やらざるを得ないこととは
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
8月4日、夜の23分ですね。
ナイター中継なんですね。
まあ、モーニング感は全くないんですが、これを明日の朝ではなく、たぶん今夜中に配信してしまうという感じがしますね。
朝にまで録っておいて、モーニングにだけ合わせるというのもいらないかなって思うので、
別にそんなことをそこまで気にされている方、これ聴いている方にはもういないだろうと勝手に思って録って出しすぐしますね。
たぶんこれをアップするのは21時前ぐらいになるんじゃないかなと思っております。
書き上げ塾の第9期が現在も申し込み募集中でありますので、
よろしければ、本ないしは論文とか小説は本か、なんかを書きたいと思っている方にぜひ参加してみていただくとよろしいんじゃないかと思います。
文章は確実にうまくなると思うんですね。
で、別に今の時代、文章うまくならなくてもいいよねという方もいらっしゃるとは思うんですよ。文章を書くとしてですね。
でも、僕も長らくあんまり、それこそとりあえず書くという感じで、本当とりあえず書いてたんですけど、本なんかはですね。
とりあえず書いているよりは、やっぱり一定の方向性というものを持って書いた方がいいだろうなと思ってたんですよ。
ただ、それを教えてくれる人ってのがですね、いないんですよね。
特に編集さんが広角といいよとは言ってくれないし、構成されはするんです。
で、それを見ながらですね、身を見真似で学習していく感じなんですけど、構成っていうのはいろんな方がいらっしゃるので、常に同じ方針で構成されるようには見えないんですよ。
だから、簡単じゃないんですよね。そういう身を見真似て、そうでなくても。
にもかかわらず、本を書いたタイミングで学習するみたいな感じだったから。
2冊目書く前に比べて、50冊目書いた後、全く上手くならなかったかというと、さすがにそれはないと思うんですけど、方向性のないまま技術をアップしていくみたいな感じだったんで。
それに比べると、やっぱりですね、この書き上げ塾6ヶ月は濃いなというか、半年でここまで変化するってすごいなっていう感じを毎度毎度持つんですよね。
そこを味わってもらうというか、だからライターさんとか本を書く、書いている人はさすがに教室とか行くのは嫌ってのもわからなくはないので、これから書くかもしれないという方にお勧めしたいと。そんな気がします。
あと久しぶりに書くとかね、これもあると思うんですよね。長く本とか書いてないけど、そろそろちょっとKindleを自分で出してみたいとかいう方もお勧めですね。
かつて本書いたことあるけど、本書くって、僕今ちょっとJマスザキさんとの協調に取り組んでるんですけど、少しでも間が空くと、僕間を空けずずっと書いてた姿勢もあるんでしょうけど、間が空くとですね、書きにくくなるんだなっていうのを感じるんですよ。
ほんと数年も空けてないよね、1年ぐらいかと思うんですけど、それでも書かない癖みたいなのがついちゃって、本書くのって結構大変だなっていう風にですね、僕より今Jさんの方が主体となってどんどん進めてくださってるんですけど、そういうこともあるのでですね。
あれですね、筋力が落ちるみたいな、ちょっとそれは比喩としては安易なんですけどね。筋力は落ちるじゃないですか。そして使えばつくけど、それとはちょっと違うような気がするんですよ。
勘どころを忘れるプラス筋力が落ちるみたいな感じで、例えば今多分僕スキー行くと、初心者コースを初心者の人よりははるかにうまくは滑れると思うんですけど、もう急にはですね、できないこといっぱいあるんですよね。
頭ではやり方を完全に理解していることであっても、分かんなくなっているというか、体はもうそれを受け付けなくなっていることがきっとあると思うんですよ。それとちょっと似たことが起こるんだなって感じは、それとはでもやっぱ違うな、どっちかちょっと山、僕経験ないんですけど山登りが近いかもしれないと思います。
本を書くって作業は山登りの喜びに似たものがあるような気がしますね。僕山って全然何が楽しくてあんな大変そうなことするんだろうっていう口なんですけど、本もきっとそうで、数冊やってみるとですね、多分みんな嫌になっちゃうと思うんですよ、本を書くって活動は。
一冊は書いてみたいみたいな方はいっぱいいらっしゃると思うんですけど、数冊耐えられるって人僕は多くないだろうな、この作業って感じがします。夢の印税生活という言葉がありますけど、あれももう今は過去のものとなりつつあって、本当にこう真剣にやれば居酒屋のバイトの方が明らかに収入、月単位で言えば多いです。
私なんか大学の頃、最終的にホールスタッフ、副スタッフみたいなやつなんですけど、6ヶ月で本によっては本一冊より明らかに稼いでましたからね、そんな大金じゃないですよ。
僕は一晩中居酒屋にいるとか嫌だったんで、結構早く上がっちゃうくらいでしたが、それでもそうなりますからね。本当になかなか夢っていうのは、売れた人はですね、ものすごく売れれば夢のまさにそうなんです。そういうことは居酒屋で仕事をしていてもちょっと起こらないですよね。
そんな感じで第9期のかきあげ塾を修中です。ちょっと筋トレってのはおかしいな。やっぱり山登りトレーニングみたいに、登山のトレーニングみたいなものだと思っていただいて、なんかその手探りで登山していた登山家が、登山ってこうやって登ればいいのねっていうのを知ったみたいなところが僕の中ではあるんですね。そういうこともあるよっていうお話。
今日はですね、先日東京ライファック研究会で喋ったやらざるを得ないことって話がちょいちょい話題に登らせてくださってるっていうだけで、もうなんかこう行為で話題に取り上げてくれてるのかなと思うんだけど、これについてちょっとですね、話題になってるついでにホッとなうちにですね、僕はこの話題もなんていうのかな。
別にあまり面白いところもないかなと正直思わなくもなくて、トラケンだけで完結すればいいと思ってたんですけど、割と話題にしてくださっていて、だったらちょっと少しフォローしておこうかと。
フォローというか改めてちょっと喋ってみようかなと思ったわけですね。
特になんてことはないんですけどね。
ツイッターで取り上げられていた話、ノートでも書いたんですけど、やらざるを得ないことっていうのはやりたいこととか義務っていう観念とはあんまり関係ないと僕は思います。
例えば会社でやらざるを得ないことばっかりやっていたら怒られるっていうのは怒られてしまうんじゃないかなみたいなそういうツイートだったと思うんですけど、怒られるってことがまずやらざるを得ないにかかってくると思うんですね。
怒られるだけならば、いや怒られたって全然やらないよっていう人もいるとは思いますよ。
だからやらざるを得ないかどうかというのは客観的には決まらないんですよ。
客観的に決まる部分もあるんでしょうけども、どうしたって主観的な部分が大きいんですよ。
つまりやらざるを得ないと思うかどうかっていうのは、大体主観で決まるよっていうことです、最終的には。
怒られるからやらざるを得ないかどうかは、怒られることをどのくらい重く受け止めるかにやっぱりよるじゃないですか。
怒られても全然構わないなって人にとっては、それは怒られるってだけじゃやらざるを得ないことにはなりませんが、
いや怒られたくないなって思うんだったら、それはやらざるを得ないことになりますよね。
つまりその場合、怒られたくないからやらざるを得ないんだよっていう場合、やりたさはないですよね。
だからやらざるを得ないことがやりたいかどうかとか、純粋な思いから出てるかどうかっていう話ではないんですよ、これは。
やらざるを得ないというのは、その人がそれをやらざるを得ないなと感じるということで、好きか嫌いかは両方含み得ると思いますね。
ただ、何らかの理由で嫌いなものはですね、やらざるを得ないわけがあり、好きなものは当然やらざるを得ないほど好きだってことがあって、
どっちでもないものも多分あると思うんですよ。
例えば私はお風呂に入るのはやらざるを得ないなって思ってますけど、大好きかって言われると、温泉行くとかは別ですが、
客観性と主観性
いや、風呂好きで好きでしょうがないってほど好きで入ってるわけではないですが、
最近暑いですよね、こうも暑いと本当お風呂入りたくないなと思うけど、思う日もありますが、でもやっぱりお風呂入るんですよ、毎日。
だからこれは僕の中ではやらざるを得ないんですけど、それは大好きだからというわけではないし、
入らないと誰かに怒られるからというわけでもないんですよ、僕は別に。
入らないと奥さんが怒るから入ってますってわけでは全然ない。
だから入らなくても怒られないですけど、多分、でも入りますね。
だからこれはやらざるを得ないんですよ。
つまり、やりたいかやりたくないかということはまた別だってことですね。
そして、好きか嫌いかもまた別です。
ただ、やらざるを得ないと思っていることをやっておくと、例えば怒られなくなるかもしれないし、
いくつかのことはね、多分もう避けようがないからそれをやるっていうことになりますよね。
例えば、絶対にって言われるんだったらばですよ、主観性がほぼ入らないって意味なら、
呼吸をするとかはやらざるを得ないでしょう、これは。
たとえですね、既視燃料が強い方でもこれはやらざるを得ないと思うんですよね。
もう本当に生きていくの嫌だから呼吸もやめましたってことはできないと僕は思うんで、
呼吸なんかもやらざるを得ないですよ、客観的に見ても。
タスク管理に載せるかどうかっていうと載せやしませんけど、やめる瞬間がないですから。
でも、やらざるを得ないとは思うんですよね。
だから、やらざるを得ないというのは客観的に決まってくる部分もありますし、
主観というものが強く作用するケースももちろんあります。
そこで、何でこれをタスク管理で載せっていうか、僕はこれタスク管理でこれだけ載せとけって言ったのが、
つまりトラケンって言ったことですけど、これを先にというのかな、
滞りなくやっておくっていうのが、僕は思うに健康にっていうのか健全にっていうのか分かりませんが、
タスクを回していく上でベースになるし、ある程度目標にもなるというふうに思うんですよ。
これね、何が言いたいかというと、何て言えばいいんですかね、
トラケンで言ったことと変わりありませんけど、東京ライファク研究会八丁堀で言ったことと同じですが、
やれなくなることもあるってことですよ。
やらざるを得ないって言ったって。
呼吸はやるでしょうけど、何もかも客観的に決まってるわけじゃないっていうのは、
一つの大事なポイントなんですよ。
やる気力の維持
やらざるを得ないことがいつもやれるのかっていうと、そんなことはないんですよ。
研究会のところでも言いましたが、
やらざるを得ないことを全部やれてるっていうのは、かなり幸せな状態だと思う必要、
必要はないかもしれないけど、思っといた方がいいと思うんですよね。
例えば、あそこでも取り上げましたけど、睡眠はやらざるを得ないことですよ。
寝ないと人は死ぬんでね。というか寝ちゃうんですけどね。
でも世の中には不眠で苦しむ人は山ほどいて、
だからこそ睡眠導入剤というものが結構安価に入手できる時代になってきているわけですよ。
つまり、やらざるを得ないからいつでもできるぜって思うのは、
かなりちょっと僕は安易かなって思うんですね。
僕はそうはならないですが、
このぐらいになってくると食欲がなくなるって人いっぱいいらっしゃいますよね。
私、大学時代のゼミの友達がこれで、
ほんとね、見ていてちょっと泣きそうになるぐらいっていうかな。
ほんとかわいそうだなっていうか、
このままいったらこの人死んじゃうんじゃないかなっていうぐらい、
食べ物が喉を通らなくなるんですよ、夏バテで。
夏バテってやつなんですよね。
なんかちょっと独特の方で、
すごい真面目で頭が切れて女の子にもモテるみたいな。
いい大学生だったんですよね。
僕なんかがすごい裏やん。
だけど夏になると目も当てられなくなるぐらい痩せていくんですよ、ほんとに。
今なんか大変なんじゃないかなと思うんですよね。
わかんないですけどね。
難民化みたいな感じになっちゃうんですよね。
朝から晩まで全く食欲がなくなるっていう感じで。
こうなるんですよ、人ってのはね。
食欲ってのはある人にとってはあって当たり前のものだから、
なくなるっていうのがなかなかイメージできないんですけど、
僕もそうなんだけど。
なくなるんですよね。
夏痩せする人っていっぱいいらっしゃいますよね。
僕はむしろ夏太るぐらいな感じの人間なんで。
こういうのはわかんないんだけど、
そうなるんですよ。
だから、やらざるを得ないからいつでもできるとか、
やらざるを得ないことをやる気力はなくならないということはありえません。
やらざるを得ないことの客観的理解
やらざるを得ないこともできなくなるし、
その意欲も湧かなくなるんですよ。
やらざるを得ないということを僕がタスク管理でまず載せて、
しかもできればその他のことは載せなくていいぐらいにしておくというのが、
どうして僕が必要だとそれを感じているかというと、
やらざるを得ないと一般的に思われている、
あるいは自分で自然と信じられることが普通にやれていれば、
あとのことはだいたいなんとかなるからなんですね。
これをいじり始めると、
やらざるを得ないことなのにやらずに済ませようとか、
減らそうとか、やらざるを得ないことなんかやってられないとか、
もう既に相当よくわからないそうなんだけど、
そういうことをしていると何が何だかわからなくなるというかですね、
非常に一番簡単に言ってしまえば、
それによって何かがうまくいかなくなる可能性はあっても、
それによって何かがうまくいくようになる可能性は低いと思うんですよね。
だから僕は睡眠を削るとか食事を削るとか、
なるべく避けたほうがいいと思うんですよ。
で、睡眠とか食事は一般的な失礼としてあげているだけであって、
その人その人、タスクシュートってそうなんですけど、
例えば僕とかZoeさんとか大橋さんもそうだと思うんですけど、
例えばこのお話をしてくださったZoeさんって方ね、
タスクシュートを見るとわかるんですけど、
やらざるを得ないことだけが載っていたとしても、
全くお互いに似ても似つかないものになるんですよね。
ここがすごい面白いんですよ。
言ってることが食事だ睡眠だお風呂だっていう話になってくると、
そんなんじゃみんな誰にも同じになるんじゃないのかって思われそうなもんじゃないですか。
そうは絶対ならないんですよところが。
ここが客観的には決まらないっていう部分で、
寝る時間も違うし、寝る長さも違う。
食事に用意したい時間も違うしで、
ここが一人一人全然違うっていうのを、
私は立ち話上ですね恵まれていて、
いろんな方のを見せてもらっていて、
やらざるを得ないタスクリストというものが、
誰一人として被らないっていう事実があるわけですね。
当たり前といえば当たり前なんですが、
この事実を僕らは存在軽く見てるなって思うんですよ。
やらざるを得ないことって言ってしまえば、
それは客観的に決まるんじゃないのかって感じがしちゃうと思うんですよね。
でもこれは決して客観的には決まらないんですね。
その人特有のものがあり、つまり、
言うならばその人ならではの偏りがあるし、
その人ならではの思い込みもあるんですよ。
だからこれは絶対やらざるを得ないと、
その人には思い込めていて、
ほとんどそれは客観的に決まる自明のことなんだけれども、
他の人が見ると、これすぐにでもやめればいいんじゃないの?
っていうことになっちゃうんですよ。
ここを大事にしなかったら何を大事にするのかなっていう風に、
私なんかは思うんですよね。
私の例えばやらざるを得ないこととして、
朝大谷翔平の席をチェックするとかがあるんだけど、
これは他の人から見ればやらなきゃいいじゃん、
ぐらいの感じだと思うんですけど、
僕は絶対これやるんですね。
こういうのを大事にしないんだったら、
何を大事に生きていけばいいんだろうって感じがするんですよ。
こういうのは楽しみばかりではないですよ。
例えば、朝の8時までには、
特に可燃ごみはこの季節ですから絶対出したい。
やらざるを得ないことの主観性
これもやらざるを得ないことですよ。
好きで出してるとか、好きでやりたいってこれをゴミ出ししてるとか、
生ゴミ縛って出すとか、
そういうことはないですけど、
やっぱりこれはやらざるを得ないんですよね。
だから、やらざるを得ないっていうのはこういう柄を指すんですよ。
これも僕は非常に大事だと思うんですよ。
うちゴミ屋敷になっちゃいますからね、すぐね。
全然快適度が変わってくるというか、
到底認められないでしょうね。
うちの家族、特にうちの奥様の観点からすれば、
朝8時までにゴミを出さずに1週間放置するとか、
ナンセンスだと思う。
でもこれは人によるじゃないですか。
いやいや、そんなの全然OKでしょう。
庭にでも出しとけばいいじゃんという人だって、
庭虫だらけになるけどいいじゃん別にっていう人はいいと思うんですよ。
それは、それによって致命的なことは起こらないですからね。
でも、多分ダメだっていう人にとっては絶対ダメだと思うんですね。
ここには、やらざるを得ないという言葉の、
言葉自体の意味は同じかもしれないけれども、
出来事に対する観点とか視点とか見えているもの、
その価値みたいなものについての考え方が、
感じ方がですね、
全然違うということですよね。
そしてそれはとても大事なことだと私は思うんですよね。
それこそがその人をその人らしくしていると言いますか、
こういう言い方になってしまうんですけど、
アイデンティティって言うんですかね。
ちょっとそれとも違うんですけれども、
そういうようなものと深く関わっていると思うんですね。
だからそれを大事にしてあげなかったら、
多分、例えば、
うちの奥さんのような人にしてみればですね、
ゴミ袋5袋も6袋も悪臭を放って庭に、
所狭しといてありますみたいな状態になったらですね、
いろんなことに差し障ってくるんですよ。
だったら出せばいいじゃないですか。
やらざるを得ないことだと思って出しておけば、
その人の人生は全然違った、
おそらくはとても良い展開を見せてくるわけですよね。
これが僕はタスクシュートだと思っているんですよ。
やらざるを得ないことばっかりやってて、
どうするんですかっていうのはですね、
そういう観点であらっぽいなって感じがするんですよね。
その人が、
目の前にいつも迫ってくる細かな風景とか、
細かな因果関係みたいなものがあって、
その細かいところが僕らの生活というようなもの、
生活だな、人生でもいいんですけどね、
ライフに深く刺さってくると言いますか、
影響を与えてくると言いますか、
あるいは非常にそれが良くしてくれると言いますか、
なんでもいいんですけど、
やらざるを得ないことばっかりやってて、
それを軽んじちゃいけないって思いますね。
軽んじないためにもやっぱりその人の
何を自分はやらざるを得ないと思っているのかというのを、
やらざるを得ないことの変化
真剣に見ていった方がいいと思うんですよ。
やらざるを得ないことばっかりって言う前にですね、
やらざるを得ないことってのはやっぱりその人が、
意識でも無意識でもですね、
高く評価しながら、
やらざるを得ないことばっかりって言う前にですね、
意識でも無意識でもですね、
高く評価している行動なんですよ。
それはどこに現れるかというとログに現れるっていうのが、
橋池夫さんの考え方だと僕は思ってるんですね。
確かにそれはログに現れる。
ログにそれが全て完璧に現れるわけじゃないんだけど、
少なくともログにその一端は確実に現れてくる。
ログってのはつまりやったことってことですね。
その人が何を大事に思っているのかは、
その人のやったことの中に現れてくる。
ただこれはですね、最近僕の考えでは、
やらざるを得ないことはしかし変化するんです。
これは変化するのは自明ですよね。
思い出が一番分かりやすいと思うんで、
よく挙げるんですよね。
これはやらざるを得ない、もう絶対今やらないとまずいよっていう時と、
どうでもいい時ってあるじゃないですか。
つまり刻々と変化するんですよ、やらざるを得ないことってのは。
いつもいつも同じではないんですね。
だからやっぱり主観に尋ねるしかないんです。
ある程度客観的に聞くこともできるんだけれども、
ほとんどのやらざるを得ないことは実際は主観的に決まるんですね。
明日台風が来る日なのか、
それとも明日は38度になるのかで、
何をやらざるを得ないかは大きく変わってきますよ。
それはありとあらゆるところで出てくるんですよ。
だからログを見ておけば、
その人がやらざるを得ないと思っていることが自明になるってわけじゃないんですね。
例えば5年、6年前なら私は毎週テニスに行くのは、
これはもう絶対やらざるを得ないと。
奥さんが何を言おうとやらざるを得ないし、
毎月の出費が2万数千円になったとしてもやらざるを得ないと思ってたんだけど、
今やってないんですよ。
もう全然テニスとかやらざるを得なくもなんともなくて、
もう一生やらなくていいやみたいに思ってるんですよ。
そういうふうに人は変わるんですね。
だから何をやらざるを得ないかと思うかということについては、
ログを見て自明にわかるときと、
全然わからないときがあります。
そして直近のログを見るほうが、
昔のログを見るよりは多少とも役に立つと言えるとは思いますね。
ただ、
昨日一昨日と今日は違うんで、
やっぱり今日やらざるを得なかったことと、
昨日以前のやらざるを得なかったことは微妙にズレがありまして、
そういうズレのことを考えてみると、
やっぱりやらざるを得ないというのは、
直近のログをさらっと眺めるというのは僕はやるんですけれども、
やらない日も多いですけどね。
今何がしたいかっていう、
それはだいたい自明のことが多いんですよね。
例えば今日あたりですと、
僕ちょっと頭冷やさないとまずいなとか、
やらざるを得ないんですよね。
やらないと熱中症になっちゃうんですよ。
ここまで来るとそうなりますよね。
特に2階にいるときは冷たい水は絶対用意していく。
これもやらざるを得ないんですよ。
でもこれだって熱中症になったっていいでしょっていう人は、
あんまり良くないと僕は思うんだけどね。
持っていくっていうのはやらざるを得ないことにはならないですよね。
だからやっぱりこういうのが、
それ以上に主観的であるということが言えると思うんですね。
自分にとってやらざるを得ないことは何なのかっていうのは、
やっぱりその人その人にとって違うし、
その時その時によっても違うんで、
やっぱりその人の内心の、
今ここに尋ねるより他ないんですよ。
それを、
大筋それが、
向上するであろうことがリストに載っかれて、
それを大体優先的にやっていく。
だからやらざるを得ないことばっかりやってて、
やりたいことはどうなるのかって問いが、
僕の中ではそれはどういう意味なんだろうなっていう、
やりたいことである場合もあるだろうし、
やりたくないことである場合もあります。
ただ切実になってくればくるほど、
やりたいことであるとは思うんですよね。
トイレとかそうだし、食べるとかもそうだ。
涼むとかもそうですね。
切実になればなるほど、
いやもう今涼むしかないでしょっていう状態になったら、
涼むことがやりたくはないのかみたいな話をしても、
何の意味もない。
この何の意味もない感が僕の中では大事です。
何かこうですね、意識、自意識ね。
自意識、肉体、無意識が一致して同じ方向を向くんですよ。
こういう時には。
それ本当にやりたいのかどうかって、
問い自体が虚しいものに感じる。
これもですね、言ってると難しく解釈されることも多いみたいなんだけど、
でも簡単で、
ぎゅうぎゅうの電車の中でトイレしたくてしょうがなくなったら、
意識、無意識、肉体とも同じ方向を向くでしょ。
やりたいことは何ですかって、
トイレに行くことに決まってるじゃないですか。
本当にやりたいのかなとかって問わないと思うんですよ。
自分の本当にやりたいことは、
例えばミッションでは、
ここでやるのは英語の勉強だとか思わないんですよ。
これは切実になればなるほどね。
やらざるを得ないことの重要性
僕は意識、無意識、肉体のおおむね3者がですね、
こぞって同じ方向を向いてやりたいと決まったことは、
もはややらざるを得ないに決まっていてですね、
他との比較検討がナンセンスになっていくんですよ。
そういうものは実にいっぱい。
意外といっぱいあるんですよ。
例えばさっきのゴミ捨てがそうです。
やらなくても死なないけれども、
やっぱりやらざるを得ないんですね。
お風呂が私にとってはそうで、やっぱりやらざるを得ない。
こうやってみると、かなり1日の相当の時間は、
この意識と無意識と肉体が、
3者が同じ方向を強く指し示すのが、
しょっちゅう登場してくるんですよ。
私は、今ここっていうのが難しいっていうのは、
実はちょっと不思議だって思うんですよね。
今ここが難しいっていうのは、
相当余裕のある人生を送っている方で、
やっぱりですね、お金は必要でしょ。
だからお金がある程度いただける仕事に関わることは、
やらざるを得ないじゃないですか。
そうやって食事、仕事、お風呂、睡眠って取っていくと、
23日の仕事に関わることは、
23時間付近まで行くんですよね。
この3者同じ方向をほぼ向くことで。
で、その他の時間をやりたいことをやったらいいんですよ。
そんな24時間中の9割以上をやらざるを得ないことで、
実質に回っているのに、
あとの1時間をですね、
自己計算とかやってられないっていうのが、
僕の感じるところなんですよ。
そういうのが大事なんですよね。
あとはもう好きにするしかないでしょうと。
それこそ好きなようにゲームするなり、
漫画読むなり、
好きなように過ごすことがやらざるを得ないんですよ。
で、現にそうなるから、
漫画を読んでしまいましたとか、
ネットを見まくっちゃいましたっていうのが記録に残ると。
その記録に残ったそれこそ、
まさにやらざるを得ないことだったんですよ。
だから私は、
その記録に残ったやらざるを得なかったことをですね、
やっぱり同じ、途中を喋ったのと全く同じ理由で、
やらざるを得ないことのバランスと健全さ
安易に軽んじてはいけないと思うんですね。
そうするとバランス崩すと言いますか、
ある種の健全さを失ってしまう。
それはやっぱりちょうどですね、
市民時間削ったり、
家族との会話を削ってまで何か全然違う、
やらざるを得なくも何ともないことを
無理やり導入することによって、
何かおかしな方向を向かざるを得なくなるみたいなね、
そういう事態を引き起こすのではないかと思うんですね。
ちょっとまた臨床心理的な話になると、
多くの精神的にバランスを崩す人というのはですね、
一般的には自然と満たされていく
やらざるを得ないことというものが
あるんですね。
満たされていくやらざるを得ないことというものがあるんですよ。
食べるとか寝るとかそういう目に見える部分ではない部分での
やらざるを得ないこと。
満たさなければ満たすのが当然であり、
満たしたいと思うのが当たり前のことを長らくほったらかしにするとか、
わざわざそこにロックをかけるということを長くやってくると、
精神的な健全を失うということが起こるんですね。
例えばそれがよくこの番組でも話題にする
甘えるということなんですよ。
我々は甘えるということを
やらざるを得ないようにできているんですよ。
そういうのがドイ・タケオさんの本編なんだけど。
だから例えばですね、
もうちょっとわかりやすい例で言うと、ほとんどの人は
お母さんが好きなんですよ。
お母さんが好きになるというのは自然の成り行きであって、
わざわざそれがひっくり返ったり差し止められたり、
何らかの理由によってずっと好きであることを
拒否されたりするということになってくると、
おかしなことが起きてくるんですね。
それはちょうど私たちがタンパク質を取るみたいなのは、
当然タンパク質を取るぞなんて思わなくても、
タンパク質を取るというのは自然のことで、
何らかの理由で食事をとっても食事をとっても
タンパク質だけは取れないようになっていましたとか、
そういう特殊な状況ってありますよね、戦争とかで。
そういうことが起こると当然体のどこかに
変調を生み出すじゃないですか。
それと全く同じなんですね、甘えを満たすみたいなのは。
だから甘えが満たせない状態が永続的に続くと、
やらざるを得ないことと時間の使い方
やっぱり大きな精神のバランスを崩すような事態が起きると。
つまりこれを言い換えると、
甘えは満たさざるを得ないものなんですよ。
だからこの甘えを満たすみたいな時間ってのがですね、
タスク管理では表現しきれないというかできないですね。
7時甘えを満たすとかそういうことはあり得ないわけですよ。
だからその代わりにどうなっているかというとですね、
やらざるを得ないことによって、
つまり食べているうちに普通はタンパク質とか塩分とかは
必要な分だけ入るようになっているわけじゃないですか。
同じようにやらざるを得ないことを、
つまりついついやってしまっているごく自然の状態で
自分の身体が満たされるようになっているわけですね。
そういう状態で、
つまりついついやってしまっているごく自然の行為というものを
やっている中で、
心にとって必要な栄養バランスみたいな言い方をすればね、
そういうものは補充されるようになっているんですね。
だから東京ライフ研究会の時に、
私はここまで細かい説明はしてませんけれども、
やらざるを得ないことだけをやっていけば、
おおよそ幸せで健康で平穏な暮らしというものが
満たされるようになっていますっていう風に
言っちゃったわけですよ。
その上で達成したい野望なりがあるのであれば、
そのために時間をですね、
おそらくそれは1時間に満たない時間だけど、
1日の中でやっていったらいいんじゃないでしょうかって
話をしているんですね。
僕はこの話にそんなにキーなところないと思うんですよね。
だから、やらざるを得ないことだけやっていて、
どうなるんだっていうのは、
6大栄養素だけ食事で摂っていて、
どうするんだっていうのと同じくらい、
なぜそういう風になるんだろうな、
今の時代はっていう風な感じが、
そういうのをやめて、
食事の時に今までの摂る鉄分の量を
数倍にして、
他の栄養は犠牲にした方がいいんだみたいな話を
聞かされているような気持ちに時々なるわけですよ。
やらざるを得ないことをしているっていうのは、
平凡だって感じがするんだろうと思うんですけどね。
そういうことではないような気がするんですよね。
だいたいこの平凡っていうのも、
なんとなくこうやっぱり、
ざっくりした見方だなって感じがします。
平凡は、
日本の人口1億いますが、
1億通りの平凡があって、
一つ一つは相当全然全く違うんですよ。
だから、似ても似つかないものの
統括して平均的であり、
自分はそれを遥かに超えている人生を送らないと、
なんかこう、ひどくせっかくの人生、
損をしているんじゃないだろうかみたいな、
そういう発想がやっぱり
つきまとうんだろうな。
でもだからといって、
タンパク質の量を10倍にするとかをやるっていうのは、
それによってですね、
急にすごいアスリートになれるっていうのとも違うような感じがするんですよね。
やっぱり、
やらざるを得ないことっていうのは、やらざるを得ないんですよ。
それをその人その人の
やらざるを得ないことが違うというのについて、
残念に思っててもしょうがないと思うんですよね。
ある種の人にとってのやらざるを得ないこととの方が、
立派で頼もしくて好ましく見えるのかもしれませんけれども、
それは自分向きではないと思うんですね。
あともう一つ、
やらざるを得ないことが、
さっき言ったようにですね、
24時間のうち9割以上を占めるのであればですね、
それぞれのやらざるを得ないことを、
これがクラドノさんがGoodbiosでよく言うところの
思いってやつなんですが、
やらざるを得ないことなのに、
何かそこを空虚にやってしまう。
東京オライファン研究会の時に僕がこれを精算と呼んだんですけど、
精算性じゃないですよってわざわざ断ってみたんですけどね。
精算。
つまり、精算というものを
確かにそういう手応えみたいなものを
得られる形だなっていう
ある種の納得を持って
どれもやったほうがいいんじゃないかと思うんですよね。
これはいろんな言い方をしてますけど、
Goodbiosでもじっくり丁寧にとかゆっくり丁寧にとか
言う言い方もしてますけど、
全部そういう話ですね。
つまり、やらざるを得ないことを
最短で済ませるとか、
やっつけるとか、
どうかと思うんですよ。
ほとんどやらざるを得ないことで僕らは時間を費やすんですね。
やらざるを得ないことの種類だけ増やしても
しょうがないような気がするんですね。
だから、種類は多くても少なくても
それはその人その人なので、
さっきも言ったようにその人その人なんですけど、
その人その人であるならばなおのこと、
自分という人間にとってやらざるを得ないことで
ほとんどの人生を過ごすんですから、
それは納得のいくようにその時間を
時間を費やした方がよろしいんじゃないでしょうかと。
これはゆけい直せるかもしれないんだけど、
そう思うんですよね。
やらざるを得ないことは2つの方向からしか基本来ないんですよ。
1つは自分の肉体から、
もう1つが身近な周りの人からなんですよ。
これはどちらもですね、
最限尊重して実行した方がいいと思うんですよね。
ここの95%を存在にやっておいて、
なけなしの時間を確保して、
その残りの時間で必ずしもやらなくていいことを
一生懸命やるっていうのは、
私はバランスがおかしいんじゃないかなっていう
ある種の転倒感を感じるんですよね。
ひっくり返っちゃってるんじゃないかという感じがするんです。
食事とかお風呂とか、
そういう短い時間で雑に済ませて仕事もやって、
そして代わりに確保した自分の時間を
多いに有意義にしようっていうのは
一時流行ったんですけどね、
ライフハックではそういう考え方が。
学校とかでもそういう考え方がなぜか推奨されてた時代があったんですけど、
すごい変だなって思うんですよね。
どうしたって減らそうとしてる時間の方が
割合として圧倒的な上にですね、
減らそうとしてる時間で生活の大半賄っているわけですから、
減らそうとしてる時間で仕事を得て、
お金を得て、
生活の基本のことをほとんどやってるわけじゃないですか。
家事も食事も睡眠も、
およそ僕らが生きていく上で、
だからやらざるを得ないんだけど、
必要不可欠のことばっかりなんですよ。
そこをざっくり減らして雑にやり、
雑にするっていうことをやっても、
トータルでは少しも豊かになった感じがしないじゃないですか。
僕はしないんですよね。
だからやらざるを得ないことというのを優先した方が、
そっちの方の方が上だとまでは言いませんけれども、
思いっていうのはそういう意味にとらえて、
私はいるんですよ。
結局だから仕事の時間で何かを生産するというところで、
自分が納得し、
しかもその仕事が納得いくようなものにする、
ということを望むならば、
依頼してきた人がやっぱり満足するというのを、
ファーストに考えるよりは仕方ないと思うんですよね。
その他のやり方は成立しないような気がするんですね。
私がJさんに依頼されたことは、
まずJさんが満足するようにやらなかったら、
始まらないだろうと思いますし、
100日チャレンジに参加してくださった方が、
やらざるを得ないことを優先的に
この仕事を100日チャレンジに参加している人、
ファーストで考えるのが普通じゃないですか。
他の考え方、これを最短で済ませるということが、
仮にできたとして、
そうして僕が幸せになるというのは、
むしろすごく特殊な方法論だろうな、
という感じがするんですよ。
その他の考え方は、
最短で済ませるということが、
特殊な方法論だろうな、という感じがするんですよ。
そんなことをしなくても、
うまく過ごせると思うんですよね。
それだけの時間を費やす、
高校生として仕事というものに、
優先的に時間を回しても、
そんなに嫌なことにならないんじゃないだろうか、
というふうに、
今は思うということですね。
だから、やりたいことがやりたいから、
それ以外の時間を圧縮したいというのを、
単純に考えると、なんだか妥当な感じがするんですけど、
それが、
そうしてまでやりたい、
というようなことになり得るんだろうか、
みたいな感じがします。
やらなくてもいいことを、
必ずしも他の人が望むわけでもないことで、
しかも自分の身体が望むことでもないことを、
そこまで優先しなければならないようなことって、
何があるんだろうな、
という感じはやっぱりしますよね。
だから僕は、
その時間を優先的に増やすという努力は、
いらないんじゃないのかな、
その時間をゼロにしなければならないということは、
ないと思うんですけど、
そういう感じのことっていくらもあるような気がします。
そんなにそんなに、
食事をゆっくり丁寧にとか言ったって、
食事5時間とかかかるわけじゃないじゃないですか。
お風呂に至ってはこの季節ですから、
ゆっくり丁寧にしても限度ってものがあるので、
だから限度までいかないところでやめてしまったとして、
24時間足らないんですよね、
面白いことにやらざるを得ないことだけで、
100%がなくなりましたってことは、
僕の経験ではタスクシュートでは、
そう滅多に起こることではないんですよ。
だから時間というものは心配いらないんじゃないかな、
というふうに最近はつくづく思うんですね。
だという中では、
仕事が仮にやっててすごく楽しいとか、
心がいつも弾むってことには多分ならないと思うんだけれども、
好きになれないけれども、
好きになれないけれども、
やらざるを得ないというところはですね、
何らかの形で、
生産性化物を受け取る人と、
自分の生産したもの、
したもの、
ファーストで考えて、
必要な時間は十分にかけるという、
言っているとあまりですね、
なるほどこれは平凡で地味に聞こえるかもな、
と思うんですけれども、
そんなので人生楽しくならないよな、
という感じを受けられるかもしれませんが、
少なくとも無理はないという感じがするんですよね。
そして毎日やることなので、
無理がないというのは実に大事なことなんですよ。
毎日無理する。
1日や2日無理するというのとは違うんですよ。
やらざるを得ないところで無理する。
ゆっくり丁寧に必要な時間をかけるの反対は、
無理をせず必要な時間をかける
無理やり早くやるということになるじゃないですか。
ご飯かごもとか、
そういうことを毎日やっているとですね、
やはり無理がきますよね。
やらざるを得ないことを無理して、
何らかの形で縮めたり歪めたりするというのを、
毎日続けていて、
その過去をしたところで、
上手いことを自分の人生が開けてくる感じしないかないですかね。
そういうことですね。
だから私は、
何でもいいんですけど、
確か管理においては、やらざるを得ないことファーストで、
やらざるを得ないと自分が感じたことは、
全部やらざるを得ないことだと考えてファーストで、
時間が足りないなと思ったらですね、
自分の身体から訴えてこないことと、
他人が要求してこないことをピックアップしてみて、
それをやらざるを得ないのかという問いを立ててみるのが、
いいんじゃないかと。
これはいつも通りの、それこそ振り返し言っている、
地味に聞こえるかもしれない結論ですけど、
私はそう考えますって思うんですね。