1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 436】罪悪感を手放せばS..
2021-08-13 33:59

【GMV 436】罪悪感を手放せばSNSを、見なくなる

罰したくなる要素にあふれているところ
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
やるたびに思うんですが、何の結論も脳内にないんですよ。
なのに喋り出すから、ある意味ですね、ものすごいモヤっとしてるんですよ。
何の準備もせずに、研修とかで喋り始めるときっとこんな感じになるだろうなと思います。
でも最近思うんですが、それを言えばさすがに私もする勇気が湧きませんけど、
たぶんそうすると一番いい結果になりうるんだけど、そこを私は封じ込めてる感じっていうのは、昔からずっとありました。
結局頼む方も心配なんで、僕とかほら、いかなる経歴もしっかりしたものがない人間ですから、
こいつに頼んで大丈夫かっていうのは、どっかにありながら頼んでいらっしゃるんですよね。
すでにこのグッドモーニングボイスと似てるんですよ。
生煮えの半熟卵みたいな感じなんですよ。そこがいいんですけどね。
だってあれ、人気あるじゃないですか。ガチガチの卵とかっていうのもいいのかもしれないですけど、
ある意味、黄身までガッチリっていうのは必ずしも好かれないですよね。
こういうところで安倍とかバランスって話になっちゃうんですけど、僕はそれもダメだと思うんですよ。
この番組はバランスとかが一切ないと思うんですよね。
あるのはただ自分のグッドモーニングボイスを実践していて思ったこと。
他に何にもないのがこれが続く最大の理由だろうなと思います。
そのことと関連して思ったんですけど、
今日朝ファクトリーに上がってきたのがまさにグッドバイオスファクトリーという
私と倉園圭三さんで応援しているオンラインコミュニティで月額、初月無料なんですが、
月額を支払いいただくと、朝ですね、倉園さんが挙げてくださるんですよ。
今日のグッドバイオスというの。
これがこの番組とひどくシンクロすることがあって、
多分合わせてくださっているとかはないと思うんですね。
そのような余裕はこっちにも向こうにもない気がします。
私にも倉園さんにもない気がします。
合わせてくれるというかネタになっている時はあるかもしれないです。
今回が割とそうですけどね。
今日はそういうものがあり、月に1回、倉園さんが参加者の皆さんからの
お悩み相談を受け付けるという、しかもお悩みは常にポストできるというものなので、
しかも値段はかなりお手頃な感じがしますので、初月はしかも無料ですし、
よろしければ、体験は無料であるというのはどこから来たのかという議論を
03:07
昔大橋さんとしたことがあるんですけど、体験も1月はできるので、
よろしければどうぞという感じです。
今私は過境だなと自分は思っている。過境というか、
ここが1つのポイントだと思っている感覚を持っているんですが、
要はそれは罪悪感を手放すという、もうこれに尽きるんですよ。
罪悪感が手放せれば処罰感情が出てこなくなるというのがあって、
処罰感情を出したくないのは自分を罰したくないからです。
昨日ちょっと話しましたが、罰は必ず自多を又にかけるんですね。
これについて今日は細々としゃべっている余裕はないので、
またそのうちしゃべるのにぶち当たっていただければと思うんですけど、
過去のを聞いてほしいとかは僕はあまり思わないので、
そのうちこういう話をまた巡ってくるだろうみたいに思っています。
ただとにかく罰というのは自分と他人を同時に必ず罰するものなので、
私は自分を罰したくないんですよ。あれは非常に不愉快なんですよ。
罪悪感を持つというのは非常に不愉快なんですよ。
だから人は怒るんだと思うんですね。
こんな罪悪感を私に持たせやがってってことなんですよ、怒りってのは。
多分全部そうだと思うんですね。
この罪悪感を利用することで人をコントロールするという人が結構いらっしゃって、
絶対僕はこれは良くないとずっと思っています。
第一に人と自分を同時にかなり強く不快にするわけですね。
第二に思ったほど相手をコントロールできているわけじゃないんです。
これはそうすればコントロールできるイリュージョンが同時にその人の中で発令されるので、
現実が全く見えなくなるので、これでコントロールできた。
コストはあったがやむなしみたいに思うんですけど、
ちっともそうなっていないはずなんですよ。
せいぜい恨まれているぐらいなので、全然相手はコントロールされていないんですね。
このコントロールされているというのは、恨まれているというのは全然違う話だと思うんですね。
コントロールされているというのは、相手は逆襲はできないはずだし、
自分が思っている通りに動いている。
それはそうなっているかもしれませんけれども、
その後に何が起こるかのリスクは、
多分罰によって相手に罪悪感を持たせるということをした場合、
しなかった場合の100倍ぐらいリスクが増えているはずなんです。
これをリスクヘッジに使うというのはすごくおかしなことです。
ただ、これが世の中一般のモラルとして成立しちゃっている以上、
これに訴える人が後を絶たないのはしょうがないと思うんですよね。
このことを認識した場合は、多分やめる羽目になるんじゃないかなと思います。
06:05
それでも僕が妻や娘に依然としてやっちゃっているところからして、
これを根絶するのは並大抵のことではなくて、
なんで並大抵のことではないかというと、
人の心はエディプスというものを備えるようにできているからだって
フロイトが言ったのが僕は一番理にかなった説明だなと思っているから、
精神分析と重ねているんですね。
ただ、攻撃を封じるとか正しさを手放すというのは、
フロイトの言ったことの中よりはグッドバイブスで強く言われていることだし、
フロイトは必ずしもエディプスを手放すみたいなことは言わないわけですね。
なぜかというとそれは大変難しいだろうし、
しかもそれがほぼ不可能に近いレベルの人たちがお客さんだったから、
余計そういうことになったんだと思います。
まずそもそもエディプスを普通に機能させようねというところから始まるので、
私たちはみんな、これを少なくとも聞いているような方とか、
私もそうですが、みんなエディプスを既に普通に備えているんですよ。
そこから先の話なんですね。
エディプスで混乱が始まりましたということも、
もちろんあるんですけれども、
これエディプスエディプスと言っているのは何かというと正しさなんですが、
何で正しさなのかというと、
つまり、
そうだな、なんだろう、
現光景というやつなんですね。
現光景というのは何かというと、
お父さんとお母さんのセックスを見ちゃいましたということです。
大きくなってからとかじゃダメですよ。
4歳児とかにしておいてください。
なぜかというと、
ショックを受けなきゃ意味がないから。
ショックを受けるというのはどういうことかというと、
不快だということですよね。
とても不快で、
このような現実は見たくなかったということです。
それが子どもの教育に悪いとか、
そういう話なのかもしれないんだけど、
それよりはるかに手前、
もっともっと原始的な話です。
そうじゃないと意味がないんですね。
つまり、
そんなに不愉快なことがある現実というのは、
そういうものが現実なんですということなんですよ。
現実を受け入れましょうということ、
しかしそれは受け入れがたい現実です。
だから正しさなわけじゃないですか。
現実は正しい。
だけれども受け入れがたい。
そこを強引に受け入れたときに、
トラウマみたいなことになっちゃうから、
ならないようにしておかないと、
エディプスは成立しません。
そこが強烈なトラウマになってしまいました。
こんな現実は全く受け入れられないので否定しました。
エディプスが成立しないわけですよ。
そうするとその人は分裂する。
単純にはそういう話なんだと思うんですけれども、
これがそんなに大ショックなことは、
09:02
私たちはあんまり起きない世界に生きています。
だからこれが小規模になって起こると、
そういう意味ではエディプスって何度も何度も起きているはずですね。
現実原則なので不快な現実を受け入れなければいけないという話なんですね。
それが過去に受け入れた自分のエディプスと
合致しないときにイラッとするはずなんですよ。
現実ってこういうのが正しいんじゃなかったの?
というふうに自分の中で思うはずなんですね。
そのときに何かに罪悪を見ると、
昔のエディプスで判断しようとするからですね。
普通に言うと新しいエディプスを手に入手するってわけにはいかないんですよ。
そういう意味では少なからぬケースでは
グッドバイブス自体もエディプスとして機能してしまうはずなんです。
だいたい正しさを手放しましょうっていうのは正しさじゃないですか。
あるいは攻撃を手放しましょうっていうのも正しさじゃないですか。
こういう問題が起こるから、
エディプス問題というのはいつでもある種の不快感を持って迎えられていて、
ある種の批判の対象になっていると思うんですね。
批判の対象になるということはつまり処罰されているってことですよね。
例えば、倉園さんが攻撃を手放しましょうみたいな話をセミナーでした後でですね、
なんかちょっと不愉快な質問を取ってすげー怒ったとかいうことを見ると、
人はその人の話を信じられないって言うじゃないですか。
これがエディプスですよね。
私たちは時間の流れというものを意識せざるにはいかないので、
いくら今ここだと言ってもですね、
例えば目高とかを見ていると自分の卵食っちゃうんですよ、場合によってはね。
だから卵って隔離して別の水槽に分けなきゃいけないんですよ。
結構めんどくさいじゃないですか。
でも放置していると食っちゃうやつが出てきかねないわけですよ。
で、食っても後悔なんかしませんよ。
絶対に正しさという世界がないものはこれでいいんですよ。
現実ならなんとかなるんですね。
ただ、人はそうはいかないですよね。
だからどうしても時間の継続というものを意識するので、
前こうだったじゃないかとか、これは大切なものなんじゃないのかとか、
そういう話になるんですね。
だから正しさの塊である宗教というのは十回みたいになっていくんですよ。
これをグッドバイオスでは承認しないというか、
これを全面に押し出さないので、非常にこうですね、
ある意味柔軟で流動的ですごいんだけれども、
すぐそっちじゃない方に意識が働いてしまう。
私は怒ってしまいましたみたいな、懺悔の告白みたいになっちゃうんですよ。
12:04
そういうふうにしないようにあれは設計されているんですけど、
ここがたぶん私たちの一つのチャレンジになるんだと思うんですね。
つまり正しさを手放すということはある意味何でもありなわけだから、
何でもありだということは目高が卵を食っちゃうようなところがどうするんだということになるんですよ。
ただ、それは現代の日本だから成立させられるっていう、
たぶん倉園さんの視点があるんだと思うんですね。
現代の日本は戦国時代とかとは違うんで、
正しさを手放したからといっていきなり人の首を切ったりはしないだろうというのがやっぱりあるんですよね。
これが昔の宗教であればあるほど戒律がうるさくなっていくのはやっぱり、
エニプスを強烈に打ち出さないと結局宗教というものが成り立たないから、
すぐ殺されちゃうからでしょうねっていうのがたぶんあります。
時代によってこういうものってつまり動くってことです。
でも時代によって動くんだけど、
生まれつきたぶん私はフロイドはそこがすごかったんだし正しかったんだと思うんですけど、
エニプスが発霊されるような遺伝を持って生きてきている生き物なんだと思うんです。
他の生き物はまあまあそうじゃないと思うんです。
類人猿のレベルまで来ると、チンパンジーとかになるとある気がするんだけど、
そうは言っても人間みたいではない。
この罪悪感というものを持たないとモラルって成立しませんよね。
何かをして悪いことをしちゃったって思う気持ちが全く湧かないんだったら、
モラルなどというものはたぶん出てこなかったはずですよね。
このことを言っているんですよね、エニプスというのは間違いなく。
でもこれはモラルのためであって、コントロールのためじゃないんだけど、
どうしてもコントロールのために使われやすいものなんですよ。
だからこれをコントロールのために使おうという人が後を絶たなくなっちゃうわけですよね。
この時期になりますと終戦の話が必ず出てきますよね。
そして軍の無責任問題も必ず出てきますよね。
あれはエニプスがいつの間にか支配形態になってしまう典型的なパターンだったと思うんですね。
でも私は軍の無責任などを批判したくてこういう話をしているわけでは全くなくて、
これどこでも起こるんですよね。自分の中でも起こるんですよ。
だって過去のエニプスをずっと前人生に適応して生き続けることは無理ですから。
だから状況状況に応じてエニプスを押し通すのか、そうじゃない枠組みをまた考え出すのかということは常に出てくるはずなんですよ。
15:05
常に現実を見に行くというのはそういうことだと思いますが、
例えばうちの奥さんは私と結婚するときに私は怒りっぽくないからという話をしたんですよ。
僕が今その話を持ち出すと彼女は怒りますよ。
当然なんですよ、これは。だって何年前のことを言っていると言われますよね。
つまりエニプスで人をコントロールするのは不可能なんですよね。
罪悪感というものって私が今必死に手放しているものなんですが、ちょっとやそっとでは機能しなくなったんですけれども、
処罰というのは罪悪感を持たせるためにやることです。
相手に罪悪感をより強く持たせると。
だから何か間違いなく相手が間違っていた部分をついてくる、そこを強調するんですよ。
これも間違いなくエニプス思考なんですよ。
この思考を持っていない限り罰したからって相手が罪悪感を持つという保証は全くどこにもないわけだから、
罰する、つまりあなたはこうこうこういう約束をしたのにそれを果たしていませんねと言って、
すみませんでしたと言った時に本当にすみませんと思っていない限りは全く意味のないやり取りになっちゃうはずですよね。
でも多分私が思うに滅多に本当にすみませんと思っていないと思うんですよ。
だからこのエニプス思考というのはイリュージョンなんですよね。
相手の怖い色とか表情とかそういうものを見て、
あ、こいつは本気で反省している、よしよしコントロール下に置いたって思うだけなんですよね。
多分相手はそれに対してでもそんなこと言ったってこうこうこういう事情があってできなかったし、
そもそも相手が悪いしって絶対思ってると思うんですよ。
つまり全然コントロールにはなってないんですよね。
そういう幻想、ある意味だから処罰というものは薬をまいているような感じなんですよね。
幻想を見やすい薬、ちょっとしたアルコールですよね。
そういうものだと思うんです。
処罰が依存しやすいということはきっとあると思います。
アルコールとそっくりだなと最近は思うんですよ。幻覚剤みたいなものなんですね。
だから私は最近いろんなことを思い出しているんですけれども、
処罰というものはどれほど幻覚的に作用したかということを思い出すというのが、
今私が一生懸命手がけている部分です。
大体幼い頃の思い出になっていきます。
大体現光景というもの、つまりお父さんとお母さんのセックスはなぜいけないのかというと、
それは自分とお母さんが最高の関係であったと信じていたいからですよ。
これはつまりそういう光景を見たとか見ないという話ではないです。
18:01
私は見たことないです。
現光景と全く同じように作用するものとして、夫婦玄関があります。
これを見ている前で、よくダメだと言われているじゃないですか。
子供の前で喧嘩してはいけません。
なぜなら子供が自分のせいだと思うからとか、自分に罪悪感を抱くからと。
私はこれですね、53%くらい同意なんですが、47%くらい微妙だといつも思っているんですよ。
これを見るということは、現光景に準ずると僕はいつも思うんですね。
つまり、エリプスが揺らぐんですよ。
エリプスが揺らぐということはエリプスなんですよ。
エリプスが揺らいで困るということは、エリプスが成立していないとおかしいですよね。
お父さんとお母さんは正しい。
その正しい者同士が喧嘩したら、どっちが正しいんだという問題が発生する。
こういうことがなかったら、自分のエリプスを疑う余地っていなくなってしまうじゃないですか。
こういうことが必要なんじゃないかと自分はしょっちゅう思うんですね。
僕が娘の前で妻と喧嘩をしている言い訳かもしれないんですけど、
私は自分の子供の時代に両親は仲が良かったというよりは喧嘩しない方だったんですね。
仲が良かったと思いますね。
何度か強烈な喧嘩を見た時に強いショックを受けたんですよ。
あのショックは非常に私は重要な経験だったといつも思っているんですよ。
まず私は多少罪悪感を持つ。
よく子供は自分のせいだと思うって言うじゃないですか。
私はそこまでナイーブじゃなかったんですよ。
あれ多分7、8歳。小学校1、2年だったと思うんですけど、
大体ですね、私ちょっと自動心理学とか自動書を書く人は人をなめてるんじゃないかと思う時がありまして、
私その頃自動心理学の本とかって読んでたんですよ。
いくつかの点では面白いけれども、
掃除で子供を軽く見ている気がしてたんですよね。
この程度のこんなにナイーブな子はそういうもんじゃないと僕は思いました。
確かに両親が目の前で喧嘩をするというのは一定のショックを受けるんですけど、
大事なのはここでエディプスが揺らぐってことであって、
自分のせいだと思うかどうかとかは相当どうでもいいことなんですね。
自分のせいじゃないっていうのは私は当時は十分ロジッカルに終えたんですよね。
この喧嘩は何ら自分のせいで起きてはいない。
あとの問題はですね、どう収束するかだなという感じはやっぱり持ったんですよ。
ショックを受けるじゃないですか、まず私が。
ショックを受けるということは仲良く会ってほしいということですよね。
ここに正しさがあるわけですよね。仲良く会うのが正常だと。
21:00
という正しさを私はでもそれ正しいだろうかと思ったわけですよ。
当然それは両親が仲良くないと次に考えるべきことは何が困るんだろうと。
その時に非常にいろんなことが見えた気がするんですよね。
例えば母が本当に機嫌悪くして家を出ていくと
飯の下こうしてくれる人がいなくなるとか。
父が家のことをしなくなると多分立ち行かなくなると。
そういうことを考え始めてなるほどなと思った記憶があるんですよ。
つまりこの戦いはなぜ自分がショックを受けるのかというと
自分の生存レベルが脅かされることを意味するから間違いなくそうだと。
今思うと現行型というのはつまりお父さんとお母さんのセックスですよね。
これもまた自分の生存レベルを脅かしかねないものだからだと。
アドラーの心理学では弟妹ができるとそれに嫉妬する。
そして赤ちゃん帰りを子供がするといういくつ。
あれもナイブすぎると思ったんですよね。
そんなに単純にそんなことはしない。
でも考えてみると愛情といえば愛情なんでしょうけど
要するに環境供給が半分になるというのは私は意識したことがあったんですね。
当然それに対して腹を立てるわけですね。
私は現行型を見たことがあるわけじゃないから
それが何をもたらされるのかわからないけれども
一つの事件だとは捉えたんです。
こういうことの一つ一つが処罰感情というものを喚起する。
つまり何を罰すればいいのかよくわからないのだが
間違っているものを罰さなければいけないという感情を喚起する。
理由は単純で間違ったものはしょっちゅうあちらこちらで罰されているからですね。
だいたい子供の前で両親が喧嘩をしちゃいけません。
一つの正しさですよね。一つのエリプスです。
どちらかの両親あるいは両方の両親が
罪悪感を抱いて反省しなければいけないという文明を作っていますよね。
あらゆるところにこれが来るんですよ。
もうこれはあまりに日常的すぎて
面白くも何ともないとも言えるんです。
だって子供などというのは幼稚園に行ったら
先生に念がら念じ怒られている。
私はしつこいたちなのかもしれないんですけど
そういうのを一個一個結構検証してかかった方なんですよ。
なぜこの子は怒られたのか。どういう罰が下されるのか。
罰と罪というのはいつもそうなんですが
非常に適当になされるんですね。
人によってはどうってことない
張り毛の線がはみ出ているという理由で
引っ叩くこともあれば
24:01
線がはみ出ているということで
褒められるケースもなくはない。
私は覚えているんですけども
テントウムシの足がですね
折り線まで黒で塗って
先を黄色で塗った方がすごい褒められたので
私はなるほど、この点線という部分を色で分けるということが
創意工夫として褒められるんだと思ったんですけど
テントウムシの足を黄色にしたくはなかったので
リアリティを追求して茶色にしてめちゃくちゃ怒られたんですよ。
なるほどと思ったんですね。
この先生はこの黄色が好きか
あるいはこの黄色にした粉が好きなんだろうと
この先生に僕はあまり好かれていないのはよく分かったんですよ。
この茶色くするような心理が
少年だな、この茶色で塗るような少年が
気に食わないと思われていたのは分かっていたんですよ。
これは漠然とじゃなくて正確に分かっていた気がします。
ここを茶色で塗るようなこの先生は好かないと
ただしょうがないなと思ったんです。
私もこの先生好きじゃなかったんでね。
つまり子供を甘く見ている感じというのが
僕はずっとつきまとっていたので
一つ一つ検証せずにはいられなかったところがあるんですね。
今思ってもそうなんですけれども
僕の出した結論は
しかし稚拙でして
子供っぽくてね、子供だったからなんですが
怒られないようにするのが正しいになっちゃったんですよ。
怒りの兆しみたいなものを発見して
こういう話を先日黒園さんとろっちゃけ相談でもしたんですけどね
まさにそういう感じなんですよね。
予兆とかサインを見逃さないようにしようと
見逃す奴はバカで罰されて当然だと
そういう風に考えたんですね。
そういう風にして見ていると
これが大きなイリュージョンなんですよ。
ここに幻覚剤みたいなものがあるんです。
全部そう見えるんですよね。
経済心理学の用語で言えば
これを拡張バイアスと言います。
経済行動学でもいいですね。
要するにこの人たちは
怒りのサインとか先生の愛称とかを
見逃すから怒られるんだという風に捉えるんですよ。
そうすると全部そう見えてくるものなんですよね、不思議と。
私が強く育てたエリプスとして
怒られるもの、怒りという現象が起きるのは
悪であると、そういうことなんですね。
だから人を怒らせるようなことをする者は
罰されると、そういう考え方を育てたんですよ。
これが後々私を非常に面倒な目に合わせるわけですね。
で、私が怒られたときは
二重に自分は罰されなきゃいけない。
その人に罰されている上に
自分で罰することになっちゃうから
こういうことがエリプスで起きてしまうんです。
なぜエリプスというものがこうやって
網羅的になっていくかというと
27:01
いろんな現象があるからですよね。
一つそうやって怒られるのは悪いって
エリプスを作り出してみたところで
なぜ怒られるのかというのは
いちいち違うじゃないですか。
だからさっきの愛称みたいな、
テントウムシの足みたいな
その人ならではの基準がある。
私はそういう基準の全てを
網羅するのは無理なので
その人の性格を理解して
その人の性格に合った
なめらかにする方法論みたいなのを考えたんですね。
これがアダルト・チルドレン的だという風に
非難されているんですけど
僕はあれも人を甘く見ていると
よく思っているんですよ。
私はアダルト・チルドレンだから
そういうことをしているわけではないんですよ。
私なりに相当考え抜いて
こうしたわけですよね。
知説ですけどね。
非常に。
で、この
いう考え方を持ったけれども
そうは言っても
小学校5、6年の頃から
なかなか全く読めない理由で
激行する先生がいて
あの先生は結構問題になって
学校に移されちゃったんですけれどもね
殴る蹴るの暴行するわけですよ。
で、こういう人が
非常に無理があるなと
何で怒り出すかわかったもんじゃないと
あれは私が思うに
今は全然違う理由があったんだと思うんだけれども
当時はわかんなかったんで
こういう人は
要するに
その当時すでに
そういう言葉は知っていたんですけど
異動性といって
やすやすと怒る性格
この異動性の人というのは
サインがない人
サインを見抜くという戦略では
駄目であって
怒りやすいという人が
怒った場合には
その人が悪いことに決めたんですね
こうやって
エジプスというのは育っていっちゃうんですよ
こうやって私の性格がですね
だんだんライフハック寄りになり
HSP寄りになっているわけですよね
だから
全然HSPというものでは
説明されないやっぱり
ものを考えると
やっぱりそして
ライフハックという戦略は
別にライフハック自体は
全然それでいいと思うんですけれども
この方向性で使うのには
役に立たないなと
だってその異動性を例外と
今したじゃないですか
つまりその人のサインを見抜くとか
無理で
その人の周りを滑らかにしておくというのも
無理なわけですよ
もちろん
なんて言うんですかね
大人なので相手は
現実は正しくなっちゃうじゃないですか
言ってる意味が分かりませんかね
分かりにくいかな
私今今日はすごく
あっちこっちにポンポン話
飛ばしてますけれども
要するに子供がどれほど正しくても
その先生が怒りだしたら
もう終わりなわけですよ
強かったんでね
男の先生で
女の先生でも強いですけどね
小学校4,5年に比較すれば
30:01
つまり
私はその時
何かというものを思い出してみて
エリプスを動揺させてはまずい
というのを考えたんですね
そういう言葉は使ってません
自分の中でも
自分の中で言うのは
要するに体系立てた正しさを
動揺させるのはまずい
というふうに考えたんです
それをやると
判断の使用がなくなってしまうし
非常に恐怖感に苛まれる
最悪自分が怒られた場合でも
こういう
ノーサインで怒る先生の場合
そして
状況が全く問題なさそうなのに
ブチ切れるという人が
いる場合において
なんて言うんですか
その
究極的には
こういうことになっちゃうんですけどね
自分は正しいと
勝手に信じておく必要があると
そうしておかないと
何で自分が罰されたのかを
わからなくなってしまう
強烈に落ち込んでも
戻って来れなくなる可能性があると
それに近いことになっちゃった子がいて
今思うとどうしてるんだろうと
思ってしまったりもするんだけど
現実は何とかなると思っておこう
みたいなところもありますが
だから私はその時に
多分
装的防衛というものの原型を
育んだんだと思うんです
この先生とは関係がない
だから私は
装的防衛というものの原型を
育んだんだと思うんです
自分の中では関係を切ろうと
怒られる怒られないも
あるかもしれないけど
自分の中では関係を切ろうと
これが心の壁を築く
ということなんだと思うんです
だからこの部分に関して言うと
こういう戦略で将来やっていく
みたいなのは
ほぼ小学校時代に出揃っちゃってる
感じがあるんですよね
今から思うと
あの時やっていたことは
大半が割と僕の中では
虚しい感じの作業だったんですけど
今思うと
どうでもいいことを
やっていた感じもあるんですけど
ただグッドワイブス的に考えてみて
いつでも思い出せるような
記憶になっているというのは
一つ副産物として
あったなというのはあります
そういうのを一つ一つ検証して
正しさを捨てていくと
自分の処罰感情というものは
つまり処罰されるべきは
サインを見逃した人なんだけど
つまりそれが私に
今降りかかってきているわけです
私が妻や娘の
怒りのサインを見逃すと
仕事のパートナーでも
いいんですけど
それで自分を罰したくなってしまうから
自分が苦しまなければならなくなると
これをやめればいいわけですよ
多分なんですが
時々僕のところに寄せられる
発言こまちを見るのを
やめられませんとか
ツイッターを延々見ちゃいますね
僕が思うにですね
それは処罰対象を
33:01
探しているんだと思うんですね
どういう理由かは知りませんが
うかつにも愚かなことをやって
みんなに罰されているシーンを
見つけ出すのは
SNSでは容易ですよね
多分それを探しているんだと思うんです
SNS上に
理由は僕と同じじゃないかもしれませんよ
ただそういう理由を
探している可能性は結構あって
それを僕が今思うのはですね
そういう理由で
自分を罰したくないと
確信すれば
多分その時間は
ぐっと減っていくと思います
最近私はツイッターを見るという時間が
急速に減っています
多分これは処罰感情というものを
少しでも意識したとき
ツイッターを見ないようにしている方だと
そういうことになってきたかなという感じを
持っています
33:59

コメント

スクロール