放送の概要と告知
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1162回をお送りします。
はい、おはようも何もありませんが、4月6日、日曜日、21時10分です。
とはいえですね、これをどうしようかな、アップするのは明日にしようかなと思っている次第です。
明日、多分ですね、ちょっといろいろ諸事情があって、おそらく朝の収録は不可能だと思いますので、
今日ですね、撮って明日収録。珍しくこういうね、やや計画的なことを自分ながらやるわけですけど、やろうかなと思っております。
はい、お知らせですが、5月1日から第10期の3ヶ月チャレンジを開催します。
これはですね、私にしては珍しくやや気合が入っておりまして、本当にそんなことできるのかよというのもあるものありながらもですね、
なるべく参加者さんにはですね、寝引きするわけではないからちょっと恐縮なんですが、週2回の私との個人セッションを持っていただいて、
まあこれは別に全然ね、強要するってわけじゃないんですけど、だから新規の方も週2回っていうのを可能にしようと思っております。
で、グループセッションも週に2回、接触回数をですね、一気に最大で週4回まで上げて、
異国一部ですね、金額的に大相談になりますが、週3回の個人セッションを持っていただいて、
週2回のグループセッションを合わせると週5回ということを可能にすると。
回避の影響と課題
まあこれはですね、要はなんて言うんですかね、専門用語しかなくてちょっと恐縮なんですけれども、
とにかくですね、直面してもらいたいってわけじゃないんですけど、今日はその話をしたいんですけど、
回避というものがやっぱり僕らの否認という言い方をしてもいいんですけど、どっちかというと僕の感じではやっぱり回避なんですよね。
やっぱりライフ波形で仕事もされていて、もちろんその象徴機能を扱えて当然ですよね。
その言語的に、言語的じゃないとオンラインなんで、ほとんど何のやりとりもできなくなってしまいますから、
言語的なやりとりが可能でいらっしゃる方とのセッションですから、基本的には、あのまあ否認はもちろんあるにせよですね、
回避的っていうのが基本的な課題になってくるんですよね。自分が要するに怖くて入り込みたくないところからは、どうしても回避していってしまうんですよね。
で、この回避が別に回避そのものはその人の自由なんで、回避がいけないってわけじゃないんだけど、
回避することがですね、やっぱり仕事に非常に差し障ってくるというか、仕事の邪魔になる。
仕事を進める上では、決して良い作用は、はっきり言って良くない作用しか汚さなくなるわけですよ。
で、この回避というものは私だってするんですけどね、回避と盗作ですよね。だからつまり、例えばですけど3ヶ月チャレンジの10期の告知をガンガン進めるべき時にですね、
なんだかよくわかんないけど、やっぱりこうちょっとファンザを見てセクシャルな、しかも僕のことだからやや精神的にサディスティックでセクシャルなものを見ていて、
なんかこうなんとなくそっちにだらーっと流れるという、これは盗作なんですね。そういう快感で誤魔化すと。
何か僕が直面したくない何かに対して、そういう快感で誤魔化すと。これとはいっくらもあるわけですよね。やりたくないこと。
例えばトイレ掃除すごい嫌だと、汚いところを触るのがすごい怖いと思っている方っていっぱいいらっしゃるわけで、トイレ掃除しようとすると、なんかこうなんだろうなフランス書院文庫でも読みたくなるとかね、そういうことはいくらでもあるわけですよ。
これのすごい複雑に入り組んでいくと、こう回避性なパーソナリティみたいな感じの流れになっていく。
問題なのはそういうアセスメントを我々はしないんだけれども、その代わりに回避ということを十分吟味する。十分吟味するだけでも十分嫌なことだから、そこすら回避していってしまうんですけれども、
そうすることを何とかはどめるためにですね、接触回数をぐっと増やすと。
でも接触回数を増やすことによってめちゃくちゃ辛くなりましたっていうのだと、心理療法をやってるわけじゃないから、それはそれで困るので、ここら辺のやっぱり
塩梅をですね、知るために私は週1回の本を読んでみたり、精神力動系の本をしつこくしつこく読んだりしているんだなとか、どうやって踏み込み、
どうやって進修的にならず、でもどうやったら無意味に不毛にですね、お互いがなんとなく納得し合っているようなやり取りをしてたんではやっぱりダメだと思うんですよね。
前へ一歩も進まないと。それだとやっぱり時間とお金の搾取みたいになってっちゃうんで、これも避けなきゃいけないと。
こうやってですね、あれも避けてこれも避けているうちに何もできなくなるんですよ。そこに解釈というものをする余地ってのが多分、解釈ってのはどうやったってできるんで、ある意味ですね。
沈黙すら解釈の対象にはできますから、そういうことなんだろうと。これもままごとみたいなもんなんですけどね。私は精神分析やったことがあるわけじゃないし、受けたこともあるわけではないですからね。
精神分析の問いかけ
でも、やっぱり最近思うんですよね。藤山直樹さんの書いていることとかは、松木邦博さんもそうですけど、まあそのごくごくもっともなんだけど、でも実際にはそうはできないんだし、やっぱり私ですね、アトピー持ちだったからわかる気がするんですよ。
治らないからといって放置はできないっていう問題がありまして、治らないものをどうにかしようと言うなら、ここに持ち込めるものが役立ちそうならばですね、ままごとだろうと、なんだろうと、野良だろうと、どんどん投入するよりほかないじゃんっていうね、それができない。
つまりですね、寿司を食べなければ、江戸巻寿司を食べるのは寿司屋に行かなきゃならないんですが、どうしたって食べれない人はいるわけで、そういう人が海天寿司を食べるのは代わりにはならないかもしれませんけれども、代わりにするしかないわけですよね。
そういうようなことに僕は相当近いなと。でも今、海天寿司っていう文化もあるわけじゃないですか。認められないっていう人もいるかもしれないけど、認めるヘッダクレもないわけですよね。事実あるわけですよね、そこにはね。そしてそこで結構食べていて、そこで結構寿司が発展もしていくわけじゃないですか。世界中にあるんですよ、今はああいうものは。
アメリカにも海天寿司がいっぱいありました。そういうもんなんだっていうことですよね。そういうもんじゃないかもしれませんけどね。寿司を例えに出されるんですよ、藤山直樹さんはよく。だからそういうことを考えてみたというわけですよ。
3ヶ月チャレンジの第10期なんですけど、そうやって接触頻度をグッと上げると。やっぱり私はですね、ブログの記事をふわっと書いて、いかにも役に立ちそうなことを一般的に出すっていうのも時々考えるんだけど、全然気が乗らないんですよね。そういうことでは全く済まされないというか。
やっぱり何かを回避したいという人に向かって、回避はやめましょうって書くことほど、なんか十分虚しいじゃないですか、それはそれで。回避したくなるんですよ、人間というのはですね。そこを逃がさないぞみたいなノリってやっぱり力動にははっきりあるんです。なぜなら力動という精神力動というのは、偶発という考え方を極力排除する。
これは先日ですね、グループセッションで何をもって親習というのか。親習っていうのは結局のところ、セッションでね、個人セッションで精神分析でもいいんですけど心理カウンセリングで踏み込みすぎるということなんですよね。そこまで言われたくないよっていうことを言われてしまうと、それは非常に傷つくよねっていうこと。一方は違うとカウンセリングがトラウマになりかねないじゃないですかってことですよね。
したがって親習的であるというのは避けたいというのは、まあこれはちょっとこういうことをやってる人なら多分みんな思うんですよ。コーチングをされてる方だって多分回数が多くなって敏感な方は絶対思うと思うんですよね。ある種のことを言えばもうそれは親習になり得ると思うんですよ。
それは何を言ったらそうなるかが厳密に事前にわかるはずはないから地雷を踏むとか言いますけれども、そういうことは起こるってことなんですよね。
面白いお話がありまして、これはちょっと他でも聞く話なんで一つだけご紹介したいと思うんですけど、これ遅刻の話でよく出てくるんですけど、遅刻とかキャンセルでですね、精神分析受けに行くときでもあるんですよ。絶対あり得ることだし、僕も現に体験したんですよ。いわゆる精神分析的心理療法で体験したんですけど、電車が遅れました。
電車が遅れたから時間に間に合いませんでしたっていう風に言うじゃないですか。ああそれは大変でしたねって普通はそうですよね。でも精神分析ってそうではないんですよ。あなたはどうして遅れたかったんですかってこう来るんですよ。こう聞かれないんですよ。このまんまとは限りませんけれども、それこそ親習になるんで中断を恐れますからね、やっぱりね、カウンセラーも。
このようにではないかもしれないけど、でもこういう問いが必ず発せられるんですよ。ある意味では。実は私も3ヶ月チャレンジではすっごいマイルドでかなり遠回しにしますけど、この種のことは言ったりするんですよね。必要を感じた場合にですけれども。
なんでか。なんでかっていうと、空発というものを認めないからなんですよ。この辺にユングって方がね、セレンディピティとかセレンディピティだよね、大体においてね。朝が来れば牛乳が届くけど、朝と牛乳に因果関係はないよねっていう話に近いんですけど、つまりそれが起きたということはそこに因果関係はないですよ。
遅れる電車にわざわざ乗って遅刻しようとしましたってわけじゃないんだけど、でもあなたはどうして走力を上げて遅刻を回避しようとしなかったっていう、どこか体育会見みたいな問いになってるわけですよ、これは。ものすごいポジティブ心理学とかね、そういうものに通ずるところがあるな、精神分析って思うときは、私時々あるんですよ。すごく違うって皆さんおっしゃるんだけど、すごく違うんだけど、近いところあるんですよ。
もう万難を背してやれってことなんですよ。ここに絶対来いよってこと。これはですね、つまり、もしその精神分析がもうなんかメロメロの恋愛みたいだったら、あなた何としてでも遅れずに来たんじゃないんですかって問いに近いんですよ、限りなく。
電車が遅れててって簡単に言うけど、ここにもしもうね、その子が、いや私あなたと付き合いませんけど、もし朝の3時に365日来てくれたらちょっと考えてあげてもいいよって言ったら、恋愛で気が狂いがちな人は行くでしょっていうような、行かないと思うんだけど、僕なら行かれない時があったわけですよね、時期的に言うと。
回避性への挑戦
それが精神分析にはまんま言われてるんですよ。あなた死んでも来たいと私と会って話したいと思うなら、そんな山手線の遅刻する電車にノウノウと乗ってないだろうねっていう、乗ってないですよねっていうことを言ってるわけですよ。僕はこういう言い方しませんけど絶対に。
これを考えていくことによって、人は回避性という、自分の回避性というものに立ち向かっていかなければならないというか、見つめていかなければならなくなるわけですよ。
いろんな方が回避性とか依存症みたいなケースの場合、例えば私はすごく人に依存してしまうんです。本当に先生に迷惑をおかけしてしまうから、その前にあんまり依存しない形でこのセッションしたいんですけどっていう言い方するんですよ。
これって何を言ってるのかと。二重にありますよね。一つは、先生に深いことを言われたくありませんって言ってるんですよね。これはやっぱりある程度この種の仕事をしている人には、先に見抜けるって言い方は僕は好かないんですけど、でもやっぱり見破れますよね。このくらいのことは当然。
やっぱりこれは恋愛のメタファーで考えるとすごいわかりやすいんですよ。今はあなたは私のこと好きかもしれないけど、私と付き合うとだいたい良くないって後で言う人が多いから、私は別にあなたのこと嫌いじゃないんだけど断っておこうって。これはつまり断るってことですよね。結局は付き合いたくないですよって言ってることですよね。
つまりそういうことなんですよ。どんなに表面的には相手のためをもって私が良くないから、相手のためをもって私が良くないからって言うんだけど、それをまるまる信じることはありえない。
回避ってのはそういう真理なわけですから、結局はやりたくないことはやりたくないわけですよ。遅刻する電車にわざと乗ったわけではないのかもしれないし、わざと足の骨を折ったわけではないのかもしれないけど、そこを精神分析は許さないんですよね。
すごい優しいという言い方もできるし、すごい厳しいという言い方もできる。これがだから愛情が異常にある親みたいな態度とも言えなくはないわけですよ。つまり張ってても来なさいってことなんですよ。
なぜなら私のことが大好きなら張ってても来るでしょって言ってるわけですよ。いやあの足の骨を折ったからキャンセルします。あのキャンセル料払わなくていいですよね。ダメです。キャンセル料払えと。それが嫌なら来いと。足の骨を折ったって来られるだろうと。鬼だよねって感じもするんだけど、お前わざと足の骨を折ったんだろうって、そういうことを言ってるわけですよ。
精神分析はね。私はそういうことは言いませんけどね。精神力道ではあなたは私に会いたくないからわざと足の骨を折ったんですよってこういう言い方なわけですよ。こうまで言われてもちろんわざとじゃないから考えますよね。というか最初はなんてひどい奴なんだって思うじゃないですか。二度とこんなところ絶対来てやるもんかって思うじゃないですか。だってあのまあ契約ってありますけど極論精神分析の契約って踏み倒せると思うんですよね。特に日本とかだったら見倒せるんじゃないかって思うんですよ。
もう二度と来ないからみたいな感じで、もうお金は払いませんみたいな。ところがですね、いけないんですよね。ここに力道というものが働いてるわけですよ。本当は回避したい回避したいと。自分の本当に恐れているものを直面するなんてごめんだと。
この先生にこの厳しい態度であなたの内面を見つめなさいとそんなにしつこくしつこく厳しく言われるのは嫌だと。なんで部屋が片付けられないのか片付けたくないんだと。どうして片付けたくないのか。こうやって詰められていくのは辛いんで。だからまあ今日はいいかっていうふうに見逃していきたいわけですよ。
表面的に優しい先生だとそのまま部屋片付かなくても別にいいよねみたいな。でも内心でちゃんと片付けろよみたいに思ってるようじゃダメじゃないですか。だから警長共感事故一致って言うんですよね。言ってることとあなたが共感している内容は一致してますかという話を問いただしてるわけだと思うんですよね。
問いただすべきなんですよね。そうするとまず治療者が嫌になってきますよね自分で。そんな、だって足を折った人に向かって張ってても来なさいっていうの嫌じゃないですか。本当に張ってても来いと思ってなければ言うべきじゃないですよね。だから事故一致って非常に重要なんですよ。
でもこれをやらないでいると結局のところそんなことにすら治療者が直面できずにいてまして参加している人は辛いんだから自分の内面に直面できなくなるじゃないですか。だからここでサジ加減って話になってくるんだけどサジ加減は簡単な話では絶対ないんですよ。
一歩間違うと心臭になって来なくなっちゃうし、だからといってナーナーで済ませているとは何も発展しないしで、ナーナーでは済ませられないから踏み込みたい。でも踏み込みすぎると多分来なくなってしまう可能性があるし、そもそも人間には本能的に人に嫌われる、普通の健常な人は人に嫌われたくないと思うから、むやみながらに踏み込んで相手を怒らせたくないとは当然思ってるわけですよ。
だからここは訓練しないとできるようになりませんよとか、スーパーバイザーついてないとできるようになりませんよとか、訓練もしておらずスーパーバイザーもいない私としてはすげー悩むところではあるんですけれども、踏み込みたいんだけど踏み込みたくない。
自己啓発と選択
これがまさに参加者さんもお持ちのものですよね。片付けたいんだけど片付けたくない。先送りしたくないんだけど先送りしたい。眠いんだけど寝られない。きれいにしてたいんだけどお風呂に入れない。すべて同じですよね、こういうのって。
アンビバレントな回避性ですよね。我々は多分、一般的に社会人にやっていられる人間に一番起こりがちなのがまずこの回避性。ジレンマに陥りがちな自分。なぜあなたはそれをしたいんですか。いやいやしたくないんですよって言っても逃がさないわけですよ。いやあなたはしたいんです。
これ選択、あなたの何でも選択なんですように近いところもあるんですけど、ここを力道で追っていくってことなんですよね。選択だって言い方もそれも非常に自己啓発にも流行ってるわけですよ。この力道的なものの見方ってやっぱり自己啓発に流行りがちなんですよね。だからこれだけで押していっちゃダメだと思うんですよね。
そこにはアンビバレントになった理由を追いながらも、やっぱりその性育歴を見つめていくとか、そういう筋道をいっぱい持っておく必要があるんですよ。性育歴なのか、トラウマっぽいものなのか、方策的なものなのか、どれも同じだって言えば同じなんだけど、微妙なその違いを追っていかないと。
何でもかんでも選択です、選択ですって判で押したように言っていても、たぶんやっぱり心閉ざされますよね、当然。だけれども、閉ざされても実際のところ多くの自己啓発をやってる人は困んないじゃないですか。閉ざさない人もいてくれるから、結局。結局のところ不利益を被るのは参加者さんになりがちなので、やっぱりそこを真剣に検討していかないと。
それが僕は少しできるかなと思うのは自分がアトピーだったからですよ。やっぱりアトピーだった時の大学の大病院で何時間も待たされて、結局、濃いステロイの剤を渡されて、あんたの家にはダニがいっぱいいるんですよとか言われて、ふざけんなって感じなわけですよ。
そういう経験を5年ぐらいしてくると、結局そういう大学病院でもちゃんと治っている人はいるわけじゃないですか。そっちでお金も取れるから、それで回るわけじゃないですか。つまり、非常に面倒くさくて、ちゃんと向き合わないといけない患者は切り捨ててしまった方が、むしろいいことって、この言い方は非常に被害気味ですよね。
でもまあ僕はある程度そういうことも体験してきていると思っているので、やっぱりこういうことを個人がしない方がいいと思うんですよ。組織がしちゃうのは、組織ってそういうところ強めに出るから、しゃーない面もあると思うんですよ。個人が、人がするもんじゃないなっていう感じが、自分はちょっとするわけですよね。されてきたことがやっぱり、板でも折ったんでですね。
こういうですね、なんていうのかな、阻害ですよね。事実上、阻害ですよね。ネグレクトと言ってもいいんですよ。治療側のネグレクトみたいなものって、結構ひどいんですよ。ひどい時には。少なくともやってる人はそんなにひどい人だってわけじゃないのかもしれないけども、その被害を受けた人間としてはちょっとひどい扱いだよねっていう感じがしなくはないわけ。
なので、こういうことを考えていくと、やっぱりこう、回避性を追っていくっていうね。回避性を追って、すごい戸瀬海人さんが書いてましたけど、余計なお世話なんですよね。いや、放っておいてくれよってことなんて、ある意味回避してる人にも言ってることっていうのはですね。放っておくと、放っておかれると、ネグレクトされたアトピーの患者みたいになっちゃうから、放っておかれてはまずいし、放っておいてはいけないんですよね。
でも踏み込まれたくないっていうのは事実なんですよ。まさにこれは眠いのに眠れない問題と実はそっくりの形をしていて、クライアントさんが持ち込むものが、カウンセラーが持たされるっていう、ここから全てが始まらなければならないわけですよ。
で、山手線でも電車が山手線なら、つまり山手線とは何を意味しているかというと、山手線って題外の機関いっぱいあるよねってことなんですよね。あってでも来れるよねっていう。他の電車に乗ったって、なんならバスに乗ってもいいよねってことなんですよ。
これ言ってることに無理があるんだけど、そうではないんですよ。実際無理だってことは言ってる人だって分かってないと困るんだけど、分かってるはずなんですよ。ポイントはあれ、自分来たくなかったのかもしれないって思えるかと思うんですよね。来たくなかったのかもしれないと、幸い電車が遅れてくれていたって感じなかったかって問われてるわけですよね。
一瞬でも少しでも考えなかったか、それってことなんですよ。考えるじゃないですか。例えばこれが偽実家に行くとかならみんな考える。奥様が偽実家に行ってね、この正月過ごすっていう、そこに行くとね、ビルの運びがかりばっかりさせられるんだけど、幸いにも新幹線大事故でさ、みたいな。大事故よくないけど、でもほっとした瞬間なかったですかっていう。
でも飛行機でも来れるでしょっていう、こういうことを考えた時に、でも飛行機じゃいけないよねっていう風になってないっていう、こういうことなんですよね。これが自分の回避感情というものを暴いてくれる。
そこに直面させるきっかけをくれる。そのきっかけを出すんじゃなければ、単にサディスティックにいじめてるだけになっちゃいますから、そうであってはまずいですよね。
自己理解と母親の影響
当然そんなことを望むはずない。だからやっぱり関わっている人は患者さんというか参加者さんというかユーザーさんに対する愛情がどれだけ一致して、ちゃんと持てるかというか誠実にっていう言葉になっちゃいますけどね。誠実に持つことができるかっていうことが追われてるってことになるんですよ。
これはそのままユーザーさんに返すとですね、どれだけ自分自身を最終的に愛していられるかってことと、実は回避ってのは自分自身に対するニグレクトなんですよ。結局こういう構造でどれだけその人に対してカスタマイズして緻密に追っていけるか。
僕はこの緻密にっていうのが結構自分の感覚の中ではいい言葉だなとは思ってるんですけど、誠実にでもいいんですけどね、細かく正しくなんですよね。
めんどくさいってなるっていうのが一番やっぱり、めんどくさいって言われるのがおそらく僕らが一番言われそうな言葉の一つなんだと思うんですよね。
お前めんどくさい奴だなと、こう言われてなんぼだと思うんですよ。余計なお世話だ放っておいてくれってこう言われてなんぼだと思うんですよ。
そう言われるってことはそう私も思ってるってことなんですよ、どっかで。一致してるってことなんですよ。
この一致感からどれだけめんどくさくても緻密に追うにもっていけるかってことが多分追われているんだろうと。
結局のところ、回避しないと、私は嫌われ者ですからとか、事故があったから仕方がないんですからとか、風邪をひいちゃったんですからとか、いろんな外的条件を今唐突に思い出したんですけどね。
クラゾノ圭三さんと書き上げ塾というので文章教室やってた時にクラゾノさんが野手からの禁止っていうのを一番最初におっしゃるんですよ。
ビコースAなのでBっていうのはダメだと。つまり今日雨が降っていたので会社を休みましたってこれがクラゾノさんがお箱としている文章なんですけど、ダメだと。
雨降ったからって会社休まないでしょっていうこういうことなんですよね。
じゃあどうしたら会社を休んだのに対してビコースをつけられるのか。嘘が絶対なければビコースつけてもいいよって言ってたんですよねクラノさんが。
でも私の読む限り嘘が、野手からを使って嘘じゃなかったっていうケースは一つもないと。
それだけ因果理性者は普通は成立しないんだぞっていう話、これは全く実は同じことをおっしゃってるわけですよ。
電車が遅れていたからセッションに遅刻しました。ダメですっていう。電車遅れてたって他に方法あるでしょってことになっちゃうわけですよ。
風邪をひいたからセッション休みました。ダメですってことになるわけですよね。
今コロナだったからだったら通りますけどね。コロナだったからでも多分でも問い返されるんですよ。本当にコロナでしたから。
これって新春になるじゃないですか。傷つきますよね。そんなわけわかんないこと言われたら。
でも本当にコロナだったからなのかっていう問いはやっぱり大事なんですよ。
本当にコロナだったからだったとしても来たくなかったと思わなかったかっていうふうに自問するのが大事なんですよ。
こうすることで自分が結局それは自分のためにやることをやりたくないってことになるんで、
まさにお風呂に入りたくない、眠りたくない、ご飯を食べたくないっていう非常に重大な現象なんですよ。
ここにセックスしたくないを入れるのは非常に大事なんですけれども、ここはさらに難しいんで、セックスって自分のためだけにすることではないので。
だから性ってのは大人向きなんですよね。大人向きの倒作に一番はまり込みやすいわけですよ。
接触障害というのは有名ですけれども、接触障害が思春期に来るっていうのは性欲を止めるっていう大事な側面もあるわけですよね。
この性欲を止めてしまうことによって、性欲とすごく向き合うことで頑張って例えば電車の模型を作り出すっていうこと、仲良くなれなくなるわけですよ。
っていうややこしい問題が出てくるわけですよね。
この接触系の問題に入るってことによって、接触のことだけ考え始めることができるじゃないですか。
ムカつに打ち込むとか、いきなりバンドやりだすとか、非常に性的な部分ってあるじゃないですか。
バンドやりだすなどというのはもう、倉園さんがそれこそおっしゃってたんですけど、女にモテたければバンドやるべきなんだよって、これで通るわけですよね。
これって結局、私がそういう失敗を犯したように、私は非常にロストレートで自己一致な人間なもんですから、それこそ。
いや、だって性欲があるのに音楽やってる場合じゃないでしょ。
直接声をかけるべきでしょうになって撃沈しまくっていたわけですけれども、要するにそういう時にそういうことが選択できないのは、やっぱりどっかに非常に僕の中にですね、
象徴的投下物ではないけれども、それに近い部分があったわけですよね。
心の問題がなかなか成立しないんですよ。それが体の問題になってしまう。
だから、接触障害というものと性欲っていうのは非常に関係があるわけですよね。
抑え込んで切り捨ててしまう。
接触障害は結局、松木さんが書かれているし、この種の本にはどうしても出てくるんですけれども、基本まず何よりも食べないってことから始まるんだと。
痩せるってことから始まるんだと。
痩せるっていうのはモテたいって話じゃないんだと。
切り落としたいっていうか、削り落としたいってことなんだっていう、そういう話が書かれているわけですよね。
食欲を削り落とすことによって、生々しさを自分から排除できる。
その上に性欲っていうものを抑え込むことで、いやらしさってものを自分から。
つまり自分は清らかな存在だってことを言ってるわけですよね。非常に強く。
私は自分の母が非常にその種の傾向が強い人間だった。
接触障害ではないけれども、非常に食欲に乏しい人間だったんで。
そして80近くなってやたら食欲旺盛になったんで。
うーんっていうふうに思うことが非常にあるんだけど、お腹壊さないようにねとはしょっちゅう言ってるんですけど。
私ね、高齢になってお腹壊すと非常に厄介なことになると思うので、もううーんっていう感じがするんですよね。
しかももはや太らないと聞いていてですね。
そう、接触障害の人が、これは松木さんの本に書いてあったんですよね。
心理的回避のメカニズム
接触障害だった人が早くおばあさんになりたいと。
実際その人50になったとき、いやほんと私おばあさんになれてほっとしてると。
つまりそういうことなんだなって感じがするんですよ。
うちの母もなんかおばあちゃんになってからはやたら人生楽しそうなんだけど、
本当にね、まあね、でもね、これもね、どう考えてもうちの私の祖父の影響、悪影響が非常にもろに出ている話なんで、
やっぱりもうあの三浦彩子さんでしたっけ、評点ってよくかけてますよねって感じがするんですよね。
世代関連差まっしぐらですよね。
祖父は、さらにその祖父は、曹祖母がママ母だったって話で、
とにかく、もう本当かどうか全然わからないですけどね。
いじめられまくってたと。
そしてその祖父おじいちゃんは、私の母みたいな娘をバンバン殴りまくって、
なんかこう飲んだくれて、家から出て行けみたいなことを言って、
家から出られると一番困るのは自分なんだけど、そういう人で、
私の母は、なんかこう、私将後のこと、怒ったこと一回もないよと平気で言えてしまうというか、
もう完全に記憶から抜け落ちちゃってるわけですけど、
怒ってばっかりいる人だったわけですよね。
そして、なんかこう、私食欲ないからとか言って、
白菜かけたご飯とかしか食べなくて、肉は全然受け付けない。
そして、女の人には性欲ないと平気で言える。
で、私はなんかこう、母に似てないんだけど、
母をマイナスにした、ネガティブにした母みたいなのを、
服を一枚ずつ脱がしていくっていうシーンを連想するだけで、
イケちゃうという人間だったために、
実際のセックスの時には立たないみたいな人間になってたわけですよ。
4世代ですよね。4世代。つまんない話ですよね。
で、でもこれはですね、回避っていうのがやっぱりすっごい絡んできてるわけですよ。
回避と盗作なんですよ。自身の人生っての。
多分、とにかく母に向かってるこの性欲っていうものを直視できなかったんですよね。
否認してたわけです。
自分の性欲が母親に向かってるはずがないと。
おかしいんじゃないか、そういう人はって思ってたわけですよ。
こんなにあからさまなのに、自分のことだと何にもわかんないですよ。
30になってもわかんなかったから立たないってことが起きちゃうわけですよ。
空想では立つんだけど。
非常につまんない話なんですけれども、非常にありがちな話でもありますね。
で、こういう時にやっぱり僕は問われるべきなんですよね。
なんでお母さんとセックスしたいの?
って感じになるじゃないですか。
侵襲になっちゃうじゃないですか。
なんでお母さんとセックスしたいの?
いやいやいや。全然したくないし、みたいな。
でも逃げさせてくれないわけですよ。
いやもうしたいことは前提だからみたいになっちゃうわけですよ。
あなたがそう思っているのはもう解り切ったことだから。
解り切ったことなんですけども、
わかってなかったわけですよ、わかりたくなかったから。
こういうことなんですよね。
私が私のためにすること、直面なんだけれども、あるいは内省でもいいし、心の奥を聖地に追っていくこと。
個人面談の重要性
気持ちが悪い。だからその気持ちの悪いことをできないと。
できないということを認めてくれないというのが、つまり個人面談というものなんですよ。精神分析というものなんですよ。
これを週にできることなら、5回やれと。お前はなんで母親と母親をレイプしたいんだと。
もうずっと問われるわけです。いや、それはもうそうじゃないという道はないですから、それについて考えなさいみたいな。
それを週5回、徹底的にやれと。いやもう二度と来たくなくなると。しかもそれ、金払ってやらなきゃならないわけですよね。
いやいや、そうじゃないんだと。でも気がつくとここに来ちゃいます。来ずにはいられませんってことになるわけですよ。
なんで来ずにはいられないのか。例えば私、一度来そうだったんですけど、20ジャストぐらいのときそうだったんですよ。
前後不覚になるまで酒飲んじゃうんですよね。本当に。
アルコール依存症っていうのはいろんな形をとるもんだと思うんですけれども、私は四六時中飲んでくれてたわけじゃないですよ。
ただ、いざ飲み会とかになると前後不覚になるまで飲む。絶対前後不覚になるまで飲んじゃうんですよ。
しかも僕は結構強かったから酒量がやたら多いんですよ。
これもその母親問題に直面したくないから来ていたことだと後からならわかるんだけど、当時は単に酒好きだと思ってましたからね。
で、僕は別にこれが依存症として大引かなかったんでよかったんですけど、後から考えてみるとあれはめちゃくちゃ恐ろしかったですよね。
多分あのまんま50になってて全然不思議はなくて、そしたら3ヶ月チャレンジどころじゃないですよ、今時。
えーいってますよね。今日はこのぐらいにしておきます。
3ヶ月チャレンジの目的
で、3ヶ月チャレンジの10期というものではですね、こういう事態をなんとか収集をつけたいというのがやっぱり私の中では一貫してあるために、
できるのかお前っていうのは一旦置いとくとして、週4回というものを最低…違うな、最終3回だな。
13セッションってあまり聞かないんでね。これを実質的にやっていきたいと。10期からよろしくお願いしたいと思ってます。