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2021-09-27 34:31

【GMV 465】タスクシュート が現実を教えてくれる

現実以上の現実はない
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
このグッドモーニングバイブスの視聴者数が回復基調にあって、めでたいと思っているところです。
なぜなのかよくわからないんですけど、もしかすると集計が適当になったみたいな、
ポッドキャストってそういうことがないわけじゃない感じなので、
そういうこともあったのかも、集計方法が変わったとかね、
あったのかもなんですけど、でも結構単純な数字を追っているだけのような気もするので、
やっぱりどんどん減っていくというのは気になります。
戻ってきてありがたいなという、戻ってきているのか全く別の方が入ってきていらっしゃるのかはわからないですけどね、
数字しかないので。
しかも私は数字を週に1回見るくらいなものなので、わからないんですが、よかったかなと思っています。
先日ですね、久しぶりにわりとタスク集と絡みでオンラインですけど、
カチッとしたというか、わりと応募係とは言えないまでも中係ぐらいのセミナーがあったんですね。
これも定期開催になるんですけれども、こっちの方もおいおい告知とかしていければと思っています。
これは一般参加も可能なものです。
それが知られていないんじゃないかという説もなくもなかったりして、
それはでも私が頑張ってやるよりも、今ではわりとそれを中係で結構システマティックに進んでいるので、
それで多分浸透していくと思うんですけれども、
そのお話を伺っている中でですね、やっぱりタスク集とというのは、
気がつくと、私が考えるにですよ。
これはもう私だけが考えていることかも、そうではないと思うけど、知れないんですけどね。
気がつくと逆に逆にと解釈されていくっていうところがあって、
私の当面の役割っていうのかな、それこそ役割はですね、
ここを逆転しない、少なくともこの発想の逆転とは、
それこそ真逆の発想でいけるんだということを繰り返し繰り返ししつこくしつこく、
鬱陶しいぐらい言っていくのが大事だなと思っています。
分かるようになってきたんですよ。ここが逆転するんだと。
その逆転するときの感覚みたいなものも何かこう分かってきた気がするんですね。
ここが逆転してしまうと、私の考えではだけど、
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タスク集とという機能が何かですね、どこか十分に発揮されなくなるような気がするんですが、
一方でですね、そんな理屈はともかくとして、
やっているうちにその逆転の発想は消えていくはずだというのもあるんですよ。
だから私はこのツールに関しては、とにかくやりましょうという言い方もするんですね。
もう原理主義的にとにかくやりましょうという。
原理主義的にというのは、1分空けずに記録を取りましょう。
しかもその場その場で、今ここで今ここで後で思い出すとか、先に書いておくとかではなく極力ですね。
なるべく今今の記録を残すんだという。
記録を残すというよりもですね、今今やっていることとタスク集とか、
ちゃんと合っているようにしましょうということなんですね。
これは原理的に難しいとか、記録を取るのが習慣化しないと難しいし、やり落とすという話もありますし、
当然そういう現象は起こるんですけれども、
そういうことではないのですという言い方になっちゃうんですね。
習慣化することではないし、
落とすのは原理的に当然でもないんですよ。
これは発想が逆だと常々思っているんです。
だから記録に間違いはないので記録としか言いようがないんですけど、
記録じゃない言い方もないのかなというのも時々考えます。
でも記録なんですよね。これを記録という以外の言い方で、よりしっくりくる言い方は今のところは考えられないです。
何が逆かというと、私たちは意識を無意識に優先する癖がすっかりついていて、
意識は無意識より優れていると思い込んじゃっているんですね。
しかも無意識と言っているものも完全に無意識なわけじゃなくて、
大概の場合はそれなりに意識していることも含めて無意識にしてしまうんですよ。
なぜなら忘れるからですね。
この辺に記録という言葉の意味が出てくるんですけれども、
つまり忘れたことが無意識です。これはフロイトの言う通りだと思うんですよ。
おおむね彼が言っている、例えば幼児期見本みたいな話もそうですよ。
原稿系みたいな話だってそうです。
お父さんが怖くて、お母さんとイチャイチャばっかりしていると、
自分を脅してきたという記憶が、私たちがはっきり覚えているはずはないですよね。
仮にそんなことがあったとしても、そういうことを思い出せるとしたら、
それは4歳、5歳以降じゃないですか。幼児期見本というのは2歳以前のことを多分指すので、
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そんなことを覚えているわけないんですけど、でも出来事があった、脳はそれを知覚したとすれば、
しかも怖い思いまでしたってことになると、この怖い思いは別にお父さんが怖かったって話ばっかりじゃないですよ。
いろんな怖い思いがあったはずで、覚えてないんですよね。だから無意識なんです。
そして私たちは4歳以降だって、それは思い出せることもあるでしょうけど、
思い出せないことの方がはるかに多いじゃないですか。
でもそれは私たちの行動に全面的に影響してくるんだと。
この辺がちょっと自己責任的に捉えられるんですけれども、
とにかく影響してくるんだと。影響してきてもおかしくはないじゃないですか。
子供の頃、指挟んだとか痛い思いをしたとか、脳はそれを何らかの形で保持したんだけど、思い出せやしない。
でもそれは影響を与えてくるんだということがあっても、不思議はないですよね。
こういう一つ一つが全部無意識という名のもとに、ごちゃっと大量に影響を与えてくるんです。
そんなにいろんなことがあったのは全部現実のことだから、
どこか闇の奥で行われたわけではないんですね。
無意識は闇の底に沈んじゃっているかもしれないけど、
それが起きたときは、日の光のもとで、目に見える形で、かなりはっきりとわかる形で、
私たちはそれを体験している。
それが起きたときは、目に見える形で、かなりはっきりとわかる形で、
私たちはそれを体験している。
だから、それは無意識になっちゃったかもしれないけど、
やったときは全然無意識じゃないわけですよ。
この辺にタスクシュートがあるじゃないですか。
こいつを捉えていこうって話をしてますよね。
全部記録をするという言い方は、
つまり、それがどこか遠いところで、自分と関係ないところで起こった出来事ではないんだから、
目に見える、今目の前に見える、
完全には無理ですが、可能なレベルでキャプチャしていくと、
そうすると何が起きるかというと、
現実に教えてもらえるわけじゃないですか。
グッドバイオスでは、現実を見に行くとか、
現実が教えてくれるって、全くそういう言い方をしますが、
タスクシュートでもそういう側面がはっきりとあって、
あらゆる現実を私たちに、
これを、例えばですね、そういうことになった結果、
娘を送り出した時間は、
7時37分40秒でした。
現実なんですよ。その時は曖昧ではないんですよ。
はっきりと目に見えるものがあるわけですね。
難しいとか細かいとか複雑だとかいう話は、
どれだけ難しいかというと、
どれだけ難しいかというと、
難しいとか細かいとか複雑だとかいう話は、
どれも僕は当たらないと思うんですよ。
目の前に見えているただその数字だけですよね。
そして目の前で起こっているただその出来事だけですよ。
子供は焦ってると。7時37分だと。
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これが現実じゃないですか。
ここで逆転しちゃうんですよね、多くの場合。
いや、これはいけないと。7時30分には出るようにしようと。
僕はここがおかしいと思うんですね。
7時30分こそ理想であるというのは、
もっとおかしいと思うんですよ。
なぜそういうことが言えるのかと思いませんか。
なぜ7時30分のほうが理想で、
7時37分の34秒みたいなのは、
ダメだ汚いみたいになってしまうのかと。
その7分30何秒の間に、
いろいろなことが起きたわけですね。
現実が一つ一つ起きているわけですよ。
くだらないことではないんですよ。
すぐ無意識の中に沈めてしまうんですね。
しょうがないですよね。
そんなに細かいことを全部覚えているわけにいかないので、
少なくとも意識の上に置いておくことは不可能なので、
しょうがないから沈めてしまうんだけれども、
そうは言っても、その現実は私たちは、
その時には見ているし、聞いているし、
体験しているし、体感しているし、
とにかくそこに隠れているものはないわけですね。
隠れちゃうのは後で起こることです。
そうやって緻密に、
全ての現象は緻密に、
切れ目なく起きているのに、
なぜかそこをですね、
意識で扱いやすい数字とか、
そういうものを根拠にして切り落とそうとするんですね。
7時30分が綺麗だから、しかも早いから、
こっちの方がいいから、
37分という現実に妥協するのではなく、
という話が始まるんですよ。
何て言うんですかね、
全く逆だと思うんですね。
現実がそうやってしっかり構成してくれていて、
いろんなことを私たちに、
私たちと相互作用の中で行ってきて、
で、間に合わないわけじゃないじゃないですか。
間に合うような時間にしかも、
いけているのに、
何かそこを強引にねじ曲げてでも、
7時30分という意識で扱いやすい数字を根拠にして、
自分の方が理想的な人生を送れるんだ、
ということが常に言われるんですよね。
で、それをただ言うだけだったらですね、
タスクシュートって絶対いらないと思うんですよ。
7時30分スタートって、
7時30分通学って書いて、
ただそれを守ればいいじゃないですか。
なぜずっと記録を、
どうでもいいような記録まで絶え間なくし続けているかというと、
現実に襲われに行くためなんですよ。
現実ってのはこのように構成されていて、
自分たちが意識の上で計算したり、
思い描いたり、つまりこれを万能観と言うんだけど、
思考の万能観の上で行うような、
それほどじゃないんですよ、現実というのは。
もっと緻密で、
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内部が充実していて、奥行きがあって、
価値の高いものなんですよ。
頭の中で7時30分、学校に行くっていうのは、
それほどなんですよ。
二次元的で、中身がなくて、価値も多分ない。
そっちが大事で理想的で、
佐々木はリアリティがあるけれども、
妥協的だと言われるのは、私は奇妙だと感じるんですね。
二次元と三次元を比べて、
二次元の方が美しくて立派だから、
こっちに三次元を無理やり合わせるのが理想主義なんだと言われても、
わけわからないと思うんですよ、正直言って。
しかも、二次元的に描かれているものが未来だって言うんですよね。
私はそうは思わないんです。
これはただの空想だと思うんですね。
ところが、今の時代は空想が万能的に、
すごく働き始めていて、
これは僕は誤解と錯覚だと思うんですけれども、
スティーブ・ジョブズみたいな人が登場してきて、
空想が世界を変えてきたんだっていう言い方なんですよ。
僕はこれが本当じゃないと思うんですね。
そういう考え方の延長線にますます奇妙な話で、
7時30分に出発するのがいいんです。
なぜなら30は綺麗だからだとしか、
僕はそれしか考えられないんですよね。
ただ30は綺麗で、37よりも前にあるから。
全てただそれだけの理由で、
実はそうするとQOLが上がるんですっていう話を聞いているような気がするんですよ。
そんなはずはないと思うんですよね。
睡眠というのも一つとってもそうです。
睡眠中に行われていることというのは、
ものすごく精密で複雑で緻密で心拍を、
このことだってほとんど朝何時に起きるとかいう本には書いてなかったりしますからね。
心拍は20%弱ゆっくりになると。
たったそれだけのことですよ。
心拍が僕の場合は平均で、
起床時は少なくとも65弱ぐらいはある。
それが55以下になると。
たったそれだけのことなんだけれども、
これだって大変なことじゃないですか。
起きている間中ずっと55だったら多分僕何もできないですよね。
ものすごく計算されていると違いないと思うんですよ。
だからその55にする時間を、
7時間なのを3時間にして大丈夫なのかという議論が全くないというのは、
奇妙な感じがするんですね。
朝4時に起きるのが理想的なんですが、
なんで理想的なんでしょうかと思うわけですね。
なぜ6時半ではいけなくて、4時ジャストだと理想的なのかと。
その1時間半の心拍がプラス20%ぐらいになってしまう部分はどうなるんだという話が、
僕は抜けている感じがする。
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これは心拍の話をしたいんじゃないんですよ。
これだけのことが行われているということは、
体の中ではよっぽどのことがいろんな形で行われているはずなんですよ。
胃腸から、それこそ脳内の神経伝達物質から、
なぜそもそも1時間半のサイクルがあって、
その間の10数分、20分なりが夢見の時間になり、
そういうふうに仕組まれているのかということですよね。
それはものすごく細かい、
なんていうんですかね、
ミクロじゃないですか、体の中って。
そもそもそんな大工場みたいなのがこんな小さいところで、
延々動いているわけですよね。
これ2時間とか3時間睡眠にしても、
でも結構人って死なないんで、
ある意味それも体ってすごいんですけれどもね、
要求にとことん応えていくみたいなところはありますが、
起きているときと寝ているときっていうのは、
働きが全然違うと思うんですよね。
これもそうなんですけれども、
寝ている時間が7時間、14分ですとか、
いやそれはダメだと、
ジャスト7時間にしましょうって、
これって雑だと思うんですよね、すごく。
その14分本当に、
ただ切り捨てればそれで済むような話なんだろうかと思います。
なんか車の後ろの部分がちょっと長いんで、
ざっくり切り落としますみたいなことを人はしないじゃないですか。
そういうことをして大丈夫だと誰も思わないですよね。
なんかですね、その切り方がざっくりしてるんですよ、ものすごく。
ただ綺麗だからみたいな感じで、
朝5時ちょうどに起きましょうっていうような感じになってしまうんですよね。
それこそリアリティが全然ないわけです。
これが逆になっちゃうんですよね、多くの場合。
タスクシュートでなければ余計、
ただタスクシュートを使っててすらこれが逆になるんですよ。
この綺麗に頭で描ける通りに生きる方が、
リアルに生きているこの生き方よりもベターであり、
クオリティが上がるんだってことなんですよね。
僕は真面目なく下がると思うんです。
これはですね、かけてもいいって世界なんですよ。
僕は億単にかけられるほど、これをやればクオリティが下がるはずだって思うんです。
ただこれはどっちみち水かけ版ですからね。
こっちの方がいいんですっていうのは信念に近いところがあるんで、
どっちの方がクオリティが高かったですというのは解明はできないんです。
解明できないと思うんですよ。
ということはやっぱり意味のない議論してる気がするんですよね。
クオリティが上がるのか下がるのかが誰にも証明できないのに
クオリティって言葉を使うってのは、
おかしいような気がするわけです。
今あるリアルのタスクシュートが教えてくれる24時間の現実は
非常に緻密に見えるんですね。
どこをとっても最終的には長尻がきちんと合うようにそれこそなって
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つまり社会的な適応も可能なようになっていて、
体も壊さないようになっていて、
繁殖取れるようになっていて、仕事もできるようになっていると。
実にこう緻密に組まれている。
これを小学校の時間割みたいなものに組み直してしまうという
そういうやり方がいいはずないという感じが僕はするんですよね。
つまり、例えばサーカディアンリズムとか
季節の移り変わりとかいろんな言い方をしますけど、
それらは雑じゃないですか。
雑と言わないまでも大雑把ですよね。
我々はタスクシュートを使っているから
もっともっと内部は細かく精密になっていることを知っているんだけれども、
普通に考えるとそうなっちゃうわけですよ。
朝仕事をして昼に食事をしてみたいな大雑把な組み方になってしまう。
そしてタスクシュートを使っているのにわざわざそっちに合わせようというんですよ。
そこが逆だと思うわけですね。
そこを逆に捉えていかないと
時間の使い方などというものが
より自分の望んだ方向に変わるわけはないと思うんですよね。
どっちみち朝7時に起きて8時に出発して9時に仕事をしてという
思考ですぐ考えつくほど大雑把なやり方でいいなら
あんなものいらないじゃないですか。
1分単位で記録を残すなんて必要が全くないですよ。
そういうことでは捉えられないから
現実の細かさとか緻密さは捉えられないから
1分単位で捉えるんですよ。
私は時々1分でも穴があるなって感じるんで
秒単位にしたいと思った時があったんだけれども
流石に秒単位ってわけにはいかないから
やっぱり分単位になってしまうんですよ。
そういうことなんですよね。
だから事前に汲めるような代物じゃないってことなんですよ。
そんな分単位と秒単位の計画が事前に汲めるわけがないじゃないですか。
この汲めないということが私たちの思考の限界を表していると思うんですよね。
思考は一見万能感を僕らに与えてくるんだけど
実は現実ほど決して万能なものではないから
万能感だけに頼っていると
非常にわけがわからない袋小路にはめ込まれていく。
7時に起きて8時に何とかして9時に何とかして10時に何とかして
2時間の時間を空けましょうっていうのは
いかにも思考がやりそうなことなの。
非常に雑で曖昧で大雑把でいい加減なんですよ。
つまり奥行きが全く感じられないんですよ。
それには。
もっともっともっと分かりにくい風に
パッと目で見て頭で考えて空想して描き出せるようなものには
なり得ないからこそ現実ってすごいんであって
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これも例えばディズニーランドとか行ってもそうじゃないですか。
自分の細かい行動の全部を事前に意識するのは無理ですよね。
だからもっと大雑把になってしまいます。
まずビッグサンダーマウンテン行ってみたいな。
本当はもっと行ったり来たりして本当に細かいことをやってるんだけど
しかもそれは良くないと思ってるんですよ。
私たちは心の中のどっかで。
そうじゃなくてもっと思考で分かりやすい直線的な世界を描いた方が
ディズニーランド楽しめると。
やれば分かるんですけどそうはいかないんですよね。
何時にビッグサンダーマウンテン乗って
何時にスプラッシュマウンテン乗ってってやると
多分つまんなくなっちゃうんですよ。
これは思考には思考のやり方があり
現実に完全に適応するわけにはいかないので
所詮デフォルメなので
大きな枠で捉えるしかできないんですよね。
それ以上思考に期待しても無駄なんだと思うんです。
それ以上のことを得たければ
やっぱり現実的に思考に期待しても無駄なんだと思うんです。
それ以上のことを得たければ
自分の現実と世界の現実との
細かいやり取りのインタラクティブの中でやっていかないと
それを実際には私たちは
思考に頼らなければできるんですが
なぜかそっちはダメな感じになって
ダメだと見なされやすいんです。
だから私はタスクシュートを勧めるんですよね。
それは思考にも何となくですが
把握できる形で
現実というものに近い何かを提供してくれるので
入っていきやすいと思うんです。
そういう思考万能感に
慣れきってしまっている私たちの感覚にも
何と時間が欠いてありますし
あれを見ればいかにも分かるのは
現実って複雑だってことだと思うんですよ。
頭の手に負えるようなものではないと
だから何回か見てみないと
何回も撮って何回も見てみないと
分からないんだと思うんですよね、そこまでは。
そこまで分かれば
これを思考でコントロールしようとするな
やめようって考えるような
ここから全てが始まると思うんですね。
私は前的な表現を取っちゃってますけど
主人公ですよ。
主人公は全ての役がこなせるから
要求されている役は何でもなれる。
父親にもなれるし
物書きにもなれるし
夫にもなれるし
息子にもなれるし
大橋裕聡さんのパートナーにもなれる。
それになるときに
要求されている役割をこなすのに
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私は全部できるはずなんですよ。
それをするために必要なものは持っているはずで
それをこなしていけば
うまくいくという風に考えておけばいいわけですよ。
あとはその役をやっているということを忘れなければ
だからタスクシュートは二重なんですよね。
一つにはその現実というものを
この現実は緻密で思考の手に負えるものではないということを
絶え間なくここに書き落としておいてくれるという意味と
もう一つが
今、主人公としては何の役をやっているのかを
この二軸なんだと思うんですね。
この二軸を両方捨ててしまったら
つまり私はこの役はやりたくないからやりません
ということを言うようになると
主人公じゃないですよね。
できない役があるっていうのはダメだと思うんですよ。
その分ダメになっていく感じがします。
しょうがない面もありますよ。ケースバイケースでね。
ここはもう夫役はごめんだと
夫役拒否すると
私はやっぱりそれはいろんな意味で問題だと思うんだけれども
しょうがない面はあるかなと
時と場合によっては
調子悪いとかね
だけれどもそれは調子悪い時の対応じゃないですか。
すでにベストな状態にはないということを
わざわざ自分で宣言しているようなものであって
だからその役割を
しかもそれほど難しくもない役割を
やろうと思えばできる役割を
わざわざ拒絶するということは
それなりによっぽどのことだと一つは思う。
もう一つが
その緻密な現実をわざわざぶち壊しにして
全部まっすぐにしちゃうと
それやるんだったら
もうこの取ってる意味は
微小になるかゼロになるかなんじゃないかなと思うんですよね。
だからこの二重の意味で
機能する部分を
二ことも捨ててしまうというのは
どうかなと思うわけですね。
だから冒頭に返ると
鬱陶しいくらい
ここを言っていくのが自分なんだろうと。
やってれば多分ですね
やってればそういう要素で動いているんだという感じは
すると思うんですよ。
役割を与えられている役割を
全部やっていけるということを
繰り返していく感じ。
あとは
さっきから何度か言っている通り
現実に教えてもらうという感じですね。
記録に残っていることは
すべて一旦は意識上に残っているんですけれども
実際そうですよね。
ディズニーランドに行った時だって
どこの店に入っていても
何をしていても
ジャーっとしているかもしれないけど
それは後で考えることであって
その時その時は意識の上では鮮明に
目の前に現実は見えているわけです。
ただそれを全部を意識に残すのに
帰ってきてみると
27:00
大きな部分しか残っていない
そしてその他の部分は
全部カオスだって感じるんだけど
そんなことはないんですよ。
それとすごくよく似ていると思うんです。
タスクシュートの記録というのは
一見カオスなんだけれども
一見カオスなんですよ。
遠くから見ちゃうと。
だけれどもよく見てみると
そこにある現実には
全部の自分の意識に相対したことがあって
非常にはっきりと目の前に
見たり聞いたり
味わったり体感したものであって
一個一個よく見ていくと
無意識の底に何か沈んでないんですよね。
そしてカオスでは全然ない。
これがカオスであるから
習慣化しなければ
記録に残らないとか記録に残らないとか
落とすとか漏れるということが
例えば発達障害だからとか
不思議だからとかいう話では
全く全然ないと僕は思うんです。
目の前で見ているものが
発達障害だから見えないってことはない。
見えないんだと言うんだったら
それは違う理由があるはずです。
全くその目の前にあるものが
消えてなくなったようになっちゃうとか
本当に意識が混濁していて
混沌としてしまうというなら
それは全然違う話を
本当はしているはずなんですよ。
そういうケースだって
ないわけじゃないとは思うんですけどね。
自動的に習慣で捉えるとかは
全然違う話をしていて
ライフログとかならそうなのかもしれないんだけど
自動的にキャプチャしていく
ということになってしまったら
もうそれは何の役も
こなしてないじゃないですか。
自分は舞台の上には立たずに
ロボットを立たせておきたいんですって話に
限りなく近づいているわけですよね。
それは別の発想だと思うんですよ。
何て表現するべきなんですかねこれは。
リアルっていうものに対面しているとき
それがいつか無意識の底に
沈むことがあるんだけれども
最初から無意識の中に
入っているわけでは全然ないってことですね。
どのタイミングもどの瞬間も
すごく鮮明で
今まさに仕事をしようとしているときだけ
意識が鮮明になる人っていないと
僕は絶対思うんですよね。
それよりずっと全く意味のないような
それこそなんとなく
テレビのチャンネルを変えたときでさえ
意識はしっかり働いていると
僕は思うんです。
かなりふわっとやることは
もちろんあると思うんだけども
それでもこれから
富士テレビにしようとかいうときに
何ですか、無有病なようにはしないじゃないですか。
何かきちっととは言わないまでも
カチッとやりますよね。
30:00
それと次の大事な文章の一部を書くときの
意識状態にそれほどの差はないと思う。
すごい差があるんだって
言われるかもしれないんですが
例えば脳内に働いている電流の量とかで測ったとき
どっちかのほうが100アンペアぐらいで
どっちかのほうは100アンペアとか
絶対ありませんけど
本を書くときは100アンペアぐらいで
チャンネルを変えたときは1ミリアンペアです
っていうことは絶対ないんですよ。
ほとんど使っているエネルギーとか
そのとき機能している脳内の
神経伝達物質の動きとかは
ほとんど変わってないはずなんですよ。
意識に昇っているっていうのは
そういうことなんですよ。
捉えられるでしょうと私は思うんです。
後で思い出すのは無理ですよ。
さすがに。
それを記憶に残すという機能を
脳はたぶん働かさないでしょうからね。
でも意識に昇ってきているというレベルにおいては
何ら変わらないと思うんですよ。
片屋富士山レベルで
片屋砂場遊びの山レベルです
なんてことは絶対ないと思うんですね。
どっちもほとんど同じ高さになっているはずで
ということは
どれやるときも同じようにやれるはずですし
したがってどれをやるときも
同じように意識に昇っているものとして
記録に残すことができるはずなんですよ。
習慣化とか自動化とかいう話は
全くないと思うんですね。
そうしてしまったら
そこのデコボコをあえてむしろ認める
ということになってしまいますよね。
本を書くときは富士山レベルですと
チャンネルを変えるときは砂場レベルですと
やってしまったら
多分本を書くのが大変すぎて無理になってしまいます。
そういうふうにのはなっていないですよね。
間違いなく。
そういうふうに感じるんだとすると
それこそイリュージョンなんです。
大体こういうところなんですよね。
逆転させないということが
本当にここが大事だと思いますね。
自分は何の役割でも十分にやれるというのを
わざわざ逆転させて
これとこれとこれしかできません。
他は自動化に任せたいですというのが
まず一つの逆転ですね。
それだったらやっぱりタスク修道じゃなくて
全然構わないと思うし
それこそ学校の時間割りみたいなものを
一個持っておけば済んじゃうわけですよね。
それじゃ済まないから
タスク修道なんじゃないかと思うんですよ。
もう一つがやっぱり同じように
ディズニーランドを歩いた即席そのものを
辿るような形で
それが現実として
ベストとはあるいは
ユアファインにしても
それ以上のものを作ろうと思ったら
もっと複雑で
もっと緻密にならなきゃいけないということです。
絶対に1時、2時、3時、4時で
こことこことこことここに直線的に行くほうが
ベターであるということにはならないはずです。
それをやればやるほど多分
33:01
つまらなくなるでしょう。
現実も同じハンスなんですよ。
それをやればやるほど
現実というものと関わっている感じが下がっていって
それこそQOLで行くと
最低のレベルまで下がっていくはずだと
僕は思うんですよね。
小学校というのはやむを得ずはなっているんですよ。
今の言ったような
意識に捉えやすい国産リーシャンみたいになっていると
それでも
子どもは頑張ってカオスを作り出すわけですよね。
あれがもし
あの機械みたいな
書いてある通りのやつだったら
ほとんどの子は
正規がないような人になっていくとしか思えないですよね。
私の感じでは。
何の
現実感もない
頭で考え出した通りの
そういう国みたいなのがあるじゃないですか。
うまくいっているケースないですよね。
頭で考えることっていうのは
やっぱり平面的すぎて
直線的すぎて
えーと
なんて言えばいいんですかね。
やっぱり雑だと思うんですよね。
まるで塗り絵の絵みたいですよ。
現実が写真だとすると
塗り絵の絵みたいです。
その塗り絵の絵みたいなものが
理想であり未来である
という話を
しないために
タスクシュートの記録っていうのは
あるはずなんです。
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