1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 青いランドセルが欲しかったの..
2025-04-25 44:36

青いランドセルが欲しかったのに【1173】

具体的すぎるメタファー。
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サマリー

このエピソードでは、ポッドキャストの運営に関する様々な悩みや計画が語られています。特に、治療同盟という概念が中心となり、精神分析の歴史とその進化が取り上げられています。精神分析における治療同盟や病理構造体の概念が議論され、特に接触障害における非協力的な患者の心理について考察されます。治療者と患者の間のコミュニケーションの重要性とそこに存在する二重構造についても触れられています。家族の会話を通じて、子供が欲しがっていた青いランドセルと母親の意向との対立について考察されています。子供の心理と親の理解のギャップを象徴的な例として引き合いに出し、治療的関係の重要性が述べられています。具体象徴を通じてコミュニケーションの難しさと切迫感について考察されています。特に、ドコンジョウガエルの娘さんの例を挙げ、心の中での具体的な象徴がどのように関係性に影響を与えるのかが論じられています。

ポッドキャストの運営の悩み
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1173回をお送りします。
4月25日金曜日7時34分です。 実はこの1173回コールをずっと渋っていたから、昨日のまでのようなことになった。
告知もしたかったということをありながらですね、 引っ張っていたどうでもいいようなしょうもないことを引っ張ってたわけですが、これはですね、
ゲストの新井さん等の回を今週の頭の方で配信させてもらいましたけど、これの後編がありまして、ここが1173回コールがあったからなんですけど、
ちょっと聞いてみてですね、あれがいかにも長く、僕が喋ってることが、なんていうのかな、面白くもないことをずいぶん喋ってんなとは僕が感じてるだけなんで、
気にしすぎと言えば気にしすぎ、気にしすぎなんだと思うんですけどね。なんかトータルでも長くなったし、ちょっとこう、
あとですね、山崎さん回というものが3月に行われましたけど、
その続編をやるべしという声はあって、やりたいわけなんですよ。やりたいわけなんですが、
5月に、これは私の方の事情ですが、J松崎さんが帰国、ドイツから帰国されるということで、5月は絶対到底無理で、
もしかすると6月だって、つまり多分5月がうわーっていう中で過ぎていきます。で、6月がやってきます。
いう感じになるところの6月にこれを置くのは結構心理的に悩ましいなと。先考えすぎですけどね。
できれば7月にってことになるんだけど、7月にやることの話をこの4月のポッドキャストでしてて、
なんかなーっていう、しかもさっきの言ったような、なんか長くなったし、瞑想気味だったし、僕の部分がですね、全部。
うーん、ということでちょっと、つまり悩んでるわけですね。悩んでるから出せてないと、そういうだけのことです。
はいはい、えーと、というわけで、まあいずれはこういうところの方に流していきたいんですけど、何しろもうJさんが帰国されるのが、
もう3日以内ぐらいなところに差し迫っていて、正直そっちの準備がですね、私の方も結構やっていて、久しぶりに。
まあ楽しいからいいんですけど、あのー、なんていうんですかね、いつもやってないことが、あのいつもの業務プラスアルファで降りかかってきて、しかもゴールデンウィークが迫ってるじゃないですか。
ちょっと家族の旅行は行かないんだけどね、計画の方もあって、なんか今目まぐるしくなってしまってるわけですね、要するに。
本当に目が回ってる感がありますね。あの時間の使い方的に言うと、別に目は回ってないんですけど、いや皮膚なんですけど、今日は皮膚の話をしたいんですけどね。
というわけで、あのー、端的に言って忙しいわけですね。こういう中でエイヤーで上げてしまうのはちょっともったいないなという、このもったいない精神がですね、
だいたいこういうのは良い結果を生まないんですけど、せっかくアライさんにわざわざ忙しい中でコラボしていただいたのに、その効果を最大限利用しようみたいなね、
そういうまたろくでもない考えなんですけど、この種の考え方で僕が何かをうまくやれた試しがないような気がしますが、明らかにそういう気持ちはあるんですよね。
そういう気持ちってどうしても出ちゃうんですよね。こう、人の力を借りてしまうと、やっぱここは最大限に生かそう。最大限ってそもそも何なのかが、
この場合に多分山崎さん回の精強さにプラスする、まあそれしかないですよね。
それを考えると今出してしまって7月ってことになってくると、これはもう全然何にもプラスされないなと思いながらも、
多分6月になると1200回ぐらいになってるじゃないですか。そこにいきなり1173回。だからその辺はカットすればいいんだけど、僕そういうのめんどくさがるんですよ。
いい加減にしろって話にだんだんなってきてますが、申し訳ないんでこのままいこうと思います。
治療同盟の概念
えっとですね、メタファーなんですね。所詮はメタファーって話です。
昨日、ポッドキャストで喋って、3ヶ月チャレンジの参加者さんとも久しぶりにこのキーワードをちゃんと喋ったことはあんまり最近なかったかもと思いながら喋ったということで、
取り上げたいんですけど、治療同盟っていう言葉があります。治療同盟って言葉はですね、多分今はあんまり使われてないんじゃないのかな。それとも依存系のところでは使われてるんですかね。
僕医療系の人間では全くないというか、医療系でも心理系でも全くないわけですけど、なので、
えっとですね、つまり簡単に言うとっていうか、治療同盟という考え方があるんです。私はこれも精神分析の方から来たのか、医療の歴史から来ているのか厳密にはもろんわからないんですけど、相当古い時からある言葉。
多分戦前からあるんではないだろうかと。ただまぁ戦中、あの頃ね本当に凄まじいし、よくわかんないし、フロイトも使ってるかもしれないけど、そもそもフロイトって医者でもあったから、
いよいよよくわかんないですよね。出どころは厳密にはわからないし、概念としてはどっちが古いとかわからないんですけど、もう明らかに精神分析に治療同盟という概念が、多分僕の感じでは早い時期があるんじゃないだろうかと思っているんですね。
で、これはね別に正規でも何でもない私が言うところでもないんですけど、なんかね精神分析の書いてる人の本とか読んでいると、まぁこれは日本人の人も含めてなんですけど、なんかね独自職を維持したいというのと、しかし一方では扱う領域を当然拡張していかねばならないという、この2つって矛盾するじゃないですか。
独自職を出すということは特定分野に強いってことを言うべきなんですよね。例えば極端に言うと精神分析ってフロイトが出発した出発点にさえこだわっておけば精神分析って絶対的な地位は保てるわけですよ。
つまりどういうことかというと、精神分析とはヒステリーを中心とするノイローゼンを治療するための方法論なんです。他の人見ないんですって言い切ってしまえば、そうしたら多分ね精神分析というものは何かみたいな議論はなかったに等しいと思うんですよ。
だってそんな狭い分野の話、今から見れば狭いじゃないですか。これはこれで広いけども、今となってはもうそんなのある意味何かないも同然とみなし得るじゃないですか。だから精神分析というのは極めて特殊な治療法、極めて特殊な領域にだけ適用できる極めて特殊な治療法なんです。特殊ですけどね。言っておきさえすればよかったならそれでいいんですよ。でもそうではなかったですよね。拡張していったところがあるわけですよね。
明らかにモノの本にはもうボーダーラインだってタブーですみたいなことが昔の本ですよ。書いてある、あったりもするんですよ。それは正規の人が書いたんじゃないかもしれないけど、そういうの平気で書いてあった時代もあったんですよ。でも自我心理学なんて私もアメリカに行って聞きましたけど、どうやったってボーダーラインを見るのが精神分析ですぐらいなことを言ってる人は普通に精神分析家でもいらっしゃったわけですね。
私はアメリカ人に英語でこれを聞いたんだから、その人は精神分析家だったから確実なんですよ。その人の思い込みかもしれませんけどね。でもボーダーを見に行ったことによって自我心理学が復活していったみたいなことを馬場玲子さんも本の中で書いてらっしゃるし、ここもほぼ確実だと思う。でもこれ明らかに領域拡張してますよね。
精神分析の理解
もともとタブーですっていうような、自分からそう言ってたわけですから、をわざわざ見に行ってるわけだから、そうするとどういうことが起きるかというと、精神分析というのはもっと普遍的にノイ・ローゼやヒステリーだけに対応するものではなくて、もっと普遍的にいけるんですってことになるわけですよね。
で、対照関係論なんかは、もっと重い方、この重い方を見なきゃいけないんだって、多分フロイトに言った人がフェレについて人だったような気がしたんですけれども、まあそれはいいとして、正確じゃないかもしれないからね。ここ大事ですからね。私が喋ってるのは常に正確じゃないかもしれないと思って聞いてないとダメです。ここの正確さを僕は追及しようという気はないんで。ここ大事です。
えーと、まあいいや。ビヨンとかね、結局は統合主張書まで見るように明らかになってるわけですよ。これも確実です。だってビヨンの本に統合主張書のクライアントさん出てきますもん。そして、私なんかが読むと、昨日ね、面白いことがあったんですよ。鈴木智美さんの読んでいたら、ビヨンを読んでも何が何だかさっぱりわからんと書いてあって、いやーそうだよなーと思って、僕も自分が何が何だかさっぱりわからないのは、
野良化非正規だからだろうぐらいに思ってたんだけど、そんなことはないんだという。だってもうほぼ対価じゃないですか、鈴木智美さんなんて。で、最初に読んだ頃は、最初に読んだ頃の話ですけどね。何が何だかさっぱりわかんないというふうにあっさり書いているところを読むと、やっぱこれ何が何だかわかんないよね、普通の人の感覚だったらと。別に自分の頭が特別悪いとかいうわけじゃ全然ないよなと。
これほど成人分析の本とか読んだり、それこそ山崎さんと一緒にイベントとかさせてもらったりさせてもらえばわかるようになるという理由は何もないですけど、させてもらったりしていても、何が何だかさっぱりわかんない俺はよっぽど筋が悪いのかと時々思っちゃうんですけど、やっぱビヨンのって何が何だかさっぱりわかんない。なんか部分的にでもわかるようになってきた自分すごくないって思うようになってきたんですよね。あの鈴木智美さんのあれを読むとですね。
だって彼女にわからなければ私にわかるわけがないじゃないですかって思うんですよね。だからこれはそうだよやっぱりわかんないんだよこの書き方じゃっていうふうに思うようになったのが統合失調症の患者さんのクライアントさんの分析過程なんですよね。でもいろいろやっぱ読み飛ばしてるところがあるんだなっていうのはわかるようになりました。何回か読んでるうちに。
例えばもうこの時までには何百セッションもやったんだぜみたいな。そうか、だからこれでわかるんだというのがわかるようになりました。だってあのやっぱりいきなり書いてあると最初の頃からこういう解釈してるのかなと。なんでこういう解釈出てくるんだっていう感じがするんだけど、これが何百セッションも後ってことになるとやっぱりその人独自の言葉遣いとか何なら息遣いとかまでわかるようになるんだと絶対思うんですよ。
美音ぐらいの人になれば特に。だって私だってその回数をものすごい重ねた人とはですね、もうこの会話他の人聞いても意味全然わかんないだろうなって会話をしてますもの。やっぱりそうなりますよね。だって家族の会話ってそうじゃないですか。あの私と母の会話なんてあまりにも暗雲の呼吸すぎて他の人聞いても全然わかんないと思うんですよ。
ちなみにそういう言い方をするならば、やっぱりうちの娘が1歳だったときってうちの親のところ、孫だからね、言ってやたらかわいがるけれどもわかってねーなーっていう感じすごいしましたから。うちの子がやっぱりたどたどしいわけですよ。1歳だから。もにょもにょもにょもにょみたいなこと言ってるんだけどほぼわかるわけですよ。親は。だけどおばあちゃんおじいちゃんはとんじんかんな解釈をするんですよね。やっぱわかんないですよね。それはね。
あの言葉遣いがおかしい上にシチュエーション、なんていうかね、息遣い的な何かなんですよね。このタイミングでこのもにょもにょ言ってるってことは、あの外に行きたいんだなみたいなことはわかるんですよ。手に取るように。っていうのはコミュニケーションだってことですよね。でもそれは親だからわかるってことなんですよ。セッション回数の数が全然違うんですよね。あの過ごしてる時間のインテンシブ度が違うという。これは精神分析に明らかに関係があることだなと思うんですよ。
だってですね、まあ私も肉親に統合主張症の人いるからわかるんですけど、そもそもこの人の話を他の人は真面目に聞く気が全くしないだろうと。だからますます問題がこじれてくるんだけど。
まあ私は一茶なんですけど、まさにこれは正気中の正気ですよね。正しく意思免許をお持ちの精神科医だって、かかりつけの精神科医さんいるんですよ。私もしょっちゅう、しょっちゅうというかちょいちょい会いに行くんですよ。その人のところに。この人は把握しきれてないっていうのはよくわかるんですよ。説明していて。
十分には理解していないし、理解する気ももうちょっと欲しいみたいな感じ。いい先生ですよ。しょうがないんです。しょうがないと思うんだけど、でもやっぱりもうちょっといけないかなって感じはしなくはないんですよね。話聞き込めばわかるはずなんだけど、別にカウンセラーじゃないんでね、わかんなくてもいいっていうのはあると思うんだけど。
結局なんかこう、やることは投薬なんだから、話を聞かないっていうか話を理解するっていうことはしないっていうことであると、まあ、別に許可さえあれば自動販売機でもいいじゃないですか。ずっと出てる薬は同じなんで、変えてほしいわけだけれども、そもそも当人が納得しない以上変えられないわけですよね。
これが非常に難しい問題だったりするんですよね。下手に無理やり返させるとそもそも病院行かなくなったりしますからね。そしてそれが起きるとまた一大騒動になってしまうんで、下手なことは言えないと。でもやっぱり自分みたいに3時間ぐらい自分の肉身とこう話をしていて、少々わかりにくいところはあの手この手で理解しようとすればだいぶ違うんですよ。
わかることでコミュニケート取るのは私だけみたいなことになっちゃうわけですけど、これもすごく問題なんですよね。で、これはあの手この手でまた取るように言うんだけど下手にとっても喧嘩にそこでなって、そうするとまた一大騒動なんで、もうだんだん慣れてきたんですけどね。こういうパターンもね。
そういうちょっと脱線しましたけど、何の話をしたかったんだかというとですね、一旦ここでしかし打ち切ります。で、どうしてこの話になったか、今ちょっと中断して忘れかけてるんですけど、治療同盟の話をしてたと思うんですね。いいんですよ。別にこれが医療が歴史の中心だったか心理療法だったか精神分析だったかはほぼ僕の興味ではなく。
治療同盟の概念
精神分析ではこの治療同盟というのを、要するにその場にいないパーソナリティというものへの語りかけみたいにして扱っていた時期があって。
特に僕はこれはですね、ローゼンフェルドとか、やっぱりメラニクラインなんですけど、ローゼンフェルドとか、あの辺ですごく出てくるんですよね。総敵防衛の話ですよ。病理構造体の話ですね。
特に病理構造体ですから、結局こうなんていうんですかね、ナルシズムが、先方が急進してきて、こんな治療はくだらねえからやめるみたいな、ギャング団みたいになっちゃうわけですよ。
いいことしようと頑張り始めると途端にボコボコに、いいことしようとするパーソナリティがボコボコになって、そんなくだらねえことはやってられないんだみたいな感じになって、大事な関係を破棄していくという、そういうやつですよね。
そういう、なんていうのかな、パーソナリティの集団みたいな、これはね、僕すごいわかるような気がしたんですよ。藤山直樹さんの集中抗議で、ギャングって表現がまさに出てくるんだけど、これはね、すごいわかる気がしたんですよね。
いいことをみんなでやっていくということに対する、なんというかわかんない、生理的嫌悪感みたいなものが動き出して、僕の中とかでは動きやすくて、結構苦労したんですよね。
なんかこう、それをやろうとする自分は、すごいいいこぶって信用ならないみたいな、そういう感じになるんですよね、内的に。
だからここから僕はローゼンフェルドは結構早い段階で一生懸命読んだ。わかりにくかったんで、非常にまたね。
メタファーなんですよね。結局メタファーなんで、メタファーに決まってるじゃないですか。心の中にギャング団がいるわけないんで。
でも夢の中でギャング団出てきたりするっていうのは、病理構造体みたいな話ではよく出てくるんですよね。
悪の組織みたいなのにだんだん入っていくみたいな、そういうやつですね。夢の中でね。
だからそれは夢の中にいろんなパーソナリティがいるんだと、中に極悪団みたいなのがいて、そこにしかも魅力を感じてしまうというやつですよね。
で、なんでこの話になってるかと、ていうかこの話ちょっと今だとわかりにくいと思うんですけど、今総的防衛の話はしてなかったですから。
鈴木智美さんがやっぱり接触障害の集中的に取り扱ってる本がありまして、接触障害では割とおなじみなんですよ。
この治療同盟的な考え方。だから私、二論でやっぱりこれはすごく大事。結局どのメタファーを使うかみたいな感じなんですよね。精神分析って結構。
病理構造体というのも一つのメタファーですし、古典的なS・自我・超自我もまたこれも一つのメタファーじゃないですか。超自我なんていないんだから。
やっぱり例えですよね。比喩でしかないわけですよ。ところがこの比喩が比喩を扱えない年齢や心理状態の時に比喩を扱おうとする人たちの比喩を扱ってるから、精神分析ってわかりにくいんだと思うんですよね。
病理構造体とかまあまあそれもそうですし、例えば環境都市の母親とか良いおっぱい悪いおっぱい全部比喩ですよ。なんだけど良いおっぱい悪いおっぱいという比喩を使ってる頃の子供には一歳児未満。比喩ってものがそもそもわからない年頃なんですよ。
接触障害と解釈
でも人間なんで無理やり比喩使ってしまうわけですよね。そうして鬼ヶ島に鬼退治みたいな比喩が発生するわけですよ。ものすごく具体的なんだけど比喩ではある。普通比喩ってのは具体ではないわけですよね。だから象徴投下物みたいな話も出てくるわけですけど。
とにかくこう具体的なものではないわけですよ。松木さんが挙げられていた例はいい例だと思うんですけど、あの胸の中に女性気がありますっていう比喩ね。比喩なんですよ。胸の中に女性気はないんだけど、だから胸に性欲が迫ってきてますっていう風に言えばみんなに分かる比喩になるんだけど、胸の中に女性気がありますっていうことになってしまうんですよね。良いおっぱい悪いおっぱいっていうのはまだにそういうことですよね。
比喩なんだけど具体的すぎて比喩としての機能を果たしていないという比喩。で、病理構造体もそういうレベルにあるところの比喩なんですよ。これをどう、これのどの辺を扱うとその人の言ってることが分かりやすくなるかっていうのがすごく精神分析では追われるんだと思うんですよね。僕が取り扱いたいのもまさにそういうことで、これをビジネスコンセルに生かせないだろうかって考えてやってるんで。
だから私は精神分析やってるわけでも心理カウンセリングやってるわけではないというのも最初ちょっとこれを予防戦的に言ってたんだけど、今では確かにそうだっていう感じがしてるんで、被る理由はないんだというふうに思うんですよ。
行動的な比喩の使い方を別に日常生活やビジネスの現場に持ち込んでも、別にそれは問題じゃないような気がするんですよね。そして私はそれをやって有効活用できている気が最近してきたので、だいたい最近確信が得られつつあるので、その話を一生懸命しているし、これをわざわざカウンセリングだっていう。
カウンセリングではないんで、そうである必要もあんまり感じなくなってきたってことですね。
治療同盟っていうのも一つの比喩ですよね。要するにそこに3者いることにする。2者しかいないんだけど。患者さんと治療者さんと、要するに協力的な患者さんと非協力的な患者さん。
ここに精神病部分と非精神病部分みたいなそういう考え方が出てくる感じがあるわけですよ。力動的なですね。だから接触障害っていうのは先生のことなんかどうでもよくてとか言うわけじゃないですか。
私は別に病気じゃないんだから。病気なのはうちのお母さんなんだからみたいなそういうことを言うわけですよね。つまりそこに接触障害で非協力的な患者さんが来てるわけだけど、でも来てるということは、そこに自分からわざわざ来たということは、やっぱり治したい。
これを健康な事故とかって言ったりするんだけど、健康な事故と病的な事故っていう言い方を、これはだから一つの比喩ですよね。1人の人間しかそこにいないんだから、2人はいないんだから健康な事故も何もないんだけど、そういう比喩を使って、それを実際に語りかけていくわけですよ。
鈴木智一さんとか松木さんもそうなんだけど、つまりここにあなたの中には治したいと思っているあなたもいてうんうんっていうふうに解釈なんですよね。これもね、だから精神分析の形式ではこれを解釈ということになるんですよね。
普通の医療では解釈とは言わないのかもしれないんですよね。これを説得というのかもしれないんだけど、あくまで解釈。あなたはこのままでは立ち行かないと思っているんでしょうと。これはだから相手が言った言葉は解釈するとそうなるんだよという形を取ることで、健康な事故に語りかけるっていう言い方もできるわけですよね。
だからそこにはうっすらとやっぱりうっすらというのかな、微妙に二重構造がそこに作用していると思うんですよ。で、この二重構造の中でそこには見えていない、まあ諸学的なね、私はでもよくそのことを考えながら一応やるんですよ。そこには来ている感じがしないんだけど、確かにいるはずの、その人の中にはいるはずのパーソナリティに向かってしゃべるっていうことをやると。
で、実際半信半疑ですよ、そんなもの。私はそれこそ訓練積んだわけじゃないって言えばそういうことになるし、エビデンスベース論っていうのはそもそも訓練積もうと積むまいと関係ないんで、そんなパーソナリティがいる証拠をMRIではこの辺にそのパーソナリティいますねとか映ってますとかありえないから。
パーソナリティの多様性
結局のところ、そんなパーソナリティはいるというのは仮定、そう仮定してかかっていくしかないってやつなんだけど、でもやっぱりそういうことって映画とかでもよく出てくるじゃないですか。だからそこにいないパーソナリティに向かって語りかける。そこにいない人格に多重人格とかいう話ではないですよ。
これは総敵防衛の病理構造体もそうなんだけど、これは多重人格の話、いわゆる乖離の話ではないと思うんですよ。そういうことではないと。あくまでもその人のやっぱりPSポジションとDポジションでもいいんですけど、その人のコンステレーションが変化したときにはまるで違う人格が現れたようになるケースって普通にそういう人っているじゃないですか。
ある意味、うちの奥さんだってないわけじゃないですよ。ちょっとユングっぽい話になってくるんだけど、うちにパンダのぬいぐるみがいて、うちでは通称パンダお母さんと呼んでるんですけど、やっぱりうちの娘もそうなんですけど、パンダお母さんの喋り方とか声色を使って喋ることができるわけですよ。人ってそういうことできるじゃないですか。人形劇がやれるわけですよね。
ポール・ギャリコのパワーファイアーが取り上げてましたけど、7つの人形の恋物語ってあれは素晴らしい話だと思うんですけどね。ユング派だったらああいう人形劇みたいな言い方するんでしょうね。たぶんあれを対象関係と内的対象関係って言うんだと僕は思うんですけどね。クライン派で言えば普通にってことになるんだと思うんですけど。
そういうふうにいろんなパーソナリティみたいなものが自分の中にあって、その対話をしたところに藤山直樹さんのよく使われる表現を言うと、その対話の中から主体性っていうのが現れてくるんで、どれかのパーソナリティが全主体を握るっていうことはありえないんだっていうような考え方ですよね。これを力度の考え方の中心に置くのが対象関係論だと思うんですけど。
とにかくこういう入り組んだ話はともかくとして、治療同盟って考え方があって、これはなかなかいい感じがするんですよ。僕これはただですね、やっぱり、何て言うのかな、実際に精神分析の人がやってるのは急にここにビオンのアルファ要素が出てきて、急にローゼンフェルドの治療同盟が出てきて、かと思うと何かいいスプリッティングでいいおっぱいと悪いおっぱいの話が出てきてっていうふうに、
いろんな人が使ってるメタファーを、やっぱり結局ブリコラージュだよなーって感じがするんですよ。対象関係の人は対象関係が使えそうなものになるべく絞ったブリコラージュだけど、でもブリコラージュはブリコラージュじゃんって感じがするんですよね。
遠方カイドさんの言う通りだなと。そこがすっごくのほうずになっていったのが、野の医者なんだろうし、もう何か使えそうなもの、俺が気に入ったものは全部使うからみたいな。星占いから、えーとなんだろう、箱庭まで全部やるからみたいなのが、エディプスが出てきたり箱庭が出てきたり、急に星占いになってみたりするからみたいなのが野の医者ならば、
そこに一定の切度が感じられるのが、一定以上の切度が感じられるのが正規だなって感じはするんですけど、ブリコラージュでないっていうことはまずないなと。
あのー、ね、ウィニコット波紋にしましたけど、クラインは。でも対象関係論の人は結局クラインをベースにしながらウィニコットの理論を使い出すじゃないですか。
藤山直樹さんですらそうじゃないですか。で、これはしょうがないと思うんですよね。ここでその波紋にした人のは使ってはならんみたいな。
宗教的にはそういう感じするんですけどね。波紋にしたのにその人の理論使ってどうなのって感じするんだけど、でも、あのー、普通に使えますよね。
やっぱり良いオッパイ悪いオッパイ言ってる人だって、環境としての母親が、その概念を使った方がこのクライアントさんは理解しやすいなと思ったら使うと思うんですよ。
で、でもそのどこかその線は出ないみたいな。アンナフロイトの言ってることはあんまり採用しないみたいな。でもそれだって精神分析の枠組みだったら使えるってことになってきて。
で、結局私は心理カウンセリングでは例の、あのですよね。えーと、ハップみたいになっていくと思うんですよ。
ジャーズっぽく形状形状共感共感みたいに言ってたのに、急になんかこうユングっぽくなって影みたいな、影みたいな考え方になったかと思うと、突然こう行動良法的になってて、あなたの認知がちょっとうまくいってないみたいだから、この辺なんとか認知を修正できないかみたいな話になってるかなと思ったら、今度は行動良法をやりだして、
じゃあ来週までにはちょっと奥さんにもうちょっと働きかけるのをホームワークにしましょうみたいな。そうなるじゃないですか。僕これ正規の人は絶対やってると思うんですよね。
なんて言うんだろうな。しょうがないと言えばしょうがないし、どれか一つでやっていけないみたいなところもあると思うし、ただアセスメントのところでは、言葉は精神分析のだけど、やってることはDSMそのものだしってことは多々ありますよね。じゃなきゃボーダーラインって言葉の意味は全く意味がないと思うんですよ。
なんで治療同盟というのは突然ここだけ治療同盟みたいな話が出てくるんですよね。急に鈴木さんはやっぱり私は柔軟だなと思うんですけど、急にお母さん登場みたいな。ではここで面接設定しましょうみたいな。あれ設定を絶対動かしちゃダメみたいなことを盛んに言ってる話はどこに行ったんだ。
まあ分析家が本家本元の分析家がやる場合はいいのかみたいな感じがするけど、本家だからダメなんじゃないのかみたいな感じもするじゃないですか。突然週4に設定してし直すことになるみたいな感じになるんですけど、別に私はそれはすごい良いと思うんだけど、なんかこう絶対動かさないのが正義なんですっていう話はどっかすっとぶん感じがするんですよね。
私はその方がいいと思うんですけどね絶対に。どう考えてもそこで固守する良さもあるんでしょうけど、それはなんなんだろうな。あれはやっぱり常識的な感覚みたいなものに最後はなってる気がでもするんですよね。わからんけど。
家族両方を設定しましたってなった時にお母さんが登場するわけじゃないですか。お母さんが登場しちゃうとそれは精神分析そのものでは全くなくなるけど、そこの中で言ってることは力道だよなって感じもやっぱりするわけですよね。
娘さんが言うわけですよ。なんていうのかな。だから鈴木智美さんがよくさっき言ったような、あなたはこのままでいいって言ってるけれども実際はこのままではうまくいかないことはわかってるんでしょうという風に。
だけれども、言っていることとは違う、直したいと思っているあなたもいるようですっていうような言い方をする。これは本当にそう言ってるのかわかんないですけど、大体そう書いてあるわけですよね。こういう書き方してるわけですよね。
私これの非常にいいなと思うのは、13歳の人が多いんですよ。こういう話になってくると、接触障害の女性というか少女っていう場合。この内容とこの語りかけ方って相当大人向けですよね。大人向けって感じがするんですよね。
やっぱりここに親子のメタファーみたいなものをぶち込んでしまうと、そういうやり方もありそうじゃないですか。本当はよくなりたいんでしょうみたいな。言ってることは同じだけど、言い方が違うじゃないですか。私絶対この敬語を外さないとか、もう僕もつい勢いで喋ってるときには外しちゃうんだけど、極力やめるようにするんですよね。
絶対もうなんつーんだろうな、普通に割と堅い文語的敬語で行こうみたいな感じってあるんですよ。おっしゃるとかいらっしゃるみたいなそういうやつですよ。なんでかっていうと、この種の人はプライドがそもそも高そうだっていうのもなくはないんだけど、やっぱりブランクスクリーンみたいな意味があると思うんですよね。定義が一気に進行するじゃないですか。
親的な動きをすると、大体において親対象は悪い親になってしまうと思うんで、少なくともそういう場面はしょっちゅう出てくると思うんで、いいお母さんになってしまうのだっていくらか問題がありますよね。だからすぐそこで親子関係に入りかねない状っていうのは、それはそれで一つの手法だと思うんですけど、そうしないってことが大事だと思うんですよ。
そうすると、結構13、4の少女にしては大人な対応をするんですよね。これをしてる段階ですでに、それまでの相当反抗的な子供っぽさが抜けてますよね。パーソナリティの変転みたいなものがやっぱりそこで起きますよね。扱われ方によって起きますよね。
この扱われ方みたいな話もまた、なんかこう、ちょっと精神分析的じゃないじゃないですか。違う手法を取ってるみたいな。だからやっぱり総合的になっていくんだろうと思うんですよね。話飛んでますけどね。で、こういうふうに大人っぽい扱い方をされているうちに、急にまた言うことがですね。
家族接点の中で、そもそも私はお母さんに赤いランドセルが嫌で青いランドセルが欲しいって言ったのに、お母さんが赤いランドセル買ったじゃないかみたいなことを突然言い出すわけですよ。めっちゃ子供っぽくなってますよね。で、それを聞いた母親は驚いて。
だってあなたそんなこと言わなかったじゃない。言えばよかったじゃないとかって言うわけですよね。僕こういうのがやっぱり、家族面接をやるだけの意味ってこういうところにあるんだろうなと思うんですよね。非常にいいやりとりだと思ったんですよ。
青いランドセルの象徴
何だって、これだから比喩なんですよね。お母さんは人の話、私の言うことを聞こうとしないということの比喩なんですよね。比喩なのに、だからお母さんは私の言う話を聞いてないと言えばそれで通る話なんだけど、わざわざ猛烈に具体的な例が、多分これですね、青いランドセル云々の話は実際にそうだったかどうかも疑わしいと思うんですよ。
で、もう鈴木さんはわざわざこのようなやりとりについて書くと。他にもいろんなやりとりあったに決まってるじゃないですか。どれを選択すればいいか分かんないぐらい記録に残ってるはずなんだけど、わざわざこのランドセルの話を出してくるというのは、やっぱりカウンセリング一般そうかもしれないけど、すごく力動的だなって思うんですよ。
めちゃくちゃ具体象徴になっちゃって、今なっちゃってるっていうか、なんでお母さんがそういうふうな反応するのかというと、まあ常識な反応なんだけど、先生の前だからってこともあったかもしれないんですけど、あなた何も言わなかったじゃない、言えばいいじゃないかって、本当にそう思ってると思うんですよ、多分ね。
なんだけど、多分それを言った場合は、頭から拒否はしないにしても、「えぇー、アオイランドセルの方がいいの?」っていうようなことを言うと思うんですよ。こういうふうにして否認されていくわけですよね。マイルドですけど、この否認の仕方は。でも結局アオイランドセルは変われないんだと思うんですよ。ここが大事ですよね。
だから具体象徴を、具体的すぎる比喩を使ってしまうというのは、それが対抗の表れでもあると思うんだけれども、つまり比喩が使える以前の能力で使う比喩だっていう面と同時に、この生々しさを伝えるっていう、お母さんが私の話を聞かないということがどういうことなのかを、より具体的に伝えないと伝わる気がしないっていう切迫した感覚がああいうところにあると思うんですよ。
わざわざそれを言うと、これは一歩間違うというか、大抵の場合、従ってよくわからなくなるんですよね。
ビヨンの本の統合出張章の話が、靴下に穴が開いていて、そこからペニスが出てきてとか、絶対わかんないですよ。
普通の人間では。でもああいうふうに伝えるしかないという内容を抱え込んでしまっている人からすると、しかもビヨンはそれを解釈してかかるわけですよね。
ただしそれは何百セッションもやったから解釈できるんだと思うんですよ。
これで思い出すのがですね、もうそろそろいい加減長くなってきたんですけど、いつものことですね。
ドコンジョウガエルの娘さん、主人公が結婚した相手がですね、いつも通りっていうのかな、しょっちゅう爆発する人なんですよ。
すっげー穏やかなんだけど急に爆発する。いろんな見方ができますけど、とにかくそういうことをとして捉えれば、これについて何か表明つけてもしょうがないと思うんですよね。
で爆発すると。でその爆発した時に結構最後の方で深刻な爆発があったところに、突然こう、例えばあの水槽だとかって言うんですよね。
なんかこう、僕はあの水槽が嫌だったのに、君はあの水槽を買ってあそこに置いたみたいなこと言うんだけど、で主人公びっくりするわけですよ。
ほとんどその水槽があることが、部屋に描かれてすらいないような、描かれてたと思うんですけど、なんでここで水槽なんだろうみたいな話なんですよね。
でこの話、ランドセルの話とそっくりですよね。つまり、そういうつもりは多分あのドコンジョウガエルの娘さんには全くないと思うんですけど、君は僕の気持ちをしょっちゅう踏みにじってると言えばわかる話なんですよ。
なんだけど、それでは伝わらないという感じを持ってしまっているか本当に伝わらないのかのどっちかで、めっちゃ具体的な話をするんですけど、そのめっちゃ具体的な話は数年前の出来事だったりするので、普通にわからないわけですよね。
で水槽が嫌だというのも、もしかするとしかもですね、その水槽、その男の人が買った可能性すらあり得ると思うんですよね。
これはだからつまり、なんて言えばいいんだろうな、具体象徴というものは、その人の心の中で起きたことであることは確実なんですよね。
心的現実なんですよ。だからメタファーというものを、最初からメタファーと言えばメタファーなんですよね。
心的現実は夢ですから、現実そのものではちょっとないので、でも現実に起きたことでもあるんで、その人の中ではそこに水槽を置かれるということは許せないことなわけですよね。
でもこれはなんかものすごいわがままにも聞こえかねないんだけれども、しょっちゅうあることじゃないですか、私も難しいなと時々思うことがあるわけですよ。
魚の煮付けはその皿ではないと、うちの奥様に言われるわけですよ。これは具体的なことを言ってるんですよね、すごくね。
あなたはでも私の皿のルールをもう理解していいぐらい一緒にいるっていうような案にそういうことも言われてるわけじゃないですか。
関係性の複雑さ
一方で、私は私の好みでやってもいいっていう言い方もできるじゃないですか。
でもこれを言うためには、だったらお前もうちょっと料理しろって話になるかもしれないじゃないですか。
これらのことが全部ここに含まれているんですよ。
だから具体象徴を人が使うときは、なかなか切迫した課題がそこに含まれているケースが少なくなくて、これが青いランドセルか赤いランドセルか問題なわけだと思うんですよね。
こういう時に僕らはしかし、廃坑するというかPSポジションに入るわけですよね。
結局この問題は自分が悪いのか他人が悪いのかの領域の端っかりみたいなところに多くの場合あって、よしよしで言えばですよね。
そうすると自分が悪いのか相手が悪いのかってまさにPSポジションじゃないですか。
つまり相手は操作の対象になってしまってるわけじゃないですか。
間違えなくなってますよね。
たとえ魚煮付けをどの皿に入れるのが正しいにせよ、思いやりのある夫だったら自動的に分かることであるかどうかはともかくとして、
とにかくその皿に入れなかった私に対して入れる私になれと言ってるわけだから操作的であることは、この操作的は操作的だから悪いって言うんではないですよ。
人間はただ他人が自由に振る舞うということがどうしても自分としては、なんて言うんですかね、抱えきれないケースであるわけですよ。
非常に極端なことを言えばセクハラとかパワハラがあるってことになりますよね。
セクハラとかパワハラを相手が自由にしたいのがとにかくベストなんだってことになると、自分は自由にされるがままにならざるを得なくなるじゃないですか。
その人がパワハラをするような上司であるならば操作するしかないか、あるいは自分の受け止め方を変更するしかないか、
まあこのどっちかを選ぶと大体どっちも無理なんで、相手はよく言うけど相手は変えられないって言いますよね。
でも自分の認知をどこまでも変えていけばいいかっていうとそういうことでもないですよね。
だからこの中間を模索していかなければならないんだけど、この中間を模索するためには具体象徴を使っているとおぼつかないんですよきっと。
だけれども、だからこそなんですけどね、でもどっちかを変えなきゃダメだって思ってるわけですよ。
そうすると具体象徴でいくことになるわけですよね。
お母さんに変われって言ってるわけじゃないですか。
でもお母さんに変われっていうのはPSポジションじゃないですか。
で、お母さん変わる気ないから言えばいいじゃないっていう風に投げ返してしまうわけですよね。
言えばいいっていう風に言うってことは相手を操作しようとしてますよね。
言わなかった娘を言うように変えると。
でも言ったからと言って言われた通りにするかどうかはまた別の話なんですよ。
だからこういう問題の場合に具体象徴みたいな具体的な比喩ってものがしょっちゅう使われて、
お互い対抗が始まるわけですよね。
お互いがPSポジションになってお互いが相手を変えようとしてしまう。
よく言われてる通り他人を変えることは実際できないと。
治療同盟の重要性
だからと言ってこれを飲み込んでしまうと結局のところ接触障害になってしまうわけですよ。
だからこの中間を目指して頑張らなければいけないんですよ。
でもそんなことは到底無理だというか考えつかないからどっちかしかないじゃんと思ってるから、
だから分析家と衝突するわけですよね。
どっちかしかないでしょうっていう思考につまり心が固くなってるんだけれども、
どっちかしかありえないわけですよ。
お母さんが変わるか私が変わるか究極的にはどっちかだっていうことになってしまうんですよ。
実はどっちでもない解決策を模索するためにやってることがそれなんですけれども、
それはちょっと信じられないよねっていう心理状態。
この心理状態が具体象徴というものにそれこそ象徴的に現れてくるんだろうなと。
柔軟性を持つためにはやっぱりコミュニケーションするしかなくて、
その場合具体象徴はとても使いづらい。
具体象徴、コミュニケーションの道具としてはとても使いにくい。
本当にインデンシブルにやってる親子じゃないとそれではやりとりできない。
だけど一旦そこまで行けるようになる関係を作って、それがラフォールってことになるんだと思うんですけど、
そこまで行ってみてからもう1回具体象徴を使わなくても、
この問題をやりとりできるようになるというところまで行くって話をしてるんだろうなと。
精神分析ではですね。
でも私は精神分析じゃないんで、こういうルートを意識するにしてもですね、
もっとも長くかかるというか、もっとも手も暇をかけるならば、
こういうところまで行くってことを考えるにしても、
まずは一番最初の入り口に、だから入り口付近の設定だと思うんですよね。
治療同盟みたいなものを考えることはある。
治療同盟の難しいところは一見したところ良いものと悪いものみたいなものを作っちゃうってことだと思うんですよ。
ここには三角形があって空間がある感じっていうのもあると思うんだけど、
要するに良い健康を目指す良いその人と健康邪魔する悪いその人みたいになってしまうじゃないですか。
そしたらやっぱりこの治療同盟みたいなのは、そういうセットを意識して、
そういうセットに語りかけることをするフェーズはあるけれども、
割とさらっとそこが通り過ぎていって、あれ治療同盟どこ行ったんだっけっていうぐらい、
その後は出てこなくなったりするというのも多いなと思うんですよね。
だいたい精神分析で治療同盟って出てくるのは、設定時の話だなって感じがするんですよ。
いつしかその話はどっか行ったなっていうような。
いつしかどっか行ったなっていうのがすごく多いんですよ。
急にミニコット出てきたけど、いつしかどっか行ったなみたいなそういうノリ。
そういう使い方っていうのが力動系の本では多いなって感じを受けて、
これもすごく僕の感じでは、だからその時に時々頻度の設定とか、
家族同席が急に入ってきてみたり、また一人にしてみたりっていうのが切り替わったりするんだろうなという感じがして、
していてですね。
やっぱこれはですね、そういう観点で見ないとよくわかんない話だし、
そういう観点、観点なんですよねこれ結局ね。
こういう観点がサンチャレでは大事だし、大事にして、
なんつうんだろうな、この観点を使って何かをしましょうということを、
世の中ではなんか知らないけどやんないので、
自分はやっている、やっていきたくてやっているという感じなわけですね。
それがようやくなんとなく説明できるようになってきたかなと思うんですよね。
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