主観と客観の捉え方
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1142回をお送りします。
9月3日、水曜日、7時41分です。
ようやくですね、少しだけ涼しくなりまして、このせっかく買ったAirPodsの効果もようやくはっきりしてきまして、
これは明らかに良かったなという、良い変化だったなというふうに思います。
そして、結局これ暑さとの戦いですから、現在の私のポッドキャスト収録を。
なんでここでやってるかというと、これは奥さんの睡眠の妨害にならないようにするために、
クーラーがいまいち効かないところで、大いに風を送ってやっておりますけれども、
この番組でなかなか眠れないっていうのも、かわいそうだなと思うのと、
眠れても良さそうなもんだとも思うんですけど、ここ1階なんでね。
寝てるところ2階なんですよ。
だからまあ、はっきり言って声が気になるというのは気にしてるんですけど、
それ自体が非常に分析的な話に持っていくこともできますが、持っていきません。
とりあえず暑さと戦いながら、ここで収録しております。
これぐらいの気は使うんですよ、さすがにですね。
私は気遣いのできない人間ではありますが、これぐらいの気は使って家族ではやっております。
この気遣いという話もすごく、僕は分析から考えていってしまうんですが、
それよりもですね、それよりもっていうのも変ですが、気遣い1つとってもそうですし、
部屋の片付け1つとってもそうですし、つまりビジネスに絡んでいるじゃないですか。
3カ月チャレンジでFAQ出せという話がありまして、
それはすごくもっともだと思って、今準備しているんだけど、
FAQのFがですね、そもそもどんな質問が多いかというと、
これがまたすごいばらけているんですね、実はね。
3カ月チャレンジに寄せられる、当然自明でそれが聞かれるでしょうと聞く人は思うんだし、
その通りなんですよ、その人にとって。僕はだから、
心的現実と主観とは絶対だって思うところがありますから、客観なんてものはどうでもいいようなものであって、
これは極論なんだけど、でもこのスタンスで生きていかないと、
人はどれほど自分の主観を客観的だと思っているかってことに気づけないですし、
その上、その主観の、気づいたとしてもその主観を修正できない、
この根強さというものと対抗できないと私は思いますんでね。
主観、つまりこの質問を最初にするのは100人が100人しているはずだと、
だいたいその人1人しかしてないんですけど、多くて2人とかですけどね。
で、それが100通りあるんですよ。本当なんですよ、これは。
私にFAQって問われてないんですよ。問われているようで問われてないんですよ。
本当もう僕が細かく見すぎてるのかもしれないですね。
本当大くくりにすればいいんでしょうけど、ここがまたミソで、ミソでっていうか、
ハードル高くて、私は1人1人の話が違って聞こえちゃう人間なんですね。
だからこの仕事やってられるんだなっていうのが最近気づいたんです。
最近なんで気づいたかっていうと、皆さんご覧になったか分かりませんが、
ピボットに出たじゃないですか。あれがまさにマスに向ける、
マクロなものの見方を情報発信源にするというやり方なんですよね。
私はああいうのがやっぱり苦手なんだなっていうのを、
ナルシシズムと現実適応
あれですずっと食ってきたくせに苦手なんですよ。
お人方お人方の事情と状況と説明は全て全く違って聞こえるんです、私には。
それはやや具体象徴的で病理的部分もあるにせよですね。
大送りにするっていうことが、昨日の話の続きみたいになってますけど、
とっても苦手なんですよね。だからAIひとつとってもですね、
もっともっとAIせっかく使うんだからパーソナライズにしないとって思ってしまうんですよ、ついつい。
で、ゲストにお人方、私と一緒にゲストで登壇されていた方と、
国山ハセンさんがお仕事の中でですね、
例えば会議の議事録って便利でしょうっていう話になるんだけど、
会議の議事録って便利だろうかって、僕はあそこで考え始めちゃうんですよね。
あ、よかったんですよ。あそこで考え始めると、
僕はもう自分が収録されているという自覚を相当程度失いますよね。
仕事にならないわけですよね。
でも会議の議事録が便利だっていうのは分かるんだけど、
でも例えば私も確かに収録してるわけですよね。
これだって収録ですし、文字起こし便利だわって思うんだけど、
ではそれにAIで月2500円かけるかっていうと絶対かけないですよね、とりあえず。
だってこれ収益になってるわけじゃないですし、
しかもこれの文字を起こしてどうするんだって感じがするんですよね、やっぱり。
これは生で聞いてなんぼでしょうっていう感じがするんですよ。
生でなくてもいいんだけど、声で聞いてなんぼだろうとは思うんですよね。
情報になってない。
この話すると、そもそもこの時代情報発信が常識でしょっていう人からすると、
それが欠陥になっちゃってるんです、その人の中では。
私情報発信してませんって100回言っても無視されて、
須田幸さんの情報発信によればってなっちゃうわけですよ。
それは客観的事実になってるわけですね。
何ら話がBionの定義的仮説によってきてるよっていうことを僕は内心で、
マイナスKでもいいんですけど、言いたいわけですけれどもね。
いずれにしても、その人が何かを誤解してることを責めたいわけでは全くないんですね。
そんなことを責めてたら、私たちはみんな責められまくらなければならないんで。
誰も客観的知覚をしてませんからね、私の考えでは、人間は。
無視はしてますよ。これ何度も言ってますよね。
あのトカゲさんとかもしてます。
だからハエとかを瞬殺で、そこら辺飛んでたの。
飛んでないみたいな、その速度で舌を伸ばせるわけですよ。
これって考えようとしてたら絶対無理じゃないですか。
これこそまさに爬虫類の大脳神質を一切持たない爬虫類の特技ですよね。
あれ、ハエいなくなったっていう、私見たことがあって本当にびっくりしますよ。
舌なんかまるで見えないですからね。
瞬殺ですよね、まさにね。
これがまさに物理的世界なんですよ。
我々には想定真似のできない芸当だなと、私は思うんですよね。
現実を直接に知覚し、直接に捕食するなどということ。
私たちは結局、肉をナイフとフォーク使って切り分けて、はい食べましょうみたいな、
そういう悠長なことをやりたがる生き物なんです。
肉食でもあるくせに、そういう悠長なことをやりたがるわけです。
世の中を間接近くしたがる生き物なんですよね。
間接である以上、そこには作り物が混じるに決まってるじゃないですか。
作られているからこそ、我々の見る世界というのは、
こうも美しいし、音楽とも聞いてられるわけですよ。
あんなの間接近くの生物じゃないですか。
音楽なんて、その時聞こえてる音しか聞こえなかったら、
多分、公共曲とか聞いてても、全然楽しくなんでもないですよ。
そのフレーズは、3分前のとかは思わないですけど、
3分前のあそことこうしてるとかって、頭が勝手に考えてくれるから。
そんなのは、記憶と知覚の混ぜ物じゃないですか。
直接知覚だけしていたら、そんなフレーズが意味をなすはずがないわけですよ。
なんかちょっと音楽づいちゃってるんですけれども。
そういうようなことがいろいろあるわけです。
詩だってそうですよね、歌の歌詞で。歌詞もそうです。
歌詞に曲と合わせて意味があるっていうのは、多分人間だけだと思うんですよ。
すごく間接近く、しかもそれは、あれですよ、
サザンカサザンカみたいな、ああいう単純なというか、
子供向けの歌でも、つまり子供でもはっきりその意味は分かって、
歌とか歌ったり聞いたりするわけじゃないですか。
昔面白かったんですよね、少年時代ってあれは何だっけ、井上陽水さんか。
あの少年時代の、なんかうちの子と友達がうちに来た時に、
なんか2人で熱唱してたんですよ。
少年時代の、小学1年生の女の子2人で熱唱するんだ。
でも意味分かんなく、意味、全部が分かるってことはないだろうけど、
全く意味が分からなくって、熱唱とかしないじゃないですか、人間は。
だから意味は分かるし、歌詞の雰囲気と歌曲の雰囲気というのを合わせて、
上手い、上手かったです。ものすごく上手いなと思いました。
私が歌うよりは絶対上手いな。
それは私よりある意味分かってるってことですよね。
そういうようなことって、人間はある意味いくらでもできちゃいますけど、
代わりに絶対できないことが、客観というものを直接知覚することはできない。
基本的には時々そういうことが起きるにせよ、通常はそういうことは起きないし、
そんな世界では生きていけないんだと思うんですよ。
この感じってものがあるからこそ、私はその人が、田崎さんにFAQです、これが。
具体象徴の意義
その人にとってはもう主観は絶対ですから、私にとって主観は絶対であり、
客観なんて基本的に意識されてないので、100人が100人それを聞きたくはなりませんって言っても、
この人の中ではそうはならないわけですね。
自分の聞きたいことは100人とも聞きたいことなんですよ。
強く聞きたいと思えるんです。
で、はたづけとかができないと、人に気遣いができないとか、
あるいは気遣いすぎてしまうとか、人の気持ちに気抜きすぎるとか、
気づいてなかったりするんだけど、そんなことはどうでもいいことなんですよ。
私は繊細すぎるとか、周りの人はそうは思ってないかもしれないけど、そんなことはどうでもいいことなんですよ。
これはとてもとても私が思う大事なことです。
私の世界に私は生きているってことですね。
ここで私の世界にないものは、現実に起きていても基本的には気づかれん。
これも私はみんなそうだと思っていますが、
これが不都合を招くと、病理って言われることになるわけですが、
その不都合だって誰がそれを不都合だと思ってるかによって、
病理か病理じゃないかが分かれてくるんです。
本人が困ってないって言ったら困ってないんです。
ところが本人のすぐ周りの人、例えば自分の息子を娘、
あるいは自分の親、兄弟が、そして自分との同僚がみんな困ってるのに
本人困ってないのはそれはそれで病理って言われるんだけど、
本人はそれを治療の必要を認めませんから、
つまりその人の世界に生きてますからね。
あいつは自分の世界に生きてるよって我々はナルシシストって言って文句言うんだけど、
自分だってそうなんですよ、そういうことで言えば。
ただ自分はそこのところが人間の必要な発達を遂げればですね、
うまいこといくようになってるんですよ。
そんなに一生懸命ナルシシズムの問題を考えなくても、
ナルシシズムなんだけど現実に適応できるように、
その辺が私はウィニコットの世界観だって思うんですけれども、
ナルシシズムではありますが、自分の世界には生きているけれども、
しかし客観と対応できるように自分の世界を組み上げる、
これが正常ってことなんだろうなって思うんですね。
そういう人をナルシシストとは呼ばないわけですよ、
自分の世界に生きていたとしても。
ナルシシズムは僕は人間につきまとう課題だと思うんだけど、
この人をナルシシストだと言って攻撃されるかどうかは、
また別の課題になってくるだろうと。
ただそれはグラデーションだと言われればグラデーションですよねとは思うんですね。
病理か病理じゃないかっていうのは、例えば具体象徴によく見られます。
前にですね、私がこの番組でだったかどうだったか忘れたんですけれども、
忘れた、違う例になります。
例えば具体象徴といえば、鳩は平和の象徴ですって超有名なのがありますよね。
松木くにひろさんも本の中でしょっちゅう言及されます。
あとは平和の象徴、これ具体象徴ですね完全に。
しかしそれ病気だっていう人はいませんよね。
具体象徴すなわち病理ってわけじゃないわけですよ。
例えばなんか日本人はよくわかんないんだけど、お誕生日にはケーキを食べることにしてますよね。
しかもロウソクを年の数だけ立てるとか、これもよくわかんないけれども、
とても日本の風習とは思えないけれども、
具体象徴と否認の概念
普通になんかそれをやってない家はダメな家ぐらいなことを言っていた昭和の時代もあったほどなんですよ。
でもケーキなんてみんながみんな食べるわけじゃないし、
そんな考えてみると4つ5つ一番喜びそうな5歳6歳の頃にホールケーキとか出てきても困るじゃないですかある意味。
僕とか戻しちゃったりするわけだけれども本当に。
地方の生クリームのかなり微妙だったりするのをがっついて食べてムーってなっちゃうんですよ。
そして母が激怒すると。
でもこれは象徴なんですよね。
誕生日にケーキを食べるというのはまさに。
であれ具体的じゃないですか。
食べられるぐらいだから思いっきり具体的ですよね。
だからこれは具体象徴ということになるわけ。
しかし具体象徴というのはですね。
非常にやっぱ奇妙な感じがするときは奇妙な感じがするものなんですよ。
例えばコリン・ウィルソンって。
昔だったら私たぶんこの番組でコリン・ウィルソンの話しかしなかったんじゃないかなと。
アウトサイダーっていうやや哲学的な文明書みたいな独特の本があるんですけど。
彼は犯罪心理学みたいな人で知られてると思ってるんですけど。
彼は完全に野良の人で。
だから私野良の人って多分好きなんですけどね。
アウトサイダーなどというものを肯定的に書くんだから野良な人なのは当然じゃないですか。
およそ彼は正義じゃないことを。
イギリスで正義じゃないっていうのは批判の的にしかならないような話なんですよ。
彼はアメリカでは人気あるらしいんですけど差もありなんて感じがしますよね。
この話ちょっと伸ばしちゃいましたけど。
彼がですね最初に付き合った女性。
最初じゃないな。
とにかく結婚した女性に。
コリン・ウィルソンって下町の人なんでなんか口切らなく罵ったりする人なんですよ。
僕会ったことがあるんですよ。
面白い人なんですけどね。
そんなに別に品がないってわけじゃないんだけど。
その時に奥さんらが口をゆすいできなさいって言ったんです。
僕はもちろんこの種のことにはめちゃくちゃ腹を立てるって言ってたんだけどウィルソンがですね。
これ具体象徴ですよね完全に。
しつけかもしれないけどそもそも夫をしつけるってどうよって感じなんだけど。
しつけかもしれないけどやっぱり口汚い言葉を使うと口が汚くなるっていうのは。
明らかに具体象徴じゃないですか。
象徴的糖化物って言ったらちょっと違うと思うんだけど。
具体的ですよね。
水準がものすごく。
この具体象徴っていうのはさっきの鳩とかケーキはいいわけですがクリスマスツリーとかでもいいんですけど。
しばしば結構病的に出るわけです。
これなんかちょっと微妙な感じが僕なんかするんですよね。
口をすすいできなさいねっていうそれねって感じが。
なんかこう幼稚園で言われたようなことだなあっていう感じ。
つまり子供は具体水準の象徴しか持ってないと思われてるから。
私なんかはそういうふうには思わなかったんですけど。
幼稚園児の時もですね。
この種のことを言うのってなあって感じが。
子供だから言ってくるんだろうけどなあとは思うんですよね。
まあとにかく口をゆすいでこいというわけですね。
ここまではしかし病理ではないでしょう。
松木くんさんのさっきほんとね。
久しぶりに京都大学最終講義っていうのを聞いてたんですけど。
冒頭からいきなりすごい話。
それこそ朝っ端からなんですけど。
まあ僕が朝から聞いてただけで。
彼は朝から調べてたわけじゃないんですけどね。
居食症の女の人が。
思春期ぐらいの女の人が。
松木さんが主治医だったって言うんですけど。
ある時どうしても過食によりますよね。
居食やってると痩せはするけど。
松木さんはいかにもそれらしく人間生理学的に。
食べなければならなくなるのです。
みたいな感じだったんだけど。
食べなければならなくなったんでしょうけど。
過食に近い形で腹に傷を負った。
自傷ですよ。
この女の人はもちろんどう言ったかっていうと。
食べ物を外に出したかったんだと。
これは相当具体水準によってますよね。
食べ物を外に出すみたいな。
もちろんそういうことは不可能ではないでしょうけれども。
でもこれはもう相当具体水準によってますよ。
そしてこれは病理って呼ばれますよね。
この話延々持って回ってきましたけど。
このお母さんが登場するわけですよ。
まさに精神分析だなって思うんですけど。
お母さんという人はですね。
そんな娘さんがお腹切ってるのにですね。
そして救急搬送されてるのに。
えらく淡々としていると。
もうすでにああって感じがするじゃないですか。
お母さんがえらく淡々としていて。
私は腹が立ちました。
この人本当に腹立つことがあるのかなと思うように。
松木さんもえらく淡々としゃべるんですけど。
京都大学とかでは。
でも腹は立つんだろうなと思うんですけどね。
要するにあまりにも淡々とし過ぎだろうっていうことですよね。
で、このお母さんが娘さんに言ったことっていうのが。
どうしてあなたは悩むの。
私は若い頃に悩んだことなんて一度もないって言われたことがあるっていう話なんですね。
で、松木さんがこれを否認だっていうわけですよ。
そんなはずないでしょ。
世の中に悩まない人なんていないわけですよ。
こういうことを割とさらっとおっしゃる方。
まさにさらっと言うんですけど。
ここは分析じゃなくて。
分析について浅っ腹からくっちゃべる場なので。
一気に話を進めますけれども。
過食の事例について
要するに周りの人に押し付けてるってことですよね。
で、これはめちゃくちゃよくあることなわけですよ。
っていうか精神分析でやるようなこととか。
ある種の心理カウンセリングでやってることっていうのは。
基本これにまず気づくっていうことだったりするのが少なくない。
どっちかですよね。
押し付けてるか。
押し付けてる人はめったに来ないですけどね。
押し付けられているか。
こっちの人はしょっちゅういらっしゃると思うんです。
カウンセリングとか。
つまり押し付けるというか否認してるわけですよね。
自分は悩んでないんだということにしてしまう。
悩むことがあってもそれは自分の悩みじゃないんだってことにしてしまう。
それは無意識に進行するから本人は本当に悩んでないわけですよ。
なんだけどその分周りが悩むことになるんですよ。
これを多析っていうのはちょっと僕の感じでは少し違って。
多析だって言われればこれこそまさに入道の多析なんですが。
これがいろんな形で現れるわけですね。
例えば部屋が片付かないというのは
その人は悩みを部屋に押し付けてるっていうような見方をしたりもできるわけですよ。
気遣いができないっていうのも
気遣うっていうのは結局どっちに悩みの起点を置くかっていう話になってるはずなんだけど
それを自分の外に置いちゃってるから
その人は気遣うってことができないわけですよね。
あるいは気遣いすぎちゃうわけです。
何でもかんでも押し付けられてしまうわけですね。
人が悩むべきところを自分の悩みにしてしまうわけです。
そういうことをやってると今度は悩みを吸収するってことが起こるので
人は悩まなくなってしまうわけですよ。
悩めなくなってしまう。
こういうことが起きるわけですね。
否認なんですよね。これは結局否認がそこら中で起きてると。
母との関係の考察
マスキさんも京都大学の最終公務員本当に最初の方のところでですね
この話をするなりまず私は気づきましたっていう
その時本当に気づいたのかってことは本当にそれまでは本当の意味では分かったのかと
人は自分こそ嘘をつくんだと。
皆さんはそういうのは当たり前だと思う。
心理師が集まってるでしょうからね。
京都大学の最終公務員で超優秀な心理師さんたちが集まってるから
そんなの当たり前じゃんって思うかもしれないけど
私はその時初めてそのことが分かったんだと本当の意味ではっていう言い方をされてた。
確かに自分で自分に嘘をつくって
さっきマイナスKとかって言いましたけど
いうのって気づかないものなんですよ。
気づいてないわけではないんだけど
気づかないようにそもそもしていることこそが
その否認の意義ですから。
意義って言ったら変ですが気づくと大変なことになっちゃうから
とっても嫌な思いをしなきゃならなかったり
とても心が持たなかったりするんで
気づかないことにしたいわけですよ。
私は悩みなんかないんだ。
悩んだことなんかないんだ。
おかげで娘さんがめちゃくちゃ悩むことになるわけじゃないですか。
もうなんかこうご飯とか食べて太るのは最悪だってことで
だから悩んでる感じですね。
全然食べないみたい。
でも全然食べないとものすごくお腹が空いてくるから
食べると今度はその食べたものを切ってでも外に出したいみたいに
めっちゃ悩んでますから。
こういう状態で。
で、あなたはなんで悩むのとかって
お母さんが言い出すわけですよ。
そんな状態なの。
ぐらいに全然悩まないお母さんと一緒にいるというのは
大変なことだっていう話をいきなりしてるわけですね。
最終講義で。
で、私ははるかにマイルドな話をしてるつもりですけど
基本的にはこういう話をしているつもりなわけですよね。
で、最近私自身の話についてますけど
私自身がずっとずっと全く気づかずに否認してきたことが何かっていうと
私は母が大好きだったってことを徹底的に否認してきたから
わけわかんない人生を歩むことになってたわけですよ。
例えば私は片付けられないのと真逆で
真逆でも全く同じ病理だと僕は思うんですけど
めっちゃ片付けちゃうわけです。
部屋とか。今もそうなんだけど
金属でこの間新しい壊れたデスクに置く
ディスプレイアーム買った新しい買ったんです。
このディスプレイアームは将来的にはもっと大きな画面にして
3ヶ月チャレンジで皆さんと相対するんで
その空間感を強くしようということで
もう少し大きいディスプレイに対応できるアームを買っといたんですけど
前のアームが余るじゃないですか。
それは捨てたんですけど
そこからさらにネジとかが出るわけですよね。
これも専用ネジなので使えないので捨てたいわけですよ。
それがずっと金属のゴミ出すにしばらくかかるんで
ずっと机の上に置いてあったんですね。
これを今日出してすっきりしたんですよ。
これが私が母への愛を強く持っていたことと深く関わってるんです。
一見脅迫的な内容ですけれども
そんなちっちゃなネジを気にして
捨てればすっきりするなんて
大変脅迫的な感じはするんですけど
オブジェクションな感じもするんですけど
我ながらね。
だけどそうじゃないですよ。
母は机の上が綺麗になってる
特に子供の机の上が綺麗になってると
えらい喜んだんですよ。
半にそれだけなんですよ。
私が片付けたい理由っての。
これが多分何かの表紙で全く片付けたくない。
例えば私が母を憎めば
無意識でですよ。
良い憎しみを持てば多分部屋が
机の上がめちゃくちゃ散らかっていくだろうなっていうのは
容易に想像、容易にですよ。
本当に容易に想像がつくんです。
これこそ否認なんですよ。
何を否認してるかっていうとさっきも言いましたが
私は私の母が大好きだった。
ではなぜ否認してたかっていうと
母悪かったからですよ。
私が子供の頃に冬彦さんとかいうドラマが流行って
これは昨日思い出したんですけど
マザコンのドラマなんですよ。
うちの母はそういうことを全然してくれませんでしたよ。
冬彦さんのために梨だったっけリンゴだったっけ
剥いて一口サイズに切って
母との思い出
あーんしてくれるんですよ。
冬彦さんが成人してからもしてくれるんですよ。
うちの母はそんなこと絶対してくれなかったし
一歩間違ったらリンゴ自分で剥けって人だったけど
そんなことは関係ないんですよね。
だからドラマって分かりやすくしすぎて
分かりにくくなってるんだけれども
あれやらないと分かんないですからね。
3話や4話では。
マザコンって難しいんですすごく。
例えば私が好きだった母っていうのは
過去の母なんで
あれこの話したっけ
前に言ったかもしれないんですけど
髪がね、したと思いますね。
髪伸ばしてたんですよ。
その時の母が好きだった。
私が覚えてる限り母の髪が長かったら
せいぜい私が5歳か6歳まで
バッサリ切ったんですよね。
忙しいから。
いやそりゃそうなんですよね。
長い髪って洗って乾かして
昔のドライヤーってひどいから
えらい手間がかかるわけですよね。
長いというだけで。
だから母とかめんどくさがりなんで
速攻バッサリ切ったわけですよ。
埼玉県に引っ越してきたら。
ちょうど引っ越してきた時私4歳半でしたから。
で私は絶望したわけですね。
うわーってなったんですよ。
なったこともつい先日思い出したんですけど
パーマとかかけるじゃないですか。
で私ちっちゃい子だったから
パーマとかって意味わかんなかったから
なんだそれって感じだったわけですよ。
もう失恋もはなはなしいわけですよ。
そんなこと全部忘れてましたけどね。
以降パーマになった母は
あんまり好きじゃなかったと思うんで
しばらくの間。
それが私の自立を促してるんだと思うんですけど
明らかに。
だから私が好きだった母っていうのは
たぶん29歳とかの母なんで。
もう面影。
面影は無理やり頑張ってみれば
親子だからわかるけど
まあわかんないと思いますよ。
29歳と現在の母を比べてみてもですね。
つまりマナコンってほんと難しいんですよ。
必ず対抗ってものをそこに含まないと
自分4歳時になった気持ちって思い出せないと
思い出せませんし。
しかもいくら以上記憶は飛んでますし
その上否認までするわけですよね。
否認してる事実上忘れてもいる。
本人の中にその面影はないみたいな。
過去の美化される。
しかも美化もされている。
しかもそれは4歳時の視点を取ってるから
たぶん実際とはだいぶかけ離れた何かになってるんですよ。
これを理想の女性だと思っていて
母親だとは思ってないんですよね。
そんな自明なことをやっておきながら
冬彦さんになりたくないっていうのもありましたから
ドラマ見ちゃったから
全部見たわけじゃないですけどね。
そういうようなことがありまして
例えば母にPRして
長く期間死全息だった部分は何とか克服したものの
PRして皮膚がボロボロだったのは
一向に治らなかったわけですね。
だから母が好きだったからだっていうのを
認めてさえしまえば
私の難治性の意味不明な皮膚病も
あっさり今のようにきれいに治ってしまって
一時毎日のように温泉行ってたじゃないですか
知ってる人知ってるかもしれませんけど
私行ってたんですよ。
皮膚の問題の根源
湯河原の毎朝毎朝今のぐらいの時間に
大変なんですよ。
よくはなるんだけどね。
あの温泉を発見したのはいいことでしたけど
ままねの言ってるんですけど
45度ぐらいでめちゃくちゃ暑いんですよ。
シャレにならないんですよ。
入ってられないんですよね。
よくなるんで一度行ってみてください。
入ってもね入れないかもしれない
45度の風呂なんて入れないですよね。
ましてこのアホみたいに暑いのに。
でもきっとねあそこの陶磁は効くんで
そこそこいろんなものに。
だから結構入ってる人いるだろうな
とは思うんですけどね。
あの何の話をしてたのかというと
つまりこれは母へのPRだったわけですね。
あんた冷たすぎるよっていうことで
ほら肌こんなにボロボロになってんだけどって
でその時にさっきの挙色症の女性と
よく似たパターンなんですよ。
私の知ったことじゃないわよと。
まあそりゃそうなんだけど
もちろん母は自分のせいだとは
全く思ってませんから
そういうことがわかるってタイプでは
どっちかっていうとないですか。
あなたがの皮膚が勝手に悪くなってる。
まあそうは言っても
挙色症の女性の家ほどすごくはなかったです。
なんか薬とかだしたり
病院とか連れてってくれたり
連れてってくれてるのは
実は父だったりするんですけどね。
父がまたね
これがねややこしい人なんですよ。
こういう時に。
母がそうやって言ってみれば
否認するわけですね。
母もね。
あの子供生まれないようにすることじゃないですよ。
否定して認めないってことです。
そして私が苦しんでるってことを認めたがらないので
父がそれを引っかぶっちゃうんですよね。
父はああしょうごかわいそうだな
それはってことで
なんかね本を読み出すんですよ
あの人は得意のね
何しろ水泳する前に本読む人ですからね。
でなんかこう絶対に
あとP性皮膚炎が良くなる
なんかこう
要するに非常に微妙な
民間療法じゃないんだけれども
あのなんかこう
特殊なお医者さんがやってる
特殊な治療法とかが大好きなんですよ。
本読む人ってそういうところあるんですよ。
変異嫌いだから
なんか国家は信用ならんみたいな
だからなんか国家に反逆している意思みたいなのが大好きで
いや半分無免許意味みたいなね
無免許じゃなくても
なんか保険の効かない診療とかがすごい好きなんですよ。
そして高額な医療を取られて
肌がさらに悪くなるみたいなこと
ここも何かありますよね
父なりの
あれは母が否認したものを
父が吸い込むっていう構図なんですけど
うちそれすっごい多かったんですけど
家族の心理的ダイナミクス
本当にそのパターンで
私の肌はどんどん悪くなっていく
何かの象徴みたいです
てか何かの象徴なんですけどねこれはね
一つは夫婦仲のうまくいっていない部分の象徴なんですよ
うちは夫婦仲が悪かったわけじゃないけど
もちろん全部が全部うまくいってたわけじゃないですし
あとうちの母は
お父さん大嫌いゆえのフェミニストだったんで
女性がこれから社会進出するんだみたいな
自分全然進出しないくせに
なんか進出する話ばっかりしたがっていて
なんか女性のパートの従業員さんはとっても親切でって
ひたすらそのスーパーでのパートの従業員さんの親切ぶりと
そこのスーパーの社員さんがいかにダメかって話を
コンコンと解き伏せて
だからねやっぱり女の人は性欲もないし
いい人ばっかりなのよみたいな
よくわかんない論を
マックしたててたわけですよ
すごい好きだったから
でもあれですけどね今ではもう
反流ドラマとか見ておいおい泣いてるんで
全然この人フェミニスティックじゃないんだけどなーって
すくずく思うんですけどね
反流ドラマ見ておいおい泣いてるっていうのも
なかなかこう昔の母からは信じられない展開なんですけど
最近なかなかなりましたけど
あのやっぱり人間って素で来た方がいいんじゃないかなって
ああいうのを見てると思うんですよね
なんかねこう普段本当は見たくもなかった
NHKのなんか政治討論とかばっかり見ていた時代があったんですけど
今はもう一切見てるからね
もうなんかねあんなに無理に無理をかすんで
一生懸命女性の社会支援室行ってるけれども
本人はただ午後にテニスに出かけたいだけっていうような人の場合
わからなくはないんですけど
選挙に行くとかはぜひ行ったらいいと思うし
なんなら令和に入れていくっていうんで
そういう満足感を得るっていうのも
令和に入れてるって話じゃないですよ
令和に入れてるのかもしれないなと
少なくとも賛成党に入れたがるタイプではないなっていう程度ですよ
一応分かんないことにしておいてるんで
父はベラベラ喋るから分かっちゃいますけど
私は絶対喋んないんで
はいしてだとしてもね
それで気まずくなったら嫌じゃないですか
人間関係なんていうものは
私は父が言った通りに入れたって構わないと思ってるぐらいの人間なんで
それほどポリティカルな人間じゃない
何が何を主張してるとか
若干は一応イメージはつきますけど
なんかこう父がそこに入れろって言ったら
別にそこに入れちゃうっていう
ここにも何か象徴的な何かがあるんですけれども
父と母が言ってることが違う
あんまないんですけどね
めんどくせえなとは思いますけれども
でも両方に内緒にしてますからね
つまり私は昔のその母が好きだったというのと
今の母が嫌いではあるんですけれども
に対する感覚が違うってことを
まず認識しなければいけなかったし
認識し損ねていたどころか
基本嫌いだと思っていたんで
この嫌いだもすごくまさに反動形成的な
そういう自我心理学的な防衛の話をどんどんしていくと
うちいくらでも出てきちゃうんですけど
あれの僕は良くないとは思いませんけど
あまり良くないところは
つまりどこかですね
やっぱりアンナフロイトの性格を反映してるのか
自我心理学の話
人の話っていうか本を読んでると
どこかですね治療同盟とかが
それは対象関係の話でも出てくるんですけど
良い自分ってものと
自我指示的なところが必要だと思います
絶対に
それはすごく重視していいところだと思うんですけど
なんか私はそれが
なんかですね
なぜそれが良いと思うんですかっていうのが
僕は絶対あるんですよね
絶対的に
それに特に精神分析やってるわけだから
良いとか言ったって
それ治療同盟とか言ったって
結局転移じゃんって思うんですよ
結局転移じゃんって
何がそれでいけないのかって思われるかもしれませんけど
主流にいっぱいそこで転移が起きてることが
その人の生活上
他のところでもその良い自己なるものが
復活化されるっていう保証には
全くならなくないですかねっていう感じが
例えば私が部屋を片付けるということによって
母が喜ぶっていうのはあったけど
当然母がに対してイライラしてるときは
部屋を片付ける気にならないし
勉強する気にもならないっていうことが起こるわけですね
だから本筋を簡単に見失うんですよ
こういう人間関係に重きを置くっていう
人間関係に僕ら重きを置くから
本筋はもちろんスルーするし
基本的には偽りの事故って
ウェニコットが言った通り
結局のところ対社会スキルっていうものを
伸ばすために何かをすることがほとんどなんですね
承認欲求っていうのは
だいたいよくは言われませんけれども
私は承認欲求で人間生きてると思いますし
エブラハム・マスローが承認欲求って言ったときは
もっと違う意味で言ってると思うんですけど
自己実現の方に近づいているから
承認欲求に伸びるってあって
マスロー的に言うとですよね
決して承認欲求に追っかかっている人間は
自分はしっかりしてない
ダメ人間ですって意味ではないんですけれども
なんとなくそういうノリになっちゃったんですよね
アメリカ人は事故の自立みたいなの大好きですからね
あれもまた相当対照関係的に見ると
自分に嘘をつくこと
全然違って見えるんですけれども
いずれにしても確かに今月さんが
先ほど僕聞いた中でおっしゃってたように
結局自分に一番嘘をつくって本当だなって
本当だ嘘をつくのは本当だってあれですが
私もずっと40年来
自分に嘘をつき続けていて
母のことなんか好きじゃないんだ
っていうことをしていたために
全然うまくもいかない
ひたすら女性にアプローチするという
年月を送っていた時代もあれば
ひたすらひたすらもっと長い間
肝心腺塞とアトピーに苦しんでいたし
何かといえばライフハックをして問題を解決しようとして
ライフハックをして問題を解決するのは
うちの母がとても喜んだってことですね
そういうのが大好きな人だったんです
見るの自分はそんなにしないんだけど
でもやってたよね
キッチンハックみたいなの好きでしたよね
100均でよくわからない工夫グッズみたいなのを買ってきては
何かこう人に自慢をしていたっていうか
おおむね私に自慢をするんですけれども
あれは妹にすら受け継がれてますね
好きなんだなやっぱりああいうのはな
だけど私は母が褒めないんだったら
別にiPhoneとかすら興味なかったんですよ
そうだったんですよ本当に今思えばですけどね
結局iPhone見せびらかすみたいなことはしません
私専任してるんで
そうじゃなくてiPhoneの本書いて
でも母に読ませて
で母がそれを悟り入るように読んでるわけです
意味わかってないんだろうけど
iPhone情報生技術とか
ここに正励さんとの強調
これ7万部ぐらい売れたんだけどって言うと
母は目を輝かせる
あれを見たい
あれを見られればもう基本満足みたいな
そんなことで本2冊書けちゃうんで
しかも本を書くための寝回しみたいなのも
全部やれちゃうんで
最後は技術評論者さんが
引き受けてくれたんだけど
まさかうちの母を喜ばせるために
私がそれをやってるなんて
私だって気づいてなかったんです
母との関係
否認してる
そういうことなんですよ
今ならはっきりわかる
だからやらないじゃないですか私
書いて欲しいと思ってる方には
本当申し訳ないと思うんですけど
iPhone情報生理術っぽいやつ
最後にiPhone週刊誌って書いたような気がするんですけど
書かなくなってるじゃないですか
それは
今時勢がこうなって書けなくなりました
云々みたいなの
それは本当ですけど
半分ぐらいしか本売れなくなってる
それは本当ですけど
2兆円産業が2兆円すら切ったっていうのも本当ですけど
でも様々な理由をカコつけて
少なくとも前に比べると
100分の1も本を書くための努力
つまり量貫運動みたいな
様々な編集者さんの
パーティーみたいなものに集まったり
顔を出したり
著者さんの情報交換みたいなところで
名刺配ったりして
でも本を書き出すっていうことを
一切してないわけですよ
まあ暑いから
ほら理由が出てきてるわけですよ
昔は暑くても寒くても
言ってたような気がするんですよね
つまりそれは
もう母は
読めない
だって本に読むっていう力はもうない
視力一つ取っても多分ない
でもテニスはやるんだけどね
大したものですよね
でも気づいちゃいましたから私
母が好きだからやってたんだってことに
気づいちゃったからむしろ
非常につまらないものに感じられるようになったわけですよ
だってもう29歳の母は
そこにはいないし
いないに決まってるじゃないですか
29歳の母はもう喜んじゃくれないわけですよ
80歳の母は喜ぶかもしれないけど
80歳の母を喜ばせるんだったら
iPhoneの話にならない方がいいですよね
鈴木炉のかまぼこ買ってきてあげた方がいいですよね