1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
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2025-06-20 40:42

「真相究明」を諦めない「姿勢」を保つ【1207】

ウィニコットとビオンから「学びつつある」こと。
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サマリー

本エピソードでは、ウィニコットやビオンなどの精神分析理論が議論され、特に移行対象の実用性に焦点が当てられています。また、精神分析の体系性やその限界についても考察されています。ポッドキャストでは、真相究明を追求する姿勢の重要性が語られ、愛や憎しみの感情が実務に与える影響が考察されています。特に、マイナスKが引き起こす問題への対処法も示唆されています。このエピソードでは、人間関係における親子関係や象徴機能について掘り下げ、自己理解や変化の過程での三角関係の重要性が探求されています。また、自己管理のために象徴を活用し、自立を促す方法についても考察されています。上司の言動の背後にある状況を理解することが、自己理解と対人関係の改善において重要であることが述べられています。

精神分析の導入
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1207回をオープンします。
6月20日金曜日8時9分です。 ちょっとですね、騒がしいかもわからないんですけど、ご容赦いただきたいかなと。これはあれです。
暑さ対策で。 これずっとやってるんですが、いろいろと。これがうまくいけばいいなというのが一つ見つかったので、今はこれをやることにしました。
また、やり方を変える可能性も十分ありますけど、とにかく今はこれでなんとかしのごう。
昨日おとといと3ヶ月チャレンジ。 昨日おとといじゃないな。でも昨日と前回で3ヶ月チャレンジの概要を思わずまとめてみたりしたわけですけど、
今日はそれのさらに延長かな。でもそのうちにですね、たぶん三チャレとはなんぞや的な話は離れていくと思うんですけどね。
昨日移行対象って話をしましたよね。 これはウィニコットって人の発想なんですよ。
移行対象の話をするとですね、例えばコンテナってどこに行っちゃうんだろうとかって、考えないんですけどそんなことは。
考えたりしたくなる方もいらっしゃるかもしれないですね。 これは
結局のところ精神分析って完全に体系立てられた学問とかではないし、まして大学で教えてないですからね。精神分析学ってものはないんですよ。
ないと思うんですよね。たぶん臨床心理学ならありますよね。 いろんな人がいろんなことをこの中でいろんな心のモデルを出してきていて、
それは大変有用だと私は信じているから、心のモデルというものを参考にしながら、個人ビジネスコンサルをやります。そういうことなんですけども。
じゃあ、ビオンは体系だってるんですけども、対象関係論の体系を全体的にまとめるとどうなるのっていうのは、答えられる人はいらっしゃるのかもしれないんですけど、
だいたい返してそれは無理があると思うのと、まあ無理がある気がするんですね。 だってウィニコットの話とビオンの話って別に相互に矛盾するとかではないのかもしれないけど、
全然統合されていく感じがしないんですよ。 ここではコンテナモデルが特にビオンですよね。コンテナモデルだとすごく分かりやすくなるっていうところと、
ここだとウィニコットのモデルが急に分かりやすくなるっていうのと、ここではクラインとビオンは、ビオンが最終的には体系立てているはずなんですけれども、
でもですね、それをやられるとむしろよくわからなくなるっていうか、いまいち使い勝手が良くなくなるっていうのと、でもこの時はビオンじゃないと説明そもそもされてないしなとか、そういうことが起きてくるわけですよ。
でもこれはよくあることだと思うんですよね、別にね。 特にこれは臨床の話なんで、臨床となってくると、その人その人が自分にとってどういう考え方をすると使いやすいかっていうのがあるんで、
体系立てられた学問であれば便利かというと、おおむねそうではないと思うんですよね。 だから、
移行対象なんですよね、私はそれを使うと3ヶ月チャレンジで目指しているものっていうのがとってもよく見えてくるだけれども、移行対象なんてまるで問題になって、そもそも移行対象なんて全然見えてきやしないよっていうシチュエーションで、
移行対象のことを一生懸命考えても仕方がないっていうか、そんなことを考えることすらできないので、できなくなるんですよ、これがまた。
1on1個人セッションの中でですね、移行対象が全く現れてこないようなシチュエーションで、移行対象のことなんて考えることすらできない。言葉も思い浮かばないのが妥当だろうぐらいな瞬間ってやっぱりあるんですよ。
もう今は、なんて言うんだろうな、クラインのPSポジションしか思い浮かべられないみたいな、あれですよね、その後PSとDっていうのはどっちの方が望ましいっていうのは剥ぎ取っていくんですよ。
まあ、ビオンが剥ぎ取るんですよ。両矢印でPSとDがポジションチェンジしていきますっていう時には、もうPSは未法和、Dは法和っていう、ただそれだけなんですよ、ある意味では。
だからこの未法和、法和っていうのは、どっちかというと得意分野の理系の人には分かられる話だと思うんですけど、化学ですよね、これはね。私化学部にいたんで、あの記号、原始記号みたいなんです。あの人だいたいそうでなくても原始記号みたいなの好きなんで、あれですよね、元素記号表とグリッドは似てますよね、縦軸と横軸があって、その間にH1とかG1とか書いてあるあの記号がざらったならあれですよ、水平理米ですよ。
だから、あの人は化学的に表現するのが好きなんですね。妄想分裂ポジションから抑鬱ポジションへの移行とか、それが何か成長を表すみたいな考え方を取らない。それを取っちゃうと、DからPSに行く時は何なんだって話になってしまう。対抗なの?みたいな話。これがまたビオンらしくないというか、ビオンが好まないと思うんですよ。対抗っていうのは現実には起こらないじゃないですか。
化学の記号ってのは現実に起きてることじゃないですか。H2とO2で2H2Oってのは、現実に起きることを図式で表していって、そして、過逆じゃないですか、逆にもなる。
で、水と水素と酸素はどっちがいいのとか、そういうナンセンスじゃないですか、そういうことを言うの。極力ビオンはそうしたというところがあるんですよ。
でも、この場合妄想分裂から抑圧ポジションへの移行が望ましく感じられるっていうシーンは来ちゃうんですよね。
で、一方で、でもDからPSに行き来するってことは現実に起こるから。で、行き来するっていうのはクラインっぽくないんですよ。
クラインの感じって、ついに抑圧ポジションを達成しました、みたいな感じがありますよね。
精神分析の理解
そういう時もある。特に幼児期からとか、そういう時には、とにかく抑圧ポジションの達成って言うのが、思いやりの心を持てました、みたいな、そういうのがとても良いことのように感じられるシーンもあれば、
いや、Dは単に法話であって、すごくそこの満足という、自己満足的な世界っていうのかな。
そこには行き止まり感があって、やっぱり人間はPSとDを行ったり来たりするよねって時には、あのPSDの両矢印の行き来するぞっていうあの感じが相応しいって感じがするんですよね。
だからどっちかに体系立ててしまえないっていう感じがありますね。で、この関係って、いずれにしてもこの話が出てきてる時は二者関係しか言ってないんですよ。
世の中二者関係はほとんどないので、世の中というのは三者関係以上のもので動くので、急にエディプスコンプレックスとかが出てくるわけですよ。それはどこ行くんだって話になるじゃないですか。
その時に、今度はウェリコット使った方が、なんかコンテナーモデルを必死を懸命使うとか、まあ、リオンの体系の中にはちゃんと全てある感じがするんですけど、
グリッドとか、全概念とかいう話に持っていくことによって、いろいろとすべて用意されている感じがあって、だから最終的にはそこを参照すると、まあ間違いないよねっていうか安心だよねっていうのがある一方でですね、
やっぱり三角関係ってなったら三角形を連想したくなるわけです。で、象徴としての三角形みたいな、つまり象徴としての父親みたいな話を考えた時には、
急にエディプスみたいな、古典的な自我心理学っぽいところに行きたくなるわけですよ。で、それがまたふさわしい状況っていうのは出てくるわけですよね。
ここはやっぱり三角形を、てか三角形しか出てこないなみたいな感じ。そこで無理やりコンテナーのことを考えるのって、あんまり意味がない感じがするという時もあるわけですよ。
でも、この人がじゃあエディプスコンプレックスというものがくぐり抜けて感じがしますって言った時に、なんか自我心理学みたいに、ああ、こうしてついに正規記が
克服されましたおめでとうございますみたいな感じになった後で、急にまたPSとDみたいな話になるんですよ。同じ人でも。
だって私自身、別にそういうふうになるような気がしますもん。象徴機能は使えると思いますし、自分は別にそんなに具体象徴みたいなのばかりで埋め尽くされてるわけでもないですけども、でもいいおっぱいとか急に弱くなったりするじゃないですか。
急に部分対象のところの話に行くじゃないですか。それを対抗と言っても対抗って起きないから、現実には。
それは対抗ではなくて、やっぱり心の様々な部分で自分がポジションを動かしながら生きているんだっていう印象の方が強いですよ。
でも、だからといって三角関係ってものを無視はできないシーンっていっぱいありますから、ていうか非常に多いんで。
だから、やっぱりウィニコットに行ってみたり、フロイトに行ってみたり、クラインに行ってみたり、でも大体ビオンのところでまとめておくと、だからグリッドってのは色々役に立つんでしょうね。
僕はグリッドはわからない。わからないというか、使える気が今のところまるでしないんですよね。
松木先生の本読むと、先生言ってるけど、松木邦博さんの本読むと、使えるようにならなきゃダメなんだって感じがするし、そういうことでもあるんだろうと思うんですけど、
でもそれってある意味野村スコープじゃなくても、野村スコープを襲うんですかね。今時の方あんまり知らないですかね。野球でバッターのところを急分割するんですよね。
あんなの最初からあったわけじゃないんですよ。あれは野村監督という人がですね、小野村監督がですね、作り出したものなんですよ。
あれちょっとグリッドっぽさがあるじゃないですか。なんか急マスですけど、内角高めに球を投げた後に外角低めにスライダーを投げるんだみたいな、
そういう理論を考えた。つまりそれ以前にそれはなんとなく行われてたことなんですよ。でも野村スコープって別に野球のルールでもなんでもないし、
別にあんなもん知らなくったって、現に少年野球で少年たちは別にあんなものは全く考えずにやってるわけですよ。変化球なしだったりするしね、少年野球は。
つまり、別に野村スコープがなくても野球はできるし、なんならない方がうまくいく人だっていっぱいいるわけだけど、あるとすごく役に立つ人もいる。
っていう程度のものではないかもしれないけど、僕はグリッドってすごい野村スコープを思い出させられるんですよね。すごいものだけれども、
多分分析家でも使ってない人はいっぱいいるよね。そもそも自我心理学科の人は多分全然使ってないよねっていう感じがして、
だからこう成果が上がらないんですとは言えないような気がするけども、使うときっといいんだろうなっていう気もするっていう、そういう感じのものに見えます。
グリッドはですね、僕は使いはしないし使ってはいないんだけど、ただグリッドを見て、松木さんの対象関係論の下っていう本があるんですけど、
あれを読んで、ようやくですね自分は精神分析というものが、自分は分かっているのか分かっていないのかが分かってきたんですよ。
なんかフロイドの本を読んでもそこのところはよく分からないんですよね。結局自分はおとぎ話みたいなことを、しかも誤解してるんじゃないんだろうかっていう懸念が拭えないんですよ。
精神分析ってものは。なんか分かってるような気がするんですけど、なんかこれは難しくて深淵で分からんだぞって言われると、ははぁすいませんわかりませんみたいな風になるんですよね。
でもそんなことはないだろうっていう、少年ドラとか読むと、断じてよく分かるっていう気がするんですよ。分からないことはここの中には何も書かれている気がしないんですね。
で、私は結局精神分析ってものが理解できているのか理解できていないのかは、グリッドを読んで何か分かった気がしたんですよ。
あ、自分はそんなに土地狂ってはいないなっていうことが分かったんですよ。あれを見て、なんとなく、あれをなんとなくでも図の意味するところが分かってきたときに、
あ、これは確かに自分が理解していることとここで狙われていることは近い。そんなに大きく的は外してないっていうことが、いや今さらかよって言われるかもしれませんけど、今さらなんですよそんなものはね。
真相究明の重要性
だってテストとか受けたことがあるわけじゃないし、お前の理解はまだまだだとか言われたことがあるわけでも、十分理解できてますと言われたことがあるわけでもないんで、まあ分からないですよね、そんなこと。
しかもよく分からないものだと比較的なされているものは分からないですよ。でもあのグリッドの、これをディオンガーという人が最終体系みたいなある意味で、
限界があるとかゲームであるとかいろんな言い方、エクスキューズがいっぱい入ってますけど、でもそういう言葉が入っているけれども、超大真面目にまとめ上げたものがあれだということであるならば、
これならば、きっと私が考えていたことはそんなにトンチンカンではないっていうのが、ようやくすごく安心できるって感じがする表だったんですね、あれはね。
ここに来て、ベータ要素がアルファ機能によってアルファ要素になり、アルファ要素をつないでいくと、いろいろと夢思考とかそういったものになっていって、神話水準まで上がっていって、
それを全概念というようなものにしたり、概念、コンセプトですね、にしていくと、そういう象徴を使えるようになっていくってことを、
ものすごく細かく、あれでも大雑把だっていう言い方があるんだけど、これ以上は、少なくとも現場ではそんなこと考えられないですよね。現場ではせいぜい、いやこれはベータ要素かな、みたいな。
これは、あの、象徴機能の顔をしてるけど実際は具体的な水準だよな、とかが精一杯で、そんなことを一瞬よぎっただけでも相手の話には注意がそれますから。
もうだから、グリッドとかは、あれは絶対事後に使用しろっていう風に、ヴィオンが言ってる通りなんですよね。そうだと思うんです。
でもグリッドってものさえあれば、コンテナっていうのがどうして発想されてるのかとか、
ミニコットのその三角形みたいなものも、どういう意味を持っていくのかっていうのが、ちゃんとグリッドでは説明されるわけだし、
それこそ、エディプスコンプレックスでも、プレイエディプスの概念でも、全部ここに、この表で一応全部説明されようとなされようとして、なんかこういう言い方になっちゃうんですけどね。
しているっていう、だからKLHとかそういうのも、あの前進としてあったっていうのが、やっぱりヴィオンの方は一貫性はありますよね、ある意味ね。
すごく、宇宙でなくなるって話もあるんだけど、後期ヴィオンとか僕にもよくわからない世界に突入。なんか禅みたいだなって思うんですけどね。
まあとにかくよくわからない世界に突入していくんだけど、でもとりあえずあの、
背景だって見ました、みたいな話は、あの安心感を与えられます。なんかどこを目指してるのか、どこにも行ってませんみたいな。
結局はイモリとピンク色の水を飲む世界です、みたいな。そうではないってことが、あれでよくわかる気がするんですよ。
マイナスKの影響
3ヶ月チャレンジでは、私はその、まず、まずまあ、最初はお話を伺って共感に努めてマネジメントできる部分は頑張るみたいな感じなんですけど、
人にもよりますけど、次のフェーズにいずれ移っていかざるを得ないですよね。次のフェーズっていうのはつまり、今何が起きつつあるのかを知りつつある状態を目指し、
目指そうみたいな。もうなんか、そんなことを目指すのに3ヶ月もかけなくても、なのかもしれませんけど、ここやっぱり、
なんて言うんですかね、我々はマイナスKに大変、よっかかっていきますから、非常に簡単に。
知識は知識であるの、世界が大好きですからね。 だからどうしてもマイナスKになってしまうんですよ。
そこを何とか頑張って、難しくても解きほぐすべく努力をするっていう、だからやっぱり知りつつあることを、
起きつつあることを知りつつあることを目指すって感じが僕の中ではほとんどBeyondの丸パクリではありますが、
でもこれしかないよなっていう、てかこれってすごい役に立つんですよ、やっぱり。 無理のない範囲でやらないとダメだと思うんですけど、
何て言うんですかね、オッドがひどいんです。 これはマイナスKじゃないですか。いや事実じゃないって言ってるわけじゃないですよ。
断言的な陳述だよねって話ですよ。オッドがひどいんです。 でもひどくなかった時もありますよねみたいな話は、この際置いとかれるじゃないですか。
つまり、いくつかは捨てられるじゃないですか、この断言してしまった瞬間。 知りつつあるためには、今何が起きつつあるのかを知りつつあるためには、
何回暴力を振るわれたとか、そういう細かいことを聴取するってわけではないんですけれども、全体としての話ですよね。
どこも切り捨てない、まあどこも切り捨てないのは無理だけど、なるべくどこもかしこもすくっていこうとして、全体の整合性をとる。
ひどいオッドだと、暴言を吐くと。ではなぜそのオッドと結婚したんでしょうっていうのは聞かれたくはないけれど、
そういうふうに言っていくことによって、いや実はこういう優しそうだったとか、つまりひどいオッドが優しそうだったひどいオッドに変わるわけですよね。
あるいはこう、お母さんに会いに行ったらお母さんには優しかった。 だからマザコンかもしれないけど優しそうだったお母さんには優しいひどいオッドになっていくわけですよね。
こうやって繋いで繋いでいかないと、どこかを切り捨ててしまうとですね、やっぱりマイナスKが浮上してくると思うんですよ。
これはこうだからこうなんだよ、みたいな。でもこのマイナスKは一見正しそうなんですが、全てマイナスKで埋め尽くした結果、本人は苦境に陥ってしまうわけじゃないですか。
オッドはひどい。でも自分はまだショックが今なくて、離婚ができない。でもオッドはひどいから早く離れなければならない。
でこういうふうにマイナスKマイナスKマイナスKで行くとですね、まあノーKでもいいんですけど、結局はどうしていいかわかんなくてすごく苦しいってところに置かれてしまうので、
個人コンサルのアプローチ
やっぱり何が起きつつあるのかを知ることはできない。何が起きつつあるかを知りつつあるという状態を断続的に目指していくという。
これをあれですね、1ヶ月目にマネジメントして2ヶ月目にこれをやってっていう、美しくいけばいいんですけれどもね。
まあでも一応そういうことを考えてるわけですよ、一応。
でこれが僕はやっぱ協力だなと思うんです。自分についても知り尽くすことは決してできないんだけど、まして他の人の話ですから。
オッドひどいんですっていうのも一言で言うと伝聞ですから私からすればね。オッドひどいんですって今日カウンセラーに言ってきたんだけど私たち仲良しだよねってことになってるのかもしれないじゃないですか。
要するにカウンセラーをバカにすればいいっていうことも世の中にはあるわけですよ。僕はカウンセラーじゃないっていうふうに言いますけど、
佐々木さんに今日オッドひどいんだよねって言ってきたら、あなたのことひどいんだよって言ってきたら、佐々木さんは鵜呑みにしてすっごい真剣に構ってくれて楽しかったんだよみたいな話かもしれないじゃないですか。
そんなことわからないじゃないですか。だからそれは言うならばこの人はオッドがひどいと思っているらしいと私は信じているっていうような陳述なんですよ。
私の心の中でそれに近いことをいつもやってるんだけど、そんなこといちいち言いませんから。あなたはオッドがひどいとおっしゃっていて、それを私は現在ここでは信じることにしておきますみたいな。それはダメじゃないですか。
でもそういうことだと思うんですよ、事実は。で、私もそういう陳述を一生懸命頑張ってるつもりなんだけど、どっかで忘れちゃうんですよね。
本当オッドひどいなとかなっちゃうわけですよ。そしたら僕は何かを失敗しつつあるわけですよ。でもこの失敗は必要な失敗なんですよね、相手の方にしてみる。私が信じるってことが大事っていうこともあるわけですから。
だからまあある意味、KがLに乗っ取られつつある状態なわけですよね。
本当は真相究明に全力を尽くすな。コナンくんみたいに頑張らなければいけないんだけど、なんか目の前の人がかわいそうだからつい同情してしまって、かわいそうだし私はあなたのことが心配で愛してますよみたいになってしまうと、
L、つまり愛のようなものにKが乗っ取られていくわけですが、そういうのこそ欲しかったんですっていう人もいらっしゃるわけじゃないですか。
だからそれをあげればいいってもんではないんですけれども、そしてこのLはだいたいHに分けていくって言ったりするんですけど、佐々木さんは信用できないなっていう、こういうところに愛を発揮しちゃうんだなっていうことで本当に憎くなっていくみたいなことがすぐ起きるんで。
っていうことを書いてるわけですよね、KLHっていうのは。で、Hダメじゃないですか、Lもダメだけど。ここで憎しみあってても何も真相究明には役に立たないわけですよ。
だから何とかこの憎しみを乗り越えて、またKに戻っていかなきゃならない時に、ここで一段回り道をするわけですよ。
本当はその人が会社なりご家庭なりで苦しんでいらっしゃるその人が、その目に、身に何が起きつつあるのかを知りつつあるっていう状態を目指していたはずだったのに、
いつしか、もうなんか私とクライアントさんの愛だか憎しみだかのドラマが始まっちゃいましたみたいなことになってしまったら、なったらですね、ここでこのドラマについて何が起きつつあるかを知りつつある状態を目指していくわけです。
なんかこう、シフトが変わったじゃんって感じ、なんか標的間違ってない?それってことになるんだけど、私は会社のパワハラ上司の問題で来てるのに佐々木さんとの愛と憎しみの劇やってる暇ないんですってことかもしれないけど、ここがですね、無理やりでもその暇を作り出して、佐々木さんとのこの愛と憎しみの劇では一体何が起きつつあるのかを二人で知りつつあるように頑張りましょうみたいな話になってって、Kを取り戻すわけですよ。
これが今ここの転移って呼ばれるやつで、言うだけなら簡単なんですけど、これが始まるととっても大変なことになるわけですね。これをやるんだったら週1では厳しいから、週4にしましょうねみたいな話を多分書かれているのが藤山直樹さんですよね。ざっくり、すごく大雑把に言いましたけど、僕はそういうことだと思うし、これを扱うと本気で取り扱うとなってしまったら、そういうことは起こりますから、治療じゃないって言ったって精神分析じゃないって言ったって起きるときには起きちゃうんで。
起きてしまったらもう腹くくるしかないじゃないですか、ある意味では。個人コンサルだとしても起きるものは起きるんで。その時には、要は何かっていうと、何が起ころうとKを発揮し続けようという、なんかこう、必死だが割と本人がお持ちになれるかどうかが最終的なポイントで、で、このKを発揮しつつある状態というのは、人間は私は基本的にやっぱり、
基本的にはどういう水準にある人でも持つことができる。赤ん坊だって持つことができるし、これなしに人間が生きていくことは無理だっていうのは、後期病がそうなのかどうかわかりませんけど、おおむね精神分析というもので目指されているのはこれなんだろうなと。
私は精神力動的な個人コンサルですけど、目指すところは変わらないです。手法とアプローチのやり方と、私が属していないとか、私が分析の資格を持ってないというのは事実だけど、狙っているところ、要するにオプションは違うかもしれないけど、ゴールとしているところは同じで、何が起きつつあるかを知りつつある状態、それだけが分析じゃないかもしれないけど、
私の3ヶ月チャレンジではここを総力を挙げます。3ヶ月しかないし、基本的にやっぱりビジネスパーソン水準という立て付けですから、全員が全員常にそうだとは言いませんし、僕だってそれからスリップすることは多々ありますが、でも基本はそこに置く。
人間関係の探求
家庭で何が起きつつあるのか、会社で何が起きつつあるのか、あるいはそうじゃないところで何かが起きつつあるのか、実家とかかもしれませんが、そんなことは関わりなく、この3ヶ月チャレンジのセッションという場面においても、何が起きつつあるかを頑張って調べにいくという、
これをもうひたすら基本的に最終目標として、その途中には様々な三角形とかが起きたりするってことですね。
この三角形は、昨日もお話ししたんですけど、僕の中では最重要の位置付けに近くて、何が起きつつあるか知っていくみたいなのは、BEYONDですし、コンテナの考えだし、KLMHですけれども、
グリッドでもいいんですけど、とにかくPSとDのポジション、激しいチェンジとかそういうことを全部含みますけれども、僕は変形とかまだよくわかってないんです。変形は昔ちょっと口走ったことがあるんです。ここではスルーしますけれども。
でも三角形は、これを探る上での欠かせないピースだなって、絶対途中登場するんだなっていうのを知ったんですよね。
ある意味、情緒の嵐みたいな時には全く意識できてないんですけど、その後には必ず浮かび上がってくるもので、関係を象徴化できるかどうかということなんだと思うんですけれども。
例えば、私の娘は今は高校生なんで、私との関係は親子関係だよねということをさらっと言える。これがまた、これはだから情緒的に安定してるってことなんですよ。親子関係だよねと、相手の前でもさらっと言える。
親子関係というのは、よく動物がほのぼのとして、熊さんが小熊を連れたりして、小熊は熊さんの親子ですみたいな、そういう、これを人間はやるわけじゃないですか。熊は人の親子を見たって、あれは親子だなとか絶対思わないわけですよ。これはすごい違う世界だと思いますね、私は。
あれ、人は平気で親子関係とかって簡単に言うじゃないですか。自分の親子関係、人類の親子関係を他人にも適用するし、他の動物にまで適用するし、かなり下等な動物にでも、なんかこうね、トンボが子連れだったりすると、すげーなんか和んだりするじゃないですか。トンボの知ったことじゃないじゃないですか。
親子関係というのは象徴ですよね。第三の視点がそこに必要ですよね、絶対に。二者関係しか知らないんだったら、親子関係などと言えないじゃないですか、絶対に。
うちの娘が0歳の時にももちろん、うちの妻に抱っこされるとめちゃくちゃなうごむ。けれども、それを親子関係だからだとか思ってるわけではないわけですよ。この間には二者しかないわけですよ。
だから二者関係にあるときはもう絶対的に、相手がどうであろうと、相手がどんな存在であろうと、それに頼るしかないわけですよ。すっごい極端な話。人間かどうか疑わしい存在だったとしても、そこに頼るしかないわけですよ。
だから親子関係というものが抜き差しにならない。二者関係が抜き差しっていうのはつまり、代わりが全く効かないってことですよ。そうするとお互いすごい大変じゃないですか。子育てが大変なのはこれゆえですよ。
自分が常時見てなきゃならない。何でも口に入れちゃうから。蝶々というものがない以上、体験するしかありませんから。疑似体験などというものはないわけだから、赤ちゃんには。だから触る、口に入れる。それがリンゴとかホットケーキならいいんでしょうけど、うんことかでも触る、口に入れる。だってそれが何だかは知らないんですから。
それは口に入れてみて吐き出すかもしれませんけれども、それは体験してみなければわからないということを意味してますよね。この体験しなければ意味わからないという世界においては、ある意味全ては二者関係だし、だから三者などというものはないわけですよね。
象徴機能の重要性
この状態にしばしば陥るわけじゃないですか、我々は。さっき言った夫がひどいんです。でもこの夫とずっと一緒にいなければならない。これはもう二者関係のせいですよね。この関係が何なのだろうとか言ってる余裕がどこにもないんですよ。
だからわざわざ面接設定というものを作り出して、この関係って何なんでしょうねっていうことを夫はひどいんですだけでは済まされないんですよ。ひどい夫と永遠に一緒にいるというだけなんですってんだったら、面接などというものは必要なくなってしまう。
だから親子関係の話、お父さんはひどかったみたいなやつになった時に時々危ういセリフが出るわけです。なんか佐々木さんのような方がお父さんだったらよかったのにみたいなセリフがパロッパロッと出たりするわけですよ。そうすると、なんていうのかな、劇的に異向が始まってしまうわけですよ。
佐々木さんとの私の関係は親子関係みたいな。危ないですよねこれは、とてつもなく。私が極悪人だったら結構危ないじゃないですか。お父さんにちょっとお金いっぱい持ってきてってことになったりしたら危ないじゃないですか。今月お父さんピンチだからさみたいな、そういうことを言い出したらやばいじゃないですか。だから倫理倫理言うわけですよね。
でもこういうことをやっていくうちに、いやお父さんではないよねっていうことがわかってくるっていうか当然最初からわかってるわけですけれども、そうなった時に私とその私と話をしている関係がどんな関係なのかっていうことを考えた時に代替物ってものが絶対必要ですよ。
てか想定しますよね。例えば私とのセッションがない時には、えーとわかんないですけどね。えーと、倉園慶三さんとセッションするとか、これが代替えってことになる。逆かもしれない。倉園慶三さんとのセッションがなかなか取れないときには佐々木さんで間に合わせようみたいな、そういうことかもしれません。
グッドバイブですよね。これは具体的に象徴させているわけですよね。私の代わりなのか倉園さんの代わりなのかわかんない。そのほか別のカウンセラーの代わりなのか。でここに三角関係があるわけじゃないですか。別に嫉妬とかはこの場合発生しないけれども、いやー倉園さんのところ行ってんのかみたいな。俺には力が足りないわけかみたいに思うかもしれない。思わないけど。
でも全く思わないんだったらおかしな話じゃないですか。代替えにならないですよ。代替えになるということは競争関係にあるということですよ。お母さんと熊さんは競争関係に実はあるわけですよ。ライナスの毛布でもいいんですけど競争関係にあるわけです。
お母さんの代替えになるということはお母さんと同じような機能いくらかは例えば丸々に触れてふわふわしているとかいう機能をお母さんがいなくても発揮してくれるものがあるから私お母さんじゃなくて毛布の方がいいって言ってお母さん怒り出すかもしれないじゃないですか。そんなことはないと思うけど。
つまり、象徴関係というのはそういうことですね。お母さんを象徴する毛布というのはお母さんの代理を務められる毛布という意味でもあるし、これが私とお母さんの関係を私と毛布の関係がいくらかは象徴してくれるっていうこれが象徴機能というんですよ。
だから三者関係ってものがここに三角関係ってものがここに発生するわけですよね。3ヶ月チャレンジは間違いなく何かの第三項目になるはずです。何かの代わりとしてまず働き始め、やがて3ヶ月チャレンジそのものあるいは佐々木翔吾そのものを何か別のものに代替させる。
そうすると最近はずっと私はこの言葉を使うんですけどモバイルが可能になりますから。家にあることが、家に設置されてるテレビはでかくていいんだけど、でも今日はどうしても所要で出かけなきゃいけない。でも大谷翔平みたいって時にiPhoneをテレビの代わりにするじゃないですか。
つまり私とテレビの関係を私とiPhoneの関係にも置き換えることができるじゃないですか。つまり私とテレビの関係をiPhoneが象徴しているとも言えるじゃないですか。この象徴は相当無理がありますけど。
象徴としての母親っていうのはそういう話で、象徴としての親友っていうのはそういう話で、象徴としての三チャレンみたいに。こうやって私たちは象徴象徴象徴でどんどんどんどん拡大していって、いつでもどこでも生きていけるようになっていくというのが自立ってことですよね。
だから自立するためには象徴機能が欠かせないんですよ。象徴に頼ることができないということは、お母さんが常に世話をしてくれないと生きていけないみたいな話になっていくので。
だから問題なのは象徴には2つの機能があって、言葉が使えるという意味、その言葉に頼れるという意味の他に、その言葉がある程度の世話というものを代わりにしてくれるという意味がなければ、とてもおぼつかないわけです。
ただただ言葉が記号のように氾濫しているだけでは、私はお母さんに見放されたら、もうなんか生きていけないみたいな、言葉が砂漠のようだみたいな、東京砂漠って歌が昔ありましたけど、そういうことになってはいけないわけですよ。
つまりまず赤ちゃんはうんことりんごがあったら、りんごが食べられるものだと考えられないとダメですよ。一人で生きていくためには。ある程度一人で生きていくためには。
そうするとこれはりんごを食べられるものって教えてくれたお母さんの代わりを、りんごという言葉がしてくれないといつしかはね困るじゃないですか。そのときいきなりそれできないから、りんごだから食べられる、だから食べようじゃないから赤ちゃんいきなり口に入れますからね。
だからその前にりんごだから食べられる、だから食べようを必要とするわけで、これは母親機能の代替なんですよ。でもここまで行く前には、クマさんが何かを使って、クマさんと一緒にこれはりんごだから食べられるねとか何とかやる必要があるわけです。
自分が母親機能をやってみたり、クマさんに母親機能をやらせてみたりして、いろいろと象徴機能が使えるようになる前の段階ってものがあって、具体象徴ってことですけれども、そういうことをウィニコットって人は言ったわけですが、そのときの思考の働きというものをビヨンっていう人はコンテナーとかフリットとかそういったもので説明してくれていたわけですよね。
で、まあ、極論それに似たことを3カ月チャレンジってところでもやってるってことなんですよ。極論これはある意味自立の問題。もちろん皆さんの世界の自立は、りんご食べられるかどうかって話では絶対済まないので。
でも、例えばものすごくうんざりするようなことが会社であって、家に来たら重力マックスですみたいな。もう玄関先で倒れそうですってときに、食べられるようにりんごを剥いて食べましょうねっていう母親機能を言葉だけでちゃんと取り戻してこないと自分の世話ってできないじゃないですか。セルフネグレットみたいな話が出てきちゃうんじゃないですか。
昔僕この言葉好きで結構使ってましたけど、途中飛んだら意味ないんですよね。セルフネグレットですよそれは。やめましょうねでは絶対に済まないと思うんですよね。なんかやっぱり移行対処を必要とする。なぜならば象徴機能を使って、母親機能なり父親機能なり何でもいいんですけれども、そういったものをそこに再現させるというか、自分自身と象徴との三角関係をそこに実現するというのは、
自己管理の方法
かなかなか難しいことだからだと思うんですよ。だって、あんなにチンパンジーとか猿とか賢い賢い言うけど、そんなことはできないじゃないですか。やっぱりりんご口に入れるしかないじゃないですか。わかってると思いますよ。彼らはりんごが食べられるものだということ。でもあれはりんごだとわかってるわけではないですよね。我々はこれを口に入れる前にどうすりゃいいかを完全に知り尽くしているわけですよね。
でもそれは象徴機能を使ってこそなんですよ。しかもそれが情緒的に機能してこそなんです。自分のためにそれを用意して、ある程度上位というものを持って自分に食べさせてあげるっていうことができないと無理なんです。
だからここをどうやって受け取っていくかというか、受け取る形に直していけるかっていうことは、実は割と基本的な生活水準でも出てくる。ただそれはすごい疲れてるからですよ、もちろん。象徴水準がわからないからではない。そういうことをするためには途中飛び越さなければならない複雑なハードルが出てくるということです。
自分がどういう人間でどういうふうに扱われているかということを色々と知りつつある状態にしなきゃいけない。そうしないと上司に暴言を吐かれたから何も食べずに死んだように倒れようみたいになってしまうかもしれないじゃないですか。
なぜ上司はそのようなことを言ったのかということについてもやっぱり知りたくもないかもしれないけど、やっぱりこれは何が起きつつあるのかを知りつつあるという状態は必要なわけですよ。実はその上司は家に帰るとすごいひどい目に奥さんに漁されてるとかなのかもしれないわけですよ。
この人は今PSポジションにいてどうにもならないんだなということが分かるんですよね。それが分かるのと分からないのとでは解釈が全然違うんですよ。PSポジションにいてどうにもならないんだな。だからこの人は私にこういうことを言うんだな。これはこれできついし全然納得がいくわけじゃないけど。
これがですね、私が全く昔でこの会社にいるべきでないからこの人は真剣に正しいことを言ってるんだっていう風に和製を聞いているのと、PSポジションだからこの人は今なんだかよくわかんないものに対して何か一生懸命喋っていないと耐えられないんだって思うのと全然違うじゃないですか。
だから、こう者が現実であるってことはパターンあるんですよ。どうしてじゃあ自分はそういうものに対してこの会社にはいてはいけない存在だからこの人に正論を吐かれているんだっていう風に何でもかんでもいつでも納得してしまうのかっていうと、それもその人の心の中で何が起きつつあるのかを知りつつある状態っていうのが必要なんですよ。
そのためにはどうしてもやっぱりこう三角形ってものを積んでいける必要が出てくるわけだと思う。
なんか今日は入り組んだ話をぐじゃぐじゃと喋ってきた感じしかしませんし、この辺に時間が時間なんでしておきますけれども。
まあでもとにかく整理された喋りにはなってないけど、大事なことは自分が大事だと思っていることを三角形チャレンジでってことですよ。
大事だと思っていることを喋れたかなという感じはします。
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