1. グッドモーニングボイス
  2. どうしてライフハックでメンタ..
罪悪感は終着点。
00:04
おはようございます。グッドモーニングボイスです。 1月16日火曜日の朝8時51分ですね。
昨日は人に会う約束がありまして、どうしても時間が確保できなかったんですね。
帰ってきてからやろうと思ったんだけど、帰ってきてから思いのぼくは猛烈に忙しくて、結局難しかったので、
今日に至りました。もう分かってきたんですけど、落とすということはつまり今日になっちゃうということなんですよね。
今日にならないんだったら何が何でも一応やるという、平日はね、そういうつもりでおりますけれども。
っていうのも、最近なんかポッドキャスト界隈が急速にこう、僕の聞いている範囲内の界隈ですけどね、
急速にポストされなくなってきて、なんかこう意外とポッドキャストはいけるっていう話があったけど、いけてないなっていうのをね、
これね、やっぱりこう、なんていうんですかね、自発的に動き出すんですよね、このメディアが盛り上がる時というのは。
ボイシーとかはまた別かもしれませんが、ここはちょっと今はなかなか簡単じゃないなと。
でもすっごいいけてるところはいけてるんで、これはどのメディアでも同じですけどね。
私のところは大体ちょっとこう、なんていうのがあれば、おかみたいになってきて平坦感があるなっていう感じはあります。
でも私の場合はこの内容で100名の方がほぼ100名なんですよね。
毎日聞いてくださるんなら、もうこれはおんのじと言えると思うので。
この流れでしばらくはやっていこうと思っています。
またね、周りの人が誰もいなくなったみたいな時は改めて考えればいいかなと思っていたりします。
あと、YouTubeか。
YouTubeだと、それはそれでいいんでしょうけど、私だと結局生死がに等しい。
なんか僕の顔をとりあえず撮っとけばいいやみたいになるじゃないですか。
だからといって、スライドまで用意しだすと、ほとんどセミナーと何ら変わらなくて、
これを毎日のように動画で配信して、かつセミナーも別途料金とってやりますみたいなことをやると、
自分の中でもややこしくなってきますんで、まだちょっとね、得て不得てということもありますが、
YouTubeはちょっとまだ検討せずにおります。
それだったらノートに書いた方がマシなんじゃないかと思うんですけどね。
もはや今テキストを無料で読むっていう時代としては、かなり厳しいものを感じますけどね。
毎日なぜかノートも書いてるんですけどね。
昨日は書けませんでしたね。
あれはほとんど完全に趣味なんで、僕が面白いなと思ってる本をつらつら書いていくという。
ついでに文章収容的な意味もちょっとあってつらつら書くみたいな。
03:01
多分本書くので忙しくなると止まるだろうなって感じもするんですが、そんな感じです。
証拠にもなく今日もお告知しますけど、トラケンですね。
東京オライハッケリ9回、間もなく今週土曜です。
ようやく少しずつ申し込みいただいてますけれども、多分これはよほどテーマ性があってないんだろうというのはあります。
ありますけど、こういうのをものすごく告知して、ものすごく頑張って、
ものすごく人来なくてっていうと、すごい情けない感じに思われると思うんですけど、
ここをあんまり気にしなくなると、割とこういうのは楽にやってられるんだというのをだんだん最近慣れてきたので、
全部それじゃまずいんですけど、幸い全部がそうではないので、
うまくいかないことがあるのはいたしかたないかなと思ってます。
今日この話も少し絡むんですけれども、
結局突き詰めて言うと、このみっともないとか情けないっていうのも罪悪感なわけですよね。
倉園慶三さんがですね、Good Vibesでよくおっしゃってるように、
罪悪感というものは、まあ人が作ったものですよ。
その後に罰が来るのが嫌だというわけなんだけれども、
いずれにしても罪悪感というものの一つの特徴としてはですね、
そこで生き延ばるということがあると思うんですよね。
罪悪感というのは終点なんですよね。
これをやってはいけない、なぜなのかというのは問われないんですよね。
問うだけでも罪を増すような感触を与えてくる。
だからなぜこれがみっともないのっていうと、なんか開き取ってるみたいに聞こえちゃうじゃないですか。
罪悪感を持って本人がいなければ、この問いは素朴なものになるんですけれども、
この問いがですね、罪悪感という文脈では決して素朴なものにはならないんですよね。
反論みたいになってしまう。
こうやってると本題に入ってしまうので、本題に入る前に告知を終わらせますけれども。
というようなことも含めて、東京ライファー研究会で今週の土曜日に、
現在、お申込み3名、懇親会は1名という状態ですが、
懇親会に1名にゲスト4名ぐらい入ってくると、何の会だかよくわからない会になっちゃうわけですが、
ここはね、もうちょっと増やして頑張ろうっていう、
もうちょっと増やすって、たとえ3倍になっても懇親会3名、参加者9名とかいう世界ですけど、
まあでもね、そういう調子なんで、
こういう話に興味があったら、つまりこれどういう話かと言いますと、
いや、これ中身についての話をこれからしていこうと思っておりますので、
06:04
興味あったら告知図の方からね、
これ告知図だというところもまたミソだなと最近思い始めたんですけれども、
告知図の方からね、申し込みいただければ、
もし告知図から申し込むのがどうもうまくいかないという方は、
僕にダイレクトメッセージを送っていただければ、
主催者の方に連絡して代理登録というのができますんで、
もうここまで言ってるっていうことはもうあれなわけですよ、
懇願に近い状態なわけですね、もはやPRの動向しているんで、
でもまあ本当はね、もっとガンガンやってもいいんじゃないかと思うんですけれども、
でもそれなりに僕今忙しくなってるんで忘れるんですよね、
いろいろとガンガンやるのはガンガンやるので、
あと朝晩めちゃくちゃ寒いんで、
書斎で仕事をしていると手がこう震えてくるという、
これもちょっと何とかしなければいけないんだけど、
今本当に今喋ってて思うんですけど、
あちこち手が回ってないなという感じなんですね。
まあいいや、とりあえずそんなところでございます。
よろしくお願いします。
それで、そして今日の本題なんですけど、
さっきの話の延長線です。
つまり罪悪感というものはですね、
昨日早々ランチ、ある方とランチしていて、
つくづく思ったんですよ。
罪悪感は行き止まりなんですね、最果てなんです。
最終目的地っていうのはおかしいけれども、
最終地点なんですよね。
ここから先の問いがなくなってしまう。
罪悪感というものを何だろうな、
意識させるようなことをしでかしてしまう。
しでかすっていう言葉があるじゃないですか。
やらかすとかね。
ここに罪悪感というものがあるわけですよ。
ここから先はいけないんですね。
なぜそれがいけないんだっていう問いが立たなくなってしまう。
つまり本当にそれは悪いことなんだろうかっていう、
この先への問いがないんですね。
ない人にとっては。
つまりそれがないっていう人にとっての何かが罪悪感だと、
罪だってことなわけですよ。
例えばお金を無駄にする。
これも人によるじゃないですか。
これが罪なのかどうなのか。
お金を盗むとかじゃないですよ。
それは社会的に罪だってされてるんだから、
とりあえずそういうふうに考えておくしかないわけですよ。
俺はそうは考えないといっても、
こればっかりはちょっと通らない。
でもお金を無駄にするっていうのは、
これは罪かっていう問いは実は立つと思うんですよね。
それは悪いことなんですかっていう問いは、
素朴に立てていいはずなんですよ。
ところがある種の人にとっては、
これが反語になってしまうんですよ。
それのどこが悪いのっていうのを、
批判されてるみたいに感じるわけですよね。
つまりそれはここに、
罪だと判定する犯者、
犯者はつまり僕はそれを超自我と呼んでいるわけですが、
僕がそう呼んでるわけじゃありませんが、
この超自我というものが、
それは罪だと判定したら、
09:00
その人にとって、
その超自我を抱えている人にとって、
だいたいその超自我を、
その本人は無意識の中ですいてますから、
その超自我とその人は無意識の中で一体化しつつありますから、
しつつあるっていうのは、
一体化はできないってことなんですよ。
私超自我ですって、おかしいからね。
私は自我ですからね。
罪ですっていうふうに、
心の中の恥かしい超自我が無意識に言ってる以上、
それは罪なわけですね。
ここから先の問いはもう、
問い返されたら腹を立てるしかないっていう、
だからここは、
いわゆるPSポジションなんです。
この番組でいわゆるっていうのは通るかもしれないけど、
外では通らないですね。
妄想分裂ポジションっていうのはそういうことなんだと思うんですよね。
これを言われると問答無用で腹が立つ。
これを言われれば問答無用で喧嘩するしかない。
喧嘩しないまでも怒りをこらえるしかないっていう、
そういうポジションなわけですね。
これに対して理性的な議論は成り立たないってことです。
例えば時間を無駄にするとか、
時間を奪われたとかね、
そういう時に人によるんですよ、これも。
時間ちょっとぐらい無くなったから何なの?みたいな人もいるわけ。
そういう人にとって時間を失うというのは罪ではない。
だけど時間を無駄にするというのは、
罪な人にとってはもう絶対あってはいけないことだから、
お前が俺の時間を無駄にしやがってっていきなり怒っていいっていう、
これはつまり自分がそのように判断する長寿がと、
一体化しつつある人にとってそういうことになるんだと思うんですよね。
だからそこにさらに問いを畳みかけてきたら、
これは喧嘩になるしかないわけですよ。
時間を無駄にして何がいけないのっていうのは、
人的態度でしかなくて疑問ではないっていうことなわけですね。
この辺まではまだ、やっぱり人によるんだよね。
すごくこれは人によると思う。
だからやっぱりすごく長寿が的だと思うんですよね。
犯罪ってのはこうではないですからね。
もちろんそれは文化的な長寿がっていえばそうなのかもしれないけど、
お金を盗むってのは時間を奪われたって話とは全然違うじゃないですか。
被害額1億円ですとかになってくると、
これは何か違いますよね。
被害時間2時間ですとかとは全然違うと思うんですよ。
被害時間は例えば20時間だとしても20年だとしても、
それによって逮捕されるってことは絶対ないわけですよ。
だからこれは人によるんですよね、やっぱりね。
もうちょっと先にいくと、
例えば白い目で見られるようなことをしでかしたとかね。
こうなってくると多くの人の長寿が反応します。
これに対してそれは悪いことなんですかっていう問いを立てると、
かなり挑戦的態度だと思う人多いじゃないですか。
でもこれは素朴な疑問でもあり得るわけですよ。
別に人に白い目で見られたって、それ本当にいけないのか、
それによって何か本当に深刻に困ったことになるかというと、
12:03
ならないって人にとってはならないと思うんですね。
ところがなるって人にとっては、
いやもうこれは死んだ方がいいかもしれないぐらいなところまでいくわけですよ。
それぐらい個人差が発生しがちなものなんですね。
つまりそれが罪だと思うか思わないか。
グラデーションに近いものもあると思うんですよ。
いや、白い目で見られるのはあんまり好ましくはないよねぐらいの人もいれば、
ほぼ全く気にしないという人もいれば、
死にたくなるみたいな人もいるし、
少なくともそこにはもう行くことができないとか、
そのコミュニティーとかね。
これはやっぱり略差がある。
というのは多分、
そう判定する長寿がとどの程度同一化しつつあるのかによって決まる。
そういう長寿が自分の中にいますっていうのと、
その長寿がそのものに近いところに私はいるんですっていうのとでは違う。
これがだからこそ時間とかお金とか、
もちろんその人の時間的余裕とかお金の余裕とかにも、
すっごく左右はされると思います。
ただ結構お金持ちでも、
一円でも無駄にしてはならないっていう、
つまり長寿がと同一化しかけている人と、
割とお金に困っている割には、
お金なんか別に運万円無駄にしても気にしませんけどみたいな人も結構いますよね。
でもその人が、
お金がなんていうのかな、
目の前でどんどん灰になっていっても構わないかというと、
そんなことないと思うんですよ。
それが長寿がかどうかはちょっとともかくとして、
ここには確かに個人差があるのは間違いないと思うんですね。
それで、
なんでこの個人差個人差言ってるかというと、
つまり長寿がとの距離だっていうふうに自分は思っているわけですけれども、
これはGood Vibesでクラウドンさんがよくおっしゃる通り、
結局これは人が作ったものの違いはない。
だから非常に人ってことはつまり、
社会とか文化とか、
親、
学校とか、
会社、
昨日面白かったんですよね。
ある特定の問題が発生したとき、
それを悪いとみなすのは、
学校か会社かってのはやっぱり人によって意見が大きく割れるんだな。
会社だっていうケースと学校だっていうケースと、
もちろんどっちも十分あり得る。
例えば遅刻してはいけないって思ってる人が、
どっちの文脈ですごく気にしているかっていう場合のがあるわけですよね。
あるいは締め切りに間に合わないといっても、
やっぱり真っ先にまず宿題みたいなものっていうケースと、
明らかにそれはプロジェクトっていう場合とあるわけですよ。
だからそれはどっちで厳しい思いをしたかってこともあるでしょうし、
やっぱりどっちにリアリティを感じるかってことなんだと思うんですよね。
宿題を忘れるっていうのがすごく現実社会としていけないことだって思う人と、
宿題は全然構わないけどプロジェクトが遅滞するのは1秒だって許されないみたいに思う人と、
やっぱり現実感の問題としてあるんだと思うんですよ。
本社の人はやっぱり仕事とかお金っていうものがすごく大事だろうし、
15:03
前者の学校を気にするって人はどちらかというと規範とか教育目的みたいなもの。
だからこれどっちにリアリティを感じるかで全然考え方変わってくるじゃないですか。
これもすごく長自画との距離ってものがどっちもあるとは思うんですよね、やっぱりね。
だけどやっぱり長自画との距離ってものが、そしてその長自画の性質ってものによって、
我々はそれをどう感じるかが変わってくる。
どういうふうにそれを重んじるかが変わってくるといったところだと思うんですよ。
礼節みたいなのってあるじゃないですか、礼儀とかね。
すごい気にする人とほぼ気にしない人って相当わかりますよね。
中国なんかでは、古代中国なんかである時期を境に急速に長自画が礼節に猛烈に向かうっていう時代があって、
あれが儒教というものがあの国を一面包んでいくみたいな話。
最近その辺の話を読んでるんですけど、それ以前はそうでもなかったみたいなことがあるんですよ。
だから人間が作ったものなんですよね、こういったもの。
で、ちょっと虎剣の話になるわけです。
私は、まあみっともなかろうが、情けなかろうが、これはやっていくし、
ほとんやろうって今思っているわけなんだけれども、どうしてなんだろうと疑問に思われる。
これは素朴にね。
なんでそんなことをやるのっていうよりは素朴に疑問を持たれるかもしれないので。
ていうか僕自身が素朴に時々疑問を持つんで考えたんですよ。
で、タスク管理なりダスクシュートなりっていうのは結局心の問題ではないんですね。
で、最近面白い逆転現象みたいなものがあるなと思ったんだけれども、
心の問題を盛んに扱う人たちが、いや心ばっかり扱ってるのはどうかと思うよみたいな話をするんですよ。
東方カイトさんとかがその割と急先方的なところあるんだけど、
でも彼は心の話ばっかりしてますけどね。
今度トラケに来ていただくゲストの山崎隆明さんも割と今そっち系の話してるなって思うんですよ。
つまりそれをある程度社会問題として扱う。
この2つはいつもあるんですね。
例えば親に子を育てられました。
心が苦しいですって時、心の治療に向かうとすると、
それはもう完全にメンタルを扱ってるわけですが、
いやいやそれは親がいけないんだからっていう風に考えて、
やっぱり育て方みたいな方とか、
教育システムみたいな方に向かっていくっていう考え方もあります。
男女平等とか、会社のコンプライアンスとパワハラの問題みたいなのも、
結局心の問題として扱うケースと、
それを現実の、実のっていうのもおかしいんだけど、
心も現実なんだと思うんですけどね。
でも社会の問題として扱うケースとに、
どっちを扱うかって、
これも結局どっちにリアリティを見るかってことだと思いますが、
18:03
よくメンタルの問題ってした時、
それは当人の責任にされてしまうじゃないか、
みたいな議論があるわけです。
これはでもですね、
私は実際にその問題に取り組んで格闘してみてよく思うのは、
どっちの責任の話では結局は全然ないなと。
振りかかる前は心の問題とか、
あなたの心を何とかしましょうみたいなのは、
いかにも当人の責任にされてる感じがして、
だから気に食わないってところがあるわけですよ。
この自己啓発的な話にはね。
いつもその問題が最初にまず振りかかってくるんだけど、
いざ取り組んでみると、
どっちの問題にしてみたところで、
結局はある意味ではですね、
責任は当人の責任としてのしかかってこざるを得なくなっているじゃんって思うんですよ。
例えば親子問題という問題としてそれを扱う。
つまり問題は親にありましたということね。
仮にしたとしても、
じゃあその親を呼んできて、
これからちょっとその親を説教しましょうみたいなことをしたとしても、
その問題は解決しないと思うんですよね。
そしてそれができないケースの方が普通だし、
言ってしまうとですね、
親御さんがすでに現実にこの世にいらっしゃらないとか、
いらっしゃったとしても、
アクセスは難しいっていうケースの方が大半だと思うんですよ。
親を結局こういう子育てをされて、
私はひどい目に遭ったから、
その親を連れてきてちょっと戒心させたとしてもですね、
その人の育てられた方そのものが、
過去に戻って修正されるっていうわけじゃないので、
やっぱりこの問題はどっちに向かっても、
心に向かっても、関係性に向かっても、
システムに向かっても、
ある意味では問題を抱えているというか、
苦しんでいる当事者の方向として、
苦しんでいる当事者が軸になってですね、
その人を中心に検討してみるということに違いはない気がします。
だから被害と加害に分けて、
加害者に責任を取らせようという話になったとしてもですね、
仮にそうしたとしても、
事態は同じ方向を向いているかな、
あとはどこに手を入れていくかだという感じがするんですよね。
心の問題というふうに捉えるという場合と、
これだから問題と言わなきゃいいのかもしれないけど、
それはあくまでも言葉の上の話になるんですよね。
心の問題という話にしてみたところで、
関係の問題だから、
例えば賠償金をもらうみたいにしたとしてもですね、
でも依然として心は多分苦しいと思うんですよ。
その賠償金を仮に親にもらったとして、払ってもらったとしてですね、
そのお金を使ってカウンセリングをしましょうということになると、
21:00
話は元に戻っているじゃないですか。
でもそうもならないんだけど、実際は。
でもそういうような話に近くなっていくかなと思うんです。
だからどっちに向かったとしても最終的には、
最初から最後まで当事者の問題という部分は
抜くことができないだろうなと。
これはですね、ここでついでにちょっとだけ言ってしまうと、
つまりそれが現実原則って話だよねって思うんですよ。
ここも同じなんですよね。
罪と罰っていう観点を取るというのは、
快楽原則なんですよ。
どっちが悪いかって話をしている。
この快楽原則っていうのは面白いことはね、
基本的に快、つまり心地良いさっていうのを大事にする。
つまり親がひどい目に合わせたとか、心地良くないですよね。
つまり心地良くない、不愉快であることが悪であるっていう話が快楽原則なんですよ。
でも我々は現実原則に来ざるを得ないんですね。
それが地震とか事故とかそういう時に現れる。
地震とか事故を何かの罰だって考え方を取る人いらっしゃいますよね。
常にいらっしゃる。天罰みたいなね。
でもこの考え方はやっぱりあくまでも快楽原則に基づいていると思うんですよね。
不愉快なことは悪であるって考え方ですよね。
でも現実は僕はいわゆる科学的とか合理的って話になるんだけど、
そうではないと思うんですよね。
現実原則というのはつまり世の中というか、
現実っていうのは必ずしも我々にとって都合よくは作られていない。
地震というのは別に罰で起こるわけじゃなくて、
地殻変動というものがある以上、地震というのは起こるものなわけじゃないですか。
日本じゃなくて。
だから地震は罰で起こるわけじゃないから、
つまりそういうことは受ける。
こっち側は受けるってことになって、
それに対して我々ができることは、
そういう不愉快なことを一切現実から除去する点ではなく、
やっぱり対応するしかないと思うんですよ。
この対応ってのが、相手が親とかだった場合、
理不尽だって話になってるわけじゃないですか。
でもやっぱりあくまでもそれは快楽原則、
つまり快楽原則が悪いって話ではないんですよ。
我々は最初快楽原則を背負って成長してくるんだけど、
どうしてもどっかで現実原則というものにシフトしていかなきゃならないよねって話を、
大まかにカウンセリングとか精神分析とかそういうところでもしているし、
僕は結局世の中全域で大体そういう話はしているよねって感じはします。
つまりどんな親に、親ガチャとかって言いますよね。
どんな親の下で生まれるかは分からないわけですよね。
快楽原則で見ればこれは不愉快なことなんですよ。
どう考えたって。
愉快な親の下に生まれるほうがいいですよね。
快楽原則的に考えれば。
でも快楽原則というのは人は快楽原則を軸に生きて苦しむんですよ。
24:01
快があれば不快があるんで。
そして問題は不快な時にしか起きないわけですから。
だから常に快楽原則という生き方にはかなりの不快感と苦痛が付きものになる。
ここで考えるっていうのを導入して、
現実原則にシフトする。
少なくともなんだろうな。
シフトできるようになるって感じかな。
快楽原則を捨ててるっていうのではないんですけど。
シフトはできるようになるっていう必要はあると思うんですよね。
やっぱり地震が来た時に、なぜ来るんだっていう話だけでは済まされないので。
だから皆さんも私たちもみんなそうですが、一生懸命対応するという。
私も東北震災の時に対応することになりましたけど、あれが愉快なはずはないですよね。
ただ対応できるってことが大事だという話だと思うんですよね。
快楽原則だけで生きている人、人ってのはつまり子供ってことですけど、赤ちゃんってことですけど、
対応できないからこそ快楽原則だけで頑張るわけですよ。
泣くとか、その辺で頑張るわけです。
自分にできることをするって点では変わらないんですけど。
そこに現実原則もあるわけですけど。
ちょっとこう話がぐるっと回ってしまってるんだけど、
トラケンの話に行きたいわけですよ、私としては。
タスク集となり、もっとこの話はですね、つまりもう少し規模は小さいっていう話なんです。
快楽原則と現実原則ってことを考えた時に、
ライフハックっていうふうに対応するというのは当然現実原則側です。
これはだから愉快になるためにやってるわけじゃないよっていうことなんですよ。
現実に対応するためにライフハックってものはやるわけです。
で、当然やれるっていう前提があるんですよ。
ここが大事。
タスク集ととかも、だからそうなんですよ。
このタスク集とのツールを使う時に、
実は快不快をそこに持ち込むっていうのはあんまり筋として良くないんですよね。
あるんだけれども、もちろんあるんだけれども、
例えばタスク集とか動きが鈍いとかいうのは、
本当は僕はそれはタスク集とに対する批判に違いはないんだけど、
ちょっと筋が少しずれてるってよく思うわけです。
大事なのはタスク集とってのは、ライフハック全部そうですが、
現実に対応するために存在しているのであって、
これによって愉快な気持ち、快というものを実現するとか、
気持ちよく人生を過ごすとか、
そういう目的ではもともとないと思うんですよね。
そういう意味では災害グッズとかに似てるので、
災害グッズで愉快にやろうというのはおかしいじゃないですか。
災害グッズというのは、ある種の現実、
どちらかというとシビアな現実に対応するために用意するものであって、
快適に暮らすためのものではないような気がするわけですよ。
飲みに行くのと災害グッズを用意するのは全然話が違いますよね。
27:03
そういうことです。
だからライフハックというのはどっちかというと災害グッズに近いものなんですよ。
だからこれ使っていると不快なんだけどというのは、
話のスポンス次からはずれている気がするわけです。
で、うまくいくケースでは、
私はライフハックでは社会問題というのかな、
現実問題として扱っておけばいいと思うんですよ。
例えば上司が何度も何度も割り込んできますというときには、
その記録を取りましょうという話をしとけば、
原則いいと思うんですよね。
いろいろな朝用意するのに時間がかかって、
遅刻して困りますって言うんだったら、
朝のルーティンみたいなのを組んで、
これを最低限の時間にしましょう。
これでいいと思う、本当は。
ここにメンタルは介在する余地がどこにもないってことです。
だからさっき僕が言ったのは、
遠肌さんとか山崎さんはメンタルの世界で、
もっともっと社会問題というものを大事にしようみたいな、
会社のコンプライアンスとか、残業時間を短くするとか、
これメンタルじゃない方に切り込んでますよね。
問題はメンタルから来てるんだけど。
僕ら逆でいいと思うんですよ。
メンタルは問題にせずに最初からね。
ところがここでも僕はねじれが起こるなってよく思ってる。
僕がやってることはまさにそういうねじれなんですよね。
ライフハックの世界にメンタルを持ち込み始めていく。
つまりメンタルハックとかマインドハックって、
昔言ってましたけど、そういうことなんですよ。
本当はそうやって、
残業時間とか言っておけばいいはずだったんだけれども、
つらいですとか、タスクしようとやってると、
むしろ不安になるんですって話が始まったとき。
本当はそれは突っ跳ねてしまっても良いわけですよ。
ここはライフハックなのであって、
メンタルを話題にしてはいないんですって言ってしまえば、
こと足りる部分があるわけですよ。
そういうメンタルの方で本当に困っている、
お困りであれば、
それはメンタルの先生のところに相談してくださいって言って、
山崎さんの話とかをすればいいのかもしれないんですよ。
ここがねじれたわけですね。
しばしばこういうことは起こります、当然ね。
何でかっていうと、どっちの問題でもあるからってことなんですね。
メンタルの問題を問題にしてるときは僕はですね、
世の中に問題があろうと、
つまり残業が長いとかは会社に問題があるのかもしれないし、
会社の売上の問題が問題なのかもしれない。
そういうことは多々あると思うんですが、
あるいは親子関係って言ったら、
やっぱり育て方に問題があったのかもしれないんだけど、
一旦メンタルにフォーカスを当てることに決めたならば、
そこを一旦棚上げにしないとどうにもならないと思うんですよね。
なぜ私は親にひどい目に合わされたのに、
自分でお金を払って、
大金を払って時間もかけてカウンセリングを受けなきゃならないんだっていうことを
言い始めると始まることができないんですよね。
そして結局、
さっきも言いましたが、
30:00
親側にアプローチするとしてもですね、
こっちで手間暇かけていることに違いはないと思うんですよ。
勝手に親が自動的にというのかな、
何もこっちは働きかけしなかったけれども、
親の方で会心して心が済むまで私を下げ済んでくださいみたいなことは
言い出さないと思うんですよ。
これが唯一の解決策だとすると、
リアリティがない感じがやっぱりするんですよ。
どうしてもね。
そこは理不尽だと思われるのかもしれないんですけど、
僕らは現実原則というのは、
快楽原則から見れば理不尽なんですよ、
という話がしたかったんですね、さっき。
自信が狂って理不尽なんですよ。
快か不快かっていったら不快に決まっていますよね。
望ましいか望ましくないかっていったら
望ましくないに決まっているんですよ。
病気だって同じですよね。
なきゃないに越したことはないわけですよ、新型コロナの。
コロナが新しくなるべき理由なんて我々は持ってないわけです。
でも現実っていうのは、
ウイルスっていうのは変異するものだから、
そういうことは起こりちゃうわけですよね。
これが現実原則。
自信だとしても、対応するより他はないと。
だからこういう対応するということができるようになるためには、
快楽原則からはシフトしなければならないですよね、
という話で、
一旦シフトすると決めてしまった以上は、
そしてそれをライフハックなりで解決するなら、
ライフハックで解決しようとしたらいいわけです。
そのときにタスクシュートの使い心地とか、
見た目とかっていうのは、
私はすごく離れちゃった感じがするんですよね。
現実原則で対応することにしたわけだから、
そこはもう快楽という、
自分が心地いいかどうか、
使ってて気分いいかどうかって部分は、
どうしてもライフハック系とかツール系は、
そこが話題の重心になりがちですが、
そこは二の次だっていうふうに自分はよく思います。
iPhoneの手触りとかは、
良い方が良いでしょうけれども、
ちょっと手触りが気に入らないとか、
ツルツルして落としそうだっていうのは、
落とさないように頑張りましょうねっていう、
ストラップつけるとかなんかしてですね。
つまり現実的に対応しましょうねと。
なぜならそれは、現実原則の話をしているはずですからね。
もちろんiPhoneは、
いや私は快楽のためにiPhoneを買ってるんで、
まあ同じことなんだけど、
つまり触っていてツルツルしていて、
持っているだけで心地いいっていう話が全てであれば、
それだったら別ですよ。
何か現実の問題に対応するためではない理由で、
iPhoneを持つというのであれば、
できるだけツルツルしているのが良ければ、
ツルツルしているのにした方がいいと思いますよね。
これはだからどっちで言ってるのかっていうのが、
33:00
一旦これが現実の問題に対応するために使うというのであれば、
見た目がExcelであろうと、
少々ギザギザしてようと、
そんなことをあんまりことさら話題にするところではないかな。
ここまでが前提ね。
ここから先が私がやっているねじれなんですよ。
とはいえ、とはいえなんですよ。
実際にタスクシュートをつけようとすると辛いですとか、
記録を取るのがどうだろうとか、
こんなに記録をいっぱい取るのが不愉快ですとか、
快楽原則に持ち込まれましたって時に、
私はじゃあもうそういう話になったら、
ここは現実原則というものを一旦脇に置いて、
あなたの問題は快楽原則なんですね、
っていうところからスタートしましょうと。
これがつまりメンタルです。
この快楽原則を持ち込まれましたって時に、
あなたの問題は快楽原則なんですね、
メンタルです。
この快楽原則と現実原則で盛んに言ってしまったので、
これを言ったのがフロイトです。
つまり、私たちは現実の問題に対応しなければいけない時に、
快か不快かを持ち出すというのは、
神経症水準の神経症側に近づいています。
ボーダーラインの方に近づいています。
ということなんです。
人間は愉快に生きていけないんですかって話は、
本当はここでは元々の筋からは合わないんだけど、
この話に入ったということは、
その人のメンタルは何らかの理由で
こじれて危機を迎えつつあるというふうに
考えてみることができるよねっていう話なんですよ。
専門家に持って行ってもいいんだけど、
ここで受け止めてもいいんじゃないでしょうかっていうのを
提案しているのが、
私がライファックの世界にメンタルを持ち込む。
ライファックの世界で心をわざわざ問題にするという話なんですよ。
きちんと切り分けて、
心は心の専門家に持って行けばいいじゃないですかっていうのを
割と1900、
2000年より以前から
2000年に少なくとも10年くらいまでは
確かにそうだったんですよ。
そういう趣旨があった。
今でもそういう趣旨は非常に勢力として強くありますが、
でも遠畑海斗さんとかが普通の相談とか
野野医者とか、
彼が書いているものはある意味全部そうなんですね。
いるのは辛いよとか書き始めた。
あれで言っていることは要するに、
結局は心の問題を心の専門家だけに預けるわけにはいってないよねって話なんですよ。
全部。
だから普通の相談ってものが起こるよね。
どの業界でも。
相談があらゆるところで当たり前のように行われる方が
多分心そのものにとっていいんじゃないでしょうかっていうあれは本ですから。
そうすると、
当然ラインハックの世界では
この問題は持ち込まれるわけです。
あとはどこまでやるかっていう話になるだろうなと。
36:00
非常に極左だか極右だかわかりませんけど、
左に寄ってくると
いや全部やろうよって話になるかもしれない。
仕事術のところで
どこまでも面倒をケアしていきましょうって話になるかもしれないし、
一番右かな。
一番右寄りになってきたら
いやいやもうメンタルは一切無視しようみたいになるのかもしれない。
でも大体僕らはその中間に入っていくしかないと思うんですよね。
手に負えそうだと思うところを
あとはもう
その人その人の感覚ですよね。
極力受け付けましょうってところから
極力ここでやるのはやめましょうってところまで
どっちにも一理あると思いますこれは。
私たちの世の中は近代社会なので
ややこしい問題ほど
専門家に任せるべきだっていうのはあります。
これも昨日お話になったんですけど
とはいえ絶対専門家だけに
預けるってわけにはいかないんですよ。
近代ってのはやっぱり
論理の社会でしかないので
そして論理的に考えても無理なんですよ。
三極絶対起こるんですね。
医者であるってのが一番分かりやすいと思います。
会社さんとか専門家のところ行きますよね絶対に。
常識的にそうですよね。
だってね、いや俺素人なんだけど結構やれるから
俺がドリルで穴開けてやるよみたいな。
ここは近代がすごく上手くいったところなんですよね。
でもそんな派の話でも
普通の相談をしますよね。
先日もグッドバイブスファクトリーで
虫歯の話はあれはないんだけど
虫歯がちょっと怖くてみたいなのを
倉園さんに相談していた。
倉園さんに虫歯の相談っていうのは
実は昔僕もやったことがあるんだけど
でも倉園さんはある意味虫歯の専門家でもありますから
なったほうので
この話が筋違いではない。
いずれにしてもこういう相談って夫婦間とかでも
絶対やるじゃないですか。つまり派の相談を
会社さんにだけするってこと。
これに得ないわけですよ。
医療ってのは近代が一番
近代的になった部分で病気のことなら
専門医者に相談しなさいってのはもう確実ですけど
確実にありますけどでも医者が
さじを投げるって言葉がありますよね。
でもさじ投げられたからって当事者は諦めるわけにいかないですよね。
普通の場合。医者がさじ投げたから
俺はもう自分の病気のことを完全に諦めたってわけにいかないんですよ。
つまり専門家ではないけれども
当事者というものはこの問題に関わっていくしかないですね。
もう一つあるんですよ。
医者と当事者は
相談に乗らざるを得ないわけです。
だから当事者の回ってあるわけですが
39:01
もう一つあるんです。宗教がそれですね。
ここに野の医者の集合体が出てくるんだけど
ライファクトもここに入ると僕は思うんですけど
第三者委員会なのか民間セクターと
尚方カイトさんは言うんだけど
いずれにしても宗教ってものは
坊さんが出てこなきゃならないわけですよ。
だってそうなりますよ。やっぱりね。
だからここは専門家ではないですよ。坊主はね。
でも登場してきます。
だから坊さんと宗教みたいなもの
宗教と宗教みたいなもの
絶対抜けないのが当事者。そして専門家なんですよ。
この3局はどの分野に行っても
僕は吐かせなくなると思います。
ライファクト的に言うとどうかなと思いますが
それでもやっぱりライファクト的に言うと
仕事術の専門家がライファクト。
仕事で困っている人って当事者は抜けないですよね。
絶対に仕事術の専門家であろうとなかろうと
困っていますって当事者がいなければ
この相談はそもそも意味がないものになるから
この仕事術の専門家と仕事で困っている人
そして野の医者がやっぱりいるわけですよ。
絶対そういう人の中には
本当に最近会社つらいわ占い師人のところに行こう
みたいになると不思議なことでは全然ない。
だからそういう宗教的なもの、専門家
最近で言うところの合理的な考えの専門家ね。
近代社会における専門家と
そして当事者です。
この3局はどの局も絶対にあると思います。
専門家だけで成立する世界ってないわけですよ。
だって病気の人がいないのに医者だけいると
医者って例えどれほど偉い人だとしても
やっぱり生きていけないじゃないですか。
つまり専門家がいるということは
当事者という素人はいるわけですよね。
そういう話なんだと自分は思います。
だからライフワークの世界にも普通の相談はあり
普通の相談の中にはメンタルの相談があり
その中には私のような左寄りだか右寄りだかは
知りませんけれども局があるわけです。
僕は局かどうかは知りませんけどね。
つまりここでメンタルを扱うほうが
いいんじゃないんだろうか。
それはメンタルの専門家がメンタルのことを扱うのは当然ですが
ここでも受け入れるっていう話があって
いいんじゃないかというものの延長線に
今回のトラケンの試みがあると。
こういうふうな理解で
非常に周り駆動多い説明ではあったかもしれませんが
こういう目論みで
自分はこの発動をやっていると。
そのまがきみたいで
告知しまくってみっともないっていうのは
そういう長寿がお持ちの方からすると
そういう苦々しさみたいなものを感じられるでしょう。
それは長寿がに罰される恐怖だと思います。
42:00
長寿がに罰される恐怖は
例えばこれがまだ3とか4だとか
僕の中ではできたとしても
0がずっと続いていたら
本当に恥ずかしいよねっていう人はいらっしゃる。
見ているだけで俺が恥ずかしくなるからやめてって感じになるかもしれない。
それは共感性周知とかっていう言葉を
最近の方は発明されてますが
そういう言い方をせずとも
その人の長寿がが
このみっともない
つまり罪というものをそこに見て
こういうものが世の中にあるだけで
世の中が罰される気がするぐらいなのが
その人の気持ちになるんだろうと思うんです。
この感情というのが
グッドバイブスでもよく話題になる
課題の一つなんだけれども
こういう感情というのは
お困りだというのであれば
この罪悪感のところに行き着いてしまったら
そこから先はなくなるんだという話を
最初の方でしましたけれども
この罪悪感というものが仕事する上でも
大いにネックになっていると
これはグッドバイブスでもそういう話はよく出てきますけれども
全く僕も同感で大いにネックになっていると思うんですね。
非常に邪魔だと
いうふうに思っています。
だからこのみっともないでも
バカだと思われるでも白い目で見られるでも
迷惑だと思われているとか
この会社からいなくなればいいのと思われているとか
そういった問題というのは
ライフハックの問題にすることもできます。
ある意味そういう方面からやっていらっしゃるのが
今回もう一人ゲストでエフタさんがいらっしゃいますけど
そのエフタさんと高梨さんという方が教書で書かれた本
要領が悪い人のための仕事述図鑑の中で
この問題に対して
あれはタスク管理になっていますけど
どちらかというとタスク管理の中でも
ステータスというのかな
例えばどっちの人がモールを持っているのかとか
誰が今それをやらなければいけないことになっているのかを
管理しながら
心の安心感を得るみたいな
すごくメンタルによっている部分が
メンタルのためのチェックリストみたいな話になっているわけですよね
そういうアプローチで書かれていて
この本が売れているとか
つまり僕はこれをですね
アプローチは現実の方に向かっているわけですよ
心には向かっていない
でも結果として心に良い作用を呼ぼすというのが
狙っているという点では
すごく僕がやっていることと
アプローチが逆になりつつあるけれども
近いなとは思うんですよね
だから今回フタさんも来ていただくという
45:02
形にはしてあるわけです
いずれにしてもここでは
すごく罪悪感が問題になっている
私は罪悪感をことさらに問題にしているというわけではないけれども
罪悪感も自分のこの
ターゲットの中には入れています
私はそこにはどっちかというと
タスクのステータスをどうするとか
把握するという話ではなくて
もうちょっと違うアプローチで
ダイレクトに向かうアプローチだからすごく
メンタルの専門家の方針に近づくんですけれども
だからこそ今回専門家を
お呼びするという流れにはしてあるんですけれども
基本的には長寿がですから
僕がターゲットにしたいのは
長寿がというのはつまり親ということですから
親を呼んでくるわけにはいかないので
親が心の中で暗躍している
つまりそれは過去を思い出すという話ではなくて
思い出させられてしまう過去みたいなものを
今の意識の中で
分析って言うんでしょうけど
ここで多分分析ではない気がするんですよね
分析はしてないような気がするんですよ
これを分析だと言われればそうなのかもしれないんだけど
自分が情けなかったり
惨めだったりみっともなかったりするというのは
自分がみっともなかったり情けなかったりした時の
気持ちを思い出しているんですよ
多分それは小さかった頃です
小さかった頃はしょうがないじゃないですか
うんちしちゃったみたいなそれはみっともないというか
親がどう言ったかによって定義されていくんですよね
そういうのを思い出すんですよ
理不尽な上司の罵声みたいなものによって思い出すんですよ
思い出しているのは現在なんですね
それのある種
情緒的な形でそれをどう捉え直せるか
という話なんだと思うんですね
その時に不快な思いをしないで済ませる
というわけにはいかないんだけれども
捉えようによってはこんなにひどい目にあったんだから
もうこの会社には来られない
という結論を出さずに済むようにはできる
そういう話に近いと思うんですよね
これはあくまでも実例はないですけど
あくまでもサンプルの僕の頭の中で今
デッチ上げた話に過ぎません
なんていうんですかね
修正浄土体験みたいな言い方もするんだけれども
この頭でどう捉えるかを変えるっていうのが
一歩目にはなるけれども
心がどうそれに反応するかは変えられる
っていう話なんですよ
私がなんで変えなきゃならないのかっていうのは
もう一番最初に話した通りです
48:01
地震はなぜ来るのかっていう問いと同じで
地震が始まるんだけれども
そこからもう一歩人は踏み出せるということです
地震に対応はできるし
人類っていうのは対応してきた
そうじゃなかったら多分生きてはいられない
全ての動物は対応してきているわけだから
私たちは対応することができるっていうのが
現実原則に向かう方向性なんだろうと思うんですよ
その時の対応の仕方というのが
必ずしもライフファックでなくていい
ということですかね
情緒的なと僕は言いたいんですけれども
情緒がどう対応していけるかっていうのが
いっちょい先ではある種の言葉を聞けばすぐ
っていうわけにはいかないんですけれども
時間をかければ十分できるし
そういう知見も
それなりには蓄積されてきています
というような話が今週の土曜日に
できればいいかなと思います
49:10

コメント

スクロール