エピソードの概要
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1206回をお送りします。
6月19日木曜日7時44分です。
いやいやあの、めちゃくちゃ暑くなりまして、あ、すいません。今週2回も落としてしまったと思いますけれども、3回かもしれない。
先週張り切りすぎた反動とか思われているかもしれませんが、全然関係なくて、本当に用事が立て続いたんですね。
で、これ用事が立て続くとこの時間は出発準備とかに追われておりますので、やっぱり準備できないわけですよ。
で、取っ手出しをしたい私としてはですね、なんかこう準備してないから出すものもないということで、あっさり諦めるしかないんですが、このように用事がなくなりますからどうせすぐに。
私基本的には大抵家におりますからね。
えーというわけで、立て続けに落としたのはただ用事が続いたというだけですね。
で、まあ暑くなったということも若干ありまして、ここでやるのがすごく難しくなって、その時はさすがにちょっと取っ手出しじゃなくてクーラー効いた部屋で取ってから少し間を空けて出そうみたいなのは少しあります。
まだここ大丈夫なんですけど、これからはちょっと厳しい時代がやってくるかもなぁという時期ですね。時期。
まあ雨降ってれば全然いけると思うんですけどね、ここ微妙に日が当たるんですよね、微妙に。直接当たらないんですけど壁に当たってて、じわっと温度を上げてくると。
まあ今相当対策してるんですけど、この光年気象外っていつになったら治る、治るっていうのも変ですけど、いつになったらマシになるんですかねっていうのはちょっとあります。
自立とビジネスの関係
でですね、
前回の3ヶ月チャレンジは個人コンサルですっていうタイトルに良かったのかわからないんですけど、反響が大きくて結構聞かれてるんですよ。
普段の4倍ぐらい聞かれていて、多分Spotifyとかが同じ現象ならば相当伸びてるんじゃないかなという感じで、
お問い合わせまでいただきましてですね、これはちょっとお答えせねばと思っているんですよ。しかもお問い合わせを複数いただいてびっくりしているわけですけれども、
びっくり、お問い合わせを2ついただいてびっくりするってのもどうかと思うんですけども、でも驚きましてですね。
えーっと思いまして、なんかこう、タイトル考えるべきなんでしょうけど、ほぼ何も考えずにタイトルつけてますからね。
もうこれ終わった時には割と頭がぼーっとしている上に、終わってすぐ出したい人間なんで、タイトルとかを大真面目に考えてないんですよね。
だからタイトル考えるべきだなぁと思いながら、お便りをいただいておりました。
で、まぁちょっとですね、喋ったような気もするんですけど、また改めてですね、改めてっていうかちょっと発見もここのところありましたんで、
サンチャレな方とですね、話し込む機会がありまして、その時につらつらとですね、この後でなんですけど、考えることになったんですよね。
自立ということについて考えるようになったんですよ。
まあ言うまでもないことなんですけど、精神分析ってテーマが、大テーマは自立だとも言えるじゃないですか。
例えば、これはもうご本人の責任は僕はほぼ皆無だと思うんですけど、とはいえ、
なんかみんながあいつ余ったれてるよねみたいなことを言われてしまうことってあると思うんですよ。
僕だって相当あったと思うんですよ。
で、その時に自己愛性パーソナリティに見えるとか、古代に見えるとか、薄皮だとか言われるような気も…
いやそれは、それを言える人はある意味分かっているんで、少なくともある程度は分かっているはずなんで。
少なくともある程度はね、分かっているはずなんで。
全く分かられていないと、もう本人にとっては、私だって当時、当時の私には気の毒だと思いますからね。
そんな、いや別に甘えてたわけじゃないんだけど、結果として自立というものに全く向かってないようには見えたよなという。
まあ端的に言うと、僕の場合は彼女が欲しかったわけですよね。
そのことは散々申し上げてますけれども、彼女が欲しかったというのは、彼女が手に入るまでは何もしないぞという、
ある意味、すごいよく分からない決意をしていたわけですよ。
この何もしないの中には当然金も稼ぐ気はないし、働く気だってないからねっていう、それモテないよねって感じはするんだけど、
それはすごくあったわけですよ、私の中では。
今では、言葉でしかもどうして両者が繋がっているのかの説明、簡単に説明するならば、何の意欲も分かないからってことになるわけですよ。
なんていうのかな、目の前の庭が今、庭、まあ庭というにはちっちゃいけど、まあいいや、プランターにガーデニングしてるわけですね。
で、プランターの上にはバジルというお野菜の葉っぱが茂ってて、これが私の今の私には魅力的に見えるんですよ。
ああいいなあと思う。
これを育てるためにいくばっかお金を稼ぐっていうことになれば、それはもう全然いけるわけです。
いくばっかで済みますから、バジル安いからね。
でも、20歳の時の私にそれを言っても、全く響かなかったと思うんですよ。
バジル育てるためにバイトしようよって言ったら、ふざけんなって感じだったんですよ。
まず彼女できてから。
これは分かります?
現実に何の魅力もないのに、現実に生きるということのために、何か現実的なことをするっていうことが、あまりにも拒否なんですよ。
拒否的なんですよ。受け付けられないんですよ。
これを食えって言われても食べられないものってあるじゃないですか。
僕はあまりないんですけど。
でもありますよね。
やっぱりこれはちょっと無理だみたいな。
それ食べ物じゃないでしょうみたいなのもあるじゃないですか。
こういう感じで、世の中の何とも受け付けられないって感じがあったんですよ。
で、自立って結局世の中に出ていって、世の中受け付けませんでは自立ってできないじゃないですか。
だから、僕からすると自立というのがスキルの問題だと思えないわけですよ。
自立というのはやっぱりメンタルの問題だと思うんですね。
で、私はビジネスというのと自立というのは大いに関係があると思っているので、もちろん余裕で自立していて、さらに稼ぐぞっていう方も全然サンチャレはOKなんですけど、
ポイントはそういう場合にだとしても、やっぱり現実と関わっていくってことがここには関係があるわけですね。
私は働く人のためにっていうふうに書いてますけど、働くってことはやっぱり現実は受け入れられませんでは難しいんですよ。
で、トバタカイトさんもわざわざ、書いてましたけれども、ある本の中でどの本だったか忘れましたが、すごく稼いでるからといって現実が受け入れられているとは限らないんですよね。
2例ほどありましたよね。私あれ絶対あえてだと思ってるんですけど、偽装もあると思うんですけれどもね。
1例は、実業家で十分潤沢にお金持っているのになぜか万引きがやめられない。
まあ、投壁ってやつですね。これは私は偽装であろうとながろうと、もう絶対そういう臨床例に近いものはおそらくあったであろう。
全然驚くようなことだとは感じない。でもこの人って地域じゃないですか。だって万引きする理由何もないですよね。
全部かやいわけです。だから、現実に関わるということは必ずしもビジネスをやるということと、ビジネスがうまくやれるということとイコールじゃないんですよね。
もう1例あったと思うんですよね。iPhone、多分あれはそう書いてなかったけど、AirPodsだと思うんですよ。真っ白いワイヤレスのイヤホンを落としていった人の話があったと思うんですけどね。
現実との関わり
僕はあれは自己愛の方だと思うんですけれども、その人はすごい自分の自慢話ばっかりしていて、なぜか奥さんに、なぜかって言うんだけどね、逃げられると。
で、遠畑さんはその自慢話を最初は面白く聞いてたと。まあ、わからなくはないですよね。遠畑さんってビジネスライクなところがあるから、なんていうのかな、実業家っぽさが彼は感じられるんで、そういう話は嫌いじゃないと思うんですよ。
でもずっとそれ聞かせてると、すごい自分は観客になった、だんだん置き去りにされてる感が出ますよね。まあその辺からカウンセリングが入ってるわけだけれども、やっぱりこれも同じだと思うんですよね。
ある意味この方は自立ができてないんだけど、でも自立はしてるじゃないですか。経済的な自立で言うとおそらく遠畑さんよりしてる可能性もあると思うんですね、十分ね。
だから、この辺って比例するわけじゃないと思うんですよ。自立とビジネスの成功ってやつはね。でも普通はそうは考えられてないですよね。ビジネスの成功をしている人は当然自立しているものと判断されてますよね。
だからそういう人にカウンセリングが必要ってある意味不思議な話になるんだけど、でもそれはわからないことなんですよね。
しかも、それはだから心が自立してないんだとかって言うけれども、そんなの人に見せませんからね。それはカウンセラーだからそういう場面を垣間見ることがあるのであって、普通に考えるとそういう人はいくらもできますもん、今の時代。
そもそも人と滅多に会わないってことができるじゃないですか。だから心もバッチリ自立しているように人に見せておくことは、お金があれば結構簡単に、簡単じゃないかもしれないけど、やろうと思えばできますよね。
気をつけていればできることです。結局だからその人の心の中の孤独ってやつですかね、は見えないんですよ、他の人には。お金があるとなおのこと見えなくなる。お金なくたって今は、ある種の工夫をすれば見えなくなるんですよね。
だってあのネットでひたすら、今なんかほらあれじゃないですか、コンビニすらセルフレジ、昨日あの無印良品でセルフレジやってきたんですけど、もはや人と関わらないじゃないですか。
私あのレジスラ無人になるというのは、いやもう、寸生として当然だと思うんですよね、AIがこうなってきている以上は。あれAI関係ないですけどね、ほとんど。関係なくもないか。でもまあ別にAIじゃなくたって実現できる技術ですもんね。
で、まあそれはいいんですよ。ただいいんだけど、現金の受け渡しかない、それも私なんか好きな方だからいいんですけど、でもあれをやるということ、現金を返さなくなっていくということは、やっぱり人と関わる機会が一層減らせるということを物語ってますよね。
昔東欧諸国を新婚旅行で巡ってきたときに、東欧ってやっぱり結構大変なところ多いですから、ハンガリーとかブラティスラバーとかですね。人と交渉せずにはいられないんですよね。
なんかこう、不思議なハンガリーの通貨とか今ないかもしれませんけど、そういうものを使っていてもですね、例えばこの通貨は昨日廃止になったんだけどとかよくわかんないこと言われるわけですよ。昨日廃止になった通貨ってなんだって感じじゃないですか。でもなんかゴニョゴニョ言って変な英語でお互い喋ってたらまあいいわ、これでこれを売ってあげるとかそういう、こういうやりとりってありえないじゃないですか、今時日本じゃ。
つまり人と交渉せざるを得ないっていうことと文明が進んでないってことは、文明って言うのかな、電気技術ですよねある意味ね。電気技術が進んでないってことは関係があるわけですよ、やっぱり。で、進んでますから、世の中どんどん。だから無人で電車走らせられるでしょうし、将来無人でレジもできるでしょうし、人がいないわけですよ、そこにはね。
そうして私たちは、自立しているってことはお金を持ってるってことを十二分に意味してますから、だけれども心理的には微妙なところにあるわけだと思うんですね。
で、心理的に全く自立しないっていう状態だけれども、生活と資金的には完璧に自立している状態が、そういうものが実現すると何が起こるのかってことを、藤和田さんはさらっとっていうのかな、あえてそこを明示的っていうほどではないけれども投入してきてるんだろうなとは思ったんですよね。
依存と自立の関係
で、私の仕事はそこのところにもう被ってる気がするんですよ。自立してるしてないっていうのはシチュエーションによって変わるんですよね。そして見方によっても変わるんですよ。
あの客観的な自立とかっていうのは私は人間にはできないと思うんですよね。例えば月に行っても一人で生きていけるのかとか論外だと思うんですよ、そんなことは。すぐ死んじゃうじゃんっていう感じなわけですね。
一人では生きていけないっていうことをあえて言わなくてもいいと思うんですけれども、何にも依存せずに生きてはいけないっていうのはこれはもう100%、我々はそもそも、例えば空気に依存してるとか、そういう言い方つまんない言い方かもしれないけど太陽に依存してるとかね、重力に依存してるとか、いろいろ依存してるんですよ、どっちにしても。
この依存の、何て言うんですかね、依存できることの安心感と喜びみたいなものをどれだけ受信というのかな、知覚できるかっていうのが人生を厳しくしたり楽にしたりをすごく変えるなというのが、
今、私が3チャレで多分、3ヶ月チャレンジで伝えていることの趣旨なんですよね。個人コンサルで、なんでこれが個人になるかというと、今みたいな話の仕方をすると、なんかこうね、校長先生のお話みたいになっちゃうんですよね。
なんかね、これは教訓ほどの話ではないんですよ。ただ、ネックはあるんですよね。このことを最もよく理解できるのが対親なんですけれども、しかし対親によって最も理解しにくくなっているという一群の方がいらっしゃるわけですよ。
例えば、さっきのAirPodsを見つけて、AirPodsを戸畑さんの脳に忘れていくっていうね、非常に精神力動的な出来事だと。そんなこと言われてもよくわからないという方もいらっしゃると思うんですけど、そこはちょっとスルーさせてください。大変なんで。いずれにしてもそういう出来事があった。僕はもう本当にあったんじゃないかなって思うんですね。
で、この、で、戸畑さんがお金持ちのAirPodsですからね。AirPods高いもんね。私も新しいやつ買いたいんですけど、高いなーって感じでとりあえずバッタモン買ったんですけど、しかも白じゃないやつにしてるわけです。なんか白って、いかにも私AirPodsしてますっていう感じ、耳からうどん出てますみたいになっちゃって。
なんかね、白じゃないのに出してよって思うんですけどね、アップルにも。アップルは固くなり合いどころは変えませんよね。白だ!みたいな感じで。アップル製品を使ってることを世に知らしめろ!みたいなノリになっちゃってるんですけど。いいんですけど。
依存してるということを一番言いたくない理由が親にあるわけですよ。だから親との関係において自分が依存してないことを示したくなればなるほど、この精神分析的な世界が始まっちゃうと思うんですよね。
メラニクライン的なやつですよ。食うか食われるか的なノリになってしまう。親が自分を縛りつけるとか、飲み込むとか、監禁するとか、奴隷にするとかね。全部、それってミオによっては保護国とかって言うじゃないですか。
だから、保護してるとか、守ってあげてるとか、育ててあげてるとか、それをどういうふうに見える状態でやってるかって話になってるわけですね。
だから、分析家のところにいても、この分析家に支配されるんじゃないかとか、カウンセラーとかにね、搾取されるんじゃないかとかいうふうに見えるのか、それともここに来て、えーと、くつろげるって感じるのかって、これはその人がひねくれてるのかどうかだけでは絶対決まらないんだって話を始めてるから、便宜とか言ってるわけじゃないですか。
で、その時に徐々にやっぱり自立していくっていうのが一番いいと思うわけですね。なんか自立と言えば、南極に私行くからみたいなのか、それとももうなんか一生家にいて、お母さんの墓盛りもしますからみたいな。
その極端からどうやってこう、そこまで極端じゃないところに自分を置けるかって話にやっぱりなっていくと思うんですよね。大極ではですよ。で、その中間に、中間ですよね。まさに中間にカウンセラーとかがいてくれるっていう、僕はそれがやっぱりいいと思うんですよ。
だから私はもちろん、ある種のすごくこう、そういう目で見れば、やっぱりこれも視点なんですよね。視点なんですよね。心理臨床の人たちはライバルになっちゃうんですけど、でもライバルじゃないですよね。
イベントで山崎隆明さん、臨床心理師のと言って済まそうとしても、後任心理師の山崎隆明さんがイベントでお話しされたんですけど、私の仕事はそんな悪くないんだっていう話を、まあ多分僕がそういうことを心配してばっかりいるからでしょうけど言ってくださって、その時に、なぜなら佐々木さんのところに来るような人はどうせ僕らのところには来ないんだからと。
で、これも面白い言い方なんですよね。これってつまり、だから強豪関係にはあるようでないんですよ。で、考えてみると、そう考えるならばですね、中間地点なんてあればあるほどいいじゃないですか。だって別にお互いが食い合ってるわけではない休憩所なんてものは、あの大きいで多いほどいいと思うんですよ。
まあ僕は別に一部被ったところで大きいで多いほどいいっていうことに、その休憩所提供者の方が増えている限りにおいては、大きいで多いほどいいと思うんですよ。だって休憩所が多くて困ることはないじゃないですか。この中間地点というのはですね、結局、この言い方はしないでおいて、移行対処なんですよね。
そのことをやっぱり結論としてここに来るんだなと。移行対処の説明がこれをやってるんですよ。私はサンチャレできっとね。移行対処の説明が説明説明していたと言いますか、あの全く窓外れのことを喋ってたわけではないんです。ないと思ってるんですけど、そうなのかもしれないですけどね。
人形としての自己理解
でも移行対処の説明がやっぱりこうすごく、いい加減ではないんだけど、説明説明してたなと。実感の伴わない説明になってたのは、コンテナの方がはるかに実感の伴う説明になってたと思うんですよね。なんかね、やっぱりコンテナの方が伝わってるなぁみたいな感じってあったんですよ。
これやっぱりビオンが偉いんだなって思うんですよね。別に上に行くことがダメだってわけじゃないんですけど、移行対処というのは分かりにくいなって感じがするんですよ。話としては分かりやすいと思うんですよね。むしろね。ただ、それが自分に何の関係があるんだっていうことになりやすいんですよね。
人によってはですね。これもメタファーっていうのは、その受け入れをしやすい生育環境とそうでない環境ってあるんだなって思います。確かに男の子はあんまりお人形さん抱っこしませんしね。お人形さんなんですよ。自分がお人形さんなんだっていうのを最近すごくすごく考えるようになったんですね。
なんか実感させられると言ったらいいのかな。いや私はお人形さんだからねっていうこういう感じなんですよね。だから、これに対してやっぱりカウンシリングというものの経験が少ない方ほどそうだと思うんですけどしょうがないと思うんですけどね。少ないんだから。なかったりしますからね。
サンチャレはお人形さんなんですよ。お人形さんルームなんですよ。私もうちょっと可愛かったら。でも可愛くないことにも意味があるんだよな。これな、きっと。お人形さんがいて何の役に立つのっていう問いって、なんかこう少し病んでるとまでは言わないけど寂しいじゃないですか。
その寂しさを抱えている人にお人形さんの意味というものを理解してもらうために心理臨床っていうのはある意味あるんですよ。クラインの自動精神分析が一番いいところ行ってると思うんですね。このお人形さんを殴ったりばらしたりすると、なんかこう、初めてそうして初めてお人形さんというものの意味がわかるっていう人もいるわけじゃないですか。そういうお子さんだっていらっしゃるわけじゃないですか。
それは僕はお子さんの責任じゃないと思うんですね。さっき言った自己愛パーソナリティの人がいたとして、その人を社会というものは余ったれだみたいなこと言うかもしれないけど、そうじゃないだろうっていうふうに思うわけですよ。なんか逆に、例えばですよ。お人形さんの部屋を作るの?みたいな感じで、なんかこうね、普通の家の子の家よりもはるかにいい部屋がリカちゃん人形のためだけにあるって。
なんかそれも甘えてる感じってするじゃないですか。でもそこにはやっぱりやりすぎてしまう病理みたいなものがあると思うんですよ。で、やっぱり心理臨床の人に対して、なんかこう下にも置かないといけないんですけど、もう先生のおかげでみたいなお人形さんをたてまつっちゃうという。でも我々はお人形さんに拝むでしょ。ある意味でも。そういうことが起こってる。これもやっぱり定食するんで。この辺の話ってセンシブルになりやすいんですね。
昨日ね、鎌倉に私行ってきまして、我々はやはり人形を拝むんだよなと思ったわけですよ。こういうこと考えながら歩いてたからですね。暑いと思いながら、こういうこと考えてるうちに何も考えられなくなって頭も白になったりすると熱中症で倒れたりするんで、この年になるとこういろいろ気を回さなければいけないことが多いわけですが、でもやっぱり我々は人形を拝むであるよねっていう感じがしますよね。
別にそれがおかしなことだと誰も思ってないじゃないですか。現に拝んでるじゃないですか。でも人形を拝むっていうのはどうなんでしょうね。
手塚治虫が火の鳥の法王編で書いてましたけど、大仏作ったって、人はひでりで、苦しんでる人は貴金で、苦しんでる人が一人だって救えるものかっていう、あの時代にそんな先進的なことを言う人はいないだろうと思うんだけど、そういう話を盛んにしてましたよね。
だって大仏ですからね。しかも平安時代じゃないですか。そういうことが行われるわけじゃないですか。それを考えてみると、やっぱりこう僕は意向対象というものが人間の自立ってものにどんだけ食い込んでるのかと。
かたやだからやっぱり人形をバラバラにしたくなるわけですよね。バラバラにして初めて、あーって思うっていう人もいらっしゃると思うんですよ。かたや人形を拝むっていう人もいらっしゃると思うんですよ。
で、やっぱりこう、どっちもしかし、何を拝んでたり何を壊してるのかっていうこと、それは人形ではないはずなんですよね。
これはちょっと余談なんですけど、かわいはやおさんが人形の家っていう、人形の家ってあれがあるんですよね。劇があるじゃないですか。有名な。あっちじゃない方。セス・ゴッティンっていう人が書いた童話の方。
人形の家、もう一つの童話の方。あ、童話じゃないや。フェミニズムで議論になりそうな方も、あれも童話っぽいところもあるんですけど、あれはでも実話じゃない。大人の読みも。
セス・ゴッティンは本当に人形の家って感じの話で、あれの、私はどっちかというとセス・ゴッティンの方が好きなんですけど、そこにすごい大事なセリフが出てくるんですよ。
あるお人形さんが、やっぱりお高く泊まってるお人形さんってやつで、私はもう、ちゃんとアンティークとかのところでコレクターに持って行かれたくて、子供となんか遊びたくないんだっていう決定的なセリフがあるんですよね。
そしたら、他の人形がおじさん人形なんですけど、人形のくせに子供と遊びたくないなんて、あなたは人形じゃない。あなたは物だっていうセリフがあるんですよね。
これがとてもいいセリフだと、アオイ・ハヨウが書いてたんだけど、私もつくづくそう思うんですけど。
とにかくこう、なんて言えばいいんですかね。
人形が物化させられることってありますよね。
心理臨床化であればもう絶対あると思うんですよね。
明らかにこのクライアントさんに物にさせられている。
それも東映ドイツが強烈に働くと、本当に自分物になっちゃったんじゃないんだろうかっていう気がしてくる。
で、バラバラにされると。
でも、人形はバラバラにされても、運石化はバラバラには根がわく場と言いますか。
例えば心であってね。バラバラにはされないと思うんで。
自己のメンタル的自立の探求
だからウィニコットは殺されても生き延びるみたいな、ちょっと物騒なというか、ややホラーな、ややスピみたいなことを言ってると思うんですよ。
で、この人形がいないと自立できないなんてダメじゃんっていう考え方もあると思うんですよね。
でも私はウィニコットがここは正しいと思うんですよ。
別にお人形さんを抱っこしていないにしたって、やっぱり人形抜きで人は自立ができるはずがないと思うんですよ。
空気とか重力とか太陽とかでは物足りなくて足りないんですよ。
人形がいると思うんですね。
で、この人形がどれだけ象徴化するかっていうところに、ビオンのグリッドみたいな話が出てくるんじゃないかなと思ってるわけです。
もう分からずに喋ってるんですけど。
この分からずに喋るっていうのも3ヶ月チャレンジのミソなんですよ。
もう最近何でもかんでも自分の利得にしていくということを僕は板につけてきてよくないのかもしれないですけど。
でもですね、育児章を首っぴきで読みながら子育てをしているお父さんお母さんは頑張ってるじゃないですか。
私はそれに近いことをやってるつもりでいるんだなと思うんですよね。
やっぱり育児章が正しいのかというとそういうわけじゃないですよね。
そういうことは分かってると思うんですよ。
でもご両親は育児の当事者だし、育児章が正しいかそこに正解があるかないかなんてことばっかり考えていられないわけですよね。
だって育児章を書いてる人が絶対正しいならその人に全ての子育てやってもらえばいいじゃないですか。
そんなことできないじゃないですか。
で、我々の置かれてる状況も似てると思うんですよ。
精神分析家が全部やってくれればいいんだよっていう。
脳科学とか脳外科とか言うんだったら全部やってくれればいいんだけど、そういうふうにいかないですよ。
だから精神分析家が書いた育児章を読みながら、我々のブレインチャイルドをどう育てていけばいいのかを一生懸命読んで、
ああでもない、こうでもない、この途中に間違いは起こりますよ。
でもそこを含めて育児じゃんっていう感じで、だから精神分析を勉強するっていう行為そのものが育児なんです。
そういう感じで、このブレインチャイルドとの付き合い方やメンタル的な自立っていうもの、
その言葉が良くなければメンタル的に社会とどう交渉していけばいいかということを、
この育児章、精神分析書っていうものを振引になりながら探っていくっていう感じなのが3ヶ月チャレンジなんですっていう、そういう感じなんですね。
だからここからいかにですね、やっぱスピと自己形を取り除けるかというか、そういう感じなんですよね。
だから例えば定位は我々、支援者側から定位は一生懸命考えれば見えてくるかもしれないけど、逆定位は決してその場では見えてこない。
だって無意識なんだからっていうことですよね。
でも我々は無意識というものをつかめないけど、無意識があるってことは知ってるじゃないですか。
例えば私たちは夢を見た記憶ってあるじゃないですか。見てないのかもしれないけど。
しかし一応見たと思ってますよね。夢って意識的には見られませんよね。夢っていつの間にか見てるものですよね。
そもそも寝落ちって意識的にはできませんよね。寝落ちってぐらいですからね。
だから真っ最中に無意識に気づくことは原理的に無理なんですよ。定義的に無理なんですよね。
でも後からだったら気づけますよね。っていうようなことがいろいろ書いてあるわけじゃないですか。
かの育児書には。で、気がつくと始めてしまっているのが育児ですよね。
それじゃいけないのかもしれないけど、この場合はそうです。
現実に関われないというのも気がつくとそうなってるわけですよ。
だから相手の無意識を一生懸命検討すれば少し見えてくるものがある。
その時自分は無意識に何かをしているのは後からだったり、それこそ相手から指摘されて初めて分かる。
その時少し恥ずかしいかもしれないけど、そこを頑張って耐えてれば、いろんなことがいくらかのことは少なく見えてくるわけで。
その見えてくるっていうこと、つまり今何が起こりつつあるのかを知る努力を諦めないっていうことを、
ここの場で3ヶ月はチャレンジしましょうみたいな、そういう感じなんです。
無意識の理解と社会交渉
さっきの移行対象の話に戻りますけど、移行対象というのは結局最初2社でそれを頑張ってやると。
3チャレはグループセッションあるからすぐ3社以上入ってきますけど、最初は少なくとも2社でそれを頑張ってやると。
つまり無意識を指摘してもらうというのは結構大変なことですし、容易にそんなに専門家でもないのにすいすいはできませんから。
何か無意識が悪さしてるっていうか、少なくともいろんな意味で社会との交渉、自立にネックになっているっていう部分があるからこそ、
やっぱり無意識というものが何をしているのかを見ていってもらおうと。
その途中で結局見ている方の無意識、つまり私の方ですね。
もうバレバレになってきて、お前結構できてないじゃんみたいな指摘をされたりもするわけですよ。
この2社関係でどこまでもやっていくというのはですね、限度があるというか、よろしくないわけですよ。
2社関係の中ではやりとりができます。
例えば私に対しても言いたいことが言えるようになってきました。
交渉もできますっていう状態は、しかし私というべきか、このコンサルが丸がかえの状態なんですよね。
これを世の中でもできるようにならなかったら自立にならないじゃないですか。
このある種の自立がしにくいところでの自立なんですよ。
その人が自立してないって話ではないですよね。
お金は稼いでるかもしれないが、例えば言いたいことが同僚に言えないとか、
言いたいことが子供にすら言えないとか、
あるいは昔の私みたいに女性の前になるとほとんど掘り固まってしまって、
偽りの自己主義が出てこないとかね。
そういう様々なある自立ができない場面が出てくるわけですよね。
だから私精神病水準の人と神経症水準の人って古典的な区分なんだなっていうのが実感されるようになってきたんですよ。
ある種の人は、私自身もそうだけど、別にコンビニに行って物を買う上では全然健常者水準そのものなわけですよね。
バッチリできてますみたいな。
だけれども、例えば私はある種の銭湯とかに行くと多分結構神経症水準になっちゃうわけですよ。
なんか清潔だろうかここはみたいなことばかりが気になる人みたいになっちゃうわけですよ。
シチュエーションとやるべきことによって変わるわけですよ。
満員電車に乗ると精神病水準に近づくとかそういうことが起きるわけですよ。
でも会社に就いてしまえばその人は健常者そのものだから仕事ができないなんてことはないわけですよ。
ただ会社に行けないとかね。
そうすると結局その人丸ごと会社に行けない人みたいに言われるじゃないですか。
でも本当はそんなことないじゃないですか。
行けるわけじゃない、行けはしないかもしれないけど社会ではやっていける能力を持ってるわけじゃないですか。
ただ満員電車がダメっていうそういう話が出てきたりしますよね時々。
でこういう話を全部含めてですね。
やっぱりこういろんな意味で心理臨床科のところではいろいろなことができます。
でもそこから結局他のところでもできるようにならないんですってなった時にやっぱりさっきのお人形さんの話に戻るわけですよ。
結局家でのことが家での交渉はなんだかんだこれでもうまくいきましたと。
引きこもっていようがなんだろうが親がお金を持ってるんだし親とのやり取りはできる。
親になら言いたいことが言えるっていう状態ならこれならやれるんだけどこの状態のまま会社に行っても難しいですよね。
でも人によってはそういう働き方させてもらってる人もいるんですよ。
会社でちゃんと挨拶っていうかほとんど挨拶なんかしないし、
悪態ばっかりついていて仕事中はそれこそエアポットでひたすら音楽を大容量で聞いてますけど、
でもこの人の書くコードはバッチリだしねみたいなのをそういう話聞いたことありますもん。
あり得ないことじゃないと思うんですよね別に。
自立っていうのはこうでなきゃいけないってことは決してそこにすごくこだわってる人もいるんだけど、
別に態度が全てじゃないですからね会社は。
態度大事かもしれないけどこれがだから接客と営業が中心って言うんじゃダメかもしれないけど、
ほとんどコード書くっていう場合は話が違ってきますよね。
だから私はその自立の方を安易に決定しないのはすごく大事だと思うんですよ。
何でもできることは必要ないじゃないですか別に。
何でもできた方が楽に生きられはするかもしれないですけれども、
私なんか相当社会的には不適応な方だと思うんで、
こういう話はむしろ通りやすいんですよ。
私自分会社作るんだったら別に私に挨拶がなってるかなってないかっていうのは、
何とか教育とかが必要だって言われればそうかもしれないですけど、
私だったら別にそんなことどうでもいいしだって感じにむしろなると思うんですよね。
この人がいることで収益が上がるかどうかが大事だろうって、
やっぱり僕はそういうふうに考えがちな方ですから、
ライフハック側の人間ですからね。
ご自分になってくるとそっちの方がむしろ大変なんだよなっていうのはわかります。
ちょっと人越し、人を柔らかくしておいて、
人当たり柔らかくしておく方がはるかに生きやすい。
そんな特殊技能によってのみ生きようと頑張るよりはですね。
だけれどもしょうがない面ってあるんですよね。
その人の責任ではないと思うんですよやっぱり。
それで、だから意向対象というものがいるんだってことなんですよね。
お母さんが一緒にいないとうまくやれないんだっていう人は、
でもお母さんが常に会社にもいます、
満員電車も一緒に乗ってくれますってことはまず考えられないと思うんですよ。
ここに二者関係というものに対して、
三角関係の重要性
意向的三角関係ってものが必要になってくる理由があるの。
これは私がその三ヶ月チャレンジをやるようになってよくわかるようになったんですよ。
なんだかよくわからないがある種のフェーズに入ると、
繰り返しこの意向的三角関係ってものが持ち込まれる。
だいたいそれはいいことのような気がするんだけども、
コンテナーのモデルでは説明しにくい感じってあって、
説明できるんだけどしにくいって感じがあって、
クラインでも説明しにくいって感じがあるんですよね。
ここはウィニコットがすごい分かりやすく説明してくれているっていう感じがあるんですよ。
不意にその三角、でっかい三角形がパッと浮かぶんですよね。
なんかよくわかんないけど。
なんかよくわかんなくないです。説明はできるんです。
象徴するもの、象徴されるものって言って、
例えば私とある参加者さんの関係は、
なんだろうな、親子関係ですみたいな。
これって親子関係という象徴を用いて、
私と参加者さん親子関係という三角形を、
私参加者さん親子関係って言葉、
この三角形を結んでいるわけじゃないですか。
これだとこれだけあるといいみたいな感じがしちゃうんですよ。
で、なんでその三角形が大事なんですかって言われると、
僕結構下手っぴな説明しか、
だから東京ドームではさーとかわけわかんないこと言ってたわけですけど、
説明説明しちゃってたわけですよね。
あの、ちっちゃな女の子が、
テディペアの重要性
お母さんがずっといないとダメなのって言っているんだけど、
テディペアを持ってからはそういうことを言わなくなった、
みたいな話があったと。
仮にしましょう。ないかもしれないけど。
その時にお母さんがずっと一緒にいるのは大変ですよね。
大変だから、そこに意向的三角形、
つまりお母さん代わりが登場するわけですよ。
こうすることによって、
私とお母さんの関係は、
私とテディペアの関係でもありますと、
お母さん楽になるじゃないですか。
ここが意向対象の大事なポイントだっていうのを、
あの、ここが、
この三角形まだいびつですよね。
ものすごくこのテディペアは、
テディペアをしてませんよね。
ほぼお母さんになってます。
でも、テディペアとの関係っていうのは、
テディペアは動いたり、
食事作ったりはしてくれないですから、
代わりに、その女の子が、
ままごとでテディペアのために、
お母さんと一緒に、
テディペアのために、
お母さんと自分の関係が、
逆転してるわけですよ。
こういうことが起こることによって、
お母さん、実のお母さんと、
その女の子の関係も、
じわっと逆転するわけですよね。
人間関係の自立
お母さんのために、
お茶を淹れてあげるとかを、
やったりすることが、
できるようになるわけじゃないですか。
こうして、象徴っていうものを使うことで、
我々は人間関係を少しずつ、
こう、なんていうんですかね、
自立しあったものに変えていけるわけですよね。
二者関係だけだと、
これをやると、
極端な真似が起こるわけですよ。
お母さんから自立、
だから外国に住むからみたいな。
昨日まで、
一方違うと、
おむつの世話まで、
お母さんがやっていたのに、
急に明日からアメリカに行っちゃうわけみたいな、
こういう話になるわけですよ。
ヘンゼルとグレーテルの話が出てきた時、
お菓子の家作ってましたよね、お母さんがね。
お菓子の家を作ってたのは、
お母さんじゃないんだけど、
あの話ですよね。
カワイハヨさんが書いてた通りなんですよね。
ヘンゼルとグレーテルのために
お菓子の家を作りかねないお母さんは、
ヘンゼルとグレーテルを食べようとしちゃうわけですよね。
ああいうことは僕は、
いっぱいあると思う。
第三者がいない関係っていうのは、
そういう危険性を払うわけですよね。
だから異向的三角形ってものが、
で、このテディペアが言葉まで行くわけじゃないですか。
ちょっと寂しい感じもしますけど、
それは僕の不十分な、
自立が不十分な点なのかと思うんだけど、
あるじゃないですか。
お母さんの言葉みたいな、
ちょっとよくわかんないですね。
お父さんの言葉だとこういうときは、
だからこういうときは父親っぽさが出てくるんですよね。
きっとね。
なんかこう、この言葉を胸に生きていくんだみたいなのがあるじゃないですか。
あの、お母さんが亡くなる際に、
お前のことを心から愛していたみたいなことを
急に言って、
そういう物語ってあるじゃないですか。
テディペアが言葉になってるわけですよね。
言葉がそのお母さんを象徴しているみたいな、
そういう感じで、
この辺の話を僕は野球場で例えてたから
わけわかんないことになってたわけです。
間違ってるわけじゃないんだけど、
ないんだけど、
わけわからんわけですよね。
思えばですね、
面白いなと僕は思うんですけど、
あの所沢にある西部ライオンズ球場に
うちの母はよく私を連れてってくれてたんですよ。
うちの父じゃないんですよ。
だから私は、
今思うと、
お母さんの言葉が
そういう意味で
だから私は、
今思えば、
うちの母が怒るのは無理もないことですけど、
大学受験で苦しくなると東京ドームに行って
野球を見せたわけですよ。
これは母親なんですよね。
この話をしておけば、
ファールとホームランガーみたいな
よくわからん説明よりは
よっぽどマシだったと思うんですけど、
つまり移行対象というのは、
まあその移行対象なんだけし、
移行空間というのは、
まあ移行空間なわけですけど、
そこには三角形があるっていうのも
間違いないんですけれどもね。
そうなんですよ。
私にとって、
多分タスクシュートは移行対象なんですよね。
あれを見ると、
移行空間がパッと現れるわけです。
というか自分の今いる空間が
移行空間と化すわけです。
常にそれをやるのがいいことだと思ってないんで、
出し入れするんですけど、
この出し入れができるようになると
上級者なんだよなと思うんですよね。
出し入れは難しいんですよ。
移行対象を出したり引っ込めたりしてると、
無くしちゃうんですよ。
だからみなさんタスクシュートを使い続けるのを
困難に思われるわけですよね。
テレビ屋ってどっか行っちゃうじゃないですか。
昔やたら遊んだお人形だの、
やたら車ってた、
あまり綺麗でもないブランケットだのですね、
いうものはすぐどっか行っちゃうわけですよ。
誰かがいつの間にか捨ててたりね。
そういうものなんですね、
移行対象というものは。
物作業がないとイリコットは言いましたけど、
移行対象に物作業いらないんですよ。
代理だから。
本物ではない。
物作業がないから、
失ったことに精神的な痛でを
そこまで受けてはいけないものなんですよね。
代理母ですからね、ある意味ね。
その言い方良くないか。
お母さん代わりですか。
この言い方いいですね。
お母さん代わりですか。
お母さんを失ったんなら対象喪失だけど、
お母さん代わりを失ったって喪失じゃないじゃないですか。
それはもういつかは失うべきものですよね、むしろ。
だから私との間で三角関係が結べるということは、
心理カウンセリングでも全部そうですよ。
コンサルトの間に三角関係が結べるということは、
大変良いことなわけですよ。
その分、その人は
自分にとってのカウンセラーというものを
外でもどこでもモバイルして持ち歩くことができるじゃないですか。
だから親父の言葉ってのは良いわけですよ。
それが良くないこともあるわけですけれども、
人に迷惑をかけるなみたいな、
そういうやつを外すというのは良いわけですよ。
そういう意味で、
私との間で三角関係が結べるということは、
人に迷惑をかけるなみたいな、
そういうやつを外さえていって、
その人はお父さんがいるということにして
生きていってるわけですよね。
その言葉自体の意味が大事というわけでは
あんまりないと思うんですよね。
意味が大事ってことにされがちなんですけど、
二者関係から三者関係へ
私はリッツ・カールトンの
ミッション・ステートメントみたいなのを
思い出してるんですけど、
そうじゃないと思うんですよね。
そういうことではなくてあれは
意向対象なんだと思うんですよね。
そこに意向空間が作り出せるんだったら、
その言葉の意味なのというのはですね、
大きくはないと思うんですよ。
ある程度は必要だと思うんですよね。
意味が全くない言葉じゃしょうがないんで。
でもあるじゃないですか。
エベレストとかに登るときの
あなたとここから先は私たちはいけないから
とか言って、
急にマスコットとか出してくるじゃないですか。
私はあれです、
リュックサックに
ごきげんパンダのマスコットとか
出してくるじゃないですか。
リュックサックに
ごきげんパンダの
華麗なるパンダっていうのを
付けてるんですけど、
ああいうやつなんか急に取り出して、
これを私たちだと思って
必ずエベレストの登頂に
成功してねみたいな
ビュービュー息吹いていて
すげえ死にそうになってるのに
なんで人間ってこういうことやってるのかな
とつくづく思うんですけどね。
あと8、9号目まで登ってるけど
無念の脱落みたいな
昔そういうのテレビで見たんだけど
絶対ここでマスコット出てくるよなみたいな
感じが。
すげえ超高級マスコットとかじゃないですよ。
本当にそこら辺にありそうな
今でいうと何だろう
住みっこ暮らしみたいな
ああいうのが
しかもそんな安そうなやつを
渡すんですよね。
あれ面白いなって
いつも思って見てたんですけれども
あれは意向対象ですよね完全に。
代理ですよね。
人間ならではですよね
そんなことに意味を見出せるというのは。
だから私はホームランドファールって
その代理官ってものが
その人の負担を減らすことになるし
自分の自立を高めるということになるわけですよ。
絶対だってね
レディピアがお母さん代わりしてくれるようになる
お母さんは楽になるじゃないですか。
ってことはその女の子は間違いなく
自立できたってことじゃないですか。
その分はすごく上がりますよね。
その部分って。
めちゃくちゃ大きいですよ。
二者関係が三者関係に
たとえ異向的三者関係だとしても
フロイトが言ったのは
そこが人間である必要がないって言ったところは
ものすごく大きいと思う。
子育てしてる人はみんな知ってることなんですよ。
この3番目には父親ですって
はっきり言い切ってしまうフロイトの世界ってのは
めちゃくちゃある意味人間人間していて
自由度が薄いですよね。
お父さん常にいなきゃダメみたいなことになりかねないじゃないですか。
でも現実でそんなことないこと
みんな知ってますよね。
エラケイコさんでしたっけ漫画の中で
テレビはお母さん代わりなんだから
なんでいいのよみたいな
そういうたくましいお母さん的な語りがあったんですけど
みんな知ってますよねこのことは
テレビをお母さん代わりにすると
そういう話ですよね。
で、お母さんの悪になるじゃないですか。
間違いになる。
そういうのはダメなんだって話あるんだけど
あんまりこれはダメダメ言っていると
我々二者関係から離れられなくなるんですよ。
常に二者いなきゃダメみたいな世界になってきて
それはさっき言った
ヘンデルとグレーテル的な
恐怖の世界になってしまいかねないので
そこには愛は
すごいあるのかもしれないけど
愛というかエルですよね
愛のようなもの
エルがすごい
ローンとあるのかもしれないけど
エルで埋め尽くされていて
結局死の世界みたいになっていくわけですよ
育児と個人コンサル
非常に不思議なんですけど
マイナスKなんですよねやっぱり
知ろうとしてないものがありますよね
そこには
現実というものを直視する気は全くないみたいな
世の中にお菓子の家があるからいいんだみたいな
そういう非常に怖い世界ですよ
ある意味では
そういうことを
育児章を読みながら
ブレインチャイルドを育てていくというのが
3カ月チャレンジで
中身ですね
3カ月チャレンジでは個人コンサルです
というのが前回の話でしたけど
その個人コンサルの中はどういう話なんでしょうかって
全然分かりやすくなかった気もしますが
こういうことですという話でした