2021-12-22 29:50

【GMV 519】罪悪感をもつと自分が断片化される

罪と罰は最大の上下関係
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今週の土曜日にオンラインセミナーをやるので、テーマは先送りです。
まだあと残石が2ほどは絶対あると思いますので、今の段階で。
当日でも構いませんけれども、あれば。
この番組で喋っているようなこと、そちらは何か疑問があれば、ぶっちゃけ相談の方にいただければと思うんですけど、
私に尋ねて、つまりそれは簡単には納得できないというテーマでありましたら、
25日の時にでも聞いていただいたら、テーマの先送りと関係なくてもお答えはしますので、
よろしければお願いします。
26日にその翌日ですね、かき上げ塾の新しい期間スタートします。
このタイミングで26日に企画を固めて、それを年末年始に少しは少なくとも書いてみて、
そして1月の第2回に進んで、しかもそこで30分は書いていただくタイミングがあると。
この展開でいけば、これは先読みになっちゃいますけどね、
この展開でいけば結構いけるんじゃないかと。
この動きではかなり本上がるんじゃないだろうかという気もしなくもないので、
半年で一冊というのは実は非常に余裕があるようで、全然そうではないということなんだけれども、
一つ新しい仕組みを考えてみましたので、よろしければ。
まだ残跡少なくとも1はあったと思いますので、ご検討ください。
よろしくお願いします。
最近ちょっとあちらこちらに下書きのようなものを書いていくうちに、
ちょっと考えるようになったんですけど、
そもそも自分はいつしかグッドモーニングバイブス、
つまりグッドバイブスのモーニングを挟んだ版を500回も喋っているんですね。
でも中身が大幅に精神分析によっている。
しかもそういうことは私はグッドバイブスを知る以前にはほとんど言及していない。
たまに差し込んではいたんですよ。
フロイトにせよユングにせよ。
ユングはちょっと微妙なところもありますが、精神分析だと思います。
わかんないですけどね、僕には。
わかんないこともいっぱいありますが。
ただ好きだったんで、結局ああいう考え方は。
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だからちょいちょい差し込んではいたんですけど、
本とかには絶対、今でも本に思いっきり精神分析書くことがあるかというとないし、
私は精神分析について言ったり書いたりするのは実はほぼ無理だと思うんですね。
つまりそれは自分が精神分析家ではないからですね。
とはいえ好きなんですよ。
読んだりするのはやたら好きで、フロイト全集とかも一通り一回は全部読んでるんですね。
持ってるし。
なんでこれをグッドバイブスからこうもしゃべるように、
少なくともポッドキャストではしゃべるようになったのかと、
チェンジ図でも書いてますけれども、
それを考えてたんですが、
渋谷でこれが割と大きかったかなと思うんですよね。
渋谷で倉園圭三さんと一緒にと言っても、
倉園圭三さんのセミナーを私が何かお膳立てでもしているような流れで、
10回ぐらいやったんですね。1年ぐらいかけて。
その時は特にこういう風になるだろうとかは一切考えてなかったんですよね。
また私は当時はグッドバイブスというのがどういうものか、
要するによく分かっていたとは言い難いし、
倉園圭三さんがどういう話を毎回するのかというのを聞いているうちに、
全然違うものなんだなというのを、
何とどう違うのかはよく分からないんですけど、
うまく説明できないんですけど、
これは相当自分がイメージしていたものとは違うなと思ったんですよ。
それで特に興味深いなと思ったのが、何回かあるんだけど、
正しさを手放すというか、
その正しさを手放す上での正しさとはそもそも何なのかという話がありまして、
その正しさというのは結局その人が持っている価値観であり、
正義観であり、美意識という言葉も必ず入ってくるんですが、
そういったものですよね。いわゆるカントが言う心善美ですよね。
私たちは教育されたり、親に教わったり、本に教わったり、漫画に教わったりするという、
そういうことを話しながらいた時がありまして、これだなと思ったんですね。
この時で私は一気に頭の中で精神分析が始まったんです。
精神分析が始まったんですが、
これはもう本当に精神分析の世界だって感じたんですよ。
これのせいで我々は苦しむ、罪悪感を持つからですね。
正しさがあるから正しくないことをしたと思ってしまって、
あるいは正しくないやつがいると思って、
そいつを攻撃したり、攻撃されたりするんです。
現に今もそこかしこで行われていて、
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これはある意味トルストイの小説の全テーマの中にもあるんですけれども、
だからフロイト派の中にトルストイをやたら引用する人もいたりするんですけれども、
それなんですよね。
トルストイの小説の全テーマの中にもあるんですけれども、
フロイト派の中にトルストイをやたら引用する人もいたりするんですけれども、
それなんですね。
私が最初に精神分析の方に向かった感じを、
かっきり抱いたのは。
そうやって一旦言い出してみると、
正しさもそうだし、意味づけもそうだし、
投影は最初から非常に精神分析要語だから、
投影もそうだし、防衛もそうだし、反復脅迫もだし、
イリュージョンもそういうふうに見えてくるわけですね。
そうしてくると思い出してくるんですよね。
私の場合、当然精神分析に凝ったのは学生時代まで遡るんで、
過去へ過去へと行くわけです。
そもそも大学時代のゼミがDHロレンスのゼミですからね。
しかもそれを今読めば、今そういう観点で見ていたらさぞ面白かったんですけど、
当時はさっぱりわけもわからないまま、
それを教官はフロイトの観点から読み解いていたわけですよ。
気づきも私たちは誰もそのことが理解できずにいましたけど、
中でも私は理解していた方だけど、
たぶんその私の理解度から考えて、
あのゼミで行われていたのは不思議なことですよね。
ある意味、掛け算もよくわからない人が文数をずっと勉強しているみたいな。
それはそれでいいと思うんですけど、
とにかくそういう世界に僕はいたことがあるんですよね。
しかも一応アカデミックな形で。
留学中も当然フロイトは出てくるし、もっと直接的に取り上げられていたんですけど、
そういうふうにぐっと遡っていくわけです。
そうすると、自分はそもそも老人時代、高校時代にもかわいはやおさんを読んでいたわけですね。
だからそういうタイプというのか、そういうのに引っ張られる人間なんですよ。
そうすると一緒に思い出すわけですね。
そういう優しさというものは、いろんなところからそうやって本田の先生なのに叩き込まれる。
その叩き込まれ方を思い出さざるを得なくなるわけです。
なぜなら今悩んでいるから。
罪悪感というものに悩んでいるから。
罪悪感というものに悩むというのは、これも人それぞれだと思うんですけれども、
スタイルがあるわけですよね。
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腕っぷしに自信があれば、多分罪悪感に悩んだとき相手を殴ったりするんですよ。
そこまでいかないにしても喧嘩に出ると思うんですね。
あれは今は一般的に流行っているのは関係を断つと。
これは昔は容易にできなかったと思うんですよね。
コミュニティの選択の幅が狭かったから。
でも今はコミュニティというもの自体の価値がうっと下がったので、
これはもうそれこそ関係ないようですが、流通というものが進んだというようなことと、
政治形態がこういうものになったから、
当然そういう選択の幅、コミュニティに属しても属さなくてもいいわけですよね。
そういうふうになっていけば、関係というものは気に入らなければ切ることができるわけですよ。
これを江戸時代だったら多分安易に切ると、自分がすぐどうなるかわからないという事態に陥るので、
そうはいかなかったと思うんですが、今はそういくわけですよね。
だからこの選択肢は大幅に採用されているし、
もう一つこれをでも採用することにもはばかられ、腕っぷしにも自信がないというタイプの人間は、
つまり僕みたいな人間は、悶々とするってやつになるわけですね。胃が痛くなるとかですね。
ここで胃が出てくるんだけど、胃とか腸とかね、腎マシンとか心身症なんですけどね、これは。
これを私はずっとコルチゾール過剰分泌だと鑑定していたわけです。
この話はグッドバイブスでも私はしますけれども、本当はそれだけで済む話ではないんだけど、
とにかく胃に来るということは、つまり単純に言って罪悪感をどうにもできないんですよね。
罪悪感がどうにもできないので、体が危機感を持つわけです。
何らかの形でその攻撃は決して物理的な攻撃じゃないんですけど、
罰を食らうというのは結局身体としては攻撃をもらうということになるので、
その攻撃はただバーチャルなものとして来るわけですよね。
言葉というのもそうです。言葉は物理的な力ではないので、
言葉を解釈した上でバーチャルな攻撃として脳の中で展開してしまうわけですね。
そうすると脳の中ではあまりにもこれが私のような人間の場合、
外に持って行くこともできず、逃げ出すこともできない。
逃げ出すというのはつまり関係を切る。できる場合は全部逃げていたわけですよ。
戦うというのは私にはそれも思い込みなんだけど、できないと思っていたから、
これは選択の余地がなく最初から封じられているんです。
残ったやつはつまり身体が危機感を増大させる。
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それによって解決するとは思っていないんだけど、
とにかく身体は危機感を増大させて胃が痛むと、何の解決にもなっていないわけですね。
ただこういうことはあるわけです。
この関係を続けていたら胃が耐えられないからこの関係を切ろうと。
私はこれは至って妥当な判断だとずっと思っていたから、
繰り返し胃が痛くなってはそこから逃げ出すというのを繰り返していたわけですよ。
とにかく私が悪いんですよ、相手が悪いんですよ、そこはあんまり問題じゃなくて、
ここが変なんですけど、ある意味問題じゃなくて、
なぜなら私が正しくても胃は痛くなっていたからなんですね。
正しい場合、自分が喧嘩して勝てるならそれでいいんでしょうけど、
勝てないわけだから正しいというだけでは十分じゃないわけですよね。
正しいとしても自分は我慢しなきゃならないからやっぱり胃は痛くなるわけですよ。
このことを私は顔色をうかがう本で、つまりこれは顔色をうかがう戦略になるしかなかったわけですね。
相手と自分のいさかいを起こさないようにするためには価値観を調節し、
私は自分の価値観を容易に調節できると思っていましたから、
調節し相手との関係を常にマイルドに持っていくことによって
いざこざがとにかく起きないようにしなきゃいけないわけですよ。
相手が怒る、自分が怒る、どっちもダメなんですね。
というのがあの本だったので、
僕としては相手がろくでもない奴の場合はどうしようもないじゃないかというレビューが
非常に面白いなと思うんですよね。
あれ実は反論ではなくてすれ違いだと僕は思うんですよ。
これも余談ですけどね。
私が今日お話ししたいのはこの罪悪感というものから
フロイトに行ったと。
そこでいろんなものを思い出していくと。
この流れそのものが自分の中ではやや精神分析的なんですよ。
どんどん思い出していくわけです。
幼い頃こういうことがあったと、こういうふうにみじめだったとか、
こういうふうに親に怒られて、例えば牛乳こぼすとかするじゃないですか。
めっちゃ怒られたりするじゃないですか。
そして牛乳ふいているときのこの自分のみじめさとか悔しさというものが
すごくこの感覚、例えば妻と変化をするとか、
メールで仕事の関係者とやりとりしてネガティブな気分になるとか、
なんでもいいんですよ。
今適当に思い出そうとすると数がすごい少なくなるのが面白いんですよね。
この種のことって。
結構いっぱいあるはずなんだけど。
Facebookで叩かれるとか、なんでもいいんです。
Amazonで叩かれるとかね。
すると牛乳をこぼして吹いていたときの感覚がふと蘇ってきてたんですね。
ただ思い出してないんですよ。
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これを思い出すようになったのが精神分析の効果の一つであり、
これを思い出すことには意味があるというふうに思えるようになったからですよね。
その大きなきっかけがグッドバイブスにあるんだけど、
つまりそれ以前はどうなっていたかというと、
この光景はそういうふうに記憶している記憶は思い出さないまま、
ただ罪悪感と攻撃をされたときの、
なんていうんですかね。
下に置かれる感じなんですね、これは。
上下関係の。
だから私最近よく思うんですけど、
罪と罰というものを持ち出したときは、
最大限の上下関係がそこに発生するんだって思うんですね。
最大限です。
いわゆる会社に行って上司がいるというのは一種の上下関係だけど、
この場合はかなりマイルドなんですよ。
階段の一段と二段みたいな感じで。
だけども罪と罰となってしまうと、
もう二階と一階みたいになるわけですよ。
グーッと下に置かれる。
だから人は罰る側に立ちたくなるわけですよね。
何かことが起こったときに、
まず責任の所在を明らかにしようとするというのは、
この感覚が強烈にあるからだと思うんです。
下に置かれてなるものかですよね。
だって罰する側だったら二階で、
罰される側が一階なんだから、
これが逆転するんですよ、一瞬で。
責任の所在以下によっては、
二階がたちまち一階になるんですよ。
この現象があるものだから私たちは引くに引けなくなって、
どっちが二階に行くかという、
上に行きたいという欲求ではないと思うんです。
少なくともそういう人もいるかもしれないけど、
何者かになりたいというのは、
人より上に立ちたいという感情だと思うんですけど、
私はあれは、この処罰意識というのは、
人より上に立ちたいというよりは、
罪悪感を自分が抱いたまま下に落ちたくないという、
この感情なんだと思うんです。
この一般的な人がいる地上より一段下に置かれて、
みんなに見下ろされている感じというものが、
不思議と、ごく少数の人間関係の中でも、
人は抱くものなんですよ。
私は抱くものなんですね。
牛乳こぼして拭いてた時なんて、
もしかすると母、妹、私しかいないのに、
私は下に置かれているような、
体制的にもそうなるしね。
かがんでるから。
この感じが嫌なんですよ。
すごくね。
だから何とかして、
自分を下から元のところに戻らなきゃいけない、
という感情に囚われる。
囚われるんですよね、これ。
一つには、
グッドバイブスだけではないですけど、
自己啓発系で、
カウンセリングでもあるんだけど、
繋がりっていうじゃないですか。
繋がりに私たちが訴えることができた時に、
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助かった感じがするのは、
この関係性じゃない、
つまり牛乳云々はどうでもいいと思っている人との
ところに行けばですね、
すぐ自分は元に戻れる感じがするからなんだと思うんですね。
ついでに、
繊細な人は、
牛乳のことで起こったりした人を
切り捨てるんですよ。
これをやるんですね。
これをやらないで済ませられるように考えられたのが
グッドバイブス。
そのために考えられたわけじゃないけど、
考えたのがグッドバイブスの方法論にあるんだけど、
私たちの一般的に、
子供でもよくとる方法は関係ない、
しかし良好な人間関係のところに行くんですよね。
こうするだけでもだいぶ落ち着くことができる。
それはそこに上下関係があんまりないからだと思うんです。
つまりそれって、
下に置かれた人間関係の中に自分を閉ざすということは、
それが一番嫌なことなんですけどね。
そこから私たちは逃れようとするんだけど、
小さな世界に閉ざされるということになりますよね。
この小さい時の自分というものになりたくないから、
私たちはその潜在問題というもの、
ある種の潜在問題みたいなもの、
罪と罰というのを手放せれば一番いいのですが、
なぜこんなにややこしい仕組みに、
時々思うんですよね。
なぜ人間がこんなにややこしい仕組みを
採用しちゃったんだろうと思うんですけれども、
しちゃってるんで、
仕方ないというのとは違うんだけれども、
だからカウンセリングとか精神分析とかでも、
この上下関係は何を意味するんだろうということを
探っていくんですね。
それを生まれつきは持ってないんですよ。
面白いことに。
人の赤ちゃんは多分これを持ってないで生まれてくる。
どこかで学ぶんですよ。
どこかでってこれを教えまくってますから、
当然学びますわね。
とにかく罪悪感を持ったものは、
下に置かれる漢字というものを抱くと、
それはエリプスですけど上下関係だから、
それが一番強烈なのが罪と罰なんですよ。
罰は何か上な漢字であり、
罪はものすごく下な漢字。
そういう上下関係なんですよね。
この漢字というものを人は抱くのが当然嫌なので、
特に下側で抱くのはまっぴらなので、
ほぼほとんどの宗教とかカウンセリングとかでは、
この上下関係自体が、
それを作り出している構造自体がイリュージョンだって
結局言っているんですよ。
観音様とかそうですよね。
全ての罪は許されるだから、
結局元々ないことになってしまう。
そういうような考え方っていうのがあちこちにあるんだけど、
残念ながら、我々はこれを社会の中では維持しているし、
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犯罪と刑罰って完全にこのパターンを取っていますし、
維持しているし、
そこかしこでやってしまっているので、
下に置かれたと思ったときに、
許すという選択は非常に難しいんですよね。
下に置かれたと思ったときには、
自分が上に立って相手を下に置くしかない感じになるわけです。
多分私は人がこだわりを抱くときっていうのは、
相手が悪い場合でも、自分が悪い場合でも、
あがも切羽詰まった感じになってしまうというのは、
このせいだとは思います。
切羽詰まっているからなんですよね。
下に置かれているというのは、もちろんイリュージョンなんですよ。
具体的にどう下に置かれているというのはないですからね。
ただ下に置かれている感じになると。
この上、
ある種の差別感情とか、
ある種の優越感とかを持っている人は、
一層この問題にはややこしいわけですよね。
そういう犯罪と刑罪というのは、
ある種の優越感とかを持っている人は、
一層この問題にはややこしいものがあるわけです。
例えば、男なのに自分は奥さんの下に置かれた気がするとかが、
許せなくなるわけですよ。
もともと男の方が上だって思ってしまったりすると。
あるいは、年が離れていたりした場合ですよね。
男女関係なくても。
年が上の方が上だっていう風に、
これは結構部活とかで叩き込まれますけど、
そういう風に思っちゃうと、
年が下の人に上に立たれたときに、
多分許せなくなるんだと思うんですよ。
僕はこの感覚があまりないので、
よくわかんないんだけど、
多分これはそういう風に思うっていう人は、
少なからずいると思うんですね。
つまり、その時の上下関係だけでも許せないのに、
まして、ある種の自分が正しいと思っている上下関係に対して、
違反を犯していると考えると、
もう全く後には引けない。
もう全く後には引けなくなると、
そういうことなんだろうと思います。
しばしばこれどうしても人間関係の中では、
関係している以上発生しますよね。
だから関係は全部切るっていう人もいるくらい、
これは面白くないというか、
苦痛をもたらし得るものなんだと思うんですが、
だからグッドワイブさんは許すと言うんですけれどもね、
許可の許じゃない方ですね。
次に恩者の謝かなあれかな、
あの字を当てる。
私は甘えと言うんですけれども、
この文脈で言えば同じですね。
甘えの世界には罪と罰がないので、
そして上下もないので、甘えが成立する世界では、
当然罪悪感というものを抱くことがなくなるわけです。
どっちにしても言えることはですね、
二者いるんですよね、ここに。
一者だけではできない。
この一者だけではできないからこそ、
もともと人間関係から発生することじゃないですか、これは。
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にもかかわらず、自分一人では自分を許すというのが、
人間の心理構造上難しいことになっていると、
非常に人間関係というのが煩わしく感じるのは当然ですよね。
原因は二者以上の関係の中から出てきているのに、
真剣にやっても一者だけではこの問題を解決できないとなると、
そもそも人間関係が良くないというふうに感じるのは、
この構造上自然な流れかなとは思うんです。
一方で甘えにせよ、許すにせよ、
結局これは二者以上というものが、
つまり二者以上の関係性がですね、
イリュージョンを持ち込まないという構造になっているから、
一者だけではそもそもできないわけですよね。
二者以上いて初めて意味のある話になってくる一者だけだったら、
そういうイリュージョンそのものが最初から不要だったわけですから、
もし自分一人だけで生まれてきたのであれば、
これが多分、かなり今文脈が遠回りしてきましたけど、
ミニコットが言った、一人だけの赤ん坊というものはいないってやつなんですよね。
必ず母子が最初に一体として登場してきたので、
ここで許すと思ってこないと意味がなくなってしまうというか、
多分成立しなくなってしまうという話なんだと思います。
今日はすごく抽象的な話に終始しているんだけど、
つまり自分がやっていること、何かにつけて思い出していること、
それはすごく抽象的で具体的で生々しくて子供っぽい話なんですけど、
先送りをセミナーでやるという時も、今私が盛んに言うのはつまり、
だからなんだけど、先送りすることに罪悪感を抱くという状態を続けていると、
絶対先送りってなくせないんですよ。
先送りというものは悪いことで罰に値すると思うと、
自分舌になりますよね。何の舌か知りませんが。
この舌になった自分というものが上に立ちたいと思っている限り、
先送りのような行為ってなくならないんですよね。
増えることはあっても多分減ることはないんです。
舌に置かれた自分というものはつまり、
誰かに見下ろされている、罰する人に見下ろされているんですよ。
この関係そのものがイリュージョンだと思わずに、
この上下関係を何とかしようと思っていると、
相手を舌に置く以外はないわけじゃないですか。
それってどういうことかというと、
自分は正しい人間になるってことなんですよ。
過去のすべての間違いを生産し、自分は正しい人間になると。
そういう路線で先送りというものはこの正しさに違反するから、
婚輪際、先送りのない自分になろうって話なんだけど、
そもそもそれは先送りをしちゃった自分に対する罪悪感から生まれてくる感情なわけですよね。
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これが絶対消えないんですよね。
ずっとこの状態を抱いたまま、
しかもこれは間違ったことなんだという意識でいると、
自分は常に間違った存在として、
舌にいる存在として上に出るために今後先送りをしないっていう、
ただそれだけになってしまって、
本来多分先送りを人がするときに感じていることとは何の関係もない。
ひたすらリベンジがしたくて仕事はできないわけですよ。
仕事をするというモチベーションとリベンジをしたいというモチベーションは関係ないので、
これと同じことがいろんな人間関係できっと起きているというか、
私自身頻繁にこれにハマり込むわけですね。
本当に誰とでもやっちゃうんだなとつくづく思います。
この選択の余地がない感じ。
これが一番間違っているんだけど、選択の余地がない感じがするんですよね。
自分が舌に置かれたという感情を抱いている限り、
元に戻るか相手を舌に置くかのどっちかしかないような感じ。
もうどっちも同じですよね。ほとんどやろうとしていることは。
この感じをなぜ抱いているのかをつかみ出さないと、
そしてそれをなぜ抱いているのかをつかめばですね、
多分これが誤解の産物だということに気づけるんですよね。
私も気づけない日がないんですよね。
依然としてですね、本当にこんなに強く闘い込まれたのは誰なんだろう。
父にかと思うんですけどね。
でも父だとしたら完全にイリュージョンじゃないですか。
なぜならば、今目の前にいて自分を舌に置こうとしていると私が思っている理由は、
その父じゃないわけですからね。
相手は多分違うことを思っているんですよね。
私はそこに不死関係を見ている。
でも父は目の前にいるわけじゃないんですよ。
このことがですね、
GOOD VIBESではもっと違ったやり方で解消していくし、
ある意味もっとシンプルなんですよ。
私はここにこだわってはいるんですね、ある程度。
母との関係とか父との関係、悪かったわけでは全くないんですけれども、
こういうものを結構練り込まれてきているっていうのが、
いろんな時には悪さをする。
この悪さを何とかしなきゃいけないなと依然として思っているわけです。
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