1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. あなたの支援者は「失敗」でき..
2025-08-05 41:20

あなたの支援者は「失敗」できるか?【1228】

「失敗」しないと「奇蹟」が起きてしまう。
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サマリー

このエピソードでは、非正規の自己啓発や心理カウンセリングにおける「失敗」の重要性について語られています。失敗を経験することで成長があるとされ、意識的な失敗は戦略的な行動として捉えられています。また、自己啓発と心理的対人支援における失敗の扱いが考察されています。スピリチュアルな観点では失敗を避けることが強調される一方で、精神分析では失敗が重要な要素であると述べられています。失敗の重要性とその人間の思考能力への影響についても考察されており、特にAIや母親の役割に焦点を当てて、人はどのように失敗を通じて学び成長するのかを探求しています。心の中の現実と幻想の境界についても探求され、他者との関わりが自己認識に与える影響が論じられています。

精神分析チャレンジの進行
おはようございます。精神分析を理解したい3ヶ月チャレンジ、第1228回をお送りします。
8月5日火曜日、8時50分です。
夏休みになってどうしても途切れ途切れになってしまっておりますが、早く起きなくなったからっていうのが大きくて、
そのうちですね、娘さんの部活もありますから、そのうち早く起きざるを得なくなり、
したがってもうちょっとちゃんと連続的に撮れるようになるかなと思っております。
この頃にはマイク問題も決着したいんですけど、なんせ私は金欠でして、
ほいほいと金は出せない上に、しかもここが厚すぎてですね、これもなかなか問題なわけですね。
そのうちまともにそれなりに勤務をしていると思うんだけど、まともにやっていきたいと、
そのうち揃えていきたいとは思っておりますので。
現在ですね、3ヶ月チャレンジの第11期の募集、12期の募集はですね、10月からになります。
今期もですね、11期もまあまあ私の中ではおおむね納得のいく体制でやれてきているなというふうには思っておりまして、
まあ新規の方がいらっしゃり、リピートの方もいらっしゃると。
条件はね、波はもうしょうがないなとは思うんですよ。
もう一つの私がやろうとしている、ある種精神分析ムーブメントみたいなものをやれるようになればですね、
少し変わってくるとまた思うんだけれども、まだそういう段階には私はないので、
ここをちょっと、この言い方はおかしいと思うんですけど、ギアを上げるべきですね。
もう少し経ったら色々と考えていることができるようになるといいなとは思っております。
今の段階では、これは正直僕の中ではですね、想像以上にうまくいっていて、
すでに一応ビジネスといってもおかしくはないレベルに入ってこれたので、
そんな風になると思ってなかったんですよね、2年ぐらいでは。
だから、想像以上にうまくいっているので、しばらくはこの路線を固めていきたいかなという風に、
路線などというものはありませんが、僕の中に。
このやり方を続けていければいいかなという風に、そういう風に思っています。
併せてですね、一応始めたんですけれども、個別お申し込みいただいた方ありがとうございます。
個別のですね、4回セッションで25,000円というやつですね。
これは要するに3ヶ月やると12回で75,000円になって、
3ヶ月チャレンジにかなり告示してくるのではないかと、そういう形にしたサービスですね。
3ヶ月チャレンジの方が若干お得にはなりますけど、
毎週毎週でなくてもいいとか、頻度を自分で設定したり、
ここによってまた少しフレームワークと言いますか、
枠組みが私の主体から離れてしまうんですけど、
そこはもうしょうがないなと思うので、その説明はさせていただくことにしてですね、
週1回なら週1回のペースを守りましょうねみたいな言い方はしますけれども、
そうしていただかなくてもいいと。
新たなコンサルサービス
つまりこの枠組みというのが一応力動的にやっているこのコンサルの眼目でありますからね、
枠組みというものが壊れないようにしたい。
枠組みが壊れてしまったらもうどうにもならないと私は思うんですよね。
枠組みは私が喋ることなんかよりは遥かに大事なので、
枠組みは壊したくないなとは思っておりますけれども、
それについてはですね、3ヶ月チャレンジよりは緩くなると。
3ヶ月チャレンジの最大の項目は週に1回で、
かつ3ヶ月で必ず一旦の集結を迎えるというところにポイントがありますからね。
あとは細かいところで私が心がけていることばかりですけど、
仮説的に中立であるとか、
何て言うんですかね、定員は起きてもすぐ定員解釈は頑張らないみたいな、
その細かな自分に課しているルールはありますけれども、
守れなくなっちゃうことはあるんですよ。
今日はその話をしたいと思っているんですけどね。
そうは言ってもですね、守ろうとしてはいる。
これは真剣に守ろうとして失敗するっていうのは、
この失敗が今日のキーワードですけど、
しょうがないとして、しょうがないって言うのもあれなんですが、
守ろうとしなくなるっていうのはいかんと思うんですよね。
でもその辺を本当、守ろうとしてるなら守れるだろうって言われると、
非常に難しいことになってしまうんだけど、
その辺が私が力度で学んだことではありますね。
それはおいおい話すとして、
まずはその4回というのを用意しました。
これが3ヶ月チャレンジ以外での3ヶ月チャレンジ的なですね、
精神分析的な個人コンサルというもののもう一つの目玉ですね。
合わせてこれに裏メニューを用意したんですけど、
こちらはですね、必ずしもご利用いただくことを目指しては、
まだ今のところいません。
一回9,000円プラス税で、9,900円で払い切ることのできる、
基本的には対人支援に従事している方向けのサービスです。
つまり正規非正規を問わず、ここを私が問う権利は一切ないと思うので、
だって私が非正規ですから、私非正規もいいところですからね。
全然いかなる正規の訓練を受けているわけでもない上に、
自分の資格も取っておらず、しかも資格を取ろうという意思も
今のところはあんまりないという人間なので、
非正規非正規を問うなどということはしません。
心理支援に限りませんが、つまりそこが心理支援なのかどうかが
はっきりしないってことは多々あると思うので、
心理支援か心理支援でないかも問わず、
対人支援されている方が、何て言うんですかね、
スーパーバイズついている方もいれば、
はっきり言って付けられてないって方もいらっしゃると思うんですよね、
結構普通に。そういう方も一切それらについて問うことなく、
とりあえずまず何か難しい対人支援にぶち当たったときに、
こういうのを使うこともできますという、
しかもできれば当日枠というものを設けたいと、
当日枠というのは枠じゃないんですけど、
当日空いていれば話聞きますみたいな、
だから1回1万円です。
60分から90分の間にしておこうと思ったんですよね。
この場合、構造とかがあまり重要だとは思わないんですよ。
基本は慶長と支持、いわゆる支持的慶長って言ったらいいんですかね、
そういう方向性でいきます。
私が聞くメリットは、私が思うに逆説的に一つまずあって、
私が非正規であることっていうのが大事だと思うんですね。
非正規であるということは、つまり私が正規側からの、
例えば私が、しないですけど、万が一批判的なことを言ってしまったとしても、
正規の人に批判されるのとそうでないのとでは違うと思うんですよ。
与えられるインパクトは全然違うと思うんですよ。
こいつ所詮非正規じゃんって思ってくださればいいわけですよ。
批判されたと仮にしてもね、あるいは心が傷つきそうになったとしてもですね、
いやだって俺正規なのにお前非正規じゃんって通るわけですよ、それで。
事実そうなんだから。
このようなスタンスで話せるという相手である、
それだったら誰でもその辺の人ならいいことになるんですよね。
わざわざお金払わずと。
これがでも1点。
もう1点は、誰でもそこら辺の人とちょっと違うのは、
私が大臣支援してるってことですね、少なくとも。
正規ではないにしてもですね。
これが2点目。
そういう人間だから、まあ分かりそうな話もあるじゃないですか、っていう話。
3点目は、私が正規非正規を問わずいろんな観世聞を受けてきているということ。
だからフィードバックみたいなものを期待されるのであればですね、
ご希望とあればそういうことも対応いたしますという。
つまりフィードバックらしきことはしますよということですね。
私は一応有議案も受けてるし、
失敗の重要性
アメリカ人ですけど、真相心理とか精神分析とか自我心理学ですけどね、
CBTはもちろんのこと、行動療法家の人とか宗教カウンセラー。
日本でも正規のカウンセラーに2回かかったことがあり、
坊さんの話は何度も聞いた。
うちの父が坊主だったっていうこともありますが、
別に頼んでるわけじゃないんだけど、おじいちゃんも坊主でしたからね。
説教を聞いたことは切ポッと言うんですかね、何度もありますと。
そういうふうにですね、支援されてきた経験は豊富にあります。
別な自慢になるとは思いませんが。
そういう人間が聞くというのも一つのメリットかなとは思います。
もう一つ、私はCBTも一応アメリカの大学で習いましたから、
用語なら完全にはないですよ。
特に今の第3世代の認知行動療法と呼ばれているものの用語は、
通じてないものはいっぱいありますし、
初年は非正規がはじったやつですけれども、
基礎的な用語の意味はだいたいわかります。
ちょっと説明されればすぐわかります。
一から説明されずとも、
逆転医ってどういう意味ですか、初めて聞きました、
みたいな問い合わせはせずに済むのでですね、
話は早いとは思うんですよ。
60分でできる話の中身としては、
別段、注釈をいっぱい喋っているとあっという間に30分くらい経ちますから、
それせずに済みます。
illahの名前に関しては、
一応我々がファミコンのところで受け入れた イベントの中でもありますが、
それとも私たちのスマートフォンのところにもアドバイスがありますので、
ぜひご覧になっていただく方は、
ぜひご覧になっていただけたらいいなと思います。
イベント中にアドバイスがない場合には、
名前の分けを言っていただければいいんですけれども、
名前の分けを言っていただければいいんです。
まずは、
言わないと、いや、やってることすら緻密にしていたら、もはや、世の中にこのサービスは無いも同然になって、というか、無いことになるじゃないですか。
告知はしますけど、中で何やってるかの話を具体的に出すことは偽装を含めて一切しないので、論文も書くことは私はありませんからね。
だから、漏れるという心配がものすごく低いと思います。
どういう形であれ漏れる可能性って、もともとだって実名も公表せず、論文にも書かないんだから、もうベラベラそこら辺で喋る以外はあり得ないじゃないですか。
ベラベラ喋るってことは流石にあんまないと思うんですよ、世の中的にも。
私はこの種の話をしたいとは別に思わないので、そういう意味では比較的安心度は高いかなと。
守秘守れるかどうかっていうのが非正規で心配されるポイントの一つだと思うんですけど、そういう意味では守れますんで、そういうところから、正規の方からすればですね、
この怪しげな奴のところに行って、スーパーワイザーでもないのにベラベラ喋れんじゃんっていうのは当然なんで、だからこれは裏メニューなんですということですね。
以上、そういう話をしてきまして、非正規の話がしたいのではないんですが、そういう話にも少しなります。
今日のテーマはですね、ウェニコットが言った失敗ってやつですね。あれを私は今日のテーマを願目かなと。
願目って最近なんか私好きになっちゃってるんですね。あんまり、今喋ってみて微妙だなとは思ったんですけど、テーマとか言ってもテーゼとか、テーゼは良くないな。
シーシーとかって言いますけど、まあいいや。つまりですね、非正規の自己啓発や心理カウンセリングを一つ、非正規で当てになる当てにならないって話あるじゃないですか、私あれは良くないと思うんですよ。
当てになっても当てにならなくても、上手くいくときは上手くいくし、上手くいかないときは上手くいかないんですよ。
でも非正規の中で、正規の方も含めてかもしれませんが、ここで大きな分かれ道になるというのの一つに、先日これは3回チャレンジの中で話題になった話なんですけど、失敗をするかどうかだなって思ったんですね。
で、私は断然失敗支持派なんですよ。失敗をしないとダメですっていうか、失敗というのは失敗をすりゃいいってもんじゃないのは確かなんだけど、まして意識的にする失敗は失敗じゃなくて戦略だと思うんですが。
意識せずにするうっかりミスというのをしないのは良くないという、私は派に属するんだなと。
自己啓発と失敗の困難さ
これがですね、私は自己啓発と心理的対人支援を分ける一つのポイント、つまり自己啓発の大きな難点の一つに、まあ難点と言えるか分かりませんが、自己啓発側の人は意見が違うと思うんですよね。
スピリチュアルの人は特にですね、失敗ができないと思うんですよね。
彼らは奇跡を起こしてしまいがちで失敗を、難しいんですよ失敗というものの取り扱いが。
で、対人支援も非常にこう失敗というのを繰り寄せてきたと思うんですけど、対人支援はでも一貫して、ほぼ一貫して失敗というものを扱える世界なのかと思うんですよね。
あの、支援者の、非支援者のじゃないですよ、参加者とかクライアントさんが失敗してもいいですとかいう話ではないです。そうじゃなくて支援者が失敗するということですよ。
失敗しないということが何を意味するかっていう問題を考えざるを得ないんですよね。もちろん自己啓発の人だって失敗はしてるんだけど、果たして失敗を、なんて言えばいいのかな。
でも失敗という形式があり得るかな。彼らは100%成功しちゃうんじゃないかなっていう、まして力量がある人ほどそれに近づいていくんじゃないかな。
100%の成功っていうのは大変良くないんではないんだろうかっていう感覚的な懸念がですね、私の中にはあるなと。
で、これが私を自己啓発的でなくする傾向を強めるようなとは思うんですよね。
ミニゴッドにすごく傾倒していると言われればそうなんですけど、失敗をするということがそもそも治療技法に含まれている、
それもかなり明治的に含まれている稀な方法論の精神分析で、私やっぱりそこに引かれているんだなというのを先日改めて指摘されてみて納得したんですね。
スピリッチェルはやっぱり一番私、宗教もそうなんですけど似てるんですよね、そこら辺がね、あの辺は。
失敗が難しいというかできないというか、できないんですよね。失敗というものが、存在が許されていないと言いますかね。
精神分析における失敗の価値
奇跡が起きちゃうんですよね、だからね。奇跡が起きないんですよ、精神分析は。全然。
奇跡が起きないと何が起きるかというと失敗が起きるしかないと思うんですよね。
失望、失敗、絶望、怒り、逆転位としての憎しみですね。
これらがやっぱり、ちゃんとっていうのはおかしい。でもちゃんとって言っちゃうと思うんですよ。でもちゃんとっていうのはおかしいと思うんですけど、
一つの学派的な知識としての、つまりタームとして、専門用語として失敗というものがあるっていうのがね、すごく私は重大だと思うんですよ。
重大というか、この方法論を特徴付けている。だから私、精神分析とは誤解を招くからそういう言い方はできないしまして、私は分析家でもないのに分析についての誤解を広めるのはいかんわけですけど、でも誤解を恐れずに言うってやつがありますが、誤解を恐れずに言うならば精神分析を特徴付けているのは失敗できることだとは思います。
分析家がですよ。失敗というのはですね、起きるわけですよ。起こるべくして起きるわけ。それはおそらくほぼ間違いないと思うんですけど、分析の世界の中で起きる失敗とは反復なんですね。反復とはつまり親がしてきた失敗というものをそこで分析家もさせられるっていうような意味なんです。
ここを類稀な弁説でもってまとめ上げてしまったり、光あふれる奇跡によって急激な変化が起きてしまったりするということによって、その反復から言ってみれば離脱してしまうんじゃないですか。
素晴らしいことが起きたかな。私の人生はすっかり好転しました。あんな親に人生台無しにされるのは今日でおしまいですってことになる。終わってしまいますよね、その親子関係は。
そうすると、ものすごくその親からひどい目にあわされていたとしても、あるいはもうちょっとリアリティーに、この話にもリアリティーがないわけじゃないんだけど、ものすごく親によって苦しんできた、そんなにひどいことをされてきたわけではないが、とにかく親との関係が苦しい、絶縁したいわけではないんだけど苦しいっていうその価値があると私は思うんですが、その価値が終了してしまうんですよ。
良いことが起きることによって。この良いにはカッコつきじゃないんですよ。この良いことが本当に引き起こせる人っているんですよ。それがまた力量って呼ばれるわけですよね。
自己啓発なり、物の見方が180度変わる。360度って言ったのがかわいいハヨンさんのお話で、360度ってのは一度も変わってねえじゃんって話なんだけど、これはこれで面白いんですけど、そうじゃなくても180度変わりました。
力量高いですよね。そういうことは起きますよ。でもそれが起きることによって、この葛藤は終わってしまうんですよ。親子の関係というものの一つの重要なファクター。
だってその親にしてみれば、めちゃくちゃ愛情と手塩にかけてって言いますが、手塩にかけたことがある意味、手塩にかけたばっかりに子供は苦しんでいる可能性が大いにあるわけですよ。
私なんかも多分にそうだったわけですよ。しかし、この葛藤って大事じゃないですか。なんか実に人間的な葛藤じゃないですか。親はこのことをすごい思ったために子を三段苦しめるってことは現実に起きるわけですよ。
で、その葛藤を持っているから子育てするときに役に立つんですよ。これが完了してしまうということはですね、苦しみが一切なくなってしまうということは、
伝説なのか、ミラクルなのかわからないんですが、それによって亡くなってしまうということによってですね、その親子関係は今後素晴らしい親子関係になってしまうんですよ。
私はそれがですね、喪失だと思うんですよね、ある種。まあこれは納得されないと思うんですよ、しばしば。そんな悠長なことを言ってられないんだよって言われるかもしれない。だから奇跡が必要になるんですよ、ケースによっては。
精神分析はそこで失望されるんですよ。でも私は精神分析みたいなものがですね、すべて奇跡を引き起こせるようになり、この世の中から失望されるカウンセラーがいなくなってしまうということは、多分心理療法にとっては最悪だなと思うんですよ。
で、そんなことは起きないでしょうけど、でも奇跡が起こせるんだったら、そうしておきたいと思うケースはありますよ、はっきり言って。私にすら。
本当ここで奇跡起きてくれたらなって思うことはありますよ。本当滝に打たれて奇跡が起きるんなら、これから滝に打たれに行くわと思うことは既にありましたけど、何度か。
たったこの2年間の中の三チャレでも、何度もありましたけど、でもやっぱり奇跡が起こせないことの方が良かったと思うこともそのうち半分ぐらいはあるわけですね。
全部じゃないんですけどね、半分ぐらいはあるわけですよ。
やっぱりあそこで奇跡が起きないってことが大事なんだなっていうことが、少なくとも2回に1回ぐらいはあるわけですよ。
その時は苦しいしかないんだけど、単なる苦しみでしかないんだけど、本当に私は夜寝られなくなることがないんだけど、夜も眠れなくなるわけですよ。
でも別にそんなことはどうでもいいことなんですよ。私が夜寝られなくならない。
だってそんなもんは別に、参加者さんが悩んでるのであって、私が一緒に悩むっていうのは必要なんだけど、そんなのは所詮私の勝手な悩みじゃないですか、いうならばですね。
付き合って勝手に悩んでるだけなんで、しかもお金までいただいてるんで、そんなのは当然じゃないですか、夜眠れなくなるなんてのは。
何ならこれによってより事態が悪化して、野良カウンセラーのくせにふざけんなみたいなことを思われるとか言われるなんて、そんなのはどうでもいいことなんだと思うんですよね。
大事なのは、そのように投げ込まれるものというものに、私が無力だっていうことの方がはるかに大事なんですよ。
これが何で大事なのかっていうのを説明するのが大変難しいんですけど、失敗っていうのは、フロイトがショーレイ・ドーラで失敗しているようにですね、
あれは定位解釈の失敗っていうか、そもそも定位という概念が彼が生み出したものなんだから、彼が生み出すまでは定位解釈ができるわけがないんですが、しょうがないんですけど。
でも彼は明らかにショーレイ・ドーラやってる時って、その後のやり方とすごい違うじゃないですか。
で、その後のショーレイ・ドーラというのは、彼にとっては一つのエポックスになっているんですよ。
いや、すごいそれは素人的な話なんですけど、でも素人なんですから、いいんですよ、それで。
つまり、ショーレイ・ドーラというのはですね、すごく人生相談っぽさがあるんですよ。
フロイトラッシュ絡むというか、それは後期のフロイトとかを知ってるせいでそういう言い方になるんですけど、あれはあれでフロイトらしいんですけど、すごくわかりやすいんですよ。
ああ、もう本当に無意識ってものを発見して、人生相談的に、ある意味私はあのスタンスに近いよなって思うことが多いんですよね。
まあ、あそこまでではないつもりだけれども、あそこまでお父さんしてないつもりで、そうでありたいと思ってますけど、フロイトはあそこで完全にお父さんになっちゃってるし、しかもある意味お母さんにもなっちゃってるし、
まあ要するに、すごく余計なお世話感が強いおじいさんになってるおじさんなんだけど、でもそれがすごく転移なわけじゃないですか。
だけどそんなことは気づかずに、そして気づいていいはずの立場の人っていうか、あれによって彼はそれに気づくわけだけど、気づくはずの人が気づかずにやっている非常にこう、自己制的なですね、
ここまで接近していて気づかないってことがあるよねっていう、でもあるよね普通にね。私だってしょっちゅうだよねっていう。
自分のこと考えてみればしょっちゅうだよねって。なんかあれですよね、目の前に、頭の上にメガネつけておいて、メガネどこだどこだって言っているような雰囲気ですよね。
でもそんなことは自分にやったことありますからね。だからあるんですよ、そういうの。当たり前なんですよ。帽子かぶっておいて、帽子ないんだけどとか言っている、コントみたいな状況になっちゃうんだけど、
はためで見ればそれは実に笑えるのかもしれませんけど、だからはためが大事なんですよ。
で、話があらぬ方向に行きましたけど、このフロイトが失敗した失敗ということ。
この失敗、しかもあの失敗は、なんか失敗したっていう認識を持つためには、何が失敗なのかについて相当詳しく知っている必要がやっぱあると思うんですよね。
別にドーラがおかしくなっちゃいましたみたいな話、だから失敗だとかそういうのではなしに。
まあ当然分析なんだからここで転移解釈でしょってところで、一切転移解釈が出てこないとか、そういうような話が失敗なんですが、でも失敗というのはそうやってするものなわけですよ。
言っちゃいけないことを言って相手が怒り出すとか、そういうこと。その怒りが理不尽だから、だって怒られる理由ないじゃん、それでっていうことになるので、
私が逆転移で腹が立ってきて患者を憎み出すみたいなことが起きると、これが失敗なんですが、この失敗がないと、つまりユニコット言った通りでして、
黙っていたら佐々木は何でもわかってくれるんじゃんみたいになるじゃないですか、私が。なんか頷いて黙ってたら、あのね、やっぱり全部わかるよねっていう。
ところが私が口を開いてわけわかんないことを言い出して、ここでこういうことが考えられますねみたいなことを言ったら、そうじゃないって前に言ったでしょってことになるじゃないですか。
つまりお前何もわかってないじゃんってことになるじゃないですか。これが失敗じゃないですか。ほんと佐々木さん何も聞いてないですよねみたいになるじゃないですか。
いやでも私話聞いてますしとかって、こう失敗に失敗を重ねていかないほうがいいんですけど、でもこれをやることによってですね、
私はその人の中の人間じゃないんですってことをはっきりする、しないんだけど、はっきりするきっかけが得られますよね。
あのその佐々木さんっていうのは私がイメージしていた人と違う。それはそうなんですよ。外在するんだから。
ここでその人は自分は夢を見ているんではなくて現実の世界に生きているんだということに気づいてくれないと気づいてほしいわけですね。
夢を見ているわけじゃないんですよ。だからあなたがそうやって苦しんでいて何かができません、あれができません、結婚できませんとかいろいろあるのかもしれないけど、それは夢なんで。
現実にはそれもできるし会社にも行けるし結婚もできるかもしれないんですよ。現実にはまだやってみないとわかんないですけど。
失敗の重要性
少なくとも結婚できず会社にも行けず、世の中には怪物でうよよしていますっていうのは怪物のような人ね。
夢かもしれないんですよ。っていうのにいくら夢です夢ですって外から言っても無駄じゃないですか。夢見ている人にも。この夢は現実そっくりなんだから。
しかも夢の中で現実そっくりじゃない夢をいくら見てても結構我々は疑わずに、いやこういうこともあるよなとかって思ってるじゃないですか。
例えばなんか夢の中で殺人事件を起こしてしまって警察に追われてます。いやそんなはずねえだろって思うわけですよ。
しかも刺した記憶とかが一切なくて、ただ警察に追われてるシチュエーションから始まっちゃってるんで、いやそんなはずないだろうって思うんですけど、
でもやっぱり警察に追われてるのが現実なんだからしょうがないから逃げなきゃっていうことで、なんか妹から金借りてるとかね、そういうことが起こるわけですよ。
起こんないんだけど。それは夢ですって誰かが夢の中で言ってくれても、いやだってこれ現実じゃんってそういう不毛なやり取りを夢の中でしてるわけ。
だから現実であるかどうかということを知るためにですね、イメージの中と何かと違うっていうこの感じを抱くことが、
私が佐々木さんだと思っていた佐々木さんと、こいつの言うことってズレがあるじゃんっていう、この人何でもわかってくれてると思ってるのに実は何もわかってないじゃんってことになったら、
ああっていう可能性が出るじゃないですか。こういうことが起きないと、失敗というものが起きないと、ここでミラクルが起きて、なんか私が素晴らしい解釈をすることによって、
ああなるほどなるほどなるほどってなってしまったら、その人はもう悪夢の中に閉じ込められることになりますよね、ある意味では。
そこがすごくこう、でも一歩間違うと、そこで何にも話を聞いてくれないから3カ月、3チャレはやめますってことになるかもしれない。
現実にそういうことが起きましたからね。多分こういうことなんだろうなってことが起きてるわけですよ。私からするとそれは恐ろしく理不尽だってことになるので、
あいつは何にもわかってないってなるじゃないですか。これが私が夢に巻き込まれるってことであって、逆転移としての憎しみとエニコットっていう人が書いた話に
だいたい乗っかってくると思うんですよね。で、このことをわざわざ書いてるという、一応読んだんで私は、わかってるとは言い切れないけど読んだんで、
このことをわざわざ彼が書いてるということが大事で、やっぱここでミラクルが起きますとか、ここでこのように言っておけばよかったのですって書かないところが
ミソなんですよね。ここであからさまに愚かしいことをやりましたって書けるということが、で、それはある意味やらされてますと。
だってやらされてますから。私が何でもわかってる人っていう役を引き受けてなければですね、そんなことをやらずに済むわけですよ。
母親の役割
この種の失敗というのはそういう意味がすごく大事なんだと思うんですよね。 だからミラクルが起きちゃダメだし、面接爽やかなのもいかんわけですよ、こういうシチュエーションにおいては。
むしろシドロモドルに意味不明なことを言うことによって、脱価値化が軟着力するっていうのはちょっと変な意味なんですけど、ソフトランディングさせたいわけですよ、脱価値化を。
現実というものに目覚めるというのはあまりにも鮮烈にというか、インパクトを大にして起きるとですね、トラウマになりかねないので。
ここがトラウマにならないので、もっとさすがにわかってないわぐらいな感じで、なんか本当こいつ軽蔑に値するわぐらいの感じで生きたいわけですよ。
そのぐらいの感じだと関係が壊れないまま、失望だけは手に入るじゃん。 失望を手に入れない。
だって、お母さんのことが大好きで、お母さんが何でもわかってくれるよねって言って、
3通のテストとかね、98点とかで普段できる子がね、ここだけミスしちゃったのって言って、お母さんがもうこういうことってあるよねって言ってほしい、
そういうことを言ってくれるはずのお母さんのときに、いきなりテストビリビリに破くみたいなことが起きたら、お母さんとは外在する存在なんだということになるじゃないですか。
これはいかんわけですけれども、でも、外在することはこれによってかなりはっきりしますよね。
内在しているこのお母さんと、外にいるお母さんは別物なんだと。
で、ここで今のビリビリみたいなことが起きると、だけど母親というのは、今までこういう白いなんか優しい存在だと思ったのに、なんかこういうすごいヤバいやつなのかもしれないってなると、
現存に対する強烈な不信感になる。そういうのは良くないわけですよ。外在すればいいってもんではないんですよ。
だから失敗ってのはややこしいんだけど、でも、ここで何でもお母さんのイメージした通りに振る舞ってくれる。
つまり欲望したときにはいつでもちぐさがあるって世界になると。
だってそういうケースとそういう人って時々いらっしゃるじゃないですか。
私こいついいよなって思ってたんですよ、大学時代とかに。
なんか付き合いたいと思ったらもう可愛い彼女が横にいるみたいな人っているんですよ。
欲望したときには常にいいものがそこにあるわけですよ。
この人生って素晴らしいよねって、私はもうディゾイドなんで万能空想の世界に生きてたから、
もうなんかこう全ては自分にあつらえられているような現実が空想によって作り出されて、
その空想世界が実現すればいいのにぐらいに思ってたんだけど、
今考えるとあんなに大変なことはないだろうなとは思わなくないですよ。
これを30の時に私が言ってるとほとんど完全に狐の負け惜しみみたいになるんだけど、
今だとわかるんですよ、この人生は厳しいというのが。
だってそんなことってありえないじゃないですか。
いくら欲しいと思ったときに彼女ができたからと言って、欲しいと思ったときに手元に100万円があって、
欲しいと思ったときに何々があるっていうことって、
本当に現実がそんな風になってたらとても恐ろしいじゃないですか。
何が起きてるのかわけわかんないですよね。つまり考えなくなりますよね、何も。
私だったら絶対そうなります。だって空想が全部実現化するのに何かを考えるって完全に無駄じゃないですか。
これほど不毛なことはないと思うんですよ。
だから考える能力というものが身につくためには母親の失敗が必須だというロジックは、
私には大変理にかなったもののように思うんですよ。
赤ちゃんは何も考えないですよね、普通に考えれば。
現実と空想の交わり
鳴けばミルクが出てくるのに何のために考える必要なんてあるのかと。
ミルクというものがどういう風なところからどうやって出てきて、
お母さんの栄養状態とかそういう様々なことが合致してこないと、
自分生きてるかどうかすらあやふやなんだっていうのをゼロ歳児が知ったらもうパニックじゃないですか。
ほぼ発狂ですよ。だからそんなこと知らなくていいわけです。
ですが、でも今いる会社でボーナスは100万出ます。
毎月70万ずつもらえます。ボーナス140万かその場合も出ます。
だけどなんかこの会社で作ってるものが在庫から消えたの見たことないし、
そもそも売れてるのも見たことないし、なんか社長とか全然出てこないしみたいな。
おかしいじゃないですか。
だからそういうことについて考えられるようにならないということはとても危険なことですよね。
だけど考えられるようにならない人は多分考えないと思うんですよ、そこで何一つ。
つまりそれはミラクルが起き続けることしか期待できないわけですよね。
常に弁説爽やかに自分が納得させられるか、それとも奇跡の連続によってお金だけは常に振り込まれるみたいな。
で、なんかこう知らないうちに知らないところで知らない悪事に加担してるみたいなことが起きかねないじゃないですか。
そういうのは極めて極端な、今のはしかも伎画化された例ですけど、漫画みたいな話ですけど、
ただ私が言いたいのは非常に単純で、人は普通は考えないようになってるってことなんですよ。
考えるためには都合の悪いことが必要でして、
で、その都合の悪いことというのはしかも99点のテストをビリビリに破壊されるということ、
インパクト大ではいけないわけでして、ここが難しいわけです。
小さな失敗をちょろちょろ繰り返されることがとても幸せなことなんですよ。
小さな失敗、つまり心の傷としては大したことのない失敗がちょろちょろ繰り返されることによって、
万能ではない人、万能な人たちではない人に取り囲まれるということによって、
あ、佐々木何もわかってねぇなこいつはってことにならないと、考えようがなくなります。
私が代わりに全部考えておけばいいってことになっちゃうじゃないですか。
で、それが今AIというものに期待されていることなんだけれども、
明らかにAIはそこまでは期待できないものなので、今のところ幸いにもですね。
で、我々は結局何かを考えているわけですよ。
AIは考えてくれているようなんだけれども、間違うじゃないですか。
で、しょっちゅう間違うって言って、Xにもよく投稿されているんですけれども、
しょっちゅう間違うからいいんですよ。
で、つまり地雷を踏むって言い方を、僕はあれは非常に違うような気がする。
地雷踏んだら死んじゃいますからね。地雷踏まないんだと思うんですけどね、カウンセラーは早々なことで。
単なるミスを犯しているだけであって。
この問題の一番面白いところは、
この失敗によってしか進展しない指法構成というのがあるという話で、
要するに…これは精神分析練は言うんですけど、IntercourseとCreationなんですよ。
Brain-childと言ったりもするんですけど、要はセッションだけではないんですけど、
ここで要するにжеわるという…。
だからこれが精神的に精的なっていう話になるんですけれども、
交わらないと子供はできないですよ。不毛なことの繰り返しになりますよ。
ただただ喋ってるんだけど、なんか何も生まれてきませんみたいな、その状態を脱したいわけです。
そのためには現実と現実が交わらないと、空想と空想が交わってても、空想の中でデートしていても、空想の中でホテル行っても、空想の子供しか生まれないわけですよ。
つまり何も生まれないわけですよ。この状態を脱したいわけです。なんとかして。
脱するためにはまず何よりも、現実にこいつはいて、自分の心の中のやつとはズレがあるっていう。
でもそのためには、そもそも心の中に自分を置いてもらう必要がありますよ。そうしないとズレに気づきようがない。
このズレが、つまりナルシシズム感の脱却を目指せるわけですよ。
私たちはこのズレがですね、ないようにないように心がけるという癖があるんですね。
だからズレなくなっていくっていう非常に高度な病理にハマっていくわけですよ。
お風呂の中で、明日の会議の練習するみたいなことやるじゃないですか。部長役とか課長役とかを心の中で作り出す。
そうするとその部長役とか課長は心の中の存在と合致していないと、私がしたプレゼンに対するフィードバックを心の中で出させて、それならいいねって言った。
このプレゼンの仕方のまま会議に行って、それならいいねって想定通りに言ってくれる。この世界から出ないとまずいわけですよ。
この世界にずっといるということはナルシシズムの世界にどっぷりハマり込むってことになってしまって、現実には何も生み出せないっていう事態を引き起こすわけですよ。
しかも心の底ではどっかこれが現実じゃないってことを知ってるので、不安がそこに常に入ることになるんですよね。
この不安もだいたい万能空想で何とかしちゃうんですけれども、この不安を何とかするたびにしばしばミラクルが欲しくなってきたりもするわけですが、この不安というものは当然なんですよ。
ナルシシズムと現実が不一致である不安。なくなってしまったらもうそれは幻覚ですよ。
ここの心の中にいる部長は本物の部長であるみたいな、そういう世界っておかしいじゃないですか。
部長がなぜかその場まで来たわみたいなそういう、だってあれですからね、そういうふうに言う人って現実にいらっしゃいますから。
心の中の現実と幻想
松木邦博さんの不在論に載ってましたね。お母さんが不在なので代わりにお母さんを作り出し、お母さんの幻覚を作り出し、そのお母さんの幻覚というものを信じることが、つまり精神病水準ということになるわけですよ。
自分の机の前にしょっちゅう課長が、課長なのかわかんないですけど、来て嫌がらせをすると。
で、その人は結局のところ治療を受けることになるわけですけど、嫌がらせはやめてくださいと課長に言うという話が出てくるわけですよ。
ああいう話は本当に普通にあるんだけど、心の中の課長だからどこにでも登場するんですよ。
しかもそれが心の中の課長なのであまりにもリアリティがあるために、まさかだってうちの前に来るっておかしくないってことになっちゃうんですよ。
おかしいわけですよ。うちの前に来るはずがないんですよ。
でも、世の中には現実的にそういうことが起き得るってことをニュースとかで見ているので、私たちは非常に難しいんですよね。
それを自分の力だけで区別するというのは、非常に簡単なように聞こえるかもしれませんが、おそらくこれは至難の技か不可能なんですよ。
我々が夢の中のあっさり何でも信じ込む態度を考えてみても、たぶん我々は、自覚したものは現実であると。
人も簡単に信じる。自覚したものは現実でないのは確実じゃないですか。目を瞑ると全部消える。
で、現実は消えないじゃないですか。ずれは確実にあるんだけど、我々はそれを無視したがるんですよね。
で、無視したがるのは、自覚を信じないと現実対応できないからしょうがないんですけど、
だから象徴機能と言葉というものが互換的に必要になるんですけど、この目の前に映っているものは家と呼ばれていますとか、そういうのを信じるように作っておかないと大変なことになっちゃうので、
自覚があまりにもビジュアライズに綺麗に作り出されてしまうので、どうしてもこれについてのラベリングが、つまり象徴機能が一緒に連動してちゃんと機能してないと。
それでもですね、やっぱり他人との交互というものがいるんですよ。あれ家ですよね、そうです、あれ家です、みたいな、そういうやり取りしませんけれども。
私だから交差点がやっぱり一番いいと思うんですよね。交差点は本当に、私の中では交差点に行けば我々が正気かどうかが一応納得できる。
夢の中でも交差点あるじゃんっていうことは言えると思うんですけど、夢の中でもいいんですよ。赤信号で止まってればね。
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