話は、
一応100年前にも全部概ね解明されている話ではあるんですね。
あとはこの話を結局は元に戻るんだけど、
受け入れられるかどうかというところにかかっているわけですね。
偽りの事故と結局の選択
プラゾンさんがよくおっしゃるところの偽りの事故というものが、
主導権を握っているんだけれども、
それ嫌じゃないかってことですよ。
要するに偽りの事故全部で。
偽りの事故は僕らみんな使ってますよね、さっきも言った通り。
会社に行けば必ずしも素晴らしいと思っている人じゃなくても、
素晴らしいって言わなきゃならないことはあるじゃないですか。
こういうのは全部怪病と同じように偽っているんですけれども、
その時に絶対本当の自分はどこかにいるというか、
多分真横にいる。すぐそこで見ていて、
自分が偽りの事故をやっているのは知っていると思うんですよ。
あとは選択の問題ってことに結局はなるんですよね。
ただその前に気づくという意味であれば、
芝居をするってのはどういうことなのかということだと思うんですよね。
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