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2021-09-24 38:45

【GMV 464】グッドバイブスとは何もしないこと

何もしなければありのままである
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ほとんど、いよいよというのが来週なんですよね、オンライン合宿。
で、もしかすると
最近、ものすごいその傾向が強まってきてるんですが
何でもオンラインセミナーって
どたさんかなのかなっていうふうに思えてきました。
たとえ金額が少々大きくても
考えてみると
これを公的に歌うべきなのかどうかは別なんですが
当日参加できるようになったら途中からでもOKですっていうのにするのが
ある意味一番いいのかなという
オンラインの最大の強みって
もちろん家から出なくて済むとか様々あるんですけど
そういうことかなと思うんですね。
リアルだとやっぱり会場というものを
これ外部に結局主催者側は発注する形になってるわけじゃなくて
発注は言い過ぎですけど
でも自分で用意してるわけじゃないわけですよね、箱は。
だからその箱を予約する締め切り日というもの
そのキャパシティというものに左右されざるを得ないんですけど
オンラインとかそういうのは関係ないわけだから
ある意味参加する人がそれでいいならばですね
終わる間際に参加できるとかでもいいはずなんですよね。
ドアガチャガチャする音とかしないわけですから。
ここを締め切りきちっとしなければいけないとか言うのは
多分何かのイリュージョンみたいなもんだと思うんですよ。
そういうふうに私たちはずっとやってきたものだから
そういうもんだと思うようになってますけど
飲み会とかだったら違うじゃないですか。
例えリアルだとしても後から来る人とか
いっぱいいたり途中帰っちゃう人とかもいるわけじゃないですか。
これを特に問題なくできるようになると考えると
今回のオンライン合宿は初めての試みだし
そんなにわからないんですけれども
よく考えてみると自分だったら結構ですね
直前になって行けたら行くっていうことが
使えるというのはいいなという感じを
持たなくもない気がします。
行ったことがあるはずはないんですけど
あんまり見たことないですからねオフライン合宿なんてものは
ただ本当の合宿だったらそうはいかないじゃないですか。
ホテルの予約とかも当日予約っていうわけには
なかなか団体で行くならば難しいと思うんですよ。
だけれどもオンラインなら何だってある意味可能ですよね。
これの非常にグッドワイブスと
やっぱり寄り棚とは思うんですね。
ドタ参加ドタキャンというものに対して
神経質になるのは
結局は想定と予約という問題なんですよ。
03:00
私はやっぱり何よりも思い出すのが
東北の震災の時に次から次へと
会場キャンセルをしなければならなかったし
会場の方も使えないですっていう
連絡を会場側の方からいただくこともありましたし
とにかくそういうことが起こるわけですよね。
これやっぱり先の先まで予測して想定するから
そういう事態に見回れざるを得ないわけですよ。
実際のところ地震がいつ来るかは分からないわけですからね。
だけどオンラインってのはそうじゃないんですよね。
もちろん当日ものすごいことが起きれば
オンラインであっても中止ってことはあり得るにせよ。
その場合でも何を予約したとか
その場合のキャンセル量はどうだといった話にはならないので
そうは言っても皆さん
今の時期は外に出たいというのは
また別途あると思うんですけれども
それはそれとしてですね、オンラインっていうのには
そういう方向のメリットは強いんで
やっぱりそっちを大事にしていくといいのかなという風に
ちょっと最近思い始めていたりします。
その関係で喋るわけじゃないんですが
最近ですね、私グッドワイブスというものは
どうしてこんなに楽になれるんだろうということを
ちょっと考えてみてるんですね。
一番大きいのは
ここを割と伝えにくい面もあるんですけど
つまりこれは何にもしないからなんだなという風に思うんです。
最近特に私が何にもしなくなったことに
一つには先のことを考えなくなったんですよ。
これは絶大な効果があって
どれほど強調しても多分受け入れられない人には
受け入れられないとは思うし
別にこれもグッドワイブス的なところがあるんですけど
これを受け入れほしいとまでは思わないんですよね。
あんまり無理をしてまで。
ただ先のことを考えないというのは
本当に良いことの方が多くて
良くないこともないわけじゃないのかもしれないですけど
考えつかないんですよ。
考えておいても考えておかなくても
起きることは起きてしまうし
しかも起きたことに対応できる能力以上の事柄であれば
考えておく意味ってほぼないわけですね。
何よりも想定通りのことは全く起こらないので
これは本当に細かいことでも起こらないので
想定通りのことをすることはできるんですよ。
5分後に歯を磨くとか
これといった邪魔が入らなければできますよね。
これにしたって結構
絶妙に微妙なタイミングで
何か違うことが起こったりするんですよ。
大谷翔平がホームラウンジとかで。
5分じゃなくて6分後に歯を磨ければいいんで
この辺はどうでもいいことなんですけど
想定することの意味ってこのようにですね
06:01
ほぼ全く問題がないようなことだけが確実にできるのであって
何か問題が起こりそうなことになるほど
想定を立てる意味がなくなるんだけど
予防という意味では逆じゃないですか。
どうでもいいようなことを想定しておいてもしょうがないので
そういう意味でですね
想定しないというか
厳密に言うと想定しないんじゃないんですよね。
推測しないなんですね。
これはね。
推測しないというふうに自分で心がけていると
いかに自分が余計な推測ばっかりしているかということを
思い知るというのかな。
気がつくんですよね。細かく細かく。
一つ一つやめていくとですね
想定する能力自体が発揮されにくくなってくるんですよ。
こうなると楽で
本当に楽としか言いようがないぐらいな
効果なんですね。
そういうことなんですね。
一個一個格好つけないとか
過去は存在しないとか全部そういうことでですね
要するにあるがままでいましょうということになるんですよ。
受け身で対応するとか
恐れど不安を手放すとか
全部同じところに行き着く気がするんです。
あるがままでいきましょうと。
これが難しいという話だと思うんですね。
難しくて受け入れがたいと思われるくらいならば
あえて無理やり
頑張って受け入れるという話とは違うとは思うんだけど
あるがままって
というのは
あるがままであろうとしてもちょっと難しい気がするんです。
私なんかはですね。
むしろまず未来のことを考えないという
未来のあるなしを議論する前に
未来のことを考えないと
考えないというところが受け入れがたかったら
考えるメリットって本当にあるんだろうなということを
かなりですね。徹底的に考え抜くべきだと思うんです。
大体私たちが思うに
ライフハックとかの方は特にそうですけど
実はそれほど未来の想定から
メリットを受ける受けない運動は別として
未来の予測をするべきであるって
信じていらっしゃるんじゃないかって思うんです。
これはそのなぜ信じているのかを
やっぱり検討するだけの価値があると思うんですね。
コストがあるから。コストがないと思われてる気がするんですよ。
未来の想定は。ただ単純にいいものだという
なんかこう
白紙のそれこそほぼ日誌書とかでもいいんですけど
ああいうものを買ってくるとなんかこう
いいことが起こりそうな感じがするじゃないですか。
何が起こるのかと。
栄養妨害をしたいわけじゃないんで
趣味で買うのはいいと思うんですよね。
趣味で買うべきだと思うぐらいなんですよ。
ただそれによっていいことは多分何も
09:02
記録をつけること
それ自体がいいっていうのはまた別として
それから
それにかかっているコストのことは考えておくべきだって
それにかかっているお金とか手間暇とかじゃないんですよ。
それによって発生する苦痛と
判断力の歪みなんですね。
この2つが必ずくっついてくる。
必ずくっついてくるんですね。
これを意味付けとイリュージョンと言うんだけど
恐れと不安ですね。
これが全然ないことを思えばですね
ここにかけるコストは相当
支えたいなって感じはします。
手帳が高いとか
毎日2時間も使っちゃってますとか
むしろいいんですよ。そんなのはなんてことはないんですよ。
もう1つが僕はもう過去のことを
思い出さないようにしてるんです。
これが記録を取ることと成功するのかって話なんですけど
さっきのと同じなんですよ。
記録を取るのはいいんです。過去のことを思い出さなきゃいいんですよ。
変な話に聞こえるかもしれないんですが
過去のことを思い出すメリットは少ないんですよね。
特に良くないと思うのはですね
予防のために過去のことを覚えておくってやつなんですよね。
やっちゃいますけどね。まだね。
でもこれをどんだけ減らせるかだなって思うんです。
過去のことを
覚えておけばそれを避けられるという考え方は
仮にそれが本当だとしても
そのコストは結構バカにならないと思うんです。
過去に
そんなことはないけど犬に噛まれましたと
覚えておけば犬に噛まれませんというのは
そうなんですよ。仮にそういうことがそうだとしましょう。
でも犬に噛まれるということの苦痛と恐れは
覚えておかなきゃならないんですよ。
このコストがでかいんですよ。
噛まれること以上にでかかったりしうるんですよね。
もしそうやってそのコストをしっかり
携えて、あれはとても恐ろしい体験で
二度と言うことになりたくないから覚えておいて避けると。
そして一生涯避けられたとしても
私はそのことを覚えておくコストの方が
でかいんじゃないかなって思うんですよ。
これに同意できないということについて
同意しなさいという気にはなれないんですよね。
噛まれた方がいいのかって言われると困っちゃうんですよ。
だからそうは言わないですけれども
このコストはでかいよということなんですよ。
これに比べると保護日施設長に犬に噛まれましたって
書くのはOKだと思うんですよ。
思い出しさえしなければ。
そのことをネガティブな記憶として携えるということさえ
やめればですね。そうすると非常に
脳天気になるような感じはするんだけど
僕のここ10年間
何かといえばレビューを繰り返してきたことを
12:01
10年間と比較して悪いことは別に
ここ2年は何もしなくなったんですよ。
娘の番号を思い出すためにしか
エバノとかは使わないんですね。
レビューとかは一切しないんですよ。
悪かったことは特にできれば記録にも残さない。
だから記録に残っているのは
なんでもなかったことばかりになっていく。
悪いことはたまに起きる。
これを避けるためにこそ記録だという考え方があるんだけど
私はそれはもうしないんですね。
今言った理由です。
悪いことを覚えておくメリットがあるにしても
それを覚えておくコストに対して見合うとは思えない。
私の感覚では1万対1ぐらいで見合わないんですよ。
だからやめとこうと。
この2つなんですよね。
一切未来について考えない。
私も今考える能力を失いつつはない。
考えようと思えば考えられるけど
考えようと思いません。
過去のことを思い出そうとしない。
これはすごい違って
現在しかないというのがありありと感じられてくるんですね。
別にだからといって
過去のことを全部忘れてしまうことは起こらないんだけど
それが今までの生活には確かにあって
それがなくなりつつあるんですね。
あえて思い出すということをしないから。
そうすると今しかない感じというのが
今しかないんですけれども
今しかない感じというのが
太陽が大きくなっていくみたいな感じで
今は大きく感じられるようになるんですね。
これがいいんですよ。
これって別に何の努力もいらないじゃないですか。
実際何の努力もいらないんです。
ここが大事なんですよね。
グッドワイドスというのは何にもしないんですよ。
これが難しいと言われるんだとすると
よっぽどその人はある種の努力が習慣になっているんです。
難しくは全くないんですよ。
何にもしないんだから。
何にもしないのがただ怖いということがあるんですね。
例えば何にもしないままだったら
何者にもなれないとかこういうところで出てくるんですよ。
だから何者かになりたいから奇妙なことをしたくなるわけですよね。
例えば演習率全部覚えるとか。
あれ奇妙じゃないですか。
普通の人はしないでしょ。
でもそうするとちょっと
その人は特殊な能力を持っているように見てもらえるような感じがある。
これを僕らは学校とかでなぜか繰り返させられるんです。
何か特殊なことをしてくださいと。
ある意味お笑い芸人養成所みたいなところがあるんですよ。
これをやめさえすれば
つまり学校で習った
僕は8段が飛べます。
算数できないけど8段が飛べますと。
15:01
私は飛び箱で8段は飛べないけれども
国語の教科書を綺麗に写せますとか。
あれを個性と呼んじゃうんですよね。
全然個性でもなんでもないと思うんですよ。
繰り返しそのスキルさえやっておけば
大体の人が何かはできるようになるみたいなのを
個性とは呼ばないと思うんですよね。
何にもしないでいても
例えば私と娘は違うんですよ。
全く何にもしないでいたとしても私と妻は違う。
それが個性ってもんじゃないですか。
毎日毎日演習率の暗算を一生懸命やってれば
ついに8万桁まで行きました。
それは個性じゃないと思うんですよね。
個性っぽく見えるんですけどね。
これがないと不安になっているんですよね。
ドイツ語とかスワヒリ語とか何でもいいんだけど
他の人にないものを持ちたいと。
それが何かの役に立つんじゃなくても
本当は何かの役に立たないと意味ないので
それをYouTubeで公開するとか
僕はいいと思うんですが
それと個性は関係ないような気がするのが一つと
一つはそれがないと不安だっていうのは
いくはないと思うんですね。
なぜならその不安はでかいじゃないですか。
この不安が小さいとか無コストだと思っているっていうのは
とんでもないと思うんです。
その不安ゆえに
演習率10万桁を上げられるんだとすると
ものすごいでかいと思いますよね。
それはドイツ語を学ぶとかでもいいんですけれども
その行為自体も
よしよしで言えば良いんでしょうけれども
その行為の動機づけがネガティブなものであったというのは
よくはないと思うんですよね。
そのコストを考えると
私は
一旦それを手放すだけで
全然違うものが
手に入ると思うんですよ。
だから何者かになりたいというのも
こういう時代なんてよく分かる気もするんですけれども
何者かにならないと不安だっていうんであったら
一旦停止にする
価値はあるんじゃないかなと。
こうやって何者かになりたいと思わないでしょ。
未来のことを推測するということをしないで
過去のことをあえて思い出そうとしないで
格好つけないなんですよ。
これが揃うとだんだん
あるがままでしかありえないじゃないですか。
あるがままでしかいられないというのかな。
あとは言われたことをやるというか
望まれたことをするかな。
つまり自分であえて主体的に望みを持たないという
これも努力のような成果だと思うんですね。
うちの娘なんかのところにも
学校など塾などから繰り返し繰り返し
18:00
あなたは主体的に何を望みますかみたいな問いが
小学生向けだからそうじゃないけれどもやってくるんですよ。
その度にも考え込んじゃうわけですね。
娘が考え込むというのは要するに
そんなものは第一にあるはずがないから
私はそんなものはあるはずがないと思うんですよね。
あれを多くの人にばらまいて一生懸命それを作らせるということは
もともとは持ってないんですよ人は。
第二にうちの子は
色々と人の顔色をうかがってしまう子なので
そう育てたわけじゃないんですけど
遺伝みたいなところがあるんですね。
顔色をうかがってしまうので
親や親はともかく
先生や塾の先生は何を書いてほしいのかを想定できちゃうんですね。
そうは言っても丸々嘘を書くには
まだちょっと年齢的に十分じゃないわけですよ。
丸々嘘を書きたくない。
私だってこの子のことで丸々嘘を書きたくないんですよね。
ここでパッスルをしなきゃならなくなるわけですよ。
相手が望みそうなこと、一発に個性がありそうなこと
相手が満足しそうなこと
合わせ合わせて書くとなると
結構手間取るんですよね。
しかもそれに時間かけたくないときっているわけですよ。
大体の子は思っていないんですけどね。
これをやるよりはゲームをやっている方がマシだってみんな思ってますよね。
短時間で相手が満足しそうで
要求されたことにかなっていて
かつ文句が出なさそうなことを
縫い目を縫うようにして
縫うようにして書くとなると
手間暇かかってしょうがないわけですね。
ということは、生まれながらにして
主体的な願望などはまだないんですよね。
こうなってくると
未来を想像する
過去に嫌だったことを回避できるように
記憶しておく。
主体的な要求を
形作っておき
カッコつける。
カッコつけるというのは
何者かになるものに含まれると思うんですけど
言ってみれば称賛されるような
事項を形成するということですよね。
これを全部やめるということによって
笑いが出るんですよね。
これを全部やめるって
現代社会では半骨的な生き方になっちゃうなと
そんなはずないような気はするんですけどね。
どう生きようと自由だと言われていて
アルバムでいいってみんな言ってるじゃないですか。
証人欲求を絶大にしなさいとか
そういう人はいなくはないけど
未来のことばかり考えなさいとか
今を無視しなさいとかあんまり聞かないですよね。
現在はどうでもいいと思いなさいとか
過去の嫌な記憶は全部残しておきなさいとか
21:01
言わないと思うんですよ。
実際にアルバムをやるのは
とてもヤバいことだっていう
そういうことは結局
こうやって喋ってみると出てきて
何にもしないということは
すっごいまずいことなんじゃないのかという
そういうものがあるから
グッドバイオスをこの形で
喋っていくのは
悲しいなって思うことが結構あったんですね。
これは恐れと不安とイリュージョンですけどね。
これじゃなくて
暗いの無い敵対象とか言ってるほうが格好がついちゃうんですよね。
格好をつけないっていうのはそういうことなんだけど
意味不明じゃないですか。
あっちから行こうとすると
あれは僕は楽しくて趣味だから読んで喋ってるんですけど
はっきり言えばあれは趣味なんですよね。
全然無くたって
クラスの系層さんは全然無しにグッドバイオスを
全面に出していらっしゃるわけだから
全然無くたっていいんだけど
僕が全然無くそれを喋ると
ひどく心もとない感じを抱いてしまうんですよね。
これはだから依然として残る恐れと不安みたいなものなんですけど
ある意味あるアプローチを取ろうとすると
生まれてくるそういうものとも言えますけどね。
だから本当に具体的に
具体的に言うとですね
とても有効に作用することがあると
例えばさっきなんとなくツイッターを
15分ぐらいよく見てたんですね。
そっか、こういう時に人は
いわゆる罪悪感というものを持つんだと。
罪悪感とまでは言わないんですよ。
なんかちょっと失敗したなみたいな気持ち。
これが罪悪感なんだけど。
そうじゃなくていいじゃないかっていう。
だからあるがままで妥協しようということでは
全くないんですよね。
そうじゃなくて、この罪悪感を生む
非常にこう、ろくでもない
ろくでもないという言い方もちょっとあれなんですけど
なんて言うのかな。
一つの物の見方を自分に
自分的に押し付けてしまうことによって
決まりきった価値観の中で
生活していかなきゃなんなくなるんですね。
しかもそうすることによって
得られるものがほとんどないという
そういう不毛性から脱却したいという
あえて固い言葉を使うとそういうことになりますね。
15分、20分に
スマホをだらだら見てしまったって思うじゃないですか。
そこに価値観が入っている。
よくないという。
少なくとも違うことをした方がいいっていう。
いいんですよ、違うことをした方がいいと思うことは。
別に。
24:02
よくないのは
それが
あるがままの自分であると
こうなってしまうという不安なんですよ。
あるがままの自分では
スマホをだらだら見ちゃうと。
だからこいつを強制しなければ
ためて正すやつですよね。
正しくするやつですよ。
してやらないとダメだという。
それがそのパターンにはめてるんですよ。
いつもいつもですね。
これをやらないことなんですよ。
いつもやっちゃうのはみんなこの価値観を
共有しちゃってるからなんですね。
みんなの価値観にはまっていくんですよ。
しかもみんなこれできてるわけじゃないんですよ。
スマホのだらだら見っていうのはあるあるなんですよ。
タスク修道でも出てくる、ライフハックでも出てくる。
塾の先生もいる、学校の先生もいる、みんないるんですよ。
みんながやめようと思って、みんなやめられないから
これやってるわけじゃないですか。
これをやらなくてもやってもいいんだけど
そこにマイナスの価値観を
無理やり当てないということなんですよね。
無理やり当てちゃうんですけどね。
これを全然
後悔しないということにすると
何が起きるかというとですね、
思い出さなくなるんですよ、そんなことは。
だってそれがものすごくインパクトのある
体験とかじゃないんだから
さっきまでだらだら見をしていたと思い出すってことを
しなくなるんですよ。スッと抜けるんですよ。
そうすると切な的に生きてしまうとか
充実感がないという
言い方をするとするならば
記憶を思い出せる分だけ自分は生きているって
思えてるって言ってるんですよ。
それはまた大きなイリュージョンですよ。
1年分を思い出せれば1年分が生きられているっていうのは
大きなイリュージョンですよ。
どう考えてもそうじゃないじゃないですか。
時間は思い出せる分だけ長くなるというのと変わらないですよね。
そういうことはありえないから
だからスッと抜けるっていうのは一番いいと思うんですね。
現に私はさっきそれを
やったのを思い出せたのは今喋るためなんですよ。
つまり喋ろうとしなければ思い出せなかったんですね。
このことっていうのは
ちょっと脱線っぽく聞こえると思うんですけど
夢見の話に出てくるんですよ。
これは最近私
精神分析にはずっとあるみたいなんだけれども
やっぱり精神分析出しちゃうな。
夢を思い出しているのではなくて
夢を
見ようとしている
夢の種みたいなものがあって
27:00
これは仮説ですよ。
でもそういう考え方っていうのは十分あり得るなと僕は思うんだけど
夢の種みたいなものがあって
その夢を睡眠中には見ていないんだけれども
見る準備はできていたと。
後になってその夢の種が開くと
その夢を見た。
睡眠中に見たんだという風に人は思う。
これはあり得ると思うんですよね。
ワイルダーペンフィールドの実験がありますよね。有名な。
脳手術中に大脳のところ一部とかに
微弱な電流を流すと
ありありと何かを思い出し始めるっていうあれですよね。
つまり
クオリアってそういうものであって
質感を伴う体験という言い方をしますけど
っていうのはそういうものであって
いらないわけですよね。
昔々
村上春樹さんが小説に
ハードボイルドワンダーランド
何かとハードボイルド
名前は忘れましたが
百科事典簿という思考実験が出てくるんですよ。
百科事典の言葉というのは全て暗号化できるわけじゃないですか。
それは
全ての文字についての
数字を打てますよね。
百科事典の内容というものは
ものすごく長い数列に直すことができますよね。
デコードできればですけどね。
そうするとここに1cmの百科事典が
1cmの爪楊枝でも何でもいいんですけどがあって
その1点を刻んだところが
その数列に相当するような
0.010203みたいな
そうするとIUになるわけでしょ。
0と1の間の数字を1点打てば
その百科事典の内容は
そのマッチ棒の中に刻めるみたいな
そういうのがあったんですけど
概念的にはそれに近いですよね。
脳内に織り込まれている何か
要するに電気信号の元というのは形ですよね。
そうすれば革のせせらぎみたいなのも体験できる。
全くそうだと思うんですよね。
間違いなくそうだろうと思います。
それってつまり夢の種みたいなものですよね。
その人は夢を見ているわけじゃないですか。
革のせせらぎがそこになくて
実際には脳外科の手術を受けているわけだから。
つまりそういうことなんだと思うんですよ。
それがイリュージョンですよ。
そういうふうに考えていくと
映画とかそうじゃないですか。
昨日映画の話を聞いたからそういうのを思ったんですけど
音と光ですよね。
私たちは人の顔をそこに見ているわけじゃないんだけど
見ちゃうわけですよね。
勝手に人の顔を心の中に作り出すと。
30:01
あれを犬が見てもそう見えているかどうか大変疑わしくて
あれを虫が見れば間違いなくそうは見えていないと思うんですね。
あくまでも像とか
そこにあるクオリアというのは
全部人の心が作り出しているものであって
自閉的な人にはあれがほとんどスクリーン上の
映像でしかないような感じがすると
少なくともそこに感情を引入したりはしないと思うと思うんですよね。
ある種の自閉的な傾向を強く持った人は。
つまり
私たちってあるがままにあるということを
徹底していくとですね。
ある種の夢を自分で勝手に作り出さなくなる。
映画を見て何も感じないのではないですよ。
映画は受動的に見てますから。
そうではなくて
現実を頭から無視して
スマホのだらだらみをしてしまったとか考えるというのは
現実を頭から無視しているわけですよ。
さっきの過去をわざわざ思い出して
自分に抜粋を与えるとか
少なくともある時間帯は価値がなかったと
そういう価値付けをするということをしているんですね。
そうすることによって
まずその価値基準というものが
まるで現実をきちんと支配できているように
思い込むわけです。
お月見をするほうがいいとか
それは勝手に作り出した価値基準なのに
そういう基準が世の中にあるように思う。
これが一つのコストで
もう一つはその基準によって
いつも自分が違反をすると罰されているような気がする。
これが二つ目のコストですよね。
三つ目がそれを繰り返し繰り返しやることによって
ものすごく自分が
ネガティブな人生を
歩んでしまっているような
感じがする上に
いつも自分の現実というものが
私の体感の比なんですけれども
いつも自分の現実というものが
少し損なわれている
ような感じがするんですね。
いつも少しだけ損なわれている。
それが全部取り戻したいじゃないですか。
少し損なわれている感じがするというのは
例えばスマホのダラダラみじゃなくて
その時に英語の勉強をしていれば
少し損なわれている部分を取り戻せると感じるために
いつも取り戻そうとしなければいけない。
これは完璧主義ということとは
ちょっと違うと思うんですよ。
完璧主義とか長寿がということとは
少し違うような気がします。
取り返したいという感じがあって
取り返せる感じするじゃないですか。
スマホの15分見るのをやめる代わりに
英語の勉強を15分するってできそうですからね。
33:00
そういうことを断続的にやっていけば
全て取り返せるのに
自分はそうしていないという感じを
いつも車の両輪みたいに
いつもそれと一緒にいなければならない感じがあるんですよ。
これが無くなるということなんです。
全くこれが無くなると
ものすごくいいんですよ。
代わりに例えば仕事をするという時に
一切苦労がないんですよね。
何かを取り戻すっていう必要が
一切ない以上
何かをするという時に
損したり得したりすることはないので
何をやってもいいんですよ。
何をやってもいいという感じを
私たちは多分スマホのだらだらみは
いけないと思うと
選択できない気がするんですね。
スマホのだらだらみはいけないわけじゃないですか。
何をやってもいいわけじゃないんですよ。
その人の中では。
それはやっぱり学校で培われている部分は大きいと思うんですね。
親の教えっていうのも大きいでしょうけれども
飛び箱球団ですよ。
そういうことができるようにならないと
個性が認められないという風になってくると
時間の使い方を
ある程度集約しなければならないと思うし
だから時間を使うのが惜しくなるわけですよね。
何に集約させるかを決めるない段階で
何かに時間を使えないわけですよ。
自分は飛び箱の人になるんだったら
そういうことなのかなと思います。
自分の時間が必要だというような話って。
それをまず見つけてからそこだけに時間を集約させていきたいという。
これいつもそんなことを思っているわけじゃないんですけど
何かで失敗した時
つまりスマホをだらだら見ちゃったような時
それを失敗と見直すんですよね。
その時に時間の集約っていうことが頭をよぎるんだと思うんです。
そして未来のことを考えたり
既にスマホを見たのは過去のことですから
これは一切遮断していくという
遮断じゃないんだよな。
使わずに置くんですね。
使えるんですけどその能力は。
使わずに置く。
こうするのが何もしないってことだと思います。
極端に言うと空気だけ吸ってるみたいな。
そういう感じなんですよ。
それをやろうとすると
いわゆる今ここにいようみたいな話とか
マインドフルネスみたいになるんですよ最終的には。
でもそれをやり続けるって意外と難しいんで
多分多くの人は
マインドフルネスとかについての
ライフハックを学ぶよっていう方は
マインドフルネスの時間ってものを作っちゃうと思うんですけど
そうじゃないってことですよね。
36:01
どの時間帯にも同じことをやっているはずなんですよ。
つまり何もしていないはずなんです。
これに尽きるかなって思います。
これに尽きはしないけど
でもこれを徹底的にやるようにしていくと
自動的に非常に受け身的にもなるし
自動的に依頼に即応するように
ならざるを得ない感じがしますし
基本的にそれができている間は平安ですし
この状態で人を攻撃したいとかは
全く思いませんしね。
しちゃう時はありますよ。
ハラウーカンを断つとか罰したくなるとか
でも罰したくなるってことは罪を認識したってことになるじゃないですか。
罪ってからにはその現実はもう
価値が下がったってことですよね。
ここがもう全罰だと思うんですよ。
全然ダメだと思うんですよ。
何もしないにこれほど反していることはないですよね。
ものすごく何かをしちゃってると思うんですよ。
飛び箱一段打ちから飛べない奴は刑別に破壊するとか
これ何かしてるじゃないですか。
それ自分と全く関係ない話ですよね。本来的に言うと。
目の前で何が起こっていても
そういう状態から動かなければ
なんていうんですかね。
生まれた時と同じ状態に戻れるって感じがするんですよね。
生まれた時の赤ちゃんは
そういう風に人は多分批評しないと思うんですよ。
仮にできるとしてもですね。
お前は飛び箱一段しか飛べない赤ん坊だから
将来性は全くないとかって考えられないと思うんです。
考えられなかった時に戻ることは
考えるのをやめさえすれば一応できるとは思うんですよね。
ついやっちゃうことはあるにしても
減らすことはできて減らし続けると結局
その能力を発揮しなくなっていくってことに
なっていくのかなと。
また全部は無理なんですが
そんな感じが今ものすごくあります。
だから私は今過去と未来というものが
つまり今現在しかないというか
時間が存在しないというよりは
時間が永遠に供給され続けるというよりは
そういうものはあえて努力して
認識しない限りは最初から
なかったことのような感じがむしろします。
海の上に、海の中に杭とか打つじゃないですか。
打って棒が先っぽが見えてますよね。
そこを見るようにするじゃないですか。
時間ってそういう感じのものですよね。
その杭抜いちゃうと多分どこにあったか
分かんなくなっていくんですよ。
ご視聴ありがとうございました。
38:45

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