タスクシュートの実践
おはようございます。精神分析を理解したい3ヶ月チャレンジ、第1229回をお送りします。
8月6日水曜日、朝の7時43分です。うん、完全に元に戻りましたっていうか、これがつまり正常な撮り方ですね。
今後はですね、本当に平日夜とかに撮っておいたのを上げるというのもやっていきたいと思っております。
というのは、つまりこのやり方だけに頼っていると絶対落とす日がやってこざるを得ないというか、落としてもいいんですが、
とはいえですね、なんとか平日4日というのは、これはつまり精神分析の形式だけに合わせたいという、相当どうでもいいことをやりたがっている私がいますので、
そこをちょっと頑張ろうかなと思っている次第ですね。
お知らせが1つありまして、タスクシュート、完全活用術みたいな名前だったと思うんですけど、あれはあの時の思いつきでつけてますが、
PDXの方からですね、タスクシュートの私の24時間、24時間といっても睡眠中はほとんどただ睡眠ってなっているだけなんですが、
1分も間を空けずに記録を取るというのを依然としてやっておりまして、記録を取っているわけではないんですけどね、私の中では。
そういうやり方をやっておりまして、これをどうしてやっているのか、そしてどのようにすれば一応やれるのか、
まあ、やれるのかの方については、とはいえやれないよっていう風に言われれば、もはやそれまでですが、
まあ、とにかくどうすればやれるのかと、何のためにやっているのかについて、おなじみなのかわかりませんが、
Zoeさんとお話しします。Zoeさんとと言いましても、Zoeさんの方はこのテーマではないかもしれないし、そんなに長くお話いただくわけではないです。
私の方が割とがっつり話します。ずっと私がお話ししてきた、一応提唱させてもらってきた24時間体制で間を空けずに撮りましょうと。
まあ、これは皆さんに言わないようにしております。撮りましょうとはね、今では。
それはつまりタスクシュート普及において、おそらくこのようなことを言うことが余計であり邪魔になるだろうということで、身を潜めてひっそりしていようと思うようになりました。
というのは、私はタスクシュート、ちょっとこの話しましょうかね。タスクシュートを使うにあたってですね、これはPDCAとは私の中では何の関係もないなということがわかりましたし、
レビューをして、明日の人生、生活、仕事を改善しようという気もさらさらないということがわかったので、これを言っていくとですね、明らかに邪魔になるんですよ。
だから自分は邪魔をしてまでこれを言いたいわけでは別にありませんから、このようなことを話すのをやめにしようと思うようになったんですけど、
この線ってあるんですよ。24時間で隙間をなく撮りたいという線はあるんですね。
PDCAへの疑問
その意味するところは、いわゆる改善に使うことができないわけではないんですよ。改善、習慣化、PDCA、時間の効率的な運用、その他について、
私は一切関係ないけれど、タスクシュートをそれらと関係づけることはもろんできるんですよ。
私は習慣化してるわけではないし、PDCAしてるわけでも改善してるわけでも、少しでも良くしようとも全く考えてませんが、
そのような使い方をしている人間の使い方もあるっていう話をしたいわけですね。
マインドフルネスは少し近いんですけど、今ここも。以前そのことも私は少しそっちに寄せて喋ってみたこともあるんですけど、なんか違うなと。
あれはグッドバイオスだけでもいけてしまいますし、今ここっていう話だけをするならば。
その予算みたいなものも無関係ではないんですけど、タスクシュートなしでもそれだったらやれるなって、タスクシュートじゃなきゃできないことがあるなということがわかってきたんですね。
この話をしますが、この話しか多分できないです。
だから、それでもPDCAっていう話は他で聞きましょう、本当に。私から聞くのは不毛な感じがします。
だって私もそれを信じてないんですから、全くね、1ミリも信じてないのに、そんな話を私から聞いてもしょうがないじゃないですか。それを信じてる方から聞くべきです。
信じる信じないというのは事実がどうであるかじゃないんですよ。
ここをですね、多分私は家が宗教だったから、家が宗教だったっていうと宗教何世みたいな話ですけど、それを言うなら僕は三世なんですけど、三世って言ったって別に神徒は神徒か、坊主じゃないからね、三世おかしいんですけど、宗教二世って言い方は私おかしいと思うんですよ。
私が坊主になれば三世だったんだけど、私神徒は神徒だけど坊主じゃないから三世じゃないんだよな、三世の成り損ないなんだよなって思うんですけどね。
どうでもいい話なんですが、家は寺だったわけですよ。割と鎌倉伝統仏教系の寺なわけですね。
なんか750年とか言ってるわけですよ。本当かどうか。700年ぐらいは本当だなと思うんですよね。
あとめちゃくちゃ弾圧された時代があったから、弾圧師が多いんですよね。そもそも弾圧されがちなんですけど宗教なんてものは。
なんか一騎とかやるじゃないですか。あの宗派とは違いますけど、一騎とかやりゃそれは弾圧されますよね。だって権力者と戦おうって言ってるわけですからね。
そういうわけで、非常に戦闘的なところが宗教というのは、雰囲気とは裏腹にとてもあるわけですが、
宗教というもので考えるなら、これは信じる信じないの話ですから、信じる信じないに事実かどうかみたいな話を持ち込むのはおかしいと思うんですよ。
事実だと思ってるから信じてるわけですよね。事実だと思わないものを信じるとは言わないわけですよ。
この辺はね、宗教の世界は本当にうるさいんで、信じてない奴とは口をきいちゃダメだみたいなことを平気で言うんで。
だから、信じる信じないの重さが異常に重いんで、なんて言うんですかね。
それは事実なんですかっていう問いが発生するっていうこと自体が信じるということよりも、上位に置こうとしている段階でおかしいわけですよ。
それは信じてないってことなんですよ。信じてないから事実を信じたいわけじゃないですか。信じてないんですよ。
信じられないものがあるから、もっと上にある事実を信じようとしてるわけですよ。宗教側から見るとそういう観点になる。
信じる信じないって言うのはそういうことなんです。なので、何を見たとしても、そういうセリフがあったなら何かの漫画に、何を見たとしても何を体験したとしても、それは絶対おかしいだろうっていうことでも信じる。信じるとはそういうことなんですよ。
そうじゃないんだら信じるのやめた方がいいんですよ、本当はね。信じられるから信じるっていうのはもう信じてないってことなんですよ。
まあでもこれはね、そんな話をするところではないんで、そうするとタスク修道宗教になってしまうもんね。でもここにあるのはですね、私が信じるタスク修道なんです、ある意味では。
私はPDCAを信じてないんですね。ここが大事なんです。タスク修道を信じてるというよりはPDCAを信じてない。
人生は改善し得るものだという考え方を私は多分信じてない。多分ではなくて信じてないんです。
信じることの意義
だからこの考え方を聞くのに、私から聞くのは良くないと思うんですよ。
信じてないものを私はやっぱり語るべきではないなぁとは思うんで、さすがにね。これは最低戦ですよね、はっきり言って。
嘘をつくってことになりますから、私の中では。だから嘘をついてくださいっていう、それに近い要望もないわけじゃないんだけど。
いやまあ、それは望まれれば嘘もつくべきなのかもしれないんだけれども、それはなんかちょっとやっぱり無理があるなと思うようになりまして、
基本嘘はつきたくないということでですね、しょうがないですね、こればっかりはね。信じているところをしゃべろうと。
信じているところというのはつまり、基本的には時間の使い方というものを変えてみることによって何かが変わるとしてもですね、そこはそれほど大事なところではないなという、そういうことですね。
まあ、突き詰めると結構微妙な話に聞こえると思うんですけど、私の中ではもうこれを確信してから5年は経ってるんで、私の中ではもう相当かっこたるものになりました。
まあ、だから何だと言われると何でもないんですけどね。そういう話をします。24日?3日。とにかく8月の最後の土曜だかに、最後の土曜か最後より一つ前の土曜だかに、
ちょっと詳しくはですね、X等を私のを見ていただければと思うんですけれども、割と申し込みが早い段階で、この話からするとちょっと不思議じゃないですか。
私、申し込み全然ないかなっていうちょっと懸念を持ってたんですけど、あと1週間のフォローを入れます。話を聞いただけでも半信半疑感が拭えないと思うんで、それを1週間のフォローで何とかできるというのかって言われると、
ここもまた微妙なところもありますが、もうそれ以上はちょっとね、それ以上というか、フォローってのはやっぱり何年もやればいいって話とちょっと違うと思うんですよね、これもね。
それをある程度受け入れてしまわないとできないこととかあるんですよ。
PDCAでさえそうですよ。PDCAだってあれによって改善されるって信じなきゃできないですよ、あんなことは。
私、信じてないからできないんですもん。そういうことですね。だから、やっぱり1週間というのは信じるための時間であって、定着させるための時間ではないんですね。
信じちゃえば、信じちゃえばって本当に宗教みたいなんですけど、でもこれは物の見方なんでですね、本当に。観点というやつなんで、例えば相手が悪人かそうでないかっていうのは宗教じゃないですよ。
でも信じるか信じないかって部分あるじゃないですか。散々騙されてきたみたいな。でもこの人を信じるみたいな話ってあるじゃないですか。あれは宗教ではないですよね。
恋愛みたいな話ですよね。だから、信じる信じないっていうのは宗教が全てではないんですよ。宗教が全てみたいになってるのは、宗教がすごく弱ったからなんだろうなって感じがします。
いい加減本題に入ろうと思うんですけれども、とりあえずそういうことで、ダスクシュートの方はよろしくお願いできると幸いです。
私の話はよく煙に撒かれるとかっておっしゃる方が多いんですけど、多いんですよ、本当に。煙に撒いてるわけではないんですよ。
多分その方々が信じてることを私が信じないからそう聞こえてしまうんですね。私は違うことを信じてるんですよ。
で、私の信じてる方向について機弁をする気はないんですよ、別に。なぜなら、私はその信じてるってことを変える気は今のところ全くないんで。
なぜなら、PDCAは散々試してきたからね。よっぽどの理由がない限り自分の人生を改善したいとは全く思ってないんですよ。改善したいというふうに。
人生をね、あれですよ、収支状況を改善したいとかなら思います。でもそのためにタスクシュートを使いたいかというと、そうは思わないんですよね。
収支と物の価値
お金を儲けたいって話じゃないですか。収支状況を改善したいって話はね。それなら話はわかる。ただ私はお金を儲けたから人生が良くなるというふうには感じられない。
これも昔は可信じてました、そういうふうにね。でも私は、物は私を幸せにしないんですよね。物が全くないと困るってことは当然あるんですけど、でも物ってのは本当に人を幸せにしてくれないなって思うんですよ。
ギリギリの線はあっても、増やしたから幸福になれるっていうのはとんでもないなっていう。どうしてこんなに嘘なんだろうっていうぐらいひどいなって感じがします。
もちろんね、それを私の例えば娘なりが欲しいって言わないんだよね。やっぱりだからそういうことなんだよなって思うんですよね。
まあまあいいです。そういう話をしててもしょうがないんで。そういう話ではないです。イコールじゃないです。はっきり言って収支状況の改善をするためだったら家計簿つけた方がいいです。
タスクシュートなんかやるよりは家計簿つけた方が私は絶対、絶対とは言わないな。これも収支状況を絶対に良くはしないんですよね。何かを信じる必要があるんですよね。
だってフリーランスで金儲けようという気があんまり強くないのに、お金の計算ばっかりやってても儲かんないですよ。やっぱり儲けようっていう意識をもっと強くちゃんと持たないとね。
私強くちゃんと持ってないんであんまり。ここはやっぱりJ松崎さんとかに彼は偉いなよく思います。
投資とかするもんね。会社の社長やってるからなんでしょうけど、私投資とかする気になれないんですよ。設備投資みたいなものはやっぱり拡大再生者の方には絶対いると思うんですけど、全然してないですもんね。
なるべくMacは長く、長く古いやつを長く使おうっていう風にしか思ってないですからね。基本的に個人セッションができれば私はそれでいい。他にやりたいこと何もないですから。
この話に移っていきたいと思います。タスクシュートの方はよろしくお願いします。
セッションがやれればいいって今申し上げましたけど、
何て言うんですかね。すごく最近ホラーのものについてちょっと考えてるわけです。
ホラーは、ホラーって難しいんですよね。そうだ、昨日失敗って話をしたじゃないですか。
あんまり視聴者数自体はそう多くいらっしゃらないんだけど、いいねはすごく多くて、なんと5割を超えてるんですよ。
これも異常自体だなって思うんですよね。いいと思う人が聞いてくださらないっていう、それはいいことなんですが、大変ありがたいんですけど、それにしてもちょっと極端だなとは思いますね、我ながらね。
いいと思ってもいいねってつけてくださらない方もいっぱいいるわけじゃないですか。
どういう数字だこれ。6割近いなって感じ。6割近いですよね、実際。7分の5ぐらいだった。7分の5入ってないか。
でもまあ、5割超えてたんですよ。今も超えてないかもしれないけど。超えてないことを祈ります。母数が小さすぎる。
失敗。昨日ですね、梅津和夫さんの恐竜教室の仇役っていうか憎まれ役に関谷っていうね、給食のおじさん属に。
給食のおじさんって何なんでしょうね。給食を囲んできてくれる人なのかな。その人が、恐竜教室って要するに未来の、言ってみれば廃墟と化した未来の世界を生きるに飛ばされてしまった学校の話じゃないですか。
早々に梅津和夫さんは好きでないからなのかもしれないけど、教師全員殺しちゃうんですけど、教師たちまちみんなお互いに殺し合うという不思議な展開を見せるわけですよ。
でもこの給食のおじさんを憎まれ役は最後の最後まで生き残るという。梅津和夫さん絶対この関谷のおじさんが好きなんだろうなと思ったら、僕はこういう人好きですってあっさり言ってたんで、作者の意図解放みたいな感じで最後まで生き残るのは意識的なものなのだろうかって思ったんですけど。
そのおじさんが子供たちが一生懸命何かに取り組んでる時につぶやくんです。つぶやくというか祈るんですよ。失敗しろ失敗しろって祈るんですよ。これだよね失敗って。
まあここまで心が非常に大人びてない大人っていうのも、そしてそれを作者の記号によって最後まで生き延びる唯一の大人になるっていうのも非常にあれなんですけれども。
だからこの失敗しろ失敗しろって怖いシーンなのかもしれないけど子供が読めば。大人が読むと逆にしか見えなくなっちゃうのが、つまりそういうことなのかなとも思わなくはないんですよね。
でもそういうもんだろうというのは確かにその通りだと思うんですよ。
例えばね、これはちょっとだからこれは子供に見たものの見方なんだけど、
例えば私のような野良カウンセラーのことをですね、心配してくださる正規のカウンセラーさんっていうのがいらっしゃるとするじゃないですか。
でも絶対内心どこかで関谷さんがやってると思うんですよ。僕もそこまでナイーブじゃないんですよ。
やっぱり絶対ね、佐々木さんそれはすごい素晴らしい試みですけど、バウンダリーとかをちゃんとやらないと佐々木さんが心配ですって言ってくれてる方はやっぱり失敗しろ失敗しろって祈ってると思うんですよ。
別に悪いとは思わないんですよ、それはね。ちょっとギャグみたいなもんだろうと思うんですよね。
やっぱりなんていうのかな。だって一生懸命、私がすごく適当にやってるわけではないんだけど、一生懸命いろいろと正規でなくてもいいんですけど、
そういう心理的な自分のヒストリーがあるわけじゃないですか、どんな人にも。
その人の中でこうやって頑張ってきて、こうやって積み上げてきて、こうやって失敗のないようにして、こうやって地雷を踏まないようにしてきたのに、
なんかこう、そこら辺の野良が適当なことやってるのに、なんか地雷ひょいひょい避けてたら、あいつ地雷踏めよみたいに思わないかもしれないけど、思ってもおかしくはないですよね。
これが失敗しろってことだと思うんですよ。いやもう地雷踏まないか心配です。それも嘘じゃないと思うんですよ。地雷ひょいひょい言っていたら、やばいよねとは思うと思うんですよ。
同時に踏んで死んじゃえばいいのにって思いもすると思うんですよね、やっぱりね。
ここで、両面のうちの梅津和夫さん的世界だと、踏む方しか見ないってことなんですよ。失敗しろって祈っている人しか見ないんですよ、彼は。だからその人が最後まで生き延びるわけですよ。
その人こそ現実を見ていると言いたいわけですよね。で、わかるんですよ、梅津さんの。梅津さんの森林の、なんていうのかな。
だから私は非常に、梅津和夫さんがジゾイドだっていうつもりはないんですけども、非常に人に見えないものが見えるタイプってやつですよね。
だからやっぱホラーの、ある意味神様みたいな人じゃないですか。みんな知ってますよね、あの絵。グワシの絵。
ギャグも描くんですけどね、彼はね。でもギャグよりも、彼が真剣に描いたホラーの方が、はるかに幸福・絶倒ものなんですよ。
そういうと失礼かもしれませんけれども、でもまあそれは、私は天才だと思うんですよね、やっぱりね。
ある意味、手塚治虫さんが似てるじゃないですか。彼は本当に漫画の神様だから、もっとこう、何て言うんですかね。
ホラーで笑わせないし、ギャグは笑わせますけども、でも近いんですよね。とってもよく読んでいくと、雰囲気なんかが。
と、私は思うんですよ。あの綾子っていうかなり深刻な話がありまして、いや、恐竜拒止深刻なんですけどね。
あの綾子っていう深刻な話がありまして、だからやっぱこの辺が手塚さんなんだよな、その話が壮大じゃないから、彼のホラーは怖いんですよ。
どっちかというと八幡村の世界に近いんだけど、綾子ちゃんはですね、あの、家父長生がまだものすごい頃の封建社会ですよね。
あの、地主と言っても王様みたいなもんなんだけど、地主の人がですね、あの、要するに長男の嫁を寝とっちゃうわけですよ。
そしてその長男の嫁との間にできた子が可愛らしいわけですよ。嫁寝とるぐらいだから嫁美人なわけですよ。で、可愛らしいわけですよ。
で、この可愛らしい子が悲惨なわけですよ。だってそうやって生まれた子だから長男のお父さんにしてみればめっちゃ面白くないじゃないですか。
結局雑誌披露に閉じ込められてしまうんですよね。あの、ごく幼い頃から。で、そこから出してもらえないっていうこの、怖いですよね。
こういう怖さが、手須賀さんはやっぱ上手いなって思うんですよね。ただ、これも仁王によってはギャグというのは許されませんけれども、実に子供じみた発想ですよね。
この子供じみた感というものが、やっぱりホラーの世界には常につきまとっているんですよ。どこか深刻なんだけど、たとえどれほど深刻だとしても、
いやー、それはもうわかるわとは全然ならないんですよ。何ら共感できる感じがしない。私だったら。で、この何ら共感できる感じがしないところに実はリアリティの無さがあると思うんですよ。
共感できると思うんですよね、リアリティというものがあるものは。やっぱり人間は生物なんで、生物がリアルじゃないものとだけ格闘してきていたら、やっぱり反映できなかったと思うんですよ、今のようには。
結局のところ、生物にとって反映するというのは、死なないようにして、食べられるようなものを食べて、で、反映できるようにセックスするってことなんですよ。
一人でずっとセックスごっこしてたのは絶対反映しないんですよね。だから、共感されるということは、つまり情報を共有できるということで、情報を共有できるということは背景にリアルという根拠を持っているという話であって、
やっぱりホラーというものは、どこかですね、背景に共有できないリアル、つまりリアルではないものがそこにあると思うんですよ。つまり、子供が勝手に見ている空想みたいなものを見ちゃうから、そんな幼い子を雑誌披露に閉じ込めて、自分のお父さんに復讐できているような気になってしまうわけですよ、いい歳したおじさんが。
まったくいい歳したおじさんの、まったく社会的地位も高い人なんですよ。それがそんな感情にとらわれて、そんなどうしようもないことをやっちゃうところに、実は共感できない部分があると思うんですよね。そこにリアリティの無さってものを感じるんで、そこが梅津和夫さんのコミックの方があからさまなわけですよ。
その失敗しろ失敗しろは、共感できるようでできないですよね。子供が未来の世界で一生懸命生きているのに、その失敗を心の底から望むという大人のありようっていうのは、わからなくはないです。つまりさっき言ったように、こいつ地雷踏めばいいのにって思うのもわからなくはないですが、でもやっぱりそこが最も共感ポイントかって言われると、そうではないような気がするんですよね。
共感とリアリティ
だからどうしてもですね、ホラーの怖さというものは、どこかあからさまになるとリアリティを失うという意味でリアルに耐えてない感じがするんですよ。
ハワード・フィリップ・ラブ・クラフトっていう超有名な、まさに古典SFの神様みたいな父ですよね。アメリカ人だったと思います。HPラブ・クラフトで有名なクトゥルフ神話みたいなのを、ある意味トルキみたいな、指輪物語体系みたいなのを作り出した、化け物体系みたいなものを作り出したんですけど。
あの化け物、確か私が記憶している限り犬にやられてしまうんですよね。なんかこう、コリン・ウィルソンっていうですね、割と有名なアウトサイダーを描いた有名な哲学者なのか犯罪研究者みたいに言われてるんですけど、コリン・ウィルソンに、なぜこれほど強いのは犬なんぞに殺されてしまうのか説明されていないってあっさり書かれてるんですけど、そういう感じがするんですよ。
このホラーのリアルっていうのは、リアリティがどこか欠けている。子供が読むと実に怖いし、あのラブ・クラフトの古典作品は未だに古典として残っていて、面白いんですよ。でも彼の内面のリアリティってものが、何か感じさせられるような、長らく病院にいらっしゃったっていう、なんか体弱かったのかな。
何なのかわかんないんですけども、現実世界というものと、いない人みたいな雰囲気っていうのがちょっと空想で作りましたよねっていう感じがやっぱしちゃうんですよ。面白いですよ。
昔ドラゴンスレイヤーってゲームやったんですけど、ああいうゲームの雰囲気の下地になってるような感じがあって、だから単なる子供の空想とはちょっとやっぱり一線を隠す感じがあるんですけれども。
なんかただ、ここってところで逃げを打つというのかな。僕、短編のやつを最初に読んだとき、あれも幸福絶倒だったんですけど、これもやっぱ失礼っちゃ失礼なんですけどね。
なんかこの家にいると、この家に来た人は漏れなく行方不明になってるとかそういう設定で、この設定がどうなのって感じなんだけど、その人はトマス・ハリスのあれですね、デクタ博士みたいなんですけど、その家の主人は職人という文化に興味があるみたいな感じで。
で、こう、ある客がやってきたときに、なんかこうですね、えーと、そういう話をするわけですよ。確かそういう話だった気がする。なんかだんだんだんだん顔が怪しくなってきて、なんかよだれとかを垂らし始めて、なんか自分を食い出そうになっているっていう、もうなんかものすごくあからさま感があるんですよね。
で、そういうのを見ながら、職人特集を見ながら、あーっていう感じになってて、なんかデクタ博士を逮捕した刑事が同じような目にあってましたけどね。その辺やっぱりトマス・ハリスは上手いんですよね。もっと遥かに上手く描いてる。ただ、ラブクラフトはそこのクライマックスがちょっといかんわけですよ。
なんかね、いきなりその館が雷に撃たれて終わっちゃうんですよね。私もこう、それなどの時は中学生だったんだけど、なんかこう、小説はそう書いちゃダメじゃないかっていう感じが猛烈にした記憶があります。なんかこう、なんて言えばいいんですかね。
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