1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV396】怒りより先にイリュ..
2021-06-11 36:46

【GMV396】怒りより先にイリュージョンを手放す

怒り自体は消しにくい
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
いよいよ、いよいよじゃないけどね、別に明日ですね。
グッドバイブス勉強会、ノープランがテーマ。
今日はノープランっぽい話をしようとずっと思ってたんですが、
全然違うことをその前に喋っておこうと思っていたら、
いろいろ湧いてきてですね、
たぶん起きた時間が遅かったからなんですが、
たぶん起きた時間が遅かったから、そんなことはないんだけど、
でも起きた時間が遅いとやることがギュッと詰まっちゃうわけですよね。
後ろのお尻の時間決まっちゃってるから、
娘を送るだけならない時間が動かないので、
まあ動かなくはないんですよね。
遅れて行かせればいいんですよ、娘も眠い日はですね。
でもまあ今日はいつも通りにしちゃったので、ギュッと詰まったわけです。
そうするとですね、まだ僕は脳内に雑電が湧きがちなんで、
それでいろいろと連想しちゃったんですが、
今日はたぶんこの連想の話をしたいかなと思ってます。
というわけで、明日のノープランのお話と関係ないようである話なんですが、
最近ずっと強調し忘れてたことがあって、
怒りという問題についてですね、
私たちはついつい怒りを消そうと思っちゃうんですよ。
腹を立っている時に気分が良くなかったり、
倉園圭三さんのウッドバイオスを聞いていたりすると、
怒りを何とかしようと、怒りを手放そうとしちゃうんですけど、
怒りは感情なんで、浄土との科学者だったら言いそうですけど、
それは残念ながら随意には操れないんですよね。
皆さんもご存知の通りで感情って随意ではないですよね。
随意だったら多分苦しむ人って激減するんですよ。
随意じゃないもの、つまり随意筋って言うけど、
自分の自由にはならないもの、心臓が動きますみたいな、
随意だったら困るじゃないですか。困ったりすると困るんで、
随意じゃないものは肉体であれ意識であれいっぱいあるんですが、
随意なものに手をつけるべきなわけですね。
グッドワイブスっていう随意なものっていうのはイリュージョンなんですよ。
イリュージョンは出し入れができる。
つまりイリュージョンをなくしてしまえば、
例えば腹が立ったときですね、それに関連するイリュージョン、
多くの場合人の顔だと僕は思うんですけどね、
そいつを消してしまえば怒りは自然と消えていくというのがグッドワイブスで、
03:07
私はこれはまったくその通りだと思うんですね。
これとまったく同じことを言ってるのがいくつかあるんですよ。
仏教もそうなんですよ。
どこが随意かっていうのを私たちがこうも見失いやすいのですね。
まずこれが一つになっちゃってるところだと思うんですね。
例えば怒ってるときっていうのは、
怒ってる人の相手のイメージとセットになってる感じがあるんですよ。
だけどよく考えると、よく見てみると、
イメージと感情はセットではなくて切り離せるんですね。
これは農科学者に聞けばそうだって言ってくれます。
なぜかっていうと浄土をつく形作るプロセスと、
イメージを形作るプロセスは別々のところで行われてるんで、
同じではないんですね。
だからものすごい腹が立ってるときって、
これが完全に一体化してるように思えるんですよ。
非常に腹が立つ相手の顔を思い浮かべるとすごい腹が立つみたいな、
これはもう切り離せないように感じるんですけど、
実は切り離せるんですね。
怒りの浄土の方は動かしにくいんですよね。
消したり手放したりは難しいので。
ですがイメージの方はできるんです。
こっちをやりましょうという話なんです。
イメージも手放しにくいと思われているんですが、
イメージっていうのは随意にでも作れますよね。
例えば怒りの感情というのは何もないのに怒ろうと思っても、
怒れるわけではないと思うんですけど、
誰かのイメージをしようと思うと、
私なんか相当苦手な方ですけど、
得意な人は結構ありありとやれるって言うんですよね。
ってことはつまりコントロールできるということですよね。
作れるんだったらなくせるはずなんですよ。
で、なくしてしまえば怒りは即座には消えないんですが、
かなり早いタイミングで消えるんですね。
このGood Morning Vibesを聞かれている方は、
そこでは偏頭体は?って話をする方もいらっしゃると思うんですけど、
偏頭体自体は随意ではないんですよ。
あれが随意だったら非常に困るんですね。
蛇がよく持ち出されるんですが、
私たちは森で蛇らしきものの気配を感じたら、
即座に偏頭体が活性化するんです。
これの即座というのは非常に大事で、
つまり蛇を見る前に体は動くというのが本当の恐怖反応なんです。
06:00
多分怖いと思う前に体は動くんですね。
もしもパワハラな上司とかそういう話だった場合は、
もし偏頭体だけが動く、それで終わってしまうならば、
私たちは怖いとか腹立たしいとか思わないんですよ。
偏頭体のそれは動いた後に来るものなんですね。
だから偏頭体が動かなければその場合は問題ないのかもしれないけど、
これは動いちゃうんでしょうがない。
ここも手がつかないんですね。
次に怒りが形成される。
これは情動なんですけれども、感情なんですけれども、
これも完全に随意じゃないんでしょうがない。
この次なんですよ。
逆に思えるじゃないですか。
まず上司のイメージがあり、次に恐怖があり、
そして怒りがあるように思うかもしれませんけども、
まず実は身体反応があり、次に感情が動いて、
イメージ作っているのは最後なんですよ。
時間がかかるんですね。
このイメージ作る時に私たちはイリュージョンを見る。
意味付けもいっぱいすると。
ここは手がつけられるんですよ。
多分。
仏教はそう言うんですよね。
ここは消せると。
この番組でも時々お伝えしている
現象学っていうのも
ここに手をつけましょうっていう考え方なんですよ。
意味付けという言葉も出てくるんだけど、
その逆の言葉の方が有名で、
私はその逆の言葉から入ってるんで、
意味付けの反対語ってエポケって言うんですよ。
専門用語になっちゃうんですけどね。
あれは何て言うんですかね。
意味外しっていうのかな。
学校入れって言うんですけど、日本語では。
何か非常に簡単です。
グッドヴァイブスっていうのと全く同じです。
本当にそうだろうかって言う。
これをエポケと言うんです。
例えば私たちの意味付けというのも、
普段は目に何かが飛び込んできたら
自動的に行われています。
例えばコップをやめよう。
つまらないのでね。
なんでもいいんですけどね。
バナナとかを見て、
細長いとかって思うじゃないですか。
この段階で意味付けは始まってるわけですよね。
細長いという処理があるんですよ、実は。
そうすると次に細長いのに似たものというものを
一応連想されるように脳は準備を始めるんですね。
凄まじいわけです。
似たように細長いものとか、
そういうこの辺に精神分析っていうのが入ってきますよね。
連想ゲームというところがあるんで。
09:01
ちなみにこれをやってるのは多分ですけど、
最初に入るのは脳の後ろの方なんですよ。
後頭炎っていうところなんですけど、
そこから上と下に経路が分かれて、
上でも下でも意味付けがあるんですよ。
頭頂炎に向かう経路と、下の方に向かう経路とあって、
Uターンして戻ってくるみたいな。
最後は前の方で処理するんで、前頭炎にまとめていくんで。
こういう流れがあるんですね。
この流れの中で意味付けを連発していくというか、
意味を一つ一つくっつけていくんです。
おいしいとかおいしそうだとかですね。
エポケイというのはこれを逆にやるという、
一種の哲学的なワークなんですが、
カッコに一個一個入れていくんですよ。
黄色い、本当に黄色いだろうかとか。
かなりバカバカしいんで、
大体私はやる人は少ないと思うんですけど、
これをやることの意味ってのは、
どうしてもマインドフルネスに近づいていくなと思うんです。
まずよく見なきゃならなくなるじゃないですか。
だんだん見ることが全部みたいになっていくのが一つと、
どんどんどんどんカッコに入れると、
最後には必ず何が残るかというと、
全体をカッコに入れるっていう話になるんですよ。
必ずこれはバナナなんだろうかになるんですよ。
ここまでくればですね、
怒りは収まってますよね。
この対象がバナナじゃなくて、怒りの対象だった場合、
多分ここまでやった時、
この人は本当に存在しているんだろうかまでいった時には、
その相手に腹は立ってないですよね。
これ多分できないと思うし、やらないと思うんですけど、
実は私これを頻繁にやってた人間なんで、
できるっていうことは知ってるんですね。
私は怒られるじゃないですか、誰かに。
会社とかで固まってるじゃないですか。
その間実はこれを始めてしまうんですよ。
家がやっぱりそういう家だと、
全てはイリュージョンだと繰り返し教えられるわけですから結局。
最初子供の時は違いますよ。
説法を聞いていようと、お経を読んでいようと意味分かってないですけど、
分かってくるじゃないですか。
1万回くらい読めばですね、
訳も読まされるわけだから。
そうすると繰り返し言ってることは要するに何もないって話なんですよ。
目に見ているものは嘘だし、
感じていることも嘘だし、
目に見えているものは存在してないって話をずっと子供の時からされていて、
しかも自分が好きだったのはそういう分野だったんで、
大学行った時も僕はずっとっていうことじゃないけれども、
2年くらいはですね、
減少学の本ばっかり読んでた時期があったんですよ。
なぜかうちは苦いがドイツ語だったんで、
ドイツ語でも僕はそういう本を
わりと読んでたところがあるんですね。
今はドイツ語とか全部忘れましたけどね。
よく当時あんなものを読む気になってたなと思うんですが、
12:00
とにかくそういう感じなんですよ。
目の前にあるものは本当は存在していないかもしれない。
マドリックスですよね。
一生懸命減少学とかやらなくてもマドリックスを一回見とけば、
基本ああいう話なんですよ。
ただ、実際にどうなっているかわからないですよ。
何かに繋がってはいない、繋がれてはいないと思うし、
結局それがどうであるかを
私たちはわかる日は来ないと思うんですけれども、私は。
しかし、目の前にあるものが本当にあるのかどうかということは
疑えるんですよね。
そこまでは行くんです。
ここまで行くということは、もしも見ているものがイリュージョンだと
いうことになったら、そいつは消えますよ。
私の経験ではね、そいつは消えるんですよ。
なぜ意味外しと言わずに
かっこ入れなんて言うかというと、
多分イリュージョンの中でも消せるものと消せないものに分かれるからなんですよね。
これは細長いのか、
細長くはないかもしれないと思ったって、
細長いんですよ。
つまりそいつは残るんで、かっこ入れという言い方になるんですね。
黄色くないかもしれないとか言っても黄色いんですよ。
バナナじゃないかもしれないと言ってもバナナなんですよ。
だから全部かっこの中に入るんだけど、
消せちゃうわけじゃないからかっこ入れって言うんですね。
これ意味付けの反対ですよね。
やろうとしていること。
うまくやれるとですね、そういう日もあるんですよ。
うまくやれると、
どーんとそこに何かが残った感じがするんです。
これはバナナだとかそういう判断が
停止して、判断停止って言うんですよね。
エポケは。
停止して、どーんとそこに何かが残った感じがするんです。
だからよくお経に書いてある
何もないっていうのはこれに近いんだろうなっていう感じはするんですよ。
何かあるんだけど
それが何ってあるかは判断できなくなっちゃうので、
そうするとほぼ何もない感じに
似てくるんですけど、
消滅するわけではないので、なんかこう不思議な感じになるんです。
どーんとそこに何かあるみたいな。
ある種の絵描きさんがですね、
一生懸命描いてるものってこういう感じだなっていうのを
時々見ます。
リンゴばっかり描いてた人いたじゃないですか。
名前が今出てこないんで頑張らないですけど、
リンゴばっかり描いてた人いましたよね。
あの人にとってのリンゴっていうのに似てる感じがします。
何かそこにあるんだけど、
それが何であるっていう判断が止まってる感じ。
これはですね、できるんですよね。
ここまで来ちゃえば、
消すべきイリュージョンも全部消えるんで、
怒り手放すっていうのはもう簡単なんですよ。
さっきは怒ってたかもしれないけど、
今はもう怒ってないんですよ。
変動体なんていうのは早いんで、処理が。
ちっちゃいですからね。
15:00
処理が早くなければ何の意味もない機能なんで、
いつまでも引きずらない限りは消えちゃうんですよね。
いつまでも引きずってるのは連想ゲームなんですよ。
イリュージョン使って、
この上司にこう言って、こう言われたらこう言ってっていう、
あれをやることによって、
ずっと情動と恐怖を引っ張ってしまう。
引っ張ってしまうっていうのかな。
そいつらを焚きつけるみたいな感じなんですよね。
だから自分がやってることなんだっていう話になると思うんですね。
そこに薪をくべ続けない限りは消えるのに、
くべ続けちゃう。
こうやって消すことができてしまえばですね、
人攻撃する理由っていうのは、
自分としては根拠を見失う感じになるので、
大丈夫になるんですけれども、
もう一つここにあってですね、
この話は、
こっからグッドワイブス的に続くんですけれども、
減少学だったら絶対ここで終わっていい話なんですね。
私たちはこう、
イリュージョンを元に何かを判断してはダメなんだっていうのが、
僕は減少学だと思うんですけれども、
でも私たちはイリュージョンを非常にこう、
自動的かつ高速に見るので、
見ざるを得ないもんだと思ってる。
なんだけど実際そういうわけじゃないんだってところもあるんですけれども、
イリュージョンを元に何かを判断してはダメなんだっていうのが、
なんだけど実際そういうわけじゃないんだってところまで行きつければ、
基本はいいと思うんですよね。
フッサールみたいな人の話を読む限りは。
だけれども、
実際の生活では問題はバナナじゃないんで、
問題は攻撃してくる人なんで、
多分。
その人に関するイリュージョンは、
そうですね、例えば、
はい、書かれましたというイリュージョンだとするじゃないですか。
だいたい間違いなく腹が立った時というのは、
その人の顔とか、
その人が、なんて言えばいいんですかね、
のイメージがくっついてきてるんですよ。
こういうつもりで書いているんだろうみたいなものがですね、
揺るぎない事実のように思えてくるんですね。
これをエポケインしていく感じなんですよ。
イリュージョンでも意味付けでもいいんですけど、
とにかく一個一個外していくと。
そうすると、
実はですね、そこに書かれていることは、
よく読むとっていう話になっちゃうんですけど、
よくエポケインしていくと、
いかる理由はこっちにはないことになるんですね。
もしこれでいかる理由がなおあるというのであればですね、
そういう事例を報告して欲しいんですけれども、
私はないと思うんですよね。
私がやった限りではですね、
クレームメールであろうと、
誰からのメールであろうと、
誰かの非難っぽいレビューであろうと、
これやって腹が立つ続けだってケースはないんですよ。
18:02
非常に不思議なんですけれどもね。
つまり何が不思議かというと、
最初に読んだ時の反応。
不思議はないんですよね。
反応だから、浄土作用だから、しょうがないんですよね。
次の問題が残るんですよ。
相手はなんでこれを借りたんだろうってことなんですね。
グッドバイオスが言うのは、
これを取り除いてあげましょうっていうような話に近い。
実際に相手がその目の前にいないんで、
だからメールとかレビューとかをあんまり
グッドバイオスでは問題としないんだと思うんです。
目の前にいる相手を問題にするから。
でも同じことを必ず私たちは思います。
このエポケーって作業は手間取る感じがするじゃないですか。
慣れると割と早いんですが、
なぜなら意味付けしてるのは秒単位ですから、
たぶん1秒かかってないと思うんですよね。
何かを見て口頭用に入って、
それが四角いか丸いかどんな色をしているか、
美味しそうなのか食べられるのかの判断ってめちゃくちゃ早いじゃないですか。
これが人間の脳の凄さなんですけれども、
この速度でやることはできませんけれども、
意識すると相当の速度で戻っていくってことは一応できるんですよ。
だから言うほど時間かかんないんだけど、
すっごいめんどくさいことをやるような気がしますよね。
たぶん減少学みたいな話って、
普通に大学で講義されると
すげえめんどくさくてバカなことをやらされる感じがきっとすると思うんですが、
なぜこれを俺がやらなきゃならないんだって思うじゃないですか。
なぜ俺がやらなきゃならないんだって思うじゃないですか。
なぜ相手に対して腹が立つという状態を
いちいち解体してですね、
腹が立たない状態にしなきゃならないのかと。
一つは腹を立たせ続けるというのは
非常につらいことだからなんですが、
これは止められなくなるレベルまで行けば分かることなんですけれども、
でも日常で腹が立ったときの場合には、
腹が立つときに
腹が立つときに
日常で腹が立ったときの場合には、
ここをわざわざ相手のために
攻撃を止めてやる義理はないって思う人も
いっぱいいると思うんですね。
実際にしばしばグッドバイオスで言われる
理不尽さとか不公平だって話は
実はすごく減少額に対してつけられているケチに
似てるなって思うときがあるんです。
わざわざエポケーするのは何のためなのかと。
結局そこにバナナがあることを
実際に確認するためだけだったら、
やる意味がほとんどない感じがすると思うんですね。
結局これは判断というものが
おかしいからなんですけれども、
そうは全く思えないというケースがあるわけです。
ケースだけ取り上げると。
例えば私がしばしば持ち出す例だと、
こういうことは本当はまず全然なかったんですけれども、
打ち合わせの場所に行っても編集さんがいなくて
21:00
すっぽかされたと。
こういう時に、なぜわざわざ私がエポケーをして
意味づけを外し、イリュージョンを取って
実は起こる理由がないなんてことを考えなきゃいけないのかと。
一歩間違ったとすれば社会正義に反する
みたいな議論になるんですよ。
エポケーやってみると、それが社会正義の話と
全然関係ない感じがするんですが、
この話だけ取り上げるとそういう感じがするんですよね。
理不尽な感じがするというやつですね。
理不尽なのは起こっているからなんですが、
怒りはイリュージョンが作り出しているんですけど、
全部そうなのかという話にだんだんなっていくんですよ。
だから、
だから、
この編集さんの話はまた置いておきますけど、
特にAmazonレビューとかで攻撃されているとき、
なぜ相手のレビューは攻撃に見えるのかというのが
イリュージョンを取っていく、
エポケーしていく方法なんですが、
なぜその人はそのレビューを書いたのかという部分なんです。
これは相手が
イリュージョンを持っているからに間違いない。
この段階でも怒りは解けていいんですけど、
もし相手が目の前にいた場合はですね、
Amazonのレビューだといないけど、
その人のイリュージョンを取ってあげるというのが
Good Vibesのワークに出てくるんですね。
この時も同じことを考えるはずなんですよ。
なぜ自分がそれをしてやらなきゃいけないのか。
別に私はこの人のカウンセラーでもないのにね。
夫婦なんかの場合は
カウンセラーと大して違わないことになるか、
それ以上のことになるとも思うんだけれども、
ここでもなぜというのが出るんですよね。
出るということは、
実は相手を罰したいということじゃないですか。
なぜ相手は怒っているんだろうと
考えるということはですね、
なぜこの人は怒り続けなきゃならないんだろうと
考えることと同じなんですよ。
この辺多分込み入っていて分かりにくいと思うので、
だから倉園さんのブログを読んで欲しいんですけれども、
私はこれをすごく現象学的に考えてきたので、
こういう言い方になるんですよ。
僕はですね、この番組では
自分がこう理解するのが一番納得がいくということを
そのまんま喋るので分かりにくいんですよ。
分かりやすく喋ろうっていう話だとまた違うんですけれども、
私は本書くときだったらこういう書き方は
絶対しないようにしているんですけれども、
だから本書くときって私は二重に悩むんですよ。
自分が納得するロジックであれば、
こうは書かないっていう書き方をするときがあるんですね。
人は多分こういう考え方をあまり
しないか好まないだろうっていう、
これはイリュージョンだと言われればそうかもしれないんですけど、
僕はちょっと違う気がするんですよね。
理解力とかの話じゃなくて、
思考の癖みたいなものでありまして、
24:00
それが文章の癖として出るんですけれども、
自分はこういうロジックじゃないと納得いかないっていう
そういう癖がどうしてもあるんですよね。
その癖をこの番組ではまんま喋るんですよ、私は。
だから多分、
最近ツイッターでですね、
ランコッコさんという方かな、
ランコッコ流解釈みたいなのも書かれてるんですけど、
そうなんですよ。そうならざるを得ないと思うんですね。
私流に解釈というか、私流儀で、
多分僕はグッダバイブスっていうのはこうだっていうのがあるんですけど、
それを私が納得して実践するということになってくると、
やっぱり自分の思考の癖みたいなのに乗せないとですね、
言葉、やっぱり攻撃を手放す系じゃないですか、
厳しくなってくるんですよね、自分にとって。
その辺のことがここに挟まってきてるんだろうと思います。
相手の怒りを取るという時に、
自分の怒りを取るという時に、
自分の怒りを取るという時に、
自分の怒りを取るという時に、
なぜだって思うということは、
自分が怒ってるってことになるじゃないですか。
で、自分が怒ってるというのはさっき言った通り、
エボケをやりきってないっていう意味なんですよ。
つまり、
怒り続けていたいから怒ってるっていう部分が
絶対にあるんですよ。
これはその、
事実であるというところまで行くにはですね、
世界を囲い入れしなきゃダメなんですよ。
この世界は本当に実在しているんだろうか。
実在していない世界に
怒る理由はないじゃないですか。
だから、実在しているという確証を得るまでは、
怒ることが絶対に
事実にマッチしているというところまで
持っていけないんです。
こんな面倒くさいことを普通の人はしないというのは
よくわかるんですが、
夢の中で人を殺したくないって思いません?
本音のところでは。
夢の中だから取り返しはつくんですけれども、
夢の中で殺人を行うということはですね、
自分の作り出した
キャラクターですかね。
その心の中のキャラクターを
殺害するということになるじゃないですか。
どこからどう見ても自分で
自分を攻撃している感じになってしまうと思うんですね。
夢かもしれないっていうのは、
これは面白いことに、Good Vibesの勉強会の
アフタートークみたいなところで
話題になったんですけど、
マトリックスみたいな話って結局最終的には
そうではないという根拠を絶対的に得ることはできないですよね。
あれは原理的にそうですよね。
現象学であるというのが、つまり
現象学で言いたかったことなんですよ。
たぶん、現象学者がみんな言っていることは
原理的に不可能なんだってことなんですよ。
27:00
超越って言い方をするんですけれども、
どうやったって世界がこうであると
見たまんまであるという証拠を得ることはできないんだよ
っていう話をしているんですよ。
見たまんまではあるかもしれないけど、
見たまんまではあるかもしれない可能性はどこまでもついて回るよね
っていう話をあれはしているんだと思うんですよ。
そうすると、それがどこまでもついて回るということは
このレビューは悪意があって
本の売れ行きを阻害するということは
言い切れないというのは
どこまでもついて回るわけじゃないですか。
あるいは、私が何かのことで攻撃されているという
決定的な証拠を差し抑えることは
永遠にできませんということを
意味しているわけです。
にもかかわらず、相手に鉄槌を下すとか
そういう情動を持ち続けるというのは
理不尽じゃないですか。
っていう話なんですよ。
これ相手にも言えることのはずなんですよね。
相手が私を攻撃してきたとすると、その人はきっと
イリュージョンを現実だと確信していると。
イリュージョンを現実だと確信しているという人は
気の毒だから。
気の毒だからというのは
上下関係できちゃうかもしれませんけど
そんなことで苦しむ必要はないんですということを
伝えると角が立つので
一番角が立たないのは
イリュージョンと意味づけを指摘していくというか
それは意味づけですということを
このプロセスを踏めば多分
怒りが解けるので
そのレビューは取り下げられるだろうというようなノリなんですよね。
ノリとしては。
なんでこれを私がやってやらなきゃいけないんだって思うということは
私もイリュージョンの中にいるんですよ。
そう思う限りはいるんですよ。
なんでも何もないんですよ。
つまり
相手がイリュージョンの中で苦しんでいればいい
って思うということは
罰を与えたいということなんですけれども
相手がその中で苦しんでいればいい
っていうふうに思うということは
相手がそういう人だということを
私は信じ込んだということになりますよね。
でもさっき出しました通り
信じ込める決定的な根拠はないんですよ。この世の中には。
だから多分私が
何か相手がずっとそのままでいればいいのに
と思うということは
何かを信じちゃっているということなんですよね。
これを多分両方同時に
いっぺんに消し去ることができるという話が
最初にイリュージョンに手をつけるのが
一番手っ取り早いっていう話なんだと思うんです。
それがグッドバイブスなんだろうと。
私はすっごく今の話をほとんどフッサール流に
30:01
解釈したんですよ。
最初はそうだったんです。私が川園さんの話を聞いた時に
石城、これは仏教的でもあるけど
フッサール的だと自分の中ではそう聞こえるんですよ。
すごくエポケが強調されていた
フッサールがそうでした。
ものすごくエポケを言っている感じだったんですよね。
エポケだけ言っているわけじゃないんですけど
とにかく
構成していくみたいなことに対する
逆流っていうのを
強調されている感じがあったんですよね。
こういうふうに人は物を見て
組み上げていってしまう。
現実というのは構成された物みたいな。
あれはすごく能科学的にもそうで
本当にそういうプロセスがあるんですよね。
ビジュアル1というところから入っていって
ビジュアル2、3、4、5、6、7と
なっていって、それが統合されていて
四角像というものが形成される。
遅いじゃないですか。遅いというのはプロセスが多すぎますよね。
こういう状態、こういうもので
例えばヘビだ、ハチだに襲われたら
プロセスV1、2、3、4、5、6、7、8だと
分かりました。逃げ遅れますよね。
だから偏頭体には直通ルートがあって
まっすぐ偏頭体に緊急時の場合は
行くんですよ。そうすると私たちは当然
それがハチだかヘビだか分からないが恐怖を
感じる間もなく逃げ出すと。
この多分ですね
いろんなプロセスの中で
イリュージョンと恐怖感と
行動が一斉に発生して私たちは
それを全部、その順番と
因果率を誤解するんですよね。多分。
そういう風にして
イリュージョンというものが、イリュージョンが恐怖を
作り出すわけでは全然ないのに
イリュージョンが恐怖を作り出すと思うんで
しかもそのイリュージョンは避けがたいものだと思うので
いつしかイリュージョンが現実だと思い込んでですね
この現実さえなければいいのにという話になっちゃうんだと思うんですよ。
もともと存在しない現実に対して。
ここに
鉄椎を下せないのが理不尽だっていう話をするってことは
やっぱり自分の頭の中に対して
すごく理不尽な話なんですよね。
V1からV7は
便利だからただ作ってるだけのものじゃないですか。
この流れの中で。逃げるためだったら
いらないってことになりますよね。
魚とかには。なくても逃げれるから。
餌も食べられるんで。いらないんですよ。
こんなに美しい映像みたいなものは。
この映像を
作っている話の中でも面白いのは
例えばV1だけだと当然
33:00
何の像も結べないんですね。
色もなければ形もないっていうのがあるんだけど
それでもV1ってのがあるんで
盲視の人ですよ。目が見えない方。
V1だけで物を判断するっていう能力に
長けてくるっていう話はよく
ラマ・チャンドワンとかそういう人たちがしている話ですけれども
それくらい私たちは実は
像というものを信じてるんだけど
嘘なんですよ。この像それ自体が。
V1だけだと私たちは物が見えないので
形もわからないので見えてないって考えるんですけど
もしV1だけでは見えないということであれば
7まであったって見えないことになっちゃうんですね。
そういう言い方って納得されるとは
到底思えないんですけど
話としてはそのはずなんですね。
つまり外在しているものを見ているわけじゃなくて
あくまでも常にイリュージョンを使って
僕ら判断しているつもりになっていて
しかも実際にはしばしばそうはしてない。
特に恐怖に関することっていうのは
不安に関することでもいいんですけどそうはしてない。
見てから判断しているわけでは全然ない。
だからイリュージョンというのかな
ビジュアルを使って
怒りを消し去ろうとしても無駄なんですね。
そういうことをするくらいだったら
つまりビジュアルが怒りを作り出すわけじゃない
っていうことなんですよ。
ビジュアルが怒りを作り出すわけじゃないのに
この脳内シミュレーションを使って
怒りの原因を消し去ろうとしたり
無くそうとしたり破壊しようとしても
不可能なんですね。
それを不可能なので
最近アーモンドっていう小説を読んでるんですけど
それは偏頭体自体が非常に微妙な働きをするので
差別される人の話なんですね。
ノンフィクションなのかフィクションなのか非常に微妙なんですけど
アーモンドっていうのは偏頭体って意味です。
アミグダーラって本当は言うんですね。
それくらい浄土反論というのは実は
目で見えるとか音が聞こえるということとは
関係なく働いているっていうことを
ああいう小説はすごいよく教えてくれると思うんですけれども
私たちはどうしてもそうは思えない。
目で見たものや聞いたものによって
自分の怒りが作り出されている気になっている。
このことを多分一番思い出すのにいいのは
ヘビの恐怖なんだと僕は思うんですよね。
あれいつもそうなんですけどカサカサで僕らは恐怖する。
象がまだ全く結べていない段階で恐怖できるんだから
象が結べることによって
つまり何かを見たり聞いたり
出来事に体験することによって
恐れるわけじゃないんですよね。
そういう話が随所にある。
だから怒りというものを
何でもいいんですけども
36:01
何か攻撃というものに遭遇した場合
どんな音とか絵を
自分の頭が作ったかということを
チェックすればいいということなんだと思います。
最終的には。
そいつらを消せば多分怒りは消えるはずなんですよね。
どっちかというと
変動体の処理は
単純なもので長持ちはしないものなので
そんなに長く続くはずがない。
長く続いているということはすでに
イリュージョンだということなんだと思います。
この長くというのは1分以上と多分言う意味だろう。
僕はそういう感情を今持っています。
36:46

コメント

スクロール