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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日ですか、一昨日かな?
Hello, I'm Jap!というですね、書き上げ塾の塾生の佐月さんが書かれた本なんですけど、
小説が発売されまして、なぜか、英米文学というカテゴリーで1位になっているんですよ。
それは余談なんですが、これを書けるなら6ヶ月集中するのは悪くないと僕は思うんですよね。
あれ、僕に書けるかというと、多分僕は半年集中したくらいじゃ書けないですし、
もしかすると6年集中しても書けないような気がするんですけれども、
でもですね、かなり倉園さんが方向性を次々に出されてたというのはあるんで、
もしかすると小説というものを書いてみたいという人が書き上げ塾にいらっしゃるのはすごくいいことなんじゃないかと、
これはちょっと新しい発見でした。
今まではどっちかというと、やっぱり私が書くようなジャンルとしては、
実用書系、ビジネス書系の方が、倉園家藤さんのもともとの職種からしても多分そういう方が向いているだろうと思ってたんですけど、
あんま関係ないなというふうに最近思い始めました。
売れる売れないというのはあるんですけど、でも全く売れてなければですね、
英米文学というカテゴリーでも1位とかにはならないし、ある程度は読まれるようになると思うんですよね。
やっぱりちゃんと書かれていれば。
これは本当にCMなんですけれどもね、
でも私、小説を書けるようになる方法とかって存在しないと思ってたんですよ。
今回のを見て、私に書けるかというとそれはまた別としても、
ありえなくはないんだなというのを実感したので、
そっちの方面の方が、もし興味あったらチェックしてみてください。
ということでですね、小説家になりたいとかってあるじゃないですか。
世の中には。私もそういう時代がありましたけれどもね。
この小説家とかっていうやつを人はアイデンティティと呼ぶんだろうなと思うんですよ。
で、小乃木啓後先生の話を久しぶりに出すんですけど、
ジゾイド人間でこの番組では散々紹介してますが、
自己愛人間という本も書かれていてですね、
トータル網羅的に言うとこっちの方が多分、
いろんなことがわかりやすい。
ただ、自己愛という言葉って、もはや崩壊耳だなと思うんですね。
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フロイトがもちろん発明した言葉じゃないですけど、
ナルシズムなどというのはですね、わけわかんない言葉じゃないですか。
で、どういう言葉がいいのかと思った時にですね、
健全なうぬぼれっていう表現を、これも精神科医とかカウンセリングの人が時々使うんですけど、
この言葉の方がまだいいかなと思います。
小乃木先生が自己愛人間って書いてる時には、
すでに複数の意味があるんだけど、まずベースにあるのはこれなんですよね。
健全なうぬぼれという。健全なうぬぼれというのがなかったら、
小説家なんか目指さないじゃないですか、ある意味。
これ健全なうぬぼれが傷ついたから小説家目指すっていうケースも多々あるんですけど、
いずれにしてもそういうことと関係があると思うんですよね、深く。
この健全なうぬぼれというのは、
要するにこの番組で言うところの甘えがあるということでして、
これがないとですね、うつ病を発症しやすいみたいなデータもあるんですよ。
どういう話かというと、うつの人に自己評価させると、
自己評価の正確さというのはですね、
一般の人よりも正確なんですっていうデータですね。
これ誰の実験だったかちょっと忘れたんですけれども、
すごい大事な点だなと思っております。
つまり自己評価が正確であると、正確すぎるというのはですね、
非常によろしくないという心理実験の結果なんです。
自分のことを正確に判断できていると。
例えば非常にわかりやすいところで鏡を見てですね、
自分の様子というものの評価が他の人が見ているのとほぼ同じになっている人は、
普通の人よりもよくうつ気味だという話なんですよ。
私はこれはすごくね、あると思うんですよね。
この滑稽さを気にしすぎちゃまずいと思うんですよ。
テストの点とか大体そうじゃないですか。
私の経験では中間期末とか決まってですね、
自分の予想よりも実際の点数が高かったことはないです。
8割はいっただろうという時は大体72点とかそういう感じなんですよね。
これが健全なうぬぼれというものなんですよ。
この時に71点ぐらいだろうと思うとうつっぽくなっていくという話なんですね。
その実験そのものも大変興味深いんですけれども、
お好みさんの自己愛人間ではまずこういう話がベースにありまして、
結局それは母親だということになっているんですね。
ここで精神分析とフェミニズムがぶつかる最初のポイントがあると思うんですが、
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お母さんが自分の子供を無条件で価値があると、
価値MAXだと、この辺グッドバイブ素敵ですが、
見成してあげるというのが繰り返しインストールされるうちに、
子供はですね、何があろうと自分は価値MAXだと感じるようになると。
これが健全なうぬぼれの基礎になるわけです。
だから、それをやるのは母親じゃなきゃダメなの?という議論が発生するんですよ。
別に母親じゃなくてもいいと思うんですけれども、
私はですね、最近盛んに精神分析とかカウンセリングで言われるようになった、
母体の中にいたときにこの感覚が備わっていくっていうのが結構あるんではないかと思うんですね。
ここばっかりはどれほど男女が平等になっても、
しわらく少なくとも今後100年は変化がないと思うんですよ。
母体じゃないところでは育たないんじゃないかと。
これも手塚治虫さんの漫画とかを読んでると、
母体じゃないところでも育て得るのかもしれないんですけれども、
やっぱり母体じゃないかなと思うんですね。
そうすると母親ばかりが苦労するのって話もあると思うんですけど、
こればっかりはしょうがないよねっていうのもあると思います。
結局母体の中にいるということは絶対確実じゃないですか。
絶対安全というのかな。
そんなはずないだろうっていう話はあるかもしれませんが、
赤ちゃんの主観でとは考えてほしいんですよ。絶対安全ですよね。
そして自分は価値マックスですよね。
何にもしなくったっていいわけですよ。
生存は保証されている。食料も供給される。
もともと自分は母親だったんですからね。
そういうところが重要だという話ですね。
一番私たちが健全なうぬぼれを持っているのは、
そういう中間のテストとか用紙とかじゃなくてですね、
自分は永遠に生きているつもりでいるってやつなんですよ。
これ結構お年寄りの人でも全然失わない人の方が多いですよね。
私は少なくとも明日は生きるつもりでいるじゃないですか。
これ全然私はそんなことを信じていませんという人は
ライフワーク系にはほぼいないと僕は思っているんですよ。
だって本当にそういうことについて客観的に評価していたら
タスク修復とか絶対やってられないですよね。
夜寝る時間とか夜寝るまで生きているという保障が
絶対的にはないわけじゃないですか。
生きていると思っている段階ですでに健全にうぬぼれているわけですよ。
これはひどい災害とかに今すぐは会わないとかね、
自動車にも轢かれないとか、
それは100%確実なことではないんですけども、
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そのことでですね、くよくよ思い悩んだりするというのは
やっぱりうつに近い心理状態なんですよ。
100%ではない、99%そうかもしれないけど
0.01%で今すぐ死ぬかもしれないとか
ずっと思っていると脅迫症っぽくなるし、
何らかの形で神経症がひどくなっていく傾向が出ますよね。
だからこの健全なうぬぼれというのはあるわけです。
それはどこで育つかというと母体の中だという説が今結構あるわけです。
その母体の中に戻る、
世の中すっかり大変で辛くなったので母体の中に戻りたいというのが
専門用語では子宮回帰願望と言ってみたり、
もうちょっと単純に幼児退校と言ってみたりするわけですね。
もちろん無理ですよね、子宮に戻るわけにはいかないので
どこに戻るかというと自分の部屋に引きこもるわけですよ。
あれを子宮と見立てるというものの見方を
精神分析の方では時々見かけたりしますよね。
そこでエネルギーを補充してまた世の中に出ていくと。
だけどいつまでたっても補充が終わらないまま
長い年月が経ってしまうというケースもあるわけじゃないですか、今時は。
そこで自己愛人間みたいな概念が出てくるわけですね。
昔は自己愛というのはこのベースとしては価値マックスなんですよ。
なぜなら私の息子だからとか、なぜならうちの子だからとか
そういうことだったわけですけども
あいにく、運悪くそういう気持ちを
幼児のうちに育み損ねたというケースがまず一つ考えられますね。
これはもうどの時代でもあり得ると思うんですね。
もう一つは私のという
私のというなんて言うんですかね。
私のというお互いにうのぼれてるってことなんですけどね、これはね。
母親なりお父さんなり
あるいはその人に携わった人の自己愛が不十分な場合
私の息子だから特別だなってことはありえないっていう発想になってしまう。
この私のがついたからといって
つまり私のがついたものを愛せるっていうのは完全に自己愛じゃないですか。
これがですね、まず否定されたというところから
お好みさんの本の話は始まるんです。
自己愛人間にしても
あの方がおっしゃってるベースは基本は僕は同じだと思うんですね。
ジゾイド人間にしてもボラトリアム人間にしても
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それぞれ文脈が違って
差し示している現象はいろいろあるんだけれども
ベースのねっこにゃんが同じでやっぱり性は一桁なんで
結局戦争に負けたってことなんですよ。
プラス酷い目にあったということなんですね。
だからその多分当時みんなのコンセンサスにかなり幅広かったんだと思います。
私のものだから、私の国だからとかね
私の組織だからとか、私の天皇陛下だからとか
そういう理由で自己愛をのさわらせるのはダメだと
悲惨なことになるから
書いてありましたね、本の中に。
私もうっかり見落としてたんですけど
なんで私たちの時代にこう作集作集
依然としてこう一生懸命私たちが言ってんのかと
専業主婦ばっかりやってると夫に搾取されるとか
会社で一生懸命やってると会社に搾取されるとか
これはどうしてこの言葉がすごくこうある意味
共産主義っぽいですよね、この言葉。
あったんですね。
自己愛人間の中に自己愛を搾取されるという表現が出てきます。
こういう観念が昭和一桁の人たちに猛烈にあって
これを僕らはやっぱり多分伝承してるんですよね。
お話の伝承みたいに受け継いでるんだと思うんです。
とにかく酷かったと。
自己愛全部を捧げたのに裏切りやがったということが
やっぱり問題になった、問題というか問題意識として
強く残ったんだと思うんです。
だからこう自分のなんとかだからそこには価値がある
という考えはナンセンスで合理的でなくて
科学的でもないから一切やめにして
偏差値とかを徹底的に導入するという考え方が
戦後多分間もなく一気に走った感じが
本読んでるとなんとなくやっぱり通説に
通説なものが感じられます。
多分そうだったんだと思うんですよ。
これはその平野さんのグッドバイブスのブログにも出てきます。
いや、うちの子は眺めていても
とてもいい子で優秀だと思ってたんだけど
いや、そりゃ親バカというものだということで
クラスの中でのテストの点とか
客観的評価ってやつですよね。
によって測ってみると中の下だったと。
これではいけないと。この流れなんですよね結局。
この流れはマイルドですけれども
大元には私の国だから素晴らしいとか
そういうイリュージョン、これを全部イリュージョンと見なし
全部ことごとく捨て去ると。
そんなの当然じゃないかと今の人は
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思う人もいっぱいいると思うんですけど
当時の切実さは強烈だったと思うんですよ。
やっぱり本当に悲惨なことが起こったし
国中でそのコンセンサスを得ようとしたから
客観的評価のないものは
全部ダメみたいになった時代があったと思うんです。
代わりに、とはいっても
私たちの時代とはまた違いますから
代わりにアイデンティティというものに
これが非常に面白い流れだなと思ったんです。
僕の目から見るとアイデンティティであろうと
愛国であろうとそんな違わないんじゃないかと思ったんですけど
アイデンティティというものに切り替わっていったという流れが
いろんな本で、そのお好み先生の書いたいろんな本で書いてあるわけですね。
彼の場合はお好み先生自身のケースがあって
すごくエリートなんだと思います。当時から。
慶応幼稚舎に行って、お父さんはお医者さんだったから
医者になると。これが愛国とかにとって変わるアイデンティティなわけですね。
自我理想だ、自我理想という表現をとってました。
今の私たちにはこれがないんですよ。
彼の時代にはこれがあったというわけですよね。
俗しているところ、結局同じような話になっていく気がするんですけれども
俗している職業とか、多くは職業でしょうね。
職業が現実に役に立つということを確実に意識した上で
そういう人間になるということなんですね。
日本人だから価値がある、ではなくて
日本人は最初から日本人じゃないですか。
日本人になるわけじゃないですよね。日本人であるですよね。
ここに価値を置かず、何々になるなんですよね。
分かりやすいんですよ。医者になるわ、このケースでは。
絶対役に立ちそうだし、およそお金に困りそうもないですから。
だから自我理想というものにアイデンティティとして何々になるというのを
選ぶように昭和一桁の人たちがなっていくと。
そこがまた愛国の代わりに出てきたものですから猛烈なんですよね。
こうして自己愛が保たれるわけですよ。医者になれれば。
要するに鏡で見た自分に若干うごれているようにですね。
医者になった自分というのを素晴らしい。
これは裏返しがあるんですよ。
日本人であるのに比べると危険があって
もし医者になれないと大変なことになりますね。
一方違うと、少なくとも引きこもりぐらいは十分考えられますよね。
だから日本人であるの、これはいいところは
自分の息子だからと全く同じであって
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失われることは絶対ないわけですよね。
自分の息子であることはどうやったって自分の息子ですよね。
日本人であることも日本で生まれれば基本的には日本人ですよね。
ああいう努力をするとか慶応用事者出るとか
そういうのは関係なく日本人じゃないですか。
だからこれは非常に安全な面があるわけですよ。
裏側に大きな悲惨な話があったかもしれないんですけれども
この自己愛の保ち方は非常にベースとして安心感があるわけです。
だけれども医者になるみたいな
自分が理想で行く、アイデンティティを取りに行くという考え方になってくると
これは国に裏切られたせいなんですが
私のだからではなくなるわけですよね。
私の職業が医者だから医者は立派だじゃないですよね。
医者が立派だから私は医者になるようになったわけですね。
しかし切り替えによってみんな猛烈に頑張ったわけですよ。
多分失敗してこもっちゃった人もいたと思いますね。
そういう意味で自己愛の満たし方がですね
一段変わったとスイッチしたという話がまずあるわけです。
自己愛、自己愛、なぜ自己愛が大事なのかというと
小本儀さんが本に書いているうちに
自分はどんどん元気を失っていったという話
それが僕は一番興味深いと思ったんですけど
冒頭申し上げた通りです。
つまり自己愛がないと鬱になっちゃうんですよ、人は。
つまり健全なうどぼれというのは
多分必須のものなんだと思います。
カルシウムみたいなもんですよね。
完全にかけるということは病気になってしまう。
この点でですね
グッドバイブスはもっとわりとあっさりしている面もあるんだけど
言っていることは同じだと思うんですよね。
自己の価値はMAXで失われることはないと。
医者はこの点が厳しいんですよ。
失われることありますからね。
医者じゃなくなる可能性もあるじゃないですか、医者だって。
お医者さん続けられなくなるということもありますからね。
だから日本人であるとか
うちの息子であるとかは結構大事なんですよ。
これが多分、お好み先生もこれをベースにした上で
アイデンティティというのをその上に乗っけた、乗っけるというのが
多分昭和一桁的な世界だったんだと思うんですね。
ところがこれもダメだという話になっていくわけです。
裏切られますからね、やっぱり一つ。
あとこれって凄く職業とか能力を選ぶじゃないですか。
結局それは有能な人はアイデンティティを選択できるけど
そうでもないと、かなり苦労した挙句
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アイデンティティを取るのが容易なことじゃなくなると。
それでも多分多くの人が現実にはこれで頑張ったと思うんですよ。
大会社の課長になったとか公務員だからとか
そういうことで自己愛を満たして
うつっぽくならずにモチベーション切らさず
生きていくの大変ですからね。
私が子供の頃そうだったんですけど
高度経済成長ということがありましたが
帰ってくるの夜の2時とか割とザラだったんで
あそこまで頑張るためにやっぱり
そういう自己愛はかなり必要だったと思うんですね。
会社はそういうのを供給している装置だったわけでもあるわけですよ。
もちろんそれだけはテタフじゃないんでしょうけど
会社は多分間違いなく
自己愛供給装置として働いていたと思うんです。
ホンダ技研の社員だからとか
そういうものを供給してくれるわけですよ。
いろいろその会社なりの特権みたいなものもついてくると
そういうことをすることによって
自分は価値ある人間だと信じられるという
一つ目のベースは
母に愛されたからとか
母体の中にいたから自分には価値があるって思うんですけども
この話今の時代でも続けてるじゃないですか、頑張って
いるだけで価値があるとかいろんな言い方をしますが
やっぱり世の中の価値観というのは評価を常に伴っているので
グッドバイブスで倉園さんが言う相対評価を常に突きつけてくるので
これがどうしても空ずらしく響くケースが多いと思うんですよね。
いるだけで価値があるんだって思おうとしても
いるだけじゃ価値がないんじゃないかというのが反対側から出てくるし
いるだけでは食っていけなくなるっていう
現実的な問題も出てくるので結局
いるだけで価値があるのかもしれないけれども
プラスアルファを評価される、ちゃんと社会に評価される価値が欲しい
っていう話になると思うんですね。
それがアイデンティティなわけなんですよ。
どっかの社員だからとか医者だからとか大学の先生だからとか
今もこれで頑張っている人はかなりいらっしゃると思います。
これがお好みさんの生き方だったから
この次に現れる自己愛人間というものに対して
やっぱり彼はですね、多分普通の人はあんなもんじゃないと思うんですけど
否定的なニュアンスが出ます。否定的なニュアンスというのが
この次に登場する自己愛人間なんですね。
地沿いの人間もそうです。
つまりアイデンティティを選べなかったけれども
自己愛は保ったという。
ここにですね、若干どうしてもやっぱりこう
軽蔑的なというところまで言うと行き過ぎかもしれませんが
軽薄だという感情は伴っています。
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私はそれはすごく正直なんだろうなというふうに思いますし
すごくでもセーブしています。
なぜならばこれは分析的な流れとして当然の流れなので
生まれた時代が変わればみんなそうなっているだろうということを
彼は大変意識しているからですね。
でも同時にだからこそなんですが
小野木さんはやっぱり本を書いているうちに
どんどん元気を失っていったんだそうです。
やつれていったと。
この事実はすごい大事だと思うんですよね。
自己愛というものに対して結局のところ疑いが
発生するわけじゃないですか。
時代が違っていれば自分もアイデンティティというものを
信じられなかっただろうと思いながら書いていくわけですよね、
その話を。
そうすると自分が信じているアイデンティティの価値というのも
実に相対的なものだということになっていくわけです。
そうすると書いているうちに
だんだん自分を愛せなくなっていくわけですよね。
という現象が実際に起こったと。
体重も減っていったと。
そういうことが書いてあって
そういうもんなんだろうと思いますね。
だから医者である自分、精神分析家ですけれどもね。
精神分析をしてすごく頑張っている自分というものの価値も
相対的であるということを
書いているうちに自分に突きつけていくから
だんだん元気がなくなっていくわけですね。
それぐらい自己愛というものを失うと
抑鬱っぽく影響が出るんだと。
そういうことなんだと思いますね。
僕なんかも完全にそうですが、
性は二桁だし、しかも後ろの方なんで
自己愛人間と本で名付けられているところの自己愛人。
つまりアイデンティティがないやつですね。
ないですね、確かに。
私は何々になるぞって思ってそれになって
だから自分が愛せるなどと感じることはなかった。
例えば作家になるぞと思ったわけじゃないし
なったからといってそれが立派だから
自分を愛せるということにはなってない。
そうするとでも私は鬱にはならずに住んでいるから
どっか健全なうのぼれは保持しているわけですよ。
どうやってるんだろうっていう話なんですね。
この言葉は使わなかったんですけど
みんなオタクになったんだってことですね。
あの本の結論。
自己愛人間というのはオタクなんだということです。
すごく幅広いですよ。
例えば私で言えばライフハックオタクですよ。
自分をライフハックオタクだと考えることによって
それにすっかり没頭することで
生きているということは
生きているってことを最終的には肯定できればいいので
生きていて人生を楽しめるということは
それができるということなど
それがあればいいんですよ。
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それがあれば本当にいいのかっていうのを
お好みさんは本の中で言ってるんですけど
実感としてはそれがあればいいんですよ。
例えば私で言えばですね
タスクシュートをきっちりやって
エヴァノートの整理がきっちりできる自分が好きなんですよ。
そういうことをやるには死ぬわけにいかないじゃないですか。
だから生きていけると。
ただそれって軽薄じゃないかっていうのと
それっていかにもイリュージョンじゃないかっていうのが
あの本の中では確かに述べられています。
すっごく抑制してますし
そうするしかないんだっていうニュアンスが
随所にあるけれども
それでもですね
医者になるために1日10時間ずつ毎日勉強して
KOで頑張るというのに比べて
それって人間としてどうなのっていうニュアンスはあります。
昭和一桁生まれの人ですからね。
アイデンティティというものがあった時代と
アイデンティティというものがない時代の大きな違いが
彼は完全にはっきり書いてるんですけど
要するにアイデンティティマイナス理想
イコール自己愛人間
つまり私たち
そういう生き方をするところの
世の中では
唯一絶対に大事にしなければいけないとされているものがあって
それはお互いの自己愛だっていう表現なんですよ。
お互いの自己愛を大事にするということはどういうことかというと
人の自己愛を傷つけてはいけないというのが
この社会では一番ほぼ唯一大事にされるルールなんだと
これまでと違うっていう話をしてるわけですね。
そうすると私たちはですね、傷つきやすくなるはずなんですよ。
お互いの自己愛を傷つけないということが
最大のルールになっているところで
でも競争はするわ、会社に勤めるわ、仕事をするんですよ。
そうするとですね、会社などというのはある意味
自己愛傷つけ合戦みたいになっていく。
だってお互いの自己愛はみんな違うわけですよね。
お互いの自己愛が違うというのは
つまりお互いの価値観が全部違うということです。
片目には他人の価値観はくだらなく見えますよ。
特にそれがアイデンティティに届かないもの。
例えば私で言えば
エヴァノートの整理が人生で一番大事なことです。
ある人から見ればどう考えてもくだらなく見えますよ。
隣のお姉さんは
ルイ・ビトンのバッグを持つのが
人生で一番大事なことというわけですよ。
お互いがお互いの自己愛を傷つけないように気を使い合う。
それもいいですよねって言って
内心はずっともそうは思っていない。
お互いにこれをやるわけですね。
お互いに仲良くなれるポイントはほぼない。
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一緒に飲みに行きましょうかという話には決してならない。
でもそこは会社なんで
一緒に仕事はしてるんで
必ず強調して動かなければ
うまくいかないケースもあるでしょうし
強調しているつもりでも
うまくいかないケースはありますよね。
型やバッグをすごい大事にしている。
型や整理をすごい大事にしている。
それは仕事の態度にも出ますよね、多少は。
そうするとお互いがやっていることがどこか気に入らないんですよ。
なんかやってしまう。
しっぽを踏んでしまう。
そうすると傷つくということになるわけです。
こういうふうに私たちの世の中は
とても傷つきやすい社会になっているんだよね
っていう話を自己愛人間でしているわけです。
これがある程度どう起こすと何が起こるかというと
引きこもるんですよ。
さっきのアイデンティティーが得られなかったのとまた違う理由で
自分が自分の人生で一番好きだと思っていることに
のめり込めるところに引きこもるわけです。
つまりオタクなわけですよ。
私で言えば会社に行って
エルメスのバッグの自慢話を聞かされるのは
はなはなくだらないから
ずっとエヴァノートの整理をして生きていこうと。
かたや会社でエヴァノートの話なんか聞くのは
どう考えてもうんざりだから
自分はブランドものだけを抱えて
一生生きていきたいという風になるじゃないですか。
そんなにおかしなことではないというか
すごいおかしなことにも聞こえるんだけれども
そういう風になると
そういう流れが作り上げられていくというのは
自然の成り行きだよねという話をしているわけです。
間違いなく自然の成り行きだと思うんですよ。
この話の中で
それで不都合が生じなければいいんですけれども
不都合が生じるわけですよね。
第一にそれらのものを買うにはお金がかかる。
結局お金を稼ぐために
外に出ていかなきゃならないんですけど
自己愛なので
基本的にお金を稼ぎに
本当は別に行きたいわけじゃないわけですよ。
お金というのは
お金自体が好きというお金オタクみたいであれば
多分まだだいぶいいんですけど
だからこういうところにも
たとえ自己愛人間同士であっても
社会に適応しやすいしにくいはあると思うんです。
私も時々思うんですよ。
たまたまこれがライフハックだったのは
ラッキーだったとしか言いようがない。
なぜならライフハックは
さも仕事の役に立つみたいな話に
持っていくことができるんで
本当は違うんですよ。
本当は多分これは
仕事の役に立とうが立つ前が好きなんですよ。
33:02
ところが仕事の役に立つことに
持っていってしまえばですね
それが一つの仕事になるじゃないですか。
そういうことなんですよね。
この場合どうしてもこれでは仕事にならないものが
好きになっちゃったというケースは
生まれ得ると思うんです。
そこをどうやって
救い上げていくかっていうことが
救い上げていくかっていう課題が発生して
だからYouTubeとかブログとか
いう話になったんだと思うんですよ。
あれだったらテーマをそれにしてしまえば
もしブログでブログそれ自体が
仕事になるのであれば
今で言えばYouTubeそれ自体が仕事になるのであれば
実に難しいところもありますが
好きな内容は何でもいいことになるじゃないですか。
これが多分
自己愛と言われている話と
お好みさんが自己愛といった話と
自己表現とかアウトプットと言われているものが
合流するところなんだろうなというふうに思います。
しかもこもったまま発信できますから
傷つかずに済みますよね。
お互いの自己愛を傷つけ合わないという
このルールはですね
傷つけないホーンで気を使うんですよむしろ。
傷つけまいとしてもですね
興味ないことばれますからね。
相手の興味にいささかの興味を持っていないな
こいつってのはばれるんで
それだけでも傷つくじゃないですか。
このような部分が実に面倒くさいということになったので
できれば家の中から
自分の好きなものについて
情報を発信して
それによって広告収入を得るみたいな流れというのは
すごくですね
何て言うんですかね
これほど都合のいい流れはないと
やっぱりだから世の中ってのはよくある意味
カスタマイズされていくんだなというふうに
自己愛人間を呼んでいて
つくづく思いました。
思えば遠くまで来たってやつですよね。
傷は一桁ですからね。
そこから数えれば
もうほんと
90、100年以上経ってるわけですよ。
そういうところで
彼が
世間の命と言うんでしょうかね
言うのはやっぱり
まず
アイデンティティというのが
絶対に得られるところで
頑張るという話
つまり日本人だから
日本を愛せるから
そのために頑張るという
命も懸けられるというところから
それでひどい目に遭ったから
今度は社会に絶対役に立つみたいな
アイデンティティというものに
何々であるから
価値があるんじゃなくて
何々になったから価値があるに切り替えると
でもそうすると
選択肢が非常に狭くなってしまうし
結局それはそれで裏切り
売るので
だってリストラとかしますからね会社だって
36:00
そこから
何になってもいいんだ
何かになるなんですけど
何かであるはもう
タブーになったんでね
何々になるなんですけれども
自分でいつでも選べるものに
変わったってことですよね
オタクってのはそういうことですよね
切手の収集家になるぞみたいなのでもいいし
何々のどこどこのファンで
僕といえば千葉ロッテのファンになるぞでも
いいし何でもいいんですよ
何でもいいから軽薄に見えるんですよ
頑張らなくて済むっていうところに
持っていったので
頑張らなくて済むんですよ
そして何でも良くなったわけです
鬼滅の刃にすごく詳しいでもいいし
とにかく好きなものにのめり込めさえすればいいと
この問題のさらに先にですね
そういうそれがないんです
っていうケースも
発生したんですけど
これはもう自己愛人間にもほぼ
出てこないような話です
多分先の先に行っちゃってるわけですね
小野木先生亡くなってますからね
生きていらっしゃったとしても
そこまでは書かなかったかな
っていう感じもします
生きていらっしゃったとしても
もう100くらいっていう感じになるわけですからね
最終的には
まず2つありますよね
のめり込むのはいいんだけど
それで食えるのか問題と
だからYouTubeなんですけれどもね
あともう1つはのめり込めるものがそもそもないんだよ
という問題
ここでウッドファイブスが
依頼というのかな
誘いを断らないという話になって
で
実は一周話が戻ってくるんですよ
2つあるんですけどね
価値マックスの自分であると
価値を疑わない
なぜなら私の息子であるから
になるじゃなくなってるんですよ
ウッドファイブスでも
私は私である段階で
既に価値マックスだというところから
スタートする
ここにあまり死の後の理屈を
加えないということですね
お母さんの子だから
お母さんからなくてもよくて
日本人だからとかは全然なくてもよくて
とにかく価値マックスであると
ここからスタートする
そのために
人の依頼を断らない
みたいな話になっていくんですね
これですね
ところが非常に面白いことに
だからこれやっぱり戻っていくと
宗教的になっていくんですよね
この先生が
昔これを我々は
縁と呼んだんだって書いてたんですよ
非常に同じような話になったな
と思ったのはそれなんです
例えば
日本を愛するというのもそうですが
日本に私は生まれたから
日本を愛しますと
今ではそれはかなり
怪しげだと思われるんですけれども
縁だからという説明が
昔あったって話があるんですよ
日本に生まれたのは縁だから
ってわけですよ
この人と結婚したのは縁だから
だからこの人は素晴らしいんだと
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誰か
どなたかな
フェミニストの方が書いていらっしゃったと思うんですよね
女性は
私が好きなあなたが好きでは
いけないと
でもまさにこの話に戻ってきてるんですよ
私が好きなあなたが好きなんですよ
縁だから
縁だからっていうのはそういう説明になっていくと思うんですよね
私のところに生まれてきた
あなたが好きっていうことじゃないですか
引用ですけども
つまり自分の息子だから
自分がこの子を愛せる
ってのはまさにそういう話になっていくんで
たまたま私は
ここに生まれたからここが好き
縁だからってやつなんですよね
でもこれがないと
結局のところ
現世肯定なんて無理なので
現世否定になっちゃうわけですよね
自分がたまたまそこに
生まれたところは嫌いでしたとか
自分がたまたまそこに生まれた
お家は嫌いですということになると
人生一気に難しくなるじゃないですか
だから元に戻ったというか
ここのベースは外せないってことだと思うんです
でもう一つが
その依頼ですよね
この依頼というのも
つまり仕事が
ありとあらゆる職種が選べる
ユーチューバーになればですね
片付け師であってもいいし
料理家であってもいいし
料理研究家でもいいし
ライフハッカーでも
知的生産の人でも
なんでもいいわけですよ
そうすると
逆に選べないですよね
つまりそれのどれが一番自分が好きかなんて
最初分かるわけがないじゃないですか
百色鉛筆を見せられて
一番好きな色一本だけ選びなさい
って言われるのと同じで
無理なんですよね
だから結局
誘いというか依頼というか
これも縁なんですけども
ある考えようによっては
それに一旦
全集中してみろみたいな
になるわけですよ
多分これは
結局は
アイデンティティを選ぶって話に
私は似てくると
思いはするんですよね
全然違うようなんですけれども
でもお好みさんは
なぜ医者かなぜ慶応用治者か
お父さんが医者だったからなんですよ
これは何にも選んでないわけじゃないですか
結局
縁なんですよ完全に
それで慶応で
慶応で医者なのはずるいとか
っていう話になるかもしれませんが
でもお好みさんは医者になりたくなかったんですよ
だから精神分析家になった
精神分析家っていうのは
精神医者精神科医者
ないんじゃないんでね
つまりそれは
医者になりたくはなかったっていうのは
お父さんの言う通りにしたくなかった
そういうことなんだと思うんですけれども
そういう風に書いてありましたけれども
そういう話にもなるわけですよね
つまり結局
これ一周回ってきている部分が
大きいなと
一周回ってきている部分がグッドバイオスの全てでは
ないんですけれども
一周回ってきている部分も確かに
あるんだなという気はします
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私たち
今でもアイデンティティってのはありますよ
でもやっぱり
さっき申した通り
がっちり確実に言えるアイデンティティ
みたいな話になってくると
業界トップの人たちか
医者かぐらいになっちゃうんですよね
確実に役に立つことが目に見えて
食いっ端振れることも
決してなくて
そして
アイデンティティだと
明らかに言えるなどという職業が
ありとあらゆる職業に
それが言えるってわけにはいかない
何々になるですからね結局
なるということは
なれないことの反対なので
ある程度なれないから価値があるわけですし
やっぱりその場合なれない人は
発生してしまうので
強化なんですけれども
だからこれよりは
いろんな意味で今は
縁というものに
向かったほうが
上手く行くのではないかという
話なんだと思います
その時に
自己愛の
を踏まない
みたいなことに
過剰に
なんていうんですか
気を使わなくて済むようになるのではないか
なぜならそれには価値がないから
この態度っていうのは
ある意味ものすごく押し付けがましいところがありますよね
何も押し付けないという
押し付け合わないというルールでありながら
偉くこの態度には
どこか押し付けがましいところがあるわけですよ
結局それは
あなた方のそれに価値はないって
公言しているようなものなので
で、この路線を押していくとですね
たぶん、かなりうまく生きにくくなるんだと思うんです
だからできれば引きこもっていたいんだけど
外に出て傷つかなければならないという
嫌な二択が残っちゃうというところなんだと思うんですよね