1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 笑われなくなるまで練習するナ..
2025-03-05 49:59

笑われなくなるまで練習するナルシシズム【1149】

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サマリー

このエピソードでは、ナルシシズムや自己愛についての精神分析的な視点が取り上げられ、長自画の定義や臨床における実用性が議論されます。また、山崎孝明との対談イベントについても触れられ、興味深いお話が期待されています。ナルシシズムの概念が探求され、他者の評価と自己評価がどのように交わるのかが語られます。特に、日本人の自意識や親の影響が自己愛にどのように結びついているかが考察されます。ナルシシズムが自己の攻撃性を否認し、友人との関係にどのように影響を与えるのかが考察されます。幼少期の親との関係や感情の抑圧が、その後の人間関係や自己認識に与える影響が語られます。ナルシシズムにおける他者との関係は、自己のコントロール欲求と他者の感情の無視から生じます。このエピソードでは、特に親子関係における自己愛の影響と、その結果引き起こされる感情の否認について考察されます。

専門家との対談イベント
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1149回をお送りします。
3月5日水曜日7時40分です。
あー、ちょっとトイレに行って、ちょっと分だけ遅れましたね。
3月15日土曜日の18時から渋谷で山崎孝明さんと私と新井さんという方の3人でカナエ談をします。
こちらは、山崎孝明さんは精神分析のある人だという本を書いて、臨床心理学の少し話題になったオレンジ色にガラッと表紙のイメージも刷新されたの
編集者さんかな?雑誌編集者さんを
遠畑海斗さんとですね、お二人でやられたと。
私、あのちょっとビッグネーム続きですごいなと思ったのが、山崎孝明さんが信田沙耶子さんと、あと遠畑海斗さんと相次いで
カナエ談をされたり、トークされたりを言論カフェでされたんですね。
これはちょっとなんか最近活発で素晴らしいと思った次第ですね。信田沙耶子さんといえばもうね、
遠畑海斗さんも最近すごいですけど、信田沙耶子さんといえばもう割とスーパースターじゃないですか。
アダルトチルドレンとかね、非常に有名な概念を打ち出した日本の臨床ではもう本当に
早々期のかわいはやおさんの時代にすごくやっぱり名を馳せていらっしゃった。
あの頃、臨床心理師という肩書きじゃなかったと思うんですけど、精神科医だったと思うんですけど、
かやまりかさんという方もね、すごいテレビとかにも出られて、ああいう感じの予備との
対談されていて、世代がね大きく変わって、親子ぐらい違うと思うんですよね、山崎さんとはね。
ちょうど。だから非常にこう、思うところはありましたが、私はそのね、そんなスーパー先生は先生と対談をするっていう、
てか私、やっぱり信田沙耶子さんとの接点がなさすぎるので、アダルトチルドレンとか、
過不調性みたいなのは、話の文脈上、このポッドキャストでも時々ジェンダーにこの辺はかかっていくよねっていうことは言うけど、
実際私のこの精神分析でも精神力堂でも全然ジェンダー論は出てこないですよね。
だから信田さんのお話をするっていうよりは、やっぱり山崎孝明さんと何かお話をするっていう感じなんですよね。
私のこの感じで動いてるんで、僕は。特にこうこうこうこうだからこうするみたいなのは何にもなくて、直感的に山崎さんに
ご連絡した時ももう後ろの方にメールワードあったような気がするから、直感的に連絡を取るという、本当にそんだけで、なんで私に連絡取ったのって言われたんですけど、
いやあの、精神分析のある生き方という本は面白かったし、タイトルも素晴らしいと思ったからです、みたいな、そういう小学生みたいなある意味。
その時に面白いお話があって、「いや、遠畑さんと間違ったんじゃないの?」みたいなことを言われたんですけど、遠畑さんと間違わないわなぁ、みたいな。
私はいるのはつらいよは超愛読で、何度も読んでいるんですよ、デイケアの話で、あれほど臨床心理師の目線を通したデイケアの話が、あんなに内側から書かれている本って、
あるのかもしれませんけど、僕はちょっとね、他になかなかない本じゃないかなと思っていて、ものすごく僕の興味にピンポイントだったということもあったんですよね。
そういう感じのところで、うちの奥さんも働いていた時代があったんで、そういう話は結構聞いてたわけですよね。
実は行ったこともあるみたいな、僕はアメリカでそもそもデイケアみたいなところも、授業の一環ですけど、連れて行ってもらったこともあるんで、そういうこともありまして、やっぱり興味はあったんですよね、ああいう現場に。
ただ私はやっぱり目線が臨床心理目線なんで、本当に福祉師としてやるぞみたいな感じの人間とは違うんで、ああいうところで臨床、いないわけじゃないですか、通常は臨床心理師はいるところもあるでしょうけど。
だから臨床心理師がそこの中に入ってって、実情福祉師みたいな働き方をしたけれども、でもやっぱりその人は臨床心理師で、その人の目線を通すとこう見えますみたいな話を、しかも面白く書いてくれるという、だからあれはもう愛読書だったんで、その遠肌さんと山崎さんをこの名字からしても間違うはずはないんですけど、まあまあその外から見ればそんなもんかもしれないなと思います。
まあそういうわけで私は別に間違っているわけじゃなくて、狙ったところに行ってはいるんですよ。感覚的に行く人間、人間というか感覚的に行ってるんで、そんなにそんなに間違わないですよね。戦略的に行ってるわけじゃないですから。
えーと、まあそんな感じで山崎さんと対談させてもらうことになったので、そちらぜひできれば現場にですね、現場あと2枠なんですけど、来ていただいてお話を聞いていただくと、まあ僕は面白いだろうと、とにかく面白いということがはっきり言って全てです。役に立つとかためになるとかあると思うんですけど、面白いということしか僕は今念頭においてないんでね。
自己愛と長自画の探求
そして面白くしようという気は満々なんで、今まで過去2回目山崎さんとのそういうイベントは十分面白くできなかったというちょっとしたこう残念感を残してるんですよ。だからここはちょっと面白くしようと。別にあの、あれですけどね、お笑い目指してるわけじゃないんで、あの話を聞いてて面白いと、みんなに思ってもらえるように持っていきたいとは思ってます。
で、えーと最近ですね、立て続けに長寿がとか自己愛とか、まあどっかで聞いたような精神分析用語、これ心理学用語とは僕は思えないんですよね。でも心理学にも出てくるから心理学用語と言っても嘘にはなりませんが、この種の言葉っていうのは本当にまあ僕は定義もちゃんとさせないで、てか定義なんてできないんですよ。
なぜなら、はっきり言って学科によってこの定義は結構揺れてるし、人によっても微妙に違わないかその言い方はっていうのもいっぱいあるんで、割と有名な先生だとしてもですよ。
で、すべての長寿がの定義を並べ立ててみると、絶対に辞典の中ですら矛盾が生じている。これがやっぱり人文知であるというだけでなく、精神分析は特にそういうところが強い、哲学に近いという感じがありますね。
ただ臨床でそれが使えるかどうかが大きなポイントになってくるんで、定義が正しいかどうかを最優先事項じゃないんですよね。
やっぱり長寿がっていうのが例えば、カウンセリングの最中をよぎったとしても、長寿がについて真剣にウェリコットの定義ではどうだったっけ、フロイトだったらどうだったっけ、クラインだったらどうだったっけって考えながら話聞いてはいられないんだと思うんですよね。
そうすると話を十分継承できないじゃないですか、それこそ。継承している以上はそんなことやってられないから、やっぱり臨床でパッと使えるっていうのは、本当にその辺はレアリティだって書いているのが松木国弘さんなんですけど、
松木さんがそのやっぱり大量の投影ドイツかっていうよりは定義って言ってしまった方がスパッと使えるから、そっちの方が臨床では向いてるでしょうみたいなことをどっかで書いてたと思うんですけどね。そういう観点がやっぱり大事だと思うんですよね。
言葉の数だって少ない方がいいし、この概念が包括的である方が望ましいといえば望ましいし、やっぱり長自画といえば自我理想もあってうんぬんってやってる余裕はないんだと思うんですよ。
で、学術をやるためのものではそもそもにしてないから、だから私は好きなんだなって思うんですけどね。
で、でもまぁちょっとここで自己愛と長自画を軽く、なぜならばちょっとこれはやっぱ混乱を招くなって思ったからな。今日はこの話じゃない方向に行きたいんで、頑張らないと余裕をなくしてまたいつも通りメインの話をする前に終わっちゃうんですが。
まず、自己愛というのは長自画と私の漢字ではですね、長自画だけじゃないんですけど対象と自己があまりにも接近しすぎているというかほぼくっついているというか同化しているというかそういう状態なんですよ。自己愛というのは。
で、これは藤山直樹さんが先日確認もとって、つまり本の中でね、言ってる言ってるっていうのを、そうだったそうだった。実はそこのページを追ってもらったぜって感じなんだけど、そんなことはもちろん忘れてますけどね。
藤山直樹さんが書いてる通り、自己もナルシシズムという言葉の中に自己という意味はない。ない。ない。明らかにない。意義がないしセルフもないしエゴもない。だから何もないんですよ。
ナルシシズムという言葉の中に愛もない。ないですね。リーベも忘れた。ラブはないし、なんならエロスさえないですよね。だからないんですよ。
ナルシシズムの中に自己という言葉の意味も愛という言葉の意味も、したがって自己愛っていう風に出てこないはずなんですよね。
まあ、あのナルキッサス病ではさすがに日本人にはね、ちょっとね、放りにくいと思うんですけど、ナルシスってね、やっぱり神話の登場人物というか神様なのかな、わかんないけど、そういう存在じゃないですか。
あれ、何を言わんとしているのにせよですね。あのそのニュアンスが感じられないとダメだと思うんですよ。ナルシスっぽさっていうことなんですよね。で、日本だとそれはまたナルシストになってしまうんだけど、そしてそれは間違っちゃいないと思うんですよ。鏡に映った自分の顔に惚れてし、衰弱していくなどというのは、なんかこう、どっかおかしいじゃないですか。
そして、自分に惚れ込みすぎなんだけど、ただし自分だと思ってないっていうのがこの話の大きなポイントなんですよね。自他領域というものが安全としないんですよね。最近バウンダリっていう言葉もわりとネット上には散見されていると思うんですけど、自我、境界とか、要するに自分と他人の区別というものがはっきりはついてない。だから自分の姿を見て惚れ込んじゃうわけじゃないですか。はっきりそれが自分だということがよくわかってない状態にあるわけですよ。
美しいんだから、美しいと思うこと自体は間違ってないわけですよ。ただ単にうぬぼれが強い点ではないんですよね。美しくもないものに惚れ込んだわけじゃないんですよ。いや、俺美しいわじゃなくて、実際美しいんですよ。で、俺はないんですよね、多分。
この漢字っていうものが、やっぱりこの対象と自己の身分化ってやつなんですよね。それは何なのって思われるかもしれないんですが、何なのっていうか、例えば、プレゼンが一番いいな。プレゼンの準備ってする人いっぱいいるじゃないですか。僕は教育しないんですけど。
プレゼンの準備をするというのはですね、する時っていうのは客観的な視点があるっていうことを仮定するわけじゃないですか。今のように言い淀むと、見ている人は小バカにするだろうとかいろいろ思うわけじゃないですか。でもそれって自分が作り出している空想上の顧客であることは確かじゃないですか。
取引先でもいいですけど、自分が考え出しているわけじゃないですか。このようにその人が見るだろう、このように反応するだろうっていうのは全部自分が考え出している対象じゃないですか。そこに客がいることにするでしょうけど、お人形とか並べる人もいるかもしれないけど、実際にいないことは確実ですよね。リハーサルは本番ではないからね。だからリハーサルをしているということをやっているということは、どこか自己愛的にならざるを得ないじゃないですか。
自分が作り出した空想上の他人を本当に他人だと見立てるということは、自分と他人の区別がつきにくい状態をわざわざ作り出すわけですよね。
自分と対象の身分から人であればあるほど、この手の時の努力というものをできると思うんですね。ある意味では。練習いっぱいできるってことですよ。だって自分の長寿が満足したっていうまで練習できるわけじゃないですか。でもその自分の長寿が自分なんだから、好きなように自分の長寿がを動かしてもいいわけですよ。
でも自分の長寿ががんとして、それじゃダメだ、そんなんでは恥をかくみたいなことを言うことを間に受けられるということは、その分自分と長寿がの区別がつかなくなっているということでもありますよね。つまり自分の中で長寿がが本当に他者だと感じられるほど、実は内的には融合していると言っていいんじゃないかって感じがするわけですよ。
ナルシシズムの理解
この状態、こういう身分化な状態というものに対する無自覚さというのが、多分ナルシシズムというものの中に含まれる状況なんだと思うんですよね。だからめっちゃくちゃ練習するとかいうことが起こるんだと思うんですよ。
それはつまりどういうことかというと、本当の意味では他人というものがその人にとっては影のとても薄い存在になり始めているっていう意味なんですよ。つまり現実というものから少しずつ少しずつ頭の中が有利してしまっているっていう、自分の世界に閉じこもってしまっているわけですよ。
なんでかって言うと、なんでかっていうことはないんだけど、評価するのは究極絶対他人じゃないですか。それが許せないというのはどこかに無理がありますよね。どこかにというか明らかに無理がありますよね。
評価するのは究極他人なんだから、私が練習しまくることにより、かまなくもなり、言い淀みもなくなり、嫌わもなくなり、完璧にすれば完璧な評価が得られる。ここがおかしいんですよね。完璧にしたから完璧な評価が得られるっていうのはおかしいですよね。
それは結局のところは他人を自分のいいようにしようとしているのと、何ら変わらないことをやっているわけだから、それができると思っているってことになるわけですよ。それは本当の意味では他者というものがいないって意味ですよね。
評価は最終的には他者に預けるよりもかないじゃないですか。評価なんだ。そうしないと評価にそもそもならないわけですよ。自分が自分の頑張り次第で評価が欠するというのであれば、それは評価じゃなくて自己評価です。
だから評価と自己が完全に融合してしまうっていうのは何かがおかしくなっているという、つまり世の中には実際には他者がいちゃいけないと思っているというところが奇妙な感じになるわけですよね。これがナルシシズムなんだと思うんですよ。
自分と他人の境界線がなくなり、したがって他人というものがいなくなってしまい、全部が自己の万能世界の中に取り込まれてしまうので、
極端に言うとすごい努力はするのかもしれないけど、その努力というのは全部自分の長時間に評価してもらう努力なんですよ。
だから本当に誰かが喜ぶとかじゃなくて本当に喜んでるのは自分だし、本当に誰かが失敗してはいない、あるいは成功したと評価してくれるわけではなくて、本当に成功したと言ってるのは自分なんですよ。
ある意味では自分が猛烈に分裂しているとも言えるし、ある意味では自分と他人が融合してしまっているとも言えるんですよ。
そういう特殊な状態、特殊ではないように思われるかもしれませんが、これやっぱり特殊なんだと思うんですよね。
どう考えても究極評価するのは他人ですから、どこかで他人に預けるとか投げ出すっていうことが必要だと思うんだけど、これができないというわけですよね。
自己と他者の境界
できないぐらいに長寿が怖いとも言えるし、つまり長寿が他者化してしまってるんだけど、一方でそれは対象化はされてないわけですよ。
私の中の評価者はこう評価するけど、現実の評価者はそうはしないかもしれないが、これでまあいいだろうってのが非常に難しいということですよ。
これを妥協とか諦めとか一方で言うと敗北と捉えてしまうぐらい、自分の中の長寿がを絶対視しているわけですよ。
まあそれは親を信仰しているに近い状態と言っても精神分析的には良いんでしょうけどね。
なんとなく今思い出したのでついでにちょろっと喋っておくんだけれども、日本人って時々世界とか、欧米に長寿が応援したがるじゃないですか。
それはこう世界では笑われるか、いや笑わねえよって思うんだけれども、自意識過剰っていう言い方、だからナルシズムと自意識過剰って似てるんですよねやっぱりね。
その世界が見ているとか、あの欧米の人たちはっていう時の性がえらいでかいんだけど、そんなことはないですよ。
あれは長寿型がって言い直してみると非常に簡単な話で、長寿がっていうのは親対象の理想化されたものなので、
実はそれをやってると親がバカにするとかそういうふうに考えるとすこぶる簡単なんですよね。
あまりにもその学歴変調で子供を塾に行かせていい学校出させさえすればいいと思っているそういう視野の狭い考え方は、
世界で笑われるとかって突然世界が出てくるんだけど、この世界は長寿がなんですよ。
自分の中の長寿がを世界に投影しているんで、だからこうそういうふうに世界がどう思うかが自分には全部は手に取るようにわかるわけです。
そりゃそうですよ。自分の中にいる長寿がのことを言ってんだからわかるに決まってるんだけど、この辺がそのだんだんだんだん無自覚になっていくんで、長寿がというのは自分の中にいるものなんだけど、
世界って明らかに自分の外にいるものの象徴じゃないですか。欧米でもなんでもいいんですけれども、まあああいうの欧米であろうと、トンガ王国であろうと、ニュージーランドであろうと、北極の熊であろうと、別に構わないですよ。
それっぽければいいわけです。全部同じなんで、長寿がなんでね。
で、これがその自己愛と長寿がというものの関係だと思うんですけど、長寿がっていうのは、これがね、多分やっぱりフロイトの読み方が、僕もお多分に漏れず間違っていたんで、
これ昨日ね、少しサロンつながりさんっていうXだったかなーでつぶやかれていたのが非常に刺さったんですけれども、
あれを読んで、そのサロンつながりさんって臨床心理師の人なのか、そういうグループなのかちょっと分からないんですけど、分からないっていうか、僕は適当に見てるからよく分かってないだけなんですけど、
あのですね、そういう臨床心理師さんたちのXを僕はずっと追ってるんで、つくづく思ったことがあるんですよね。
つまり私はよく分かってなかったんですよ。長らく。今もよく分かってないと言われればそうかもしれないんだけど、とにかくよく分かってなかったんですよ、精神分析というものは。
なんでかっていうと、自分ごとにならないんですよ、不思議なことにね。かわいはやおとか100冊は読んでると思うし、フロイトも大学時代から無理やり読まされてたんだけど、
分かんなかったのは、まあしゃあないとしてもですね。
なんて言えばいいんですかね、これはね。分かってないというよりは、自分ごとだと思ってないという。そうそう、サロンつながりさんがですね、ストレスで心を病むってことあるよねって書いてあった。
そんなことはみんな知ってるんだけど、知ってるだけじゃ防げないっていうのを読んだときに、つまりこれって、ストレスっていうのを我々は真因だとは信じてないところが、まあ僕はあったんですよね。
だから、いやストレス心を病むの当然じゃんみたいな心理学でそういうのを勉強するよねと思っていながら自分にじんましんでると早速内科に行っちゃうんですよ。
そういう心理状態だから分かってないっちゃ分かってないわけですよね。だからストレスでなんか皮膚にポチって出るのがストレスのせいだっていうのは簡単なんだけど、
だけれどもストレスのせいで自分はけびょうを使いまくりになるようになって、お父さんを見ると疎通してしまうようになりましたっていうようなヒステリーの話を読むと意味がわからんみたいになっちゃうんだけど、
そんなことはないはずなんですよね本当は。だけど結局のところ意味がわからなくなってしまうのは、それは自分には起きないことだぐらいに思っている。
親の影響と自己愛
どっかそれはおとぎ話のようなもんだと思っていてよくわからなくなってしまうんですよ。でもこの発想を一旦取り入れてみると、さっきのあのですね、
世界に長寿がを投影するみたいな、というかその人が世界だとか言ってるのは長寿がだっていうのは、これは私の見方じゃないですか。
これはだから力動的な発想を私が取り込んだからそういうふうにいかにも見えるんですけれども、当然、いやいやそうじゃなくて日本が世界から遅れを取ることを本気で心配しているんだという人々に言わせれば、私の言ってることは思いっきりタワゴトになるじゃないですか。
それでいいんですよ。要は力動的な発想というのは実に力動的だしユニークなんですよね。で、わかりやすいようでわかりにくい。それはそういう発想を取るということに、世の中一般は普通的、普通にはそれは通らない話な上に、我々はそういうものの見方を教育されてないんですよね。
一貫して教育はこの力動的な発想を取ってないと私は思うんですよ。だから教育をちゃんと受けてきたということが、分析がわかりやすいということには全然繋がらないんです。このことがすごくハンディになってきたんだなと思うんですよ。精神分析、わかりにくいものにある意味している。
こういう見方もありますっていう見方を採用するにしちゃ、特殊すぎるんですね、この発想は。で、そのわかりにくかったフロイトの長字画なんですが、それはだって、これも藤山直樹さんが書いていたのを読んで、そうかなるほどなと思ったんですけど、私やっぱりフロイトの書いたものを全部ものすごくカッチリ書かれた論文、そうなんだけど、としてすごく教科書的に読んでいたもんだから、
彼が結構悩みながら書いていたんだよっていうようなことを書かれてみて初めて、あ、そうなのかって感じがしたんですよね。揺れ動くんですよ。揺れ動いているものを絶対的な権威のように思って私のように読むとですね、揺れ動きというものを私が定義を、なんていうんですかね、すくい上げきれてないからそう思っちゃうんだと思うから、無理やり定義に忠実に思うとしてわけわかんなくなっていくんですよ。
中でも揺れていて、一方違いと矛盾しているようなことが書かれているんだから、この人迷ってるんだって思えば、もう少しわかりやすくなることってあるんですよね。自我理想であったり、エリプスの後継者であったり、いろいろあるんだけれども、なんでやっぱり長自我などというかっていうと、人によってですね、親が無茶言うみたいな話っていうのが結局いろいろなんですよね。
親は優しい面もあれば、この段階ですでにいやいや、うちの親優しい面なかったしって話がなるじゃないですか。だからこの生々しい象徴っていうのは使いにくいんだけど、この使いにくさこそが臨床で生きるって話でもあるわけで、親が優しい親ではあるけれども、例えばめちゃくちゃ攻撃的な親でもあると。いろいろ問題はあるわけですよ、結局。未熟だから親だって。
だけどその問題もいろんな問題がありますよね。すぐに手が出るという問題があるという一方で、例えばもうめちゃくちゃ本当に甘やかしてくれてそれが問題なんじゃないかと思うんだけど、例えばテストで100点が取れず99点取ると、その日から1週間口も聞いてくんなくなるとかね。でもものすごく普段は優しくてみたいな。怖いじゃないですか、それはそれで。だから長自我には様々な特性が当然あるわけですよね。
中でもとびきり大事な特性が、めちゃくちゃいい母親で理想的な母親で優しい母親なんだけど、当然怒る時があるから攻撃的になると。こういう長自我をですね、全体対象みたいな言い方をするんだと思うんですけど、全体的なものとして取り込めない場合、攻撃的なものは外に投影し、優しいところは内側に投影するってことがよく起きるわけですよ。分割してしまうわけですね。
で、ここに万能空想というものがあるわけですよ。万能空想というのは自分がヒーローになれるって話もあるんだけど、それだけではなくて、何でも万能的に頭で考えたことがすぐ実現しちゃう。だからの転生物みたいなもんですよ。
いきさちというものを無視できるわけ。長自我が一体のものであるならば、攻撃の部分は外に投影し、優しい部分は内側に投影する。そんなことができるわけないじゃないですか。で、時と場合によっては攻撃性は自分に投影するとか、景気でやるんだけど、つまりすぐに出入りできるわけですよ。
なんかこう攻撃力みたいなものを持っちゃった場合は、私がそれを持ってますってことにもできるし、いきなりそれが宗教の指導者に移りましたみたいなこともできるわけですよ。この万能的にどんどんどんどん動かせてしまうということが、その人を混乱させていくわけなんですよ。
その攻撃力の発信源は全部自分であり、子供だった子も自分の親から内在でありインストールでありゲットしたものなんですけど、そういういきさちをすっかり忘れて、万能的に親が厳しかったその怖さを自分の攻撃力だと勘違いしてみたり、あるいはこうね、コーチングでも上司でもいいんですけど、上司からのパワハラが実は長自我の投影だったみたいな話もあったりして、
だしで自由なんですよ。元は一個なんだろうけど。だからそういうことができちゃうから、分割して投影するってことができてしまうんで、もうある意味なんでもありなん、そんなことできないじゃないですか、普通は。
ナルシシズムと攻撃性
飛行機にくっついているミサイルによる攻撃力というものを、次の瞬間には仏像に投影しましたみたいな、そういう、だから仏像からミサイル飛んできますみたいな、そういうことって現実にはありえないじゃないですか。あくまでもこれは万能空想の世界だからできるんだけど、万能空想の世界に僕らは生きているんですよ、いくらかは間違いなく。
だからそういうことが簡単にできてしまう。投影って明らかにおかしいですよね。でも僕ら明らかにおかしいことをやってるじゃないですか。攻撃って言葉は何にでも使えますよね。野球の攻撃、この回は6回表で6の攻撃ですって簡単に言えるじゃないですか。攻撃って言っても、この場合の攻撃は戦争的なものでもなければ喧嘩のするものでもないじゃないですか。
攻撃というのはただバッターになる方ですっていう、ただそれだけを言ってるんだけど、それが攻撃なんですよ。だから、何にでも出し入れが自由っていうのが非常に便利な反面、何にでも出し入れ自由だから、ある意味どんな怪物でも頭の中では作ろうとも作れてしまう。
そしてそれが勝手に動き出し、自分を攻撃するんですよ。それこそね。だからこの攻撃というものを分割して、自分のものなんだけれどもそうだと思いたくなかったりすると、非常にそれこそナルシシズムの世界みたいなものが始まるわけですよ。
例えば親友とずっと小学校中学校高校と仲良かったんだけど、大学に入るとき急になんかこう離れた。それは自分の攻撃性というものが原因になってたりするケースが当然あるわけですよね。それは別に普通のことですよね。ちょっとした友人の言い回しが気に入らなかったとか。
だから気に入らなかったからしばらく疎遠にしてたけど、仲は別に良かったから復活するみたいなのはいくらでもできるんだけど、それは自分が攻撃したっていう自覚があっての話であって、自分は人を攻撃なんかしていないとか、自分は人を攻撃する資格なんかない人間なんだみたいないろんな否認の仕方があるんですが、
何らかの形で自分というものをもっと良い子にしておかないと、お母さんはすっごく怒る人だったから、自分はもっと良い子でなければいけないから自分には攻撃性というものはないんだみたいに思い込む人っていらっしゃるんですよ。すっごく大人しい感じの人になったりするわけですよね。
で、そのすっごく大人しくて良い子な人というのはですね、攻撃性がだからないってことはありえないわけで、当然あるんだけれどもないことにしてしまう。そうすると自分でももう自覚できない、自分はいつも大人しくて引っ込み次第で人に言いたいことも言えなくてっていうマイナス系なんですが、そういうアイデンティティにがっちりと入っていると、自分は人を攻撃することはないんだけれども、大学の時なぜかずっと一緒にいた友人と親友と疎遠になって、
それっきりだ。なんでなんだろうになっちゃうんですよ、これが。で、もしかするとその友人の方が私の何かが気に入らなくて、私といきなり縁を切ったのか、私はそういうダメな人間だししょうがないなみたいになるんですよ。この解釈は本人の中では全く不思議はないんだけれども、明らかにおかしいわけですよ。
その親友に言わせると、いやいきなり縁を切られたんだけどになってるかもしれないんですよ。同じようなタイプだった場合は本当に理由がわかんないし、しかもここに自分は攻撃性を持っているということを否認しなければならない。否認したいというよりは、否認しないと、もし自分が攻撃的で、お母さんがちゃんと長い時間待たせてるとき、ただ放置していたのが許せなかったみたいなことがあったんだけど、
お母さんがあまりにも攻撃的で、そういうふうにちょっとでも自分が不満な顔をすると、1ヶ月間朝食に好物を何か出してくれなくなりますみたいなことが起きたりすると怖いじゃないですか。だからそういう自分の攻撃性は否認せざるを得なかったっていう人がいらっしゃるわけですよ。そうするとものすごくおとなしくなったりするんですよね。
自分攻撃性ないことになってるわけだから。どっかで発揮してるにもかかわらず、それは全部いちいち否認されているので、覚えてないんですよね。即座にそれは記憶から消し去られる。覚えておくのはとても不都合なの。こういうときにあの例の昔ライフログで流行ったライフログとかは役に立たないんですよ。
こういう人は記録に残しておいたとしても、突然ブッチされたみたいになってしまって、自分が攻撃したことは意識に昇ってこないということが起こるので、ログには残んないわけですね。記録しようとしたって記録されないわけですよ。だから私はいつも思うんですよ。ライフログというのはここに書かれていないことがとても大事だと思うんですよね。
ここに書かれていることは大体なんとかなってることばっかりなんですが、そこに書かれていないこと、苦いことも書きますって言うんだとますますなんですよ。苦いことを改革という強い意識を持っていてもなお、そこには書き出すことができないことこそが無意識ってのはそういうものなんですよ。
意識できないから無意識なのであって、頑張れば意識できるとかそういう話ではないんですよ。美音のあれを常に僕はよく思い出すんですが、不安というものには形もなければ匂いもなく、色もなければなんとかなんとかってやつで、つまりそれはないものなんですよね。私たちが勝手に不安と名付けてるだけなのであって、実体という意味では何もないものなんですよ。
これはもう初歩中の初歩だと思うんですけど、名前もついていなければ実体もなく、認識すらできない。それは本当にないものじゃないですか。全く不安とかと違って、もはや全くないもの。例えば私には攻撃性は全くないとかね。明らかに他の人が聞けばおかしいでしょ。
どんなに優しそうで、ある種の男の人にはすごいモテそうな色が白くて無口でみたいな小さい感じの音も立てないような女の子だからって、攻撃性がないって言われたらあるに決まってるじゃんってことになるわけですよ。だってあるからこそそんなに静かにしているはずなんですよね。
この種の観点を容易に取ることができるのが、言語と概念を使ってある程度解説までできるところもまた精神分析の僕はいいところだなと思うんですよ。いやおとなしいよね、でもなんか怒らせたら怖そうみたいなことは人は言えるけど、なんでそうなのかっていうのはほとんど誰も言及はしない。
これをなんでそうなのかを考える気にさえなれば、ある程度は見当がつくように割と簡単な概念を持ち出して用意して、見当を加えていくことができるというのがいいところなんだと僕は思うんですよね。
本人だって多分あんまり意識してないから、だから簡単に当て推理をしまくるのは失礼だしいいことじゃないんだけど、でも必要に応じてこれができないと困る場面もあると思うんですよ。
あなたそんなにおとなしいけどさ、内心結構怒ってるんじゃないみたいなことを言うにしても、そういうことをカウンセリングとかで言うと思うんだけど、何ならコーチングとかでも言うと思うんだけど、勘のいい人なら言いますよね。
でもそれは言うときには結構気をつけないとまずいじゃないですか。今みたいな事情があるならば。だから気をつけられるっていう意味でもいいことだと思うんですよ。
親子関係と感情の否認
やっぱ長寿がなんだと思うんですよね。長寿がとの、お母さんの長寿がとの関係みたいなものが非常にそこに食い込んでるって感じがするわけですよ。
あまりにもおとなしかったり、あまりにも主張がなかったりするということは、そういうふうに自分がなるための力というものを自分にかけてなければそうはならない。
人はやっぱり、人っていうのはそこまで植物的に生きているものではないので、そうはならない。やっぱり肉だって食べるわけですからね。生物的に見ても、そこまで穏やか、一遍当の動物って牛みたいな感じじゃないってことなんですよね。
そういう時に自己愛と長寿側の話で今日はやっぱり終始してしまっているわけですけど、もうちょっと今日は行きたくてですね。
こうやって自分からですね、特に大事な、大事じゃないですか。結局お母さんが例えば3時間ぐらい渡せても一言も文句を言わない子みたいなもの、そういうこの中に入っている攻撃性というもの、不平不満みたいなもの、論欲さみたいなものを一時全部排除否認してしまうと、自分の中のものがごっそり減りますよね。
そういうもので相当満たされている時期っていうのもあるじゃないですか。おそらくは3から5歳ぐらい。非常に重要ですよね、その中身は。つまりシンデレラなんですけど、良いおっぱい、悪いおっぱいについて先日3ヶ月チャレンジで質問を受けたんですけど、良い母親、悪い母親っていうのは結局子育てと自立の問題なんですよ、多分。
お母さんは最初はいいお母さんなんですよ。だからこれも最初からそうじゃなかったって言われると困るんだけど、でも最初は良かったとしましょう。
シンデレラのお母さんはとても優しいお母さんでしたが、残念なことに亡くなってしまいました。その後に真っ黒いドレスを着たママ母がやってきましたみたいな。あれは、要するに子供の視点を通して見るとですね、お母さんは最初、いやおむつの中にうんちしてもいいのよみたいに優しいわけなんだけど、なんか突然3歳ぐらいになると、トイレ出しなさいとかって言い出すわけですよ。
ママ母になっちゃうわけですよ。急に悪いお母さんになる。そういうふうにしか見えないでしょ、ある意味。これは道徳的、教育的に必要なことだから言ってることが変わったんだとは子供は思わない。
物理的に無茶苦茶なことを言うようになった。だって今までそのまま垂れ流しにしてよかったのに、どうして今になって急にトイレでしなさい、トイレでしなかったらうちの子じゃないとかわけわかんないことを言い出すのかと。それは、ああ、いいお母さんは死んでしまったんだと。そして、なんかよくわかんないんだけれども、そのいいお母さんそっくりの人が急にママ母としてやってきてしまったんだ。私はかわいそうだっていう物語なんだと思うんですよね。
だからいいおっぱいと悪いおっぱい。いいお母さんと悪いお母さんなんですよ。
なんですが、この時に、でも私はとても優しい子だからひたすら掃除を頑張ってみたいな物語にしてもいいんですけど、通常は腹が出すでしょ。
死んでるのは怒ってる気配全くないんだけど、あれは明らかに怒りを否認していると思うんですよ。やっぱり怒りと不満は当然ありますよ。なんでこのままいきなりきたねんっていうことになって腹が立つわけじゃないですか。
ここで自分らしさってものが当然出てくる。前のお母さんは急にいなくなってしまって泣くみたいな、こういう感情ってとても大事ですよね。
あの優しかったお母さんを思い出してしくしくするってすごく大事ですよね。こういう悲哀って言うんですけどね。こういう悲しいことを悲しめる能力って言ったりもしますけど、とても大事ですよね。
ここを否認してしまって、そういう私に感情はありませんみたいになってしまうと、顔なしみたいになっちゃうわけですよ。何か言うべきことがそこにはないみたいな感じ。
何にもないみたいな感じ。つまりものすごく空っぽな感じ。これが要するに欲打つ感というものにつながっていくんだと思うんですよね。自分空っぽだっていう感じ。空虚だという感じですよね。
つまり世の中に大事なものはあるはずなんですよ。いなくなってお母さんとか3時間も放置するお母さんとか悲しいわけですよね。
でもこの悲しみを自分の悲しみだと、あるいは自分の怒りだと思っておくのは都合が悪い。とってもここでしくしく泣いてると泣い泣いてるんだってことになって、また雑巾掛けとかをやだらさせられるとかそういうことが起きたり、そういうんだとまだいいんですよね。
シンデレラお掃除推しの世界なんだけど、そういうんじゃなくて、例えばもっと怖くて、私はいつもチョコレートケーキが大好きって言ったんだけど、誕生日の時に出てきていたチョコレートケーキが全部イチゴのショートケーキに切り替わりましたみたいな。
ある種の復讐みたいなことを微妙な形で徹底的にされてみたりするとですね、やっぱりこう、いろんな意味で混乱するし、悲しんでも泣いちゃいけないんだとか、あるいは自分が不平というものを持っちゃいけないんだとか、そういうことになって白くなってってしまうわけですよ。
脅迫されていくって感じが僕はするんですけどね。とにかく空っぽになって、なぜなら空っぽにしておかないと危ないから。
それがつまり、お母さんをいつもいいお母さんにしておくために、これが自己愛の世界じゃないですか。
ナルシシズムの概要
途中言いましたよね。取引先とか上司の人の満足というものを絶対にするために、練習を死ぬほど徹夜でやる。これって結局はコントロールしてますよね。
相手の人の気持ちを最終的にコントロールしようとしてますよね。評価は相手の権利であるって部分を無視しようと頑張ってますよね。
自分の世界に統一してしまおうとしている。努力はするかもしれないけど、この努力は必ず結果を自分の狙った結果にするための努力なんですよ。
努力ってそういうもんじゃんって言われればそうなんだけど、どっかで限界点がなきゃいけない。つまりその先にあるのは他者の世界なんですよ。
これを認めたくないというのがナルシシズムの世界なんですよ。同じなんですよ。
私のお母さんをいつもニコニコさせておこうという子供の目論みは同じなんですよこれと。
いつもチョコレートケーキを出してもらおうと。これにもなることは確かだけれども、ここにナルシシズムってものの悲しさと怖さがあるんだと思うんですよね。
いつもお母さんを私に優しくさせるために私はすごくいい子でいようっていうのは、実はお母さんをすごくコントロールしようとしているわけです。子供なりに。
しますけどね、そりゃね。で、怖い人の場合ほどむしろすることになるんですよ。
だからこの機嫌に振り回されているっていう表現っていうのは、私はXとかでもお母さんの機嫌にいつも振り回されていて、機嫌で人をコントロールしようとしてるっていうのってあるじゃないですか。
男女逆かもしれないけど、どっちもありますよね。
いやでもそれってさ、結局相手の機嫌をコントロールしようとしてるからそういう話になってくるじゃんっていう、これが対象関係論の考え方ですよね。
自分から見ればそれは相手の機嫌が悪い、うわーこれはストレスだっていうことになって、あそうかこいつは私がいいなりになっているとニコニコする。
機嫌で人をコントロールするひどい人なんだっていうのかもしれないけど、だけどあなた、相手の機嫌をコントロールしようとしてますよねと。
相手の機嫌のことを手放すことができればそんなことで悩まなくて済むし、そもそも相手が機嫌がいいかどうかは相手の権利じゃないですか、ある意味では。
それは始終機嫌が悪いっていうのは良くないかもしれないけど、果たしてその機嫌は自分をコントロールしようとしてのものと100%そうだと言い切れるかというとそれは無理だと思うかもしれない。
だってそれは他人の領域の話なんだから。
親子関係の影響
その人は実はとっても頭が痛いのかもしれないし、とっても花粉症で辛いのかもしれないし、そういう時もいつもニコニコしていなければいけないという義務は別にないはずで。
つまり機嫌というのをどう捉えるかは決定的なところはないと思うんですよね。
そういう見方もできるでしょうけど、機嫌で私をコントロールしようとしてるという面はあるかもしれないけど、
でもだからといって機嫌が悪いということが自分を必ず苦しめなければいけないという理屈はないはずなので、
つまり自他のこれは対象と自分がべったりくっつき始めた、多くの場合超自我ですけど、超自我と自分が融合してしまっているところから来るお悩みなんだと思うんですよね。
ただこれは自覚できないケースの場合にはしゃーないんですよね。
つまり機嫌が悪いというところに超自我を投影してしまうというのは自覚できない場合にはもうどうにもならないんですよ。
超自我の罰がやってきて辛いと。その罰は自分で下してるんだけど、そうは思いもよらない。
機嫌の悪い奥さんに自分が罰されているという感じしか持てないっていう時には、つまりそれは現実見当が怪しくなってきているっていうことなんですよ。
ことなんだなぁということを最近私は猛烈に意識するようになってから奥さんが機嫌が悪いことがさほど苦にならなくなってきたんですよ。
いやだって奥さんは確かに機嫌が悪いが、そうしていてはいけないと言ってるのは自分の超自我なんで、ここなんですよね。
これが自分と超自我が一体化していると全然見えてこない部分だ。
超自我が相当自分から対照化されてみると、なるほど超自我からの攻撃というものが飛んでくるんだっていうのが声なのか表情なのか分かりませんが、
超自我から攻撃を仕掛けてくるんだっていうのが感じられるんですよ。
でもこれ大事なことじゃないですか。
これは何を意味しているかというと奥さんとはいつも原則仲良くやっていきたい、そうでないと悲しいという私の感情の表出なんですよ。
これはある意味ではね。
これはないですってことにしてしまったら欲打つしかそこには残んないですよね。
そういうものないです私にはみたいになってしまったら空っぽになってしまう。
空っぽになってしまうというのがつまり欲打つじゃないですか。
私は空っぽですと。
私は感じるものは何もないです。
私はそういうのを感じる必要性もないですみたいな。
なぜなら私はそれに値しないからですということになっていくじゃないですか。
どう考えたって。
自分はそういうふうに扱われても何の感情も湧きませんっていう話を自分で決めてしまってるわけですからね。
そんなことはないんです。
必ずそこには怒りがあると僕は思うんだけれども。
まあでも私は怒ってもいませんっていうそういう。
だからあれですよね。
ある種の男性にもてそうな女の子って感じが僕はやっぱりするんだけど。
これは欲打つ的になるかそれとも猛烈に怒りが湧いてくるかのどっちかになりやすいと思う。
どっちも辛いのでやっぱあれなんですよね。
話が最終的には物作業っていう方向に行くんだけど。
この物作業っていうのはワークスルーなんて言葉がついてるから一層あれなんだけど。
いやこれこれだけを取り出してワークできないよなって思うように最近なりました。
なんかやっぱりそういうライフハック的にここを捉えていくのには無理があるんですよね。
自分の長寿がを認識しましょうとかナルシシズムのことを考えましょうとか。
一個一個チェックリストのように潰していけるような問題は全然なくて。
今の話で全部くっついてるんですよきっと。
どう考えてもですね。
お掃除をしながら全然いいんですよ。
そこにはある種の一貫性があるし別に普通のしつけじゃないですか。
だからシンデレラのママ母は全然特別なママ母やってるわけではなんでもないんですよね。
だけれどもあれがもっと入り組んでいて悪意に満ちたようなものに、
それを悪意に満ちてるというよりは多分そのお母さんの自己愛が強いんだろうと思うんですけれども、
つまりナルシシズムの世界にお母さんも住んじゃってるんだろうと思うんですが、
そうなってくるとこの感情の否認というものをしないわけにはいかなくなってきて、
お母さんに攻撃性を向けると後の報復が素直しいっていうことですからね結局のところは。
だからお母さんに攻撃性というものを向けることができないと。
自分の中に取り込んだ長寿がを真っ白にしておこうということになる。
お母さんのことも当然子供だから機嫌よくあってほしいと。
そうすると長寿がの攻撃性だけが分割されて、さっきの万能空想ですよ。
分割されてどっか別のところに投影することは自分の中におけない。
発信源であるお母さんに対して向けることも、お母さんを悪いおっぱいにすることもできないから、
だからそれをどっか別のところに投影するってことになるわけですよ。
例えばヨーロッパだったらキリスト像とかね。
だから私は悪いことするとキリストに怒られるみたいなそういう恐ろしい世界が始まる。
宗教的ですよねこの世界は。
長寿がの懲罰みたいな部分だけを、その機能だけを切り離して、
他は全部優しい世界にしておいて、どっか別のところに攻撃性ってものを置くわけですよね。
そういう万能的なことをやっていくと。
そして自分の感情を漂白していって、虚しくなっていくんですよ。
コミュニケーションの欠如
だからこの世界は虚しさと懲罰の世界みたいになっていってしまうんで。
このボタンの掛け違いをやり直していきたいというか、
やり直さないと始まらないだろうって感じがする。
始まらないんですよ、これは。
この流れの中でずっと言ってると何が起こるかというと、
無謀な世界がそこには出現してしまうと思うんですよね。
いい関係しか認め難い世界みたいなものが起きる。
そこに出現してしまう。
で、いい関係しかない世界というのは多分欲物的な世界なんですよね。
そして長寿が支配的な世界。
だっていい子ってそうじゃないですか。
そういうカップルだったり、そういう夫婦だったりを目指すっていうこともあるのかもしれないんで、
それはやっぱり別の話になると思うんですけど、
そういう時にやっぱり途中言った通り、分析の考え、発想っていうのはいいよなと思うんですよ。
そこに何の問題があるのかが分かるんで。
いい子といい子がくっついていて何か問題があるかって言われると、
適応的に問題がない場合ないんですが、
でも何かそこには不毛なものがある。
例えばなぜなのかよく分からないんだけど、
これだと微妙な感じになるんだけど、
でもやっぱりこのカップルには何かが物足りないみたいな。
これはつまり先日そういう話をしたんですけど、取引先の人の話をしていて、
ずーっと会社の話し合いをしてるんだけど何も生まれないとか、
これは明らかに困るじゃないですか。
いわゆる仕事の現場で企画が形にならないとか、
我々の間でもあるんですよ。
この編集者さんと話の長さだけはえらい長いんだけど、
それこそだからカップルなわけですよ。
編集者さんが女性だった場合完全にカップルなんですよ。
ずーっと喋ってる話の端を回る気がする。
だけど本が生まれない。
最悪じゃないですか。
会社の経費使って飲み食いしてるわけですからね。
本が生まれないっていうのは子が生まれないってことですからね。
つまり不毛になってしまうんですよ。
ここの中のやり取り。
やり取りがされてないんですよね、そもそも。
多分お互いが自己愛の世界にはまり込んでいて、
お互いが自分と喋ってるんですよ。
だから2人そこにいるんだけど、実は2人は何のやり取りもしていない。
これを生々しい言葉を分析や使いたがるんですよ。
ここでインターコースが行われてないっていう言い方をするんですよ。
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