2021-04-27 33:06

【GMV 365】人に合わせるリスクとコスト

合わせざるを得ないことはたくさんあると思います。
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
Hello, I'm Jap!っていう電子書籍がですね、
グッドバイブスe-booksという、これも倉園さんの公式サイトのほう、
グッドバイブス公式サイトのほうからにあるレーベルなんですけれども、
そこで新しい電子書籍が出ました。
黄色い表紙の本で、多分表紙にですね、子供たちの絵が描かれています。
これ、著者が描いた絵なんですけどね。
で、著者は、さつきさんという方で、書き上げ塾でですね、
書き上げ塾というのも、倉園圭都さんと一緒に運営中の現在3期になっている、
本を一冊書き上げるための講座なんですが、の生徒さんで、
そして本を一冊書き上げたから、アマゾンのアンリミテッド対応で出したという流れになっております。
小説なんですが、アメリカの漢字っていうのがすごく伝わってくる小説で、
すごいこんなのが書き上がるんだなと思い、
自分が運営していてそういう言い方をするのもあれなんですが、
私フィクションって書くのはとても無理で、文章を書くと言っても諸々あるじゃないですか。
例えば詩が書けるのかとかいう話ってあると思うんですが、
このフィクションができるんだな、この講座大変いいんじゃないかと。
そういうCMなんですが、アンリミの方は一度やっぱりちょっと読んでみていただければいいかなと。
アメリカに多分住んだことがある人なら、生活したことがある人なら、
多分何か伝わるものがあると思います。
1980年代の話なので、ちょっと住んだ時期にもよるし、
場所もニュージャージーなんで、ニュージャージーって言えば、
東部のアメリカ発祥の頃の土地柄じゃないですか。
あそことカリフォルニアとかは全然違うんですけど、
あと中部も全然違うんですけど、
まあそれでも、これはアメリカだって感じがするところが随所にあってですね。
私はアメリカに小学生の時からいたとかじゃないんで、
話は小学校の頃の話だったり、
要するに小中学校時代の年代の話なんで、
ちょっと過ごした感じって違うんですけど、
03:00
私は大学時代でしたし、既に行った時は30前でしたから、
違うんですけど、それでもやっぱりアメリカだなっていうのが感じられる本です。
ちょっと南部はまた違うと思うんですけどね。
そういうものを味わうには、
フィクションってそういう力があるなと痛感します。
アメリカ生活のなんとかみたいなのは読むんですよ。
留学する前にも読んだし、
留学中にも読んだし、それはそれで大変役に立つんですけど、
やっぱりそういうことではないんですよね。
そういうことではなくて、
住むってのはどういう感じがするものかってあると思うんです。
日本に住むのだってそうですよね。
この国はすごくユニークなので、
外国人の人が住んだらさぞいろんな強烈なものがあると思うんですけれども、
そういうものを雰囲気として味わうということができる本かなと。
他にもいろんな良い点があるんですけど、
どうしても私はやっぱりそこが来るんですよ。
人に伝えられないんですよね。
アメリカに住んだ感じとはどういうものなのか。
良いとか悪いって言うってものすごくざっくりしてて、
良いも悪いも混ざりますよね。
どんな生活でも。
何が一番違うかっていうのはすっごい難しいんですけど、
例えばアメリカ生活というのは日本と何が強烈に違うかって、
広さが違うっていうのがまずあるんですよ。
特に中西部に住んでみると。
とにかく広い。
この広いことがありとあらゆる意味で生活に深く関わってきていて、
もう感覚が変わっちゃうという。
なんて言うんですかね。
アメリカに何年か住んでる人はみんな言うんですけど、
日本に来るとアメリカが現実だった気がしなくなるし、
逃避してしまうと今度は日本が現実に存在することが実感できなくなるっていう、
この話よくするんですけれども、
本当そうで、なんかこう夢見てたみたいになっちゃうんですよね。
今までいた国のことが。
私もアメリカに行ってしまうとですね、
日本でのことというのは全て全くどうでもいいことのように思えてきて、
日本に戻ってくるとアメリカのことが全て全くどうでもいいことのように思えちゃうんですよ。
あれ非常に困るんですね。
例えばアメリカでまだ取り切ってない単位があるんだけど、
日本に来ちゃうとそれはどうでもいいことのように思えてきたりするんです。
ああいう感じというのもですね、
行き来しているとすごいこういろいろ困るし、
楽しくもしかもあるというすごい難しいところがあって、
そういうものもですね、
このHello, I'm Japaneseは行き来まで入ってきてるんで、
行き来って頻繁にしている話ではないんですけど、
でもアメリカと日本が両方出てくるんで、
あの感じがですね、とてもよく小説で読めるというものがありますんで、
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よろしかったらどうぞということですね。
そのアメリカ生活なんですけれども、
アメリカ生活とはあんまり関係がないといえば関係がないし、
あるといえばあるんだけれどもですね、
いつも自分がいろいろ思うことの一つに、
イリュージョンっていうものは社会性があるよねと、
まあこれはあって当然ですけどあるんだなっていう、
今まで私がこの番組で喋っているのはおおむね個人のイリュージョンなんですけど、
社会的なイリュージョンっていうものの扱いがですね、
グッドワイブスに深く関わるようになって、
変わったなと思うところの一つなんです。
この問題というのかな、以前からすごく課題だとは思ってたんですよ。
どういうことかというとですね、
例えば、ごく簡単に言うと疲れるってあるじゃないですか。
例えば、友達だって人混みって疲れるよねって言われたとするじゃないですか。
そうすると人混みって疲れた感じがするんですよ。
この問題って僕は問題。
問題じゃないかもしれないんですけど、僕にはやや問題だと思ってたんですね。
でも本当に疲れてはいないなあんまりって時々思ってたんですよ。
そういう時って話合わせるじゃないですか。
特に前にいるのが自分が少々好きな女の子とかだったり、
人混みって疲れるよねって言うと合わせるべきなんですよ。
合わせるべきというか、合わせるとメリットを感じるんですよ。
ここで合わせないのは結構コストじゃないですか。
人混み本当に自分も苦手でって言うわけですよ。
ここまでは普通に言うわけですよね。今でも言う時は言います。
そうすると何が起こるかというと疲れてくるんですよ。
これが僕にとっては課題だなと思ってたんですね。
疲れてくるというのはイリュージョンなんだけど疲れてなかったわけだからそれまで。
人のイリュージョンを引き受けるみたいなところがありまして、
これが社会的なイリュージョンで個人のそれよりも強力だなと思うことが多いんですね。
なぜならやっぱりこれは現実認識を統一しているわけだから、
認識か、認識を統一しているわけだからそれが現実に近づく感じがあります。
これがあるからですね、ウッドワイブス以来思ったんですけれども、
これを意識して自分が引っかぶらないようにするということが思いのほか大事だなと思ったんですけれども、
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こういう時にですね、ウッドワイブスをはじめとするいろんな価値観、
結局これはある種の価値観だと思うんですけれども、
受け入れるか受け入れないかはちょっとややこしい話をしていますけれども、
受け入れるか受け入れないかはですね、
それを社会生活で適応するときにどの程度自分が抵抗を感じるかによるなと思うんです。
今日は受けの悪い話を始めちゃったなと思っておりますが、
宗教とかでも同じだと思うんですよ。
宗教を受け入れると、進行するという言い方をするときには、
それを受け入れた場合、社会生活にどれぐらい支障があるだろうということを、
僕らはまあ結構考えると思うんですね。
例えば、肉を食べてはいけませんということを解立が、
かなり厳しい宗教とかもあるわけじゃないですか。
そうすると、友達と肉屋さんに行ったときどうするんだって話あるじゃないですか。
こういうのって宗教では結構僕はですね、
出てくるということをよく身に染みているわけですね。
実家が寺だったから。
例えば、鳥居をくぐっちゃいけないというのがあるんですよ。
めんどくさいですよね、日本に住んでいる限り。
鳥居をくぐらないなどというのはね。
あと、みこしを担いじゃダメなんですよ。
これもめんどくさいですよ、はっきり言って。
みこしを担ぐ機会はほぼほぼないんで、
1回だけ私それに抵触して結構怒られたことがあってですね、
結構やっぱり宗教というのはめんどくさいんですよ。
世の中にはそういう宗教のそういう解立がいけなくて、
もっと自由に生きるべきだって言ってくる人だっているわけですよ。
それはそれでめんどくさいわけですよ。
そう簡単に言うんだけど、そうは簡単にはいかないわけですよね、やっぱりね。
例えばアメリカに行った場合は、
食事の前に十字切ってアーメンですよ。
でもあれもね、私は別にそれやったからって、
親にバレるとかいうことはもうないし、
全然構わなかったんですけれども、
できになるんですよね。
あれやっぱりね、できないですよ。
結構やりにくいと思います、日本人で。
クリスチャンでもないって人には。
私なんかやっぱり、家がそうじゃないですか。
だからもう全然できないんですよね。
そうやってから食事をしようとすると気持ちが悪くなって、
食欲がなくなっていくぐらいはやっぱり来るんですよ、自分に。
だからウッドワイブスを受け入れるということがですね、
どのくらい社会生活に、こういう言い方あれなんですけど、
それでもやっぱり差し障るのかってことなんですね。
例えば、依頼に全力で応えるとか、
あるいは、そうですね、さっき言った疲れないとかもそうなんですけど、
友達がですね、「いやー疲れるよね、会社にいると。」って言った時に、
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いや疲れはイリュージョンだからっていうのもどうかというところあるじゃないですか。
ここでその価値観がどの程度それを強く主張してくるのかっていうのは、
やっぱりそれを受け入れるかどうかに大きな基準になると思うんですね。
でも絶対疲れは受け入れちゃダメだと。
他の人の疲れも全部にイリュージョンって言いなさいと、
そういうような宗教ってありますからね。
結構ありますからね、しかも。
仏教系でもありますから。
それを言われると多分ですね、私だったら受け入れがたいんですよ。
私はやっぱりそういう時に、
なんて言うんですかね、自分の中では結構頑固ですが、
なあなあにしておきたいと思うところも多々あるので、
いちいちいちいち全部にイリュージョンイリュージョン言っていけないんですよね。
グッド悪さ、幸いそれを僕の解釈では、
言わなくていいんで、言わないで済むんで、
だから受け入れられると、こういう流れってあると思うんです。
でもですね、
これは私が家が寺だったことがあってですね、
いつも何かにつけて、世の中の人と一緒にいて、
自分の中ではそうはならないものを、
どの程度表面的に性を合わせておくかというのは結構内面で、
いろんな人が意識していることだと思うんです。
内因的葛藤が起こると思うんですよね、やっぱり。
誰でも経験があると思うことなんですが、
例えば自分が嫌いでもない人のことを悪く言わなきゃならない時とか、
あの上司本当に許せないって言った時に、そうは思ってない時に、
どの程度それに合わせておくかというような問題ってあるじゃないですか。
合わせて悪く言ってしまったら、
これ単にモラルの問題だけでは済まないと思うんですよ。
合わせて悪く言ってしまうとですね、
後でそのことが上司の耳に入った時に、
自分明らかに損をしたなって思うはずなんです、人は。
嫌いだと本当は思ってない場合は。
だからといって、あの上司結構いい人だよっていうのは、
そこそこエネルギーがいると思うんですよ、ケースによってはね。
そういう葛藤と近いものがあって、
疲れのイリュージョン性みたいな話に逆らうのか、
合わせるのかみたいな感じですね。
最近私がその辺整理がつくのがいいんだっていうふうに思ったんです。
依然としてやっぱり関係性によって合わせますよね、当然。
時間はイリュージョンだとかって言わないですよ。
そうすると合わせるんですけど、
心の中では合わせないようにしようという意識を相当強く持つんですよ。
持たないとやっぱり人混みで疲れちゃうんですね。
これが大変面白いんですけれども、
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どんな人でもそうだと思いますね。
どの程度、結局、
受け入れたくないのは、
疲れを受け入れたくないのはみんな一緒だと思うんですよ。
そこであえて人混みは疲れるとか、
そんなことをするのは疲れるとか、
依頼に全力でやってたら疲れるとか、
いうことを強く主張するということは、
そこに少なくとも自分に関して客観的な事実だという、
強い信念のようなものがあると思うんですね。
そこにはメリットがあるはずなんですよ。
このメリットの話をし始めると、
メリットの話をする前に、
それを受け入れると自分もそのメリットを
共有することになるんですよ。
少なくとも相手に合わせていて、
相手の気分を害さないというメリット、これ大きいですよね、それだけでも。
このメリットを受ける代わりに、手に入れる代わりに、
疲れを引き受けることになっちゃうんですよ。
イリュージョンなんですけどね。
人混みに行くたびに疲れなければならなくなりますからね、本当に。
疲れなくて済んでいたのにもかかわらず。
これを僕は今はですね、
極力したくないと。
キレイごとかどうかという話以前、
疲れないほうがいいんですよ、絶対に。
この話、よしよしだけで人は考えてないってことですよね。
メリットをここに必ず盛り込むようになって、
メリットとよしよしは違うと思うんですね。
疲れないということには、
疲れないほうがいいと思うんですね。
メリットがあろうとなかろうと。
人混みに行っていれば決まって疲れるという状態は、
良くはないと思うんですよ。
だけれども、メリットがあるんですよ。
疲れることにしておくというメリットが。
人を助けるということによって疲れないということになるとですね、
人を助けなければならなくなるわけですよ。
疾病利得って言うんですけど、
セルフハンディキャッピングとも言いますね。
ちょっとこの2つは違うんだよな。
スロイトが言った疾病利得と
セルフハンディキャッピングはちょっと違うんですけれども、
でもかなり似た考え方です。
要するに病気になるということはメリットがあるわけです。
例えば今日はどうも緊急事態宣言も出たし、
この微妙なラインですよ。
プラシーボの逆。
プラシーボは砂糖水を注射で打つと病気治っちゃうというやつなんですけど、
その逆です。
緊急事態宣言も出たし、気温の上下も激しいので、
体調が悪くなったので今日は学校休みます。
メリットがあるわけですよ。
18:00
学校を休めるというメリットがね。
ここにこういう話をすると何かを攻撃しているみたいに
聞こえるかもしれないんですけど、
私はそうではないと思ったんですね。
アメリカの話からずいぶん遠くに来ましたが、
そうではないと思ったんです。
これを含めて病気というものなんですよ。
だからここをバッシングするのはダメだと思うんですよね。
バッシングするのがダメだということは、
つまりセルフハンディキャッピングを指摘するというのは
攻撃じゃないと思うんです。
人混みで疲れるという思い込みによって、
本当に疲れてしまうことにより
人混みを避けるようになるというメリットがある。
この人はそれが分かってくれる人だから、
この人と一緒にどこかにデートに行っても
人混みを避けてくれるであろうと
見通しがつくというメリットがある。
だから相手のことに好意を持っているなら
合わせておくことにはメリットがあるんですよ。
でもそういうふうにしていると、
人混みは必ず疲れるものになっていくんですよね、現実に。
そういうトレードオフがあるわけです。
この一連のメリット込みで、
例えば疲れるは病気じゃないですけれども、
セルフハンディキャップではありますよね。
自分にハンディキャップを負わせる。
こういうのはいっぱいあります。
疲れると自分は敏感なので対処できなくなるとか、
心臓がドキドキしちゃうというのも、
私は込み込みのセルフハンディキャップだと思うんですよ。
それが事実かどうかという議論で言えば、
それはきっと事実ですよね。
ただしそれを事実でなくすることも
しようと思えばできるんだけど、しないと。
しないからって責められる話じゃないと思うんです。
でもそれは一種のセルフハンディキャップであって、
おそらく大半の特に心身系の病気みたいなのは、
病気じゃなくてもですね、
セルフハンディキャップな側面があると思うんです。
しかもそれは悪いことだと
見なさないことが大事だと思うんですよ。
これを言うとですね、
多分攻撃されたと思うか、
さもなければ本当に攻撃することになるので、
言い争いになってしまうんですよ。
この甘えているという言葉もですね、
非常に間違った使い方だと
今は思うんですけどね。
でもそういう話ではなくて、
セルフハンディキャップこそ病気だと考えればですね、
いいと思うんですよね。
プラシーボという、つまり疑惑で
病気が治っちゃうという効果がある以上、
思い込みで病気になってしまうという病気は
あって当然だと思うんですね。
これを意識して
グッドワイブスみたいな考えを持ってですね、
21:01
はいすることはできると思うんだけれども、
はいしないこともあり得ると思うんですね。
さっきの
人混み疲れるのも微妙じゃないですか。
人混み全然大丈夫だよってあえて言わない方が、
というかあえては言えない時も
いっぱいあると思うんですね。
それを言ってしまうと多少はやっぱり引き受けることに
僕はなると思うんです。
人混み全然疲れないって明言するのと、
人混みは確かに疲れますよねっていうのは
心の中でどれほどこれはイリュージョンだって頑張っていてもですね、
やっぱり疲労感というものを少し受けることになっちゃうと思うんですよね。
これが僕はつまり病気だと思うんですよ。
だからこれは責められる話じゃないと思いますし、
こう言ったからといって
別にセルフハンデキャップの人を
攻撃する必要はないと思うんですね。
そういうふうに考えることで、
世の中にある多くの病気というものは
多くの病気というものに対して
できるアプローチが出てくるような気がするんです。
治したいと本気で思うかどうかが
結構物を言うということですよね。
思わないのも自由だと思うんですよ。
思わないのが罪悪みたいになるから
病気の上に罰されるみたいな話になってしまって
二重に厳しくなっていって
僕はそれは良いアプローチじゃないと思うんですね。
そうじゃなくて本人が
本当に治したいと思うのを待てばいいと思うんです。
一番理想的にはですね。
どうせ時間がイリュージョンであるなら
余計にですよね。
これを待てないから
そんなのは思い込みのけびょうだから
今すぐ外に行って水を浴びてこいみたいに何かでないわけですよ。
そういうのが嫌だから
ますます守りに入るじゃないですか。
それをしなければですね。
きっとこの面倒くさいとか疲れるとか
MPを消耗するとかそういうやつは
全部なんてことなくなって
いくはずだと思うんですね。
私最初のアメリカの話に戻すと
アメリカに行くと
大抵病気にならなかったんですよ。
これが非常に面白い
現象だなと思ったんです。
最初に僕が気づいたのはそういう時だったんですよね。
多分29とかの時ですね。
20年くらい前になるんですけど
アメリカに行くと風邪をひかない
最初この土地の空気とか
そういうことなのかなと思ったし
それもあったと思うんですけれども
要するにアメリカに行って
病気になると高くつくんですよ。
このことで一番僕が納得のいく
24:00
説明を読んだのは
獲得と喪失という
ちょっと著者忘れたんですけど、分厚い本です。
進化心理学というのを切り開いた
すごい人なんですけどね。
彼が書いてたんですよ。
つまり免疫のレベルのスイッチを入れるということは
病状として人はそれを捉えると。
だけれどもそれをする状況にあるかどうかは
体は検討しているんだっていう考え方なんですね。
要するに
病気になっているというのは
必ずしも病原菌に侵されたり
体調が崩れたから直ちにその症状が出るわけじゃないと
むしろ戦争状態を作り出す
ということなんだって話なんですね。
そういう病原菌をやっつけるとか
根絶やしにするっていう決断を
体が下したときに発熱をしたり
気だるくなったり動けなくなったりするという
症状が起こるので
実はやられているだけのときは病状は目に見えないと。
やられているのに対して戦って
やっつけるということに決めたときに
病状というものがその人にとって自覚される
っていうような話だったんですよ。
あれは大変その通りなんですよ。
アメリカ生活をしていると。
アメリカに行くと保険とかが
複雑な上に日本人の目から見れば
大変悪質なところがあって
とにかく高くつくんですよ。病気になると。
しかも高くつく上にちゃんと治してくれるかどうかも
あの国ではそうなんですけど
地獄の方も金次第で
金がないとですね。というか金をかければきっちり治してくれるんだけど
金を中途半端にかけると中途半端に治して
放り出されるんですよね。そういうところがあるんですよ。
少なくとも日本人にしてみると。
日本みたいに今はオバマケアみたいなのもあるけど
当時はそれすらなかったから
国民介護券みたいなのも皆無ですし
一本押しながらとんでもないことになっちゃうんですね。
病気を治してもらったから100万円みたいなのが
冗談ではなくあり得るという。
今は多分ちょっとマシになってると思うんですけどね。
日本に帰った当時はそのレベルだったんですよ。
板倉を巻いてもらったら2万円みたいな。そういう世界だったんで。
だから何が起こるか。
僕は日本に帰ってくる度に病気になってたんですね。
こういうことが本当に起こるんだなって思いました。
日本に帰ってくると病気になるんですよ。
分かんないですよこれは。
本当のことは分かんないですけども
多分アメリカにいる間はこらえちゃうんですよね。
つまり病気にやられるがままになってる。
だから時間としての、自覚としての病状は
何もない。発熱もしないし
大してどこかが痛くなったりもしない。
だけど日本に帰ってくるともう高熱が出て
27:02
すげーどっかが痛くなって病院通いになるわけです。
日本で治してまたアメリカに行くと
こういう感じになるんですよね。
分かんないんですけどね。
そういうのがいるのかもしれないんですけど
でも日本にしばらくいると僕は病気しなくなりましたから
多分そういうことじゃないんじゃないかな
っていう気がします。
これはよく緊張感とかって言うじゃないですか。
まあそれなんでしょうけどそういうレベルじゃないな
と思うんですよね。別に私アメリカにいたからといって
緊張感が高かったんでしょうけれども
高いなっていう自覚があったわけではないんですよ。
でも病気が出ない。
これは何かというと
今は出さないでおくことがメリットがある
っていう判断なんですよ結局。
日本に行くと今病気につまり免疫を全開にして
休んで病院にも連れてってもらったり
ケアしてもらったり
周りにもそれをすぐ理解できる人間が
周りにいてくれるこの状態で免疫力を発動するのが
基地だって考え方。そういう風に
獲得と喪失では説明されてたんですけど
私はこれが非常にぴったり来るなと
当時は思いました。
結局アメリカに行くと
周りに人がいないわけじゃないですけど
さっき言った通り広いんですよねまずね。
もちろん病院にかかるとコストがあるんだけど
何しろ広い。空気も非常に乾いているし
いろんな意味でですね、あそこで発熱をする
喉が痛くなる、何日も寝込む
大学の授業も大変だし
いろんな意味でメリットがないわけです。
そうするとそういう症状は出ないんですよ。
そういう症状、そういう
戦争状態が体の中で起きないようになっている
ということはやられっぱなしになっている
ということなんですよね。
ひどいことになっているんだ体ということだったんですよ。
こういうことがありますので
あるということは
全部が全部そうだったか分からないですけど
こういうことがあるということは
つまり
セルフハンディキャップというのが大事だということなんですよ。
何がその状態で自分にとって
メリットかは状況次第で実は変わるし
だからいつ病気になりいつ健康でいるかというのも
結構肉体分けによく変動していますから
しかも生身のものですからね。
痛みますよね、当然ね。
いつ痛んだところをどういうふうに対処するかというのは
あるじゃないですか。
全部さっさと治すというのも一つの考え方なんですけど
つまりそれは一つの考え方ですよね。
だから考え方に左右されるわけですね。
30:01
今グッドワイブスをやっていて
掃除で健康になってきたからつくづく思うんですよ。
手放せばいいものは
どんどん手放せばいいと思うんですよね。
けれども手放しきれないラインってありますよね。
結局社会生活を送っている以上
社会のイリュージョンといえども
イリュージョンであることが明らかであろうとも
その人にとっての事実なのかどうかということを含めて
私にとっては人ごみは絶対使えるんだという思い込みに
飲まれておいたほうがある程度いいこと
こういうのって結局今話題になっている
緊急事態宣言もそうだと思うんですよ。
これについての目に見えないこれについての
深刻さについて捉え方は
本当に多分一億通り違うと思いますね。
なんかさもコンセンサスが取れているような顔をしてますけど
そんなはずは絶対ないと思うんです。
現に多くの場合話しにくいなって思いますもんこのテーマ。
意外にもちろん話題になっているところでは
すごい沸騰しているんでしょうけれども
話題にしにくいなって思うことが多いです。
この病気についてどれくらい
人が深刻に思っているかによって
価値観とか行動変容とかって言うけれど
スタイルとか全然違ってきちゃうんですよね。
真逆である可能性もあるじゃないですか。
もう全く気にしないでどんどん行けばいいっていうところから
家から一歩も出るべきでないところまで
結構しかも身近な人の中で
この意見の正反対があると思うんですよ。
まともにぶつければ必ず人間関係こじれますよね。
だから黙っているというのは賢明だと思うんですけれども
に加えて
ここにイリュージョンがないはずないんですよ。
どっちにしても。だってどっちかであったら
どっちかはイリュージョンになるじゃないですか。
中間かもしれないけど中間だということは
両極ともイリュージョンだということになりますよね。
イリュージョンは絶対あるはずなんですが
どれがイリュージョンであるかというのも
その人の立場によって変わりに決まっていますし
人混みがどのくらい疲れるかは
その人がどのくらい人混みに行ってどのくらい嫌な目にあったかによって
変わりますからね。
イリュージョンというものにどの程度自分を合わせて
そのイリュージョンからくるメリットとデメリットを
どういうふうに受け入れるかというのは
どうしても社会生活を進める上では
営む上では
欠かすことのできない
視点かなというように
思うようになりました。
今まではこれを葛藤して頑張って整理しようという
感じだったんだけど
今は整理はつくようになったので
グッドバイオスのおかげで整理はつくようになったので
これを都度都度微調整して判断していくということになるんだろうな
というように思います。
33:06

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