1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 罪悪感は人を生産的にもまっと..
2023-08-02 46:36

罪悪感は人を生産的にもまっとうにもさせられない【GMV823】

罪の意識はむしろ人を子供っぽくする

サマリー

罪悪感を手放すことによって、彼は成人並みの分別がつかなくなり、逃亡失調症状態になる可能性があると言われています。しかし、罪悪感を手放すことによって、彼は良い妄想ばかりでなく、現実と何らかのリンクがある妄想も生まれることがあります。統合主張者として社会的に適応している人々は、こうした妄想を持っている場合もあります。彼は自分の妄想に困っている話をしていますが、被害妄想と幸せな妄想の違いを考えています。また、罪悪感を手放した結果、彼は迫害妄想が募ると述べており、妄想によって現実との区別がつけやすい心理的傾向を持っていることを示唆しています。罪悪感は持つべきでないという考えは誤解であり、逆に罪悪感を持つことで自己防衛の意識が芽生えると考えられています。しかし、自責の念が強くて謙虚すぎるような人々は、攻撃されると感じるためにキャパシティを超えてしまい、自己防衛のためにもっと頑張らなければならないというジレンマに直面することがあります。彼は罪悪感が人を生産的にもまっとうにもさせられないという議論について話し、罪悪感を手放すことの意味について深めました。

00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
8月2日、午前11時35分かな、今は。
過労死で午前中、多分これが終わった頃には午後になるから、
これの配信は、モーニング言ってますけど、お昼かなーって感じですね。
まあまあ、僕の中ではまだまだこの時間帯はモーニングなんで、
モーニング長いんですよね、私は。
お昼食べるまではモーニングみたいなところがありますので、
ちょっと今日はですね、お昼付近になってるから、多分元気なんですよ。
朝7時くらいの収録の時はもう少しフォーンが控えめと言えば控えめ、
元気がないと言えば多分元気がないと思いますが。
11日山の日のタスク集と、
一応僕の中では自分がやる単独のはしばらくこれを最後にしないぞと。
それを言ってPRしたいというのではなくてですね、
ここの2回で自分の言いたいことは原則完結できてるかなという、
そういう感じです。
一つがその山の日のやつですね。
もう一つがですね、
もう一つがというか、
随時Good Vibes Factoryというのをやっております。
これ聞いてる方は皆さんご存知で、
中には入っていただいてる方もいらっしゃると思うんですけど、
これを、
初月無料なので、
体験していただきたいというのがここで言っていることなんです。
もう繰り返しお伝えしていますが、
ほぼ格安だと思ってやっているので、
しかもこれはですね、
アップセルとかがないので入っていただければ、
2000円で入ったのに、
しばらく入っていると20万円のコースを紹介しますとかは、
アップセルみたいなのがあるじゃないですか。
Good Vibes Factory Premiumみたいなのはないので、
これが最上位ですから、
その辺安心していただければと思います。
そういうこともですね、
後から考えるんですよ、僕は。
なんていうのかな、
そういうことを人は懸念するんだなということを、
最初気づかないので。
だからそうだったと思って今しゃべってみました。
今日はですね、
もう話題は決まっておりまして、
もう先からずっとこれをいつ収録できるかと思っていたんですよ。
今日はわけあって家事をしまくっていてですね、
洗濯機やら食洗機やらを回していて、
ガーデニングとかをやっていたらこんな時間になってしまったんですね。
今日お話ししたいのは、
先日ですね、セッション中に、
これもCMしたいんですけどね、
今ちょっと終わっちゃったんですよ、
募集が3ヶ月チャレンジというのが、
8月1日から、つまり昨日から始まっていて、
実質7月29日に2期が終わって、
そのままもうなだれ込んでおりますので、
継続の方が多くいらっしゃってありがたいんですけど、
その3ヶ月チャレンジでセッションやってるんですね。
でもこの3ヶ月チャレンジ、次回はいつからだ?
8月、9月、10月、11月からだから、
第4期をやる予定なので、
よろしければちょっと検討してみていただくとありがたい。
8月、いやいや、3ヶ月チャレンジの第3期が現在進行していると。
それはそれでただのCMなんですけど、
そこのセッション中に久しぶりではなくて、
全く僕は久しぶりというか、初めてそういう解釈を聞いた気がしちゃったんですね。
セッション中に。
後からよく考えてみると、
この種の話はしょっちゅう持ち込まれているというか、
相談されているというか、反論されている話で、
これはこの機会にまた久しぶりにちゃんと喋っておく必要があると思いましてね。
大変ありがたいというか、
久しぶりにこれを真っ向から話したなっていうテーマなんですね。
罪悪感の手放しと精神症状
罪悪感にまつわる話なんですけど、
これはですね、伝統的にある話なので、
多分あらゆるカウンセリングにおいて、
ほとんど中核になる、
Good Vibesで倉園さんもよくこのテーマを取り上げていらっしゃるんですが、
当然そこに一つのポイントとしてですね、
そのポイントは当然テーマになるよねっていうポイントなんですよ。
これ多分聞いていらっしゃる方の中に、
そのセッションの方もいらっしゃるんで、
本当はこういうのはですね、
どうなのかって話もあるんですけど、
これはカウンセリングでは僕はないと考えているし、
この話をしたからといってすっぱ抜くとかいうことは全然なくて、
この話はよく出てくるんですよ、形を変えてですね。
だからもう言うに200回はこの話私、
実はバリエーション200回どころではないですね。
これ実はタスクシュートですら出てくるんですよ。
だからこれは1万回とは言わないかもしれないけど、
そのオーダーで実はしてきている話の一つなんですね。
でもなかなか簡単に納得はされない。
昔すごく面白いことがあった。
すごく面白くないか。
倉園さんとですね、どこかで3人で喋っているときに、
なんかですね、セッションのような感じの単なる雑談のような感じの話をしているときに、
私とそのもう1人の人がこの件を倉園さんにぶつけてみたっていうか、
ぶつける格好になったってことがあったんですね。
だいぶ前です。
本当にGOOD VIBESを初めて聞いた頃、
多分コロナ以前なんですよ。
そうだよな。
直に喋ってたんだからコロナ以前だな。
で、その時もこのテーマになって、
私この件に関してはですね、
倉園さんと基本意見は変わらなかったんですけど、
ただ私はフラフラしてたんですね。
フラフラしてたんですよ。
まず間違いなく罪悪感で手放した方がいいんだけど、
これをアスクシュートの世界ですら言うと激しく、激しくはないんだけど、
議論になっちゃうのに、
これを一般化するのって大丈夫かなみたいなので興味津々だったんですね。
倉園さんは何て言うんだろうっていうね。
当時はそんなにこの件が、
まず最初に前面に出るっていう展開を倉園さんがされてた頃、
されてたちょうど初めの頃なのかな。
そういう時期とかはないんだけど、
あえて言うならばそういう、
まだ僕が聞き始めだったからってことなんですね。
その時に倉園さんは割とはっきりおっしゃってて、
あ、こんなにはっきり言えるもんなんだっていうことに感銘を受けた。
それ以来僕もスタンスを大きく変えたんですよね。
はっきり言おうみたいな。
自分の中でですよ。
自分の中ではっきり言おうというスタンスに。
多分2017年とかの話で、
今から5年以上昔になってしまうんですね、あれもね。
で、それを昨日思い出したんですよ。
あの時それははっきり言おうと自分決意したなみたいなことを思い出した。
そういう話だったんですね。
で、今言った通り罪悪感を手放すっていう話なんだけど、
もっと昨日のお話はですね、
相手の方は私なんかよりも頭のいい方で、
もっと理智的に話が進んでいたんですね。
まあ日頃やってるのが理智的じゃないっていうことじゃないんですけど、
もっと洗練された表現だったんですよ。
それだけにテーマがですね、やっぱり精神分析にぐっと寄るというか、
ほぼ精神分析になっていくみたいなところがありまして、
妄想のリンクと統合主張者
要は、でもテーマはよく出てくるものなんですね。
罪悪感を手放してしまうと、
言ってみればね、
何つうんですかね。
言ってしまえば赤ちゃんにまで対抗してしまって、
もう何つうんですかね。
昔の言葉で言えば、
がんぜなくなるみたいな感じなんだけど、
そうだなあ。
右も左もわからなくなるみたいな表現。
これはアフリカにでもあるみたいなんですけどね。
そういうことなんですよ。
現実見当を完全に失ってしまい、
ほぼ発狂している状態、少なくとも人間社会には到底受け入れられない
ところまで対抗してしまうのではないかという、
つまり、罪悪感というものを手放して、
本当に大丈夫なのっていう話が、
もっと緻密に進行したっていう話なんですね。
手放すということによって、
そうなる恐れがあるっていうのも去ることながら、
もう一つ、
そのディスカッションで重要なテーマになってるなと思ったのは、
そういうふうに、
がんぜなくなっちゃうというか、
一切程度まで対抗していくと、
ある意味逃亡失調症状態になるわけですよね。
現実というものが見失われてしまって、
妄想世界に生きることになるので、
妄想と現実の区別がつかなくなる。
これは現代っ子がドラマを見すぎてとかいう話じゃないですよ。
本当にそうなる。ある意味、お年寄りもなりますよね。
認知症になった方がここがどこなのかわからないみたいな。
それは宇宙論的な話じゃないですよ。
今自分が病院にいるのか家にいるのかわからないみたいな。
村上春樹がノルウェーの森の最後でそういうことを書いてたじゃないですか。
電話ボックスか何かね。あなた今どこにいるのって聞かれて、
それがわからなくなってしまったという。
あれもストレスかかりすぎてるからなんですが。
なと思うんですけどね。これは解釈ですけど。
そうなってしまうんではないかということなんですね。
罪悪感を手放してしまうということは、
そこまで現実認識というもののために、
罪悪感というのが強く作用しているのに、
要するにやっていいことと悪いことの区別もつかなくなるようでは、
人間社会の中ではですね、
成人並みの分別がつかなくなってしまうということが起こっているからと、
ご主張になるというような懸念があるということですよね。
だから言ってしまうと、
言ってしまうと、罪悪感を手放すことにより、
対抗状態が進行して精神症を発出するという感じ。
僕はそういうふうな懸念があるというお話ですね。
これは同じ意味になるんだと思うんですけど、
僕はですね、まずここが逆だと思っているんですよ。
僕は本当の意味で専門家ではないから、
はっきりそうだと言い切れはしないまでもですね、
今まで読んできたもののほとんど全部がですね、
罪悪感を手放したり、心の中から罪悪感をほとんど消去、
そんなことはできにくいんですけれども、
したがゆえに一切事まで対抗するのではないと思うんですよね。
いろんなのを読むと、ほとんどの場合、
罪悪感が募りすぎてそういう状態になるんですよ。
まず妄想の、これも結論から先に言っちゃいますと、
妄想の中身というものが、
つまり妄想なのか現実なのか人に区別がつかなくなるといって、
その妄想は良い妄想であることはほぼないんですね。
ある意味では統合主張者の人というのは大変なんですよ。
これが良い妄想ばっかりであるならば、
多分社会的適応はこんなに悪くはならないはずなんですよ。
例えば、妄想といってもですね、
もうありもしないものをバンバン見るとかいう妄想とはちょっと違うんですよね。
多くの場合、妄想というのは、
現実と何らかの形でうっすらリンクしてるんですよ。
例えば私のよく知っている人、
よく知らない人でもよく本なんかには書いてありますけど、
ノートパソコンのカメラの部分を塞ぐっていうのは、
僕は光景としても見たことがあるし、
よくそれの話で出てくるんですよね。
ノートパソコンのカメラの部分をガムテープとか、
成功なもので塞ぐっていう人もいるんだけど、塞ぐんですよ。
自分の顔が知らないうちに盗聴されているということを恐れるんですね。
非常に恐れる。
だから映らないようにするということですね。
これは私は見たこともあるんですね。
これって良いことが起きているっていう妄想でないのと、
もう一つ、この妄想は目も歯も全くない。
目も歯も全くないけれど、
目も歯も全くないっていうのとはちょっと違うじゃないですか。
その人はカメラは知覚されているんですよね。
カメラがやっていることの意味を妄想しているわけですよ。
こういうケースが多いんですよね。
私の知る限りでは。
確かに妄想状態がものすごく進行してしまって、
いもしない人をどんどん見て、
ありもしないことをどんどん聞くというケースもあるんですけれども、
そういう薬物を過剰に摂取した、
さくらん状態みたいなのとは違って、
ほとんど私たちが目にする、耳にする、
ちょっと困っている、
妄想の現実感
自分もそういう話で困るっていう時の妄想というのは、
例えば既読スルーとかそういうやつなんですよ。
知覚は関係しているんですね。
知覚というのは目で見ている。
例えば既読スルーっていうのは目で見える現象ですよね。
そこにつける意味およびそこから膨らませる空想が、
蒸気を意思してくるわけですよ。
私を悩ませようとして、
見たメールを無視して、
他の女の人とホテルに行ってるとかいう、
どんどん広げていくのが妄想なんだけど、
この妄想は全く根も葉もない話ではないんですよね。
疑われた人にしてみれば、事実無根だった場合、
完全に根も葉もない話かもしれないけど、
それは目の前にヒクミンがやってきました、
みたいな話とは違うんですよ、やっぱり。
もう少し現実感があるって、
このランクが多いと思うんですよね。
よく聞いていると。
大事なのは、ここで多くの場合の、
ほとんど全ての場合と言っていいのは、
被害妄想と俗に言われているものだと思うんですよ。
つまり、自分が酷い目に合う話をしてるんですよ。
ノートパソコンの考察が一番いい例だと思うんですよね。
それを見られて、私を四六時中見張られて、
あの側カメラってそんなに成功じゃないですよね。
そういう妄想の中のカメラって、
えらいすごいものなんですけどね。
それ多分やるには100万ぐらいかかるだろうな、
みたいなカメラになってるんだけど、
とにかくそれで家中が映されて、
根も葉もないことが近所中に振りまかれて、
自分は嘲笑われているとか。
でも最後を聞くとですね、
え、それってただ嘲笑われている程度なの?
ケースによってはですね、
それが政府機関に送られることによって、
自分の財産が全部調べ上げられて、
気が付くと私の財産がめべりしていて、
だから勝手に税務署にお金が、
この話をしてくれたのは私の知り合いなんだけどね、
どんどん減らされてる。
いやあなた資産もともと全然なかったじゃん、
っていう感じがするんだけど、
そんなことはないわけですよ、
その人の頭の中では。
でもこれは良い妄想ではないですよね。
明らかに相当ひどい目にあってますよ。
だってまず勝手に資産を調べられている。
家は覗かれ放題である。
そして金がどんどん減らされていると。
そういう妄想なわけですから。
だからその方はクレジットカードも全部、
シュレッダーで粉々にして、
口座も全て凍結して、
テープで貼ったりもして、
そうやっているわけですよ。
良い妄想が一個もないわけですね。
僕は多分この種の類のことが多いだろうな、
というふうに思うんですよ。
なぜかと言いますと、
僕が思うにですね、
それはつい先日からずっと話題にしている、
私だけ年を取ってるみたいだっていう、
ヤングキャラのコミックを読むと、
よく分かる気がするんですよね。
お母さんが統合失調症で、
娘さんがヤングキャラの主人公なんですけど、
このヤングキャラの主人公は、
全然統合失調症の気配を見せてこないんですね。
で、何でかというと、
罪悪感を手放したからとかでは全然ないと思うんですよ。
罪悪感、違うごめん。
罪悪感をご承大事に抱え込んでるから、
病気になってないとかではない気がするんですね。
罪悪感は持ってるけれども、
お母さんほどひどく持ってないんですよね。
だからこの人は妄想するんですよ。
ヤングキャラのこのお嬢さん、主人公は。
妄想をして、
例えば妄想の中で何度も母を殺したって、
やっぱりこれはね、
そんなお母さんのヘアするって逆だから、
いい加減嫌になってるわけですよ。
だから非常に抑圧、
これを抑圧と言うと思うんですけどね。
してるけれども、
お母さんに対する攻撃心は極めて大難だと思うんですよね。
だから妄想の中で何度も母を殺すんだけど、
殺すといってもお母さんは、
自分が刺したりして殺してるわけじゃないです。
勝手に死んじゃってるんですね。
この人はお母さんが嫌いってわけじゃないので、
お母さんに対する苛立ちは強く持ってるけれども、
勝手に死ぬ妄想をするんですね。
そうするとみんなが急に優しくしてくれる。
つまりお母さんさえいなければ、
どんなに楽になれることかっていうところから、
膨らむ妄想なんですよ。
これは、
いい妄想とは言えないかもしれないけど、
さっきの迫害妄想、被害妄想とは全然タイプが違いますよね。
明らかにいい妄想っていうか、
その中で自分は幸せになってるって妄想ですよね。
これが統合主張の人のする妄想と、
全然僕は違うタイプのように思うんですね。
この時、このユイちゃんという主人公は、
全然、
はっきりと現実見当が、
ここが痛々しいっちゃ痛々しいんだけど、ついてるわけですよ。
この人は夢の中で、
布団の中でこの空想をして、
みんなに祝福されて幸せいっぱいの、
普通の子供の扱いなんだけどね、
をされているという妄想を何度もした。
自分ではっきりこれが妄想だって知ってるんですよね。
これこそ現実見当じゃないですか。
つまり分別がついてるってことになりますよね。
どれが妄想でどっちが現実かが、
自分の中でははっきりわかっている。
わかっているということは、
病気じゃないってことなんですよ。
別の言い方をすると、
わかっているということは、
非精神病状態なわけですよね。
よく思うことは、なぜはっきりわかるか。
それはこの妄想のどこにも迫害性がないからなんですね。
私たちの妄想、
これは脳の構造なんだと思います。
ある意味、心の方針みたいな言い方をしてもいいかもしれませんけど、
我々は生き物ですから、
心や脳は余計なことやってるなとも思うんだけれども、
それが妄想であろうとなかろうと、
真剣になれよっていうのは、
危機だけなんだ。
危機以外のものに対して、
我々は真剣にそこまで検討しなくてもいいんですよ。
ある意味では。
つまり、迫害されているから、
それが現実との区別がつかなくなるのであって、
迫害されていなくてみんなに祝福されているという妄想は、
妄想のままどんどん結構です。
妄想しといてくださいねって感じで、
だから、心の中で私たちは、
幸せな妄想と現実感
これが妄想なのか現実なのか、
幸せいっぱいの光景については気づきやすい。
私はあの人と好きになって、
お互い結ばれてハッピーになった。
いいなあ、みたいになっちゃうんですよ。
どうしてもそれが本当にハッピーになったんだよ、みたいな風には、
なかなかならないですよね。残念ながら。
一方で、あの人が私を捨てて、
浮気をしてどっか行ってしまった、許せないって方は、
すぐ現実感を持ってくるんですよ。
心の中でどっちの方がリアリティを持ちやすいように見えるかというと、
いろんな人を見ていただくとすぐわかると思うんですけど、
明らかに自分が悲惨な目になっているっていう妄想の方を、
すぐリアライズしてしまいますね、私たちは。
逆は滅多にできない、簡単にはね。
よっぽど努力をして、だから僕が思うに、
幸せいっぱいの何かをするって時は、
人はVRゴーグルをつけなきゃならないわけですよ。
VRゴーグルをつけたって、俺つけてんなってことは知ってるんですよ。
人間ってのはやっぱりですね。
そういうところがよくできているんですよ。
一方で、VRゴーグルなんかなくたって、
既読スルーをしてくる上司とか部下とか、
彼女とか恋人とか夫とかにはすぐリアライズしちゃうわけですよ。
既読スルーなだけなのに。
そこに見えてるものは、ただ送った返信が、
ただ既読になったけど、そのままだという。
ただそれだけなのに、
その人はお腹がゴロゴロしてトイレに入って駆け込んで、
その間返せないだけかもしれないんだけども、
その間に逃避してアメリカでアメリカの女の子とエッチしてるとか、
すごい話が進行するわけですよ。
こっちの方がよっぽど現実感ないんだけれども、
そういう現実はすぐに進行できる。
これは僕は、その人が分別がないとか、
頭が悪いとかじゃないと思うんですよ。
罪悪感と妄想
心がそういうことをやろうやろうとするから、
問題が起きたという現実の方を、
優先的に夢ではなく現実だと思い知らされやすいという、
僕らの心理的傾向になってるんだと思うんですよね。
だから、
妄想分裂ポジションというポジションは、
快楽原則と言いながらも、
苦痛ばっかりなんですね。
我々が成人になってから、
もし現実と妄想の区別がつかなくなった時の妄想というのは、
はっきり言って、
99%まで迫害妄想だと思います。
悲しいことかもしれないけど、そうなんだと思うんですよ。
つまりこれは、
罪悪感を手放した結果、得られる世界という、
踏み込む世界じゃないですね。
罪悪感を募らせた結果、
迷い込む世界に違いないと思うんですよ。
これを私は、
セッションの時には、
新しい解釈のように思っちゃったんだけど、
そんなことはないですね。
これは私は何度も何度もこの部分をぶつけられてきたなと。
多くの人がまず考えることは、
いやいや、罪悪感を持たないと、
先日たまたまですね、
似たようなテーマを、
違う、同じ事件から連想。
お互い違う話してますけど、
同じ事件から連想したのがたまたま起きたなと思ったんです。
たまたまではないですね。
判決が起きた日に、繰り返し報道してたから、
ジョーカーの事件ですね。
ああいう人が妄想を募らせて、
罪悪感を手放すことによって、
そういう話はそういえば、
倉澤さんもまさにその話をぶつけられていた。
私がそれをどこかで見たわけですね、その人と一緒に。
私もその話、よくぶつけられてきたわけですよ。
罪悪感を手放しましょうって話をすると、
ここに来るんですよね、考えてみると。
これだけ私たちは、
罪悪感というものによって、
人は行為を行動を立し、
人間という言葉、真の人間で、
人間らしい行動を取れるようになり、
この場合、いい意味でですね、
例えばやりたくもない勉強とか、
大変な仕事とかにも向かえる、
全て罪悪感が必要で、
ないと風天みたいになっちゃって、
お酒飲みまくって、
ジョーカーの格好とかして、
という風に割と捉えられているようなんですよ。
そういうことも世の中にあるのかもしれないんだけど、
僕は実はそういうことは全然全くないんじゃないかと、
最近思い始めてます、正直言って。
なぜならば、
めちゃくちゃ罪悪感を募らせていてですね、
判決の人もそうだったんですよね。
明らかにあれは、
自分を責めまくった結果なんですよ。
どう考えたって、だって、
傍聴席の人、こんなに大人しい人がっていう風に驚いたっていうのが、
テレビでありとあらゆることを報道してますからね、
それも相当どうかと思うんですけどね。
とにかく報道してたんで、
大人しいんだと思うんですよね。
すごく大人しい人。
だからわざわざジョーカーの格好をしないとできない、
つまりこれは妄想だと思い込もうと頑張らないと、
やれないっていうぐらい大人しい。
その前にあったことが結局、
人から責められたと思ったんだと思うんですよ。
ミスをしたと。
ミスをしたというのは、つまり罪悪だということなんですよ。
だから人事異動にまでさせられて、
そのミスをしたために、
女性にも捨てられて、
しかもその女性は半年後?知らんけど、
半月後かすぐに他の人と結婚してしまったと。
これは明らかに俺は、
ものすごく渋滞を晒しまくっているという、
その思いが限界地点まで行ったんだと思うんですよね。
割と僕らはこれが、
罪悪感と自己防衛
すぐ行っちゃうところがまた問題なんですよね。
昨日その話は散々したからもう繰り返しませんけども、
すぐキャパシティーいっぱいいっぱいになってしまうんですよ。
私はもう最悪の人間。
最悪ってからには、
水槽の水のいっぱいまでは、
距離が置かれるべきだと思うんだけど、
本当に小さいコップみたいにすぐ最悪になってしまうんですよね。
最悪になってしまうと、
溢れ出るわけですよ。
こういう説明の仕方をやっぱり精神分析でも、
今では多分、
認知クード療法の方でもこうやって説明していると思うんですよね。
クラザノケイゾーさんもGood Vibesで、
これによく非常に似た感じの、
違う表現を取られていますけど説明されているので、
みんな同じことを感じているんだと思うんですよ、それは結局。
別にフロイトがそういうふうに解釈しなさいと言っているわけではない感じなので、
この罪悪感に関する、
今、
概ねコンセンサスが取れている話って、
結局罪悪感を自分が抱え込みすぎて、
もう本当にそれでダメだと思い込みすぎて、
起死燃料を持つ抑鬱症状が進行していく、
か、
そんなことをやっていたら本当に子孫の人が死んじゃうから、
心がそこは頑張って排出と言うんですけど、
メラニー・クラインの言葉を伝統的に使えば、
排出、外に出していく、
投影なんですよね。
そして投影すると。
そういう時に空想力がいるわけですよ。
何か自分が悪いと最初思っているわけですね。
正常なんで。
現実見当がついているので私が悪いんだと。
現実的に私が会社でミスしたのが悪いんだと。
でもそれをずっとやっていると死んじゃうんですよ。
そこで心は
本体を殺すわけにいかないので、
そこでその人を防御するために、
結局それは防御の一種なんですね。
周りが悪いのではないのかと。
そこを検討しようぜということになるわけですよね。
そうすると上司の指示の出し方に問題があったとか、
いろんなことが考えられるじゃないですか。
これはよく考えるのが、
自動車の事故の保険の話を思い出すんですよね。
外に原因があったのではないのかと。
この時に僕らは
手っ取り早くやるには空想するのが一番いいわけですよ。
だからだんだんこの罪悪感がある。
それでもしつこく自分が悪いのではないだろうかと思うと、
毎回毎回既視燃料を持たなければならないから、
もはやいっそのことですね。
ここで多分何かが起こるんだと思うんですよね。
いっそのこと、自分は真っ白で何も悪くない。
全原因は外側の連中にあるんだということに決定する。
この時にですね、
巨大組織ってものが多分誕生するんだと思うんですよね。
その人の頭の中で。
だっておかしいですもん。
やっぱりその全原因はと言ってもいい。
様々なものがその人を抱えてくる問題ってあるわけですから、
体の病気やら、仕事のミスやら、
子供の頃の失敗、
親から得た屈辱とか、親に怒られて面白くなかったとか、
ありとあらゆるストレスが考えようと思えば、
過去からいくらでも引っ張り出せるじゃないですか。
そして、例えば大学に受験失敗したとか、
就職がうまくいかなかったとか、
いろんなものがあるわけで、
その全原因を外に置くということになったらですね、
一つ一つの原因を一つ一つ全部探し出していくよりはですね、
そうでなくても余裕がないわけだから、
何かでかいものを一個作り出すっていう方が、
やっぱりこう、私だったら合理的だったら
だろうなって思うんですよね。
その時に、例えば財務省かとか、
何でもいいんですよ、そうなってしまえばですね。
あるいはこう、闇の組織がとかでも別に
いいと言えばいいんですよね。
ただそこは、向こうは強そうである。
で、ちょっと普通の人はよく知らないことを知ってそうである。
で、必要ぐらいはありますよね。
で、権力がありそう、強そうと同じか。
それから自分と関係が一応ありそうだと。
例えば財務省とかが出てくるのは多分、
自分にお金ってものがないっていう現実と
深く関わってるからだと思うんですよ。
あるいはそうだな、自治会とかね。
自治会とか時々登場させられてしまうのはやっぱり、
近所の人、全てが私を攻撃してくるみたいな
イメージを持つには、
近所が組織化されている。
だからつまり、みんなが同じように自分に対して
悪意を抱いていると考えるためには、
やっぱりこう、周りというものが
一定の方向を向くように
秩序立てられているっていう考え方を要求するからだと
思いますね。
こういうのが、割と全然ニュートラルな組織に
自責の念と自己防衛のジレンマ
意外と怒りの方向先が向くっていう
事態を招くんだろうなと。
我々はこれを考えたとしてもですね、
めったに考えることはないし、
仮に考えたとしても、
それらに対して攻撃的にはならないんですよ。
ほとんどの場合。
この私だけ年を取ってるみたいだの本でも
そうだったんだけど、このお母さん別に
結局のところ具体的に何かものすごく攻撃的になったか
というとそうではなかったですよね。
犯罪の判決の話でもそうでしたけど
とてもおとなしい。
もともとそうなんだと思うんですよね。
その人はとてもおとなしい人なんですよ。
これが僕がもう一つ考えるところの
その罪悪感を手放すことによって
おそらく何も悪いことは起きないだろうと思う
大きな経験則みたいなものは
この種の人。
穏やかでおとなしく
およそ人を攻撃するのに向かないタイプっていうのは
多い感じがするんです。
だから罪悪感をエスカレートさせやすいところがある
感じがするんですよね。
そんな些細なことでそんなに傷つくものだろうか
っていうようなことも一つ一つ
はめ込む傾向というのかな。
自分が悪いんじゃないかとか、自分が攻撃されていて
周りの人は本当に怒ってるんじゃないだろうか。
だからベストセラーになった
そいつ今頃パフェでも食ってるよ
っていうセリフがあるわけですよ。
そいつ今頃パフェでも食ってるよっていうのは
大概の人は普通にそう思えるんだけど
その種の人はなぜなのかわからないんだけど
ある意味気にやみがちなんですね。
だから相手はパフェが食ってるなどとは夢にも思わないですよ。
そこのところはすごくある種自意識過剰ってこと
つまりだからこれは母子関係における対抗っていうものを
連想させるんですけれども
相手は私のことをいつも注目してるんじゃないだろうかと
割と思いやすい。
で、些細なミスも許してくれない。
つまりなぜか周りの人は心が狭いんですよ。
この辺がある程度感じられるんですよね。
この種の妄想の話というのは。
例えばこのユイちゃんのお母さんはいつも
お父さんの浮気を疑ってるんだけど
本来のお父さんに比べてですね
このユイちゃんのお母さんの中ではかなりお父さんは
出来の悪い人間させられてる気がするんですよね。
浮気ばっかりしてるし
一方で違うと下半身丸出しで近々歩いてるし
これはある種の別の妄想だと僕は思うんですけど
今日はここは立ち入らないことにしますが
とにかくそういう感じに見える。
つまり何が言いたいかというとですね
お母さんはすっごく最初から
多分現実見当がついてる時でも
ものすごく自分を責め続けて
小さくなって小さくなって生きているという感覚
つまり私は本当に身を潜めて生きていないと
みんなが私についてどんくさいとかバカだとか
言って怒り出すに違いないという
独特の感じがあるんですよね。
これはやっぱり小さな子供が迫害されている時の
迫害妄想って感じを抱かせられるんですよね。
相手は巨大であり
強力であり
知恵も力も何でもあって
私には何にもないみたいな
そういう最初からある種の前提条件みたいなものがあって
そこに持ってきてミスとかしたものだから
もう私はこの世の居所がなくなった
ってところで
キャパシティがもともと小さいのに
もともと小さそうじゃないですか
そこに大量の罪悪感を積み上げていくから
崩壊してしまうわけですよね
排出するしかないっていう感じに
多分なっていくのかなって感じを抱きます。
そういう意味で
全くこの種の人が
罪悪感っていうのは手放すのがいいのは
間違いないと思うんですけど
持つと結構つらい
難しいことになるだろうなって感じがするんですよ
欲打つ不安を持ちこたえるっていうのは
よく専門用語では出てくるんですけど
要は打つに慣れる人っていうのは心がある程度
すでに強いっていう意味もあそこには
罪悪感をある程度自分が抱えていっていくことができる
そうしてもすぐに一杯一杯になったりしないから
現実見当を簡単に失ったりはしないんだけど
現実見当というものを手放さざるを得ないほど
素早く罪悪感が
圧倒されていくというのはやっぱり
もともと自分というもの対
外部っていうものに対して
謙虚すぎる人と攻撃への不安
あまりにも自分について
謙虚すぎるところがある感じがします
だからこの種の人たちがよく言われてることなんですけど
これもそんなに犯罪とかするものではないから
昨日私その話もしたつもりなんですよね
反省させると犯罪者になりますの人が言ってる通り
日本人はそもそも
人を殺さないので有名なんだみたいなことを
言い方は悪いけど断りながら書いてましたよね
この種の人が犯罪に走りやすいっていうのは
すごく大きな誤解だと思うんですよ
大体この種の人は
人を攻撃するのには向かないタイプだと
いう感じがします
だからむしろ不運するんですよね
何か自分はもっと強くて悪いものなんだ
っていうものに分けるみたいな感じを
必要とする
そんな感じがちょっとあります
どちらかというともともと
謙虚すぎるっていうのは私のイメージの中に
ちょっとあるんですよね
小さくなるっていうかな
自分をすごく小さく見てしまうという傾向のようなものを
感じるんですよ
だからどうしても周りが
強くて偉そうで怖そうで
自分に対して攻撃的であってもやむを得ないみたいなね
だから罪悪感というものを持たない方がいいと思うんですよ
もともと自分は攻撃されてしょうがないんだみたいな
やや不思議な発想を持ってるのに
そこに罪悪感を追加してしまうと
だからもう攻撃されるのは防ぎようがないというか
攻撃されるのは正当なことだみたいになってしまうじゃないですか
そうなると
このユイちゃんの漫画に出てきたように
スープが黄色いって言われただけでももう泣き出してしまうわけですよね
これは
そのスープが黄色いと言われたということは
妄想じゃないですし
攻められているとこれは妄想ですね
言うのも現実見当完全に見失ってるとは
言い切れないと思うんですけど
そういう誤解は我々普通にしますから
ただ罪悪感というものを進行させた時にですね
このもともとすごく自責の念が強くて
ある意味小さくなって謙虚すぎる感じの
する人というのはつまり全然
何に対して攻撃的でないっていうのが
その人の特徴みたいな人っていうのは
キャパシティを突破して初めて
人が攻撃してくるという感じを抱いて
初めて身を守らなければという
こんなに小さくて弱々しい自分は
かなり頑張って身を守らなければという
でもじゃないけど守りきれない
本当に世の中の人たちは怖いから
そういうニュアンスをちょっとですね
感じさせられるわけですね
だから簡単に言うと
ある意味では刺激しなければいいのにっていう
感じもしなくはないんですよ
刺激しなければいいのにって言っても
それはいろんな話を知ってる人が
あるいはクラウドのケイトさんのように
罪悪感と人の関係
グッドワイブスな人の発想であって
刺激しちゃう人もそりゃいますよね
だから結局またこれも
間の悪いことにというか
状況が良くないことに
ユイちゃんのお母さんの夫っていうのは
この人をやけに刺激するんだよなって感じが
するんですよ
つまりなんかですね
わざわざ刺激する人と一緒になってしまったりする傾向を
ちょっと感じるんですね
これは傾向じゃなくてオカルトなんですけど
なんかそういう人がよくこういう人の周りには
登場してるなって感じはあるんですよ
いずれにしても現実検討を失う時ってのは
僕らは罪悪とセットだってことですね
それは被害妄想なので
そういうふうなものでない限り心は真剣に
現実検討を外しにかかったりしないってことです
被害に遭うからこそ真剣に対応する意味があるわけです
脅迫神経症なんかも
割といい例だと思うんですよ
結局あれ妄想なんだけど
家のドアをちゃんと閉めただろうかという妄想は
仮にそれが妄想だったとしても
確認して損はないって発想が心のどこかにあると思うんですよね
だから家を閉じまりしたという妄想は
あんまり僕ら抱かないんですよね
火はちゃんと消したという妄想はあんまり抱かない
これからやっぱりですね
罪悪化を手放すということによって分別を失うっていうのは
順序としては奇妙なものを感じる
だから同じ理由で
罪悪化を手放すということを進めたからといって
世の中の人が悪くなっていくっていうのは
私には信じられない
意外に悪いということについての妄想を
心に対して強く持ちすぎるってところから
事態がどんどん悪化していく感じがします
最後にですね
私がどうしてこの議論をしょっちゅう聞いてる気がしたかというと
タスクシュートで同じ議論が
タスクシュートだけじゃないですね
タスク管理でもGDDでもみんな同じような懸念を抱くんですよ
罪悪化を手放すと私はタスクを実行できなくなるんです
っていう妄想を持ち始めちゃうんですよね
つまりこれって
罪悪化があるからこそ仕事をするタスクをする
勉強をするっていう意味なんですよ
結局これは何かというと
昨日もその話もちらっと出たんですが
実に僕らは罪悪化に大きな期待を抱いているってことですよ
罪悪化さえ持ってれば
勉強はするタスクは実行する
良い人にもなれる道徳的にもなれる
人を傷つけない犯罪はなくなるだろうし
戦争もなくなるし世の中が平和になるし
善人だらけになる
これは倉園さんがよくおっしゃるのの受け売りになっちゃいますけど
罪悪化を手放すことの意味
とんでもない間違いだろうなって気がします
何がとんでもない間違いだと思うかというと
私も百日チャレンジで最近言ってるんですけど
いかにこの罪悪化を手放すかってことを何度も何度も強調してるんですね
これは私とかJさんの実感なんですよ
ない方が絶対仕事は進むって実感があるんですよ
ところが百日チャレンジでしばしば言及されるのが
タスクシュートでも言及されるのが
罪悪化が募りに募って
初めて僕は動くほど
あるいは私はやっとそれで動けるほど
本当にダメでどうしようもない人間だから
このやっぱりさっき言った前提と似てるんですよね
小さすぎて謙虚すぎる感じがするんですよ
そういうダメな人間だからタスクシュートをギリギリに巻いて
徹底的にこの罪悪化を募らせることによって
ようやく人並みにタスクをすることができるんです
っていう話をされるんです
この話は規模がぐっと平和的にはなったものの
犯罪の話をしてるときとそっくりの構造を持ってるんですね
人に罪悪化を抱かせないと
犯罪者になっちまうぞと
これをタスク管理の世界に持ち込むと
人に罪悪化を抱かせないと
平らな人間が生まれてタスク管理やタスク実行できなくなるぞと
同じ話してる
私たちは
倉園さんの規模に比べるとマイルドで
やや小規模ながらやっぱり同じ話してるんですよ
ここではね
実行できなくなりますと
現にこの話を持ち込まれる方はですね
こういうと申し訳ない気もするんですけど
こういう話を持ち込まれる方は非常に謙虚で
善良な方だとばっかり思うんで
余計言いたくないんですけども
それを持っているがゆえに
タスク実行できなくなってるんですよ
見た感じ
タスク実行できなくなった方がはるかに行動力があるような
とは思うんですよ
それはものすごくジェイマー・スザヒが
罪悪化にまみれにまみれているおかげでは
全然ないんですよね
見た感じ
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