2021-09-30 45:02

【GMV 467】妄想を軽く見ない

妄想を止める力がある
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
最近は安定的に収録しているので、これをポッドキャストですね。
すっかりですね、一人でやるスタイルで、この8時半前にやるというのに、
慣れ切ったというか、朝の朝礼みたいになってしまっていて、
そういえば前には2人でやってた時代も長くあったなとか、
遥か昔のことのような気がします。
まあ、どうでもいいんですけどね。
いよいよですね、明日オンライン合宿始まりますので、
これ直前まで、もしかするともう本当に始まると同時くらいまで申し込みできると思うので、
コミュニケーションで困るというか、コミュニケーションを一気に何とかするとかいう話とも違うんですけれども、
だいぶコミュニケーションというものが違ったものに感じられると思うので、
ネガティブな意識を持つという人はですね、仕事上が僕はやっぱり最大だと思うんですよ。
私も職場のコミュニケーションで楽しかったというふうに思った試しがないんですよね。
私のケースはかなり独特だとは思うんですよ。
苦手意識も強くあった上に、長く勤めた経験もないんで。
でも家庭とかですね、私はこっちの方でグッドバイブスの恩恵は大量に受けているんですけれども、
昨日も倉園健三さんに相当個人的なことを、しかもそれを収録するという極めて個人的なことを相談したんですけど、
そういうコミュニケーションってどこにでもあるわけですよね。
そのどこにでもあるコミュニケーションでいちいち苦痛を感じるというのは困ると思って生きていく上でですね、
楽じゃないですよね。
だから僕は本当この2年でコミュニケーションで困るということが全然ない人生というのは、
こんなに良いものなんだというのをしみじみ感じて、
苦手意識って本当に、別にそこで失敗するとか痛い目見るわけじゃないことは明らかにないんですよね。
失敗するとか痛い目見るわけじゃないことは明らかにあっても嫌なんですよ。
例えば先週あたり、緊急事態宣言が出ていたので子どもを迎えに行かなきゃならなかったんですね。
それ時代は何の問題もないんですけど、
例えばああいう時でも学校の先生としゃべらなきゃならないじゃないですか。
しゃべるって言ったって3秒しゃべって2言その間ストロークするくらいなもんですよね。
どうもありがとうございましたとかってやつですね。
03:00
あれすらやらずに済むならやらずに済ませたいって私は結構強く思ってたんですよね。
そこで失敗するとか恥ずかしい目にあうと思ってたことはもうほとんどないです。
40歳過ぎてからは。
だからかすかなものなんだけど、でもできれば避けていきたいっていうのはあったんですよ。
それがなくなるというのは本当に楽ですよね。
気楽だなって思います。
みんな普通こうなんだろうなと少なくとも苦手意識を持っていない人はね。
私は苦手意識が強すぎたから、
例えば本当に東高班のお母さんとはっきり言っておはようございますしか言わない日もいっぱいあるわけですよ。
それも結構それがないとどんなにいいかと思ってしまうと
日曜日の朝とかはないわけですよね。
そうするとそれがないと思うだけでも少し気が晴れちゃうみたいなのがあったんですよね。
その気が晴れるのが全部に行き渡るわけだからやっぱり大きいんですよね。
っていうCMです。
明日夜から開始で、
明後日のお昼まで。
お昼一緒に食べるとか、一緒に食べるって動画はズームなんで、
一緒に食べるっていう概念はどういうものなんだろうっていうのもありますけど、
こういう時期ですからね。
もしかするとこういう時期しかこんなことはしないかもしれませんので、
わかんないですけどね。
是非ご検討いただければと思いますね。
私の本も見本が3日に届く予定になっていて、
つい顔色を伺ってしまう私を手放す方法。
方法も書きましたけれども、
何と言ったってやっぱりここに注目しようということを目一杯書きました。
この種の本ってどうしても一般論を書かなければならないじゃないですか。
実に顔色を伺うと言ってもですね、幅広いわけですよね。
あらゆる原因と一人一人の実は顔色を伺うという時にやっていることも
バリエーションが無限にあるわけですが、
無限にあるバリエーションの一つ一つについて書いていくというのは何らリアリティがないので、
やっぱり一般論に集約していくわけですね。
その一般論の一つに恐れを抱いているというか、
人の起源を取らなければならない、
気を使うというのとやっぱり近いと思うんですけれども、
その時にですね、私が今回非常に何点かある、2,3点はあるんだけど、
そのうちの1点がイリュージョンですよね。
思考するということですね。
06:00
思考の万能観とこの番組ではよく言いますが、
その万能観にやられているんですということを書いたわけです。
一番思考の万能観にやられている実例として、
しかも多くの人を割と苦しめがちなのは、
やっぱり私は筆頭が脅迫神経症だと思っております。
これは異論もあるかなと思うんだし、
その議論そのものに大した意味はないんですよね。
どれが一番苦しいかとか流行っているかというのは。
私の考えでは脅迫症が一番広がっていて、
誰でも割と経験はあるかなと思うんですね。
つまり、閉じまりをしてお出かけすると、
うちの近くには急な坂があるんですけど、
降り切ったところで通しめてなかった気がすると。
これですよね。
戻っていって確認しちゃうと坂がつらいんですよ。
このモチベーションを生み出してしまうのは思考なんですよ。
記憶力の不足だとか不注意だという言い方もあると思うんですけど、
やっぱりそんなことを閉じたにも関わらず、
坂を降りたところで不意に思考がバグを起こし、
暴走し、閉めてないかもしれないんだぞというモチベーションなんですよね。
転化してしまう、火をつけてしまう。
そして、絶対に普通なら考えられないこと、
つまり、そんな坂を登ってまでわざわざ確認しに行かせてしまう。
自分自身をね。
これが思考の力であって、
そういうものの悪影響を被って、
私たちは実にいろんなことをやっちゃうわけです。
グッドバイブス的に言うと、
当然恐れと不安がそういうおかしな行動、
おかしなというのは笑えるということですよ。
笑えるということを含むわけですね。
ちょっと笑えるじゃないですか。
チャップリン的じゃないですか。
いささかそれが、もし戸が開いてたのならまだしも、
閉まってたとすると、何とも虚しいものがそこにただ寄っちゃうわけですよね。
おかしな行動ですね。
これが抜き差しならない状態まで人を追い込んでいくんだけど、
その原点というのは結局その人自身の思考にあるわけですね。
このように考えたわけです。
私は考えたというか、おそらくそうなんですが、
顔色をうかがうというのも同じだと思うんですよ。
うかがいたいわけじゃないんですよ。
そして、うかがったからといって、
この閉じまり確認と同じでですね、
うかがったからといって何もかもうまくいくとかいうわけでもないんですよね。
09:03
そして本人はやめたいと思ってますよね。
閉じまりの確認を毎年にいかなければならないとか、
手を洗うのをやめられないとか、
絶対やめられないって言うんですから、やめたいわけですよね。
顔色をうかがうのをやめられないんですよね。
これの原因が自分の思考にあるということは、
その思考を止めれば自然と病むと。
どうしてその思考が止められないんだろうということを、
ある程度はっきりさせて、そこに手当てしていくと。
甘えというキーワードを使って手当てしていったわけです。
一般論としてですね、この甘えの対象は、甘えはもう私は必須だと思うんですけど、
この文脈では。
ただそれが私は一般論として書いたから、
早々期の母親との関係というあたりを強く意識して、
そんなにそこに執念されてないんですけど、
強く意識してほぼそれだけを2焦点当てて書いたんですけど、
実際にはそれは父親である場合はもちろんあるし、
いじめるとかですね、あるいは失恋とか、
そういったものが問題になっているケースもあると思うんですけど、
多くは母親だろうと。
だからこの辺は個別の事情について、
私に問い正していただければ、つどつど答えられるんですけど、
本を読んでそういうことをいちいち父親にする人というのは、
実は極めてレアなので、これを聞いている方とか、
お買い上げになった方で、私に質問をぶつけたいという人は、
ぜひですね、お気軽に持ってきていただければと思います。
それについては無料でというのは当然、
ガンガンお戻ししていきます。
ただ、エースは多分甘えというものの捉え方にあると思うというか、
甘えられないという問題だと思うんですね。
甘えられないということが、例えば手を洗うのもやめられないとか、
閉じまりをどうしても確認しに行っちゃうということと、
なんで関係があるのかという話になってくると、
本当はやっぱりですね、もっともっとフロイトの話を
どことん書いていくのがいいんですが、
そんなことをすると、本の厚さが2倍になった上に、
売上は多分2の3乗分の1ぐらいになるに違いないと思ったので、
そんなことはしていません。
フロイトはですね、すごくこれについてもいい、
この人は本当にどうしてそんなに名言が多いんだろうというぐらい、
この種のことの名言は多いんですが、有名なセリフに、
神経症の治療には他人が必要であるというのがあるんですよ。
他者が必要であるのが正しいのかな。
神経症を治すには他者が必要だ。
これはすごいいい話だと私は思うんですね。
12:03
顔色を伺うというのは、私は間違いなく神経症の一種だというふうに感じるんです。
こういう話をしちゃうと、こうは一切書いてないですよ。
こういう話をしてしまうとですね、
何それ私が悪いんですかというふうにして、
ますますただで自傷的な人が一層自虐的になっちゃう恐れがあるのが、
まず一つなんですよね。
ここは相当気をつけて書いたつもりです。
何て言えばいいんですかね。
思考を止めるんだから、
自分がやっぱりやっていることについて、
自分が責任を負うということは確かなんですが、
これ昨日もそういう話を倉園さんとしたんですけどね。
とはいえ、別にあなたが悪いというわけじゃないんですっていうのが、
これはどっちも嘘じゃないんだけど、
何か両立させるのは難しいような気もするんですよね。
私アトピーだから何かわかる気がするんですよ。
肌が痒くて書いちゃうというのは、
私が書いているんだから、
やっぱり私が肌にダメージを与えていることの責任は、
私が負っちゃうしかないじゃないですか。
他の人のせいじゃないわけですからね。
でも書いてしまうのを、
書くからいけないんですって言われても困るわけですよね。
そんな感じなんですよ。
この神経症の問題というのは。
神経症の問題というのは、
それは私が悪いのかと言われると、
悪いわけじゃないんですよ。
でも、自分で何とかできるというふうに思わないと、
この問題はどうにもならないところもあるんですね。
で、エフロイトは神経症の治療には他者が必要であると言ったのは、
すごい大事なセリフだと私は思うんですよ。
結局、思考の万能感というのは、
自分の中だけで全てが起こってしまってるんですね。
他者というものがそこにないんですよ。
本当にそういうところが、
一番わかりやすいのは、
あくまでもわかりやすいだけであって、
一番重症だとか、
一番典型的だというわけじゃないんですが、
やっぱり強迫神経症というじゃないですか、
神経症のこれは一種なんですけど、
やっぱり私の目には一番わかりやすいし、
多くの人が実体験として経験してるし、
目にもつくので、
やっぱりここがケアの焦点としてまず考えておきたいかなと。
特に自分はライフハック、仕事術でずっと仕事をしてきたので、
強迫神経症というのは目につきやすいんですね。
きちんと、それこそタスク処分でもいいんですよ。
きちんと1分おきにとか、
きちんと1円も漏らさず家計簿つけるとか、
ここにはそれが全部神経症だとは言わないんですけど、
15:02
まあでも神経症だと判定されるケースが少なからず、
どんな心療内科的な人の目にもそう見えうるだろうなという話なんですね。
どうしてそれが生じるのかというと、
自分の思考というものの万能性というものをものすごく活用してしまうから。
そもそもなぜ人が強迫的行動をとるかというのも、
やっぱり人の思考のすさむじさだと思うんですよね。
現実からほとんど有利して離れてしまって、
頭の中で全部やっちゃう。
だから、頭の中で不意に自分の意思でなくても、
不意にかもしれないんだよという声があるよ、
そういう図が浮かんだだけで、
現実もそうなんだって思う。
そこに要するに現実と自分の脳内だけの出来事なのかどうかを区別できなくなるほど、
強いリアリティを持った絵なり音なり物語なりがどんどん展開してしまうんですね。
それを信じずにはいられないということです。
それがやっぱり僕は神経症というものなんだろうなと思うんですよ。
ちょうど自閉的の逆ですね。
自閉的な逆というのは、
一切のイリュージョンを走らせない。
だから、この目の前に見えている人形はプラスチックでしかない。
そういうふうにしか全く見えなくなっていくという問題なんですね。
これだと人間の社会で生きていくのは相当困難になっていくわけです。
あるいは現実、現実、現実なんですよ。
どうにもならないレベルになっていく。
だけども、多くの人の困難はそこじゃないんですよね。
むしろ妄想をかぶせて、かぶせて、かぶせて、意味をつけて、つけて、つけてをやっていくから
自分自身が見えなくなっていく。
自分自身が見えなくなっていく。
むしろ妄想をかぶせて、かぶせて、かぶせて、意味をつけて、つけて、つけてをやっていくから
その意味が自分を刈り立てていってしまうわけですよ。
まだ手に何かついているんじゃないんだろうかというやつですよね。
あるいはここには誰が触ったかわからない。
それは全て脳内の空想の話になるわけです。
そういうものがどんどんどんどん展開していくんですよね。
このオーバーラップのせいで、現実にラップしているような空想力のおかげで
閉めてないかもしれない現実というものが脳内で暴れると。
18:02
だから結局閉めに行ってしまう。
もしかすると自分がさっき言った言葉のせいで
この人は表面的にはニコニコして親切にしているけど
劣化のごとく怒っているのかもしれない。
そういえばちょっと目が笑ってないとかね。
こういう空想が顔色をうかがわせるわけじゃないですか。
そしてそれが止まらなくなっていくわけですよね。
これを私たちはしかも何か名前を付けることによって
自分が神経症でやっているわけではないんだって思いたがるんですよ。
リスクヘッジとしてこういうことをするべきだとか
常に人に対して気を張って顔色をうかがっていてこそ
人生の質を上がっていくとか
人間関係を円滑に生きるんだっていうような
そういうライフハック的なやつですよね。
現実対処法みたいにこれを切り替えて捉えていくことによって
ますますやめられなくなると思うんですね、ある意味では。
既にそれをやっているという段階で
何かが変わっているはずなんですよ。
例えばトジマリを
何度も確認する代わりに
エアタグみたいなものを使うとか
自動で清浄されるものを使うとか
人がいなくなったのを感知したら
AIが鍵かけてくれるとか
どんどんある意味進行していく。
この対処の仕方が正しいのではないんだろうかっていう風に
私も思っていた時期があって
だからあれですよ、発達障害的な不注意には
タスク管理で対応しようっていう方法論も
今もありますし、受けもいいですし
私もこの受けの良さからそっちに行きたくなるんですよ、時々。
受けが悪いっていう活動を
一生懸命続けていくのは
何て言うんですかね、やっぱり一定の忍耐力を要求されるなと
特に本を出した直後とかは
どうしても来るんですよね
いいよなと思っちゃうわけですよ
1000いいねとか1万いいねとかを見ていると
それをする方法が高々ですね
ADDに対してタスク管理って言っておけば
手に入ったのかというと
それはそれで全然妄想で
かつて自分はそういうことをやってたけど
1000いいねとかが付くことはほとんどなかったんですけどね
でも本とか出すとですね
やっぱりそういうマーケットパワーみたいなのは欲しいと思いますからね
人間
もっと売れるんじゃないでしょうかみたいな
そんなこと言われたことはないですけど
なんとなく暗黙の圧力が
どっかからかかってきているような気がして
21:00
このパワーが全然ないのに
本とか出させてもらって悪いことをしたかなとかって思うわけですよ
無駄な罪悪感を抱く
だから思っちゃうんですけど
そういうAI施錠みたいな
AI施錠みたいなものって全然いいと思うんですよ
いちいち何度も何度も戻って
出かけられもしないっていうよりは
全然いいと思うんですよ
そういう技術やテクノロジーで問題解決するという
ただ問題なのは
この思考が勝手に突っ走るということ自体に
自覚なく
しかもそのことに対して
何点ですか
対応する力が自分にあるっていうのを見失ったままだと
施錠そのものの問題が
仮に解決できたとしても
何かすぐ違うところで
同じ問題にはまり込むはずなんです
私が以前前に書いた続編
今もちょっとは書いてるんですけどね
ヨームセラピーというところで
平気で嘘をつく人たちの
冒頭に出てくるのは
強迫神経症の患者さんなんです
やっぱりこの問題は
僕はアメリカだろうと
イギリスだろうと
日本だろうと
でかいなと思うんですよ
やっぱり彼は最初から問題が
人を引いたかもしれないという不安に駆られ
その現場に戻っていくという
ほぼ同じですよね
この何かおかしな行動
何か不吉な雰囲気があって
そして頭の中でデッチ上げた現実に
デッチ上げた現実に
現実が完全に上塗りされてしまっている
そこから普通じゃ考えられないような
モチベーションを当人に持たせて
借り立てていくという
こういう図式で
何でも成り立っちゃうじゃないですか
人を引いたかもしれないぞ
さっきの世情は
エアタグとかAIとかで
解決できるかもしれませんが
違うやつが飛び出してくるわけですよ
そうなってしまったら
やっぱり今度は
そういうのに対応しているテクノロジーが
あるかないかで
その人の人生が大きく
暗転してしまうわけですよね
やっぱりそれは
何とかした方がいいと
自分は思うんですよ
この問題の元にあるのは
思考なのであって
決して不注意とか
テクノロジーの不足とかに
よるものじゃないと思うんですね
実際のところ
成長したという
自分にそういう安心感を
持っておくことが
最終的にできれば
この問題は
そもそも問題ですらないはずなんです
そもそも問題ですらないものが
そんなに人生を
悪影響を及ぼすというのは
やっぱり
いろんな意味でですね
一番手当てするべき
つまり自分自身の
心の暴走を
止めるというか
24:02
勝手に突っ走らせないように
していくという方が
いいと思うんですよね
お金もかかんないですしね
という話を
もう少し一般向けに
かつ
受け入れやすい
言葉で
書いたのが
顔色の本です
こういうことのベースには
やっぱり
これまでも散々話してきているように
ウィリコットなんですよね
私の最近
一番仕入れている
仕入れていて
読み直していて
理解し直している
流れの中では
フロイトは当然として
ウィリコットなんですよ
おままごとってやつですよね
おままごとには
意味がついているわけではないですか
どう考えたって
それはおつゆ、茶碗じゃないものが
茶碗になっている
意味付けですよね
そして
その意味付けの
元をというか
その意味付けを
そのある女の子が
おままごとしているとすれば
教えてくれたのは
これを茶碗に
これがお茶碗なんですよ
というわけじゃないですか
ここに全部あるわけですよね
思考の万能感というものが
スタートする大きな要因は
ここにありますよね
最初から
赤ちゃんがいきなり
そんなこと自分で
自発的にやれるわけがないです
これおっぱいだからっていうのは
お母さんが意味付ける
そしてその意味付けは
これがおっぱいだという
自分のニードがそれによって
精神的なっていうのかな
生理的な不快感が
それによって解消される
ということと
紐づくわけですよね
これを飲む
そうするとなぜか
自分は満ちたれた気分になり
眠れると
そこも全然意識に入ってこないですよね
ただそういうことが
起こるわけですよね
そしてそういうことを
全域に意味を付けていく
ということになって
いつかその子は
自分の中にそれを
取り込んでいって
自分がお母さんで
その自分が自分でもある
自分がお母さんで自分が女の子でもある
つまりケアする役と
ケアされる役を
一人二役やれるようになった時に
お母さんがいなくても
むしろそこにいないことによって
これを不在の母親って
いいことを呼んだんですけど
いないことによって
そういうことができるようにならないと
永遠にお母さんが
一緒にいてくれないと
意味付け一つできない
27:00
ということになるんですよ
これってすごいことだと思うんですね
意味付けってのはやっぱり
人に習うものなんですよね
そしてこうやって
自分で自分のケアをするから
一人で砂場に行って
いくつかのガチャガチャしたのを
持っていくだけで
一人でいられるわけですよ
でもその子は一人じゃいないわけですよね
お母さんがいるわけです
だから友達みんないなくなって
とっぷりと日が暮れるとですね
途端にその魔法が解けるわけですよね
本当にその日一人になってしまう
その時にうろたえるわけじゃないですか
さっきまで全く同じシチュエーションなのに
全然平気でいられた人が
急にそうじゃなくなるわけですよね
お母さんが
不在の母親が
自分の心から消えてしまうんですね
で、全部おっぽり出して
帰ってきて怒られたりすると
そういう展開ですよね
それつまり
さっきまでは二人いましたと
今一人しかいませんと
そういう状態ですよね
こういうふうに私たちは
思考を使うのが
いいはずなんですよ
つまり現実というものの上に
ある程度意味をかぶせたり
引っ込めたり出したりして
自分で自分のケアを
できるようにするという
こういう使い方がいいはずなんですよ
明らかに
思考の万能感が
現実を無視している時ってのは
この領域を全然
踏み越えちゃうわけですよね
もう何にでも慣れてしまうし
何でもできてしまうんですよ
だからわけわかんないことを
頭が考え出して
その現実に振り回されるという
ような現象を
起こるわけですよね
ギリギリミニマムでいいはずなんですよ
意味付けなどというものは
だけれども
僕らは
この思考の万能感というのが
むしろいいものだというふうに
見なされつつある時代に
生きているために
ど方もなくやってるんですよね
この影響について
しかも特に誰も
問題視しないし
研究すらしないんですよね
例えば漫画だからいいんだけど
世界線みたいな表現が
あるわけじゃないですか
あの時こうしていれば
こうなったかもしれない
っていう思考の使い方をする
これはもうおままごとの
つまりそこに何か茶碗に似たものがあり
お味噌汁に一応似た液体があって
それに意味をつけるという
空想のレベルを
全然乗り越えていって
もうやっているわけでもない
別の人と結婚したとかね
あの人とあの時
別れていなければとか
もう全然存在もしない現実を
つまり現実などというものの
解材を一切抜きにして
思考を走らせるわけですよね
そしてそういうふうにして
作り出したストーリーと
現在の自分の状況を比較して
30:00
どっちが良かったかを
決めることもできるような
振る舞い方をするんですよ
しかもそれをさっきも
例えば
強迫神経症という表現を
使うのはやめにして
例えばタスク管理という表現に
切り替えることによって
すごく良いことをやっているような
雰囲気を作り出す
さっきのでいうと
世界線とか
これは私は
抑鬱的な神経症だと
思うんですけど
現在失われているものについて
失われた恋人とかについて
どうやって
深く落ち込むのは嫌なので
その対象喪失という
現実の代わりに
世界線とか
プランBとかいう言葉を
使うことでですね
比較していくんですよね
比較することができると
そしてそれはすごい
前向きにやっているという
雰囲気を帯びてくるんですよ
さっきの僕は
AIの施錠みたいな話と
よく似てると思うんですよ
この種の神経症と言っても
差し支えないような物事を
来伐的なもので
どんどん置き換えていってしまって
自分がそのことによって
気持ちとしてネガティブになっている
という部分を
うまくごまかしてしまう
という問題だと思うんです
顔色を伺うというのも
単純に
これは脅迫症という
意味だけでなく
すごくこういう
抑鬱的な神経症というものを
やっぱり感じさせるんですよね
この人とのいい関係を
失いたくないという
かつていい関係を
人間関係を
自分の失策によって
やらかしによって
失ったということに対する
後悔と罪悪感みたいなものが
そこに手伝っていて
今度はそういう失敗を
しないようにしようと
つまり現実的に
空想と比較することによって
笑い合って楽しくやれている
コミュニケーションスタイル
みたいなものと
ある種の現実を比較して
そして現実というものに対する
後悔を抱いている
そこをコミュニケーションスキル
みたいなもので
手当てしていきたい
という考え方
これが私の
自分の
自分の
人を
支配していきたい
という考え方
これが私は
良くないんじゃないかな
ここにもものすごい
たくさんの思考が
走っているわけですよ
で、ママゴトレベルを
はるかに超えた思考が
走っているんですよ
そういうですね
ママゴトは
小道具があるわけじゃないですか
茶碗だろう
思考をガンガン走らせるというのは、きっとまずいことが起きるんだろうと思うんですよね、最近は特に。
33:02
なるべく私は現実を見た上で、現実の意味付けをゼロにするってことはできないですから。
パッと見てコップはコップなんで、コップかコップじゃないというのはもちろんあるんだけれども、
つまり意味付けというのは、現実と交互している上に出し入れをしていくっていうことが大事だと思うんですよ。
これはコップにもなるけれども、劇の小道具にもなるとか、そういうのが意味付けの出し入れですよね。
意味付けが現実と関係もなく、しかも固定していくというのが、私は神経症というものだと思うんですね。
常にそういう時にやっていることは、私の世界に私しかいないんですよ。
これも分かりにくいんですけれども、他者がいないんですよね。
結局、夢は覚めるわけじゃないですか。
おままごとをしている女の子も、不意にままごとが中断されるというのか、日がとっぷり暮れてしまうと、そこに母親はいないということに気づくわけです。
これが他者ですよ。
さっきまでは、自分はお母さん役もやっていたと。その世界に自分しかいないんですよね、本来的に。
それに対して、外部というものがあるんだと。
例えば、日は暮れるんだと。これが他者ですよね。
他者というものがやっぱり必要なんですよね。
他者というものがいない世界に入っちゃうと、いつまでも手を洗っていたり、いつまでもとじまる命を確認していなきゃいけない。
それ全部自分の頭の中ですよね。
ある種のクレームを言われましたというお客さんにクレームを言われましたと。
そのお客さんはあちこちで自分の会社の悪口を言っているに違いない。
これは思考ですよ。そこにもうお客さんはいないんですよ。
お客さんは外部にいるわけじゃないですか。
他者なんですよね。
相手の他者性を無視するんですよ、クレームみたいなものを恐れるときってのは。
必ず自分の思考の中に囚われていく感じがあります。
しっかりと思考の中に閉ざされていて、その思考しか相手にしない。
完全におままごとの世界に、ただしほとんど小道具のないおままごとの世界にはまり込むので、冷めないんですよね。
おままごとは冷めるんですよ。小道具があるほうが冷めるんですよ。
それ小道具に過ぎないんで。
だから一個は対象もないところで、完全に空想の中にいて、私たちはそういうことをみんなやっていると思うんです。
最近わりと読んでいる、例えば夫がしょうもないというか、どうしてもいろんな意味で家事で伝わらないということなんですけれども、
あるいは専用主婦の仕事をバカにするとか、そういう漫画を読んでいると、
普通に多くの思考というものがそこに滞在していると。
この人と結婚しなければ今頃私はこういう生活でみたいな、全部思考ですよね。
36:05
ああいうコミックもそうですけど、何らこの人はおかしなことはしていないってみなされてるんですよ。
でもそこには意向対象がほぼない。何の小道具もなく、その人の頭の中でもんもんとすごいたくさんのストーリーを、
ある意味ストーリーとしては面白くてコンテンツにはなるんでしょうけど、
要はストーリーを考えていて、そして現実にとても苦しむことになるわけですね。
欲打つ的な神経症だという感じがします。
しかもそれが反復されていくので、脅迫症的なものにもなります。
要するにいろんな分け方があるということですけれども、
これを私たちの世の中というのは良いことだってみなすんですよ。
そしてさっきも言いましたけれども、これを例えばガントチャートに書いてみたり、
表にまとめてみるとますます良いってことになるんですよ。
こっちはプランA、そっちはプランBみたいにしてですね。
私は全然違うことがそこで進行しているような気がしてならないんですね。
プランBとかAは表ですから、それを意向対象みたいなものにみなすことはできますよね。
でも全然自体は欲しなものになっている感じはしないんですね。
なぜならばその夢から覚める気が全然ないし、
その夢から覚めるきっかけをほとんど見られないっていうことが進行しているから、
やっぱりおままごとでは済まなくなってしまっている感じがするんです。
ほとんどそれはプランBみたいなものとして書くとですね、
現実そのものみたいな顔をしたすわけですよね。
ほとんどそれはお化け屋敷でしかないと思うんだけど、
現実そのものみたいに見えるわけです。
こっちがお化け屋敷の出口ですみたいなね。
出口のマップを自分が書いているんだっていう、そういう感じになってしまうんですよね。
全部それは空想ですよね。もっと言っちゃえば妄想ですよね。
そしてイリュージョンですよね。
イリュージョンを作ったのは自分ですね。
だから自分がイリュージョンを作ったということに、少なくとも自覚を持つことで、
自覚を持つということはすでに他者が入ってきているはずなので、
自分がその夢の中でどっぷり浸っていれば、これが夢だって人は決して気づきませんから、
これは夢なのかもしれないと思ったときに初めて現実ってものが外に意識されてくるわけで、
これがフロイトが言ったことだと思うんです。
神経症の治療には他者が必要だと。
その他者の役割を精神分析科がやらなきゃいけないんだと。
これだって悪意に取られるんですよね。
フロイトが言うんだから、いやいやお前はただ精神分析に人に来なきゃいけないって言ってるだけで、
それで儲けたいって言うんでしょうっていう、こういう指摘は厳にされるわけですよね。
だから難しいんですよ。
他者が必要だっていうのは精神分析が必要ってことなんでしょうと。
39:00
その通りですし。
っていうことはつまり、あんたに金払えってことでしょうってことに取られるんですよ。
だからこの種のセリフって難しいなって思うんですけれども、
それにしてもつくづくやっぱり他者が必要なんですよ。
これは昔、倉澤圭三さんがブログの中で2人囚われた人がいて、
相手の縄なら切れると。
お互いに縄を切り合わないと外に出られないって話とものすごくよく似てる話なんですけれども、
分析家の方は必ずしも囚われてないんですけど、
でも分析家というのは一時的に演劇的、劇場的世界ですけど、
を設定しその中で囚われ人として振る舞えるようになるというのが多分精神分析の大きな役割なので、
ある意味、あのブログに書かれている通りなんですよね。
自分も一緒に囚われ人になってお互いを解放し合うということを繰り返す中で、
現実の苦しみから解放される方法というものをその人が認識していくと、
そういう方法論なのであれば。
つくづく思うんですよね。やっぱり他者が必要だと。
だって、正常されているかどうかを確認しに行くじゃないですか。
確認して、あ、閉まってた。これが他者ですよ。
で、本当に重症の人になると、閉まってた、よかったと思って逆下りると、
また閉まってないような気がして戻っていくんですよ。
完璧に思考に囚われているとこういうことが起こるわけですよね。
目が覚めることがなくなっちゃうんですよ。
だから神経症の方が精神病よりも一般論としてはマイルドな問題なのかもしれないけど、
そんなことはないと思うんですよね。
重度の鬱とは精神病と囚われると思うし、相鬱は精神病だと思うんですけれども、
じゃあそれよりも脅迫神経症とか抑鬱神経症の方が軽いかというと、
別にそんなことはないような気もするんですよね。
この辺は、この辺もグッドバイブスでは程度の問題じゃないって言うんですけど、
つくづく僕は程度の問題じゃないなって思う時があります。
大変ですよね、あれは。
だからいろんな形で囚われるではないですか。
一円ずれているだけで、掛け棒が一円ずれているだけで一晩眠れないとか、
完全に神経症の一種だと思うんですけれども、脅迫神経症の。
こういう問題ってのはやっぱりその思考が現実と完全に合ってなきゃいけないっていうような囚われなんですよね。
思考が現実と完全に合ってるはずはないですよね。
だって意味付けは出し入れ、さっきも言った通りできるわけで、
人によってはこれはとてもいいお風呂だし、人によってはお風呂なんて入りたくない、そういうもんですよね。
そういうふうに私たちは世界をその人なりの見方、
しかもその人自身が毎秒毎秒違った見方をしているというのに、
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思考現実にピタリと合わせるってことは到底できない話なんだけれども、
でも私たちは思考に現実を合わせたがる。
だから結局開いてないと私が思う、鍵を閉めてないと私が思ったら鍵は閉まってないんですよね。
魔法の世界に行っちゃうわけです。
何でもできますからね、思考だったら。
あの時AさんじゃなくてBさんと結婚していれば、今頃全くこういうガラス瓶割っても怒られなくて、
娘もいい娘が一人じゃなくて二人いて、みたいな考え方でどんどん勝手に空想していけるわけですよね。
A君と結婚していれば家事もすごく強力的にやってくれて、
私も外で仕事もできていたし、それに比べて今どうしてこうなんだろうということになって、
ものすごく苦痛を覚えると。
で、こういう話をするとやっぱり最初に言った通りですね、
それがいけないんですかって話になる気がするんですよ。
肌が痒くて書くのはいけなくはないじゃないですかってことなんですよね。
同じように空想してしまって自分が苦しむというのはいけないことではないですよね。
ただそれをやめる鍵は自分しか持ってないんじゃないか。
不思議な話に聞こえるかもしれないんですけど、
その鍵があるっていうことに気づくとき必ず他者がそこに現れるんですよ。
その鍵も空想のものですって言うんじゃダメですよね。
どうにもならなくなってしまう。
絶対に他者っていうもの、つまり現実っていうものが外部にあって、
内部で自分の頭の中で考えてる通りの現実が起きるはずがないって思えないと、
抜け出せないということなんですよね。
自分の作った、書いた本とかの丸口を誰かが書いて、それを間に受けて、
どんどんそれが広まっていって、本が全く売れなくなるという空想をしているうちは、
どうしてもおままごとから抜け出せないので、
なんとかして、それは自分が今考えたことなのであって、
現実ではないのであって、
思考が現実を変化させることは、
ただ考えただけで太陽に力を覚わせるような真似はできないんだと、
このごくごく簡単だと思える話が、
多分その人の中で踏み落ちてないときに、
やっぱり私たちの振る舞いはとても神経症的になるんだろうと、
そういう意味で他者がいるんだろうという話ですね。
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