寒い日の話
おはようございます。佐々木正悟のライフハックからの精神分析第1310回をお送りします。
1月22日木曜日7時58分です。
ものすごい寒いですね。
めったに氷点下までは下がらないんですよね、この二宮という土地は。
千葉県の南端の方に何かそこに入ると妙に暖かく感じるって街があるらしいんですけど、それは要するに海に抜けてるからそういうふうに温暖な、同じ県の中でも一段と温暖な地比があるらしいんですけど、ちょっとそういうところがここもありまして、
菜の花ウォッチングとか今やってるんですけど、菜の花が咲くのが早いらしいんですよね。知らなかったんですけどそんなことは。そういうことが起きるような土地柄で氷点下2度っていうのはもう、
まあ今、劣等は相当寒いんだろうなというふうに思いますね。
私、このようになるとやっぱりちょっと胃腸の調子を崩すという、割と典型的な人間で、少なくとも頑犬というタイプではなかなかないんで、軟弱っていうのは自分でかつて思ってたほどではないんだということが分かったんですけど、
頑犬とは言い難いタイプなんでね。いや、厳しいなというふうに思うわけですけれども。
3ヶ月チャレンジの13期を引き続き募集しておりますが、あと2枠とさせていただこうかなと思っております。
最終的にはだいたいこのあたりで決着しそうっていうのがありますし、もう20日も過ぎましたんで、そろそろ固めていかないと、やっぱり向こう3ヶ月の計画とかは土台私には立たないんですけど、
そろそろ来週ぐらいから2月なので、さすがにね、ここまで来ると全部出たとこ勝負ってわけにもいきませんから、
結局出たとこ勝負みたいところは多々あるんですが、それはしょうがないんですけどね。そういうことで、2枠ぐらいにさせていただきまして、
人の枠としての数とセッションの枠としての総数の折り合いで決めておりますんで、厳密なところは決まってこないんですけど、とりあえず残り2枠ということに3ヶ月チャレンジはします。
はい、これは3ヶ月で7万5000円ですけど、一応全部他のコースもあるんですよ。で、なんとか頑張ってね、視聴コースを用意しようと。
これは視聴を試しに近いなとやっぱり思うんですよね。セッションを受けていただいて、
なんていうのかな、セッションを受けていただいた3ヶ月チャレンジは終了し、そこから視聴、まあでも別にそれはそれでありな気もするんですよね。
ただレクチャーの方はそんなに細かいところまで入っていかないんですよ。例えば、第三世代とか、第四世代みたいな話に、
もっと前ですけど、カーンさんとか、ジョゼフさんとか、そういうところまではですね、私も読みはしている部分がちょくちょくあるんだけど、
さすがにまだ追い切れてないのと、たとえ追っていけたとしてもですね、そこまで話していく余裕も必要もあまりないかなと。
これも今日お話しするんですけど、ビジネスコンサルというのを目打つ、少し強調させていただくようになってから、
やっぱり理屈を重視しないといけないっていうのを感じるようになったんですよね。もっともっと治療から離れるというのを特に近づいた時に踏みとどまるために、
やっぱりこう、理智的な話に持っていくより、私にできることは他ないなっていう、もともとそういう立て付けで始めたものですから、第一期からですね。
全部手の内を晒すっていうのと、晒せる限りにおいて、晒すためには気づかなきゃならないんで、だから気づいてそれをさらに理論づけしていくということ、もうここに集中していく。
それはだって、ビジネス書ってそういうものだったんで、もともと。仕事術にせよ、ビジネスメソッドにせよ、そういうものは結局のところ、言葉で説明されてますよね。
冗長を直接取り扱うとか、そんなことするはず、全くしないってわけじゃない。だからビジネス書の世界でも同じなんですよね。全くしないってことはないわけですよ。
治療的な側面って、それを治療と呼ぶならばですが、冗長を直接手当てする、症状に直接触れることを治療と言うならば、それをどんな場合でもしてないなどとは言えないわけですよね。
つい最近もXで、カウンセリングという言葉自体を名称独占にすればいいんだっていうふうに書かれていて、それを妨げているのが福祉的な方面があるならば、そちらの方をGルートでも何でもいいから、
正規の心理師にしてしまった、その上でカウンセリングを名称独占すればいいじゃないかっていう理論は、理屈はよくわかるんですけど、
ただカウンセリングを名称独占するということは、例えば、私の実家の方にもあるんですけどね、お年寄り多いところではあるんですよ、今。
スマホカウンセリングってあるんですよ。ああいうのどうするのかなって思うんですよね。スマホカウンセリングは今後、心理カウンセリングと定職するから禁止ですって、
できるのかそんなことっていう、スマホカウンセリングってのは当然、スマホで心理療法するわけじゃないですよね。
スマホの使い方をカウンセリングするわけですよ。だってカウンセリングって多分、もともとにそういう意味があるから、
スマホカウンセリングは禁止に、名称独占だと禁止になるのかなみたいな、まあ私関係ないっちゃ関係ないんで、カウンセリングって歌ってませんからね。
名称独占になろうがなるまいが、それはいいんですが、不便じゃねえかなっていうのはちょっとね、あとファイナンスカウンセラーっていう言葉もあるにはあるんですよね。
まあそんなに出回ってるわけじゃないから、別にファイナンシャルプランナーでいいわけだから、そこはいいんでしょうけど、でもね、そんなことを言ったらかなりありますよっていうのがありますね。
カウンセリングって別に心の治療だけを歌ってるわけじゃないですからね。あと、カウンセリングを名称独占に本当にした場合、多分一気に増えるのがセラピストだと思うんだけど、これも名称独占にするのかなっていうね、昔私もだいぶ前になりますけど、タスクセラピーとかやってましたけど、
いやあれもじゃあタスクセラピーのセラピーは今後やめてくださいみたいなね、タスクコンサルタントにでもしなさいねみたいな、そういうことにできるんだろうかと、名称独占だから。それともあくまでも心理カウンセリングだけを名称独占にするのかっていうね、名称独占って難しい問題だと思うんですね。
知的財産権という問題が言うほど明快でも一筋縄でも何でもないようにですね、だってタスクシュートだってそうですけど、タスクシュートの我々に言わせればパクリみたいなツールってほとんど定期的に登場して、名前も全てがなかなか面白い名前をね、使ってくるわけですよ。タイム何とかとか、まあいろいろあるわけですよ。
そんなのを知的財産権を盾に全部を禁じていけるかというととんでもないことですっごいそういうのは手間も暇も金もかかるんで、心理カウンセリング名称独占にしたところで、ポリスはどの程度動いてくれるのかっていうのは、はなはな疑わしい気がするんですよね。
で自分たちでポリスやるというのは実に簡単じゃないんで、本当にそんなことをやっていたらそれだけで一生終わるぐらいめんどくさいことが始まっちゃうんで大変だと思うけどなーっていうのがですね、なくはないわけですよね。
やっぱりねタスクセラピーとかあるわけですよ。ビジネスセラピーとか禁煙セラピーとかダイエットセラピーって言葉もありますからね。
全部禁煙するの本当に大変だと思いますよね。両方も同じで、両方っていうのは今名称独占になってないんじゃないかな。だから医療行為ダメですっていうのはちょっと昔ですけどね。
あのなんだっけ、名前忘れたからやめよう。もういいや。そういうことで、私はカウンセリングではないんで、離れようとしてますから少なくともその線に近づきつつ、その線にわたしすることはあるけれども踏みとどまるみたいなそういう線で行こうと思ってて、その時に知的合理化と言われるでしょうけれども、言われ得ると思うんだけど、そうなんですよ。
そうなんだけれども知的合理化でいいから、防衛というものは必要なことですからね。防衛を全部やめましょうという話って精神分析でも決してしないので、創的防衛であれ知的合理化であれ、投影による防衛であれ、それが心を一時的に守るという意義があり、しかもその防衛ばかりをしているうちに自分が泥沼にはまっていくってことさえ避けられれば防衛は必要だし、我々は防衛するに決まってるんでいいんですよ。
別にこれは宗教行為とは全然違うので悟りましょうって話はしてませんから、そういうものと混同されやすいと思うんですよね。まして私のは治療でもない。だから治療ではない、心理カウンセリングではない、かつ宗教ではないわけですよ。
では何かっていうとあくまでもビジネスメソッドとして精神分析というか対象関係の考え方を使う。しかも対象関係にかなり絞り込んでるわけですね。CBTとか自我心理学でさえだいぶ離れてきている。それは私には直感的に、例えばタスク習得の説明一つとっても自我心理的に説明することは当然できますし、
それこそ行動科学的に説明するのは容易に一見見えるんだけど、僕の感覚ではこれも他の人のタスク習得の考え方と転職するんで、やっぱりこうあんまり言い募るのもどうかと思うんですけど、僕の考えでは行動科学では説明しきれてない。少なくとも私のタスク習得を使ってこれが有効に機能している実感の中に行動科学的でない部分があまりにも多すぎるというのが行動科学で説明できないなと。
感じている。対象関係で説明する方が一見かけ離れているようでも欠かせない説明だと私は感じているんで、こっちを採用するっていうことですね。
正しさと精神分析
まあその正しさみたいなものをグッドバイブスで言いますね。クラスの系統さんが正しさを手放す。でもこの話は一見したところよりもやっぱり人間にとっては非常に難しいなって思うんですよね。
その、なんて言うんですかね。まあ要するにあれですよね、父殺しの時代ですよね。端的に言ってしまえば。そうです。確かにそうだと思うんですよね。おそらく第二次大戦後だろうなと思う。だからもう決して新しい話ではないんですよ。
ただ正しさというものから、要するにポストの時代ですよね。ただしポストの時代だけれども、だからといってひたすら力で頑張るみたいなことってまずいじゃないですか。どう見てもまずそうなことになっていて、世の中的にもまずそうなことになっているんで。
だからこのとことん力で押し込んでいくっていうのは大体こう結構悲惨なんで、極力避けたいわけですよね。まして私のこのやってるようなちまちました世界で、とことん正しさでいくっていうのは全く流行らないので、単純に言うと。
だから逆にひたすら自分は正しいっていう主張を続けていかなければならないって、これはちょっと精神分析とか、それこそセッションとはまた別の話になってくると思うんですよね。ここら辺を切り分けるのがまたとてもややこしいなと思うんですよ。
タスクシュート協会、本題に入りますね。3ヶ月チャレンジ募集中です。よろしくお願いします。2月1日から4月30日ですね。タスクシュート協会でこのことはよく話題になるんですよ。要するに私は断定的であるべきだと思ってるんですよ。
なぜなら父親不在の時代なんだから、要するに大文字の父と大文字の神が、大文字の神なんてもともとヨーロッパの産物だと思うんで、要するにユダヤキリストみたいな、ああいう世界の産物だと思うんで、もともと日本はそこまでじゃないだろうと思うんだけど、でもやっぱり大仏様とかデカイ像を作りますし、正しさっていうものは非常に重要だったわけですよね、法権時代みたいな世界では。
もともと世界は混沌としているし、結構過酷なんで、今みたいな時代に正しさっていうのはああいう巨像みたいにして作ってしまうとあれなんですが、ここでつまりポストだよねっていう話をしていても、結局は皆不快原則に戻っていくと思うんですよ。不快なものは嫌だっていう、結局不快なものは悪だっていうことにそのままなっていく気がするんですよね。
不快なものは不正であるみたいな。だから、しかも何にも責任取れませんみたいな話になってしまうので、やっぱりそれはただここがちょっと厄介なんですよね。間違っててもいいから自分は正しいって主張しましょうっていう、結局それに近いんですよね。最初から何もかもわかっているぐらいなら苦労はないので、自分のタスクシュートの使い方は正しいという主張をして、間違ってたらぶっ叩かれればそれでいいじゃんという。
私の言いたいことって要するにそういうことなんですよ。ビジネス書を書く上では、こういうやり方もあります、そういうやり方もあります、どちらも正しいですよねって言ってても、ちっとも面白くもなければ役にも立たないような気がするんですね。これはこういうことなんだ、まるっていうことをやっておいて、それが非常にどうしようもなければ、ぶっ叩かれればいいんじゃないかって思うんですよね。
あとマッチング理論っていうのも多分それが最終的には正しいんでしょうけど、でもマッチングって結局ある人にとってはある方法が正しいなわけですよね。
戸畑海人さんのカウンセリングとは何かで、私はあれを超える本は現段階ではちょっとないかなと、現代日本のカウンセリングを網羅している本としては、あれはちょっとなかなか超えられないなと思いながら読んでいたわけですが、あれマッチングに、つまり会う人に、しかも彼は非常にどこのところを慎重で、ある条件のある人のある状況に合わせたマッチング理論、それが正しいでしょうね、やっぱりね。
このタイミングだったらCBTって同じ人だとしても、もっと深くやりたいんだったら、こういう状況を満たしたら、リキドー系に移るみたいな、そういう発想だと思うんですよね。
で、でもそれだって結局は、今の私のこの状態だったらCBTなんだからCBTが正しいんだって誰かが言ってくれないと、常にあやふやなままで動かなきゃならないと、多分、順は入っていけないんですよ。
これは成田さんという人、あれは精神分析家の人だけど、ある本について、これは本の読み方について書いてたんだよな、そのいろんな著者のいろんな本を読みながら、この本はこういう風なところがダメだとか、この本はこういうところがよろしくないとか、
なんかこう弱い犬がぐるぐると強そうなのの周りを回りながら、時々キャンキャンと声立てるような読み方をしていては何にもならないみたいなことを書いていて、まあ結局そういうことだよなと。
一度はのめり込まないといけない、この人の言うことなら全部正しいぐらいに、そういう読み方ってやっぱりこう、合う人合わない人がいるなぁと思うんですけれども、
私は結構そういう風に読むタイプ、タイプなのかどうかわからないですけど、だから野口佳代さんが大好きだった時は、野口佳代さんの方ほど通りにやるという感じだったし、
フロイトの前にクラウドの慶応さんか、だからその前にタスクシュートだよね。だからタスクシュートは、まあタスクジョーの本とか当時なかったわけですけど、
大橋哲夫さんのタスクシュートだったら、大橋哲夫さんが正しいということに頭から決めてかかって、一個もそこから抜け出さないと。
そういう風にとことんべったりくっつくことによって、その人の方法がどうしても自分のここには、他はとにもかくにもその人のやる通りにできるんだけど、ここだけはそうはならないってところが出てきて、
そういうところに、つまり限界が来るんですよね。その限界が自分の個性であるという風に自分は思うので、ということは限界ギリギリまでその人のコピーみたいになるのが私の一つの流儀なんですよ。
私はオリジナリティがないってよく自分は思うんですけど、オリジナリティはつまり、模倣がしきれないところにしかないと自分は思うんですよね。
だけどこのやり方にはやっぱりパーソナリティ次第で、そんなことはとてもやってられないっていう人もいるし、それはそれでそうだろうなって思うんですよ。
私はこういうやり方を取るんで、倉園恵都さんのGood Vibesも、これでいけるところまではとにかく行くっていう感じで、奥さんが言う言葉どんなに理不尽でも自分が完全に間違ってるぐらいな感覚になって、
とにかく一つ意識に集中して、相手が言ってる通りだっていうふうにものを見ようとする。
奥さんが言ってることが100%正しいんだって信じようとしてみると、いくつかはそこそこ受け入れられるようになって、100%は無理ですけど同一人物じゃないんで、
100%なんてとんでもないんだけど、でも喧嘩をしたら100%自分が悪いぐらいに思っておくっていうことを、
しかもそれが我慢をしたり、自分排除したりするっていうのではなくて、とにかく一つ意識だからっていう、
胃と口が、意見がバッティングしても、結局は体のためだからっていうような方向を、常にそういう観点が取れないか取れないかと模索し続けまくり、
だから倉園圭三さんのようになるわけですよね。この辺にロジャーズ派みたいな発想が出てくるわけなんですよ。
ロジャーズ派って結局のところ、共感と一致ですから。だから諸富さんっていう、あれは多分ロジャーズ派だ、ロジャーズ派の枠には収まらない気もするが、
しかしロジャーズ派だと思うんですよね。心理療法家の人が心理療法家だと思うんですけど、
相手になるんだっていう、これをすごい強調されていて、私もあれが基本線だなと思うんですよ。
精神分析であったとしても、やっぱり話を聞いて投影ドイツ化を引っかぶり、相手の投影の方になっていってしまう。
僕はこれを完全にやると、やっぱり治療以外、治療だとしても危険な行為なのに、治療枠を持たずにこれをやるのは絶対危険だと思うので、
私はしません。究極的には。やっぱりなってしまうのが良くないって思うので、
なってしまうということが理解できるぐらいまで積極的に接近するが、なってはしまわないっていうふうにセッションでは気をつけます。
相手になってしまったら、そういうことになったこともあるわけですよ。要するにこれまでもね。
でもやっぱり良くないなって思ったんですよね。完全にコントロールを失う、相手になってしまうということが起こると。
バウンダリーを、私はバウンダリーというものが曖昧になるというのを自分としては目指そうとは思ってるんですね。
オリジナリティと教育の重要性
バウンダリーをはっきりさせるという心理臨床には共感できないんですよ。どうしてもできないんですよね。
どちらかというとバウンダリーが曖昧な人間だし、同情を簡単にしてしまう共感ではないですよ。同情です。
エンパシーとシンパシーは違うと思うんだけど、僕はどんなに良くないと言われてもやっぱりシンパシーの人間だと思う。
シンパシーっていうのは結局は相手になりきることはできないわけですよ。同情って決して、相手になってないから同情なんですよね。
で、上からだって言われるんだけど、そんなことはないんですよ。子供が親に同情することはあります。
で、子供が親に同情するというのはとても良い、私は感情だと思うんですね。
私自身時々怒ってたし、うちの子もよくやってくれるんだけど、共感とは違うんですよ。
うちの子が、うちの子の感情と私の感情がオーバーラップするわけではない。
あくまでもうちの子は、私は平気だけどあなたは大変そうだから同情するっていう、そういう位置づけなんですよね、あれはね。と僕は思ってるんですよ。
だからエンパシーとシンパシーの役として、シンパシーが今言ったような意味になってない気もするんで。
だからあのやっぱり同情は同情なんですよね。私は同情ができれば十分だと人は思うんですよ。
共感はそれより踏み込んでるけど、何でも共感すればいいってもんではないと思う。
セッションでは共感まではやっぱり行かないと、分かんないことが多いですからね。やっぱりね、本当のところは。
同情では分かんないことの方が多いので、そういう意味では共感まで行って、そういうことなんだなっていうところまで行かないと。
そこまで行くと一致っていうのはもう避けられなくなってきて、だけど避けなきゃいけないと思うんですよね。完全一致は危険であると思うんですよ。
やっぱり人間の意識ってすごいんで、画面越しだから大丈夫ってこれは誰かがおっしゃっていて、
だけども実はそうじゃなかったっていうのをサンチャレで理解させられる機会がすごい多いんですよね。
画面越しなのにここまで来てしまうっていう、東映同一化ですよね。
だから同一化っていう言葉が本当に、これも変な例えなんですが、漬物意思を僕はよく思い出すんですよ。
同一化の重しがかけられてくるみたいな、漬物としては漬物意思にはもう逆らえないみたいな感じで、
気がつくと同一のものに、塩と白菜が同一になっていくような、そういうものを感じるんですね。
だから漬物意思を非常に僕はよく東映同一化では連想するんだけど、ものすごく強引なんだけど、じわーっと浸透していくっていうそういうニュアンスをここで感じてます。
なんか素朴じゃないですか、漬物意思なんて。なんてことはないんだけど、でもあの大きな意思が乗っかることでこれができるんだよなっていうね、そういう感じ。
だから力道ってものを感じますよね。欲望はないじゃないですか、別に漬物意思に。地球に向かって落ちるぜっていう欲望は持ってないわけで。
だけど力は明瞭に働いてますよね。この上なく素朴に力が働いている。
だから私は精神力道という言葉は正しいなって思うし、非常に漬物意思的なもの。そこに意思とか意欲はないんだけど、力は猛烈に働いてきていて、そしてそれによってじわーっと意識というものが変容させられていくというですね。
それを感じるんですよね。やっぱりサンチュラのセッションでも一つ二つ、おふとかたおふたかたのものが、力道が強くかかってくると、夜目覚ましますもんね、ふと。
僕はまず起きない人間なんだけど、ふと起きてしまう。何で起きたのかがわかんないんだけど、間違いなくこういうセッションを持つとこういうことが起きるんだなっていうね、無意識が変容させられていくんですよね。
だから人格変わるだろうなってやっぱ思いますね。これは全部いい意味だと僕は思ってるんで。仕事の努力で人格変えられるっていうのは悪いことではないだろうと。
なんかちょっと言ってることがストイシズムみたいに聞こえるかもしれないですけど、でもそれは避けられないと思うんですよね。お金もらってるわけですし、真面目にやんなきゃできないようなことやってるわけですからね。
松木邦路さんのようなストイシズムには遠く及びませんが、それなりにストイックにあるよりほかしょうがなかろうというのはあります。
だから私はオリジナルというものにすごいやっぱり、これもまた正しさなんですよ結局。
オリジナルが正しいわけではないかもしれないが、オリジナルに敬意を強く払わないと、結局はナルシシズムでしかないような感じがするんですよね。
だから藤山直樹さんがフロイトカラーの学部長を飾ってるんだと、フロイトカラーじゃないんだけど、精神分析家だぞっていうサーティフィケーションを飾ってるんだと。
精神分析学と権威の関係
これは自己満足でしかないんだと基本的には。なぜならばこの国ではほぼ認められていると言い難い資格だし、要するに権威というようなものがあるとはちょっと言い難い。
これを見ても誰も人は関心しないんだと。だけど自分はフロイト以来、フロイトが作って以来のこの精神分析学協会ですかね、という枠組みですよね結局ね。
枠組みというものに入っているんだちゃんとっていう風に、よく江戸前寿司に例えるわけですよね。
寿司職人というものはポッとやって人真似ではできないわけですよね。
だからそこには正しさがあるんだけど、正しい寿司の握り方が要するにあるわけなんですけど、でもそれって結局そのなんて言えばいいのかな。
その分かる人にしか分からないみたいな世界で。よく彼はエシカルって言葉を使うわけですが、そうなんだと思うんですよ。
これ経緯の問題なんですよね。で結局これが臨床に直結してくるはずなんですよってことを彼はよく書くんです。
この辺がやっぱり藤山直樹さんの本の良さなんですよね。松木さんはこれは全く同じことを意識しているように見えるんだけど書かないですよね。そういうことをわざわざ。
やっぱり寿司だとか落語だとか、つまりそういうふうなことを書くっていうのはですね、
昔一度だけ、私どうしてもね決してお互い嫌いあってはいないんだけど、
アイデアハックス以来のハックスシリーズの岡山隆介さんと一度だけ一緒に出た時にですね、
彼が能を習っている話をして、ああなるほどねっていう感じを受けたことがあるんですよね。
私はやっぱりそういうタイプじゃないんだよなと言ってることはわかる。
言ってることはわかるから私もタスクシュートは大橋絵藤さんに対する敬意は絶対失わないようにしたいと思ってるし、
グッドヴァイブスでは倉園圭三さんなんですよね。
オリジナルというのは大いなる父というには、大橋さんも倉園さんもおよそ大いなる父ではないけれど、
結局この時空を超えるっていう、特に時間だけど、時間を超えれば空間を超えるんで、
時空を超えるところに、何て言えばいいんですかね、
自分では届かないものがそこにあるっていう感覚が必要だなって思うんですよ。
なんかこれは嫌がられるはずなんですよ、これは。
だけどこれを持たないと結局自分が正しいってことに、
例えばどういう言い方をしてもなるはずなんですよね。
自分100%間違ってますっていう言い方ってできないと思うんです。
なんか物を食べる時だって、結局これは食べていいものだ。
一つには食べても誰からも文句は言われない。
一つには食べても体を壊さない。
実はあるものを食べられるかどうかっていうのは、
すごく生き物として重大な話だと思うんですよね。
自分がギャートルズの時代に行って、そこら辺にいる虫みたいなのを食べるしかなくなる、
そこら辺に生えてる木の実を拾って食べるしかなくなるみたいな世界に入った時に、
果たしてこれを食べていいのかどうかって重要な問題になってくると思うんですよ。
一方で言うならすぐ死んじゃうと思うんで。
だから保障って言葉は非常に人工的な言葉だなと思うんですね。
そういう時に、やっぱり自分は誰よりも何もかもを知っているのでなければ、
人の知恵借りるよりは仕方なくなるじゃないですか。
人の知恵を借りるということになった時に、
あるなんでもいいんですよ、タスクシュートについて、
タスクシュート協会というところで100人もの人とか、
これまでに使った1000人もの人たちが、
これはこういう使い方をしてこう使うとこういう効果がありますよというのは、
いやそんなの戯言で、俺の使い方が正しいっていうためには、
1対1000で1000人の誰よりも自分は賢いって言い切れないと、
やっぱり協会というものの権威を無視するっていうことをするためには、
それだけの人間だと自負できない限り、話が辻褄が合わなくなると思うんですよね。
そう考えてみると、よっぽどの天才でない限り、
精神分析の協会とかはもう何万人と、しかも全世界に渡ってるわけじゃないですか。
そのコンセンサスは大したことないんだよっていうふうに言い切るためには、
フロイトとかね、なんか静的に頭のおかしいおじさんが、
なんかああいうプロフェッサーで無理矢理作った宗教みたいなもんなんで、
ああいうものよりも自分でしっかり考え抜いた、
自分の考え方のほうが優れているんだよっていうためには、
相当のことが言える人でないと難しいと思うんですよ。
これがつまり、サーティフィケイトを言ってる藤山さんの言わんとするところなんだと思うんですよね。
オリジナリティとタスクシュート
これに経緯が払えないっていう話になってくるところに、
例えば、キャンセルの話が出てくるわけですよね。
だからこのキャンセル文は、キャンセル文の次回G文絶対来られないのに、
その分の金取るのはおかしいじゃないですかというのは、
でも精神分析というのはこうやってきて一定の効果は出てきたんだと。
それも何万人もの人間が知恵を出し合ってやってきた方法なんだと。
それに対して、あなたがいきなりやってきて、その方法に異を唱えるほど、
つまりナルシシティックだよね、それは。
っていうことによって、その人のパーソナリティから来る、
その人が人間社会でやっていくのを難しくしているその理由というものを認識するわけですよね。
で、ムカムカすると。要するに。
だからナルシシストというものを前にすると、治療者はムカムカすると。
これが逆転医として使えると。
だからといって別にムカムカしたことをそのままぶつけるとか、
そういうことはしないんだけれども、
結局それでは生きていくの大変だろうなと思うとか、
そういうことが起こるわけですよね。
その時に何でそういうふうに思う自分の方を納得できるかというと、
フロイトにサーティフィケートされているっていう軸を超えてですね。
軸を超えるというのはそういうことだと思うんですよね。
これがよく言われるところの権威主義ってやつなんだろうなと思うんですよ。
で、私は当然フロイトにサーティフィケートされてないので、
私のサーティフィケーションがある世界としてはタスクシュートぐらいなもんなんで、
で、私はタスクシュートはそうは言っても軸を超えちゃいますが、
100年前からあったわけじゃないですしね。
せいぜい1999年ぐらいなものなので、
それだってなかなか大したもんだと思わなくはないんだけれども、
まあまあ小規模なもんですね。
で、私はこれは私自身が大橋泰三さんに最終的な決着点を見出してさえいれば、
どのことは自分が好きかって言えるなっていうぐらいに考えてるわけですね。
そうじゃないと書いてることに自分が責任取れないんで、
いやこういう方法もありますしGTDも悪くないんですよとか言っていると、
言ってるんだったらそれはやっぱり受けての判断することだと思うんですよ。
いやGTDの方がいいよって言えるじゃないですか、いくらでも。
相手が自由にそれを決められるということは、
私ははっきりさせるっていうことが大事だと思うんですよ。
私自身が曖昧だと何が何だか分かんなくなってしまうと思うんで、
私はタスクシュート1本です。他は認められませんみたいなレベルで、
まあそうは言いませんが、そのぐらいまで言い切っておくと、
だったら佐々木は採用できないなっていう判断をしやすくなるじゃないですか。
っていう意味が意識があるわけですよね。
だから断定的に言う。
かもしれない的な、ではないだろうか的には言わないということですね。
まあ書き換えられてしまう部分がないわけじゃないんで、
売れてる本もそうなんですけど、
本読んでいただくと、私は可能な限り言い切ってるつもりなんですね。
なのではなかろうか、かもしれないと思うという言い方は、
多分ほとんどないはずなんですよ。
あと余計なことですけど、極力副詞はカットするんで、
多くの場合においてみたいなという感じには書かないはずなんです。
多分にとかね、おそらくはみたいな。
そういうのはカットしてあるはずなんで。
だからそっけない感じがするかもしれないなと思うんですけど、
僕はそっけないほどいいと思うんで。
やっぱり断定的に書かないぐらいなら、書かないほうがマシなんじゃないかという感じがする。
長くて短い鉛筆みたいになっちゃうから。
それは避けたいわけですよね。
判断に迷うじゃないですか、読み手のほうとしては。
読み手は私のことなんかどうでもいいと思っている人だっていっぱいいるはずなので、
そういう人が読んだ場合にも、つまり佐々木聖吾なんていうのは、
名前も読めないかもしれない。
佐々木聖吾って呼ばれてるかもしれないじゃないですか。
でも読んだ文章は断定されていれば、
これを受け取るのかどうするのかは、
読んだ人が読んだ時点で判断できますよね。
背景とか知る必要がないですよね。
そのほうが便利だと思うんですよ、少なくとも。
間違ってたら責任は佐々木にあるということで済むわけですよね。
そういうふうになるべくしておきたいと。
ただ、オリジナルは僕じゃないっていうのは、
はっきりさせておきたいわけですよね。
オリジナルは、この文章における責任とかは私が取れるんだけど、
このタスクシュートが存在することの責任は私には取れないっていう。
成人分析が完全にそうですよね。
Good Vibesもそうなんですよ。
だから私はオリジナリティがないっていうのは、そういう意味なんですよね。
話が飛ぶようなんですけど、また誰の言葉だか忘れた。
なんで忘れるんだろう。
五重すぎるって恐ろしいなって思いますが、
母親と父親の成功を史上のものとみなすっていう有名な言葉がある。
個性と修正の過程
あれは戦亡と感謝の話だと思うんですけど、しょうがないと思うんですよね。
だってこれがなければ、自分の怒りもなんならば、
その父母のセックスが最悪だというその判断自体を自滅、
自分で消滅させることになるわけですから、
やはりタスクシュートはこういうのは、
たとえ大橋えつおの言うことでも、ここは認められないなっては言えないと思うんですよ。
それを言う私がタスクシュートを使ってる事実はどうすんだってことになってしまうんで。
それでは修正がされないって言うんですけど、そんなことはないと思うんですよね。
修正とは意見の上書きによってするものではなくて、
やっぱりそのリアルにどう使われているかそのこと自体によって修正ってなされているはずなので、
ここはどうしても無理だって部分は諦めるしかないと思うんですよ。
諦めて修正する。そこでオリジナルというものを裏切るという形を引き受けるしかないと思うんでね。
それが個性かなと思います。
最近すごく思うのがメモなんですよ。
私セッション中メモを取るようになったんですよね。
メモを取ることの意義
それは後で読み返すためではないんですよ。
だからいわゆるログとレビューという観念は私は捨ててるんですね。
このセッションに関しては完全に。
手書きのノートに関してはログを取ったものはレビューするためでは1%もないんですよ。
ほぼ読み返すことはない。
よくセッションにおいてこのメモを取るという行為はですね、
そうして私が読んできたものでは否定されてるんです。
その意味はよくわかるんです。
まずフロイトはよく言ってない。
メモを取るそれもいいだろう。ただし私はやっていない。
多分やってないでしょう彼は。
藤山直樹さんはプロセスノートって言葉をやってるんだけど、
基本的にはセッション中は極力避けると。
彼はまだ上手いんですよねその辺がね。
なんと彼は本当上手いよね。
喋ってみると喋りたくない。
いつも思うんですよ。
読んでる量で言うと7対3で松木さんなんだけど、
喋る量は逆転しちゃうんですよね。
3対7で藤山さんのことを喋りたくなる。
ようなことが書かれてるんですよね。
藤山さんはメモを取らない人なんだけど、
あるセッション中に船の形を描いていたと。
落書きですよね要するに。
ところがこの落書きがセッションの突破口になる。
この辺上手いなって思うんですよ。
普段メモらないから、
余計自分の中では意味が浮かび上がってくるっていうのを
同時にここで示されていて、
すごいなって思うんですよ。
しかもその何の意味もないような、
よくあるじゃないですか、
ひょうたんみたいな絵、
多分そのような形だったと思うんです。
それが船に似てるなと思ったところから、
セッションが突破されていくっていう、
すごい良い話なんで。
私は藤山さんの臨床例と書いたものの中でも
とびきり好きな方のエピソードなんですが、
これがメモを取らないことの功用なんですよね。
メモを取らないからこそ、
たまたま取ってしまっていたその時の落書きに、
非常に引き付けられるってことと、
落書き、メモを取るのさえ自分で今占めてるような人が、
落書きを始めるほど、
そのセッションは行き詰まって退屈だったってことを
同時に示せてるんですよ。
逆転移ですよね。
非常に良いお話だなと思って、
私も一時はメモを取るのを控えて頑張ってたんですけど、
無理だってことが分かってきたんですよ。
松木さんすら書いてるんですよ。
メモをずっと一生懸命熱心に話を聞きながら取っている、
精神分析家と、
話をコンコンと聞いていて、
手には何も持っていない分析家と2人いたら、
私だったら後者を選ぶ。
これも松木さんらしい書き方なんですけど、
これで一発だなみたいな感じがするんですよね。
この辺がやっぱり彼のストイシズムが生きてるところだなと思うんですけど。
タスクシュートの基本的な考え方
で、私は当然、
この梁先生に勝手に、
勝手にこの梁先生に向かっていく人間だから、
メモは取らないんだっていう風になってたんです。
ましてフロイトも取ってないって言うんだから、
取らないよねって感じだったんだけど、
取るんですよね、それが。
で、取ってる時に分かってきたんですよ。
これを取ることは明らかに、
話者の話、気持ちを妨げる。
でも、これを書いているうちに、
何て言えばいいのかな、
これを書くことにはほぼ意味はないんです。
後から読み返す意味は全くないです。
この辺がタスク・シュートを喋る時の、
私なりの正しさと伝わってなさなんですけど、
このメモを取るっていう行為が、
私にとってはですね、
危ういところで踏みとどまらせるのに、
すごく良い効果を発揮し始めてるんですよね。
私がPSとDのさらにその間のような、
あるいはPSとDを猛烈に行き来しているような時に、
書くことによって、
PSに完全に染まりきらない。
多分、分析だったら良くないんですよ。
分析だったら、染まりきった方が良くて、
考えられなくなった方が良い、
という局面もいっぱいあると思うんだけど、
やっぱり私はバックボーンがないので、
これ以上3ヶ月チャレンジをコンテにしてくれる
何かはないので、
特定小取引における何とかとか書きましたけど、
あんなものしか書けてないので、
多分コンテナーがない3ヶ月チャレンジとして、
やっぱりコンテナーがいるんですよね。
になってくれるんですよ。
過労死で書いているっていう行為そのものがですね、
書くことによって若干スペースが開くんですよね。
このスペースがなくなってしまうのはまずいんですよね。
本当に考えられなくなっていくんで、
この考えられないは完全に対象関係論の
訓練を受けていないとどうのって言われると思うんですけど、
ここはもう僕はこれは必須だと思うんですよね。
むしろこれを伝えていきたいと。
とにかくビジネスに役に立てる、
ビジネスをやるためには、
ビジネスコンサルということをやっている私としては、
考え続けるんだっていうことを言い続けていきたいですね。
考えるのはやめるんですっていうのはもう、
違う方法論なんですよ。
それはそれでありだと思うんだけど、
私はここでは考えるってことだけを放棄しない。
放棄させられる時がいずれ必ずやってくる。
ここから先が治療論なのか、
ビジネスコンサルなのかというのを分けているつもりなんですけど、
考え続けるっていう、
考えるということを絶対放棄しないっていうところ、
ここを目指したい。
だから2人で考えましょうみたいな感じなんだけど、
2人でも5人でも何人でもいいんです。
1人でもまあいいっちゃいいんです。
とにかく考えることをやめなければいいっていう感じなんです。
でもやめることになります。
その時に、この書くということが役に立つ。
で、書くことに効果的な書き方とかはないです。
ていうかそんなものを当てにしていると、
その船の絵は書けないんですよ。
何が出てくるかわかんないし、
意味も全くない気もしてくるんです。
なんか線引っ張ったり色変えたりね。
全部好きにやったらいいんですよ。
後で見ても意味不明です。
ただ書いてる時に少しだけスペースが保てるって、
ゼロにはなんないんです。どっちにせよ。
だけれどもゼロになってないっていうことが、
書いていることによって認識できる。
私は話が飛ぶようなんですが、
今日はめちゃくちゃ飛んでますが、
タスクシュートも同じなんですよ。
要はスペースを開くためにあれやってるんです。
もうちょっという言い方をすると、
あれはコンテナであり、
現実原則に私をとどまらせるためのものなんですけども、
ギリギリそのあるモーメント、瞬間においては、
あそこに時刻を打つこと、
あそこのタスク名を変えることによって、
一切考えられなくなっている自分というものに対して、
照射してくるんですよ。
お前今何も考えてないぞと。
それが分かるんですよね。
何も考えてない。
完全に君PSポジションにいるよっていうことが、
一瞬チラッと会話見えるだけで、
Dに戻んなきゃっていう意識が働く。
それが大事なんですよ。
だからDに戻れるって話ではないですよ。
戻んなきゃっていう意識が働く。
それだけでいいんですよ。
それがタスクシュートしか私は、
タスクシュートがそれを一番最後のところで、
私に保証を提供してくれるんですね。
なんて言えばいいんだろうな。
海の中で、
このテトラポッドにしがみついているのやめたら死ぬなっていう、
そのテトラポッドなんですよ。
唯一一個だけあるのがこれっていう状態。
後でそのテトラポッドの位置を確認するとか、
そこで何があったのかを反数するとか、
あって助かったなって思うに決まってるじゃないですか。
それはもうどうでもよくはないかもしれないけど、
大したことじゃないですよね。
生きるか死ぬかに比べれば絶対大したことじゃないと思うんですよ。
だから私はそれを大橋哲夫さんのオリジナルである、
その会社員時代にログをExcelで作ろうと思った時の、
その時のその心境に駆け離れているかいないかって問うてるんですね。
オリジナルに敬意を払って、そういうことだと思うんだけど。
オリジナルである大橋哲夫さんは、
つまりこのプロジェクトは全てに優先してやれと。
あなたの業務をおろそかにするっていうのが、
それで認められるわけではないが、
とにかくこっち先にやれと。
それもこの日期日までにこれ全部やれと。
大橋さんが最初にやったのか途中でやったのか知りませんが、
やったことがExcelでそのペースを測るということだったと。
つまりそれは微分ですよね。
モーメントにおける傾きを彼は知りたかった。
そのことが自分のメンタルには欠かせないと思ったわけですよね。
それがタスクシュートの原点の一番オリジナルのポイントだと私は思ってるんですけど、
そのことと私がタスクシュートに託していることは完全に一致する感じがするんですよ。
だからオリジナルに逆らっていないと。
この観点さえ見失わなければ、
これは私行動科学では説明するのが非常に大雑把だなと思うんですよ。
それが報酬になるよね。確かにそれはそうかもしれない。
でもそうじゃないだろうと思うんですよね。
それはもう報酬系の話だけでは不十分だと間違いなく思うんですよ。
モーメントのことを言っていないと。
モーメントにおける傾斜とそれがメンタルにおけるある種の、
何種なんだろうな。
見通しと言うべきなんでしょうけど、見通しが報酬であるというのは間違いないですよ。それはそうです。
だから行動科学が全くの関係なわけじゃないけど、見通しがその瞬間、
微分的に与えられるという、加速度がどういう状態にあるのかを知りたかったと。
それを知らなければならないと思ったっていうところと、
私がPSポジションにこのままいてはまずいと思うっていうのが一致する気がするんですよね。
だから彼は大変その時に焦燥感に絡めたと思うんですよ。
つまり非常にPS的になったと思うんですよ。
迫害的にも感じられたと思うんですよね。
いきなり会社っていうのはとんでもないことを求めてくるものだと。
外側から自分が害を与えられているって気持ちにも彼なりになったと思うんですよ。
彼はそういう風にならない方の人ですけどね。
分裂的意識と原点
私はそれと全く違うんですけれども、
同じように妄想分裂的になっているなっていうことに、
あれを見た瞬間に気づくことができるんですよ。
ついでに言うならば、それはつまり、
倉園恵都さんがGood Vibesで言うところの分裂的なバラバラ意識ってやつなんですよね。
非常に攻撃的だし、他者操作的になっていると。
それを良しとしないんですよね、Good Vibesというのは。
少なくともそういう時のバイブスは決してGoodではないと彼は言うわけですよね。
これも私オリジナルに原点のところでは決して離れてないという感じがする。
その倉園さんが佐紀さんはアルガマまで好きにやればいいっていう風に言われた時に
パッと考えついたのが、フロイトのことを喋りたいっていうことだったんですよ。
それが3カ月チャレンジの原点の方にあるんですよ。