1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. ケアとセラピーをどうして分け..
2025-10-06 45:28

ケアとセラピーをどうして分けるのか?【1259】

ファンになればケアされる。
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サマリー

ケアとセラピーの違いについて議論されており、特に非正規なケアがどのように効果を発揮するかが考察されています。また、ファンベースの考え方がケアの成立において重要であることが強調されています。このエピソードでは、ケアとセラピーの違いおよびその重要性が取り上げられ、特にアイドルのファン活動やそれに伴う自己理解のプロセスが、どのようにケアとして機能するのかに焦点が当てられています。また、セラピーが変化を促す行為である一方で、ケアがそのままを受け入れることに関連している点について考察されています。このエピソードでは、ケアとセラピーの違い、そしてそれらの関連性が探求されており、藤原海人さんの考えを通じて行動変容や精神分析の重要性も論じられています。特に、個々の体験や感情がこれらの概念にどのように影響を与えるか、またどのようにそれを受け入れるかについて深く考察されています。さらに、ケアとセラピーの違いについての考察が行われ、精神分析が内面の恐怖や不安をどのように問い直すかが探求されています。

カウンセリングと本の紹介
おはようございます。3ヶ月チャレンジ通信第1259回をお送りします。
10月6日月曜日8時13分です。微妙に遅くなってるんですけど、私の中では。でもまあ、正常的時刻ってやつかなと思います。
タイトルコールは変えておりまして、3ヶ月チャレンジ通信、3チャレ通信としていきたいところですが、それはマーケティング的な話なのでいいとして。
しばらくですね。僕、多分今回の本は、面白いというよりは、本当に横断的、集大成的な本ってそうなんですけど、東方カイトさんのあれですね。
カウンセリングとは何か。いや、すごい本だなぁと思うんですけど、あっという間に7万部っていうのがちょっと信じられない感じでして。
率直に言うと、それは、どんな本でもあっという間に7万部って結構信じられないんですよ。長らく著者をやっていた身としては。
7万部って一緒に一回行けば、もう新人を取りました的なノリでして、何でもいい野球に例えてしまいますけど、
そんな何回も何回も来るようなもんじゃなくて、あっという間とかっていうのは、もう本当にモンスター級なんですね。
そんなことを一生懸命狙って、もう多分永遠にできない時はできない。いろんな本当に要素があると思うんですけども。
仕掛ける人とかは別だと思いますよ。もうそのどっちかというと著者じゃなくて、その業界に超通じてる人とかいるじゃないですか。
その人自身がもうモンスターなんですけど、そういう人が仕掛ければ何万部いきますっていうのはまた別だと思うんですけどね。
著者が狙って目指しても、まあ7000部だっていかないですからね。7万部があっという間ってもう本当に凄まじいですね。
で、それがカウンセリングとは何かなのかと。これはもう私何代目だろうって思うんですけど、3代目カウンセリングとは何かですかねって感じがするぐらい、
この本は、このタイトルはですね、代々、まあ書ける人は今の時代、Kindleだけで出せばみんな書けますが、
でもこれを書ける人はやっぱり限られてくるでしょうし、しかもそれがまたコンセンサスを得るという、
10方Kindleのカウンセリングとは何かだっていうふうに認知されるには、さらに一定の条件、両方クリアしてるなという、だからある意味レジェンドですよね、すでにね。
ケアとセラピーの境界
本を読んでおりまして、一つ、もうちょっとやっぱり読み込まないと分かんないことが結構あるなと思うようになりました。
一つ、この本を理解するにあたって、やっぱりケアとセラピーっていう、割と彼の中では、戸畑海人さんの中では重要なコンセプトというかテーマがあって、
ケアとセラピーで分けるってところがやっぱりミソなんだろうなと。
なんとなくですよ、そういうふうに明言されているのかな、いずれにしても絶対にそうだと言い切れるっていう話では全くないんだけど、
なんとなくケアには非正規の人がやっても全然いいことなんだ、しかしセラピーは専門家のものなんだっていうのが、
一つの提示としてあるなって感じがするんですよね。
こう言い切ると多分そうではないって言われるかもしれないけど、なんとなくやっぱりそう読めるんですよね。
民間セクターというところでも普通の相談は行われている。ケアもしないわけにはいかないのであるっていうね。
だけどセラピーは、特に心のセラピーは心の専門家領域なのですと。
ですが、実際にはそうなっているわけじゃないじゃないですか。
例の本当にあるのか知りませんが野の医者で笑うのも、愚痴犬クリニックでもあっさりとセラピーを愚痴犬クリニックやってますし、
しかもそれは前世療法的な世界ですよね、波動だっていう話もありますけど、
6代目のおばあと何たらかんたらみたいな、5代目のおばあが悪さをしているからあなたアトピーになってるんですみたいな、
そういう思いっきりセラピーじゃないですか。
それをケアというのは、ケアなのかもしれないが、そういうつもりはないよねって感じがしますよね。
であの、マブイセラピーでしたっけ。
まあよく知らないんですけど、マスターセラピストとかみんなセラピストを名乗っていてセラピーやってるじゃないですか。
どう考えてもあれは、箱庭療法やってますしね、療法ですからねそれはね。
そういうところでやられていることは、まあよしよしは一旦置いとくとしたら、
ケアじゃないと思うんですよね。ケアとセラピーって何なんだろうって考えたときに、
えっと私がパッと行き着いたというか、
ファンって言葉が出てきたんですよね。ファンですよね。
私は千葉郎ってファンなわけですよ。
ファンベースでやるのが非正規なんだって気がするんですよ。
つまり、こういうセラピーをやることは、
その人のファンになる必要はないってことだと思うんですね。
特に審議なんて話になってくると。
だって私だって地元の小児会に行くけど、別に僕は彼のファンなわけじゃないわけですよ。
でもこれがですね、マスターセラピストの太子さんでしたっけ?
まあ実在するのかどうか知りませんけど、絶対しらは太子さんが好きだから行くわけじゃないですか。
あんまりファンになる必要はないんですよ。
嫌だったら多分行かなくなると思うんですよ。
治療じゃないんだから、究極的には。
少なくとも公認された治療ではないんだから。
行けと言われて行くとかいうことでは、もちろん行けと言われて行く人もいると思いますよ。
あんたもああいうところに行かないとダメよみたいに言われて、
渋々行ったら大好きになりました。
でも展開としてはやっぱり好きになるってことが、そこではすごく物を言うと思うんですよ。
ファンだったらケアはされるじゃないですか。
まさにアイドルのファンっていうのが推しとかもそうですけど、
握手したらケアされるわけじゃないですか。
あれセラピーでは全くないですよね。
なぜセラピーではないかというと、
あなたはそのままでいいんですって言うあれはメッセージですよね。
つまり握手してくれるだけで、
あなたはそのままでいいんですって言うあれはメッセージですよね。
あなたはそのままでいいんですって言うあれはメッセージですよね。
つまり握手してくれるアイドルが、
いつもありがとうございますって言って、
僕知らない、言ったことがないんですけど、
ファンベースの影響
例えば私がすっげえ彼女ができないので困ってるんですみたいなことを
アイドルにぶつけると多分アイドルの人は嫌な気持ちになるというか、
実に肩迷惑だと思うんですけど、
でも絶対こう言うと思うんですよ。
大丈夫ですよ。
佐々木さんならきっと素敵な彼女さんがすぐできますよって言うと思うんですよ。
絶対そう思ってなくても。
これは大事なことで、
これをケアと言うんだと僕が思うんですね。
これセラピーに全然なってないですよね。
彼女作るためにどうしろこうしろって話はしてないじゃないですか。
もっと清潔感のある服着ろとか、
アホ毛出してくるなとかそういうことは言わないわけじゃないですか。
それってつまりケアだと思うんですよね。
あなたはあるがままでいいんですと。
これが思うにファンベースでしかも入れ込んでいれば
絶大な効果を発揮し得る。
ここでケアとセラピーの境目が分かりにくくなってくるんですよ。
ケアだったはずなのに効果としてはセラピーになっちゃうみたいな。
ファンっていうのはやっぱり思い入れの問題なんで、
例えば私は千葉ロッテのファンだから、
ロッテ対西部で特にロッテが勝つ試合だったらめちゃケアされるわけですよ。
でも野球が好きで見てるとしたってですね、
やっぱり山崎孝明さんは広島ファンだった気がするが、
広島対ヤクルトとかを見ても僕は全然ケアされない。
全然じゃないかもしれないけど、ほぼ全くケアされないわけですよ。
なんか広島対ヤクルトいい試合だったから、
明日も頑張ろうとかいう気にはさほどならないわけですね。
野球好きだから途中ネタリはしませんよ。
でもまあ効果は薄いですよね。
これがロッテ対西部とかで3対0で負けてたけど、
9回の裏に逆転さよなら万里砲ぐらい打ちました。
明日頑張ろうって思いますよね。
ここでケア効果絶大で、
プラス西部ファンの人には申し訳ないけど、
ケア効果絶大でしかもセラピーっぽいところに入りうるわけですよね。
これが多分非正規で行われていることの多くを指しているものとして、
遠畑海斗さんが解説していることだと思うんですよ。
これってでも審議療法の場合非常に微妙になってくるんですよ。
つまりどれほど公認審議士の人はみんな同じであって、
同じ力量で最低限何かを持っているとしても、
ファンで行くわけじゃないんで、
公認審議士だから行くわけですよね。
それってファンで行くわけじゃないんで、
一歩間違うとケア効果すら怪しいものになってしまうと。
しかもケア効果が現れれば当然好きになるはずなわけですよね。
だからどこかでファンベースみたいなものに切り替わっていくということは
往々にして起きると思うんですよ。
だって明らかに今遠畑海斗さん超有名じゃないですか。
わかんないですけど、僕は知らないですけど、
カウンセリングの申し込みとかもいっぱいいくと思うんですね。
その人たちは遠畑さんにやってほしいと思うと思うんですよ。
これはファンベースだと思うんですね。
このシチュエーションでしかも公認審議士でも
臨床審議士でもある彼は最強じゃないですか。
つまりファンでもあり、しかも公認もされていて安心感もある。
その段階で会って喋ればケアはなされていくと思うんですよね。
よほどひどいことを言ったりしないでしょうから。
だからケアっていうのはそういう風にして始まり、
それによって普通はファンベースみたいなものが獲得されていくと。
明らかに私がやってるのも基本的には同じなんですよ。
私の場合特に公認の人間じゃないので、つまり非正規なので
疲れてなければ来ないと思うんですね。
値段高いわけですし、しかも安くったって疲れてなければ来ないと思う。
はっきり言ってタダだって疲れてなければ来ないと思うんですよ。
アイドルの握手会ってまさにそういうもんじゃないですか。
好きじゃなきゃいかないでしょ。
例えタダだとしてもね。
つまり好きだから行くということは、
もうそのいった段階でケアは成立しやすいという状態があり、
ケアが成立しやすいということは何度も行きたくなりますから。
好きだからね。
ケアがそこで得られるんだから当然行きたくなるじゃないですか。
苦しくなったら行くよねってことになるじゃないですか。
これがセラピーになっていくわけじゃないですか。
でもこれだけだと、
非正規と正規の違いって何にもないことになっちゃうわけですよ。
好きで行けばそこなら何でもいいってことになる。一つ目には。
二つ目には、学派の対立とか本当不毛なものになっちゃうわけですよ。
私が好きなのはトウハタ回答などであって、
精神分析が好きなわけじゃないとかね。
あるいは別に認知行動療法に何の興味もない。
ただトウハタ回答に話を聞いて欲しいんだ。
これを一体どう説明するのかっていうことになっていくと思うんですね。
その時に私はその説明を最も上手くしてくれるのは、
これは絶対違う意見の人は違うと思うんですけど、
私は精神分析だと思うんですね。
だからここでいきなり精神分析とは何かの説明をガンガンしていこうってのが、
3ヶ月チャレンジなわけですよ。
最初は私が好きでとか、
ケアの成立と共感
私が好きだっていうのは多分タスクシュートが好きだとかなんですよね。
ライフハックが好きだったりタスクシュートが好きだと。
そうしたら佐々木翔吾ってやつが何か異様にタスクシュートにのめり込んでるから、
ついでに佐々木も好きになったと。
で、その人と話しに行きたいと思うと、
ケアはここで成立しますよね。
話を私に聞いてもらうってことを取ると。
で、この話が個人的な話であればあるほど、
そこにケア的な効果は必ずと言っていいほど発揮され、
だって滅多に話すことができない。
例えばあれですよ。
彼女どうしてもできないんですって、
しずっこく同じアイドルの女の人に言ったら、
だんだん嫌がられるじゃないですか、普通は。
聞いてくんなくなりますよね。
ここにあれがあると思うんですよ。
傾聴共感一致ってやつがあると。
僕は自己一致でもいいと思うんですけど、
なんかダメだみたいな意見っていうか、
専門的なお話があるんで。
一致、でもこの場合の一致って結局何を一致させるかっていうと、
まずは普通に考えると絶対一致してくれない
そのアイドルさんの気持ちの中の一致ですよ。
いやもう佐々木さん大丈夫ですよみたいな、
鼻から信じられないじゃないですか。
どう考えてもこの人そう思ってないなって感じが
伝わってきちゃうんじゃないですか。
不一致ですよね。
つまり共感もされてなければ、
傾聴もされてないわけですよ。
ふんふんと聞いてくれてるようで、
実は聞いてないわけですよ。
聞いていたとしても一致はしてないわけですよ。
言ってることと内心の気持ちは、
もうこいつ早く帰んないかなと思ってそうじゃないですか。
ここで、ここでですね。
あの素敵な彼女さんすぐできますよって言われたとき、
僕はケッて思うじゃないですか。
行動と認知の変化
で、このなぜケッと思っているのかということに
僕はうるさいわけですね。
自分はなぜここでケッとかって思っちゃうんだろうって思うから、
精神分析に走ってきちゃうんです。
走るわけですよ。
そこで違うアプローチもあり得るじゃないですか。
例えばそのアイドルの人が、
なんかそういうことが大好きで、
いやだったら、例えば女の子に100人に声かけてみましょう、
今日10人みたいな。
これは行動良好的ですよね。
そういうのが好きな人もいると思うんですよ。
アイドルとかやってる人は行動力がある人多そうだから。
あり得ると思うんですね。
あるいは認知を変えましょうと。
いつまでも彼女できないって思ってる、
それがいけないんですよみたいなことを言う人もいそうじゃないですか。
知らんけど。
これは認知を変えるって話ですよね。
私はこれを求められることは3ヶ月チャレンジでは当然あるなってよく思うんですね。
でも私はこれにはやや堅くなままでに、
これに全然答えないわけです。
答えないというのは期待に答えないってやつですね。
なぜかというと、私はこう思ってるからなんですね。
つまり今の例で言いますと、
自分が彼女が欲しくて仕方がないと思っているこれは、
彼女を手に入れることによっては満たされないことを知っているからなんですね。
いや、知ったのは最近なんですけどね、割とね。
でも知っているわけですよ。
つまり認知行動的に、
これは認知行動の人が聞くと違うって言われそうな気もするんだけど、
私が言いたいのはそういう話ではなくてですね、
私が言いたいのは行動を変えてしまって、
一歩間違ってって言い方はこの場合合わないな。
行動を変えてしまって所定の目的を達したとしても、
それによって満たされないという問題が発生しそうである場合、
何かを繰り返し繰り返しやっているのにうまくいかないって時には
しばしばそれがあるんですよね。
で、私はもううんざりなので、その種のことには。
つまり行動なり認識を変えることにより、
所定の達成されない満たされない思いを満たすという風に
自分を変化させていくということには正直うんざりしてしまったので、
で、なぜうんざりしたのかを知りたくなったということなんですね。
で、これを答えてくれるためには、
だからそれの学科がどっちであるというよりは、
これをやっていくとどうしても精神分析になっちゃうんじゃなかろうかって
私は思っているんですよ。
これは専門の人がそうじゃないって言われるならそうじゃないんでしょう。
しかし私はそう思っているわけですね。
で、私はもうここは開き直って、
つまりそれを精神分析とするのだと、
言うのだということにしてしまっていて、
そして、で、しかし精神分析家じゃないし、できないから、
それはできないケースがいっぱいあるんですよ。
お住まいが海外だとかね、会うことできないじゃないですか。
あれ、会わないと私精神分析は精神分析ではないと確かに思うんですよ。
会わないと私精神分析は精神分析ではないと確かに思うんで、
会えない人とはできないわけですよ。
セラピーとケアの対立
で、オンラインでやれる形として、
私はこれに落としどころとしてですね、
私はしかし効果は少なくともあったんで、
精神分析とは何かをここで問えばいいんだと、
いうふうに考えを変えたわけですね。
精神分析をするときには精神分析とは何かとか問わないじゃないですか。
田畑ガイトさんの今回のカウンセリングとは何かの後半で、
冒険としてのカウンセリングみたいなところから先は、
あれは少なくとも精神分析的心理療法だと思うんですけど、
あれは精神分析とは何かを、
誰でしたっけ、カナタさんとか、ちょっと分かんないな。
とにかく仮名ですからどうせ、
カダカナのカナタさんとかいらっしゃいましたけど、
カナタさんに対して精神分析というものは
こうこうこうでみたいな話してないじゃないですか。
メラニー・クラインという人は
良いおっぱいと悪いおっぱいという部分対象があって話、
全然した形跡ないじゃないですか。
で、そんなのする必要ないだろうって思われそうですよね。
そんなのしてもしょうがないじゃんって思われそうですよね。
でも私はするんですよ、そういう話を。
正直言ってそういう話ばっかりしようとするんですよ。
どうしてかというと、
ここで何を満たそうとしているのかを
自分が分からないというのはどういうことなんだろうっていう
こっちの疑問が先に解決したくなってしまうからなんですね。
私の場合、私のような人間が
彼女ができないんですって言った時に
彼女の作り方を私が信頼するとかありえないんですよ。
だってそんなこと分かんないんで。
結局私はそういう意味では、
そういう能力は結局全く身についていないなって思うんですよ。
そうじゃなくて、
私はどうしてそのアイドルさんの
一致しない言動にけって思うんだろうってことの方が
大事だって思うんですね。
ここで自分は何を求めてこういうことを言ったり、
こういうことをしたり、
言ったことないけど握手会とかに行っちゃうんだろうって
いうことを知ることが大事だって思うんですよ。
で、でですね。
ファンベースでこれを繰り返して
ひたすらひたすらアイドルさんの
知りませんがなんとかさんの
握手会にひたすらひたすら行って
いっぱいお金も見ついで
虚しくなると仮にするじゃないですか。
私はこれが虚しい恋だって言ってるんじゃないですよ。
自分が虚しくなったとするじゃないですか。
この恋が虚しいか虚しくないかを客観的に決める指標はないんですね。
あるって思っている方は偏見だと私は思います。
ないと私は思うんですよ。
これはケアにしかならないってことに
どこかで気づくことになるんですね。
だってセラピーは行われないわけですから。
で、この場合セラピーが仮に行われるとして
例えばお説教するアイドルとか
わが家知らないけどいるんじゃないかと思う。
お説教ってセラピーじゃないですか。
なぜかというとあなたはそのままでは行けない。
悪循環というのはあなたそのままでいいですっていう行為ですよね。
なのにそこでお説教が始まるというのは
あなたはそのままでは行けません。変わりましょうってことですよね。
つまりケアとセラピーって矛盾するわけですね。
そのためにこそファンベース
専門用語であるアポールでしょうけど
が必須になってくるわけですよ。
ケアされに来たのに
説教されちゃたまんないよっていう
セラピーが必須になってくるわけですよ。
説教されてもいいから私はあなたの言葉が聞きたいになって
初めてセラピーが成り立つわけじゃないですか。
これを戸畑さんは雪だるまのたとえでたとえてたわけですよね。
溶けそう溶けそうって
暖かい部屋にいて溶けそう溶けそうと
冷蔵庫用意しましょうってこれがケアですと。
そうじゃなくていやいや
あなた雪だるまなんだから
暖炉のある部屋に来ちゃダメでしょっていうのがセラピーですと。
真逆に言うと
ケアの時はここにいていいよっていうメッセージ
あるいはここにいていいよって状態を作り出そうとしている。
セラピーはここにいちゃダメだっていう話をしようとしている。
つまりあなた変わりなさいって話をしている。
あなたはあるがままでいいんですって話を続けるのが
ケアですよね。
あるいはその気持ちになってもらうべく頑張るのがある意味ケアですよね。
だから野球見に行くとケアになるわけですよ。
ああこここそ俺の場所だみたいな。
僕こそ俺の場所だみたいな。
そう思っちゃいますからね。
特に千葉ロッテマリンスタジアムとか行くと
どのマリンスタジアムか今は思っちゃいますからね。
ここは自分の場所だわみたいに。
思えない人には全然思えないでしょ。
俺の場所じゃないしみたいに思うじゃないですか。
僕は思っちゃうんですよ。だからケアになるわけですね。
なぜ思うのかっていう問いが立つじゃないですか。
おかしいだろそれと。
だからセラピーが始まるわけですよ。
それで終わるんだったら行って帰ってくればいいわけですよ。
そこに問いを立てちゃうということは
それって本当なのかっていう問いになってるわけですよね。
それはつまりセラピーが始まってるわけですよ。
精神分析ってのはこういう僕は微妙なものだと思うんですね。
その問いそのものを聞いてもあるがままでは行けません。
お説教とは全然違うんですよ。
あなたもっと髪の毛アホ毛やめなさいみたいな。
もっと清潔感のある服を着なさい。
ダメ出しじゃないですか。説教ってダメ出しなんですよね。
でもセラピーなんですよ。
良いように変われって言っていてその方法も教えてくれてるから。
現代は紛れもなくこれが好かれているから
行動変容と心の変化
私は認知行動が圧倒してるんだって思ってるわけですね。
あるがままじゃダメですよっていう行動変容を起こしなさいねと。
行動変容のプログラムを渡します。
あなたこれによって幸せになれるんだから
そういう自虐的なことを言う口癖はやめて。
口癖やめるっていうのはあるじゃないですか。
口癖やめなさいと。
食べるものも変えなさいと。
筋トレしなさいと。
全部変えてるじゃないですか。
変えるんですよ。
そしてその認識をそもそも変えなさいと。
自分モテないとかいうその発想やめなさいと。
変えるっていうことに不信してるじゃないですか。
人々はこれが好きなんです。
そういうことはしないっていくら言ってもさんちゃれでも
これを求められるほどこれが好きなんですよ。
幸せになる方向に自分を変えたいんですよ。
私はその自分を変えたいという
幸せになるために自分を変えるって発想そのものが
極めて無茶苦茶だと思うんですが
その発想を変えなさいって私言っちゃうじゃないですか。
ケアとセラピーの関係
ここで。
ここで精神分析っていうものが僕は
ものを言ってくると思うんですよね。
この堂々巡りにはまり始めたっていう自覚が
ある種の精神分析的な発想だなって思うんですよ。
つまり変わりたくないという発想をどうするんだってことですね。
もうちょっと言うとファンとしてここに来ました。
ファンとしてここに来ていれば私は幸せになれるんです。
って言っておきながら握手会に何度も何度も100回も来ておきながら
俺ちっとも幸せじゃないしどうしてくれるのみたいなことを
アイドルに言っちゃうってすっごいあれじゃないですか。
しかし僕はそれこそまさに精神分析的だなって思うんですよ。
アイドルの人は精神分析家じゃないから
それはよそに行ってやってくれっていうことになると思うんだけども
つまりここでアイドルの人が話をフンフンと
コンコンと聞き始めると僕は
それは野良カウンセラーが始まるって思うんですね。
つまりここに線を引くかどうか
本当に資格というものを用意するかどうかで決まると。
公認心理師のところに行くというのは
アイドルの握手会と違って
好きで行くわけじゃないですからね多くの場合。
だから好きに最初になってもらうっていう
そういう手法を取るかどうかも楽観によって変わると思うんですけど
好きになってもらうっていうこと
すなわちそれはラポールを形成するということだけれども
好きになってもらうためにまずケアをする。
だからケアが先セラピーは後って
藤原海人さんが標語のように言っているのはまさに標語なんですよ。
特に正規の人は守ったほうがいい標語なんでしょうねあれはねやっぱり。
だってファンだから来てるわけじゃん。
藤原海人さんのところにはファンだから行ってる人いっぱいいると思うけど
大概はファンだから行くわけじゃないわけですから
当然行った人の名前も知らない
なんじゃこのおっさんはっていう人が
はい公認心理師の何とか何とかですとかって言うわけじゃないですか。
はぁって感じじゃないですか。
正直に言うとね
なんかこう
ツインにしている女の子がニコニコして待っててくれるわけじゃないわけですよ。
だからはぁなんで俺こんなところに来てるのかなって思うじゃないですか。
これが来てよかったと最初に思えるようになるためには
やっぱりこうアセスメントとかインテークとか
要するにケアとかラポールとかそういった話になるしかないんですよね。
そんで好きで来ているっていう間がしばらく経つと
三月的な関係ハネムーン的な時期ですね。
繰り返しているうちに
ここに来てて何になるわけ自分っていうさっきのあのアイドルの人に
俺全然彼女できないんですけど知らんがなって感じですけど
この知らんがながめっちゃ大事なわけですよ。
でアイドルの人なら別に知らんがなって言っていいわけですよ。
しかし分析家は知らんがなとは言えない。
カウンセラーはどういうか知りませんが
著者のアプローチ
学派によっては知らんがなっていう言い方をする人は
学派によっては知らんがなっていう言い方をする人もいると思う。
そういう学派もあると思うんですね。
少なくともあの説教する野良カウンセラーさんはいっぱいいるでしょうね。
それは説教がいいんですよ。
説教することがいいんです。
説教聞きたいんですよ。
しかし説教では治らない人も多かろうってことが出てくるわけですね。
ここで精神分析って何でしょうか二重の転換をしてるんですね。
そもそもファンベースでやってるわけではないものを
ファンにする。
しかしファンベースが確立したところで
それでは意味のない
ファンだから治るっていうものではないっていう人たちも
実はそこにいっぱい来る。
つまり間口が広いんですよ私が思うに。
好きで行くわけではない。
それが好きで行くようになった。
でもうまく治らない。
そこで知らんがなっていう代わりに何が言えるかってことですよね。
間口が広すぎて
ファンだから来てますっていう人は
それである意味もしかすると治るわけですよ。
何度かしらのところに
もう何回も足に来ていたら
うつ治ったわみたいな。
あり得ると僕は思うんですよね。
でもそれは治ったのがその人のうつだからなんですよね。
別に何もしてないのに
というか握手しただけなのに治るって
おかしいだろっていう場合もあると思う。
というかそっちの方が多い。
そこでお説教する人が出てくるわけですよ。
コンコンと説教聞いてるうちに
なんかもうあなたにお説教されると
すごいやる気になるみたいな。
それはあり得ると思うんですよ。
でもそれではダメだと。
つまりどうしてもダメだという話が
そこに残ると思うんですね。
ファンだから来ていてもダメ。
お説教されるのはもう来たくなくなる。
で、握手を何度繰り返しても全然良くならない。
そしてなんか言いがかりみたいなことを言い出すと。
もうあなたが俺と付き合ってくれればいいんだよみたいなこと
僕みたいな奴が言う。
最悪じゃないですか。
これはどうするか。
だって最悪の人が来ないとは誰も言ってないんでね。
心理臨床なんで。
アイドルの握手会なら
デキンとかにあなたもう来ないでくださいみたいになって
悶着が起きるみたいなことになるかもしれないけど
ことが心理臨床みたいな
半ヶ月チャレンジでもそこを目指したいと思ってるわけですけど
なんでそんな変な野望を持って
そんなに無謀なことをお前やるんだって思われるでしょうけれども
私はどうしてもこういうことを考える口だからですよね。
もう残るは2つですよね。
変わるべく科学的に処理して
処置を施していく。
つまり3つだな。
私はやっぱりここで3つだと思うんですよね。
つまり薬を飲んで変わる。
もうモテないし彼女も欲しい。
分かったこの薬を飲んで寝ろみたいな。
睡眠薬みたいな導入剤っていうんですかね。
変わるわけですよ。ある意味で変わる。
2つ目は行動を変える。
これが一番常識的ですよね。
現代、令和の日本においては。
島村でばっかり服買うのやめましょうねみたいな。
お金ないんですけどってなったら
じゃあお金をそもそもないから持てないんだよみたいな。
これは一理ありますよね。
だからお金を儲けなさいと。
そしてなんか知りませんけど
矢のついた弓矢の変なマークの服とかにしなさいみたいな。
そういう服屋に行くこと自体が僕は非常にあれなんだけど。
その認識も変えなさいみたいな。
変えるわけ。認識と行動を変える。
薬で変える。認識と行動で変える。
これによってその出金になる人減りそうですよね。
それでもダメそうな。
つまり私みたいなタイプは
なぜここでここに来て無駄なのにここに来るんだと考える。
つまり考えられない考えを考えるってやつですね。
思考に向かうわけです。
だからフロイトからビヨンに至る
ものすごく伝統的な精神分析ですよね。
思考から
行動を思考するみたいな感じですね。
考えられない考えを考える。
つまり考えたくないわけなんですよ。
持てないだの。
持てないとか言っているのは
言っていれば済むってとこから
どこかにあって真剣にそれについて考えようという気がない。
真剣に考えるということになってくると
そもそも
服を変えるだの
認識を変えるだのは分かってるじゃないですか。
言われなくても。
なのにここに来て言われたがるみたいなことを
事態について考える。
で、これは嫌なんですよ。
大概。
そんなことをして何になるんだって思うわけですよ。
このそんなことして何になるんだという
その発想について考える。
ってことをやり始めるわけですね。
精神分析というものでは。
つまり
どういうものでも扱えるわけですね。
ある意味では。
あなたがそのように
ここに繰り返し来ているにも関わらず
こんなところに来ても無駄だ
握手したって持てるようになるはずがない
っていうのは
というふうに私には思われます。
で、この解釈を返す。
このやり方を
この解釈を返す。
このやり方ならば
誰が来てもどういう言い回しで来ても
対応できる。
そしてこのやり方はとても
ある意味では優しくて親切で
デキンにしないから。
しかしめちゃくちゃ過酷ですよね。
逃げられなくなってしまう。
行動に逃げるとか
認識を変えるとか
服を変えるとか
文句を言うとか
暴れるとか行動化ですね。
デキンになっちゃって来なくなるとか
それも許されない。
ただただ足しぎくかゆって
何かを言うと
ということはつまり
こうだと私は思う
っていうのが返ってきてしまう。
逃げられなくなるわけです。
だから東方カイトさんにブチ切れてる
女の人が繰り返し登場するわけですよ。
やっぱあれは苦しいんだと思うんですね。
逃がしてくれないわけですよ。
常にここに来て
ある意味四方を
壁に囲まれ
そこに一人の分析家
というやつがいて
その分析家に
全て認識されていってしまうわけですよ。
来たってことが
すでに認識されてしまう。
そして何か言ったってことも
やっぱり認識されてしまう。
逃げようがなくなるわけですね。
全面鏡に張られたような
部屋に
後ろを向いても
鏡があり
目をつぶっても姿が映ってはいる
っていうこの状態
するんですね。
代わりに
めちゃくちゃプライバシー
ケアのプライベート性
っていうかめちゃくちゃプライベートなんです。
絶対的にプライベートなっていうある意味
つまりその人のために
のみ用意されているっていうことで
ある意味ではその人がいなくなると
その鏡の部屋は解体されるに等しい
みたいな
あるんだかないんだか
わかんないような空間になっているわけですね。
安心とかいう話では
私はこれは必ずしもないと思うんですよね。
大事なのは
人は用意されていて
なんていうのかな
そこでは何をしても
結局のところ
何をしたとしても逃げられない
ってことにつながるんだけど
でも何をしても許されるって部分もある。
少なくとも何を言っても許されるわけですね。
許されるというか
問題にはならないというか
そこで何を言ったからといって
それが何か致命的なことにはならない
っていう
そういう場面なわけですね。
だから出来んにはならないという。
ことですね。
出来んにしてしまうということは
つまり
なんて言えばいいのかな
出来んにしてしまうということは
つまり
それまで例えばファンベースでやってました
みたいなのが嘘になってしまう
つまりケアまで吹っ飛ぶみたいな問題があるわけです。
嘘と自己一致
ケアとセラピーが
結局のところつながってしまうのは
そういうことなんだと思うんですね。
しかも
嘘だということが
問題になってくるじゃないですか。
嘘でも
だから
ロージャスは一致っていうことを
うるさく言ったんだと思うんですね。
だからもしあなたが
言うのはいいんですよ。
つまり何を言ってもいいから。
素敵な彼女が出来ると思いますよって言うならば
本気で思えってことなんですよ。
付き合えないって言うなら
その理由についても
真剣に考えて本気で思えっていうことになるわけですよ。
だからここで
セラピストになるためには
訓練がいるって話になってくると思うんですけど
訓練がいるっていうのは
さらに詰めて言うとですね
超真剣にやれってことになると思うんですよね。
だから嘘をついちゃいけないってことなんですよ。
でも嘘をつかないとなってくると
何も言えなくなるってシチュエーションは出てくる。
お互いにね。
だから一致が自己一致ではなくて
一致だというのは
両者が一致してなきゃいけないから
一致って言うんでしょうね。
来ている人が嘘をついたら意味がなくなるし
例えば私がそこで
納得もしていないくせに
そうか素敵な彼女ができるんですね
とか言ってありがとうございますって
嘘じゃないですか。
そうは思ってないんだから。
だからこれを切るためには
時間で切るしかないわけです。
堂々巡りになるからですね。
一方間違うと。
一方間違わなくても
ほぼ確実に堂々巡りになるんで
はい時間が来ました。
時間が来ないと
嘘をつくしかなくなるわけですよ。
しかし時間が来てくれれば
それはデキンみたいなもんですよ。
デキンってつまり
本音はデキンでしたってことじゃないですか。
そうすると非常に傷つきますよね。
でも精神分析はさらにここで
精神分析が続けられなくても
精神分析はここで続けられるわけですよ。
心の負担の軽減
デキンになったということは
デキンが本音だった。
そして私はそれによって深く傷ついた。
なぜかっていう問いが立つじゃないですか。
精神分析的にはね。
そんなの自明でしょっていう
言わないことなんですよ。
なぜ深くそこで傷つくのか。
関係ない女の子と握手できないことは
そんなにあなたの心を傷つけるのかっていう
直面化になっちゃうから
そんなふうには問わないでしょうけれども
自分で自分に問うことはできますよね。
やろうと思えば。
でもう一個ありますよね。
そんなことを考えてどうなるんだ。
でもこれにも問いは立てられるわけですよ。
そんなことを考えてどうなるんだと
なぜあなたは自明でしょって
どう思うのかという
問いが立てられるわけです。
永遠にできるわけなんですね。
デキンになることはないわけです。
自分さえ耐えられれば。
で結局これに耐えて
これの答えを真剣に出そうと思わないと
駄目なんだ。
ただ問いを立てればいいわけじゃないんです。
真剣に答えようとする答えは出ないですよね。
答えないんで。
しかし真剣に答えようとするという時に
それが一番有効なセラピーとして
機能するっていう発想なんですよ。
多分私が信じている限り
精神分析ではそういう発想だなと思うんです。
これに対する答えとして
例えばアイドルに母親を見ていた。
おそらくそうなんだけど
それを答えとしてただ言えばいい
ってもんではないんですね。
ただその答えを出せばいいってもんではないんです。
アイドルに母親を見るというのは
一体どういう意味なのかと。
だってこれ答えはそうだとは限んない。
例えば私のような場合には
アイドルに娘を見ようとしていたのかもしれない。
十分あり得ることで。
で、この二つ全然違うじゃないですか。
自分の母をそこに見るのか
自分の娘をそこに見るのか
親と子の違いがあるじゃないですか。
この二つの違いについても
真剣に考える必要があるわけです。
どっちの方が自分の心情として
はっきり言って性格を得ている。
いていないならばどうしてなのか。
問いは永遠に続けられるわけですよ。
で、この中で
こういうことを考えていくうちに
それが嫌だと。
何で嫌なのかっていうのも
考えるべきなんですよね。
気持ちが悪いじゃないか。
気持ちが悪いとはどういう意味なのかと。
母親というものと握手をしに行く自分が
気持ち悪いという意味なのか。
で、それはどうしてなのか。
多分男らしくないからみたいな。
男らしいとはどういうことか。
世の中でしょっちゅう問われてますよね。
永遠にこれをやめないということなんですね。
ちなみに男らしいとはどういうことか。
多分それでは自立ができないっていう。
つまり気持ち悪さっていうのは
自立のできなさと深く関わってるわけですね。
言ってしまえば
母親にいつまでもベタベタしてるのは
気持ち悪いっていうのは
お母さんからさっさと自立しなさいねっていう
長自我的なメッセージを
自分が受け取っているってことなんですよ。
こういうことを明らかにしていくうちに
なぜ自分が握手会に行くのかが
だんだん分かってくる。
そうすると
そう、行動と認識を変えて
着る服を島村さんから
別のところにしたところで
この気持ちが満たされるはずがないという
最初の話に戻ってこれるはずなんですね。
どう考えたって
母親と
母親の手を触れたいという気持ちが
どっかで
服をパリッとさせて
彼女を作ることによって
満たされるかもしれませんよ。
でも満たされないはずなんですよ。
本当のところは。
ということで
気づける。
こういうことの積み重ねによって
心の負担が軽くなっていくわけですね。
精神分析的にはおそらく
精神分析だけではないでしょうけどね。
これはいずれにしても
心の負担が軽くなるわけですよ。
心が常に
母親に触れていたいという気持ちに
苛まれていて
それをしかも彼女を作りたいというのに
変換してしまい
そして彼女ができない自分は
令和の男としてイケてなくて
惨めだったり
そういう気持ちになっちゃっていたら
もう完全に迷路じゃないですか。
その気持ちが満たされないという苦しみに
心があえいでいるのか
本当のところどうなのかが
分からなくなってしまう。
しかし少なくとも母親に触れられないという
苦しみであるということが分かればですね
その気持ちも満たされないかもしれないが
生理が相当つくわけですね。
地下道で女性を磨けるたびに
何かこう
よく分からない恋心みたいなものに
落ち入ってしまって苦しむみたいな
苦しみからは解放されるわけですよ。
関係のないことだから。
こうやって心の負担を下げていきましょう
という多分発想なんですよね。
で、心は負担が下がれば
別のことを考えることが
考えるというのは心でやることなんで
できるようになるので
例えばそれまで非常に困っていた
特定の仕事の関係者との
繰り返し要請されていた要請
気が咎めてるんだけど
何か
何か
言っちゃって言い続けていたら
相手もあんまり言いにくくなってみたいな
そういうものに対して
心がフッと向いて
何かできたりするんですよ。
で、
ここから先はもう展開が
めんどくさくなるのでやめますが
こういうことの繰り返しによって
なぜ母親に触れたかったか
っていう問題が
決着していくことがあるんですね。
まあ私の場合あったってことなんですよね。
触れたから
ちょっとないんですけどね。
だから
この変えたり認識変えたりすることも
いいと思うんですね。
普通にそれは自然な発想なんです。
ただ
私は
もうそれは
つまりそれは私からすると
CBTに対する
アンチテーゼとか批判が
言いたいんじゃなくて
この現代の日本の生き方そのものが
もう
お腹いっぱいですって
言ってるんだなと
戸畑さんのカウンセリングとは何かによって
分かった。
だからあの方が力があるなと思うんですね。
私もこの生き方は
もううんざりだって思ってるわけですよ。
まあ30後半から
それによって増えてきたわけだから
あんまり文句も言えないんだけど
ライフハッカーでビジネス著作家として
やっていくと
これのオンパレードになっちゃうわけです。
オンパレードってまさにオンパレードですね。
まさにそうなっていくわけですよ。
オンパレードを修正して
PDCAってやつですよね。
ちょっと違うと僕は思うんだけど
いずれにしてもそういうようなものですよね。
それによって幸せになれるでしょう
っていう風にして
例えばApple Watchを買ってみたり
新しいMac miniを買ったり
欲しくはなりますよね。
だけれども
あれを手に入れて一心して
16GBの
グラファイトを手に入れて
幸福度と問題の考察
2TBのSSDが入ってるやつを
手に入れても
全然幸せにならない。
一瞬だけ何かが速くなって
なんとなく
気持ちが高揚するだけで
一週間も経ても
全く同じ気持ちになってしまう。
作業効率余ってますよ。間違いなく。
できることが10倍ぐらいの
速さになるわけですからね。
でも幸せには全然なってない。
全く変わらない問題に埋め込む。
例えば
奥さんの顔色が浮かばっちゃうとかね。
人によっては
パソコンの印象するのが怖いから
投稿に時間がかかるとか
これはパソコンの速度
どんなに速くなっても
解決しない問題じゃないですか。
10倍速くなったから
10倍投稿数を増やしても
怖いって気持ちが
変わるわけではないですよね。
つまり
この種のことが付きまとう限り
幸福度なんて変わらない。
恐れと問い直し
ほとんど。体感的に。
でも私は本当に
心の底からうんざりして
体を温めたりするという
ものにはもう付き合いきれないなって
多分思ってるんですね。
だから
ここでなお
問いを発してくれるものに
興味を持ってるわけですよ。
なんで付き合いきれないと思うようになりましたか
っていう問いを
精神分析は突きつけてくるわけですね。
考えられないことについて
考えてみましょうと。
なんで炎上が怖いんですか。
炎上なんて怖いに決まってるじゃん
っていうのはダメなわけですよね。
炎上は怖いんですかと。
それによって何を失うとか
あるいは
あなたが見ないようにしているものは
何なのかと実際にはほとんど
炎上なんて自分体験してない
一回でもしたらダメじゃん
ダメとは何なのか
一回でもとはどういうことなのか
一回とはどうやって測るのか
問いはいくらでも立つわけですね。
結局そういうことを
とことん考えていくと
父親とかが出てくるわけですよ。
不意に。
実家に行って
父親を見ると
いきなりXで恐れているということは
実に
だから怖くなくなるって話じゃないですよ。
ただ実にくだらないことだなというのは
目で見てわかるわけですね。
そういうことが起こるんですよ。
自分の父親を目で見て
そういえば父親の顔を
目でまじまじとは
今まで最近ずっと見てなかったが
偉い歳を取ったもんだな
とかいうことが起こるわけですね。
これを自分が恐れているって
実に不思議だなと
あのね
腕殴る必要ないですよ。
腕殴ったら死んじゃうんじゃないか
っていうぐらい
いつの間にこうなったんだろう
っていうぐらいですよね。
このいつの間にとはどういう意味なのか
っていうのも
例えばさっきの炎上の
への不安みたいなものと絡んでいる。
そういうことは行動を起こせば起こすほど
実は
起こすで怖く
怖くないから何個も投稿してみる。
ほら炎上起こんなかったじゃん
ってことを繰り返してると
いっそ分からなくなっていくこともあるわけですね。
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