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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
518回目なのかな?多分少しズレがあるとは思うんですけど、あんまり気にしないことにして。
気がついたらですね、今週の土曜日にオンラインセミナーをやることにしてたんですね。
先送りがテーマの第2回で、ライフハックセラピーとかいうレベルで行こうかなと。
まだちょっと確定ではない事項なんですけれども、
12月25日にやりますので、よろしければ当日いきなりお申し込みも全然可能です。
残席が気がついたら3席なんですよ。
もしかすると、ギリギリなら私はやめておきますっておっしゃってくれる心優しい方がいらっしゃるんですけど、
いざとなったら枠拡張できるんで、まだそんなにたくさん応募してるわけじゃないですから。
いろいろなことを気にしていただかずに、ぜひ聞いてみたいという方は参加していただけると思います。
私、顔を出すのし、画像もありますからこれとはちょっと違うんですけど、
顔出しとかは別にしていただかなくても大丈夫ですので、
私もオンラインすっかり慣れましたので、普通のセミナーとほぼ全く変わらない審議でやっておりますので、
最初はさすがにちょっと不思議な感じすぎて、緊張というのとは違うんだけど、
不意にあれ、向こう側で誰か本当に聞いてるのかなって思っちゃうことがあったんですよ。
ライハックのですね、クラザノさんとグッドワイムスでやるときはみんな顔出しみたいなのも普通にあったんですけど、
ライハックは逆で誰も顔なんか出さないわけですね。
そうすると向こうで誰もいなくても別に名前だけ出てても音もミュートですから、
もう不思議ないじゃないですか。
なんか僕は一生懸命人に喋ってるつもりでいるんだけど、なんかこれと全く同じ状態なんですよね。
でもこれと同じだと思いながら人がいるって思うっていうのが同時に来るとわけわかんなくなっちゃうんですね。
そういうことってあるんだなと思いました。
でも今は人がいてもいなくても全く同じモードになっちゃったんで、
だからこの種のことって本当に慣れなんだなと思うんですよ。
すごく思い込みというかイリュージョンというかそういうものばっかりで、
なんかこういうふうにやらなきゃいけないとか言われてることもいっぱいあって、
僕はほとんど見たことも聞いたことも読んだこともなくて、
つまりこの種のお作法っていうんですか、
完璧に無視してるんですけど一向に差し支えないような気がするんですね。
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だから慣れちゃえば、誰でも誰でもっていうのも変ですが、
気にしなければできますと。
気にしないということが書く、書いたり読んだり喋ったりする上では大事だなと思うんですけどね。
とりあえずそんな感じです。
25日よろしければ。
クリスマスに先送りの話っていうのもどうかって感じもありますが、
最近エヴァノートのほうもそこそこ動いていて大変ありがたいんですけど、
Kindle版のやつですね。
何かの話でも構いませんので、よろしければどうぞリクエストいただければ何でもおしゃべります。
この話と関係あるような内容なんですけど、
昨日ですね。
これは昨日やってた番組ではないんですけど、
昨日録画してあった番組を見たんですよ。
ひきこもりの。
ひきこもりの一応特集番組で一つの、わりとそんな遠くないんですよ。
横須賀のお話でですね。
しかも名前も顔も全部出てくるというすごい話だったんですけど、
ただいわゆる今問題になっているひきこもりのケースとは、
ちょっと私は今回これは違うんじゃないかなって思ったんですね。
なかなか最終的にはちょっと殷算な話で、
気が重くなっちゃうんですけどね。
1時間を見ていると。
要は、
お父さんとお母さんが先に高齢で亡くなっていって、
本人も栄養不良。
栄養不良ですからね。
亡くなっていくというお話なんですね。
話としては単に、
わりと今よく聞くひきこもり系の話なんですけど、
これがですね、
多分ある観点を取るとですね、
1から10まで長寿がって感じなんですよ。
本当に長寿がに支配されてしまっている家って感じで。
うつせみの家っていう風に言ってたんですけど、
そもそもうつせみの家っていう言い方がどうかなって思うんですよ。
うつせみっていうのは要するに、
抜け殻と言いたいのか、
中身が空っぽだと言いたいのかわからないんですけど、
それはある意味すごく長寿がの暴走ってものを感じさせはしますけどね。
だから言い入れてみようとも言えますけどね。
ただ最初からネガティブじゃないですか。
このうつせみだっていう風に思うという視点そのものが、
非常に長寿がの、
しかもそれを非常に罪悪感ベースに見ていると、
こう見えてしまうっていうやつなんですよね。
あれだって全く同じ状態を、
例えばコメディとかにしちゃうことだってできるはずなんですよね。
これね、不思議なんですよね。
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人のものの見方というのは、
意味付けとイリュージョンというものというしかないでしょうけれども、
例えばホラーってあるじゃないですか。
めちゃめちゃおどろおどろしい空間作って、
それを動画で撮っていくと。
全く同じようなコメディってすぐ作れるじゃないですか。
ドラキュラとかが足をつかんだりしていて、
要はあれは視点だと思うんですよ。
もう報復絶倒にそれをすることもできれば、
みんなを見ていて青ざめるようにすることもできるんですよね。
本当にそこに違いはないといつすら言える時があって、
僕は昔映画でたまたま友達と見させられて、
すげー怖い映画みたいなのを見ていて、
いつも時々笑いをこらえたくなるっていうシーンが、
よーく考えてみるとそのシーンっておかしいじゃんっていうね。
だから呪いの藁人形だってですね、
それをギャグだと思ってみればギャグに見えるんだと思うんですよね。
それはですね、つまりイリュージョンなんだけれども、
イリュージョンなんて言うんですかね、
本当にそうだとどこかで思えないと、
思えるか思えないかということが、
そのシーンをどう見るかの視点を大きく変えるはずなんですよね。
昨日のうつせみの家の話は、
本当にですね、徹底的にそれをシリアスに、
まさにお父さんが見ている通りに見せるように
ドキュメンタリーは作られてたんですよね。
それはすごいなと思うんですよ。
音楽効果というナレーションというナレーションが、
僕は始終わざとらしすぎるとは感じてたんですけれども、
そういう風なナレーションを受け入れてしまえばですね、
完全にそれは本当に救いがないし、
八方塞がりだし、
どうしようもないって感じが延々続く感じの一時間になるわけですね。
でもどうしようもないものにそれをしているのは、
外的要因では全くないんですよ。
ほとんど何にもないんですね、外的要因は。
ただただ内的要因というのか、
これをどうしようもなく見させている見方を
絶え間なくそこに敷いているものがあって、
それは精神分析といえばまさにそうなんだけれども、
本当にですね、
やるせないんだけれどもやり方はあるんだけどっていう、
でもそのやり方というものを元として認めなければ、
やり方はやっぱりないわけですよね。
そういうシーンがたびたび出てきて、
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非常にこれがだから悪い人はそこにいないんだけど、
悪いお父さんという、
悪いお父さんというのとも違う気もしますけど、
やっぱり悪いお父さんってやつなのかなと。
お父さんは悪くないんですよ。
そこの家を支配している一つの在り方が、
悪いお父さんというものを生み出している感じなんですね。
やっぱりお父さんなんですよ。
鍵はお父さんだなって私は感じたんですけれども、
お父さんは悪人だとか、
そういうことでは一切ないんですよ。
ただ昭和6年生まれの方なんですね、お父さんは。
これはしょうがないかもなと思わせられるものはありました。
多分に。
昭和6年というのはやっぱりエリプス前世じゃないですか。
お父さん絶対ですよね。
そういう時代に生まれている人だけに、
やっぱり今風ではないんですよ。
あれを見て一つ思ったことが、
フェミニズムの功績というのはこういうところにあるんだなと。
そういうのはもちろん、
意識は今までもずっとさせられてきましたけれども、
ミクロである家の様子というものを、
あんな風に徹底的に切り取られてみると、
エリプスというものがうまく働かなかった時には、
すごい困ったことになるということを、
あんな風に見せつけられることはほぼないので、
そういう観点から見ると、
お母さん的世界というものがもっと前面に出てこないと、
全部が全部ドキュメントされていたわけじゃないから、
事情が完全にわかるわけじゃないんですけど、
お父さんが驚くほどマメで、
ここにもいろいろ現れているんですけど、
お父さんが本当に詳細に日記をつけているんですよ。
その詳細な日記の中に、
うつせみの家という表現が出てくるんですけど、
まるでうつせみのようだという表現が出てくるんですけど、
そうなんです。
このお父さんの観点というのが、
しっかり非常に強くエリプス的なんですね。
父親というものが、
家を作るという観念に囚われているというのかな、
明るい家庭を作りたいと書いてあるんですけど、
そこはもう宣言文みたいになっているんですね、冒頭の。
全然明るい家庭にならないわけじゃないですか、
最初は明るかったんですよ。
子供が二人いてキャッチボールしたりして、
すごくまたそこも典型的なんですけどね。
この典型的というのが嘘なんですね、一つ目には。
普通の家庭だったってみんな言うんですけれども、
なぜそれが普通になったのかって、
誰もそれについては問わないじゃないですか。
お父さんと子供がキャッチボールするとか、
お母さんが先教主婦で家にずっといるとか、
全部それはある時に急に作り出された一つの価値観で、
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みんながそうするのがいいんだって思い始めたのも、
誰かがそう宣言したからでは多分ないですよね。
佐藤英作さんとかが、
一家では子供を二人作ってキャッチボールをするのが正しいやり方なんですって、
別に宣言したわけじゃないと思うんですよ。
みんながなんとなくそう思って、
しかもそれが明治時代とかには行われてなかった形じゃないですか。
江戸時代にはもちろんですね。
今もそういうのが崩壊しつつあるとかって言うんですけど、
崩壊というからには、
そういうのが平安時代から以降確立したみたいじゃないですか。
そういうのがあった時代はあるんですけれども、
私なんかまさにそういう家で生まれて育ったんですけどね。
でもあれにはいろんな無理があったのに、
人間というのは自然に生まれるとああなるんだみたいなノリが
作られたんですよね急に。
そのお父さんは、
そういう家を作りたいという一つの観念があってですね。
観念なんですけどね。
本人は観念だとは思ってないんだけど、やっぱり観念なんですけど。
それと、
自分が高度経済成長で成功したという
強烈な成功体験があるわけですよ。
すっごい努力をした。
それは多分本当なんですよね。
ここにも不思議な因果関係がある。
不思議な因果関係だと私は思うんですけどね。
すっごい自分が努力したから成功したっていう
ストーリーになってるんだけど、
その時はたまなま高度経済成長だったわけでしょ。
だから高度経済成長の時に
努力したから成功した。
これですら微妙な文脈なんだけど、
高度経済成長だったから上手くいったとも言えるわけじゃないですか。
この二つが本人の中で合流しちゃうんですよ。
高度経済成長を作ったのは自分じゃないじゃないですか。
自分がすごく努力をしたから高度経済成長時に成功した。
こういうナレーションになってるんだけれども、
そういうようなことが日記に書いてないのかな。
そういうナレーションになってるんですけど、
これは一つのイリュージョンですよね。完全に。
しかも合成写真みたいになっちゃってますよね。
高度経済成長だったのは戦争があったせいもあるし、
いろんな意味でたまたまですよね。
だってその人が昭和6年に生まれたのはたまたまじゃないですか。
だからその後、家庭がじわじわと難しくなっていく中で、
そのお父さん書くんですよ。
誰も望んで生まれてきたわけではない。
言ってることが完全に逆転するんですよね。
誰も望んできて生まれたわけではないと言いながら、
努力をすれば誰でも幸福になれるはずなんだけども、
すっげーそのお父さんは努力してるにもかかわらず、
家がじっとも明るくなっていかないわけですよ。
こういうところにすごくお父さんにとっての、
お父さん的な成功法則というものがあって、
その通りにならないとダメなんですよね。
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でもその通りにすることはできるはずだという感じがあるわけです。
でもできないと。
大きなポイントに、息子さんが引きこもりなんですけれども、
最終的には50代で、最後にちょっと顔も出てくるんですけど、
50代とは到底思えないんだけど50代で、
ずっと一人でその家で生活するようになっていくんですが、
なぜお父さんがそんなに息子さんのことがうつせみのようだと思うかというと、
大学入試に失敗するからなんですね。
2回失敗するのかな、3回なのか、ちょっとその辺も覚えてないんですが、
要するにそういうことなんですよ。
ここもエディプスなんですよね。
大学入試に成功すると、努力をして大学入試に成功するんですよ。
大学入試に成功すると、努力をして幸せになっていくことができるんですよ。
こういう直線的な成功法則が、
これはエディプスというのが直線的な成功法則に常にとらわれているというのではないです。
ただ、こういう人工的なルールの中で、
成不成というか、成否が出てくる、成功失敗が作られるというふうに考える。
ここが人生の一つの人生や現実を支配しているルールであるという、
そういう関連がエディプスには非常にまつわるというか、
よく出てくるセットなんですよね。
父親的世界。
これをやるのが父親だけだという話ではないです。
女性も今いっぱい参加してますよね、この世界に。
ただ、男女の話ではないんだけども、
最初に作ったのは父親っぽさはあるんですよね。
だからこの世界は父親的世界と。
これが言ってみれば暴走するわけですよ。
こうでないものはダメになっていくと。
こうでないものは不幸になっていくと。
この関連の通りに生きてるから、みんな不幸になるしかないんですよね。
本人はそうは絶対思ってないんですよ。
ここが難しいところなんですよね。
本人はわざわざ自分が不幸を作り出す機能は全くさらさらないんですよ。
ただ、この法則を絶対意識すればするほど現状は不幸にならなければいけないんですよね。
すごく象徴的なシーンがあって、
何かというとこのお父さんは成功するとお寿司をとるんですね。
この辺もまた昭和一桁感というものをすごく感じさせるんですけど、
お寿司をとるんですよ、食べるんですね。
ところが、自分たちのようなものはお寿司を食べちゃいけないんだって思ってるわけですよね。
要するにこれは身分を超えた贅沢っていうやつで、
エディフス的には絶対ダメなわけですよ。
もっとひもじい思いをしなきゃいけないと。
お寿司なんか食べてはいけないって思ってるんだけど、
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お寿司をとっちゃうわけですよ。
本人がどれほどこういうお父さん的な価値観をずっと持っていても、
その人の中にお母さん的な面って絶対ありますし、
もちろん子供的な面もあるわけですよね。
だからお寿司を食べたくなるわけですよ、お父さん自身がですね。
お家をもっと明るくしたくなるわけですよね、お父さん自身が。
これはお父さんの望みでもあるから。
なんだけれどもお寿司を食べちゃいけないわけですよ。
だから、例えば誕生日とかそういう時にカコつけてっていうのかな。
そうしないとそのお父さんにとってはお寿司を食べるということが許されないから、
誕生日とかにみんなでお寿司を取ると。
食べないですよね、誰もそこでは。
食べる気にならないわけですよね、特に息子さんがですね。
この辺が今風の引きこもりとだいぶ話が違うなと思うんですけど、
息子さんは食べないと。
だいたい望んで生まれてきたわけじゃないとかいう話をしているわけだから、
誕生日全然めでたくないですよね。
こういうところがですね、非常にこのお家の中でのルールと現状がそぐわないということが、
むしろわざわざ明るみに出ちゃうという感じになるんですね。
息子さんはパンばっかり食べていると。
なぜならば、これも最後のシーンで出てくるセリフなんですけど、
自分はパンしか食べちゃいけないんだと。
なぜなら失敗者だから。
この辺はやっぱり私には最近の話とは違うなというものを感じさせられるんですけど、
とにかくパンばっかり食べているからどんどん痩せていくわけですよ。
肉もお魚も食べたいんだけど、自分はパンしか食べちゃいけない。
これ完全にお父さんが飲み込んでいた価値観をそのまんま自分も飲み込んでいるんですね。
ちなみに、だからお父さんが大好きだとか、子供に及んでお父さんの言う通りに生きなきゃいけないとは本人は思っていないんですよ。
しょっちゅう喧嘩するんですね。
だからこれがいかにお父さんとやり合っているつもりではないかってことなんですよ。
これは価値観と戦っているんであって、お父さんと戦っているわけではないんですね。
お父さんもこの価値観と戦っているんですよ。
でもこの価値観で自分は成功してきたし、高度経済成長もそうだし、
自分の昭和6年で生まれて海戦の中で頑張って家まで建てたというのも全部そうだから、
この価値観というものを到底疑うというわけにはいかないんですね。
これがある種の宗教なんですよ。
しかも自分を救ってくれた宗教なんですよ。
だからこういうのが宗教というものが成功というものをもたらすと、
いかにも長時間として働いて突っ走っていっちゃいますけど、
そういう悲惨な話は5万とあるっちゃあるんですけどね。
そういうものなんですね。
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その中で痩せるというのが非常に何かを痩せさせるという感じがつきまとうんですよ。
あのお子さんが手が骨と同然みたいに見えるんですよ、テレビでもですね。
それはちょっと殷さんだなと思ったんですけど、別に食べ物ないわけじゃないわけですよ。
後半、一番最後の方は2008年とかなんで、
民生委員の人とか福祉の人とか役所の人とかが来て食べ物を届けてくれる。
食べないんですよ。
で、カタクナにっていうナレーションがつくんですけど、
カタクナなのはその人じゃないんですよね。
この価値観がカタクナなんですよ。
長寿がの価値観なのでカタクナになっていってしまうんですね。
お母さんというのはずっと登場している感じがしないんですよね。
非常に影が薄い。
この家がやっぱり非常にエリプスでうまくいってきた家だけに、
どうしてもこの専業主婦というお母さんはまるでいないかのような、
この番組でよく言う環境としての母親というんですけど、
まさに環境そのものみたいになっていくわけです。
だけれども人間は生きてますから、
環境としての母親というのはあくまでも赤ちゃんから見た視点であって、
だからその時代は良かったわけですよね。
子供が幼かった頃はこれでうまく回る。
だけれども子供が大学受験に失敗したなどということが問題になっているときは、
そこに用事がいないから環境としての母親はどうなっちゃうのかと、
こういうお家ではお母さんがわけのわからないことを口走るようになると、
お父さんの日記にあるんですね。
ここはお母さんの影が薄すぎて、何が起きているのかは推定はつくんですけれども、
推定しかできないんですね。
本当にテレビでも写真ばっかり何度も何度も出てきたんですけど、
それはこの影の薄さというものをむしろ写真じゃない、絵なんですよ。
お父さん油絵が大変うまくて、絵としてのお母さんが出てくる。
これはすごく嫌なシーンだなと思ったんですよね。
ドキュメンタリーではしつこくしつこくお母さんの絵が出てくるので、
ドキュメンタリーを作っている人はよくわかっているんだと思うんですけれども、
つまり生みかんがないんですね。
でもこの状態で環境として生きていけないんですよね。
環境としての自分というものがもはや機能していないというのを
人間だからわからないわけにはいかないですよね。
だからそれはわからないんです。認知症なのかもしれないし、
欲打つがあまりにも深刻。そこにもはや違いを認める意味はない感じなんですけど、
やっぱりすごく白外妄想的にはなっていくわけですね。
テレビは茶色い枠だったのに真っ黒になっていると。
隣の近所の人が真っ黒になったせいで、
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それからうちはおかしくなっているというのがお母さんの説明なんですけど、
これを聞いてお父さんはすごい嫌な気分になるんですけど、
これは当然そのセリフが非常に奇妙だという風な話で、
このドキュメンタリーではまとまっているんですけど、そうではないですよね。
この家のエリプス的な価値観でうまくいくはずだということに絵の抗議ですよね。
うまくいってないじゃんという話ですよね。
誰が見たってこの努力をして三流大学を落ちるようではもうダメだから、
もっと苦しんで働きなさいというこのメッセージを受け入れられないわけです。
それでもこの息子さんは偉いもので受け入れちゃうんですよね。
受け入れちゃうからいよいよ話がややこしくなっていくんですけど、
受け入れてしまうんですよ。
結局そのお父さんの言う通りに就職して続かなくなっていくと。
過酷なばっかりで全然楽しくないと。
そりゃそうですよね。
だって自分はダメな人間だからダメな職場に行って
ただ苦しむのが今後の人生だという
そういう定義のもとでお仕事していたら
誰が考えてもそんなにスムーズにいったらむしろ変なわけです。
だからその展開としては当然自然に起こるように
お母さんと息子さんが結託するという形になって
案にお父さんに対して攻撃的になるわけです。
これもまたただこの家ではお父さんというものが悪いとは誰も思っていないために
あくまでも抵抗勢力みたいになっていって
ここに戦闘的な混乱にはなるんだけど
よくあるような息子さんが暴れて家庭内暴力みたいな話にはならないんですよね。
むしろお父さんが50代の息子さんを殴るみたいな話が出てきて
驚かされたんですよ私は。
そういうことって可能かなと。
最近聞く話はむしろ逆ですよね。
娘さんがお父さんをボコボコに殴るとか
そういう展開になる話の方が多い。
それだけこの家ではこういう風にしてうまくいくべきだっていうのが
お父さんだけじゃなくてみんながそれに向かって生きてるって感じだったんでしょうね。
お母さんが一番それに最終的に抵抗感が強くて
迫害されている感じを持ったんだろうとは思うんですけど
それもわかんないですけどね本当のことは。
よそ本当のことがわかるようなすごく詳細に伝えているようで
大事なところがいちいち欠けている。
特にお母さんがどういう風にやってきたり考えたのかというのがすっぽり抜けてる。
日記をってもしそれがほんとにすっぽり抜けてるんだとすると
やっぱりあまりにもお母さんが環境にさせられているっていう感じが
強かったのかなという感じはします。
そういう性格の人もいるしそこもやっぱりわかんないんですけどね。
27:04
テレビで見てもわかることってほとんどないなというのは
こういう時に思い知らされる感じがします。
結局こう見なさいっていう通りに見させられちゃいますから。
途中で一番今のような展開の中で
息子さんは新一さんって言うんですけど
新一さんですからね。息子さんの一番目の長男が新一さん。
その下の息子さん、この息子さんが生きていらっしゃっていて
このドキュメンタリーでは生身の人間として一番ある意味活躍するのが
二郎さんなんですよ。
ほんとにそのまんまっていうモデルハウスじゃないんだからって思うぐらい
徹底的にある種のものを伝えてくる感じなんですが
その新一さんという方が脅迫神経症になって手を洗い続けると
これもすごくお父さん的だなという感じは
悪いお父さん、悪いお父さんっていうのは
この家のお父さんが悪いわけではなく
悪いお父さんというのが自分に資格がないって言った時に
問題になる行動の一つですよね。
反復脅迫みたいな行動ですけれども
手を洗うと、お風呂にも入らないのに手を洗うと
そのことがまたお父さんの尺に触るというか
肝に触るんでしょうけれども
日記に書いてあったぐらいですからね。
お風呂に全く入りもしないのに手だけは洗うと
でもそのお父さんは全く同じようなことをやるんですよ。
この辺が東映同意を使ってすごい考えさせられるというか
非常に良い言葉だというか良い概念なんですが
お父さんのやってることも全く同じで
お父さんをひた隠しに隠すと
誰からもこのことを分かられてはいけない
とても恥ずかしいって言うんですね。
どうして恥ずかしいのかという問いはないんですよ、そこには。
なぜ手を洗うのかという問いがないのと同じでね。
汚いものがないはずなのに
汚いというのは心の中にあるものですから
手をいくら水で洗っても取れないんですけれども
自分がうまくいっていないというのの原因が
自分と世界、現実の間にあるわけじゃないですか。
何かがうまくいっていない
特に手っていうのはすごくいろんな意味で象徴的ですよね。
外部と一番接触するから、人間にとっては。
ここが自分の側に何か問題があるって思うっていうのは
非常によく見られる現象ですけれども
お父さんも全く同じで
床屋に行くのもつらいと
床屋に行くのがつらいというのと
子供がお風呂に入れないというのが
どうして全然結びつかないのか不思議なぐらいですけど
なんで床屋に行くのがつらいかというと
息子さんのことを聞かれるかもしれないから
全然そういう観点で見る必要はないはずなんだけど
30:02
息子のことをやっぱり聞かれてつらい
もう相手が完全に全部把握しているかのごとくですよね。
家の中のことなんだから
これは民生委員の人も福祉の人もみんな言ってたんですけど
完全にこっちから見えなくて
SOSの一つも発されないと
入っていきようがないんだってみんな言うんですけど
そういう観点ではないんですよね
お父さんには全部見えていると思っているので
これを全部隠しておかないと
すごい恥ずかしいということになるわけですよ
だから床屋にも行けないという話になっている
このお父さんは精神力があるので
床屋には行くんだけど
つらいんですよ。床屋に行く程度のことでも
だから誰にも相談しないわけですね
できないですよね、相談ということが
全部自分の力でやらなければいけないから
ここがこのうちの一つのエリプスだし
ルールなんですね
全部自分の力でやらなければいけないと
独り立ちをすごく意味していると思うんですよ
母子の一体から何とかして離脱しなければいけないと
だけれども独り立ちできないんですよね、新一さんが
なぜならば大学に受からなかったからと
全部こういう風になっているんですよね
ルールがあるわけです
大学に受かって初めて独り立ちというものができるんですよ
息子さんがどうだったのか
2番目の息子さんがどうだったのかというのは
全然見えてこないというのも
これ長男だからなんでしょうね
全部こういう風なルールが決まってしまっていて
そのルールに一回外れるということは
壊滅的なダメージを食らうと
そういう風には誰も言っているわけではないし
このお父さんもそういう風に日記に書いているわけではないんですけれども
紛れもなくそういう風に自分の力でやらなければいけないんだ
という風に最後の最後まで
80代になってもかな
そういう風に言って亡くなっていくんですけど
全くそういうままなんですよね、息子さんも
その役所の人が来て
このままだったら死んじゃうから
せめて病院に一緒に行きましょうと言うんですけど
受け付けられないんですよ
自分の力で病院に行かないとダメなんですって言うわけですよ
そして倒れているところを発見されるという流れなんですけれども
要するに人に病院に突き刺ってもらうようであっては
生きていけない
だからそれだったらパンだけ食べて死んでしまったほうがいいと
そういうある種の価値観というものが
こうやって最後の最後まで追っていくんですよね
で、でなんですよ
でっていうのはすげえ遠回りしている縁に
理解に苦しむ展開ですけど
で、私が思ったのはタスク集団なんですよ
あれは私はこういう使い方としてはダメだと思うんですよね
33:00
つくづく思ったんです
明るい家庭を築きましょうというミッションを立てて
明るい家庭の方を良しとしちゃいけないと思うんですよね
みんなが自立している
自立しているのは良いことでしょうけれども
みんなが自立していることを良しとして
自立できなければ死んだほうがマシだというのはやっぱおかしいわけですよね
タスク集団っていうのは書いたことの方が良しとするって言うわけじゃないですか
皆さん書いた通りにできないんですって
ここで書いた通りの方が良いと思っちゃダメだと思うんですよ
その先に待っているのはああいうこと
もうよっぽど極端ですよあれは
でもあれはリアルに怒っちゃったことですから
怒らなくて良いことじゃないですか
今の話のどこを取ったって
別に大学に何回も出牌する人って世の中にいっぱいいますよね
家に缶詰届けてくれてるのに
それに一切手をつけないっていうことを起こさなくてもいいわけですよね
なんで自分の頭の中にある現実通りに生きられないと
現実そのものをダメにしなければいけないのかっていう
そこに必然性はないはずなのに
こうしなければダメだと
こういうのこれができずにでもノーノーとしてるのは甘えであると
これ多くの人が信じてますよね
この日記にもお父さんはこのまんまのようなことを書いてます
甘えであると
甘えが悪になってんなと私は聞いてて思ったわけですけれども
そういうことですよね
甘えられないと
でもこの話最後の最後は結局
家がゴミ屋敷のようになってるのが
なんとかしてくれという苦情が近所から来ているから
役所の人はそこを知ることができたわけですよ
甘えられないという人っていうのは
結局自分がなくなっていくんですよね
これは私には
少なくとも30年生きていれば
だんだん痛感させられるし
そこで相当突っ跳ねても40年生きていれば
実感としてくるとは思うんだけど
やっぱり成功体験が一方にあって
自力で成功したっていう
それはイリュージョンなんですが
思いがあると
80年かけても
他者に甘えることができないという状態ってあるんだなと
あれはそういうことだなと
それを家庭中に
押しつけてはいないから
押しつけられているような意識は当然あると思うんですけど
押しつけているとも言えないから
漂わせているとしかいいよ
電波させている感じくらいですかね
だから東映ドイツカーで説明するのが一番いいなとは思うんですけど
コミュニケートしちゃってるみたいな感じですかね
全体的に罪悪感が常にコミュニケートされ続けている
36:02
そして増幅していく
これが一番僕が不思議だなと思うのは
ここのどこにも正義はないだろうって思うんですよね
どこかに甘えていると
自分が甘えるように人に迷惑をかけるというのは
不正義だっていう感じがありますよね
甘やかすとつけあがるっていうやつですけれども
これをどうしていい人は言えるんだろうなって
昨日もつくづく思ったわけですよ
やっぱり最後にはナレーションでも
これもどうかとも思うんだけど
カタクナだって言われるわけですよね
カタクナに真一さんは拒否したって言うんですよ
カタクナなのはルールの方であって
彼が別にカタクナなわけではないはずなんですよね
でも他人から見ればそれは同じことですから
彼はカタクナにパンしか食べないわけですよね
人はカタクナさで亡くなって生きうるんだっていう
テーマであるとすれば
これでどうして甘えは悪であるになってしまうんだろうと
どうして虎さんだったらいいんでしょうね
別の言い方をするならば