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2023-11-18 23:29

シュンとならないための試行錯誤をしていた頃【GMV 881】

罰せられるのが怖かった。

サマリー

彼/彼女が試行錯誤している頃の話です。恐れと不安を手放すことが大切であると学んでいます。彼/彼女が試行錯誤している時の苦々しさの中には、しおらしい態度を取ることが大事だと感じ、自分の心を引っ張られないようにするために反省しませんでした。

恐れと不安の克服
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
11月18日土曜日、夜20時56分ですね。これは取って出ししようかなと思っていて、しかもショートで収めたいと思っているんだけど、どうなるかはちょっとわからないというものですね。
本日ですね、3ヶ月チャレンジという、私で単独で主催させてもらっているもの、オンラインコミュニティなのかな、3ヶ月限定のコミュニティをセットして、
グループでその時々で現れる最もホットになるトピックが、どちらかというと自然に上がってくるのを期待しているんですね、最近は。
この中でグループ全体で3ヶ月でチャレンジしていきましょうという、だんだんそういう流れになりつつあるんだけど、最初はそうじゃなかったんですけどね。
先送りをなくすとか、タスクシュートで仕事を進めていくとかでも全然いいと思うんですけど、
今やっているのは自分と他人のケアが、私の中でのトピックに題材しているのが、自分と他人を適切に仕事場でケアできるようになるというののチャレンジ。
これを表看板にしてもいいかなとは思っているんですけど、今のところまだそういうはっきりしたものがあるわけじゃない中で、だんだんそういうトピックが浮かび上がってきています。
これ本当に参加メンバー次第で変えていってもいいというのが、最近私がよく思うところなんですね。
今の参加いただいている方ではここがポイントになっているかなと私が思っておりまして、そこで私がそれが最近できつつある話をさせていただいているんですけど、
できなかったときどうだったのかの話を求められているようなので、ちょっとそれを思い出しながら話しようと思っているんです。
ただこれはただの失敗談になりますので、失敗談ってこともないんだけど、試行錯誤の過程そのものになりますので、
どこをどうするべきかという話には、最後にそれを付け加えてもいいんですけど、とりあえずそういう話をしたいかなと思います。
家族に関する試行錯誤
私も散々このポッドキャストで申し上げているんですけど、私が何と言っても自分と人の罪悪感に対して懲罰的な態度に出てしまって、
簡単に言うと怒るってことですね。か、ないしはビクビクと恐れて自分を懲罰的にして、これはもう抑鬱的になるってことなんだけど、
どっちかしか選択できずにすっごい悶々としていた時代、つまり喧嘩をするか喧嘩を我慢して苦しくなるかのどっちかしか選択できないと感じていた時の話になると思うんですよ。
これはですね、ある意味家族だと辛い面もあります。家族ってずっと一緒におりますからね。
同時にでも仕事の関係者だと厳しいわけですよ。やっぱり他人だから、奥さんのようにはしようと思ったら本当に心に決めればアプローチできるじゃないですか、家族なら。
でも仕事の関係者は本当はそうはいかないわけですよね。仕事の関係者は利害、金銭的な利害もありますから、一段とややこしくなってくると厳しさもある。
同時に常に会ってるわけじゃないから、まあ忘れてしまえばいいよねっていう気楽さもなくはない。
今日は家族の方の話をしようと思うんですけれども、これですね、2つありますね。
一つは私が全く言われもなく誤解されて怒られている時の理不尽というのと、もう一つは明らかに私がミスってしまったというか、そういう場合のね、自分が罪悪感を持ちやすい場合の、
しかも今日お話しするのはその対策ではなくて単なる失敗と試行錯誤の状況の時ですね。
これはとりあえず倉津の圭同さんのGood Vibes以後ということでいいと思うんですね。
以前はもう私はある意味こう、恐れるばかりっていう人間だったんで、たまにね、キュウソ猫は噛みますよ、そりゃね。
いい加減嫌になってくることもありますから。
でもそれは基本的にあまりにも、僕の観点からすればあまりにもパージされているうちに逆切れするというだけであって、基本的にはビクビクが僕のデフォルトなわけですよ。
そういう人間だったんですけど、倉津さんの当時はですね、一番最初に私が伺ったアドバイスでは、恐れと不安を持たないと。
これはこれだけ言われたわけではなくて、それです。
でもいざという時やっぱり一つか二つぐらいしか思い出せないわけですよ。
愛の選択と分離の選択とか、攻撃や最大の防御とか、いろんな話があるんだけれども、
全部を同時に思い出すことはもう困難なんですね。
しかももう間もなく夫婦喧嘩が始まるぞっていう時になって、愛とは何とかみたいなことを考えられない。
考えられないっていうのはこの番組でもおなじみですが、考えられないからこそ一個しかフレーズが出てこなくなったりするわけですよ。
そういう時に私が当時一番やっぱりまず大事だと、私にとって大事だと思ってたのは恐れを何とかすると。
恐れだということは確実になってきた時期があるんですね。不安とかではない。
不安というようなそういう言葉のニュアンスと合わない。やっぱり恐怖だと。
問題なのは何が恐怖だっていうことだったんですね、当時試行錯誤していて。
松は殴ってこないですから。刺したりもしませんし。よく言葉で刺すとか言うんですけど、僕はやっぱり唯物的な思考の人間なんですよ。
MPが削られるとか精神が消耗するとかいうのは本当のところ信じてない人間なんですね。
やっぱり殴るとか傷ができるというのは。
だから割と僕は蔵野さんがですね、心は形がないのだから本当は傷つかないというのは少なくともそこに異論はなかったんですね。
傷というのはやっぱり形状があってこそ傷なんですよ。傷とはそもそも形状ですから。
心の傷っていうのはやっぱりですね、体に受ける傷を比喩で使っているものだと僕は思うんですね。
これには異論があると思うんですよ。心こそ傷つくんだっていう意見もあると思うんだけど、やっぱり私はどうしてもそこはですね、本質的には唯物的なんですよ。
まず現実には物というものこそがあるっていう人間なんですね。やっぱりガザ地区とかが気になってくるのはそういうところにもあるわけですよ。
ああなっていったら心の傷とは言っていられない。心は傷つきますよ、もちろん。ああいう状況でこそむしろね。
でもまあやっぱり傷では済みませんよね。ビルの破壊とかになってくると。
我々はあれを目にすることすら、目にするというのはつまり目の前であれが起きるということをあんまり意識しないですけれども、
僕はやっぱりそういうことを考えがちな人間なんですよね。
物というものの破壊力とか、我々の依存度ってものについて私はすごくやっぱり意識が回りがちなところはあるわけです。
恐れと不安に対する対策
こんな心心言ってる割にはなんですよ。物ってのは力を持ってんなってのはよく思うところなんですね。
だから私の妻が殴らない刺さないっていうのは僕にとってかなり大事なことでして、当時ね。
だからこそ何を恐れるかと。
例えば経済力からしてもですね、この家の経済力、原則私が持ってる。
だからいざ別れるという話をされても真に困るのは私ではない。
そういう経済的な意味ではね。
これちょっとひどい話かもしれないけど、でも真に困るのは私ではない。
さらに言うと実家も、いろいろ問題のある実家ではありますが、父母とも健在で、しかも父母とも私に対しては非常に基本、ものすごく好意的なわけですよ。
家に行けばおもてなししてくれるレベルなんで、いや喧嘩して帰ってきましたって言ってもすぐ受け入れてくれそうな家なんですね。
どの観点からしても私は喧嘩して困るってことはないな、本当のところ。
だから真に私が恐れなければいけないものは、外的、客観的要因としてはほぼない。
僕を人殴ったことって実はほぼない人間なんですよ。
だから殴り合いをすることはありえないけど、殴り合いをして向けるとも考えられないわけですね。
しないですけどね。
何を自分は恐れるんだろう。
ところが私は非常に怖かったわけですよね。
だからここが最初にして最大のポイントだったわけです。
恐れを手放しましょうって言われても、手放せない。
やっぱり私はジェットコースターっていうのは非常に苦手なんですけど、
ジェットコースターに乗れって言われてる感触と非常に似てたんですね。
大丈夫なはずだって、大丈夫なはずなんだけど、
私よりちっちゃい子とかがわりとキャッキャ言って乗ってるから絶対大丈夫なはずなんだけど、
大丈夫ではない。
できれば絶対に乗らずにおきたい。
やっぱりですね、怖がりの人って必ずこういうことやるんだけど、
例えばとしまえんとかで、やむを得ず絶対どうしても乗るっていう回転コースターみたいなのあるじゃないですか。
一番怖い奴を真下から真下に飛びちゃうんですよ。
いやー、ここなーみたいな。
何のためにこれやっちゃうんですかね。
怖がりの人っていうのは、自分がこれから会う最も会いたくないポイントについて真剣に思い悩む。
そしてそこをマジマジと見るっていうね、やっちゃうんですよね。
僕もずっと見てて、これなんとかしてこれ乗らずに済まないのかなっていうね。
まあ済まなかったんですけどね、本当に。
試行錯誤の中での苦々しさ
で、これをやっぱり僕がジェットコースター、
ジェットコースターっていうのはマイケル・バリントっていう精神分析家もジェットコースターっていうのを持ち出してくるんですけど、
やっぱりそういうことなんだろうな、どこに行ってもそうなんだなっていうのも、
やっぱり覚悟を決めるにあたってはいろいろと抜け道を考えるんですよね。
グラドノさんはああいうけど、何とか恐れを保持したまま何かできないだろうかって思って、
カウンセリングの本とか精神分析とか当時好きだったから、
もうそのずっと前から好きだったんだけど、
どこに行ってもおばけだの、影だの、ジェットコースターだの、みんな同じことを言っているわけですよ。
で、なんとかこの怖さを取り除きたいと。
そこでさっきの2つのケースが考えられるんですね。
1つは誤解によるもの。誤解なわけだから。
私は悪いことは何にもしていないのに怒られているわけだから、
怖がるというより腹を立てる方が重大な問題だったわけです。
結局僕はその観点からいくと、僕は自分が怒ることが怖いんだってことになるんですよ。
これが1つの試行錯誤中の発見だったんですね。
自分が怒るのが怖いということは、自分が関係を破壊することが怖い。
ってことは結局私はこの人好きなんだなってことになるわけですよ。
さっき言ったように、関係が壊れて真剣に客観的な理由で困る点は私にはなかったわけだから、
なのに関係が壊れるのが怖い。しかも自分から壊すのが怖い。
で、もう1つ大事なポイントがあると思うんですよ。
壊すのが怖いなら怒んなきゃいいじゃないですか。
これは私は怒りたいっていうのが強くある。
この自分を恐れているっていう面があるなっていう。
つまり私が怒り狂って環境を破壊してしまう、この怒り狂う自分というものを制御不能になってしまうっていうのを恐れている。
これは1つの単純な発見でした。
かなり恐れてやったな、そしてかなり制御不能になるなっていうのを同時に発見した感じがしましたね。
もう1つがこっちはもっと深刻なんだけど、自分がやらかす口ね。
これなんですけど、僕が覚えている1つのターニングポイントになったのが、ガラス瓶を粉々に割っちゃったっていう。
あれは本当に嫌な思い出でしたね。
あそこで罪悪感を手放しましょうとか、反省しないようにしましょうとか、全然効かない、これが。
いやこれ反省しちゃうなっていう感じだったんですよ。
もうどう考えてもこれダメでしょっていう。
足の踏み場もないぐらいキラーンと光ってるやつが粉々になってるし、
それ結局頑張って後抹消滅してるのはめちゃくちゃ怒ってる奥さんだし、
めちゃくちゃ僕は嫌な気持ちになっていたわけですよ。
でもう本当なんでこれ割っちゃうかなっていう感じでずっとそれだったんですけど、
これがですね、大きな転機に後から考えればなったんですよね。
その当時は無理でした。
反省もしちゃうし、罪悪感もいっぱいだし、
しかもめちゃくちゃこういたたまれないしですね。
これが試行錯誤の最中ですよ。何の解決もできてないですよね。
ただただ最も良くない状態になってる。
で、これででもですね、私はこう思ったんですよ。
これよりやらかすことも十分あるよ。
だって所詮はガラス割っただけだからね。
例えばほら、私はないけど会社に大きな損失を与えたら、
全然瓶を割るとか済まないじゃないですか。
ところが私は恐らく、これもどうかと思いますけど自分でもしゃべってて、
会社に1000万の損失を与えても今と同じレベルまでしか反省しないだろうなって思ってた。
僕の発見は一つはこれでした。
反省とか罪悪感というものは現実の客観的指標と比例したり、
交往したりは必ずしもしない。
多分私はこれガラス割っちゃったよみたいなのと、
会社に1000万の損害を与えたらほぼ私の心の中での、
これはひどい、自分は責めなければいけないの度合いがあんま変わらないと思うんです。
非常に大事な発見だったんですよ、私にとって当時。
恐らくそうだろうなと当時やらかす前も思ってました。
これはですね、結局2つこれもあるんですけど、
1つは反省とは客観的なものではないということなんです。
反省とは自分で勝手に意味をつけたものに対して、
勝手に自分がこのぐらい反省するべきだっていう、
そういう自分の指示に従っているに過ぎず、
結局人が求めるレベルでの反省に、
こうして反省することなんてできないんですよ。
それをどのぐらい責めるかは人によって違うんで、
だから裁判って難しいんだと思うんですよね。
客観的な罰を与えるっていう意味を持ってるんだけど、
客観的な罰なんて与えられないじゃないですか。
世の中には死刑制度の異次と反対の人と両方いるんだから、
これだけでももう無理ですよ。
どっちかが客観的ってことはないですよね。
どっちも主観的ですよね、ある意味においては。
死刑こそが客観的に正しい罰だとは決して言えないと思うんですよ。
死刑制度に反対の人がこの世の中に一定数いる以上、
しかも増えたりしますからね、減ったりもしますけどね。
だから罰、結局のところ自罰と言っても、
それは客観的なものじゃない。
絶対に主観的なものである。
そして絶対に主観的なものであるということは、
自分でやってるってことなんですよね。
よくグッドファイブスで蔵野の系のさんもよくおっしゃってる通りで、
これは自分で自分を傷つけることしかやっぱりできないんだってことを、
私はあの時に学んだ気がする。
どん底感があったんで。
どん底ってことは私が決めてるんですよ。
私がやりうる悪いことの中で、これが最悪のことだとは。
それまでの私の人生全体から考えても、
それが最悪のことだとは思えなかった。
これがどん底だということは、私が決めてるってことですね。
この発見は大きかった気がします。
以来、私は反省というものは、
しちゃうように思えても決してしちゃうものではない。
だから、残るは何が怖いのかってやつに、
残るはここに集約されてきたんですね。
何が怖いのかはもう明らかなんですよ。
罪の意識を人に示せなくなることが怖かった。
反省と罰審の関係
示せなければさらなる罰審が受ける。
でも私はこれはおかしいと思ったんですね。
自分を責めるということに意味があるとすると、
人からの罰審が怖いっていうのではダメだと思うんですよ、はっきり言って。
それは反省ということとは違う気がするんですよね。
それは単なる恐怖ですよね。
だから結局、反省ということの中の意味には、
反省することによって、
相手からの罰審を和らげさせたいという思惑があるはずなんですよ。
そういう欲求があるんだと思うんですよね。
私、反省してるからあんまり叩かないでください。
これは要するに叩かないでくれって言ってるのであって、
別に反省してるわけじゃないような気がしたんですね。
その時もそうだったんですよ。
別に叩かなくたっていいじゃんと。
私一人で住んでいたら、結局一切反省しないんだ。
そして、私一人で住んでいたら反省しないということは、
要するに私が言ってることは、
人に罰審されたくないこの場合は目の前の人に言ってですね。
そうすると、自分の本当にやったことだろうと、誤解による怒りだろうと、
変わらないはずだと、叩かれたくないというのが全てであればね。
全てだということが、その時私には何か判明したような気がするんですよ。
罪の意識とコミュニティ
所詮は罪の意識というのの重さというものは意味付けだし、
自分がしたくないと思えば本当はしないはずだし、
しかもその時の人に、目の前にいる人に、
あまり責められずに済むんだったら、それに越したことはない。
だから罪の意識を持っていようって、
これは結局罪の意識などというものとは違うような気がしたんですよね。
コミュニティの問題だなって感じがしたんですよ。
これが私が試行錯誤していた時の苦々しさというものの中にあったものですね。
非常に自分は都合のいいことを考えていたわけですね。
今も考えますけどね。
これをやめるにあたって、いろんな試行錯誤をしたものがこういったものだったんですけれども、
その時にうまくいかないというのは、結局のところは罪の意識を持たないでいると、
終わっちゃったけどしょうがないよねって言われて、
ますます奥さんの怒りを増幅させるっていうことが怖かった。
ということは逆に言うと、
しおらしい態度と内面の反省
これはもうしおらしい態度を見せておくに限るなっていうふうに考えたんですね。
反省するというのは極小に抑えて、できればゼロにして、
とにかくしおらしい態度を見せておく。
これが大事だって言うんだったらそうすればいい。
つまり反省しないっていうのは、この辺りから私の中で固まってきた感覚の一つなんですよ。
しおらしい態度っていうのはですね、面白いことに、
しおらしい態度をとっていると、だんだんだんだん自分が抑圧的になっていくんですね。
ここがこらえどころだって当時は思いました。
今はもう少し違うけど当時はそう思いました。試行錯誤の最中に。
態度が私の心のありを決めていく。
これはもう社会心理学では有名なテーゼですけども、あるんですよ。
だから怒るふりをしていると腹が立つし、泣いていると悲しくなってくる。
そういうことあるんですよ。
これは全てだっていう心理学的な主張は行き過ぎてますけど、
間違いなく自分の態度に自分の心が引っ張られるのはあります。
引っ張られないようにするのが大事だと。
しおらしくはするけど内心での反省はやめようというふうにして、
これは不誠実だって話によくなるんだけど、
これに誠実も下手くれもないなって感じが私はしたんです。
まずそこにあったのは二者関係です。
二者関係だからこそある意味リッチもサッチもいかなくなるわけじゃないですか。
そこに第三者がいればある程度最低してくれて、
どっちが良くないからこの場合はどっちが俺なさいみたいなことを言ってくれれば、
割とこういう対立構造みたいなものは解消しがちだったりするんですよね。
娘になってくれれば簡単ですよ。
できないからこそ二者関係は難しい。
だから二者関係においては、
しおらしい態度を相手が求めているならしおらしい態度をとっておく。
代わりに、代わりにではないけど、
でも一方で私は内面では別に反省はしないに越したことはない。
このぐらいでしたね。当時できたこと。
これはできたうちに入んないんですけどね。
実際には罪悪感が手放せていたというわけじゃないし、
怖いままだったし、めちゃくちゃ抑鬱的にもなっていました。
でも少なくともこういうふうに決めてしまうことによって、
それまでのほどひどいことにはならなかったんですよ。
結局それまではもっとひどかったということですね。
身体的反応も伴って、
何しろ体にこれを背負わせてそこを罰するみたいなことをしてたんで。
でも体のせいにしちゃうっていうのはありますよね。
その頃私はやっぱり瓶を割ってからですね、
手というものが信用ならない感じがしたんですよ。
割ったのは手の、要するに手が滑ったみたいな、
滑ったわけじゃないんだけど、そういうことだったんで。
手が動くってことが良くないって感じがしたんで、
それからどうしても台所に入ると、
手を見るっていう変な癖がついたんですよ。
手を監視したくなるんですよね。
これが私、工作後の間で出てきて、
体を罰したくなるっていうのはこういうところにも多分にあると思います。
いろんな形で出るんですけどね、体への罰っていうもの。
いずれにしても、私がうまくいってなかったときはこういう感じでした。
もちろんお腹が痛くなったりはする。
これもまた体に対して罰を与えているってことなんですよ。
それが明らかであって身体の問題じゃないのがわかるのは、
今は全然そうならなくなったからなんですね。
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