1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 失敗して責められたら綺麗事で..
2025-12-26 31:47

失敗して責められたら綺麗事ではなくチャンスが来ている【1300】

反省ばかりしていてはならない。
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サマリー

失敗は個々の状況の中で重要な機会を提供すると強調されています。セミナーの紹介を通じて、参加者は失敗の重要性と多次元的な原因について考察を促されます。このエピソードでは、失敗から学ぶことや他者への攻撃がもたらす影響について深く考えられています。特に、失敗の責任をどう受け止め、克服するかというプロセスが語られ、心理的なトラウマや反省の重要性についても触れられています。失敗は重要な発見や成長のチャンスであると説かれ、罪悪感が自己理解にどのように影響を与えるかについて深く掘り下げられています。このエピソードでは、カウンセリングを通じて、自己をどう捉え直すかが主なテーマとして扱われています。

セミナーの発表
おはようございます。 佐々木正悟のライフハックからの精神分析第1300回をお送りします。
12月26日金曜日8時21分です。 年内に1300回が達成できてよかったかなと思っております。
ではですね、早速と言いますか、ちょっと
お知らせがありまして、
何ですかね、
正月1月1日元日15時から セミナーをやります。
変わった試みだと思われるかもしれませんけれども、変わった試みだと思いますけどね。
15時から少なくとも18時までの3時間は セミナーをやります。1月1日、言っておきますと木曜日。
曜日は意識しませんよね、正月って。 木曜日の15時から18時まで。お休みでないという方もいらっしゃるかもしれませんが、
大概の人はお休みなのではないかというふうに思いますので、休日ということでね。 15時から18時です。
で、オンラインでやります。もちろんね、多分会場とか空いてないところも多いんではないかと思いますし、
会場でやるというのもね、ちょっとね、なんかもはや 元日からの修行みたいになっちゃうんで、オンラインでゆるゆると。
ゆるゆるとなんだけど、私が2026年にやろうと思っていることの全部を、できれば全部をですね。
まあ、やろうと思っていることの全部といってもですね、私その別にプランニング立てるわけじゃないんで、実際喋るだけで一向にやらなかったりするかもしれませんけど、
まあその本を出すことになっている本は、まあ私のことですから出すでしょうし、
その今、現在進行中の本、現行2冊についての話とか、
それをどうやって進めているかとか、それをAIとどうやって進めているか。AIの話は結構メインテーマかなと思ってますね。
で、タスク管理0.0っていうのをちょっと提唱したいと、ここ2、3週間言ってるんじゃないかと思うんですけど、
まあこれ総決算以来考えたことですからね。タスク管理0.0とは何なのかっていう話、
今これタスク管理の話は出てきますが、タスク管理とは何の関係もない話でもあります。
まあ0ですからね、そういうもんですね。タスク管理0についての話と、それはAIが非常に深く関わってくるんですが、
タスク管理3.0というですね、また世の中のどこにもないものを勝手に言い出してみたりして、
それはAIのことなんだけども、知的生産でもいいんですけどね、の話をしながら、その反対側にはタスク管理0がありますよという話を、
まあ試論的に、試論ってあの試す論ですね。学者でもないくせに試論ぶつなよって感じなんですが、
私この学者ぶりたがる自分の性格が、つくづくなんかもう嫌になっちゃって、若い時の特権だと思うんですよね、そんなのね。
50になってそれやってたら、完全に何かになっている感じがするんですよ。それはそれで芸風ってことですよね。
でもこの芸風は別に私、生涯の芸風だとは少しも思いませんので、学者ぶる芸風ってやつね。
いい加減にやめておこうと、50を境の頃に思ったんだけど、まだやってる気がしたから試論とか言っちゃうわけですけど、
えっと、試論でも何でもないです。要するにただ喋りますということですね。
で、あとは何だろうな、まあだから3ヶ月チャレンジに当然まつわる話、3ヶ月チャレンジのPRというか告知も、
2026年1月からまた始まりますので、していこうと思っております。
そういうことを延々喋って、3時間でも足りないぐらいではないかと勝手に思っているお正月スペシャルなのかわかんないですが、やります。
あと体を動かすというか、体からを、AIで体を動かすっていう、これは僕はすごいAIの、私にとってのもう中核テーマで、
世のですね、あのプロンプト時点に対してこのものすごく、まるでなんかこう、小国のゲリラ活動みたいになっちゃってるわけですけど、
まあそんな活動ですらないんですけど、私しかやってないんじゃないか疑惑が最近出てきてるんですけど、そんなはずないと思うんでね、私はね。
だいたい私しかやらないって言うほど、私が個性的な人間だってことが信用できないんですよね。
私はみんながやってることをやる、普通列車を目指すですから、普通列車で行こうですから、昔A列車で行こうってゲームありましたけど、A列車で行かないんですよ。
エースを目指さないというですね、別に普通を目指すっていうわけじゃないんだけど、普通というものがあって初めてエースはあるっていう、
ごく常識的な話だと思うんでね、これはね。普通列車がないのに新幹線だけあるというのはダメなんですよ。そういうのは機能しなくなるんで。
普通列車を目指さないわけですが、普通列車が必要ですし、普通列車というのは何よりも必要とされる。
失敗の重要性
新幹線はなくても極論なんとかなりますが、普通列車がないというのは駅がなくなるのと同じでダメなんですよ。
そういう話ではないけどですね、これもテーマだろうなと思います。
ということで、お値段はいただくことになる割引とかも一切ありません。
事前にお申し込みいただけばアーカイブは配信いたしますけれども、1月1日このセミナー以後、この動画を配信することは決してないんじゃないかと思います。
なぜならば、編集でもしない限りちょっと外には出せないものが出てくるんじゃないかと思ってるんですね。
3時間も僕にほぼ自由に喋らせればそういうことが起き得ると、私の性格から言って思う。
後で聞いてみるとですね、なんかそれを挙げつらうのって何なんて思うことが多いんですけど、しょうがないんですよね。そういうものなんで。
かつしかも、編集とかをしてそれを削ぎ落とすということをやるとですね、私からすると見るに絶えないものになるんですよ。
編集って、なされているものといないものとでは常になされているものが良いことになってるじゃないですか。
ここってところに切れたり、ここってところに何かが差し込まれたり。でも私あれを見ていて、いつも見るに絶えないものを見させられている気がするんですね。
なんかここというところが落ちている感じがむしろするんですよ。例えば間がないとか、間が変だとかですね。
あの空気の間って、このアノーとかフィラーもない方が良いことになってるじゃないですか。でも私これが一切ないやつを聞いていると非常に気味の悪いものを感じますね。
AIっぽいってんじゃないんですよ。AIとはまた違うんです。AIにフィラーがないのは当然のことであって、その当然の感じがないんですよね。
フィラーは人間にとっては当然のものなんですね。だからAIらしく喋らせてほしいと思うし、人が喋るなら人らしく喋るべきだと思うんですよね。
編集を入れてしまうと人らしくなくなったりするんですよ。AIと人をうまく混ぜるっていうやつも最近流行ってますけど、あれをやるとAIらしさが欠けていく感じがするんですよね。
私はそっちは見るに耐えないというか聞くに耐えないという感じが一瞬走る。我慢はしますよ。編集されてないテレビとかってありえないから我慢はします。
でも我慢して聞いてますから、私テレビとかも。なぜここで突然切るんだっていう、その突然感を私はいちいち全部拾うんですよ。
多分普通の人はそんなことしないと思うんで、そういう突然感を拾うっていうことをして勝手に苦しんでるだけなんですけれども、
カウンセリングとか言ってしまいますと3ヶ月チャレンジとかでセッションやってるとものすごくよく思うのが、この沈黙をカットしてしまったらもう何も残らないんじゃないかっていうぐらいの沈黙ってあるんですよね。
結構それも普通に店員とか言わなくても。だからそういう沈黙をカットしてきているっていうのに気づくと、なんかこう耐え難いものを感じさせられるんですよね。
その沈黙が全部いるじゃないですかと。一個も外せないですよ、それっていう感じがします。無駄とかいうのはナンセンスで、むしろ逆だと思うんですよね。
喋ってる時間の方がどっちかっていうと無駄に近くて、それもやっぱり極論なんだよな。両方いるんですよ。だからカットできないんですよね。
これってすごい自然な感じだと思うんですよね。我々はテレビに慣れてるからカットされるということにもはや無意識がそこに合わせていってるだけであって、私が特殊なんじゃないと思うんです。
たまたまうちの父のバカ下手教育方針で長いことテレビがなかったから、私にとっては10歳くらいまでなかったからこういう感覚があるんだろうと思うんですね。
知識とか全然気にしてないんですけどね、この辺も面白いよね。でも私ははっきりとこれがあってですね、ここでカットが入ったっていうのを感じるともう少なくとも不快感は絶対あるんですよね、そこに。
だからものすごいテレビ見てる時の不快感ってあって、内容が低俗だからそういう話じゃないんですよ。NHKだろうとEテレだろうと不快になるんですよ。
しかもそこでなぜ切るっていう感じを必ず持つんで私はね。不自然だって感じなんですよね、それはね。カットして繋いだみたいなのって、つまり繋いだないってことじゃないですか。
なんかそれをやられると隠されたって感じがする時もあるし、何か大事だったのにとかもうちょっと余韻が欲しいのに、何でもいいんだけど何かしらのある種の小さな不快感が全然これを聞いて、
あのディレクターの人とかが万が一聞いていた場合、気にしちゃいけないと思うんですね。こういう人間は稀だとしか思えないのでさすがにね、個性的そうなのかな。そうは思わないんですけどね、私は普通列車だと思うんで。
はい、長々と、まあ正月からやるよっていう話をさせてもらいまして、本題に入って割と今日はすぐ切り上げなければなりません。出かけなきゃならないから。
失敗ということについて、まあこれはもう本当に精神分析では古典中の古典だと思うんですけど失敗ということについて改めてここのところ失敗が続いて、まあ私失敗多い人間なんで失敗が続いているということは自慢にはならないんですが、この失敗というのはでもとても大事だなと思うんですよね。
ある三ヶ月チャレンジの参加者さんが佐々木さんは失敗ができる構図を手に入れてるっていう風に言ってくれて、これは相当賞賛なんですよ。失敗をするだろうっていうだけれどもその失敗ができるということはかけがえがないっていうのは本当なんですよ。
これは自分がやったときは言い訳が増しくなって感じられるのでついですね、なんかこう後失敗はいたしませんにしてしまいがちで、まあそれはそれで必要なんだけど、でも失敗したときにその原因を失敗だけに集めないこと、物事の原因っていうのはやっぱり多重的なんですよね。
これ山崎孝明さんが精神分析的心理療法科の山崎孝明さん、本人心理師の例ですね。よく戸羽隆一さんとバッテリーを組むことにされていたという話がちょっと前にはお話しされていた山崎さんが言ってた多重、多層的な現実っていう、ダイバーシティーみたいな話ではなくて。
心理的視点からの考察
例えばちょっとあれな話ですけど、お腹の調子が良くなくてちょっと下痢みが続いていると言ったときに、あるXでかな、Xだったと思うんだけど、こういう人はパンをやめるべきだっていうふうに書いていて、日本人は乳糖不耐症の人いっぱいいるからパンやめるとたちまち良くなる人多いよっていう、これは正しいんですよ。
で、これってどこにも力動とか心身症とかいらないじゃないですか。でも一方で、それは絶対正しいと思うんですよね。パンやめると治る人が多い、治るというか胃腸の調子が劇的に、だからパンやめましょうって話じゃないですよ。
これ、こういう話は一方で正しいんだけど、他方ではやっぱりめちゃくちゃ食べるものを選んでますとかね。つまり、摂食障害的な話でめちゃくちゃ食べるものを選んでます。めちゃくちゃ食べるものを選んでる話っていうのは、母親からの何かを拒絶している話と似ても簡単に結びついていることが多いんですよ。
心理カウンセリングの話に、シックハウスとか、あるいはケミカルなんとかとか、空気に悪い物質が含まれているからここでは呼吸できないんですみたいな話が入ってきたら、要注目なんですよね。その話いずれ消えてるんですよ。多くの心理臨床の話では。
カウンセリングが進むにつれて、もっとはるかに深刻でヤバい話が出てきたなと思っていたら、ケミカルの話どっか行ってるんですよね。多分話しているうちに来ている人もそのことを忘れてるし、もしかすると分析家の人も忘れてるし、さらに言うと読者も忘れちゃうっていう。
で、それはもう治ってるってことなんですよ。ただより深刻な事態、事態ではないですね。より深刻な話がそこで展開されているに過ぎなくて、実はその話はどうでもよくなってるんですよね。でもその話って最後にまたふっと出てきたりするんですよ。こういう話すっごい多いなと思う。空気を胸一般に吸い込めないわけですよね。
ある種の空間に行くとそうなるじゃないですか。地に困ってしまって、なんかすっごい厳しい親戚たちがいるところで、なんかやたら高級なメロンとか出てきてるんだけど、全然美味しくないみたいな。あんまりそういうの経験ないですよ私は。昔よく読んだ物語とかにそういうのあったなみたいな。つまり提供されるものはミルクなんだけど、なんかミルクは厳しいんですよ。で、厳選された良いミルクとかなんだけど、そういうものは取り込めないんですよね。
母親から出てきたものとは思えないみたいな。あるいはあまりにもその母親の良い母親さを提供してくれないみたいなね。厳しい母親ばかりが提供されてくるっていうような。で、そういう人が大きくなってからすごいこだわりそうじゃないですか。資質高すぎる、糖分も高すぎる。
これってちなみに、だったら糖分とかを気にせず摂ればいいのかって、そうはならないんですよ。ここが多層的なんですよね。やっぱパンなんですよね。パンをやめればお腹の調子が良くなるかもしれないけど、でも心身的な課題を取り除いてもお腹の調子は良くなるんですよ。だから原因が一つに特定されることって実はおかしいんですね。
ところが我々は失敗すると、話は戻ってきてますよ。失敗すると原因を失敗に集中してしまうんですよ。今回タスクシュート総決算2025やって、ある種の失敗は確かにあったんだけど、どうしてもそれが失敗こそが問題なんだっていう風に見え始めるんですよね。
他にもいろんなことが起きたのに、良いことも悪いこともいろんなことが起きてるのに、我々の意識はいつしか失敗というものに原因が集中していって、その結果として現在のこのある種の残念な結果みたいなものがあるんだってことにしてしまうんですよ。犯罪ってものが起きると我々は適面にこれをやります。
そしてグラドノケズさんがグッドバイブスでおっしゃってるような罪悪感を持たないっていうのがどれほど難しいことかっていうのを痛感させられると思います。自分が犯罪者呼ばわりみたいにされたときにはですね、もうこの失敗でもあるし、罪でもあるし、原因は全部自分が作ったことになってきているしっていうことで非常に恐ろしいです。
で、その時必ずパージする人、つまりその犯罪や失敗を攻撃する人っていうのは必ず出てきますが、この人のその後っていうものに対しての一定のフォローアップっていうのが、これも非常にね、なんでそんなことを考えなきゃならないんだって思われるかもしれないけど、ぜひとも考えた方がいいと思うんです。
失敗を避難した人は鬱的になっていく可能性が極めて高いと僕は思うんです。だってある種の現実はその人は触れられなくなるわけですよ。失敗を見とがめて、さらには攻撃追求までしたんだから、そういうところに自分を絶対置くことができないじゃないですか。
私最近、現実のブラックホールって呼んでるんですけど、頭の中で勝手にね。そこに近づけなくなるんですよ。だって絶対そういう目にあいたくないと思うじゃないですか。自分がパージしたんだから。レッドパージですよ。赤狩りね。赤狩りじゃないですよ。今言葉が浮かんだだけです。
パージをするということは、パージされるところを自分が作り出すってことになるんですよ。これを自分、そういう人が気丈であればあるほど、いやいやそんなん自分だって失敗すれば当然その席は全部私が引っかぶるでしょうって言っている人ほど危険なんですよ。
だからフォローできる人がいればその人にフォローして、それは優しすぎるだろうって思われるかもしれませんが、そうじゃないんですよ。世の中に普通の人が増えれば増えるほど、現実はやっぱり機能回らなくなって生き得るので。
直接やられた人がそこまで気を回すのは無理だと思うんだけど、それを横から見ていて、かつ日頃パージする人のことが嫌いでないならば、ややこしいな、ないならば、何かしらほんのちょっとでいいんですよ。
何なら見守っていくぐらいでもいいんですよ。特にパージされている人に同情できず、パージしている人の方にどっちかちょっと地点が近い人の場合、パージした人のケアを検討してあげるというのは、私は非常に重要な仕事なんじゃないかなと最近思いますね。最近つくづく思います。
心理的影響
それぐらい失敗というのは、した人もされた人もインパクトがでかい。なんでインパクトがでかいかというと、失敗そのもののインパクトは小さい。多くの場合小さい。はっきり言って取るに足らない。でも多くの人がそうは思わないところから失敗のインパクトというのは大きくなっていくんですよ。
そしてそこに一番の問題はそこに原因を集中させてしまうこと。大体において現実に生きている上で因果率というものが見えたらやばいと思った方がいいです。最近これもつくづく思います。
よく盲点とか精神分析の治療における見落としとか見逃しとかって言うんですけど、あるいは盲目になるみたいな言い方をする場合もあるんですけど隠されてしまうとかね。全部同じこと言ってます。
事後性っていうのもそうです。後になったらあの時はああだったのは自明だったのにどうして気づかなかった。なんかあれですよ。机の上に鍵置いてあるよみたいな。その鍵なんで見えなかったんだろうねっていうような話に近いんですよ。そういう感じって本当にめちゃくちゃ抱きます。失敗しなくても抱きます。失敗すると確実に抱きます。失敗によって失敗だけが見えちゃうんですよ。
そうすると失敗によって失敗に目線が集中するじゃないですか。そうするとそのちょうど真後ろぐらいにある非常に大事なものが全部失敗してしまったっていうその気持ち。そしてこいつ失敗しやがってっていうその怒りによって2者しかいませんから精神分析の部屋には。2者しかいない。2者とも見落とすんですよね。
これがよく言われるところの事後性。そしてセッションが終わって数年経ってふとあってことがあるんですよ。それはそれでとてもいい体験なんで何でもかんでもその時気づけばいいってもんではないのかもしれないんですけどね。
でもあって思うんですよ本当に。だから失敗というものが起きたときは非常に重要なそこにシグナルが発生しなければいけない。多くの場合失敗が起きちゃうと油断してしまいますね。もうあなた佐々木さんのこと失望しました。さよならってことになるじゃないですか。それでいいんだけどしょうがないですよね。失敗を私がしたんだから。
その時に多分ですねここで力量が問われます。私が失敗したのはしかもそれは言いがかりじゃないです。言いがかりじゃないことが大事。言いがかりだとまたそれはそれで考えなきゃ。言いがかりの方が楽だってことなんですよ。持ちこたえられる。言いがかりでなかった場合反省したり謝罪しちゃったりするじゃないですか。
謝罪も反省も必要なんですよ。しかも多くの場合。ただその時に力量があればですねもっと私にここでさらに持ちこたえてこの失敗に隠れようとしているこの人の問題は何なんだろうっていう風に方が進まないといけない。進まないですよ。多くの場合。私全然進まなかったです。これまでも何回もやらかしてきて一度もその瞬間はダメだなって感じ。
なんか自分のダメぶりとかを反省して終わっちゃうんですよ。本当にしかもその時そういう時のあの関係のこじれって本当にね何か何かに取り憑かれてるんじゃないかみんなでっていうぐらい反省モードまっしぐらに行ってしまうんですよね。
だから反省やめてくださいみたいなグッドバイオスの蔵野さんの言葉っていうのはこういう時にめちゃくちゃ聞くんですよ。あの罪の意識を持つなっていうことなんですよね。一言で言うと絶対やめとけみたいなノリがあるんですよ。でもそんなこと普通の人まず言わないじゃないですか。何をやらかしても罪の意識を持つなみたいに言わないじゃないですか。そのぐらい強いメッセージがいる時であるんですよね。
私は随所でやっぱりセッションでいろんなものを活用させてもらってるけどグッドバイオスは使ってますよね。あのグッドバイオスそのものを解くことはあの場を混乱させるからしないんだけどグッドバイオスは私は使ってますよね。
罪の意識は持っちゃってるけど持たないとするとどうなるだろうっていうのを一生懸命持たないことによってしかできないことってあるんですけどね。難しいんですよね。例えばまあ総決算難しいなやっぱりな反省しちゃってるからいけないんですよね。反省してしまうとその反省すべきところを改善しようという気持ちだけになる。
あるいは反省すべきところを謝罪、言い訳すると見苦しいとかって感じるじゃないですか。でも言い訳しててもいいからそこに踏みとどまり続ける。自分が悪くなかった可能性に踏みとどまり続ける。自分が悪かったとしても自分が悪いことをしたとしてもしなくても同じ事態が発生し得たっていうような点に踏みとどまり続けるということが非常に大事です。
チャンスの再考
そしてパージした人のフォローアップを誰かがしましょう。これもものすごく大事です。優しいとかじゃない優しいかもしれないけどそれは優しさよりもはるかに大事なことがそこにあります。その人が鬱になったりしたら大変なことが起きるよっていう大変なことは起きないんですけどでも当事者にとっては辛いことになるよっていう含みを捉えておけばですね。
パージそのものは大したことじゃないんですよ。パージそのものが大したことだと我々はつい思ってしまうんですよ。母親に起こられた記憶っていうのが苦々しすぎるから。それはそうなんですよ。それでいいんです。それでいいんですがこの時の苦々しさを必ず全く違うもっとはるかに大きなナスカの地上絵みたいなもんで。
もっとはるかに大きな絵がそこに浮かび上がる可能性はできれば100%想定しておくべきなのではないかと最近思うんですね。だからとても大事な人へのお礼を言い忘れるとかあるいは何でもいいんです。とても重要な会議に寝坊するとかですね。
なんかねあれですよ。大チャンスみたいなのが頭の中で響くぐらいに。なんかねそれをビジネスの本でも書いてあるじゃないですかよくね。ピンチはチャンスみたいな。でもあれは本当なんですよね。ただこれを本当だと思うためには自分の罪悪感を一時的なりとも完全に棚上げにできるっていうこれは僕ある種のトレーニングだと思うように最近はしてます。
人としてどうなのっていう話にどうしてもなっちゃうんで。
相手はすごく怒っているというのにですね。
でも相手の怒りは怒りとしてだいたい怒りの規模っていうのはバランスが崩れてますから。どんなにその人の怒りが正当に思えてもそれはその人にとっての正当性であって客観的にはそこまで重大視してはまずいんですよ。やっぱり。
あとそれをやってしまうとその人、怒った人が必ず後で、お、なんちゅうのかな。
もう最初からその段階で鬱的と言えなくはないんですけど対象喪失が起きてるでしょうから。そこまで怒ってるってことは。
だからあのある意味ではそれがその怒りは誤解であったっていうのはいいことなんですよ。
これもだから言い訳っぽくなるじゃないですか。失敗した人にするとね。でもそれが誤解であるならばその人は対象を喪失してないことになるので。
脱価値化は避けられないと思うんですね。ここまで行っちゃうと。でも脱価値化と対象喪失は違うと僕は思うので価値が下がっても対象は残ってるじゃないですか。
対象を喪失してしまうと、帰ったら喪失した対象を理想化したりすると、あの同国じゃないですか。地獄じゃないですか。一歩間違うと。
そういうことを考えて考えて考えていくとですね、これは先日あの、そういえば後に失恋のお話、データいただきまして何かお役に立てたようで大変光栄でございます。
私のあれが何かの役に立ったっていうならそれは非常にありがたかったと思います。話を元に戻しますと失敗しましたと。
罪悪感と自己理解
で、罪悪感は一体何とか頑張ってできれば瞬時に棚上げにして、特にこれはカウンセリング的なことをやってる人は絶対に必須だと思います。
どんな失敗であれ、どれほど自分が悪かったことが確実であっても、一旦棚上げにして、罪悪感は。
ここでは何か問題の解決のために必須の発見を得られるはずであるっていう想定に立つ。
精神分析という営みというですね、藤山直樹さんの一番三部作の最初の本、紺色の表紙の本の一番最初の方にスローモーションの次に出てくる非常にいい話がありまして、物語を作ることに急遽、物語っていうのは両親が負中であると。
自分という存在は一生懸命その両親の関係を保つためにやってきた患者さんね、言ってきたことは、やってきたことはその両親の関係を保つために自分は必死に気を回して女の子なんです。
こういうことをやるのは女の子が多い。男の子も今やりますけど結構ね。
気を回して両親の間を取り持つようにして一家を支えてきたという、けなげな女の子の物語ってものがずっと出てきていて、それを中心に藤山直樹さんは分析してたんだけど、なんか手の震えが一個に収まらないと。
最初に来た時も手の震えの話したけど、そういえば一年経っても手の震えの話してると。おかしいと。
で、気がついたのはこの問題はそうじゃなかったんだと。
罪悪感なんだと。この女の子の。どういう罪悪感なのかというと、自分が生まれてこうやって両親の間を取り持ったもんだから、セックスもする気にならない、一緒に口を聞くのも嫌だって言っている両親がわざわざくっついたまま何年も過ごしてしまったという罪悪感。
これで手が震えてるんだっていうような話なんですよ。大筋ね。
これってすごい微妙じゃないですか。けなげな女の子だったのか、罪悪感を持った女の子だったのか、どっちにしてもやったことに何の違いもないわけですよ。
生まれて両親の腑中をその子が取り持った。あとはそれをどう捉えるかの問題ですよね。
でもその人にとっては罪悪感が全てなんですよ。
失敗を棚上げする重要性
藤代直樹さんはこの治療のどこかで自分が失敗しているんだということに気づくっていう。
嫌なもんだはずなんですよ。
わかんないですけどこれは偽装も入ってると思うんですけど。
でも1年にわたって失敗し続けるって気分良くないじゃないですか。
だけれどもそういうことだけを考えていたのでは、ことの真相に迫れないんですよね。やっぱりね。
ことの真相はもういい加減適齢期になっているのに、自分もまた全然性愛的なものも楽しめてないし、
何だかひたすら両親に対する罪悪感で一生終わりそうだという。
これが実はその人がわざわざそのタイミングで、このタイミングでってのが大事ですよね。
カウンシリングってなぜ今受けるのかっていうその問題急に始まったわけじゃないじゃないですか。
極端に言うと子供の時からあったわけで。
でもこのタイミングでつまりこのまま行くと結婚もできずに罪悪感を抱えたまま両親の間を取りもって一生終わるよっていうことに対する無意識の抗議なんだという話ですよね。
突き詰めていくと。
この観点の方が遥かに見通し明るいじゃないですか。
やるべきことをなんとなく明らかになってくるし。
こんなに綺麗にいかないと思うんですけど私も。
ただ失敗というものを意識することはこういう視点を開く可能性が結構高いと思うんですよね。
私の経験上。
その時自分の失敗にこだわってると藤山さんで言うとあれどうしてよくなんないんだろうっていう失敗にこだわっていてスーパーファイザーでもつけた方がいいんだろうかとかノート見直した方がいいだろうかとかやってると見えてこなくなってくるわけですよ。
だから一旦棚上げにして考え直すということ。
むやみに行動化に走らないということ。
我々よくやるじゃないですか。
こういう失敗したのは記録が足りなかったからだとか記録をよく読んで反省しようとかやると見えないものが見えないままになってしまう。
だから私は最近レビューとかpdcaとか改善という言葉にすこぶるですね。
会議的になってるわけです。
31:47

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