おはようございます。 佐々木正悟のライフハックからの精神分析第1300回をお送りします。
12月26日金曜日8時21分です。 年内に1300回が達成できてよかったかなと思っております。
ではですね、早速と言いますか、ちょっと
お知らせがありまして、
何ですかね、
正月1月1日元日15時から セミナーをやります。
変わった試みだと思われるかもしれませんけれども、変わった試みだと思いますけどね。
15時から少なくとも18時までの3時間は セミナーをやります。1月1日、言っておきますと木曜日。
曜日は意識しませんよね、正月って。 木曜日の15時から18時まで。お休みでないという方もいらっしゃるかもしれませんが、
大概の人はお休みなのではないかというふうに思いますので、休日ということでね。 15時から18時です。
で、オンラインでやります。もちろんね、多分会場とか空いてないところも多いんではないかと思いますし、
会場でやるというのもね、ちょっとね、なんかもはや 元日からの修行みたいになっちゃうんで、オンラインでゆるゆると。
ゆるゆるとなんだけど、私が2026年にやろうと思っていることの全部を、できれば全部をですね。
まあ、やろうと思っていることの全部といってもですね、私その別にプランニング立てるわけじゃないんで、実際喋るだけで一向にやらなかったりするかもしれませんけど、
まあその本を出すことになっている本は、まあ私のことですから出すでしょうし、
その今、現在進行中の本、現行2冊についての話とか、
それをどうやって進めているかとか、それをAIとどうやって進めているか。AIの話は結構メインテーマかなと思ってますね。
で、タスク管理0.0っていうのをちょっと提唱したいと、ここ2、3週間言ってるんじゃないかと思うんですけど、
まあこれ総決算以来考えたことですからね。タスク管理0.0とは何なのかっていう話、
今これタスク管理の話は出てきますが、タスク管理とは何の関係もない話でもあります。
まあ0ですからね、そういうもんですね。タスク管理0についての話と、それはAIが非常に深く関わってくるんですが、
タスク管理3.0というですね、また世の中のどこにもないものを勝手に言い出してみたりして、
それはAIのことなんだけども、知的生産でもいいんですけどね、の話をしながら、その反対側にはタスク管理0がありますよという話を、
まあ試論的に、試論ってあの試す論ですね。学者でもないくせに試論ぶつなよって感じなんですが、
私この学者ぶりたがる自分の性格が、つくづくなんかもう嫌になっちゃって、若い時の特権だと思うんですよね、そんなのね。
50になってそれやってたら、完全に何かになっている感じがするんですよ。それはそれで芸風ってことですよね。
でもこの芸風は別に私、生涯の芸風だとは少しも思いませんので、学者ぶる芸風ってやつね。
いい加減にやめておこうと、50を境の頃に思ったんだけど、まだやってる気がしたから試論とか言っちゃうわけですけど、
えっと、試論でも何でもないです。要するにただ喋りますということですね。
で、あとは何だろうな、まあだから3ヶ月チャレンジに当然まつわる話、3ヶ月チャレンジのPRというか告知も、
2026年1月からまた始まりますので、していこうと思っております。
そういうことを延々喋って、3時間でも足りないぐらいではないかと勝手に思っているお正月スペシャルなのかわかんないですが、やります。
あと体を動かすというか、体からを、AIで体を動かすっていう、これは僕はすごいAIの、私にとってのもう中核テーマで、
世のですね、あのプロンプト時点に対してこのものすごく、まるでなんかこう、小国のゲリラ活動みたいになっちゃってるわけですけど、
まあそんな活動ですらないんですけど、私しかやってないんじゃないか疑惑が最近出てきてるんですけど、そんなはずないと思うんでね、私はね。
だいたい私しかやらないって言うほど、私が個性的な人間だってことが信用できないんですよね。
私はみんながやってることをやる、普通列車を目指すですから、普通列車で行こうですから、昔A列車で行こうってゲームありましたけど、A列車で行かないんですよ。
エースを目指さないというですね、別に普通を目指すっていうわけじゃないんだけど、普通というものがあって初めてエースはあるっていう、
ごく常識的な話だと思うんでね、これはね。普通列車がないのに新幹線だけあるというのはダメなんですよ。そういうのは機能しなくなるんで。
普通列車を目指さないわけですが、普通列車が必要ですし、普通列車というのは何よりも必要とされる。
新幹線はなくても極論なんとかなりますが、普通列車がないというのは駅がなくなるのと同じでダメなんですよ。
そういう話ではないけどですね、これもテーマだろうなと思います。
ということで、お値段はいただくことになる割引とかも一切ありません。
事前にお申し込みいただけばアーカイブは配信いたしますけれども、1月1日このセミナー以後、この動画を配信することは決してないんじゃないかと思います。
なぜならば、編集でもしない限りちょっと外には出せないものが出てくるんじゃないかと思ってるんですね。
3時間も僕にほぼ自由に喋らせればそういうことが起き得ると、私の性格から言って思う。
後で聞いてみるとですね、なんかそれを挙げつらうのって何なんて思うことが多いんですけど、しょうがないんですよね。そういうものなんで。
かつしかも、編集とかをしてそれを削ぎ落とすということをやるとですね、私からすると見るに絶えないものになるんですよ。
編集って、なされているものといないものとでは常になされているものが良いことになってるじゃないですか。
ここってところに切れたり、ここってところに何かが差し込まれたり。でも私あれを見ていて、いつも見るに絶えないものを見させられている気がするんですね。
なんかここというところが落ちている感じがむしろするんですよ。例えば間がないとか、間が変だとかですね。
あの空気の間って、このアノーとかフィラーもない方が良いことになってるじゃないですか。でも私これが一切ないやつを聞いていると非常に気味の悪いものを感じますね。
AIっぽいってんじゃないんですよ。AIとはまた違うんです。AIにフィラーがないのは当然のことであって、その当然の感じがないんですよね。
フィラーは人間にとっては当然のものなんですね。だからAIらしく喋らせてほしいと思うし、人が喋るなら人らしく喋るべきだと思うんですよね。
編集を入れてしまうと人らしくなくなったりするんですよ。AIと人をうまく混ぜるっていうやつも最近流行ってますけど、あれをやるとAIらしさが欠けていく感じがするんですよね。
私はそっちは見るに耐えないというか聞くに耐えないという感じが一瞬走る。我慢はしますよ。編集されてないテレビとかってありえないから我慢はします。
でも我慢して聞いてますから、私テレビとかも。なぜここで突然切るんだっていう、その突然感を私はいちいち全部拾うんですよ。
多分普通の人はそんなことしないと思うんで、そういう突然感を拾うっていうことをして勝手に苦しんでるだけなんですけれども、
カウンセリングとか言ってしまいますと3ヶ月チャレンジとかでセッションやってるとものすごくよく思うのが、この沈黙をカットしてしまったらもう何も残らないんじゃないかっていうぐらいの沈黙ってあるんですよね。
結構それも普通に店員とか言わなくても。だからそういう沈黙をカットしてきているっていうのに気づくと、なんかこう耐え難いものを感じさせられるんですよね。
その沈黙が全部いるじゃないですかと。一個も外せないですよ、それっていう感じがします。無駄とかいうのはナンセンスで、むしろ逆だと思うんですよね。
喋ってる時間の方がどっちかっていうと無駄に近くて、それもやっぱり極論なんだよな。両方いるんですよ。だからカットできないんですよね。
これってすごい自然な感じだと思うんですよね。我々はテレビに慣れてるからカットされるということにもはや無意識がそこに合わせていってるだけであって、私が特殊なんじゃないと思うんです。
たまたまうちの父のバカ下手教育方針で長いことテレビがなかったから、私にとっては10歳くらいまでなかったからこういう感覚があるんだろうと思うんですね。
知識とか全然気にしてないんですけどね、この辺も面白いよね。でも私ははっきりとこれがあってですね、ここでカットが入ったっていうのを感じるともう少なくとも不快感は絶対あるんですよね、そこに。
だからものすごいテレビ見てる時の不快感ってあって、内容が低俗だからそういう話じゃないんですよ。NHKだろうとEテレだろうと不快になるんですよ。
しかもそこでなぜ切るっていう感じを必ず持つんで私はね。不自然だって感じなんですよね、それはね。カットして繋いだみたいなのって、つまり繋いだないってことじゃないですか。
なんかそれをやられると隠されたって感じがする時もあるし、何か大事だったのにとかもうちょっと余韻が欲しいのに、何でもいいんだけど何かしらのある種の小さな不快感が全然これを聞いて、
あのディレクターの人とかが万が一聞いていた場合、気にしちゃいけないと思うんですね。こういう人間は稀だとしか思えないのでさすがにね、個性的そうなのかな。そうは思わないんですけどね、私は普通列車だと思うんで。
はい、長々と、まあ正月からやるよっていう話をさせてもらいまして、本題に入って割と今日はすぐ切り上げなければなりません。出かけなきゃならないから。
失敗ということについて、まあこれはもう本当に精神分析では古典中の古典だと思うんですけど失敗ということについて改めてここのところ失敗が続いて、まあ私失敗多い人間なんで失敗が続いているということは自慢にはならないんですが、この失敗というのはでもとても大事だなと思うんですよね。
ある三ヶ月チャレンジの参加者さんが佐々木さんは失敗ができる構図を手に入れてるっていう風に言ってくれて、これは相当賞賛なんですよ。失敗をするだろうっていうだけれどもその失敗ができるということはかけがえがないっていうのは本当なんですよ。
これは自分がやったときは言い訳が増しくなって感じられるのでついですね、なんかこう後失敗はいたしませんにしてしまいがちで、まあそれはそれで必要なんだけど、でも失敗したときにその原因を失敗だけに集めないこと、物事の原因っていうのはやっぱり多重的なんですよね。
これ山崎孝明さんが精神分析的心理療法科の山崎孝明さん、本人心理師の例ですね。よく戸羽隆一さんとバッテリーを組むことにされていたという話がちょっと前にはお話しされていた山崎さんが言ってた多重、多層的な現実っていう、ダイバーシティーみたいな話ではなくて。
カウンセリングが進むにつれて、もっとはるかに深刻でヤバい話が出てきたなと思っていたら、ケミカルの話どっか行ってるんですよね。多分話しているうちに来ている人もそのことを忘れてるし、もしかすると分析家の人も忘れてるし、さらに言うと読者も忘れちゃうっていう。
で、それはもう治ってるってことなんですよ。ただより深刻な事態、事態ではないですね。より深刻な話がそこで展開されているに過ぎなくて、実はその話はどうでもよくなってるんですよね。でもその話って最後にまたふっと出てきたりするんですよ。こういう話すっごい多いなと思う。空気を胸一般に吸い込めないわけですよね。
ある種の空間に行くとそうなるじゃないですか。地に困ってしまって、なんかすっごい厳しい親戚たちがいるところで、なんかやたら高級なメロンとか出てきてるんだけど、全然美味しくないみたいな。あんまりそういうの経験ないですよ私は。昔よく読んだ物語とかにそういうのあったなみたいな。つまり提供されるものはミルクなんだけど、なんかミルクは厳しいんですよ。で、厳選された良いミルクとかなんだけど、そういうものは取り込めないんですよね。
母親から出てきたものとは思えないみたいな。あるいはあまりにもその母親の良い母親さを提供してくれないみたいなね。厳しい母親ばかりが提供されてくるっていうような。で、そういう人が大きくなってからすごいこだわりそうじゃないですか。資質高すぎる、糖分も高すぎる。
これってちなみに、だったら糖分とかを気にせず摂ればいいのかって、そうはならないんですよ。ここが多層的なんですよね。やっぱパンなんですよね。パンをやめればお腹の調子が良くなるかもしれないけど、でも心身的な課題を取り除いてもお腹の調子は良くなるんですよ。だから原因が一つに特定されることって実はおかしいんですね。
ところが我々は失敗すると、話は戻ってきてますよ。失敗すると原因を失敗に集中してしまうんですよ。今回タスクシュート総決算2025やって、ある種の失敗は確かにあったんだけど、どうしてもそれが失敗こそが問題なんだっていう風に見え始めるんですよね。
他にもいろんなことが起きたのに、良いことも悪いこともいろんなことが起きてるのに、我々の意識はいつしか失敗というものに原因が集中していって、その結果として現在のこのある種の残念な結果みたいなものがあるんだってことにしてしまうんですよ。犯罪ってものが起きると我々は適面にこれをやります。
そしてグラドノケズさんがグッドバイブスでおっしゃってるような罪悪感を持たないっていうのがどれほど難しいことかっていうのを痛感させられると思います。自分が犯罪者呼ばわりみたいにされたときにはですね、もうこの失敗でもあるし、罪でもあるし、原因は全部自分が作ったことになってきているしっていうことで非常に恐ろしいです。
で、その時必ずパージする人、つまりその犯罪や失敗を攻撃する人っていうのは必ず出てきますが、この人のその後っていうものに対しての一定のフォローアップっていうのが、これも非常にね、なんでそんなことを考えなきゃならないんだって思われるかもしれないけど、ぜひとも考えた方がいいと思うんです。
失敗を避難した人は鬱的になっていく可能性が極めて高いと僕は思うんです。だってある種の現実はその人は触れられなくなるわけですよ。失敗を見とがめて、さらには攻撃追求までしたんだから、そういうところに自分を絶対置くことができないじゃないですか。
私最近、現実のブラックホールって呼んでるんですけど、頭の中で勝手にね。そこに近づけなくなるんですよ。だって絶対そういう目にあいたくないと思うじゃないですか。自分がパージしたんだから。レッドパージですよ。赤狩りね。赤狩りじゃないですよ。今言葉が浮かんだだけです。
パージをするということは、パージされるところを自分が作り出すってことになるんですよ。これを自分、そういう人が気丈であればあるほど、いやいやそんなん自分だって失敗すれば当然その席は全部私が引っかぶるでしょうって言っている人ほど危険なんですよ。
だからフォローできる人がいればその人にフォローして、それは優しすぎるだろうって思われるかもしれませんが、そうじゃないんですよ。世の中に普通の人が増えれば増えるほど、現実はやっぱり機能回らなくなって生き得るので。
直接やられた人がそこまで気を回すのは無理だと思うんだけど、それを横から見ていて、かつ日頃パージする人のことが嫌いでないならば、ややこしいな、ないならば、何かしらほんのちょっとでいいんですよ。
何なら見守っていくぐらいでもいいんですよ。特にパージされている人に同情できず、パージしている人の方にどっちかちょっと地点が近い人の場合、パージした人のケアを検討してあげるというのは、私は非常に重要な仕事なんじゃないかなと最近思いますね。最近つくづく思います。