2025-09-02 47:47

環境が悪いのか?【1241】

「そういうことにしておく」ことが必要になる。
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サマリー

今回のエピソードでは、環境がトラウマの原因になるという視点から、精神分析の理論とその背景について語られています。母親の役割や社会的な環境の影響についても触れられており、現代の心理学への示唆が得られる内容です。環境がメンタルに与える影響に関する議論が展開され、特に赤ちゃんの発達における母親の役割が取り上げられています。環境因子とメンタルの相互作用を理解し、フロイトやウィニコットの理論を通じて、自己の期待と現実とのズレがどのように心に影響を及ぼすのかを考察します。環境の影響についての議論が展開され、自立と依存の関係が強調されています。また、痛みや攻撃性を通じて得られる成長の重要性についても語られています。トラウマや自立の問題が家庭文化とどのように関連しているかを探求し、片付けに関するメタファーを用いて、環境が人々の行動や思考にどのように作用するかを考察します。環境が人間の心理や行動に与える影響について考察し、とりわけ子供たちの素直な反応が示す重要性を探ります。

精神分析と環境の関連
おはようございます。朝っぱらから精神分析、第1241回をお送りします。
9月2日火曜日、8時22分です。
はい、えーとですね、あんまりというか、ほぼ全くこの番組ではのご視聴の皆様には興味湧かないかなと思うんですけど、一応お知らせさせていただきますと、
ピボットというですね、あのーなんていうのかな、私こういうのはあまりにも詳しくなくて恐縮なんですが、
クイアマハセンさんという元アナウンサーの方と、女性の竹内さんという、これも元テレ朝のアナウンサーなのかな。
テレ朝っていう言い方の意味がテレビ朝ですけど、のアナウンサーの方が、の2人がメインで、そこになんかこう、
まあ今回の場合僕も呼ばれたんですけどゲストとして、ライフハック系のですね、1人は戸田さとるさんという方、もう1人が私で、
えー、まあ、スマホに入れるアプリを紹介するっていうYouTube番組なんですけどね、それはもうなんか山ほどあって、絶対見切れないほどあるわけですけど、
まあそういうものをかなり本格的に、要するにほとんどテレビになっちゃってるっていうもので収録して、で、まああれですよ、登録者数が350万人で、
昨日おととい配信されたんだと思うんですけど、もう3日で5万再生とか、なんかもう桁が3つ違うんですよね。
えっと、だから私が、それこそ倉園圭三さんとグッタファイブスTVとかやってたときは、1.200とか、1.500とかかな、500いったらなんかもう宿敗あげる勢いなんですけど、
3日で5万とかね、あのそういう桁が2つ違う、桁すると3つ違う、で間もなく4つ変わるだろうぐらいな勢いの、そういうもう番組で、
まあでもかかってるお金が全然違うんで、もちろんね、私なんかその地元の、あのなんかよくわからない障害者支援センターみたいなところで、
障害教育、だから要するに一生そこで勉強しましょうねみたいなセンターに、
まあそういうところで、こう細々と、あの矢部聖子さんという方と3人で、あのiPhoneを買いに行ったりとかね、
そこになんかこう長いテーブルと椅子があってですね、それを適当にこうガチャガチャやって収録すると、冬はすげえ寒いとかね、そういうところだ、夏はすげえ暑いわけですよ、もちろんね。
まあそういうところでこう細々と、あの矢部聖子さんという方と3人で、あのiPhoneを立てて、iPhoneだけその中では高いみたいな、ここで立てて収録をしていたわけですけど、
あの障害教育、違うな、障害学習センターか、一生学習するセンターですね、要するにあれですよね、公民館って昔呼ばれていたようなやつだと思うんですけど、そこで撮ってたのとは全く違って、
まあテレビ局みたいなテレビが2台あって、あのそのピボットね、場所も渋谷だし、もちろん夏、アホみたいに暑いとか全然なくて、どっちかちょっとめちゃくちゃ寒くて、
1階にはもう普通にその人たちが使うであろうスタバみたいなのもあるっていうようなところで、ピンマイクをつけて、
まあ僕もさすがに普段着で行くとかできないんで、それなりの格好を、でもそれなりの格好を結局買うことになるわけですね、私そんなの持ってないから、それなりの格好とかほとんど持ってないから。
で買うと、なんかもういただく出演料とトントンくらいじゃないみたいになっちゃうわけですよ。だからもうこれでも5万再生されたとしてももう早速なんかタスクシュートの話をしてきたわけですよ、もちろんね。
まさか精神無敵の話するわけにいかないじゃないですか。タスクシュートの話をしてきて、なんか早速こう言われるわけですよね。
トイレとかつけてて本当バカじゃねーのみたいなそういうコメントがあったりつけて、私の娘とかにこう報告されて、あのアップ表立ってますよみたいな。
いやあのこれはもうお約束ですから5万も再生されてですね、そういうのを受けずに済まそうというのに無理がありますからっていう、
まあそういうことをゴニョゴニョとしゃべっている間にもこう再生されて、やっぱこうマスというものは桁が違いますよねと。
だからまああの興味本位でご覧いただければいいかもしれません。興味ないかもしれません。
AIの話をね、戸田悟さんは昔はパソコンをすごくガジェット系のスマホとかね、一刀両断みたいな、そういう感じで
連載されてたんですよね、パソコン雑誌とかで。今はもうそういうのでは全然違う方向で。
でもやっぱりなんかこういろんなAIのサービスをそれこそ比較して紹介されると。
すごいいろんなのを見てちょっと僕もあの日は当てられた感じで、うわぁAI使おうみたいになっちゃうという、そういう効果をもたらしますよね。
その中にタスクシュートクラウド2の言葉と存在を差し込めたのはそこそこだったんじゃないかなというふうに思わなくもない。
理想を言えばあの日までに今後実装されるとされているこのタスクシュートクラウドかけるAI、AI実装されることになってるんで、
そこまでたどり着けていれば完璧だったなとは思うんですけど、まあ世の中なかなか完璧ってわけにはいきませんものでしょうがないですけど、そこは。
なんかタスク神とAって難しいじゃないですか。
その僕なんか発想として存在しなかったので、J松崎さんはそういうところはさすがにあるっていうのが、いや僕やっぱ若いんだなっていうのをね思いますが、
まあとにかくこの番組を聞いている方はふーんって感じだと思うんですけど。
まあまあ全然違う私ではないと思いますが、一応違う私の顔があそこら辺には映っています。
あっちも私が生きている部分であります。
こういうのを自己解釈しないんでしょうね、きっとね、精神分析とかだったらね。
そういうのを自己解釈しちゃうと、いよいよこう私が対象化していくじゃないですか。
環境に慣れなくなっていくっていうことが起こるわけですね。
トラウマのメカニズム
今日チラッとその話をして、今日はあんまり長くは話できないんで、そうは言っても何分になるかは皆さんご存じなんですよ、これ聞いてるとき。
僕はわかんない。今目の前には6分53秒って書いてある。
えーとですね、環境と、今私申し上げましたけど、環境とトラウマなんですよ。
トラウマというものは環境から来るものなの?それはそうですよね。
何度も何度もこの番組でも同じ話題出してるんですけど、結局のところイギリス独立学科と呼ばれる、
今日はその番組をね、少しだけ詳しく知りたい人の精神分析みたいなタイトルだったと思うんですけど、
だからなんでこれを見てたかというと、YouTubeで自分のを確認していたからだんだん面倒かに飽きてきて、
AIとかの話に僕今飽きやすくて、そういえば大阪京都の精神分析のYouTube面白かったなと思ってあっさりそっちに移ってしまって、
それを見て今ここで話してるわけですよ。そういう流れが常にあると思ってください、この番組にはね、裏側に。
ミニコットの話をしてたわけですね。独立学科っていうのは別に独立学科グループととを組んで、
ウェイってやったわけじゃないんですよ。我々は独立学科だぞみたいな、独立してそういう学科を打ち上げたわけじゃなくて、
基本的にはクラインにあんまり相手入れされなかったか、クビになったみたいな人たちをまとめて独立学科と呼んでる。
一人一人は別名にととを組んでないわけですね。ただこの独立学科っていう人たちはものすごくだから主張の中身は違っているように見えるんですけど、
フェアバーンとミニコットって全然共通しているように見える。もちろんイギリスで精神分析やってるっていう対照関係論だねっていう意味では共通してるんだけど、
はっきり言って違いの方が本読むと目立つわけですが、でもそれらの人たち独立学科に大筋共通しているのが、
大ぐくりにするとまた専門家の人に何言われるかわかんないんだけど、専門家の人のことはとりあえず言った頭から出しながら喋っておかないと、
とてもこういうの喋っていけませんからね。これは井戸端会議のようなものだと思ってください。ここが大事なんですよ。井戸端会議なんですよ。
井戸端会議が言ってみればコンサルになるぜっていうのが3カ月チャレンジですからね。本当にここは何度強調しても強調しきれないなって思うほど、
世の中が逆風吹いてるんで、真逆風吹いてるんですよね。何かどんな場合でもそうですけど、意味のあることをしようとしちゃうじゃないですか。
いかにそれを避けつつ、でもそれをウィニネスにするかっていうところがポイントなんで、ままごとやりつつ、お金の従事は7万5千円ですよっていうのが最大のポイントですからね、これはね。
これがもう、それこそAIとタスクシュートの話をしますから7千、皆さんお願いしますねみたいな、これになってしまったらもうそしたらAIの方がいいですよ、今の僕からすればね。
まだそこまでいけない。でもあと10年経っちゃったらもうAIの方がいいってなっちゃいますよ。
いくらAIに血が通ってないって言っても、見てるだけで血が通ってるAIになっちゃいますよ、と僕は思っちゃうんですけどね。
いつか必ずそうなるから、そうじゃないんですよ、これは。意味のないことを一見ね、一見意味のないことをやることがどれほど今の我々にとって重要かっていう、本当に意味がなくないっていうのが大事なんですよ、本当に思うんですけどね。
そのウィニコットの話で全く同じような話になっていくと僕は思うんですが、要は環境なんですよ、彼はあくまでも。
環境としての母親っていう言葉を彼がやっぱり言い出したのはすごく重要で、環境としての母親は別に父親だっていいわけですよ。
私なんか本当そう思いますよ。自分の娘育てた時なんか、私はどう考えても第二の母親で全然父親じゃないなみたいな。
結局抱っこしておむつ変えてミルクあげてみたいな、お風呂に入れてあげて、おむつ変えてあげてさっき言ったか、一緒に寝てあげてみたいな。
全てが母親とやってること。僕の方が劣化版だけど、劣化版だろうとなんだろうと母親だから、2人母親がいるような感じになるわけですね。
性別なんか、うちの娘から見れば知ったことじゃないじゃないですか。目もまだ開いてるかどうか。体操期って時期の話してますからね。生後3日とかね、そういう時期の話してますから。
もうなんかこう名前呼んだってですね、反応でもしないわけじゃないんですよね。あの辺がね、面白いんですけどね。
まあでもまあそれはよしとしましょう。何が言いたいかというとですね。
環境だったってことですね。環境こそがトラウマを生むんですよ。つまりトラウマってのは心の傷じゃなくて事実だってことを言っていらっしゃるわけ。ここがすごく大事なわけじゃないですか。
ここで僕は全ての議論はどっちこっちこの部分で議論になって、この部分で学派は割れるようになってつくつく感じるわけですね。
フロイト自身が揺れてたわけですよね。結局ドーラさんみたいな方もそうですけど、お父さんが浮気して傷つくんです。お父さんが悪いんです。これは環境の問題ですよ。
でもそれは、だけど当時はお父さんみたい、特にやや上流階級のお父さんみたいな、みんな愛人作ってるじゃんみたいな、それなんか傷つきすぎじゃないですかっていう、ここメンタルの問題じゃないでしょうかってなったら心の側に行きますよね。
現代だったらそうは考えられないでしょうけど、この問題っていくところに必ず絶対出てくるんですよ。ここをジェンダーの問題にしてしまったとしても、悪い意味ではやっぱり片付かないと思うんですよ。
だって、お母さんに傷つけられたんですって女性が言ってる場合、このお母さんが女性だとして、多くの場合そうですから、女性だとした場合、結局女性対女性になっちゃってるじゃないですか。
母親の役割
そこでジェンダーって言い出すんでしょうけれども、いくらそこで頑張っても、やっぱり男と女に分けてこの問題を解決しようとしても無理がある、私は思いますよ。
だってこれからの時代、社長女性です、上司女性です、私女性です。部下にハラスメントだって言われました、私女性ですってことは、もう永遠いくらでもある話なので。
当然、両親の人がハラスメントですって部下に言ってられたら、私怒ってすらいないしって言えますよ、きっと。
つまりそれはあなたの心の中で起きたことなんだから、あなたが自分で解決してくださいって言いたくなるわけですよね。
で、裁判になったりするわけですよ。いやいや、あなた本当に私を傷つけたんです、あんなことをしておいてよくそんなこと言えますねってなるわけです。
で、これが今昭和の時代みたいに、典型的に傷つけてる方の人は大体ジェンダー的に男で、傷つけられてる方はしばしば女性だった場合はジェンダーなんだっていうことで、かなりの部分持っていけてたんだけど、
今のような時代になってこれからさらに進んでいくと、そんな風にはならなくなる。
でも結局環境がいけないの?それともメンタルがいけないの?っていうのは残るわけですね。
で、あくまでもメンタルなんだっていう、相当そっちの方に寄ってるのがメラニー・クラインさん、女性なんですよね。
面白いですよね、ある意味では。戦前からだと。特に戦後間もなくからだと思うんですけどね。
で、いやいや、環境大事なんだよ、環境みたいなことを。
ドナルド・ウィニクスとかね、ああいう一見優しげな、実はそうでもないような気がする男の人が言い出すわけですね。
だから、お母さんがいないと。で、赤ちゃんもそれは傷つくわけですね。
このお母さんがいないっていうのはもちろんメタファーなんだけど、でも具体的なメタファーなわけですよ。
お母さんがいない。お母さんがいないというのは赤ちゃんからすると、いないということがもう許せない。
だからお母さんが、うちだったら受付とかって言うんですけど、うち家と受付がくっついてるんでね、扉一枚隔ててただけなんで、実家ですよ、寺だったんで。
で、お母さんがピンポンって言っちゃいましたと。お母さんがいないって言って怒ると。
この場合、お母さんがいけないのか、それともそういうことで一生懸命言い募る私がいけないのかっていう、そういう話を始めちゃうと、結局どっちが科科問題みたいになっていくわけですよね。
それぐらいこの問題って微妙なんですよ。心を通じて見ているものであることに違いはありませんから。
環境因子なのか、だからそれは客観的にわかるでしょうっていう、この場合は客観的にわかります。
別にうちの母が悪いわけじゃん。でも客観的にわからないケースが出てくると思うんですよ。
しかも、ていうか出てくるわけですよ。しかもそれがカウンセラーの立場からすると、その時お母さんは本当はどうしていたのかの確証は取れないわけですよね。
だから環境因だとトラウマになるし、心的現実っていうことをとことん言っていくと、メンタルの問題ってことになっていくし、心の弱さ的な話になっていくし。
だからどっちかというとトラウマが原因ですっていうのか、それとも欲打つが原因です。
言っていることは変わらないと思うんですけどしばしば。ほとんど全く同じ事態について同じことを言っていると思うんですが。
これは直面化って言ったりしますけど、いやいやそれはハラスメントということじゃないですからと言っても、
仮にそんな風には納得される人いないと思うんだけど、そうですね私が言えなかったんですって言っても問題解決しないわけですよ。
だからやっぱりそれをどっちかにするっていうことに意味ないっていうのはもう間違いなく意味はないはずなので、
だから私たちはみんな、私たちっていうかこれはもう相互に全ての人がってことになると思うんですけど、
ここで苦労しなきゃならないよなと。だからここに苦労の種はあるよねと。
解決の仕方は一応いろんな人が検討して提出してくれているんでしょうけれども、苦労の種はあるよねと。
苦労の種って結局のところ、物の見方によるにせよ環境は失敗しますから。
だって環境に人間が行ってるんだから失敗するに決まってるわけですよ。
お母さんは受付に行ったんならいいけど、男の人のところに行ったんならダメですよね。
でも赤ちゃんはその2つを区別できないから、どっちにしても環境は失敗することになるわけです。
期待と現実のズレ
環境が絶対であるってことは期待できないじゃないですか。でも期待しちゃう。
その環境が絶対的にいい環境であってほしいという期待は赤ちゃんがするんだからそれはもう理にかなってはいるけど、
でもそれを期待するというのはナルシシズムですよねっていうような話になってたときに、
ムエラにクレーンに寄せるとナルシシズムはすべからく病理だから、それは病気ですよね。
克服しましょうねっていうか、ちゃんとしましょうねっていうことになるわけでそうし、
そういうものは人間は一生持ってるんだと。ある種の万能感ですよね。
万全であってほしいということ。究極的には母親はいないってことになるんですけど、
これは違和感があるかもしれませんが、ミニコットの説明によると、
お母さんがおっぱいをちょうどいいタイミングにくれるってことじゃないんで、そんなことすら赤ちゃんにはわかんないから、
俺おっぱい作り出したからろうになっちゃうんで。でもこれはおかしくないんですよ。
これを聞くとみんな赤ちゃんアホだなって思うだけなんだけれども、
我々はですね、アマゾンでポチしたら思った通りの品物が来るっていう世界を築こうとしてるんですよ。
万能的に生きようとしてるはずなんですよ。だからアマゾン遅いとかって平気で言うじゃないですか。
昔から見ると海外のものが1週間以内に届くとかめちゃくちゃ早いんだけど、
だから昔は船便で1ヶ月後とか3ヶ月後とか言っていて、
それすら物流は超完璧に頑張ってるみたいな話だった時代があったわけじゃないですか。
明治とか廃止とかそういう時代までいけば。
今1週間とかでも途中で香港のあたりでちょっとトラブルがあって3日遅ればふざけんなみたいになるじゃないですか。
しかもそんなことがスマホを通じてわかる状態になってても腹を立てるじゃないですか。
我々の万能感は大きくなっていると思うんですよね。
いずれは落ちたらもう1時間後には届くみたいな。
それが1時間5分になったらふざけんなみたいな感じになるわけですよ。
なると僕は思うんですよね。ドローンとか駆使すればそういうことは可能になってくるから。
先日別になんてことはないですけど、家でシャンプーの詰め替えみたいなのを奥さんが落ちして、
なんかもうお急ぎ便、翌日の朝5時に届くみたいな。
怖いなって感じがするんだけど、
この事態を我々は拡大してきているわけだから、
つまり赤ちゃんのこととよく似てるじゃないですか。
こういう物流とか詳しかったり、色々物の分かった人からすると、
Amazonの人が頑張ってるよねみたいになるかもしれないけど、
あるいは宅配の人が頑張ってるよねってなるかもしれないけど、
生まれつきずっとこれでやってきた人からするとですね、
そしてそんなことについて別にそんなに難しく考えることはなかった人からすると、
なんかポチしてなんで2秒後に届かないんだみたいな感じになるかもしれないじゃないですか。
これって要するに、もう口を開けたらおっぱいがそこに入ってきますみたいな。
で、ミルクは絶対もうたっぷり出てきますみたいな。
そういう、いやなんならミルクって俺が作ってるもんだらしいみたいな。
こういうことになってるわけですよ。
これがナルシシズムというものであって、
ナルシシズムなのかわかんないですけど、
とにかく環境というものがパーフェクトマザーである時代なわけですよね。
絶対的依存とかっていう。
エリック・エリクソンも似たようなこと書いてありましたよね。
第一期、第一フェーズみたいな。
で、ここから先は推定で物をしゃべればいいんですけど、
精神分析科って人は必ずこの役目を、
このウィニコット的な解釈からすればですけど、
この役目を終わされるわけですよ。
先生何でもわかってますよね、みたいなノリに。
あの人が言ってましたよね、ウィニコット自身が。
私が黙ってしまうと、
患者は私が全てわかってると思うだろう。
つまりこれが万能空想ってことですよね。
もう万全なんですよ。
赤ちゃん、お母さん何でもわかってるわけですよ。
何でもわかっていて、
言うべきことは全部言ってくれるわけですよ。
傷つきそうになることも言うかもしれないけど、
それは自分のためになることであって、
しかも極力傷つかないように言ってくれる。
つまり万能なわけです。
で、だからウィニコットは黙ってちゃダメだってことを言うわ。
何か言えと。
で、それは当然言えばボロが出るじゃないですか。
人間だから。
言ってしまって、
え、何そんなこと言うわけ?みたいなことが出てくるわけですよ。
傷つくわけですよ。
それは何このミルクが出るはずのところに水が出てくるわけみたいな。
あのポチしたのに1週間後に届きますとか、
そんなんでいいと思ってんの?みたいなそういうことが起こるわ。
その時に、もちろんアマゾンがボロを出すかもしれない。
箱がちょっと曲がってましたとか、
ガムテープちゃんと止まってなかったですよ、みたいなそういうことが起こる。
これをどう捉えるか?
これは環境のミスなのか?
いや、別にちゃんと止まってないけど、
中身は傷ついてるわけじゃないからいいじゃん、みたいな。
そういう持ち答え、持ち答えてるわけですよ、これは。
持ち答えができるかできないか。
どっちなのか、それは分かんない。
判定できないですよね。
2社しかそこにいないから。
ここに第3社がいちゃダメなんですよ。
2社しかいないからこそ判定できない。
判定できないこの状態を持ち答えられるように、
我々は育てられているはずであり、
そういう機能が育ってないならば、
そこを何とかしないと、ここで痛い目を見るかもしれない。
でも、これってメンタルの問題に至ってますよね。
そうじゃないんじゃないのか。
環境が失敗したんじゃないのか。
アマゾンがいけないんじゃないのっていうこと。
精神分析がいけないんだよねっていう。
だって解釈を間違うからいけないんじゃんっていう。
解釈を間違わないように訓練したのが精神分析かなはずでしょう、
っていうことになるわけですよね、きっとね。
だからユニコットは失敗しろって言ってるわけですよね。
すげえ頑張ってきっとここでいいはずだっていう解釈をして、
ものの見事に外したり、一歩間違うとトラウマを得るってことが起こる。
ということはつまり精神分析家は対象としての母親じゃなくて、
環境としての母親としての側面があって。
さっき聞いてて面白いなと思ってたんですけど、
ユニコットっていう人は環境として結構子供に対して振る舞うんですよね。
だからぬいぐるみとか傷つけたりすると、
傷つけた時に僕はどれだって解釈じゃんって風に思わなくはないんだけど、
例えばぬいぐるみをバシバシパンチとかするということをした時、
いくらいいんだったら攻撃性って、
あなたは私を攻撃したいんでしょうとか、お母さんをやっつけたいんでしょうとか言い出すわけじゃないですか。
知らんけど言い出す。
それに近い、これは解釈ですよね。
だいたい僕は子供の頃から見ていて気に食わなかったんですけど、
ここでそういうことをしたったらぬいぐるみさんかわいそうでしょっていうのもあるじゃないですか。
これが僕はあんなフロイト側だと思うんですよ。
養育的っていう。
これは僕好きじゃないから、
多分これが好きじゃないという私のパーソナリティの弱さみたいな部分があって、
環境と依存の関係
きっとこれを求めている人もいらっしゃるわけだから、
私はタスクカフェであれ、ワンオンであれ、きっとこの部分物足りなかったろうなって、
最近つくびこ思うんですよ。
でも美容によってはぬいぐるみさんかわいそうは解釈じゃないですか。
だってぬいぐるみは別に痛くも痒くもないもんだから、
そこに解釈的なものが入ってるなって、
これは全然違う話を始めちゃってるんだけど、
これは養育的だっていうのが正しいでしょうけど、
で、美濃子とどうするかって、痛い痛いとかって言ったらしいんですよ。
僕それも解釈だと思うんだけど、
なるほど一緒に遊んでいるって言われればそうだなと。
で、もうパーソナリティ出ちゃいますよね、これは本当に。
痛い痛いだってある意味かわいそうって言ってるのとそう違わないと思うわけですよ。
でもかわいそうっていうのは確かに教育的。
あなたの攻撃性が出ましたねっていうのは解釈的。
で、痛い痛いっていうのは一緒に遊ぶっていう感じ。
だからプレイセラピーとかって言ったのはクラインなんですけど、
ウィニコットがやってることこそプレイセラピー感あるなって感じがするわけなんですけどね。
で、なんでプレイセラピーを、ウィニコットがやってるプレイセラピーがやっぱり私が一番、
私がそれができるかって話は別として、
でも実際にカウンセリングでやるってなったらですね、
相手が大人であるっていうことを加味して考えてみると、
子供の場合もあるんだと思うんですけど、
相手が大人であるということを踏まえて考えてみると、
全部ウィニコットがやってるようなもんなんじゃないだろうかと、
僕はやっぱりそこはそういうふうには感じるってのはあります。
たとえそれがかわいそうでしょって言うんだって、ある意味ごっこ遊びだし、
あなたの攻撃性があって結局はある種の遊びなんじゃないだろうかって感じが、
それだったら痛い痛いって言ってあげるっていうのが、
ある意味一番妥当な感じが、演技ですけどね、
しなくはないなという感じがして、
そう考えてみると、会社に行っての上司とのやり取りとか、
家庭における奥さんとのやり取りとか、
全部これだよな、感じもしなくもなくてですね。
これをやって何をやってるかというと、ままごとですけれども、
つまりこれをやることで、絶対的依存とそこからの自立のギャップを、
痛みの成長作用
なんとなくソフトランディングさせようとしてるっていうか、
それがやっぱり狙いだよねって感じ。
失敗するわけですよね。
痛い痛いとか言っても嫌がるかもしれないじゃないですか。
そこは痛いっていうところじゃないしみたいな、
あなた分かってないっていうか、おじさん分かってないねみたいな、
そういうことって子供って言い出すこともあるわけじゃないですか。
おじさんの役それじゃないからみたいな。
これはつまり傷ついてるわけですよね、微妙に。
この微妙な傷つきが必要だって言ってるわけですよ。
これがないと赤ちゃんは一生錯覚したまま、
自分の非常に幼稚な万能感の世界の中から出られなくなって、
もし出たときにはもう多大な傷つきを得ることになりかねないわけですよ。
ギャップがデカすぎて。
だから、いや、俺もう万能だし、ポチすれば何でも届くわけだし、
どんどんポチするしみたいな。
いや、それは実はお金には限りがありますみたいな。
めちゃくちゃゾッとするじゃないですか。
ゼロ円だったら途端にあなたはAmazon工場で働くことになりますしね。
そういう世界観、なんかそういうSFみたいなのあったんでね。
なっていたらめちゃくちゃ恐ろしいわけですよ、これ。
いきなり現実に直面しちゃいかんわけですよね。
だから、例えばおもちゃの銀行券みたいなものを使って、
このお金まではいくら使ってもいいからねみたいな遊びがここに入ってこないとまずいわけですよね。
致命的なことにはならないということですよ。
だから攻撃をしてもいいことが痛いと言って、
ぬいぐるみがやられても致命的なことにはならないですよね、多くの場合。
おそらく。
よっぽどやばいぬいぐるみの扱いをしてなければ、
その子の心にとって致命的なことは起きないですよね。
そういう要素にして、ぬいぐるみさんかわいそうでしょの部分も包摂できる感じがあるし、
あなたの攻撃性だねっていうのも包摂できる感じがするので、
私はこれがいいんじゃないかなと思うんですよ。
そしてここには勘違いっていうのが入りますから。
勘違いするっていうか、もううっかりミスですよね。
うっかりミスが激しいミスになって、
強烈になっていうのは良くないのかもしれないけど、
でもある程度強烈じゃないとやっぱりそこから出られなくなるっていう問題。
視点の変化の重要性
つまり環境によって傷つくんだけど、
環境による傷つきというものと、
言ってみれば心的原理における傷つきっていうものがこうしていて、
ナルシズムの傷つきでもいいんですけど、連動していて、
この連動がやっぱりなされなければならない。
この連動が起きるのが遊びなのと。
中間領域とかいったりするわけですけど、
中間領域が機能するように、
それを意図することができないから、設計できないから、デザインできないから、
事前には。そこが本当にあれなんですけど。
だからそのデザインが精神分析という構造化された空間ですよってことになってんだけど、
でもそれを用意するのがそもそも大変だろって話もあるわけですよね。
お金かかりすぎますよねっていう。
だって週5回も特定の場所に来てもらうってことになったら、
そこの場所代とかどうするんだっていう。
しかもそこは密室で一方が違うと男女2人っきりになるっていう空間を
作り上げることになるわけですよね。
もういろんな意味でコストがあるわけですよ。
精神分析的空間を本当に失られるとなってくると。
そういうコストを払って頑張っていらっしゃる方が大勢いらっしゃるわけですけど、
大勢をどう捉えるかですけどね。
で、私はその、この種のミスってのはだからつまり絶対に起きるわけで、
それこそだってみんなご存知の通り家庭内で起きてるわけじゃないですか。
絶対ミスるじゃないですか。
何を言ってもダメで、言わないのもダメっていうシーンって
普通に出てくるじゃないですか。
お互いが遠くに、それこそなんかもう出張で
お父さんは家にずっといませんみたいなのもない限り、
それはありますよね、生活していれば。
で、インテンシブに濃密に接触するってことは、
回を重ねればそうなっていきますから、
例えば週に1回でオンラインだとしてもなっていきますもん、絶対に。
1年、2年とやっていけば回数が増えていくわけで、
話していることもお互い知っていることがすごい増えてきて、
だからここで私がこう環境としてあり続けるためには
対象化してはまずいっていうのはそういうことなんです。
対象化そのものがトラウマになりかねないということは現実にあるんですよね。
例えば私がそんなに有名でもないと思っていたのに、
実はピボットとかで超有名じゃないですかみたいな、
そういうことに非常に腹が立つっていうことは起こり得ることですよね。
それは来てずしてなるし、当然誤解もいっぱいあるわけですけれども、
でも心的現実なんですよ、ここが。
だから環境との姿勢の失敗なのか、心的現実なのかってのはやっぱり
どこまでもグラデーションだし、グレーゾーンだし、
中間領域的な話にならざるを得ないというか、
そんなことを扱いようとか、出来ようとか、デザインしようとか、
設計しようとか考えなくても、自然確実にどうしたって
そういうふうになっていってしまうっていうことが
ウェニコットの言うことなんだなと。
当然だから第二世代、第三世代って話ありましたけども、
ここを何としても寄り合わせていかなければならないので、
環境院なのか森林なのかっていう議論ずっとしてたって
だいたい思うじゃないですか。
現実にはどっちだっていうことを言ったからって言って、
どっちも受け入れがたいシーンはいくらでもありますから。
誰だってそれはですね、会社に行って自分が傷ついたら
それは環境院だって言いたくなるわけですよ。
だから裁判みたいなものすらあるわけですけど、
第三者が決めるってことですよね。
そこに第三者が決められればなんですけれども、
でもあれだって結局どういう結論になろうと納得はしないじゃない。
はっきり言え。
いやそれはハラスメントとは認められませんってなったら、
いや日本の司法本当遅れてるってなるじゃないですか。
普通にどこまで行って客観的な判定などというものを
僕らが受け入れられるはずはないと思うんですよ。
僕は。
どこまで行っても自分が大事だとね、
そういう言い方をするのも胃も蓋もないかもしれませんけれども、
それはそうだと思うんですよ。
持ちこたえるっていうのはある意味そういう意味でもあるだろうなと。
どこまで行っても自分は大事なんだけど、
だから視点を変えるってやつですよ。
そしてビオンがそれを頂点を変えるとか言い出すわけですよね。
ああいうことになるのも結局、
心のモデルっていうものを間違って言おうと怪しかろうと、
フロイトが気持ち悪かろうとです。
何かに例えるしかない。
じゃないと心は本当に不可視だから全く見えません。
以上ってことになるわけですよね。
それを透き詰めて言ったのが、
ワトソンとかスキナーの世界じゃないですか。
あそこ行くしかないと思うんですよね。
心というものは全く不可視なんだ。
イメージは全部間違ってるんだってことを言ったら、
もう未来思考行くしかないと思うんですよ。
部屋が片付けられませんって言った時に、
あなたの好愛的なとか好心的なとか、
いやいやいやそんなナンセンスでしょってなるわけですが、
それはそれでいいんですが、
そしたら部屋が片付かないとか、
上司にパラスメントがあってた時に、
でもお母さんの視点を取ると受付に行くのしょうがなくないって、
視点の交換みたいなこと言うじゃないですか。
これってすでにモデルを言ってしまってますよね。
部屋が片付けられないとか、
会社に行く気がしないといった時に、
それは上司が悪いっていうことだけでいいじゃんってことになるかもしれないけれども、
上司が悪いかどうかが究極的に分かれたらいいのか、
視点の交換みたいなのが出てくるじゃないですか。
視点変えたくないんですってなった時に、
視点というものを変えたくない理由、
あるいは変えられない理由みたいなものを考えた時に、
じゃあ視点変える訓練しますかってことになったら、
あれじゃないですか。
つまり心のモデルを一切持たないということで、
ここで必要とされていることを、
そこで具体的に行動として賄わなければならないみたいな話になっていくわけですよ。
なっていくと思うんですよね。
部屋が片付けられませんって言った時に、
私はどうしても、
じゃあお母さんとの関係を疑いましょうって言ってるわけではなくて、
私はここ非正規なんで、
フロイトの視点
じゃあフロイトの話をしましょうみたいになってるわけですよ。
それは何になるんですか。
よく言われて何回か言われたんですけど、
その通りなんですが、
そんな話は佐々木さんが知っときゃいい話でしょと。
そうなんですよ。
でもこの話を一緒にしていくと何が起きるかというと、
例えば昔私の家を片付けようとした時に、
なんか知らないおばさんが常に一緒にいたんだけど、
あれ誰だったんだろうみたいなことが起きるんですよ。
面白いぐらい。
そのことはその人はその時まで忘れていて、
しかも思い出したとしてもあのおばさんは誰だったんだろう。
隣籍のおばさんだったんだろうか。
それともヤクルトを持ってきてくれるおばさんだったのか。
不気味じゃないですか。考えてみると。
なぜ知らない人がそこにいるんだってことですよね。
他の人は知ってるのかもしれないけど。
あの時私何歳だったんだろうみたいなそういうことをおっしゃるわけですよ。
私はそうなった時に、
それをだからつまり、
部屋を片付けられればいいんだって話をするんであれば、
そんなことについて考えるのは時間が無駄なんですよね。
いやいやそういうことを考えずに、
ここにあるものがこれはなんだっていうのをGTTみたいにね、
これはなんだってすべてリストアップしてって話をやれば、
いいんならそうした方が絶対早いですよ。
部屋を片付けばいいんだ。
外してそれによって部屋は全然傾く方向に
行動されないということが起こるんで。
二度に一度以上起こるんで。
私はだから行動変えるっていうのを最初に試すのはありだと思うんですけど、
そういうわけにいかないのはですね、
やっぱり私たちは自立って問題を抱えてるからだろうと思うんですよね。
結局は自分で片付けたくないとか、
自分では片付けられないとか、
自分で片付けたら片付けにならないとか、
自分で片付けたら片付けにならないとか、
自分で片付けたら片付けにならないとか、
それって結局、例えばですけど、
家庭と家庭の文化の違いみたいなのがあるわけじゃないですか。
うちでは鍋は拭いてからしまったよ、みたいなのとか、
いや食洗機に突っ込んどけばいいじゃんって、
食べるたびにうちではそうしてたし、みたいな。
これはつまり、家から別の家に行った時にどっちが正しいんだ問題、
っていうことはつまり自立の問題を言ってるわけじゃないですか。
言うならば、私のお母さんの方が正しいとか、
思いたいということもあるかもしれないし、
いやもう私のお母さんのやり方は全面的にやめにしたいと。
これらは全てある程度自立ってことを言ってますよね。
つまり家庭文化で自立ってことを言ってますよね。
そしてそれってやっぱり環境じゃないですか。
環境に傷ついたのかどうなのか、
環境に傷つくんですけどみんなそれぞれそれなりに。
っていうことを問題にしちゃっているし、
しちゃっているわけですよね。
とりあえずどんなに自分が環境に傷つけられたとしても、
だって心なんて見えないんだから、
たぶん実態として存在もしないんだから、
メタフォーは一切嫌ですと。
家庭文化と自立
そういう拘りとか拷問機とか嫌ですと。
そして視点を変えるっていう視点というそういうのも嫌ですと。
変えられませんと。どう変えればいいんだかわかりません。
という話になって、
かつ環境組織の母親みたいな話も鬱陶しいし、
めんどくさいということになって、
とにかく片付けばいいんだってことになったときに、
自分の心の傷もその他全てを売っちゃって、
棚あげにして、いやそもそもそんなものはないものとして、
さあ片付けようってなったときに、
体が動かないみたいな話が始まったとき、
どうすんだってことですよね。
片付ければドーナツあげますみたいな。
そういうことによって動かないっていう人は動かないじゃないですか。
実際そういうことはできないですしね。
できるかというとできないものなんだ。
今日片付けなかったら電気ショック与えるかなと。
そんなことできないじゃないですか。
昔アメリカにあったんですけどね。ゼロトゥーランスとかその他諸々のが。
でも多分うまくいったわけじゃないから、
その名残みたいなものははっきり言って、
外国人であった私には、
自動心理学とかで幼稚園とかに行くわけですよ。
みんなドーナツとかをもらうために、
折り紙をしょきしょきと切るわけですよね。
あれはまさに行動主義なんだけど、
多分僕はあれに多くの留学生が、
アジア系が特に、なぜかアジア系が違和感を抱いてたんですよ。
違和感なんですけど、ダメだというわけにはいかないんでね。
奥できちんと行われていて、
そういう幼稚園って大体母国の幼稚園よりちゃんとしてたり、
日本の幼稚園よりちゃんとしてるなって感じがあった。
ここでどうなったかみたいな感じってある。
あとゼロトゥルランズみたいなのも名残があって、
タイムアウトとか行って、
教室の端っこの席に座って、
みんながドーナツ食べてるんだけど、それを見てないの。
あれも結構すごいんだって思う。
罰じゃないって言うんですよね。
ハニッシュメントではないみたいなね。
私そういうことものすごいコンコンと徹底的に、
僕がいるときに変に議論抜きなんですよね。
出来もしない英語で、
これちょっとライトパニッシュメントじゃないみたいな口走ってめっちゃ怒られるんですよ。
その場にいる女性の、
日本でいう保育士さんなんですけど、
ちょっと違うんですけどね。
ノーノーみたいな感じで、
これはパニッシュメントじゃないのよ。
そういうふうに見えるんだよね。
そういう感じ。
殴ってるわけじゃないしみたいな。
そんな話になるのかっていう感じなんだけど。
一方が違うとでも、
日本人から来たから、
これはいい異文化論争になるわねみたいなことを言って、
そしたら僕より先生年上みたいな、
大学でもアメリカにいますから、
眼鏡かけたおっかなそうなんですよ。
女性がやってきて枠仕立てると。
もちろん一言も意味がわからないと。
いうことが起こるわけですよね。
余談ですけどね。
でもこれは何を言わんとしているかというと、
心のモデルを捨てるということはどういうことになるのかっていう話なんですよ。
なんか僕ら心のモデル持ってるわけじゃないですか。
三角形を描けるということは心的空間があるんだみたいに。
だって三角形っていうのは点が3つあるから、
空間が必要じゃないですか。
平面でもいいかもしれないけど、
多くの場合立体になってくるから、やっぱり空間がいりますよね。
そしたら心に空間を持ってるってことになっちゃうじゃないですか。
三角形を描けるってことになったら。
で、ビオンはそこを徹底的に、幾何学的に言ったわけですよね。
だから頂点とか言い出すわけですよね。
グリッドとかもそうだけど、
やっぱりあの人はなるべくそこを心のモデルとして、
PSDっていうふうに矢印にして、
記号化して、幾何学にして、
たとえ男女っていうのとしても、
丸に矢印つけたような男っていう感じにして、
コンテナみたいな。
それも全てを立体空間みたいにしたわけですよ。
ここまでやってもやっぱり幾何学なんですよ。
幾何学すなわち目に見える。
目に見えるってことは風景がメタファーになってるってことじゃないですか。
そういうことになってくると、
やっぱりドーナツで片付けるしかなくなると思うんですよね。
そこに至るその人の背景的現状は、
一切考慮しませんという。
だってそういうことになりますよね。
それを考慮するってことになったら、心の中に何かがある。
何かものが、ものはないか。
記憶みたいなものとか、象徴みたいなものとか。
だから片付かないとか、トラウマであるとか、
そういった話が出てきちゃうわけじゃないですか。
出したくないということをとことん言うんであるとすると、
やっぱり未来思考を一遍倒にするしか、
心の中っていうものを想定しないっていうことが必要になると思うんですよ。
だからモデルっていうものを反対側は意識して、
モデルってのは結局歴史が必要なので、
歴史ってことになると、
両親ってものが出てきてしまって、
両親との関係みたいなものが出てきてしまって、
そうすると、べったりだった時代みたいなものが出てきてしまって、
っていうことにだんだんなっていって、
で、分かんないんですよね、結局ね。
トラウマと環境の影響
分かんないんですよ。何が起きたかは分かんないんです。
分かんないけれども、この詩の話をしていると、
聞いてる方は分からなくても、
喋ってる方は何かを思い出すことが突然あって、
この突然あるっていうのが、
そもそも何で突然なのかっていうことがあるわけだけれども、
突然あるっていうことがものすごく大事なんだなということを、
やっぱり最近思い知るんですね。
突然これが始まる。
なんか前触れはあったのかもしれないが、
前触れには事前に気づくことはできない。
これ結局突然何かが起こって初めて、
あ、何か起きたって思うわけ。
その時に、そういえば伏線らしきものがあったかもしれないと、
後から気づくしかないんですよね。
それの突然起きることが、
トラウマってものなんだろうなっていう感じがするわけですよ。
そうするとやっぱり環境、
トラウマはやっぱり環境ですよね。
環境の失敗ですよね。
そこを意識していかないわけにはいかなくなって、
っていうことなんですよね。
仮にそれが夢だったとしても、あんまりそういうことはないと思うんだけど、
そのトラウマという環境が、
でも夢だったとしても、
悪夢を見たってことだったとしても、
同じような意味になってくるんではなかろうかと。
極端な場合はもちろん、
それも非常に難しいんですけど本当のところ、
医療ってことになるのかもしれないですけど、
まずそもそも医療という文脈っていうのが
ここにあるんだっていう意識を持たない限り、
お医者に行くって発想にならないですか。
世の中に床屋さんがあるって思わなければ、
髪いくら伸びても髪切りに行ってもらおうって思わないじゃないですか。
自分で切ろうとするかもしれないけれども。
多分僕らはですね、
ある意味ではそこのところにいるような気がするんですよ。
だってだんだんだんだん、
歯医者さんに行って本当に思うんですけど、
痛み全然ない治療とか、さっき言いましたけど、
まずポチすれば数時間以内にどこからでも物が届くみたいな話とか、
全て僕らは万能感の拡大に向かっているっていうのは、
ある意味自明だと思うんですよね。
いくらそれに歯止めをかけようという危険だよこれはっていう話をしても、
ある意味無駄だと思うんですよね。
ずっと仮想空間にいる人も今後出てくるでしょうし、
環境と心理の関係
ずっとYouTube見てる人も今後いくらでも出てくるでしょうし、
つまり現実というものが、
愛犬にはどっちこっち現実あると思うんですけど、
どんどんどんどんマトリックス化していくのは、
マトリックスは子宮っていう意味ですが、
しょうがないという感じがするんですよ。
どれでも現実原則っていうものが大事だっていうならば、
やっぱりよくお互いに、
それこそ何かの兵庫みたいですけど、
声の掛け合いみたいな、
それが今後カウンセリングっていうものになっていくんじゃないんだろうかなと、
最近もその、
レンズで恐縮ですけど、
ポストの本を読んでて、
児童系の話が多いんですけど、
児童系の話っていうのは本当に面白いなと思うんですよね。
子供は容赦がないので、
全然歩み寄ってくれる感じがないんで、
なんかここに来ても暇とかってしか言わないし、
でもあれは本当に実感に近いなっていう感じがするんですよ。
私がやってる仕事では全くないんですけど、
このお子さんだけは、未成年の方だけはダメってことにしてありますから。
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