2021-10-25 34:58

【GMV 483】リラックスする言葉「誰も悪くない」

悪人を隔離すれば悪の巣窟ができる
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
お参加申し込みいただいてありがたいのですが、
まだ結構空きがあるということです。
今月31日に出版記念セミナーをやります。
倉園圭三さんもいらっしゃって、
つい顔色を伺ってしまう私を手放す方法と、
もっと端的に言ってしまえば、
明日会社に行くのが怖いので、
違う、明日会社に行く怖さがなくなる方法。
これはですね、
僕は甘えというキーワードを出しましたけど、
今日その話しようかどうしようか迷いつつ、
今喋っておりますが、甘えというキーワードは、
僕は超重要と考えています。
グッドバイブスの言葉ではないけれども、
グッドバイブスの文脈によく乗るというか、
乗せられるワードで、
大事なのは親子関係がそこに案に含まれていて、
案に意味していて、しかも性的なものも案にあると。
親子関係って性的なものを案に必ず含むはずなんですけど、
性がないと親子ないですから。
ということを言ったのがフロイトだと思うんですよね。
心理的なものの意味は全て性的な意味だというのが、
これがなぜかってことはないけど、
ひどく非難の対象になるんですけど、
意味付けというのは親子が基本だということを言っているわけですね。
親子というのは性がないと出てこないものだから、
だから全ての意味付けは、
性的なものを案に含むというのは、
少しもおかしなことではないとは思うんですが、
これがすごくおかしなことだということによく言われておりますが、
その辺の含みを、
ドイタケオさんという人はすごい人なんで、
日本語にはそれに相当する言葉があるんだよというわけで、
いろいろあるんだよと。
拗ねるとかね、性的な意味がありますよね、拗ねるとか。
拗ねるとか、あとネタムとか、ベースにはあるわけですね。
その辺の言葉の代表させて甘えという言葉を言ったんですよ。
悔しいもそうなんですよね。
で、悔しいは本の中では第2キーワードで、
やっぱり親子関係がベースにある。
甘えがあるから悔しいという気持ちがあるので、
甘えは間違いなく親子というものを連想させますから、
そして性的な言葉でもありますよね。
甘えた恋とかって言うわけじゃないですか。
こういうやつですよね。
そこまで意識されなくても、
あの本を読むのに差し障りはないんですけど、
そこまで意識されると、
03:00
この感覚はほぼ解消し尽くせるかなというふうに私は思います。
ということで、よろしければ31日。
なかなか信じてもらえないのは分かるんですけども、
HSPということは、
僕はすごく非常に違和感がありまして、
つまりこのなんで三文字、アルファベットなんだよということなんですけどね。
これをひらがなの甘え三文字に切り替えれば、
よっぽど分かりやすく本多になるはずなんですよ。
抵抗が強いのは分かるんですけどね。
しかもそこには親子関係で、
つまり性的な、セクシャルな何かが入っていて、
悔しいということを非常に強く連想させられると、
全部あると思うんですよ、もともとの日本人の考え方の中に。
それがなんかね、いきなりハイセンシティブパーソナリティとか、
全くどこから来たのか分からないような概念に切り替わってしまっているというのが、
一つの僕が本を書いた動機になっています。
今日はですね、その話をしたかったんだけども、
やっぱり違う方向から連想が来て、
この辺が導かれるということなんでしょうけど、
先日、ある話し合いの中で、
あれは何て言うんですかね、マスタっていうのかな?
違うのかな?
ハテナブログであった車のトラブル、
事故予想物とか、ああいう話ですね。
ああいうのって運転している人にとっては、
あるあるなんですよね、本当のところ。
日常茶飯事と言ってもいいんですよ。
いろんな当て口もあり、いろんなパターンもあって、
何ら特別なものじゃないんですけど、
なんか妙にTwitterかなんかで話題になったみたいなんですよね。
で、要は何て言うんですかね、
自分は少しも悪くないのに、
加害者扱いされて、
逆もちょっとあると思うんだけど、世の中にはね。
とにかく加害者扱いされて、金を取られて、
許しがたい話だっていうような話なんですけど、
ワイドショーネタでもあるんですよね。
何て言うんですかね、あんまりニュースが、
今みたいな状況ですよ。
今までコロナでバンバン騒いでいたんだけど、
急に収束すると話題がなくなると、
突然ああいうものがね、あとほら、万引きのやつとか、
ああいう話が急に出てくるのの一つに、
よく出てくるわけですよね。
煽り運転とかもそうですよ。
遭遇したことが全くない人って、
運転長く続けてる人の中にはいないと思うので、
そういう意味ではですね、こんなことがあるんだっていう、
そういう声が、僕には不思議な気もするんですけどね。
06:02
僕はドライブ歴30年前後だった。
そこまでいかない。
でも30年弱ぐらいなんですけど、
二度や三度はありますよね。
ないことはないと思うんですよ。
あと親の車の横に乗ってる時にも、
全くその日のことに遭遇回数ゼロかっていうと、
ゼロな人もいるかもしれないなと思うんですよね。
走る日にちとか走るコースによっては、
例えば週末に絶対伊豆にゴルフに行くのが往復ですみたいなケースでは、
意外と少ないかもしれない。
ああいうところでやりにくいですよね。
ほぼほぼ渋滞だから。
ある程度流れていないと起こらない傾向があるものだとは思うんですよね。
でも車のトラブルっていうのはありますからね。
車の話だけになってしまっては困るんで先へ行きますが、
この話をするにあたって必ず僕が思い出す映画がありまして、
アグレイユ。
なんか刑務所のひどい話があるんですよ。
なんちゅうのかな。
カリフォルニアの方の刑務所なのかな。
とにかく監視がサディスティックなやつという振れ込みになってまして、
囚人が脱走するんだけど捕まってひどい目に遭うわけですよ。
真っ暗い所に閉じ込められてアキレス腱切られるみたいな。
そういう実話なんですよ。
しかもこれひどいことに。
そういう話がありまして、
最後には弁護士が頑張って、
囚人は悪くないから、
でも結構最後これで囚人大丈夫なのかなと思うような、
最後結局その刑務所に帰って行っちゃうんですよ。
今後はそういうひどい大罰をしちゃいけないということを決めるのと、
その決まりは最初からあるだろうから、
それを決めることで監視の行動の抑止になるのかなというふうに一つ思ったのと、
もう一つはその刑務所のひどさを調査すると。
実地の調査をしているドキュメントも映画にくっついていて、
ああいう映画って結構ありますよね。
もうどう考えても非人道的な感じがするんだけれども、
とはいえ囚人になって、しかも脱走しているので、
それは囚人が悪いんじゃないかということで裁判負けそうになるんですよね。
そういう話があります。
私が何であれを思い出すかというと、
あの映画だと絶対映画の作りとして一部ひねくれる人はいるとは思いますけれども、
このひねくれるというのはお前と同じで、精神分析的な言葉がもともと和語にあるという例だと思うんだけど、
今のは余談ですけどね。
ひねくれた人はいるとは思いますが、あの映画を見るとですね、
多くの人は囚人の肩を持つと思うんですよね。
この監視どう考えても頭狂ってるだろうって思うと思うんですよ。
09:03
どう考えてもこの囚人悪くないだろうと。
囚人悪くないだろうと。
子供の時に5ドル盗むの500円くらい。
もうちょっと当時はあったのかもしれないですね。
1000円くらい盗んだということが理由でそこに入れられることになって、
あまりにひどいところだから逃げ出そうとして景気が重くなっていって、
もう成人になっても出られる見込みはあまりなくて、
監視はサディスティックにやりたい放題みたいなそういう話ですね。
多分あれを見ると、
みんなで囚人助かってよかったよねって思うんですよね、私は。
そういう視点をなぜ映画が作って抜けさせたいかというと、
つまり私たちが現実の中で、
こいつは罪人で悪いやつだからどうなってもしょうがないと思うような人って、
意外とその人なりの事情があるって話はいっぱいあるじゃないですか。
つまり犯罪やってるような人とか、
社会からある意味隔離されているような人たちは、
決してそんなに生まれながら極悪人なわけじゃなくて、
私たちだってそういう環境であれば似たようなことになっていて、
結構ひどい目にありますよっていうようなニュアンスのメッセージが背景にある、
そういうものっていっぱいあるんだけれども、
私たちはそうは思わないんですよね、たぶん心の底では。
だから運転トラブルが起きたとき、
極悪人にしか見えないんですよ。
自分を落とし入れる人たちというのがですね、
煽りもそうですし、いろいろあるわけですよ、その手口がね。
本当にひどい話だと。
ひどい話だと。
善良なドライバーが泣きを見ることになって、金を払わせられると。
絶対許してはいけない。
今日もこの絶対許してはいけないという視点が、
さっきのカリフォルニアから出てこれない囚人に、
みんな向かっちゃってるわけじゃないですか。
だから彼は絶対に出てきてはいけないということになるのにもかかわらず、
この観点から見るとですね、
誰も囚人の味方はしなくなると思うんですよね。
絶対にああいう人たちが社会に出てきては困るのに、
脱走までして、社会に紛れ込もうとすると。
実にとんでもないことだから、
少々サディスティックな監視のところに置いといて、
そういう人はガチガチに縛りつけておいたほうが、
そうすれば社会は善良な人たちだけになって安心だと、
みんなが思うというのが危険だよという映画ですよね、あれ。
その観点を逆転させるわけですよ。
逆転させるとどうなるかというと、
今度はああいう監視はすごいサディスティックでやばいから、
ああいう監視こそ、
そういう刑務所に入れといたほうがいいんじゃないだろうかと、
人々が考えだすと、難しいですよね。
私、つくづくこの種のことって難しいなと思います。
12:01
要するに、どっちにしても、
悪人はどこかに隔離されて、
閉じ込められるのがベストになるんですよ。
それくらい私たちは自分のことを善人だと思ってるってことだと思うんですけれども、
思うに、別に私たちが悪人なわけじゃないんですよ。
彼らも善人だと思えれば、話早いんですよね。
グッドバイブスにそういうところあるんですけれども、
多分にあるんですけれども、
ほぼほぼ、
真に受けられることが少ないような気がするんです。
それは、たぶんしょうがない面もあるんだろうなと思います。
なんていうんですかね、
見せ方で随分変わるんですよね。
見せ方で随分変わってしまう。
これは意味付けですけども、完全に。
見せ方で随分変わってしまうというのが一つと、
この許すまじみたいな感情っていうのは、
エリプス以来なもので、
実はこれが甘えの話と全く結びついているんだけれども、
そういうふうにはなかなか見えないんですよね。
この辺の話を説明すると、
なぜか結構、
言葉を要すると、
要するに許せないのは、
現実原則がこの世にあるからなんですよ。
要するに許せないのは、
怖いからでもあるわけです。
話をややこしくすることに隔離をして、
自分たちの世界を安全にすれば、
安全にするという方策により、
ますます実は許せなくなっていくというのが、
これはグッドバイブスでもよく話題になるテーマですよね。
これもグッドバイブス以外では、
意外とほぼ話題にならないという、
ある意味不思議な話ではあるんですが、
隔離をするということは、
その人たちというものが悪人集団みたいに、
だって隔離されているところには、
悪人集団を隔離するわけじゃないですか。
めちゃめちゃ恐ろしいところになりますよね、そこは。
この構造を作り出しているわけですね、私たちは。
他にどうしろと、
言うんだという話も多分出てくるとは思うんですけども、
とにかくこれをやることによって、
恐ろしい集団が出来上がるわけです。
だから私たち、
二つありまして、ここには。
まず、極悪人だという、
隔離する理由ですよね。
それは、
罪悪感から来るんだけれども、
相手が罪を犯したときに、
それが煽り運転とかの話には、
非常に怖いですね。
無条件でというのか、
反自動的に起こるんですよ。
その人たちの老いたちだとか、
経歴だとか、
どうしてそういうことをしているのかとか、
言うことが、
なぜかほとんど話題にならないんですよね。
むしろ、もっとやばいことをしている人たちの方が、
実はご了承の頃、
こういうことが起きて、
つまり、まだしも同情を引けるようなエピソードが
語られることがあるんですけど、
あの種の人たちのケースでは、
15:00
ほとんどそれが出てこないんですよ。
もう、なんかですね、
まず死刑になることはないような罪なんだけど、
ほぼ死刑だぐらいの感情になるように、
紹介されるんですよね。
あれは、
軽犯罪じゃないけれども、
軽いからなんだろうかと、
言われるんですよね。
だから、
私たちは、
軽犯罪じゃないけれども、
軽いからなんだろうかむしろ、
って思う時がありますね。
万引きをして、
反省の色が見えない女性みたいな時も、
そうじゃないですか。
悪人度が高いように見えるような、
作りになっていますよね。
あれも、見せ方によっては全然違って、
すっごい同情を引くように、
作ることもできるはずなんですけど、
というか、できるんですけどね。
そういうふうには、
全然ならないように、
されているケースが多い。
そういったように、
文脈次第で、
善か悪かがコロコロ、
善はないんですよ。
悪なのか、そうでもないのかが
コロコロ変わるということは、
全部イリュージョンで意味付けなんですけども、
これにスポッとはまれるように、
作られている。
そういう意味では、
カリフォルニアの刑務所の映画にしても、
あの監視がどの程度ひどいかは、
見せ方によっては全然違うと思うんですよ。
僕が見た映画では、
もう完全に、
人のアキレス腱を蹴るみたいな、
そういう、
あからさまに、
ヤバそうに見えるように、
ちゃんと作ってあるんですね。
サイコパスっぽいというか、
サイコパス×サディストみたいな、
非常にヤバい感じがするじゃないですか。
でも、ああいう人というのは、
ただただ自然に発生はしないので、
必ずいきさつを持っているものなので、
そのいきさつを書くか書かないかで、
全然話が違って見えるわけなんですが、
それを見せるか見せないか、
というのが大きいわけです。
こういう時に、
例えばですよ、
例えば、
甘えさせましょうと言ったら、
全然通らない感じがしますよね。
ここが、
僕は、
グッドバイブスで一番、
チャレンジングになるところかな、
と思っております。
倉野さんも、
すごく、
慎重に伝えられるから、
一番やりやすい人でやりましょうね、
という話をするんですよ。
煽ってきた人とか、
カリフォルニアの監視とか、
そういうのを思い浮かべずに、
十分仲良くできそうな人を、
僕の今回の本の言葉で言うと、
甘えさせるという対象として選ぼうと。
チャレンジングじゃなくなるじゃないですか。
ここから行かないと、
グッドバイブスの壁が
非常に高くそびえ立つので、
そこから行かないと、
グッドバイブスの壁が非常に高くそびえ立つので、
壁の高さはイリュージョンなんだけど、
高くそびえ立つから、
そういう話になるわけです。
これは普通によくあるやり方で、
タスクシュートでも同じですよ。
一日中、
そんなにきちっと時間を記録しなくてもいいんです、
とか言うわけですね。
きちっと記録しないって、
18:01
本当はどういう意味なんだって、
厳密に言い出すとややこしいんだけど、
最初に人に言うと、
きちっと記録しないって、
本当はどういう意味なんだって、
厳密に言い出すと、
そういう時は、
こう言っておかないと、
その感触を甘えさせるって、
人間技じゃ無理でしょみたいな、
ジーザスぐらいにならないとダメでしょっていう、
人はイリュージョンを抱いちゃうんで、
そういうことは言わずにおくと、
言わずにおくというか、
最初からそういう話をしないってことですね。
で、この、
なんていうのかな、
極めてプリミティブなというのかな、
基本的なやり方なんですが、
私たちは怖い、
怖いというのかな、
自分が生きていく上で、
こいつは不都合だと考えた時に、
まずやることは2個に分けるってことなんですね。
これを最初にやったことが、
違うな、
これを人は多分、
生物学的に、
生物としてですね、
やるんだと思うんですね。
だって、
生物というのは、
例えばうちの目高くんがそうですが、
鳥と自分を、
距離を取る。
距離を取るというのが、
生物にできるおそらく、
最も基本的な戦略であって、
ヤバいのからは距離を空けると。
で、距離を空けた相手は怖いものであると。
ここまでが、
基本戦略なんだと思うんですよ。
例えば、だから、
ライオンがシーマンウマを襲うのは、
罪かというと、
別に罪じゃないじゃないですか。
でも、そういうようなことを言っていると、
ライオンは怖いので、
逃げますわね。
逃げるということは、
距離を空けようとするということであって、
距離を空けるということは、
怖いということであって、
シーマンウマから見れば、
この概念はないけど、
シーマンウマから見れば、
ライオンは犯罪者なわけですよ。
そういうことになると思うんですね。
だから、思考が進んで、
記憶力というものがついた場合、
自分は距離を空けるような、
心理状態になったと。
恐怖というのは、
悪いものであると。
その悪いものがここで発生し、
その悪いものを作り出したのが、
犯罪者というものであり、
できればそのライオンを
やっつけたいと思うわけですよ。
強い何かが。
これがエリプスですよね。
できればそのライオンを
罰する存在があってほしいと、
望む。
ですが、
私たちは、
非常に弱くて善良なので、
罰することができない。
罰することができないと、
悔しいという感情、
ここまで来るということができるのが、
多分人間なんですよね。
だから人間は、
生物的な、
すごく生物としての
21:00
原始的な在り方から派生して、
罪と罰という、
かなり非生物的な、
つまり人間ならではの
人工的な概念を
生み出したなと思うんですよ。
罪というのは常に、
過去のものなんですね。
距離を空けた、
相手が恐ろしいものとか、
悪いものであるという風に認識する。
全て過去のものですね。
生き延びた場合だけに、
これを考えることができて、
そうした罪深いものから、
距離を取りましょうと。
善良な自分たちはですね、
距離を取りましょうと。
これはですね、
極めて心理的にやるようになるというのが、
精神分析で盛んに言った、
エディプスという考え方の
基礎の基礎なんだと思うんです。
二つに分ける、
善と悪に分けると。
善というのは、つまり、
のほほんとしてられるということですよ。
草を食べてられると。
シマオだって草は食うんですよね。
草にとっては罪かもしれないけど、
そんなことは関係ないんですよ。
自分がやる分にはね、
外からやってきたものが、
悪を持ち込むのであって、
外にあり、
ついでに言うと、
認識だから過去にあるわけですよね。
こういうことをやった時には、
注意が必要だというのが、
たぶんグッドファイブスで
言ってることだし、
精神分析で言ってることなんですよ。
蓄積しちゃったんで、
罪の意識っていうのは、
罪の意識っていうのは、
つまり、
まず最初には外にあるんですよ。
どんな場合でも。
中にはないわけです。
中というのは、
つまり子宮の中ですよ。
シマウミにとっては、
平和に草をはんでられる時は、
子宮の中にいるわけです。
この時は禅なんですよ。
何も起こってないですからね。
だから、
ここを乱す奴が悪いわけですよね。
絶対それは外からやってきます。
だから私たちは、
外とエンカウントする時に、
トラウマをもらうと、
そこに罪の意識ってものが、
働くわけですよ。
ただ、どこに置かれるかっていう問題ですよね。
断じて罪は外にしかない、
というケースであれば、
断じて罪は全て外にある、
という考え方を取った場合、
社会的に引きこもる可能性は、
大いにありますよね。
これがエスカレートすればですけどね。
断じて罪は外にあり、
うちには全く悪いことがない、
ということであれば、
絶対うちにいるべきですもんね。
逆のケースが出てくるわけです。
シマウマとかもそうですが、
シマウマはそういうこと考えませんけど、
あそこで草をはんでいた自分が悪かった、
って考える。
要するに失敗と後悔がこの考え方ですよね。
やらかすのは自分なのである、
っていう考え方。
やらかしうるのは自分だと。
つまり、悪の要素が内側にある、
という考え方ですね。
この場合は自罰的になるので、
非常に抑鬱的になる可能性があると。
24:00
この場合はですね、
外へ外へとむしろ行く人が出てくるんですよ。
抑鬱的に。
非常に不思議なんですけど、
そういう人って僕はいるような日が
非常にしますね。
自分には価値がないから、
価値のある人と接触していたい、
みたいな考え方になるんですよ。
あるいは、自分は頼りないから、
守ってくれる人が欲しいと。
外へ外へと行くんですね。
悪いのは自分の中にあって、
良いものが外にあるから。
こういうふうに、
良いものがどこにあって、
悪いものがどこにあるかで、
反復する行動なんですけどね。
だんだん定まってきて、
定まってくるというか、
パターン化してしまって、
そこから抜け出せなくなると。
そういうのが病理の始まりみたいに
語られるんですよね。
今のはすごい単純化したやつです。
このほかにもいろいろあります。
間には悪があるとか、
悪は間にあるとかね。
自分とライオンという相性にある、
みたいな考え方ですよね。
そういう考え方もあります。
というか、そういう戦略があるんですよね。
どこに悪が発生しがちだから、
どこを避けようかみたいな、
そういう戦略ですね。
私なんかがよくはまるパターンですよ。
例えば、私と金具というのは
相性が悪いわけです。
パチンと鳴りますから、
冷静電気が。
この季節になると来るわけですよ。
この間にあるということが、
例えば、どこそこに触れないとか、
何々に触れないという問題を
引き起こすわけですよね。
これもエスカレートすると
病理になっちゃうわけです。
触れられない病気みたいなやつですよね。
間に問題が発生するわけです。
様々あるわけですね。
だから、
僕がよく思うのはですね、
思うのはというか、
今回思ったのは、
外に悪を作るというのは、
ごくごく自然な戦略なんだけれども、
これはですね、
何かこう、
用心の代わりに作るんですよね。
僕なんかは、
結構運転する機会が
最近少ないんですけど、
多かったから、
あれほど無意味なものはないと
よく思うんだけれども、
何かですね、
これをやらせたがるんですよね。
非常にこう、
ナンバープレートを操作する系も
あるんですけれども、
様々あるんですよ、本当に。
これについて、
事前に知っておけば
知っておくほど安全だという
非常に危険な考え方があって、
危険な考え方っていうのかな、
これは。
何なんだろうな。
まず視聴者を引きつけたいから、
ビジネス上の理由なんですよね。
金を儲けたいんですよ、要するに。
だって、
何だっけな、
一昔前に流行ったんですよね、
何か音がやたら鳴るやつとか、
相手の目を眩ませるやつとか、
そういうものを売りたいわけですよね。
いろんなものがあって、
そこにはいろいろと理由があるんでしょうけど、
根拠があるんでしょうけど、
要するに一番、
27:00
僕が、
今、グッドワイブス的にもそうですし、
書いた本のためにもそうなんですけど、
これをやった時には、
要注意というのが、
現実が2個に分かれている時なんですよね。
ドライバーにはいいドライバーと
悪いドライバーがいるっていう
発想を取ると、
ドライブっていう行為が
非常に危険なものになっていきます。
この話は何度も何度もしておりますので、
もうすっかり聞き飽きてしまったかもしれないと思うんですけど、
いいオッパイと悪いオッパイが
ないわけじゃないですか。
本当は1個しかないんだけど、
いいオッパイと悪いオッパイが
あるということになるわけです。
いつしか人間は認識力があるので、
今日のオッパイ良くないと。
つまりそれはどういうことかというと、
悪いオッパイとの距離を取るということをすると、
お母さんとの距離自体を取っちゃうわけですよね。
そして離れてしまうと。
そこに罪を見るわけですよね。
いやいや、オッパイが出ないから悪いと
いうことになってみたり、
あるいはこのパターンが一番、
その後の人生に影響を与えるんですけど、
ああやって悪いオッパイだからといって
距離を空けてしまって、
お母さんといい関係が築けなくなった。
これがよく打つポジションですよね。
つまり過去の自分の行いを反省するというやつです。
しかもこれが現代の社会では
強く推奨されてしまっているというか、
昔からずっとそうなんだけど、
これぞモラルだと思われているために、
私たちはいつも罪の意識というものを
かなり小さい頃から背負う羽目になっているわけです。
悪いお母さんと距離を空けようとしたら、
実はそれはいいお母さんでもありました。
恐ろしいことだということになっちゃうわけですよね。
すっごいこれは多いですよね。
リンゴを食べたら楽園を出されるだろう。
鶴を追っているのを見ちゃったから離れて行っちゃっただろう。
本当ですね。
過去にやった自分の行動、
そこに以前には楽園があったんだけど、
そこから追放されて、
罪の意識が残るという話は実に多いので、
これがやっぱり人類の記憶力というのを持ったために、
過去の悪い行動を二度としないようにしましょう的な
処罰型のという形ですね。
このパターンで認識するわけですよね。
そして処罰感情が残るわけです。
そういう罪を犯した場合は痛い目を見るんだと。
で、本来ここまでで終わるんだけれども、
終わらないわけですよね。
他の人が罪を犯しているのにもかかわらず、
あの青鬼運転した奴は濃々と酒なんか飲んでいるから、
もっと処罰しなければいけないと。
処罰感情が残るんで、
自分の中にどうしても処罰感情を振り回したくなるという、
だから多分泣き寝入りして悔しいという発想が生まれるんですよね。
これが自分はとても善良でとても弱いという認識の人にとっては、
30:05
この世の中で生きることは悔しさでいっぱいだという、
だから顔色が上がって生きなきゃならないという話になるんだと思うんです。
これを僕は逆転させるというか、
逆転しさせたいわけです。
この感情を子供の時にいだかさせられるのはしょうがなくて、
私もかなり気をつけて見ているんだけど、
やっぱりうちの子も持っちゃうんですよね。
そういうことをしないように、
どれほど気をつけてても持つことを見ていると、
これやっぱりある程度は生物学的なものなんだなと思います。
フロイトンの言った通りなんだろうなと、
別に道徳の本を読ませずとも、
モラルについてうるさく語らずとも、
この意識は持つんだということですね。
だからそういう教育はいらないんだということまでは、
彼は言っていないのかな。
でもそれに近いことは言っているんですよね。
精神分析の人が言っているのは、
すごくその辺は似ている気がします。
道徳教育というのは余計なものであるというような感じですよね。
ほぼほぼ本能で、
罪の意識と罰の意識は持っちゃう。
しかもグッドバイブスに至っては、
この罪の意識と罰の意識を発動するのをやめましょうねって話を
わざわざしているんだけど、
わざわざというのは、
つまり社会では、
これをいかにちゃんと人に教え込むかが、
最も道徳では大事だということになっているんです。
でも一つ、最低でもミニマムで、
一つだけは確実に副作用があって、
現実を二個に分けちゃうんですよね。
一個しかない現実を。
で、いいお母さんと悪いお母さんに分けると、
自分は楽園を失うわけですよね。
いい上司と悪い上司に分けると、
自分は上司を失うし、
いい会社と悪い会社に分けると、
自分は給料をもらう先を失うし、
こうやって、
一つ一つ人を孤独にさせていく作用を持ちます。
この処罰意識が暴走すると、
送的防衛になって、
その人を急速に孤独にさせてしまうんですけれども、
マイルドに緩やかにであっても、
これをやればやるほど、
二つに分けているものは一つなので、
悪いものと自分を距離に置くということは、
いいものとも必ず自分を距離に置くことになるので、
恩恵が少しずつ削られていくということが起こると思うし、
これをずっと進めていくとですね、
僕の考えでは、
そういう人を何人か見かけて、
やっぱりこの問題を引き起こすと思うんですが、
孤独な老人を作るんですよ。
これが一つ、
もっと考えられてしかるべきだと思うんで、
人間は人生経験が増えるけれども、
必ずしも人間関係は広がっていくとは限らないので、
この路線をずっと続けていくと、
どうしてもやっぱり、
少しずつ確実に孤独になっていくという問題はあると思うのと、
これをずっと続けていくどこかの過程でもっと早く起こることとして、
33:01
心理的にはもっと早く孤独になりますよね。
物理的になるよりも先に、
なぜならば、人とは孤独なものだって思うようになるじゃないですか、
この考えを持つためには。
こいつもダメだった、これもダメだった、
この会社も良くなかった、
この女も良くなかった、
このお母さんもダメだった、
明らかにダメですよね。
これ、本当に孤独になるまでこれを続けるよりは先にですね、
認識として人間とはダメなものだなって思う方が自然だと思うんですよ。
良いお母さんと悪いお母さんの悪いものが見つかった瞬間に
距離を空けなきゃならないとすると、
そういうことになると思うんですね。
もう一個は、最初は大して気にならないんですけれども、
悪いものを置いて隔離しているわけだから、
そこは悪のソークスですよね。
それが現実に少しずつ増えていくという問題が起こると思うんですよね。
これが心理的にはもっと早く起こると思うんですよね。
これがしかも自分の心理の中にも増えていくはずなんですよ。
似たようなことを考えたりしてしまったりした時は
そこに罪の意識を持たなかったらおかしいので、
処罰対象というものが外にも内にも増えていく
という問題が出てくると思うんですね。
これは純心理的な話ですけど。
だから、進行する方向としては孤独になっていく上に
世の中が怖くなっていく上に
自分がダメなものだと思えていくじゃないですか。
だからやめた方がいいような気がするんですよ。
少なくとも程々にしておくつもりでいないと。
これを増やせば増やすほどモラルにかなっていて
考えれば考えるほど自分は安全に生きられるという考え方というのは
やっぱりどういう風な観点から見ても
自分を病的にしていく、追い込んでいくような気がして
仕方ないわけですね。
ご視聴ありがとうございました。
34:58

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