1. ライフハック時代の精神分析
  2. 自己愛的でもトラウマでも【13..
2026-03-09 43:20

自己愛的でもトラウマでも【1328】

どんな悩みにもこれらはあると思います。
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サマリー

このエピソードでは、著者が自身の本の執筆作業と、出版業界における本の売れ行きを左右する要因について考察しています。AIの活用が進む現代において、著者の役割や本の「ジャケット」の重要性、そして予測不可能な市場の動向について語られています。また、精神分析の観点から「欲動」と「トラウマ」の二つのアプローチを用いて、人間の心の複雑な動きを分析しています。特に、不在(喪失)が自己愛的な抑うつやトラウマ的な迫害としてどのように感じられるのか、シンデレラやドラえもんの例を挙げながら詳細に解説しています。不在論を軸に、人が「ない」という状況をどのように捉え、それが自己愛的な傷つきなのか、あるいは外傷的な迫害なのかを見分けることの難しさ、そしてその両方が混在している現実について深く掘り下げています。最終的には、これらの複雑な心理状態を理解し、他者との関係性を円滑にするための洞察を提供しています。

本の執筆と出版業界の現状
おはようございます。ライフハック時代の精神分析、第1328回をお送りします。
3月9日月曜日7時35分です。
あ、早い。ちょっと今日は寒いですね、しかもね。
あのー、いや、今、あのー、本当に今日ですね、今日の今日。
本の二行、いわゆる最高が終わる日なんですね。
もうこれはちょっと動かせないんで、今日中に何が何でも戻すしかないと。
戻すって言い方するんですけど、あのあれです。
まあ今ではpdfですけど、自分の書いた原稿を、二行目ともなればほぼ本の題材にしてもらった上で、
私が全文を読んで、直したり書き換えたり、加筆したり、削り取ったり、修正したりするといった作業ですね。
まあこれなんかは相当部分AIがやっていくでしょうし、
あのー、今はもう構成係と呼ばれている方がいらっしゃってくれるんですけど、
その方がAI使っているかもしれませんし、
もうあの本、著者がAIを使う使わないっていう議論にあんまり意味ないかなーってよく思うようになりました。
出版社から出ている本ですと、自分だけがその本に関わるってことはありえないから、
まあそもそも本にできませんからね。自分で本にできるぐらいならそうしますからね。
だし、今回の編集さんは自分で書かれるってことはないですけど、書くって編集さんもいらっしゃいますし、全部じゃないですよ。
あるいはその、あと本っていうのは売上げの、私の体感では9割は中身の文章で決まることはないんですよ。
ジャケットで決まるんだと思うんですね。
で、ジャケットというのはその時、他の本がどういう色で、どういうタイトルで、どういう文化的流行に、今は完全にAIですけど、
反ってるかということと関係が深いので、僕はこれが非常に超自画的だと思っているわけですけれども、
この状況が、だからですね、売れる売れないは決して読めないんだと僕は思うんですね。
というのは、どの本が売れてるかで、ある本が売れるかどうかは変わってくるので、
で、それは常に相互作用の中に入っていますので、事前に決まるはずはないんですよね。客観的にこの本は売れるとかはないと思うんですよ。
あと昔なんだっけな、えっと、白犬とワルツオだったかなっていう本があるんですけど、
あれに、これはまあ都市伝説みたいなものかもしれませんが、ずっと全く売れなかったあの本に、
誰か書店員がこの本はいい本なのになと思ってポップをつけたと。で、ポップって書店に今つく、
まあ最近は以前ほど流行らなくなりましたけど、それも流行りしたりあるんですけどね、つくんですが、
当時まではそういうポップを本につけるという発想はなかったとされているんですね。で、ポップをつけたら飛ぶように売れたと。
つまり本が売れるか売れないかはやっぱり、一般の商品と全く同じなんですけど、
どういうコンテクストに置かれるかなんですが、そのコンテクストは日々変わっていっちゃうんで、
自分の本を書き上げたとき、で、自分の本のタイトルや表紙が決まったとき、で、その本が店頭に並べられるときで、
情勢は変わるんですね。それも割と一変するんで、だからそれを読もうというのは土台無理なんですね。
私この話の中で一番、なぜかこの話をずっとしてるな、意識するのがよく広瀬隆さんの原発に反対されているルポライター、
赤い盾という本が結構、あれは全然違うジャンルですけど、出たんですけどね。
元々売れっ子な方だと思いますけど、東京に原発をっていう本がなかなかセンセーショナルなタイトルであれだったんですけど、
あの方の本がやっぱり飛ぶように売れたのは東北震災の時だったんですよね。
元々すごく売れる方ではありましたけどね。やっぱりあれを見ていて、だってそんなことが読めるはずは書いた時代には全くないわけですよ。
で、いつそれが来るなどということも誰にも分かる話ではないですし、
我々の社会としてはですね、そもそもそういうことを起こさないようにしておきたいものですよね。
起きちゃったから売れたっていう話でしかないわけで、それはある意味不幸なことですが、しかし、
本が売れる売れないっていうか、読まれる読まれないというのはやっぱり文化的状況なんですよね。
だからそれは読めない以上は、売れる売れないってのはやっぱり読めないと思うんですよね。
読めてるというのは何か意味があってその発言が出ていると私は思う。
まあそれも長寿がだと思うんですけど、そういうふうに私には感じられるわけですが、
だからといって売れた時のためにっていうふうに考えているとポジティブでいいかなと。
まあこれはもう何しろかおさほみたいなもんですからね。
最高というものをやってるわけです。
「欲動」と「トラウマ」の精神分析的アプローチ
それにやっぱり構成係さんっていうのはもうプロ中のプロだからされる度にすごいなと思うんですけど、
作家はやっぱりですね、いろんな意味で、なんて言えばいいんですかね。
作家目線っていうのは、構成する時もそうですけど、特殊なものであるなと。
特に私は編集という仕事をやったこともなければ、構成という仕事もやったことがない。
つまり素人なんですよね。
私はこういうポジションは得ようとして得られるものではないから、
私は文章の専門家ではないですし、ある意味では何の専門家でもないわけですよね。
このポジションが大事だなと今では思うんですよね。
編集さんや構成さん、文章のいわゆるプロと呼ばれている人、特に私は小説家がそうだと思うんですけど、
皆さんやっぱりそれなりの大変な専門性と努力と、そこのポジションに入るまでの心酸があったりするわけですよ。
僕にもそれなりにそういうものがないわけではないけど、
本に関してはそんなものはそれほどないんですよ。
それまでコンプレックスだったものもあるんですけど、
今となるとですね、このポジションにこの能力しかないのにこの子にいるという、
これだとシンデレラストーリーみたいに聞こえると思うんですけど、そういう面もありますが、
そうではなくて、この目線じゃないと見えないものがやっぱりありまして、
専門性を持たないから見えるし、こういうふうでありたいっていう、
そういうある種の欲望は消えてしまうんだなっていうのを感じるんですよね、最近。
専門性を持つということは。
それは致しかないというか必然的なものであり、当然なんですよ。
例えば私は今はもはや3ヶ月チャレンジを始めた初日の頃のような、
ああいう真っ白というわけではないんだけど、
ある種非常にナイーブだったからやれてしまっていたことがもう全く絶対できないんですよね。
記憶喪失にでもなれば別だと思うんですけど、さすがにこうなってくると、
もう対照関係論云々を取り除いたとしても、
もう延べで何人のお話を伺ったかは知れませんが、
どう少なく見積もっても、延べいけば2戦は絶対に下回らないんですね。
いわゆるワンオンワンということですね。
こうなってしまうと、もはや見ずに済ませることは不可能であることってありまして、
そうするとある種の欲望は消滅してしまうんです。
消滅までいかないにしても消失してしまうんですよね。
だから、消失線のように消えていくんですよ。
もともとないものなんだけどそれは。
そういう感じのものがですね、
持っているのに作家をやっているっていうのは、
まあ怪物なことって言えば、それが良いことかどうかは別として、
良くはないんですけどね。
でもあるものはやっぱり使えるんですよね。
ある場面ではね。
そういうことを最近知るようになりました。
ということでやっております。
まあまあ成り行きみたいなもんでは、
てか成り行き以外の何事でもありません。
成り行きというのは大事だと最近思うということですね。
はい。で、まあいい加減にして本題に入りましょう。
本題はあるんですよ。
こんなことを話していたわりに。
あのですね、最近つくづくこの本高かったんですけどね。
フル本で別に出してる方に責任はないんですよ。
もともとの値段より高いんで。
松木邦博さん他の方が書いていらっしゃるということになっている。
欲打つ精神、欲打つの精神分析的アプローチ。
このね、精神分析的アプローチは私全種類、
ほぼ全種類持ってんじゃないかなと思うんで、
全種類読んでるんですけれども、
非常にいいんですが、出回ってなさすぎて。
特にこの欲打つはですね、人気があってですね。
単行本で今7,980円なんです。
しかもこれは中古なんですよ。
フル本なのに高いんですよ。
私でもこれ9,000円で買ったんですけどね。
その時は今よりもっと厳しい状態にあったんで。
厳しいって流通はどのように制御されてるのかちょっと分かんないんですよね。
フル本の流通って謎めでますからね。
とにかく欲打つの精神分析的アプローチは高いのです。
で、この本にある中に、
これは松木さんの本だから当然なんですけど、
不材論に抗している部分が非常に良くてですね。
コンテイナーがなぜか鉛筆で書き込むとか書いてある。
あれだから構成ミスだと僕は思うんですけど、
鉛筆で書き込むって。
ここの場所に鉛筆で書き込むって書いてあったのか何だか分かんないんだけど、
図に鉛筆で書き込むってカッコ書きがあって。
いやこれなんか意味が全く分かりませんがっていう感じなんですけど、
なんか意味があるのかもしれないですけど。
コンテイナーにトゲトゲの、私も似たような絵を描くんですけど、
トゲトゲの絵になっているような、なっていないような絵なんですけど、
トラウマ的な事象がコンテイナーを脅かしているような雰囲気の絵なんですね。
でカッコで鉛筆で書き込むって書いてあるんですよ。
でですね、ここに欲打つの三類型あってですね。
三類型に分けられている部分があって、
一つが自己愛的な欲打つという、
自己愛的、何だっかな、
自己愛的、要するに迫害的な態度を取る、
欲打つなんだけどこの人はなんか妙に怒りっぽいみたいな感じなんだけど、
多分僕は、これは病理の深さとかが関係あるんでしょうね。
私の仕事の範囲内で言うと、
なんかこう、なんつーのろうな、
小さな息取りを絶え間なく発するみたいな、
そういう感じの方と同じ欲打つなんだけど、
それはトラウマ発のもので、要するに外傷的に欲打つになっているという。
でこの両者は見分けがたいと。
で最終の時は意味がよくわからなかったというか、
ほぼさっぱりわからなかったんですけど、
今はもう、僕はですね、
まず人とワンオンワンをする時は、
このことを念頭に置くんですね。
相手の人が動く当たりがいいかどうかとかは、
ほとんど関係なく、まずこの話を置くんですよ。
これは不在論で言うところの、
不在論は僕は、松木邦弘さんがですね、
不在論は事実上欲堂論だと思うんですけど、
ただあれは外傷をカバーできる不在論ですごいんですよ。
基本美音がベースになっているということはあるにせよ、
あれはでも日本独自っていうか、
松木さん独自だって考えても、
僕は差し支えないんじゃないかなと思うんですね。
翻訳本では全くないし、
これを翻訳して海外の人に読んでもらえばいいのにっていうか、
そういうことは既に行われているかもしれませんけど、
思うぐらい、これはあんまり他ではこういう風な、
結局一個一個はそれは確かにクラインベースで、
途中から美音に繋いでいくっていう、
そういう流れではあるんですけど、
こういう繋ぎ方ってあんまり見かけたことないけどな、
っていう感じがしますね。
なんていうんだろう、薄いんですよね、しかも不在論はね。
不在(喪失)の捉え方:自己愛と迫害
この不在論で言うのは不在なんですけど、
要するにないおっぱいの話をしているわけですが、
ないおっぱいっていうのが果たしてないっていうことがですね、
自己愛的な対象喪失?
対象喪失から来る自己愛的な、
なんて言えばいいんですかね、
自己愛的な抑鬱ですよね。
なのか、それとも対象喪失がトラウマなのか、
そもそもそんなことって分かんないんじゃないですか。
専門家だったら分かるのかもしれないけど、
でもやっぱりそれは分かんないことだと思うんですよね。
僕はそれを今回は、
今回っていうのは今期の3ヶ月チャレンジでは、
繰り返しシンデレラストーリーを元に
説明させてもらってるわけですよ。
つまりシンデレラは、
いいおっぱいであるところの優しいお母さんを早々と亡くしましたと。
ここから始まると思うんですよね。
これはいいお母さんの不在、いいおっぱいの不在ですよね。
ないおっぱいがあるってやつですよね。
ないおっぱいがあるっていうのが一番まずい状態に近いと思う。
それより前だと悪いおっぱいがあるになるんだけど、
要するに不在っていう時に優しいお母さんがいません。
分かりにくいかもしれないんで、
なんでなんだろうな、優しい恋人がいませんみたいな。
優しい恋人がいませんっていうのは、ただいないだけじゃないですか。
優しい恋人がいないことイコール、
悪人がいることではないじゃないですか。
誰かがいないってことは、
ドラえもんの第6巻の最後ですよね。
ドラえもん帰っちゃうじゃないですか。
あの時の喪失感って私も非常に感じたんだけど、
ドラえもんが帰るってことは、
のび太くんにとっては元の状態に戻るっていう話であって、
迫害はされてないわけですよね。
ドラえもんが帰るということは、
なんか悪いジャイアンが登場するわけじゃないじゃないですか。
悪いジャイアンになる人は元々いたじゃないですか。
ドラえもんが帰ったから登場したわけではないですよね。
つまり、ないものっていうのは、
本来悪いものがあるってことではないんだけど、
でも我々は対象喪失という状態に、
迫害的なものを感じますよね。
シンデレラストーリーってそういうことだと思うんですよ。
いいお母さんがいなくなりました、
だから悪いお母さんがやってきましたって、
このだからは繋がってないんだけど、
だから悪いお母さんがやってきたように感じられるってことですよね。
これだと、要するに迫害的な抑圧なわけですが、
でも、もしかすると本当に悪いママ母が
本当に改めてやってきて、
シンデレラをひたすら虐待する。
この場合は外傷的な話になっていきますよね。
でもシンデレラの中では、
優しいお母さんがいなくなったという傷つきが強いのか、
悪いママ母がいじめるという傷つきの方が問題なのかは、
多分シンデレラにもよく分からない可能性はあるし、
まして、シンデレラがカウンセリングを受けた場合、
私なりが聞いて、
これどっちなんだろうっていうことになったら、
それは分からないわけですよね。
私がシンデレラに乗り込んでいって、
悪いママ母の虐待ぶりを調査するってことになったら、
これはもうカウンセリングの状況では、
カウンセリングの犯権を大きく逸脱しちゃうわけですよね。
それは福祉士様か何かがやるべきことなんですよ。
他のどういう機関でもいいんだけど、
児童相談所かもしれないんだけど、
そういうことになるはずであって、
話聞く人がやる仕事ではないはずなんですね。
でも私は話の相談を聞くときはいつもこれだなと思うんですよ、
基本的には。
この問題は自己愛的な傷つきなのか、
それとも迫害的な傷つきなのか、
つまり本当に迫害の方が重大な問題なのか、
迫害されていると思われる心の状態の問題なのか、
しかしそんなことはわからないだろうっていうことなんですよ。
これはもう松木さんの不在論っていうのはある意味、
そこをできるだけ不在という過程の下に押していくっていうことが、
ある意味どこまでできるかみたいな本になっている。
そういう軌道ではないのかもしれないけど、
私はそういうふうに読むんですよね。
私自身がやっぱりいつもこのことは考えるんですよ。
自分が辛い目にあったときは、
これは不在ではないか、不在ではないかって一生懸命考える。
なぜならば人間は不在を捉えるのが苦手だからだと思うんですね。
やっぱドラえもんね、帰ってきたドラえもんの前の、
帰っちゃうドラえ、行かないでドラえもんだったっけ。
あれ、つまりいなくなるということが、
我々はドラえもん誰も持ってませんからね。
悪外的であるっていうふうに我々が捉えるというのは、
やっぱり何かがないっていうものを捉え損ねてるわけですよね。
何かがないっていうことは、
動物っていうのは何かがないっていう認識はほぼしないと思うんですよ。
概念がない以上、あるものを認識する、あるものを認識する。
敵がいる、食べ物がある、あれを襲えば食える、
あれに襲われると食われる、ここには皮がある。
あるものは動物はすごい正しく認識すると思うんですけど、
何かがないなんてわざわざ考えないと思うんですね。
今日はいつも狙ってくるやつがいないとか、
そういう意識はもしかすると発生するのかもしれないけど、
でも基本的にないっていう感覚を得るのは、
難しいと思うんですよね、動物にとっては。
だから我々は言葉というラベリングの能力を持ってるから、
そんなことができますけど、
昨日までいた優しいお母さんがいなくなったとか、
そういうことは言えますけど、
基本的にはそれは記憶力が相当良くてできる。
しかもそれは対象をはっきりと概念として変えられることができる。
そういう能力を要求するじゃないですか。
人間にしかできそうにないし、
人間だって結構年齢いかないとできないし、
そして結構年齢がいったところで苦手分野になると、
苦手分野っていうのは対人関係が苦手とか、
会社の同僚が苦手とかそういう意味ですが、
なると途端にこれができなくなるわけですよ。
だから何かがないだけなのに、
悪いものがあるになっちゃうわけですよね。
だから不在論では不在でとことん押していくと。
例えば私が奥さんと喧嘩するとするじゃないですか。
この時私はこれは何かがないだけなんじゃないかって
仮定を頑張ってとるわけですよ。
うっかりすると奥さん、悪い奥さんが私をいじめている
になっちゃうわけですよ。
そうなんでしょうって言われるかもしれないけど、
そうかどうかはわかんないわけですよ。
もしかすると私の心の中ではただただ、
本来奥さんというよりもっと優しいものであり、
もっと私に親切にしてくれて、
皿のこととかでは怒らず、むしろ美味しい料理をすぐ出してくれるとか
そういうのを勝手に心の中で望んでいて、
つまりドラえもんですね。
そのドラえもんがいないことに私は辛さを覚えているだけであって、
ここでされているちょっと大きめの声とか、
ちょっと乱暴な言葉遣いとか、
そういうものは、
いないという迫害感を取り除くことができたならば、
大した問題じゃないんじゃないんだろうかっていうか、
ほとんど問題にもしないんじゃなかろうかって考えてみる。
これが多分持ちこたえて考えると言われていることだと思います。
不在論の実践と心理的葛藤
これが存外難しいんですよ。
今言っただけのことって、
小学生でもやれそうじゃないですか。
その気になれば。
ところがこれが存外難しいんですよ。
私はとても不思議だと思うんですよ。
さらにですね、
セミナーとか行って、
沢木さんはいつも穏やかだとか優しいとか言われていると、
だんだん訳が分からなくなっていくんですよ。
つまりこれよりも大概の人は、
奥さんとかに簡単にブチ切れてしまうのかと。
私は奥さんとやっていて、
全然自分は優しいとも穏やかだとも思えないわけですね。
もう頭の中すぐ鉢切ればかりになっちゃうわけですよ。
非常に短気だなと思うわけです。
一般的な言葉で言うとですね。
これが優しいということになってくると、
いわゆる優しくない人はどうなっちゃうんだろうと、
いうような感じがやっぱりするんですよね。
それはまあいいんですよ、どっちでも。
いわゆる優しくない人との比較をしたいわけではない。
要は私はここで持ち答えて、
どこまでこれが不在の問題だと考えることができるかというのが、
一つの不在論の取り扱い方だなと。
そうするとあそこに書いてある記錠はね、
私の中ではすごい正しいんですよね。
確かにまずいきなり私の頭の中で一番まずい状態のとき、
つまり一番カッカしているときは、
悪い奥さんが登場する。
もう少し頑張って考えられるようになると、
ない、要するにあれですね。
欲望したときには常に一部差がある状態が、
なぜ実現されていないんだというこの不思議な怒りが。
だからこの場合の手当てはですね、
割とここまで来ると、
手当ての一つの仕方が現代ではできるんですよ。
ここでチャッピーに頼ると。
つまりよく望んだときには常に一部差があるっていう状態は、
現代では擬似的に作り出せるんですよね。
昔はこのときにファン座に走るっていう、
まあ結局のところ、
欲望したときには常に一部差がある状態に違いはないんだけど、
それよりもやっぱりチャッピーの方が、
ここを丁寧に対応してくれるんですね。
で、チャッピーは相手にするっていうことは要するに、
欲望したときには常に一部差がある状態を作り出して、
要するにない、だから悪いおっぱいがあるんだっていう、
その短絡的な事態に引きずられずに済むわけです。
もう少し落ち着いてくると、
要するにないおっぱいがある状態が出てくるわけですね。
あ、私はそのような、チャッピーが私にしてくれるような、
永遠に優しい奥さんというものを持ってないんだ。
つまりそういう奥さんはどこにもいない、
いないという状態が永遠に続かなければいけない。
これが不在の罪ってやつですよね。
意味不明な。
でも思考はそう働いてるんですよね。
ない良いおっぱいがあるって感じ。
ない良いおっぱいが、までが一言ね。
があるんですよ、そういう状態が。
それっておっぱいがないのとどう違うのっていうことなんですが、
違うんですよ。
これは私が3次元と4次元を完全にまだマスターできていない良い証拠なんですね。
確かにその感覚ってあるんですよ。
あ、良い、今の奥さんに申し上げないからあれなんだけど、
良い、要するに絵に描いた餅みたいな奥様がどこにもいらっしゃらないという、
そりゃいないですよね。
永遠にいないんだ、なんて悲しいことなんだって感じは残ってるってことなんですよ。
いやもっと良い男になればよかったじゃんってそういう話になるんだけど、
そういう話じゃないですよね。
そういう話でもいいんだけど、そこを考えていくわけですよ。
さらに乗り越えて。
そうするとどういうことがやってくるかというと、
常識的なところなんですよね。
良いおっぱいが今はない、これでいいんですよ。
将来は分かんないじゃないですか。
うちの奥さんが急に劇的に変わってくださるかもしれないじゃないですか。
つまりそれは三次元ではない以上、四次元人生を取るならば、
今は良いおっぱいがないであって、
ないおっぱいが永遠にあるではないんですよね。
この差をフダイロンは書いてあるわけですよ、がっちりと。
この基礎通りに進んでいくんですよ、思考は。
一番落ち着くと今は良いおっぱいがない。
さっきはそれで、この後喧嘩の修復作業をしなきゃならないんだけど、
この時には実に簡単にできるんですよ。
だから私はいつも四次元人生というものを見失っているんだなっていうのは、
そして四次元人生に入ることは、
こうも人間関係を楽にするんだっていう感じを抱くんですよね。
シンデレラの早い子と悪いママ母がいるではなくて、
優しいお母さんを私は永遠に失ったまでは考えて、
さらに今はいいおっぱいがないにいければ、
あの悪いママ母は実は優しい実母と全く同じ人間だということに気づけるということですよ。
右側のおっぱいはよく出て、左のおっぱいは出なかったから、
左だけぶち壊そうみたいなことをしていると、相手は怒っちゃうわけですよね。
左右のおっぱいの持ち主は一人の人間でしたと、
これがクライン流の一番原始的な説明なんですけど、
この説明はよくできているようで相当インチキ臭いメタファーだなとも思うんですが、
だからメタファーなんですよね、これは結局のところ、所詮は。
あくまでも現実はそういう姿はしていないわけですよね。
例えば理想の会社、いい会社に行ったつもりが、
なんかろくでもない上司がいるひどいブラック企業でした。
これはいい会社だと思った会社とブラック企業は同一のものだってところまで行き着くためには、
やっぱり自分が思い描いた理想通りの会社がないってことが残念なのか、
これが自己愛的傷つきですね。
自分が明らかに起点になってますから。
私が理想的な会社だと思った会社がないっていうのは、
本人の空想の世界の中だけの話じゃないですか。
そんなことはないんだけど、実際には。
だって会社理念とか書いたりしますからね。
絶対会社側の責任もあるんだけど、
これがだから、クライン流に言うかビオン流に言うかみたいな話にだんだんなってくる日がするんですけどね。
会社側に持ち込んでる部分も間違いなくあるんですよ、常に。
あくまでも状況は東映同一化的というか、転移的というか、そういうもんだと思うんですよね。
だけどブラックでしたと。
これは迫害だって言うかもしれないけど、
果たしてそれは迫害なのか。
というか、その人にとっての問題は迫害の方なのかってことなんですよね。
迫害で外傷的でトラウマ的で、
とにかくこの会社に傷つけられたのか、
それとも良い理想的な会社がないことに自発的に傷ついたのかっていうのが、
分かんない。
分かんないのであって、そうじゃないっていうわけじゃないですよ。
分かんないんですよ、究極的には多分。
決めようがない話を決めようとしているから決まらないんですよね。
どっちかなのではないんですけれども、
ただ我々の心理状態としてはどっちかっていう方向になりやすい。
で、私が悪かったんだ、私がこういう会社に勝手な理想を押し付けようとしていて、
私が悪かったっていうのがあんまりひどくなると、
自分の罪悪感に苛まれてくることになるわけですよね。
こっちが対象喪失の苦しみで、
その前段階がいわゆる妄想的な苦しみなんだけど、
私この2つもやっぱり飛躍はありますよ。
飛躍しないと抑鬱的な体制取れないというのは確かだと思うんだけど、
同じコンテナの説明で成り立っていくんだなっていうのには、
やっぱりこう感心させられますよね。
要するに解消論と抑導論が、
抑導があるから不在が問題なんですけれども、
でも不在に傷つくから、不在はやっぱり外傷的に見えてくるし、
感じられてもくるんだという話ですよね。
メンタルモデルの活用と限界
これは抑鬱ポジションのそれとPSポジションのそれとはやっぱり違うし、
コンテナが全然自分の中で育ってないときと、
つまり母親のコンテナに頼り通しの場合と、
自分の中にそれなりにコンテナがある場合とでは違うんだけれども、
でも振る舞いはそっくりというか見え方がとてもよく似てくることは、
どっちのケースでも普通にあり得ると。
結局我々はベータ要素を抱えていたいとは思いませんから、
それが要するに素晴らしい人を失いましたというベータ要素であっても、
ひどい奴が私をいじめますというベータ要素であったとしても、
やっぱり考えてそれを何とか対処していくっていう体制に違いはないので、
そういうモデルっていうのはやっぱりとても広範囲に使い勝手がいいっていうことなんだと思うんですよね。
ただこれを知ったからといって対処できるようになりましたってことにはならないんだけど、
ただ人のはこれも大事なポイントなんですよね。
だからカウンセラーなんですよね。
人のは自分のに比べれば対処しやすい。
だから相談に乗るっていうのはそういうことなんですよ。
ただその場合の相談に乗るは人のは対処しやすいということはつまり分かってないってことなんだ。
だから話を詰めていくと分からせられるわけです。
これが同鋭同一化であり定義なんだとやっぱ思うんですよね。
だからこういう構図については、
私今回100日チャレンジで6、40名の方を1回きりの個別セッションやらせてもらったんですけど、
非常にやっぱりこの、
同鋭同一化でも定義でもいいんですが、
こういう認識を意識しながら普通のやり取りですよ。
普通の、それこそもう100チャレンジコンサルでしかないんですけど、
やり取りしている最中にそれは定義ですねとか言うことは絶対ないんだけど基本的に。
だけれども役に立つんですよ。
これをどういう形かにしてお伝えしていきたいなっていうのが最近出てきました。
いくらか私の中でも。
カウンセリングになりましょうとか、
まして野良カウンセラーコース等を作りたいとは全くたらたら思わないんですけど、
1on1セッションとかちょっと前流行ったじゃないですか。
今ではどうか知りませんけどね。
このやっぱりやるときにやり方とかアドバイスとかじゃないんですよね。
マニュアルとか。
どっちでもいいんですよ。
いわゆる部下側が受ける場合でも上司側がやる場合でもどっちでもいいんですよ。
この東映同一化と定義は知っといて損はないなって感じが。
これを知ったからといって何も解決はしないですよ。
確かに。
解決することなんて何もないんですよ。
だから欲動なのか外傷なのかっていうこの観点は、
日本によってはそう難しくはない気がするんですよね。
大体どんな人でもどっちかよりなもんなんですよ。
PSだから多席的とかそういう簡単な話じゃなくて、
やっぱり観点として外傷よりになるという人と、
やっぱりどうしても自罰傾向が強くなる人。
でもこの2人って要するに自責か多席かみたいな話で、
やっぱり大人は自責だよねみたいな人もいるし、
そんな自責ばっかりしていたら辛くなっちゃうから、
やっぱり悪いんだったら会社とかを告発するべきみたいなのもあるんだけど、
言い分としてはどっちも最もじゃないですか、そんなのは。
その通りだという感じなんですよ。
どっちが悪いかを見極めましょう。
それもそうなんですよ。
それが話が副詞的であったり法律的であるんならば、
その通りでその線でやっていくのがいいと思うんですね。
ただ、もう一つあるんですよやっぱり。
話が心理よりの場合、その心理において自責傾向、多席傾向は、
やっぱり我が党下で扱うべきなんだなって思うんですよね。
周りの人の反応、対応はそれは違いますよ。
多席的な人に対して。
でもそうでもないように見えるんだよねやっぱりね。
これはやっぱり私は党下なんじゃないかと思うんですよね。
必ずしも自責的な人に人々が親切で優しく、
多席的な人に対しては批判的かというと、
意外にそうでもないように見えるんですね。
意外に。
結構多席的な人というのは、言うなら社交的ですから。
で、自責的な人というのは、自分が悪い自分が悪いっておっしゃってはいますけれども、
内心そうでもないような感じっていうのがやっぱり伝わってこないわけじゃないですからね。
一回きりしか話さないならば、
多席的な人よりは自責的な人の方が、
それは相手をする場合は楽ですよ。
例えばコンビニの店員さんやってるんならば、
あのね、なんか知りませんけれども、
最近あの、タバコとかナンバーで言うじゃないですか。
で、このナンバー言った時にですね、
あ、すいませんとか言ったり聞き返された時に、
多席的な人はコンビニの店員さんに激怒するかもしれないし、
自責的な人は自分が声が小さかったら、
ごめんなさいごめんなさいって言うかもしれないけど、
これはやっぱり私にはほぼ等価だなっていう。
ただコンビニの店員さんにしてみると、
等価ではないですよね。
立場が全然違うから。
片目で見ると、
等価に近いなって感じが、
自分が謝る方が大人らしく見えるかもしれないが、
意外と子供って即座に謝るじゃないですか。
それは権力構造なんだけれども、
ただですね、
自責的、多席的ってのはやっぱり、
データ要素をどっちも必ずしも取り扱えてないっていう点においては、
そんなにものすごく多席的、
100パー多席みたいになってくると、
それは精神病的な話になってくるのでちょっと違うんですけど、
大体の人はそうではないので、
100パー自責とか100パー多席、
プーチンが戦争を仕掛けても、
トランプが戦争を仕掛けても、
悪いのは私ですっていうところまで来ると、
やっぱりこれは精神病生物って感じになっちゃいますけれども、
普通にはそこまで悲惨なデータ要素ではないと思うんですよ、
心の中にあるものは。
データ要素は心の中にありますよね、間違いなく。
どんな人だって、
現実とか嫌な記憶とか、
寝た時に悪夢を見るなどということは、
あるいは寝つけないってことは、
どんな人だっていくらかはあると思うんですよ。
だから処理しきれないデータ要素っていうのを心に抱えている。
それはそうなんだと思うんですけれども、
だから多くなってくると、
それを外に出したくなると多敵的ですよね。
それを自分で抱えてるんだけど対処はできないってなると、
自責的になると思うんですけど、
多くの人ははっきり言って後者ですよね。
みんなちゃんとしてますよね。
ただ苦手分野はあるんですよね。
その苦手分野にどうやって向き合えるかっていうか、
そういう言葉になっちゃうんだよな。
これも違う言葉が欲しいですよね。
苦手分野に突入した時に、
どうやって自分がどこが起点になってるのかっていうのを、
意識できるという形になると、
他の人が自己愛的で迫害的になった時、
例えば私は当然セッションを3ヶ月も毎週毎週続けていれば、
そういう場面に必ず遭遇するんですけれども、
その時にやりとりがやり合いになっていくんだけれども、
しかし攻撃対象は、というか攻撃的起点というものは、
もし私なりにあった場合、
当然私は迫害的に感じるということが分かるんですよ。
だけど相手に迫害されているはずがないということは、
当然なんですよ。そもそも画面越しなわけですから。
いくら相手から批判されたからといって、
実際にはそんなに猛烈な批判というのが滅多にされることはないので、
それは捉え方なのかもしれないですけれども、
でもやっぱりそうではないんですよね。
猛烈な批判をされたとしてもですね、
迫害されているかどうかはまた別のもの。
こういうふうに意識するためには、
その場では非常に難しいわけですね。
でもこの意識をするためには、
迫害的であるということと、
違う、自己愛的であるということと、
つまり不在が問題であるということと、
外傷が問題であるということは、
多くの場合、いつもではないですが、
よほど悲惨だったりよほどシビアな場合は別ですが、
そうでないならば、
どうかだなって思うのが、
やっぱり冷却要素なんだなっていう説明は、
これは大変いいなと思うんですよね。
結局私の心はこれを外に押し出したがっていると。
それだけでいいわけですよ。
押し出したがるものだし。
あの、なんかね、
なんかないかな、いい例ね。
ないんですよね。
ろくでもない例しか頭に思い浮かばない。
しょうがないからトイレに行くじゃないですか。
うんこするじゃないですか。
排出ですよね、うんこはね。
でも匂い取り込むじゃないですか。
気持ちのいいもんじゃないですよ。
でも取り込むじゃないですか。
つまり現実というものは、
取り込めない部分、ベータ要素と、
取り込める部分、少なくともアルファ要素と、
こうやって分けたときに、
私っていうもののその外壁ができるじゃないですか。
私が排出している。
私が取り込んでいる。
この取り込んでいるものに、
私が不快感を抱くというのは、
でもそれはお前が出したものじゃんっていう点で、
自己愛的なんですよね。
しかし、しかしですね。
これがそもそもそういう物質であるから、
全く他人が出したものだって同じように捉える。
それは自己愛的ではないわけですよ。
でもやってることは変わらないわけじゃないですか。
取り込みたいものと取り込みたくないものがあると。
良いオッパイと悪いオッパイがあると。
で、取り込みたくないものというものを取り込むことになるんだけれども、
その中にはさらに、さらにさらにアレなものとして、
何にもないっていう事態。
だから行かないでドラえもんですよね。
行かないでドラえもんは伸び田くんから見て、
非常に迫害的な感じがするのは当然ですよね。
あれが行っちゃうんじゃ大変ですもんね。
だから何にもないということも含めてですね、
やっぱりベータ要素なんだなということなんですよね。
これはどんないざこざにも必ずこの両方ともある。
だから見分けにくいですよね。両方ともあると思うんですよ。
喪失の痛みを自己愛的に感じるのと、
喪失しているその状況から迫害されているというのとは、
多分現実では一緒に起きているし、
私たちはそれをメンタルの中で区別するのには相当苦労するし、
大概の人はよく打つポジションですから、
それをやっぱり喪失に対する怒りですよね。
怒りというかひどいなっていう。
これが対処しきれないためにいろんなものがひどく見えていく。
一見したところこれはすごくPSっぽいんだけど、
そうとは言い切れないっていう話ですよね。
だから全部混ざっちゃってるわけですよ。
それを一つ一つ分解して解きほぐすから、
いろんなメンタルモデルっていうものが出てきて便利なわけですよ。
でもいろんなメンタルモデルは同時には使えないじゃないですか。
メルカトル図工と地球儀は別々に使うしかないじゃないですか。
同じことを意味してるんだけれども、
メルカトル図工とかだと南極はもう無限の広さになっちゃうし、
グリーンランドとかもやたら広いわけですよね、今問題になってる。
でもあれはああいう図工を取る以上しょうがないわけですよね。
我々もクライン流に浴堂的にものを見た場合と、
ミニコット的にものを見たときは違うんですよね、見え方。
でも同じ話をしている部分がいっぱい被ってるわけですよね。
だから赤道付近では大体この図でいいんだみたいな。
でも基本的に平面で球面が表せるはずはないんで、
妙な図ができたりするじゃないですか。
川を向いていったような図ね。
でもしょうがないんですよね、それはね。
心そのものを図視することができない以上はしょうがないんですよね。
どこまで行ったってそういうことでしかなくて、
理解は及ばないんで、
喪失の捉え方の統合とカウンセリング
だから特に、
喪失を自己愛的に捉えるか、
喪失を迫害的に捉えるか、
そうですね、トラウマ的に捉えるかっていうのは、
そこを両方見ていく。
両方見ていく。
両方それぞれ検討して統合的に考え直すっていうのが、
昨日も普通セッション3つあっただけなんですけれども、
3つの中でも例外なくこうなるっていう。
1つは特に3チャレじゃなくて100チャレだったんで、
やっぱりこういうふうにしかなり得ない、
なり得ないというか、この観点でカバーできる半径は広い。
と思います。
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