2025-04-24 47:54

安全でなければ憎めない

アンビバレントは避けられない。
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サマリー

このエピソードでは、心の問題が人々の行動に与える影響について考察し、特に葛藤によって生じるアンビバレンスに焦点を当てます。問題に対するアプローチや心理的障害を取り除くことの重要性が強調され、安全性の観点から専門家に頼る現状にも言及されます。 また、感情の葛藤や愛憎が人間関係に与える影響についても考察されます。安定した関係を築くための手法として、3ヶ月チャレンジが紹介され、参加者の感情とその取り扱いの重要性が強調されます。 さらに、愛情と憎しみが交錯する親子関係や金銭感情の根源についても探求されます。「逆転移」という概念を通じて、感情表現の重要性や安心感と危険の捉え方について考察されます。 最後に、アンビバレントな状況が人々の心に与える影響についても探求されます。学校に行きたがっているが行けない子供や、親の喧嘩が子供に与える心理的苦痛に焦点を当て、憎しみや不登校の背景が分析されます。

3ヶ月チャレンジの告知
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ。
今回もですね、最終にしたいと思っている特別説明編みたいなやつですね。
4月24日、7時39分です。
一連のずっと今週は特別説明会みたいなことをずっと言ってきたわけですけど、
何のことはなくて、3ヶ月チャレンジの告知というかPRなんですよ。
ですが、喋っているうちにまとまり始めてきていて、
これやってよかったなと思うとともに、
喋っているうちにまだ言ってないことがかなりあるんだなと、
これを今後のこの番組でやることにしていけばいいんで、
結局同じことをやってるんですけど、
でも今週は大筋このまとめ編に入ろうというふうに思いました。
で、どうしてですね、この総集編みたいにまとめないと、
そもそも出てこないんだろうということを改めて考えるようになったわけですね。
そしたらということではないんですけれども、
結局のところいつも問題にしている正規だとか非正規だとか、
週1だとか4だとか、分析だとか、
BRIEFだとかGBTだとか、
そういったところをぐるぐる回っているに過ぎないんですけど、
中で3ヶ月チャレンジという、結局その3ヶ月チャレンジの
立ち位置をはっきりさせるというのが告知になるわけだから、
3ヶ月チャレンジの立ち位置というものを、
心の機能と行動の変化
ポジションというものをクリアにしていこうという意識で喋っているうちに、
クリアにだんだん、自分の中ではクリアになってきたんだなと。
昨日も説明したばっかりなんですね。
その説明もやっぱりそうそうそう。
だから新しい方が入っていらっしゃるにつけてですね、
一体ここでは何をやってるんだっていう話になりますよね、必然的に。
そうした場合に、まず目標の設定はいたしません。
ゴールもないですということを説明するわけですよ。
そうすると、では一体本当のところ何をするんだって話になりますよね。
結局否定形で入っちゃってるわけだから。
何をするんだろうなと考えていくと、
そういったときに説明することになると。
簡単には無理だけど、
簡単に言えばですね、
心の中に本人も気づいていない、
心理的にその人がやりたいということを邪魔しているものがあって、
簡単に言うとね、
邪魔しているものというものを、
もし取り除くことができれば、取り除かないまでも、
それをある程度小さくすることができれば、
そもそも今やろうとしていることが、
大体の方はおっしゃるんですけど、
そんなに難しいことではないはずだっておっしゃるんですよね。
であるならば余計、その人の能力からして手に余るとか、
いった話ではないのだから、
できないはずはないよね。
できないということがあるとすると、
やはりそれは心が機能していないからだよね。
脳が機能していない。
脳は機能しているんで、明らかに話を伺っていれば。
脳は機能している。
体も一応、一応というか大概健康であると。
体が健康で、
頭もちゃんとしていて、
しかもその人にとって難しくないことができないということは、
残っているのは心が機能していないっていうか、
あるいは心が邪魔をしていると。
それを、
簡単に言うとやめれば。
これが全然簡単じゃないんですが、
やめればいいんですよっていう話になるわけですね。
これをやめるのに、
これをやめるのが目標だって言えば、
そういうことになるんですけれども、
これをやめるのに、
ホームワークだの、
目標設定からの逆算だのは、
ほとんど私の考えでは意味をなさないと思うんですね。
行動を変えるべきではないんですよ。
専門家に対する依存
行動を変えてしまうと、
例えば簡単にできるはずの、
朝早く起きるという簡単にできるはずのことが、
十分寝れば全くできませんというのに、
まず朝少しでも起きましょうとか、
すでにおかしな話になってるじゃないですか。
少しでも体を動かすとか、
それができないという話から始まったはずなのに、
それを無理やりでもやれば、
後はついてくるんですっていうのは、
私には単なる無理やり論であって、
何もそれは手当てしていない感じがするわけですよね。
手当てするならば、
もう心理面しかありえないと思うんですよ。
私はその自我支持的っていうやつも必要だと思うし、
なんならば認知を修正するというのも必要だと思うんだけど、
そういうものが入ってくるんでどうせ。
でも一番問題になるのは、
どうしてももっと深いってよく言われるやつなんですけど、
そこに深いとか浅いが本当にあるのかって思うんですけどね。
認知を変えるのが浅くて、
無意識に向かうのは深いのかっていう話ですよね。
無意識は危険だっていう話もあるんだけど、
本当に無意識は危険で、
認知だったら安全だという話になるんだろうかと。
いつも言っている話、
だからこの辺が非正規、非正規の話になるんだけど、
正規の人なら本当に安全に取り扱えて、
非正規の人が扱うと、
ダイナマイトを素人が扱うみたいなことに、
本当にそういうことが言えるんだろうかっていう、
例えばそれをエビデンスを出せみたいな話になると、
出てくるかもしれませんけどね。
出てくると結構困りますけど、
でも果たしてそういうことを、
安定はいいのかな、
でもそれが近代ってことなんですよね。
そういうことを誰が決めるんだろうねっていう感じがします。
これはすごいありていに言うと、
やっぱり近代ってそういうことなんだよなという、
自分のことでも自分が手を出してはいけないっていう風に、
言われてしまう時代じゃないですか。
つまり専門家というのは、
何か特別な権限を持っているってことになっているわけですよ。
歯が痛くても自分で直しちゃダメなわけですよ。
自分で直そうとはしませんけどね。
自分の歯なのに自分で直しちゃダメなんですよ。
直せないからってことなんだけれども、
でもそういうことですよね。
専門家に任せなさいっていうのは。
その領域がどんどん広がっているはずなんですよね。
この領域がどんどん狭まっている先進国って、
ある意味世界中でですよね、今やね。
だからこの領域が広がっていくということは、
我々は自由をどんどん失っていくということになるわけですよ。
自分のことなのに自分で手を出すことはできないわけですから。
心の領域なんて特にそうで、
自分の心に問題があるのに専門家に見せなさいんだわけですよ。
自分の心ならまだ、
他人の心は絶対専門家に見せなさいっていうのが、
ある意味近代的なはずなんですよね。
そういう場合に身近な人であってもになっていくっていうのは、
どこまで言えるんだろうと。
お金を取らなければいいんじゃないってことなのかもしれないけど、
これだって考えてみるとちょっとおかしな話ですよね。
ただでやるなら良くて、
お金を取るからダメだっていうんであれば、
もしそれだけが理由ならですよね。
それだけが理由ならば、
それは縄張り争いに近い何かであって、
安全性の話は実はとってつけたようなものになってしまうと思うんですよ。
確かに頭の中を外科手術する、
だから脳外科に例えるのずるいなって僕は思うんですけど、
脳外科はどう考えたってやんないじゃないですか。
いや俺の頭の中だから俺切るよって思わないんですよ普通。
普通に考えて。
でもこれが専門家の領域なのかどうなのかっていうのが、
心の問題になると教育もそうですよね。
教育も基本的には学校。
だけどこれは言われないんですよ。
家でもやりましょうになるんですよね。
安全性の話とかも一切出てこないんですよ。
昔は塾と学校みたいな話って実はあったんですけどね。
今はあんまりそういうことも言わないような気が私はしますね。
どっちかっていうとみんな専門家に押し付けたがってるっていう感じもありますもんね。
なんかこう自分の子供に泳ぎ方を教えるんだったら、
水泳教室に連れて行きたくなっていますよね普通に。
別にあれどっちでも僕は同じだと完全に自分が行った経験からは思うんですけど、
正規のスイミングスクールに行くことに、
泳ぐ上でのなんかすごいメリットって別にないなって感じがするんですけど、
それはうちの親の方針だったんでしょうがないですよね。
話がまた相変わらずそれてるんですけど、
その中で私がやっているのはつまり、
やっぱり真相の方に行くっていう、真相と言われてる方にね。
私はこれが真相かどうかも。
だってですね、2歳児3歳児だった頃の覚えていない情緒を扱うのは真相であり、
今意識できているのを知的に扱うのは表層だっていうのは何となくそういう感じするけど、
どうしてそっちが表層で、どうして2歳児の頃は真相なのかっていうのって、
半分にイメージ的なものを感じるんですよ。
実際には深さは測れないはずなので。
で、この真相の方をどうして扱うのかという話になっていくわけですけど、
今日はそこを補修みたいな話なんですよ。
昨日までやった話でいいんだけど、
さらにそこをちょっと深掘りしたいという。
なぜ深掘りしたいかというと、ここが分かりにくいからですね、私からしてもやっぱり。
ここが分かりにくいというのは、真相というものに迫っていくと。
仮にして2、3歳児、もっと前0、1歳児、覚えてないから真相なのかもしれませんね。
ここに何のために入っていくのというのは説明できないとダメだと思うんですよ。
ここに入らずに済むんなら、それこそ表装でいいわけじゃないですか。
ところがここには葛藤があるんですよね。葛藤があるから、
途中お話ししたように、その人にとってできて当然のはずのことができなくなるんですよ。
片付けしっかり、深刻の準備しっかりですよ。
能力的に手に余るとは思えない。先送りしないのでもそうだし、上司にメールを出せないのもそうです。
出せないわけはないですよね。なんならチャット中PTに書いてもらえばいいじゃないですか。
そうではないということですよね。出せない理由があるんですよ。
出せない理由があるのの、一番分かりやすいところでアンビバレンスがある。
アンビバレンスって、この人の行動を必ず縛るじゃないですか。
愛と憎しみの世界じゃないですか。愛している人を憎んでもいますってことですよね。
愛している人を憎んでいるということになると、どうしようもなくなりますよね。
その人に近づくことも、その人から遠ざかることもできなくなる。つまり葛藤があるんですよね。
特定の好きな人に近づく。これはとても簡単なことですよね。
特定の嫌いな人から遠ざかる。これもとても簡単なことですよね。
でも特定の人を好きでもあり嫌いでもあるってなった途端に、どうしていいんだかわからなくなるってことが起こるわけですよね。
それはそうですよね。
感情の葛藤の理解
これが必ずそういう風になっていくんですけど、私もやっていくうちに必ずそういう風になっていくんだなということがわかってきたんですよ。
つまり3ヶ月チャレンジみたいなものをやっていて、ワンオンオンを繰り返し繰り返しやっていると、
私のことを好きでも嫌いでもあるようになっていくという方は普通にどんどん現れて来ざるを得なくなっていく。
だから着手ってことがここで話題になるんだなと当然なんですけれども、体感覚としてわかってくるわけですよね。
私から近づくことも遠ざかることもできなくなった人からお金を取り続けると何もしなくても良くなってしまいますよね。
何もしなくったって私のことを好きでも嫌いでもある人は私に近づくことも遠ざかることもできないから、ただただお金だけは払い続けて3ヶ月チャレンジだけはやり続けることになる。
これがカウンセリング系のものをインテンシブにやった場合、絶対に起き得る事象の一つなんだと思うんですよ。
ということはですね、僕はここに力動的な知識は欠かせないと思うんですよ。
やっぱりブリーフゼラピーという考え方は確かにある。
愛したり憎んだりする手前の段階で集結してしまえば10回までとか、何なら1週間以内とかになってしまえばですね、好きだ嫌いだ言う前に終わっちゃうから、確かにそういうのはこの件に関して安全です。
安全なんだけど、それで何かを変えるのはやっぱりちょっと僕からすると今のところ神業チックに見えるなって感じがする。
私の感覚ではですね、これも相性もあると思うんですよ。
私はそれこそ真相に向かいたい人間なんで、子供の時から好きだったのがユング読むことだったんで、それはしょうがないんですよ。
わけがわからないうちからそういうのが好きだったんだからしょうがないんですよね。
好きなものは好きっていうやつですよ。
だってテトリスにハマる人もいればロープレにハマる人もいるじゃないですか。
ロープレにハマる方が真相心理が好きそうじゃないですか。
あれ真相心理的なものをいっぱい扱ってますから。
僕はロープレにハマったの中学1年の頃なんで、その時にちょうどロープレが流行り始めた。
一番黎明期の時からすごいハマったんでですね。
そういうタイプの人間はなかなかそこから脱却できないんですよ。
もちろんブリーフセラピーは知ってるといいなと思うんですけど、それをやるかっていうとまた全然別の話だよねっていう感じの話で。
でもそれは愛憎って話、葛藤を生みにくい構造を持ってるという意味の安全性は確保されていると。
でたまたまなんだけど、3ヶ月チャレンジも一応そういう構造を持ってたんですよ。
3ヶ月チャレンジの意義
3ヶ月で終結すると。
これ第10期から私ここも微妙な変更加えようと思ったんですけど、
新規と継続という名称をやめて、実質継続ってあるんですけど、毎回新規にしようと。
金額は継続の方に揃えようと。
つまり新規と継続の金額をもう差のないようにしようと思うようになりました。
初回だけ高いってよくあるんだけど、あれをやめて一律全く同じ金額にして、要するに全部安い方に揃えてしまおう。
どうせちょっとだけ高くしても入会ハードルが上がるだけで意味ないなと思ったんで。
継続の人にとってのメリットが薄く感じられるようになるんだけど、それは感じ方の問題であって、実際には別に損はないので。
新規の人と継続の人が同一料金になるということは、全員新規ですっていう一応は取り扱いになるという。
これは気持ちの上での話は変わらないと思うんですけどね。
新規ですって言われたって継続は継続なんで、ただ一旦終了しますという手を取ることで、やめようと思った時のタイミングはつかみやすくなりますよね。
これによってこの断続的にずっとその人に居させ続ける力みたいなものを働かないようにしようと。
これまた難しい話で、継続した方が良さそうな気が私的にもするなって人は当然いらっしゃるわけですよ、辞めた方の中にも。
そういう人には逆効果になってしまうんで、すっごいそこは悩むんですけれども、この悩みはおそらくこの種のサービスには絶対に欠かすことのできない悩みだろうと。
一定の自信がついたってことはあると思うんですよね。
今まではやっぱりできれば続けて欲しいなっていう人数的にも全ての意味で、やめていかれると終わっちゃうんじゃないか恐怖っていうのがやっぱりあったわけですよね。
少人数で始めて回も1回目2回目、1期とか2期とか言ってるのって3期で終了しました、やっぱり三日坊主だよねみたいになりそうじゃないですか。
でも10期となってきて一定の人数で安定し始めると、その自信は根拠がないのかもしれないんだけど、一定のやっぱり安心感は発生するんで、これは多分どんどんどんどん入ってきてパンクするっていうようなことは起きないでしょうけど、
1、2名の方が入っては消えるものなんだっていう風な感覚を始めるんで、10期となってくると12期までは続くでしょうから、3年はいける、3年いくとなんかいけそうな感じがするんですよ。
これも私のフリーランス的な勝手な無根拠な感覚なんですけどね。
このことを考えるにあたって集結のタイミングをちゃんと用意できていれば、一応集結そもそもすることにしておけばですね、続けたい人が続ける、やめたい人はやめる。
それが要するに一番いいと僕は思うんですよ、当然。
なんかこうアンビバレントだから続いてしまうみたいなそういうのではなくてですね、でもアンビバレントがない方はここにいらっしゃらないと僕は思って、やっぱりアンビバレントがないのに朝起きられないってことはよほど異常なほど眠くない限りはありえないと思うんですよ。
やっぱりアンビバレントっていうのは精神分析では古典的な方に属しますけれども、これもう一つ精神分析における古典理論って対象関係を学んだ上ではすごい大事だなと思うようになりました。
だから私だんだんだんだんフロイトにつかないうちに近づいてるんですよね。
横山ミッセルの三国志の漫画に芝居中達のセリフがあるんですよ。
気が付くと危険地帯に孔明は引き寄せてくるっていう、なんかそれがすごくゾッとするって話だったんだけど、事実ではそんなことないんじゃないかって僕は思うんですけど、
そういうふうになんか気が付くとフロイトに引き寄せられているなっていうのがすごいですね、全然関係ない芝居中達の言葉が出てくるのが真相なんですよね。真相なのかこれは、全意識なのか。
でも思い出そうとしても思い出せないからですね、こういうのは。ある種真相、これが深いのかっていうとちょっとよくわかんなくなってくるんですよね。
まあとにかくアンビバレントは扱い、終了のタイミングは提示できるというのを持っておくっていうのが大事だ。
辞めてほしいということはないし、辞めないでほしいんでしょうけどね、私はやっぱりね、当然ね。
でも辞めないでほしいというのをやっぱり明示的に、暗示的に伝えまくるっていうのは倫理的に問題はあると思うので、
逆転移と人間関係
形式上は少なくともいつでも集結できます。まあいつでも集結できるんですけどね。
これやっぱりアンビバレントが邪魔しなければということです。
ここにアンビバレントというのはいくらでも出てくるはずなんですよ。
これは別に精神分析に限った話ではなくて、もろん3ヶ月チャレンジ単独のものでもなくて、
だから集結とか搾取って問題、あるいは辞められませんって問題は絶対どうせあるだろうとは思います。
倫理的であるかないかを問わずですね、3チャレだけである問題なんてことは絶対あり得ない。
大体あの腐れ縁って言葉があるじゃないですか。
世の中は別れられないから付き合ってますというカップルだったり家族だったりはいくらもいて、
それはそれで僕は大事なことだと思うんですよね。
別れられないから一緒にいるっていう時期は必要だと思うんですよ。
そういう時期を超えないと何よりも減られないものがあるだろうと思うんですよね。
だからやっぱり簡単に辞められるっていうのはすごく、
まあこの言い方は私が言うべき言葉ではないんですが、もったいないなって思う時はあるんですよね。
結局アンビバレントだから続けるというのは確かに搾取的危険というのがある一方で、
ここを超えていかないと、何て言うんだろう、
やっぱり人間関係に必須の要素っていくつかあるような気がして、
アンビバレントはもう絶対に欠かせないと思うんですよね。
ようやく私にもあのイニコットの書いた逆転移としての憎しみっていうことの重大性というのかな、
わかっているつもりで言いましたけど、わかってなかったなやっぱりって感じがします。
逆転移としての憎しみ、結婚にはもうつきものだよなと、
あの言葉における逆転移としての憎しみにおける憎しみとは一体誰の憎しみなんだろうっていうのを表面的に捉えれば、
もちろんそれは分析家の方の、医者の方の憎しみなんですけど、
サービス提供側の憎しみなんですけど、そうではないよなやっぱり、そうではない部分がある。
一体この憎しみは誰の憎しみなんだろうって考えるのがすごく大事だなと思うようになったんですよね。
重層的とはまさにこのほどだと。
もちろんクライアントさんが分析家を憎む、これはもう絶対あると思うんですよね。
この憎しみがあるというのは確実だと思うんですよ。
そんなのにすら取り扱いませんとか言うのはさすがにおかしいだろうって思うんですよ。
それはド素人だって取り扱うべきでしょうぐらいに僕なら思いますけど、
でもこの憎しみがもろん親への憎しみではある。
逆転移としての憎しみってことは親が憎んでるということになってきて、
親はじゃあ何を憎むのかっていうことを考えていかなければいけないわけですよね。
果たしてそれが考えたところでわかるのかっていうのはあるんですけれども。
つまり参加者さんが親を憎んでますっていうところまでは親を愛してますってことも含めてですね。
したがって私が参加者さんのことが好きになったり嫌いになったりしますって言ったときのこの嫌いになるの部分ですよね。
この取り扱いが一番当然ややこしいんだけど、
この嫌いになるの気持ちを使ってこの人の大事な関係者は必ずしも親と限りないって、
大事な関係者は何をどう憎んでいるということになったんだろうっていう問いがここに立つはずだし、
やっぱりこの問いが立たないような関係ってちょっとあれだよな、残念なものを感じる。
まだ物足りないと言いますか。
やっぱりどこかわかってないと。
そこまでわかんなくてもいいじゃんっていうのが安全な短期で終了するやつなんですけど、
長期でやる以上ある意味泥沼感が出てくるんだけど、泥沼にならないようにこういう理解のための枠組みがあるわけですよね。
特に逆転移としての憎しみはもうちょっと熟読しなければいかないんだけどなぁと思いながらいろいろ読むものもあってですね。
最近はだから鈴木智一さんの本とかを読みまくってるんで、なかなかそこに行きつけずにいるという、
まあ独特のジレンマが私にもあるわけですけれどもね。
話がまた全然入ってきてないんですけど、
アンビバレントというのはあるわけですよ絶対に。
アンビバレントを取り扱うというか、アンビバレントで当てするのが3ヶ月チャレンジだと言っても言い過ぎではない。
アンビバレントの始まり
最初からあるんですよ。最初からどういうアンビバレントがあるかというと、
まず3ヶ月チャレンジ入るかどうかのアンビバレントが普通にあります。
入る前の人。次に高すぎるというアンビバレントがあります。
高すぎるっていうのは憎しみじゃないですか。既に。ある意味では。嫌悪感があるわけですよね。
高すぎるんじゃないか。高すぎるんじゃないかって言われると、高すぎるこれって私が思うじゃないですか。
これが私の逆転移としての非常にマイルドではありますがね。
マイルドではありますが憎しみです。
何高いって言うわけみたいな気持ちが芽生えるわけじゃないですか。
これが大事なんですよね。
こうなった瞬間に、もちろんこうなった時はごく単純に高いのって言うだけなんだけど、
この次が必要ですよね。
てかこの次に当然もう行く準備はあるんでさすがに私でも。
慣れてきたからっていうこともありますけど。
高いって思う。この高いんだって思った。
こんなのが高いって言われちゃうのねという残念感は、その人のご良心が持った可能性のある気持ちだと思うんですよね。
絶対持ったとは正直思うんですよ私は。
絶対持ったと思うんですよ。
例えば、私が娘にちょっとあの、今ママお風呂入ってるし、もっと小さい時ですけどうちの子が。
ママお風呂入ってるしちょっと鍋見ててくんない?って言ったら、えー?とかって言われるわけですよね。
えー?これが高いですよね。
えー?って言われるわけですよ。
なんかスマホかなんか見てて。
ここまでは絶対思いませんけど、あえて言うならば、育ててやったのに鍋も見ててくんないわけみたいな。
これが高いって言うわけなんですよね。
こういうやり取りって親子ってしてるじゃないですか。
だから親の気持ちになるんですよ一瞬。
それが逆転意みたいなものなんだと思う。
これは逆転意をすっごくマイルドにわざと私が今マイルドな例マイルドな例を探したからこういうのに行き着いたんだけど。
このちょっとしたやり取りの中におけるちょっとした情緒の投げ合いというもの。
で、これすらないっていうオタクもあったりするわけじゃないですか。
これすら子供は親に対して言えない。
あまりにもその子はいい子をやっちゃってると。
ある意味ほっとするじゃないですか。
えーって言われるとカチンとはくるけどえーって言えるっていうその関係の中の安心感があるじゃないですか。
えーって言われるから何お前っていう感じに思えるわけですよね。
安全に。
感情の影響と金銭感覚
このえーが言えない。
あ、もういつでも見ておくからみたいになったら怖いっていうか怖いっていうのかな。
その子の育ち方っていうものはものすごく神経質なものだったっていう風になりますよね。
憎しみを生むことができないっていうのかな。
憎しみを宿すこともできないっていうのかな。
で、そうするそういう人がやっていらっしゃると当然私の方にも一切憎しみの感情が湧かなくなるわけですよ。
あ、7万ですね。すぐ払いますみたいなね。
おかしい感じが。
もちろんそういう人がものすごく大金持ちであの月収700万円だから7万円っていうのはもう1円玉みたいなものですっていうのかもしれないんだけど。
それはそれでそういう方がなぜさんちゃれっていうある種独特の警戒感を生みかねないわけですけどね。
そういう問題がここに実はあるんで根付けってすごい大事なんですよね。やっぱりね。
精神分析でお金お金ってやたらお金のことを言うのは質入りにかなってるって最近思うようになったわけですよ。
本当にお金というのは安くしても高くしても金路を設定しても何をしても必ずこの幼かった頃の情緒を呼び覚ますのにこれほど便利なツールはなくて。
だからお金と時間なんだねっていうまたやっぱりフロイトに引きずり寄せられてるわけですよ。
フロイトは言ってますからね。
あの1人の本当にだから彼辞めるってことはどういうことなのかがよく分かってたわけですよね。
1人が辞めるということは彼7人か8人しか見てないわけですからある意味7分の1なり8分の1がなくなるんだぞと。
それってあの外でお父ちゃんが事故起こしちゃった大変だっていう話と変わらないんだぞっていう。
だから1人の人がいなくなるという集結するっていうのがどんなにでかいダメージなのか。
なんかねあの昔バルザックかなんかの小説で安いやすいやすいわけじゃないのかもしれないんだけど一定のアパート貸しのやってる人がご両親さんかな出てくるんですよね。
1人でもう住居人がいなくなったら本当に大変なんだよみたいなそのおばちゃんがいつも6人6人なのかな6室のいかにずっといっぱいにしておくかっていうことだけに人生をかけてるって人がいるわけですよ。
でそれと全く同じ構図ですよね。でそのうちの1人が社会主義者だってことで逮捕されるんだけど本当に社会主義者なんかが私のアパートに行ってそのおばさん最初思うんですよねきっとね。
だけどもでも告発した人間がだんだん憎くなってくるわけですよ。でも社会主義者だっていいからとにかくいてくれればよかったのに何だって余計なことするんだろうみたいな。
マルジャックってすごいうまいなーって思ったんですよね私たぶんこういう話だったような間違ってるかもしれませんけど絶対そういうだからギリギリでやってたと思うんですよね昔の人って。
だから6部屋しかない6部屋を埋めておくことによって私んちは私んちの利収益からあの子供の教育費から消費から全部賄ってる。
6分の1が社会主義者だから逮捕しましたから寄室になりました。やめてよって感じなわけですよね。犯罪者だっていいからいてくれてとにかく家賃さえ払ってくれればその人にとってはいいわけで別にね思想犯なんていうのはっていう感じがあるわけじゃないですか。
でもあの人社会主義者だからとか言って隣の人が要するに告発したわけですよね。
こいつ本当にみたいな気持ちになるみたいなそういう話だと思うんですけどまあフロイトもそれに限りなく近いわけですよ。
集結は絶対必要なんだけど集結させてしまうと俺の収入の年収のですからね。
7分の1ががぽっとなくなるんですよねっていうそれってもうなんか自分が交通事故に遭いました保険で賄ってます仕事しばらくできません状態と同じようなダメージなんですよっていうでも集結しないとダメですよねっていうこういうことだと思うんですよ。
私はそういう構造にしないようにしてますけどそんなことしたら私はプロイドよりも遥かにダメ人間なんていやもうみんなやめないでくださいと懇願し始めない懇願しかねない人間ですからしちゃいそうなんであのもうちょっと分散させてますけどね収入源はね当然あのそれこそJさんと一緒に仕事をしたり本書いてみたり分散させてますけど分散させないとやっぱりやめないでください。
ちょっと10期だけやんないみたいなこと言うじゃないですか。やっぱり言いたくなるじゃないですか。だって7分の1とかなくなったら大変なことになるわけですよね。だからそういう風にはしないようには気をつけてるわけですよ。
まあその分でもやっぱりプロイドに比べればあの切実感と真剣味は薄れる可能性がだからあの人あんなに仕事できたんだろうなっていう感じがするんですよね。
あの人ねもう死ぬ間際までなんか一生懸命論文書いたりなんか頑張ってましたもんね。でもじゃないけどあそこまでやる気にはならないですよね。
いや俺はもうナチスに捕まってもいいんだみたいなこと言っちゃってたし嫌だろうって思うんですけどね。普通に考えてそんなプロフェッサーなのにこんななんかねポーランド送りとかにさせられなければならない言われはないじゃないですか全然ないんですけど当然そんなことはね。
危うくそうなりそうだったのにあんまり真面目に亡命しようともしなかった時期があったしここまで仕事人間なんだろうみたいに思うんですけど私はそれはちょっとそんなに正気をかいた状態にはならないんでね。
もうちょっとマイルドにやっていこうと思うんですけど、逆転意図、つまりアンビバレントですよね。アンビバレントというのはやっぱりどうしたって危険とか言われても、非正規がとか言われても絶対に行き着かなければいけない場所が僕は最近あるなと思うようになったんですよ。
絶対とは言わないけど必要ならばやっぱりと思うんですよね。だって仕事できないとか会社に行けないっていうのは一つの重大事件じゃないですか。
で、必ずしもだったら必ずカウンセリングの請求を受けなさい。おかしいとやっぱりちょっと思うんですね。行く気満々すでに行ってますって人ならいいと思うんだけど、行く気はないですしっていう人が、非正規だったら誰も扱いません放置ですっていうのは考え方にもよるんでしょうね。
やっぱりその辺はね。私はちょっと同意できないと思うんですよね。そこに手ずるが何もないっていうなら別ですけれども、少しずつ会社に行くとか半分まで行くとか、そういうものすごく行動療法なのか行動科学の応用なのかわからないような習慣化でも行けるようになるっていうならいいでしょうけど、それってものすごい辛いだろうなと思う。
自分が昔あったんですよね。私は暴力的な塾で、なんとかゼミナールってちょっと名称出すのはやめよう。子供の時まだ昭和だったんで、この番組でちょっと喋ったこと、結構私の私結構ひどい目に遭ってきてるね。
あれなんですよ。問題を解き間違えると中学校入試の。あそこのおかげで入れたのは確かなんですけどね。頭出せとかって言うんですよ。メガネ外せみたいな。僕はメガネしてなかったんだけどね。頭出せみたいな感じで。ものすごい痛いんですよ。本当に。
もう野球、少年野球の方がよっぽど監督さんたち優しかったなっていうぐらい、塾の先生は怖かったですね。最も暴力的だった気がしますね。メガネ外せみたいなことを言って、なんかもう本当に血出てるんですけどみたいな感じで、そこをなんかね、なんかよくわかんないんだけど、あのー、厚い教科書の背のところで殴るんですよね。めっちゃ痛いですよ。
だからまあ間違えたくなくなるから鶴亀さんとかできるようになりましたって話なんだけど。つまりその塾に僕行くときもなんかこう本当にね、行動療法的になっちゃうんですよ。まあとりあえず半分まで行こうみたいなね。小学校5年とかの時の話ですからね。
あの感じで行くと僕はちょっとやっぱり、まああの、このアンビバレントはどこから来てるのかがあまりにも明快なので、アホくさいんで、あの何も分析とかは一切必要としませんけれども、あのー、今の、まあなんだろうな、片付けかな、片付けとかじゃなくて、仕事をする気にならないとか言ったときに、ですよね。
やっぱりセンシティブだから言いたくないことってあるわけじゃないですか。さっきのその逆転としての憎しみも、いやお金高いすかね、みたいなのって言いたくないから、まあ高いですよね、みたいなことを言うじゃないですか。
でもここには、たとえ笑顔でも、笑顔ってよく攻撃性の隠蔽なんですけれども、憎しみみたいなものがあり得るというのは、もうお互い私は伝わると思うんですよね。いちいち説明せずと。
アンビバレントの心理
だけど、もっとセンシティブになってきた場合、どうしてもやっぱりこういう事例になってしまうんですけれども、例えば、子供が学校に行きませんと、まあうちの近所にもあったんでね、アンビバレントってのをここで捉えないと、行きたくないっていう意思としてそれを捉えてしまうと、分かんなくなってしまうと思うんですよ。行きたいんだけど行けないんですよね。
ここにアンビバレントってものがあるんですよね。もうちょっと、そうだな、学校にしてしまうと今度はやっぱり一般的な社会人にとっては、例えば、よく私が事例として出す、その後ろにATMで後ろに列ができても、でもこれもね、なんでこういう例を販売本当は出したくないかというと、並んでるときに余計なこと考えてしまうじゃないですか。
もし今まで考えなかった人にしてみると、なんでも同じになっちゃうんですよね。でもね、例えば、Xで投稿してバッシングされるのが嫌だとか、会社に行くと特定の人が自分を嫌悪しているとか、なんでもいいんですけれども、この証拠を出すことはできないけれども、嫌われてるんじゃないかとか、バカにされてるんじゃないかとかいう、そういう一定の証拠群みたいなやつですよ。証拠群ってことはないか。
とにかく、クラウド・ノケドさん流に、グッドバイオス流に言うと、本当のことは分からないってやつですよ。本当のことが分からないから嫌なんですよね。で、ここにアンビバレントがあるんですよ。僕の考えでは。古典的な精神分析に近いですけど、学校行かないということは、行きたいんだけど行けないんですよ。
で、会社に行くと人に嫌われてるということは、もしかして好かれてるかもしれないっていうのを、絶対そうじゃないっておっしゃるでしょうけどね。もしかしたら好かれてるかもしれないっていうのを抑圧してるんですよ、と考えるんですよ。これが抑圧なんですよね。なんでそういうことをするか。スプリットオフでもいいんだけど、切り捨ててしまって。
意識しないようにしてる。だからこれは本当に無意識なんですよね。全意識ってことじゃないですよ。本当は好かれてるのかもしれませんよとか、Xでも投稿でもそうじゃないですか。なぜ炎上するのか。面白そうだからですよね。面白くも全くないやつが炎上するはずないじゃないですか。例えば私がおはようございますってXで投稿しても、まず絶対炎上しませんよね。
注目を浴びるから炎上するのであって、炎上するということは、いや、炎上するんだから嫌われてるに決まってるじゃないですかっていうのは、その人は明らかにある反面を無視しようとしてますよね。あなたそれ好かれようとしてXに投稿したやつが炎上したんでしょっていう部分。絶対あの今回炎上した本の著者さんも同じだと思うんですよ。最初意外感があると思うんですよね。
迂闊だって言われるでしょうけれども、でも面白いと思ったから本にするわけじゃないですか。つまり、ここのところを一旦炎上してしまうと、いやこれは嫌われて当然の本だったんだって世論になっちゃうから不思議なことになるんだけど、好かれようとしていたし好きになりかねないから嫌うっていう、ほらセンシティブになったでしょ。センシティブになるんですよ、この種の話は。嫌でも大でもね。センシティブになるから扱いにくいんですよアンビバレントというものは。
これは政治分析では真相といって何を探っているか。やっぱり子供は親に嫌われたくはないですよ。バカだと思われるとかあの人は嫌いだと思ってるとかいうのをそう決めつけていくのは何のためなの。
子供にとって親というものが、例えば両親が目の前で喧嘩してますというのは絶望的な状況なわけですよ。両親のことが好きならね。でも喧嘩してる両親は好きじゃないわけですよね。ここにアンビバレントがありますよね。
このアンビバレントは最初に学んだ時になるほどなと思ったんですよね。両親が喧嘩していると子供が学校に行けなくなるみたいな話を聞いた時もなんだそれはって最初思ったんだけど、自分で考えてみるとよくよくわかるんですよ。
親のことが好きだっていうのってそもそも認めたくないっていう人はいっぱいいらっしゃると思うんだけど、それは親が何か良くないことばっかりやっていたってことであって、それってやっぱり好きだってことじゃないですか。本当は良いことをやっていてほしいのに良くないことをやっていたから、親なんかもうどうでもいいんだよっていう態度にだんだんなっていくわけ。
それは自分を吸ってその気持ちを育てていくわけですよね。自立するために。だからここには自立と依存のアンビバレントも当然あるわけですよ。こういうふうに中層的にどんどんアンビバレントが重なっていって、気がつくと会社に行かなければいけないのに体が動かないというアンビバレントが起こるわけですよ。
それがアンビバレントだってことに気づくこともなかなか難しくなっていって、会社行きたくないだけですよみたいなことになっちゃうわけですよ。最初に聞いたときは。何でも同じですよね。仕事をしたくないだけですとか、お金を稼ぐ気になれないんです。でもお金がないから危機的な状況。この話はいろんなところからいろんな形で伺うんですけれども。
いつもその子に起こっているのはですね、本当はしたいという気持ちの方を永久排除してしまうので見えなくなっている。親のことが好きだと思わない限り親に何も期待しないから嫌いになる理由って持たないはず。嫌いになったということは好きだったということのはずで。やっぱりここセンシティブですよね。
両親は喧嘩してますと。この両親に仲良くしてほしいと思ってるんですって。なんかねピュアな気持ちみたいな話にまたされてしまいそうで、そこもそれは大事なんだけど、そこが一番ここで話題にしたいわけじゃないですよね。仲良くしてほしいと思ったって喧嘩は止まらないわけじゃないですか。つまり子供は子供なりにと言いますか欲打つ的な絶望感になってるわけですよね。欲打つ的な絶望感になってるわけですよ。
だから、両親が自分のことを怒ってる方がよっぽどマシだという状況がここに生まれてしまうわけですよね。両親が自分のことに注意を払い、まずこれが欲しいわけです。ある程度。自分のことにかまけてくれて、自分のことを怒ってくれる方が両親が一触即発の喧嘩をするよりはずっとマシだという状況が起こるわけですよ。
親の顔色を伺うというのは何も、あなた今回の成績はっていうのばっかりじゃないですよ。何で親の顔色を伺うか。親に喧嘩してほしくないからなんですよ。
だから不登校になるしかないっていうか、親の前にいて登校になれば親は自分に向かって怒るんですよ。この状況になっていれば親同士の喧嘩にはならないから、親が片方出て行ったり、どっちかが寝込んでしまったりする事態を未然に防げると考えるという考え方があるわけですよ。
残念ながらこれをやると、「お前の背中だな!」とかって言い始めてまた親が目の前で喧嘩するんで、子供にとってまた絶望的な状況が展開してしまうんですけど、だからこの不登校大作戦は常に上手くいくとは限らないんですけど、少なくとも2つあるんですよね。
逆転移の憎しみ
目の前で見てる方が見ないでいる間に何かが勃発するよりはマシであるという辛いけど。もう一つは、自分に向かって怒りが向いた方がお互いが喧嘩しているよりはマシであるという辛いけど。つまり、辛いけれども何かが曖昧であるよりは確定した事項の方がマシであるという、これはそういうことです。
この心理よくありますよね。嫌な目に合いそうな状態がずるずる続くぐらいなら、いっそ嫌な目にあってしまった方がマシだと。だから会社の人はみんな私を嫌ってるってことにするし、ATMに並んでる人はみんながみんな自分に怒りを向けているということにするし、車で後ろに列ができたらお前が下手くそなせいだとみんながクラクション鳴らそうとする直前の状態だと決めつけてしまった方がマシだという状態が発生して身動き取れなくなる。
そういうアンビバレントがあるわけで、まずこのアンビバレントを捕まえてこないと、つまり自分は本当は好きなんだと。自分はもしかすると後ろの列で待ってる人はみんな自分を愛してくれていていいんです。好きなだけ時間を使ってくださいと思ってるのかもしれない。この方が怖いんですよ。怖いと思ってるんですよ。
そういう風に迂闊に思って油断するよりは身構えてる方がマシですと言ってる人は、実は良心の喧嘩が見たくないだけなのかもしれない。この結論がどうして出てくるんだって話をするためには、やっぱり私は真相心理みたいな話に、つまり精神力道みたいな話に向かっていかないと、いつまで経っても本当に怒っているんでしょうかねみたいな話だけをして終わってしまうと思うんですよね。
本当は馬鹿にされないんじゃないのとか。自我指示的な話に終始せざるを得なくなってしまうわけですよ。でも面白いことにですね、自我指示的に、いやいやいや別にあなたのこと怒ってませんか。いやいやあなた怒ってるんですよって言われて、ずーっとこれを繰り返しているうちにだんだん腹が立ってくるってことが起きうるじゃないですか。
もういい加減にこの人わかってくんないかなって、これがつまりユニコットの言う逆転意図としての憎しみですよ。いつの間にか私は親にさせられているわけですよ。親は一生懸命何かをやろうとしているのかもしれない。この結果、お前の教育がちゃんとしていればこの子は学校に行ったんだって、これは愛情の現れなんですよね。ところが子供からすると不当な夫婦喧嘩みたいに見えてしまうということが起こるわけですよね。
で、これをずーっとやって、お子さんがずーっと不当子をやっているうちに、お前いい加減に学校行けみたいになると。これが逆転意図としての憎しみですよね。気がつくとそういう状態になっている。でもそういう状態を作り出したかったわけですよ、子供の方では。
こういう複雑では決してないんだけど、複雑な真理みたいなものがあって、結局自我指示的に自我指示的にやっていっても、頑張って時間をかけてそれを繰り返していれば、いずれは同じ構造がやってくると。
これがやっぱり転移ってものだと思うし、東映ドイツカでもいいんですけども、そういう事態を引き起こすってことが、やっぱり僕はそこを素人がやったから危険だじゃなくて、ここまで来られたっていうふうに憎まれ、何の言われもなく憎まれるというようなことが嬉しい人っていないかもしれないけど、
これはどこかに嬉しさがなければいけないようなマゾキスティックな理由ではなくてですね、やっぱりここに憎むことができるまで来た信頼性みたいなものをラフォールって言うべきなんですけれども、そういうことってやっぱり必要なんじゃないかと思うんですよね。
もし必要だということがなかなか認識できない時代的背景があるならば、もう知識としてでも入れておくみたいな必要があると思うんですよ。
逆転移としての憎しみっていうものが、私の感じではですね、これを知って結婚生活の画前にやっぱり、何しようかな、実り豊かになってきたなと思うようになったんですよね。
憎しみというものは逆転移として起き得る。結局のところ、うちの奥さんが私を憎み、私がうちの奥さんを憎むことができるようになるというのは、いいことなんだと。
これは安心しなければ絶対にやれないことだったって。
親の顔色ばっかり浮かばってると、自分の親に対する憎しみというものは全然意識できなくなってしまう。一触即発だから。
で、憎んだら憎まれるじゃないですか、やっぱり。で、憎まれたら直ちに捨てられるっていうんじゃない。憎めないですよね。あまりにも怖すぎて。
だって憎むことが生死に関わるんだったら、人はその憎しみを持たないですよね。
こういうことを危ないから取り扱わないっていうのは、やっぱりちょっと不親切ではないでしょうかっていう感じがするところまで来たっていう感じですかね。
これが3ヶ月チャレンジの補足の説明でしたね。
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