おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1173回をお送りします。
4月25日金曜日7時34分です。 実はこの1173回コールをずっと渋っていたから、昨日のまでのようなことになった。
告知もしたかったということをありながらですね、 引っ張っていたどうでもいいようなしょうもないことを引っ張ってたわけですが、これはですね、
ゲストの新井さん等の回を今週の頭の方で配信させてもらいましたけど、これの後編がありまして、ここが1173回コールがあったからなんですけど、
ちょっと聞いてみてですね、あれがいかにも長く、僕が喋ってることが、なんていうのかな、面白くもないことをずいぶん喋ってんなとは僕が感じてるだけなんで、
気にしすぎと言えば気にしすぎ、気にしすぎなんだと思うんですけどね。なんかトータルでも長くなったし、ちょっとこう、
あとですね、山崎さん回というものが3月に行われましたけど、
その続編をやるべしという声はあって、やりたいわけなんですよ。やりたいわけなんですが、
5月に、これは私の方の事情ですが、J松崎さんが帰国、ドイツから帰国されるということで、5月は絶対到底無理で、
もしかすると6月だって、つまり多分5月がうわーっていう中で過ぎていきます。で、6月がやってきます。
いう感じになるところの6月にこれを置くのは結構心理的に悩ましいなと。先考えすぎですけどね。
できれば7月にってことになるんだけど、7月にやることの話をこの4月のポッドキャストでしてて、
なんかなーっていう、しかもさっきの言ったような、なんか長くなったし、瞑想気味だったし、僕の部分がですね、全部。
うーん、ということでちょっと、つまり悩んでるわけですね。悩んでるから出せてないと、そういうだけのことです。
はいはい、えーと、というわけで、まあいずれはこういうところの方に流していきたいんですけど、何しろもうJさんが帰国されるのが、
もう3日以内ぐらいなところに差し迫っていて、正直そっちの準備がですね、私の方も結構やっていて、久しぶりに。
まあ楽しいからいいんですけど、あのー、なんていうんですかね、いつもやってないことが、あのいつもの業務プラスアルファで降りかかってきて、しかもゴールデンウィークが迫ってるじゃないですか。
ちょっと家族の旅行は行かないんだけどね、計画の方もあって、なんか今目まぐるしくなってしまってるわけですね、要するに。
本当に目が回ってる感がありますね。あの時間の使い方的に言うと、別に目は回ってないんですけど、いや皮膚なんですけど、今日は皮膚の話をしたいんですけどね。
というわけで、あのー、端的に言って忙しいわけですね。こういう中でエイヤーで上げてしまうのはちょっともったいないなという、このもったいない精神がですね、
だいたいこういうのは良い結果を生まないんですけど、せっかくアライさんにわざわざ忙しい中でコラボしていただいたのに、その効果を最大限利用しようみたいなね、
そういうまたろくでもない考えなんですけど、この種の考え方で僕が何かをうまくやれた試しがないような気がしますが、明らかにそういう気持ちはあるんですよね。
そういう気持ちってどうしても出ちゃうんですよね。こう、人の力を借りてしまうと、やっぱここは最大限に生かそう。最大限ってそもそも何なのかが、
この場合に多分山崎さん回の精強さにプラスする、まあそれしかないですよね。
それを考えると今出してしまって7月ってことになってくると、これはもう全然何にもプラスされないなと思いながらも、
多分6月になると1200回ぐらいになってるじゃないですか。そこにいきなり1173回。だからその辺はカットすればいいんだけど、僕そういうのめんどくさがるんですよ。
いい加減にしろって話にだんだんなってきてますが、申し訳ないんでこのままいこうと思います。
遠方カイドさんの言う通りだなと。そこがすっごくのほうずになっていったのが、野の医者なんだろうし、もう何か使えそうなもの、俺が気に入ったものは全部使うからみたいな。星占いから、えーとなんだろう、箱庭まで全部やるからみたいなのが、エディプスが出てきたり箱庭が出てきたり、急に星占いになってみたりするからみたいなのが野の医者ならば、
そこに一定の切度が感じられるのが、一定以上の切度が感じられるのが正規だなって感じはするんですけど、ブリコラージュでないっていうことはまずないなと。
あのー、ね、ウィニコット波紋にしましたけど、クラインは。でも対象関係論の人は結局クラインをベースにしながらウィニコットの理論を使い出すじゃないですか。
藤山直樹さんですらそうじゃないですか。で、これはしょうがないと思うんですよね。ここでその波紋にした人のは使ってはならんみたいな。
宗教的にはそういう感じするんですけどね。波紋にしたのにその人の理論使ってどうなのって感じするんだけど、でも、あのー、普通に使えますよね。
やっぱり良いオッパイ悪いオッパイ言ってる人だって、環境としての母親が、その概念を使った方がこのクライアントさんは理解しやすいなと思ったら使うと思うんですよ。
で、でもそのどこかその線は出ないみたいな。アンナフロイトの言ってることはあんまり採用しないみたいな。でもそれだって精神分析の枠組みだったら使えるってことになってきて。
で、結局私は心理カウンセリングでは例の、あのですよね。えーと、ハップみたいになっていくと思うんですよ。
ジャーズっぽく形状形状共感共感みたいに言ってたのに、急になんかこうユングっぽくなって影みたいな、影みたいな考え方になったかと思うと、突然こう行動良法的になってて、あなたの認知がちょっとうまくいってないみたいだから、この辺なんとか認知を修正できないかみたいな話になってるかなと思ったら、今度は行動良法をやりだして、
じゃあ来週までにはちょっと奥さんにもうちょっと働きかけるのをホームワークにしましょうみたいな。そうなるじゃないですか。僕これ正規の人は絶対やってると思うんですよね。
なんて言うんだろうな。しょうがないと言えばしょうがないし、どれか一つでやっていけないみたいなところもあると思うし、ただアセスメントのところでは、言葉は精神分析のだけど、やってることはDSMそのものだしってことは多々ありますよね。じゃなきゃボーダーラインって言葉の意味は全く意味がないと思うんですよ。
なんで治療同盟というのは突然ここだけ治療同盟みたいな話が出てくるんですよね。急に鈴木さんはやっぱり私は柔軟だなと思うんですけど、急にお母さん登場みたいな。ではここで面接設定しましょうみたいな。あれ設定を絶対動かしちゃダメみたいなことを盛んに言ってる話はどこに行ったんだ。
まあ分析家が本家本元の分析家がやる場合はいいのかみたいな感じがするけど、本家だからダメなんじゃないのかみたいな感じもするじゃないですか。突然週4に設定してし直すことになるみたいな感じになるんですけど、別に私はそれはすごい良いと思うんだけど、なんかこう絶対動かさないのが正義なんですっていう話はどっかすっとぶん感じがするんですよね。
私はその方がいいと思うんですけどね絶対に。どう考えてもそこで固守する良さもあるんでしょうけど、それはなんなんだろうな。あれはやっぱり常識的な感覚みたいなものに最後はなってる気がでもするんですよね。わからんけど。
家族両方を設定しましたってなった時にお母さんが登場するわけじゃないですか。お母さんが登場しちゃうとそれは精神分析そのものでは全くなくなるけど、そこの中で言ってることは力道だよなって感じもやっぱりするわけですよね。
娘さんが言うわけですよ。なんていうのかな。だから鈴木智美さんがよくさっき言ったような、あなたはこのままでいいって言ってるけれども実際はこのままではうまくいかないことはわかってるんでしょうという風に。
だけれども、言っていることとは違う、直したいと思っているあなたもいるようですっていうような言い方をする。これは本当にそう言ってるのかわかんないですけど、大体そう書いてあるわけですよね。こういう書き方してるわけですよね。
私これの非常にいいなと思うのは、13歳の人が多いんですよ。こういう話になってくると、接触障害の女性というか少女っていう場合。この内容とこの語りかけ方って相当大人向けですよね。大人向けって感じがするんですよね。
やっぱりここに親子のメタファーみたいなものをぶち込んでしまうと、そういうやり方もありそうじゃないですか。本当はよくなりたいんでしょうみたいな。言ってることは同じだけど、言い方が違うじゃないですか。私絶対この敬語を外さないとか、もう僕もつい勢いで喋ってるときには外しちゃうんだけど、極力やめるようにするんですよね。
絶対もうなんつーんだろうな、普通に割と堅い文語的敬語で行こうみたいな感じってあるんですよ。おっしゃるとかいらっしゃるみたいなそういうやつですよ。なんでかっていうと、この種の人はプライドがそもそも高そうだっていうのもなくはないんだけど、やっぱりブランクスクリーンみたいな意味があると思うんですよね。定義が一気に進行するじゃないですか。
親的な動きをすると、大体において親対象は悪い親になってしまうと思うんで、少なくともそういう場面はしょっちゅう出てくると思うんで、いいお母さんになってしまうのだっていくらか問題がありますよね。だからすぐそこで親子関係に入りかねない状っていうのは、それはそれで一つの手法だと思うんですけど、そうしないってことが大事だと思うんですよ。
そうすると、結構13、4の少女にしては大人な対応をするんですよね。これをしてる段階ですでに、それまでの相当反抗的な子供っぽさが抜けてますよね。パーソナリティの変転みたいなものがやっぱりそこで起きますよね。扱われ方によって起きますよね。
この扱われ方みたいな話もまた、なんかこう、ちょっと精神分析的じゃないじゃないですか。違う手法を取ってるみたいな。だからやっぱり総合的になっていくんだろうと思うんですよね。話飛んでますけどね。で、こういうふうに大人っぽい扱い方をされているうちに、急にまた言うことがですね。
家族接点の中で、そもそも私はお母さんに赤いランドセルが嫌で青いランドセルが欲しいって言ったのに、お母さんが赤いランドセル買ったじゃないかみたいなことを突然言い出すわけですよ。めっちゃ子供っぽくなってますよね。で、それを聞いた母親は驚いて。
だってあなたそんなこと言わなかったじゃない。言えばよかったじゃないとかって言うわけですよね。僕こういうのがやっぱり、家族面接をやるだけの意味ってこういうところにあるんだろうなと思うんですよね。非常にいいやりとりだと思ったんですよ。
だから具体象徴を、具体的すぎる比喩を使ってしまうというのは、それが対抗の表れでもあると思うんだけれども、つまり比喩が使える以前の能力で使う比喩だっていう面と同時に、この生々しさを伝えるっていう、お母さんが私の話を聞かないということがどういうことなのかを、より具体的に伝えないと伝わる気がしないっていう切迫した感覚がああいうところにあると思うんですよ。
わざわざそれを言うと、これは一歩間違うというか、大抵の場合、従ってよくわからなくなるんですよね。
ビヨンの本の統合出張章の話が、靴下に穴が開いていて、そこからペニスが出てきてとか、絶対わかんないですよ。
普通の人間では。でもああいうふうに伝えるしかないという内容を抱え込んでしまっている人からすると、しかもビヨンはそれを解釈してかかるわけですよね。
ただしそれは何百セッションもやったから解釈できるんだと思うんですよ。
これで思い出すのがですね、もうそろそろいい加減長くなってきたんですけど、いつものことですね。
ドコンジョウガエルの娘さん、主人公が結婚した相手がですね、いつも通りっていうのかな、しょっちゅう爆発する人なんですよ。
すっげー穏やかなんだけど急に爆発する。いろんな見方ができますけど、とにかくそういうことをとして捉えれば、これについて何か表明つけてもしょうがないと思うんですよね。
で爆発すると。でその爆発した時に結構最後の方で深刻な爆発があったところに、突然こう、例えばあの水槽だとかって言うんですよね。
なんかこう、僕はあの水槽が嫌だったのに、君はあの水槽を買ってあそこに置いたみたいなこと言うんだけど、で主人公びっくりするわけですよ。
ほとんどその水槽があることが、部屋に描かれてすらいないような、描かれてたと思うんですけど、なんでここで水槽なんだろうみたいな話なんですよね。
でこの話、ランドセルの話とそっくりですよね。つまり、そういうつもりは多分あのドコンジョウガエルの娘さんには全くないと思うんですけど、君は僕の気持ちをしょっちゅう踏みにじってると言えばわかる話なんですよ。
なんだけど、それでは伝わらないという感じを持ってしまっているか本当に伝わらないのかのどっちかで、めっちゃ具体的な話をするんですけど、そのめっちゃ具体的な話は数年前の出来事だったりするので、普通にわからないわけですよね。
で水槽が嫌だというのも、もしかするとしかもですね、その水槽、その男の人が買った可能性すらあり得ると思うんですよね。
これはだからつまり、なんて言えばいいんだろうな、具体象徴というものは、その人の心の中で起きたことであることは確実なんですよね。
心的現実なんですよ。だからメタファーというものを、最初からメタファーと言えばメタファーなんですよね。
心的現実は夢ですから、現実そのものではちょっとないので、でも現実に起きたことでもあるんで、その人の中ではそこに水槽を置かれるということは許せないことなわけですよね。
でもこれはなんかものすごいわがままにも聞こえかねないんだけれども、しょっちゅうあることじゃないですか、私も難しいなと時々思うことがあるわけですよ。
魚の煮付けはその皿ではないと、うちの奥様に言われるわけですよ。これは具体的なことを言ってるんですよね、すごくね。
あなたはでも私の皿のルールをもう理解していいぐらい一緒にいるっていうような案にそういうことも言われてるわけじゃないですか。
一方で、私は私の好みでやってもいいっていう言い方もできるじゃないですか。
でもこれを言うためには、だったらお前もうちょっと料理しろって話になるかもしれないじゃないですか。
これらのことが全部ここに含まれているんですよ。
だから具体象徴を人が使うときは、なかなか切迫した課題がそこに含まれているケースが少なくなくて、これが青いランドセルか赤いランドセルか問題なわけだと思うんですよね。
こういう時に僕らはしかし、廃坑するというかPSポジションに入るわけですよね。
結局この問題は自分が悪いのか他人が悪いのかの領域の端っかりみたいなところに多くの場合あって、よしよしで言えばですよね。
そうすると自分が悪いのか相手が悪いのかってまさにPSポジションじゃないですか。
つまり相手は操作の対象になってしまってるわけじゃないですか。
間違えなくなってますよね。
たとえ魚煮付けをどの皿に入れるのが正しいにせよ、思いやりのある夫だったら自動的に分かることであるかどうかはともかくとして、
とにかくその皿に入れなかった私に対して入れる私になれと言ってるわけだから操作的であることは、この操作的は操作的だから悪いって言うんではないですよ。
人間はただ他人が自由に振る舞うということがどうしても自分としては、なんて言うんですかね、抱えきれないケースであるわけですよ。
非常に極端なことを言えばセクハラとかパワハラがあるってことになりますよね。
セクハラとかパワハラを相手が自由にしたいのがとにかくベストなんだってことになると、自分は自由にされるがままにならざるを得なくなるじゃないですか。
その人がパワハラをするような上司であるならば操作するしかないか、あるいは自分の受け止め方を変更するしかないか、
まあこのどっちかを選ぶと大体どっちも無理なんで、相手はよく言うけど相手は変えられないって言いますよね。
でも自分の認知をどこまでも変えていけばいいかっていうとそういうことでもないですよね。
だからこの中間を模索していかなければならないんだけど、この中間を模索するためには具体象徴を使っているとおぼつかないんですよきっと。
だけれども、だからこそなんですけどね、でもどっちかを変えなきゃダメだって思ってるわけですよ。
そうすると具体象徴でいくことになるわけですよね。
お母さんに変われって言ってるわけじゃないですか。
でもお母さんに変われっていうのはPSポジションじゃないですか。
で、お母さん変わる気ないから言えばいいじゃないっていう風に投げ返してしまうわけですよね。
言えばいいっていう風に言うってことは相手を操作しようとしてますよね。
言わなかった娘を言うように変えると。
でも言ったからと言って言われた通りにするかどうかはまた別の話なんですよ。
だからこういう問題の場合に具体象徴みたいな具体的な比喩ってものがしょっちゅう使われて、
お互い対抗が始まるわけですよね。
お互いがPSポジションになってお互いが相手を変えようとしてしまう。
よく言われてる通り他人を変えることは実際できないと。
だからと言ってこれを飲み込んでしまうと結局のところ接触障害になってしまうわけですよ。
だからこの中間を目指して頑張らなければいけないんですよ。
でもそんなことは到底無理だというか考えつかないからどっちかしかないじゃんと思ってるから、
だから分析家と衝突するわけですよね。
どっちかしかないでしょうっていう思考につまり心が固くなってるんだけれども、
どっちかしかありえないわけですよ。
お母さんが変わるか私が変わるか究極的にはどっちかだっていうことになってしまうんですよ。
実はどっちでもない解決策を模索するためにやってることがそれなんですけれども、
それはちょっと信じられないよねっていう心理状態。
この心理状態が具体象徴というものにそれこそ象徴的に現れてくるんだろうなと。
柔軟性を持つためにはやっぱりコミュニケーションするしかなくて、
その場合具体象徴はとても使いづらい。
具体象徴、コミュニケーションの道具としてはとても使いにくい。
本当にインデンシブルにやってる親子じゃないとそれではやりとりできない。
だけど一旦そこまで行けるようになる関係を作って、それがラフォールってことになるんだと思うんですけど、
そこまで行ってみてからもう1回具体象徴を使わなくても、
この問題をやりとりできるようになるというところまで行くって話をしてるんだろうなと。
精神分析ではですね。
でも私は精神分析じゃないんで、こういうルートを意識するにしてもですね、
もっとも長くかかるというか、もっとも手も暇をかけるならば、
こういうところまで行くってことを考えるにしても、
まずは一番最初の入り口に、だから入り口付近の設定だと思うんですよね。
治療同盟みたいなものを考えることはある。
治療同盟の難しいところは一見したところ良いものと悪いものみたいなものを作っちゃうってことだと思うんですよ。
ここには三角形があって空間がある感じっていうのもあると思うんだけど、
要するに良い健康を目指す良いその人と健康邪魔する悪いその人みたいになってしまうじゃないですか。
そしたらやっぱりこの治療同盟みたいなのは、そういうセットを意識して、
そういうセットに語りかけることをするフェーズはあるけれども、
割とさらっとそこが通り過ぎていって、あれ治療同盟どこ行ったんだっけっていうぐらい、
その後は出てこなくなったりするというのも多いなと思うんですよね。
だいたい精神分析で治療同盟って出てくるのは、設定時の話だなって感じがするんですよ。
いつしかその話はどっか行ったなっていうような。
いつしかどっか行ったなっていうのがすごく多いんですよ。
急にミニコット出てきたけど、いつしかどっか行ったなみたいなそういうノリ。
そういう使い方っていうのが力動系の本では多いなって感じを受けて、
これもすごく僕の感じでは、だからその時に時々頻度の設定とか、
家族同席が急に入ってきてみたり、また一人にしてみたりっていうのが切り替わったりするんだろうなという感じがして、
していてですね。
やっぱこれはですね、そういう観点で見ないとよくわかんない話だし、
そういう観点、観点なんですよねこれ結局ね。
こういう観点がサンチャレでは大事だし、大事にして、
なんつうんだろうな、この観点を使って何かをしましょうということを、
世の中ではなんか知らないけどやんないので、
自分はやっている、やっていきたくてやっているという感じなわけですね。
それがようやくなんとなく説明できるようになってきたかなと思うんですよね。