3ヶ月チャレンジの概要
おはようございます。精神分析を理解したい3ヶ月チャレンジ、第1227回をお送りします。
はい、8月1日、金曜日、9時25分です。
昨日ですね、昨日と言いますか、今日上がっちゃったんですけど、昨日の収録した分が、全体で40分あったはずが、なぜか18分で途切れていて、そこまでを先ほどアップいたしました。
その続きは喋れない、続き喋ろうと漠然と思っているんですけど、昨日何を続きで喋ったかは思い出せないので、続きっぽい話をしますが、続きになっているかどうかは分かりません。
前半後半みたいに言いたいんですけど、意図してそうなったわけじゃなくて、クラウドの彼方へ飛んでいってしまいましたので、
なんでああなったのかは、もちろんさっぱりわからないので、これはもうバグだろうなぐらいな感じなのでね、本当に。
なぜか18分で途切れて、そこで終了となっておりましたが、そこまで生きていて、まあまあ良かったかなと。
あれは昨日の朝撮った分でして、先ほどアップいたしまして、慌てて今日その続きではないんだけど、続きを撮ろうとしております。
あとですね、昨日お知らせをいたしました。3ヶ月チャレンジの第11期募集は既に終了いたしましたが、
オンラインコミュニティですから、やっぱり一応3ヶ月チャレンジは、個人セッションだけが良いんですという方も、また3ヶ月は長すぎるという方も、他の理由がある場合もあると思いますので、
例えば、締め切りは募集終わったのは知らなかったということもあると思いますので、個別セッションを別途用意いたしまして、これは4回で2万5千円税別とさせていただきます。
だから、つまり2万5千円プラス2千5百円で、2万7千5百円お支払いいただくと。
個別セッションサービスの説明
うち2千5百円は、私インボイス対応しておりますから、国に納めるという形になっております。
国だか知りませんけどね。
こちらつまり、1回あたり6千円プラスアルファみたいな感じなんですけど、この辺かなみたいに思っております。
ベーシックにですね、2万5千円かける3だと3ヶ月で7万5千円になるじゃないですか。
これはつまり新規の3ヶ月チャレンジの金額にぴったり合うんですけど、2つのサービスが受けられないという点で、
若干メリットがないかなというのが個別セッションの特徴、4回2万5千円の特徴です。
つまり、テキストによる質疑無限界というのはありません。
その他、これはご希望次第なんでしょうけれども、やっぱりそうだ、同じ話ですね。
グループセッションがありません。週に2回のグループセッションがありません。
これはそもそもそれを希望されない方向けのサービスなんでそれでいいんでしょうけれども、
そういうことになっておりますということですね。
あとですね、もう1つ、1回1万円というサービスを改めて始めることにいたしました。
こちらはですね、正規・非正規・自己啓発その他、学派を問わず、
対人、特に心理支援をされている方がスーパービジョン外で誰かにその話をしたいといった場合に用意させていただいたサービスです。
別に1回1万円を違う目的で使っていただいても結構なんですけど、用意した理由はそれです。
これはもう2回で2万円になっちゃうんで、割高になります。
このサービスを私はメインでやらせていただくつもりはなくて、
主に実験的なサービスとしておりますけど、これの特徴的なところはですね、
まず私は正規・非正規のいかなる意味でも心理支援者ではないので、
これがスーパービジョンに相当するようなものではないということです。
私はバイザーになるわけじゃないですよってことです。
あわせて、お話をとことん伺うということに特化したサービスです。
支持と共感に、支持・共感・傾聴ですね。
なんかロジアスみたいなことを申し上げてますけど、
ただ別に心理治療法を目指すわけではないので、
ロジアスというロジアス学派とかそういうこととは何の関係もないです。
つまり、心理支援していてスーパーバイザーに話すのも話しにくいみたいなことが、
そういうことが本来あったらダメだと思わなくもないんですけど、
でもやっぱりそういうことはあり得ることだと思うので、
そういう場合にお話を伺います。
たってのご希望とあれば、フィードバックとかアドバイスに相当することも、
その場で望まれればしないというわけじゃないですけど、
基本的にそれをするという前提には立ちません。
されたくないっていうことの方が多いと思いますからね。
素人にね、そんなことされたいわけじゃないじゃないですか。
あともう一つ合わせて、
私は正規の心理支援者じゃないというのが非常に大事なポイントで、
正規の人には聞かれたくない話っていうのがもしかするとあるかもしれない。
だからこの話は徹底的に守秘義務というものは、
もともと守秘義務は3ヶ月チャレンジであっても、
個別セッションであってももちろん守っておりますが、
特にそれを強化するためにですね、
動画のアーカイブは一切残しませんし、
基本的に1回で終了いたします。
継続を望まれるのであれば、それはいいんですけれども、
その場合4回セッションとかにしていただいた方が、
もう圧倒的に割安なんで、ほとんど半額に近いレベルに入るんで、
1回ずつ1万円だと4回で4万円いっちゃうじゃないですか。
もったいないんで、そうされない方がいいと思いますけれども、
そういう新しいサービスを、
昨日これも開始しましたけど、やや裏メニュー的です。
申し込み殺到するなんてことはないと思ってますけど、
もし多くなりすぎたら、多分難しくなるんで、
早々に打ち切らせていただく可能性もあります。
あんまないと思ってますけどね。
あとですね、お盆とかにね、私が出かけるとかいうこともあるかも。
それはあんまないんで、お盆ってコムじゃないですか。高いし。
あんまお盆出かけないんですよね、うちはね。
だから、8月まで普通にやれるんじゃないかと思ってますね。
あとですね、このサービスの、そうそう、
守秘義務を守らせていただく上での特徴は、
どこそこの心理支援やってますとか言っていただく必要は一切ありません。
それどころか心理支援やってますって言っていただく必要すらありません。
したがいまして、実名でお話しいただく必要もないです。
いわゆるハンドルネームとかで構いません。
顔も出していただかなくて結構です。
なので、もう本当に私は話を聞くだけの人で、
フェードバックというのでもないという感じですね。
じゃあ、それを話をする意味って何なんだと。
AIでいいじゃんって、私はそう思うんですけど。
AIだってね、今ね、1回あたりの金額が、
なんだかんだいくと1万円とかしちゃいかねないんで、
別にそんなにお安いわけじゃないんですよね。
AIだったらただだけとかは嘘なんですけど、
私に話していただくメリットとして、
人間が聞いているってこと。
あとですね、私は何回もカウンセリングというものを色々な形で受けてます。
例えばアメリカでユング派の人にも受けましたし、
もちろんCBTはやりました。
ちょっと訓練生みたいな方だったけれどもやりました。
その他にもフロイトの派の人にはもちろん、
フロイト派っていうのはアンナ・フロイトの自我心理学派なんですけど、
のカウンセリングも実際受けたことがあります。
あとですね、ちょっと特殊なところでアメリカには宗教カウンセラーっていうのがいらっしゃいまして、
牧師さんみたいな、どちらかというと女性でしたけど、
どちらかというとって変だけど、女性のそういうのも受けたことがありますし、
日本でも婚姻心理師・臨床心理師の正規のカウンセリングを受けたことがあります。
というふうに色々受けてきたという人間が聞くっていう、
それがメリットかどうか知りませんが、そういう意味合いもあります。
あとですね、専門用語、精神分析系であればですね、
いやもうそれ聞いたこと全くないなっていう場合は別ですけれども、
クラインとかウェニコットとかは本読んでますし、
ウェニコットは一部幻聴も読んでたりしますんで、
オグデンも一部幻聴読んでたりしますんで、
あれです、プレエディプスって何ですかとか、
ちょっと東映同意使ってわかりませんみたいな質問をしないで済むんで、
サービス利用のメリット
時間はですね、短縮できるんではないかと。
だから専門家のように話せるとかじゃないから、
私に話していただいたからといって、
さっきも言った通り、バイザーの代わりとかには絶対ならないんですけど、
話がスムーズに進む可能性はあります。
ただこれはCBTとかでは成立しない話です。
一応僕CBT習いましたけど、
多分今のバイザーの世代の話とかをこと細かに知ってるとか全然ないんで、
収穫となるスキーマーとかの話はちょっと説明されないともしかするとわからないんで、
そういうところはね、ちょっとヤングの本買って読もうかどうしようか悩んでるんですけど、
今僕そこまでの経済的な理由がお恥ずかしい話なんですけど、
ああいう本は結構お高いんで、あれ買うんだったらちょっと松木さんの別の本先に買いたいとか、
グロスタインの本買いたいとかそうなっちゃうんで、すいませんね、本当に申し訳ないんですけど、
バンバン買って読めよって言われるかもしれないんですけど、
バンバン買ってると本当に娘の熟大とかもありますし、いろいろあるんですよ。
というわけでそういうわけにはいきませんから、残念ながらですね、
わからない話はいっぱいあると思いますけど、
わかる話もそこそこあるんで、そういう人に話をただただ聞いてほしいという方は、
1回1万円の方をご利用いただけますとですね、
完全なプライベートを守れるという、でも私の場合、学派の中で論文を書くとかもしないわけですよ。
シンポジウムに出るってこともないわけですよ。
だから偽装であれ、そうでない分であれ、一切それは外に漏れる心配がないという、
代わりに得るもの少ないと思いますけどね。
そういうメリットはなかないですと思います。
特にこっちの方はですね、センシティブに守っていこうと。
基本的に聞いたら即忘れていこうぐらいな、記録もメモも一切取りませんから、
私の方は顔出ししますから、何やってるかはなんとなくにせよ見えると思うんですよ。
だからそういう意味で、そういうところで話したい話があるといった場合にはですね、
墓場まで持っていきますんで、ということです。
というサービスですね。
実際そっちで1万円と申しましたけど、
自我の形成と混合
昨日セットして思い出したんですけど、9000円プラス税で1万円で100円お釣りがきます。
ガリガリ君買えます。買えないか今は。
いずれにしても9000円プラス税なんで、1万円突破しないでこれができますということですね。
以上です。なんか長くなりましたね。
昨日の続きか。
昨日の続きはもうちょっととてもじゃないけど全く思い出せないんで、
今もう頭にアイスのうを巻いているぐらいな感じで、
頭の中はもうかなりぼーっとしておりまして、
昨日のどこで途切れたか。
コーヒーにクレープ入れるみたいな、クリーム入れるみたいな話をした気がするんですよね。
本当はコーヒーとクリームっていう例えなんですよ。
私の中ではですね。
星の一体感というものが早期の本当に最早期ですよ。
生後10日とか1週間とかそのレベルでは絶対あるはずだと。
あったはずなんですよね。
そこに私たちの自我というものの中核がある。
つまり自我というものは自分がオリジナルを作り出したというよりは、
混ぜ物でオリジナルが出来上がったって感じなんですよ。
でもそれは当たり前じゃないですか。
だって完全なオリジナルだったらやばいですよね。
宇宙人みたいになっちゃったら困るじゃないですか。
やっぱり人間はみんなどこかある程度は同じじゃないと困るから、
オリジナルオリジナルって言っても限界があるわけですよね。
基本的に身体というものがあるわけだから、
赤ちゃんの理解
ここからプレイ、全概念っていうのが出てくるわけですよ。
クレジアムナオキさんの言葉を使うなら、
ボールペンには吸い付かない。
おっぱいには吸い付くけどボールペンには吸い付かない。
もちろん赤ちゃんはそれがおっぱいだ、それがボールペンだは知らないから、
本当にどうやって区別つけてるかっていうのは非常に謎なところあるんだけど、
でもボールペンには吸い付かないですよね。
万が一吸い付いても、たぶんおっぱいに吸い付きたい場合には
ペッてやると思うんですよ。実際やるんですよ。
指は吸い付きますけどね。
こういうやっぱりこの全概念、
例えば赤ちゃんってかわいいんですけど握るんですよね。
手を、指とかを握りしめる。ギュッてやる。
ってことは握るっていう感覚を知らないわけじゃない。
もちろん知らないですね。
生まれて初めて手を握ったっていう時には、
握るという感覚は知らないんですが、しかし握るわけです。
つまり握るということは知ってるわけですよね、体は。
こういうのを全概念とかって言ったりするわけですよね。
で、そういう人は、だったらば、
赤ちゃんはエディプスコンプレックスというものだって
知ってるはずだみたいなことを考えだしたわけですね。
現現相みたいな言い方をするわけですよ。
で、この現現相みたいな言い方をするってことは、
つまり全現相なのかな、よくわかんないですけど、
生まれながらにしてそういうのを持ってるから、
お父さんとお母さんを奪い合うみたいな、
そういう話が出て三角関係を知ってるってことですね。
三角関係を知っているということはですよ、
生まれながらにして三角関係を知ってるわけだから、
その三角関係みたいなものが、
不活化みたいな言い方をするんですけど、
活性化された時には、
あ、やばい、なんかお父さんみたいなやつがいて、
そいつとやっつけなきゃみたいな、そういう話になって、
例えばそういう感性が桃太郎みたいな話で、
悪いお父さんを鬼に投影するという形で、
鬼ヶ島に鬼退治の話を聞くと、
あらゆる赤ちゃんが大喜びをすると、
幼児ですけどね、
そういうことが起きるというわけだと思うんですよね。
そういうのが一切ないんだったら、無理じゃないですか、そんなこと。
あんなに幼くして、言葉もまだあやふやなのに、
なぜその話が楽しいのかっていうことになってしまうので、
楽しいからには楽しいだけの、
しかもみんながみんな同じように楽しめるのって不思議じゃないですか。
人間の脳がそうなっているんですって言えばそうだんですけど、
そうなっているとはどうなっているっていうことなのかってことです。
まず脳は脳だってことですよね。
これがもう全概念的ですよね、すごく。
脳の中に例えば胃袋が入っていたりはしないわけですよ。
ここがやっぱり独特ですよね。
で、何の話をしているかというと、
最初は自我というものが輪郭がはっきりしなくて、
こうもやーんとしていると、あやふやだということですね。
しかしこのあやふやな状態というのがすごく大事だってことでもあるわけですよ。
このあやふやな状態でありながらも連続性を失わないというのが大事だということですよ。
自我って連続性を保っているってことじゃないですか。
かなりユニコットに寄せてますけど、この連続性の寸断ってですね、
私はある大学時代の友達、男友達ですよもちろん、私は。
女の子の友達じゃなかったからね。
男友達の家に行ったことがあるんですけど、
その時になんか独特の感じでこの自我の寸断というものを学んだんですよ。
学んだというか実感したことがあるんですよ。
すごい独特のタイミングで2階にいる私の友達、息子なんですけど呼ぶんですよ。
独特のタイミングなんですよ。しかも頻繁に呼ぶんですよね。
この感じが私はこういう家じゃなくてよかったって思ってしまったんですけど、申し訳ないんですけど。
つまり正午みたいに呼ぶじゃないですか、母親が1階から、うちには2階はなかったけどあったとしてね。
2階の母親、2階にいる私を母が呼ぶと。
タイミングが変なんですよ。そして非常に頻繁なんですよ。
何そのタイミングっていう感じなんですよ。
なんかこうね、実にわざとやってるとは絶対思えないんですけど、
いつもこう嫌だな、これ1回しか体験したことないのに、これは嫌だわって思った体験があるんですよ。
正午っていう声も申し訳ないんですけど、友達のお母さんの声について、声っていうかね、雰囲気なんですよ。
なんか不吉なものがあったんですよね。しかし一番不吉なのは不吉っていうか不穏だったのはタイミングで。
自我の寸断と影響
上がってすぐとかあるじゃないですか、世の中に。あれはあれでやがられるけど、例えば2階に上がってすぐに呼ぶ。
これはわかるじゃないですか。2階に上がってしばらくして呼ぶ、これは普通じゃないですか。OKですよね。
そうじゃなくて、2階に上がってすぐじゃないんだけどあからさまに早いタイミングで呼ぶんですよ。
そして明らかにそのやりとりを狙ってるって感じなんですよね。
私の友達がめっちゃそれに怒りを覚えてるんですよね。ふざけんな、うるせえなって言うんですよ、僕の前で。
なんだけど行くんですよ。ちゃんと降りて行っちゃうんですよ。
何これって私思ったんですよね。全然意味わからんって思ったんだけど、これを子供の時からやられてたわけだよねって思ったわけですよ。
そのお話ししませんでしたけどね、友達とはね。
私19だったと思いますね、その時。
あれはね、非常に重いところがありましたね。
しかもそれが10度や20度じゃないんですよ。
もう絶え間ないって感じなんですよ。
ただしすぐではないんですよ、本当に。
だからね、なんか独特だなと。
これが自我を済んだその友達は、私と付き合うぐらいですから、19の私と。
大変難しい性格の方だったわけですけど、なかなかね。
でも仲良かったんですよ。
ただ、これは大変だわっていうのはその時思いました。
この家だったら厳しいっていう。
なぜ厳しいか当時一切説明できなかった。
ウィニコとの連続性とか知らなかったんで。
この連続性が寸断されていくっていう感じを味わったのが、一番鮮烈だったのがあれだったんですよ。
なんてことないじゃないですか。ただ母の息子を呼ぶだけですよ。
なのにもかかわらず、その感じが私には、もちろんその息子さんを、私の友達は実はそんなことはどうでもいいの。
ただ、母親との仲はすこぶるいろんな意味で厳しそうでありました。
でも行くんですよね。ちゃんと降りて行くんですよ。無視はしないんですよ。
悪いにうちの子よりも素直じゃんってところが、この素直さがまた怖いなっていう。
素直であることが怖い友達だったんですよ。ある意味ではね。
非常に難しい話ですが、私はこれはウィニコが一番説明としていいなって感じがするんですよね。
その連続性の寸断っていう、連続性が真摯じゃないですよね。
ただ呼ばれてるだけだし、別に呼んで用事をやってもらいたいとか、
これ持っていきなさいみたいな、友達と飲みなさいみたいな、親切じゃないですか。
別におかしくないんですよ。おかしくないんだけどおかしいんですよ。
なんでそのタイミングっていう。
例えばちょうど2階に来て2人で座って話を始めそうになったそこっていうような感じ。
こんな風に言語化できるようなタイミングじゃない。
もう絶妙に嫌なタイミングなんですよ。
絶妙に嫌なタイミングって絶対意識では測れないと思うんですよね。
明らかに無意識でやってることだったと思うんですよね。
あれは考えさせられた。本当にゆくゆく覚えてますよ。
二度と僕はその家には行きませんでしたね。
この感じっていうのが僕は多分ですね、赤ちゃんに対する親御さんの、
教育の問題になってしまうから、これは教育じゃないんですよね。
教育だったら意識的なもんじゃないですか。
無意識にやっちゃうことだからしょうがないんですよ。
親に責任はないと思うんですね。
ただその辛さがあるんで、辛さっていうのも変ですけど、
自我形成の最早期にあたって侵入があるという。
対象化されてしまうという。
この話もちろん臨床の話なんで、究極的に何をやってるかというと、
これと真逆やりなさいねってこと。
今のだから消防みたいなその呼びかけをするタイミングと
真逆を臨床間やらないとダメですよっていうのが
多分ウィニコットの言いたかったことだと思うんですね。
連続性というものをその人の本当の自分って
ウィニコットは言っちゃうんですけど、
つまり永遠に知られることもない、
全ての人に秘密の孤立体っていう言い方をするんですが、
自我の境界について
すごい大事なんですよね。
母親っていうとついお母さんが赤ちゃんを抱っこしてる、
それをイメージしないんですよね。
あれは違うんです。あれだったら2人で2人じゃないですか、どう見たって。
見えるんだから。見えないんですよ。
クリーム入りコーヒーは見えないんですよ。
クリームとコーヒーは見えますよ。
でもクリーム入りコーヒーが混ざっている、
その混ざり合った感じを内側から感じている赤ちゃんの
その精神状態は計り知れないんですよ。
あるんですよ、そういうのって。
なんていうのかな、私あるんですよね。
すんげえ親に怒られてたんですけど、老人時代。
老人時代ですからね。現役時代なんかもっとひどかったけど、
昨日やってましたね、ロッテ楽天が東京ドーム。
私東京ドーム大好きなんですけど、東京ドーム行った瞬間にあるんですよ。
クリーム入りコーヒーになっちゃうんですよ、自分が。
東京ドームと一体化して。
自我の外観、外覚っていうのを失っていくんですよね。
それがもう幸せで幸せで、つい行っちゃうわけですよ。
もちろん受けた大学は全部落ちましたよ、そういうことをやってたからね。
だから犠牲は大きいけど、でももうあれなしにはちょっとね、やってられなかったんですよね。
もうね、親に電話をして、電話をしている自分も自分だけどね、何か反抗したかったんだろう。
親はもう電話先でめっちゃ怒鳴ってるんですけど、もう絶対帰らないですよね。
ロッテソフトバンクとかを見てから帰って、また帰ってからめっちゃ怒られるんですけど、
まあ構わないって感じだったんですよね。あれはいい体験でしたね。
あれで溶けていくって感じを応援とかをしてるんで、自我がないわけじゃないですけど、
コーヒー入りクリーム、クリーム入りコーヒーの、クリームだかコーヒーだかどっちか知りませんが、
どっちかになった感じの、その中でもこの形ってあるじゃないですか、
なんか葉っぱとか浮かべるじゃないですか、ラテの模様みたいな。
あのラテの模様は連続してるんですよ。でもそれはすっごい危うい感じの連続性ですよね。
この連続性を保ったままでいるのが本当の自分で、しかもそれを外から見た感じじゃなくて、
クリーム入りコーヒーには何も感じないでしょうけど、主観的には。
あれを人間だったとして、それを内側から感じているその感じなんです。
これは永遠に他の人に知られることはない。
なぜなら他の人が見ていたらそれはもう壊れる。そうじゃないものになっちゃう。
体験の重要性
他の人が見てるってのを意識した瞬間にそうではいられなくなる。
私は東京ドームに行った時、一人っきりで友達と行く時もあったけど、もちろんめっちゃ仲良い友達としか行かないわけですよ。
もうなんかこう、自分一人しかそこにいない。
でもまあロッテとはいえ、当時から2万人ぐらいは入ってたんで、2万人ぐらいそこにいるんだけど、でも自分一人しかいないんですよ、主観的に。
他の人が見れば私を含む2万人が東京ドームにいるんだけど、私の内心から来るともうなんかこう溶け出しているので、
だから今あんまりはっきり思い出せない。
行ったってことははっきり覚えてますけど、試合の結果どうだったとか覚えてないんですよね。
そういうの僕よく覚えてる方なんで、覚えてないんですよ。
あの時は特殊な心理状態で受験で追い詰められてたということです。
だからそういうふうに本当の自分を取り戻せる空間っていうのがあまり多くなかったので、
それはだから僕はデートだったら取り戻せるという大きな大きな大きな誤解をしていたので、
デートではそれを私は見失うばっかりなんだということをよくよくその後も思い知ることになるんですけど、
それを手に入れるための究極の手段をそれだと思ってた時代がありましたんで、
でもそれは東京ドームだったわけですよ、実はね。
気づいてなかったですけどね、はっきり。
気づいてればもっとうまく説明できると思うんですけどね。
気づいてなかったからこの程度の説明で終始しているわけです。
ただ当時も今も思い出せるんですけど、あの時アトピーひどかった。
ひどそうじゃないですか。
一番僕ひどかったのはその辺の時期から30代前半ぐらいまでが、違うな20代後半が一番ひどかったんですよ、アトピーはね。
もうちょっと前ですね、15、6から25、6ぐらいの10年間が一番ひどかったんですけど、
東京ドーム行くと痒くないんですよ、全く。
試合見てる間は。
それだけ没頭してたって言われるかもしれないけど、
練習から、親が起こるのは当然ですよね。
試合開始前から行ってるわけですよ。
学校終わったら即行ってたんで。
練習風景でももう痒くないです。
没頭とかしてないじゃないですか。
やっぱりこの僕はバウンダリーっていうのはなかなか好きになれないな、そういうところなんですよね。
ちょっと病んでると思うんですけど自分でも。
こう、自我境界というものがはっきりしなくなってくる。
もちろんそういう時は傷つきやすいですよ。
そういう時にだから侵入を受ける。
親から受けてたけど、ある意味では。
受けると傷つくわけですよ。
これを多分多くの人が今、潜在などとおっしゃってると思うんですけど、
私はこれは潜在なのではなくて、やっぱり自我境界というものをはっきりさせるということになって、
それって、つまり自分の中の母子関係というものをはっきり持っちゃうってことになるじゃないですか。
それはそれで非常に本当の事故っぽくないんですよね。
本当の事故ってのはやっぱりこういうふうに、
外からは不可視だが、自分の中では連続性を保ってるっていう感じが伴ってないとおかしいと思うんですよ。
だって事故なんだから、やっぱりアイデンティティーはあるわけですが、
しかし、自分というものを守ってなければ意識できないとか、
自分というものを守ってないと気が切れないというのは、
すでに外のことをすごい意識しちゃっているじゃないですか。
その自己意識の中に外部の目を入れちゃってますよね、完全にそれって。
バウンダリーって言った時にやっぱり僕が一番気になるのはですね、
そこに継ぎ立てがあるって感じです。
継ぎ立てがあるってことは、内と外があるってことじゃないですか。
内と外があるってことは、分裂してるってことになるじゃないですか。
私の知覚の中にいる他人の目ってものをすごい気にしてるってことになりますよね。
それがどうして本当の事故なんだ。
そこにそういう意識がある以上は、それはやっぱり他者向けの事故って用意しちゃってるわけですよね。
自分は善逸じゃないし、完全に一体化できてないんですよ、自分の意識ってのは。
やはり分断されてると思うんですよね。
だから他者は監視してるとまでは言わないけど、
やっぱり他人の目があるところではできないことってあります。
ということを意識してしまっている段階で、すでにそれは分裂が始まっていて、
分裂している事故が本当の事故なんてないじゃないですか。
分裂していたら少なくとも2つ以上事故があるわけでしょ。
2つ以上あるってことはどっちが本当だよって話になっちゃうじゃないですか。
本当である以上は1つしかないはずなんですよね。
1つしかない以上は、他者がそこに見張ってるなんてことはとんでもないことで、
ましてその目線が母親の目線ですなんて言うんです。
連続性とアイデンティティ
例えば顔色がかかってる私がいますとか言うんだったら、
もうその段階で少なくとも本当の事故だけではないから、本当の事故ではないはずなんですよね。
だからどんな空間にいようとも、その空間にいて自我意識というものを意識しないでいられるほど、
その空間近くと一体化しているのであればですね、
もう安心しきっているし安全だということについて、
お互いの余地は全くないし、要するにいていい、それでいい、やっていいの状態ですよね。
この状態に入っている時が本当の自分というものだと思うわけですよ。
この状態を実現するっていうことがある意味、
1つのカウンセリングルームで実現できたらいいですよねって話だと思います。
その時2人いるじゃないですか、カウンセラーがいるから。
カウンセラーの目を気にしていて、カウンセラーの耳を気にしていて、
私こういうことをしゃべらないと、このようなことをしゃべれば、
フロイドさんはなんか全てはせいだって言っているから、
最近私はお父さんに恋してますって話をしたら、フロイド先生はさぞ喜ぶでしょうっていう、
でもそれが明らかすぎるからという夢を見ましたって言ったら、
フロイド先生褒めてくれるんじゃないかしらって、全然本当の事故じゃないじゃないですか。
でもこういうところから始まって、やがて私が東京ドームで体感したような、
クリーム入りコーヒーみたいになっていて、
バウンダリーがどこからがフロイド先生の話で、
どこからが私の話だったのか分かりもしないってところになった時に、
2人で1つになった時に、2人で1つだという錯覚が得られた時っていう、
この錯覚っていう表現を使うことはあるんですけど、
なんかダメな感じがするんですよね。そうじゃないような気がするんですけどね。
だって長ちゃんが母親と一緒なんだけれども、
母親のことは知らないし、何も知らないし、自分なんてものも知らないし、
でも確かに生きているよねってのは錯覚ではないと思うんですよね。
その表現としてはその通りではないですけれども、
その見えている物の光景としてはそうではないですけれども、
体感としてはその通りじゃないですか。
この体感こそ本当だ。これだけじゃ生きていけないですよ、もちろん。
これだけじゃ生きていけないから、
こういう体験がずっと続くってわけにはいきませんけれども、
それでもウィニコットが言いたかったのは、連続性を保たれなければいけないってことなんですよ。
つまり全然違う空間にいたから私は別人になりました、本当になっちゃいましたって言ったら、
先日お話ししたような乖離性が起きてしまうわけですよ。風遇が起きてしまう。
確かに私は別人のように振る舞いますよ。
これをやっている時と寝ている時と、娘とゲームしている時では全然私の振る舞いは違う。
でも、同一の人間だという意識は残るじゃないですか。
自我の分裂と母子関係
この部分が残らないとまずいじゃないですか。
そのために、やっぱりこの同一性ってものを保っている時の、
擬似でいいから母子関係みたいなものが大事なんですよ。
誰といても、それはある意味母子関係の連続である。
それを意向対象ってものを使った意向空間って話になるわけですよね。
だから遊べるって話をするわけですよ。
本当は母子じゃない。娘と私の関係、どこにも母子はないんだけど、
でもここに母子らしきものがあるよね、という遊びを人間ってのは必要とするってことですよね。
そこはロールプレイ、プレイですよね。ロールプレイの世界で、
ただこれはロールプレイです。
あなたちょっとお母さん役やってね、みたいなのではなくて、子供はそうするけど、
自然とそうなると、自然と東京ドームは母親であるといった感じになるべきなんですよ、やっぱり。
そうしないと、生計を営んだり生活をするということがすごく気を張るばっかりの作業になってしまって、
すぐに自己同一化が失われるか、ひたすらひたすら嘘をついて、
同じことですけどね、分裂分裂分裂になっていって、
いろんな私がゲームをするための私、運転するための私みたいになっていって、
そうすると私の全体性というものがどんどん損なわれていってしまう。
今はおやつ食べてるから運転する時の私いらないよね、みたいな感じになっていってしまって、
おやつを食べる自分っていうのがセーフモードみたいにさせられるわけですよ。
一部の私がおやつを食べてればいいんだ、みたいな。
そういうふうに本当に生きていらっしゃるという方がそれなりにいるわけですよ、たぶん現代には。
これはつまり2人では2人、3人だったら3人の世界に生きてると、そういうふうにしかなりようがないですよね。
3人だったら3人っていう時は、他の2人がいる前での私っていうのを用意して、
その私だけでそこを乗り切ろうみたいなことになるじゃないですか。
これがエニコットの言うところのスキゾイトなんだと思うんですね。
分裂ってことで、これはやっぱり昔からもちろんあると思うんですけど、
やっぱり現代では非常にありそうなことですよね。
平野啓一郎さんっていう芥川賞を取った作家さんが、文人主義っておっしゃってましたけど、
主義というか、そういう文人って起きちゃうことだけど、やっぱり取り戻す時間が必要だよなと。
寝てる時に心が回復するっていうのはそういうことだと思うんですよね。
寝てると、夢の中で自分は分裂してますけど、いろんな人に逆やってますから。
でも基本的に寝てるのは本人だから、やっぱりそこにわざわざ偽りの自分をどんどん用意するってことを
極力減らすことができてると思うんですよ。
だから夢を見る時間ってのは大事なんだろうという感じがするんですね。
この辺はもうかなり感覚で喋っちゃってますけど、そして頭ぼーっとしてますけど、
これで昨日の続きになっていたらいいかなと思いました。