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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
気がつくと、暫席が2になっていて、今週土曜日の、土曜日ってつまりクリスマスだから、
明後日ですね、明後日やるオンラインセミナーで、先送り対策と、一応テーマとしてはそうです。
もう、何でもお質問あれば受け付ける格好ですけども、少しだけはテクニカル的な話も、少しはしようかなと思いました。
前回も全然そういう話はしませんでしたし、ただ今月に入っていろいろと格闘しているというか、苦闘しているタスク習得クラウドを使っておりまして、
まだ続いていますからね。
よろしければ、タスクの併用という、まだそのような形も続いているので、よろしければ参加いただければと思います。
26日の方は、書き上げ塾、第1回スタートになりますので、
こちらも、残席は1.5って話を聞いたので、気になる方はお早めに、たぶん当日でも間に合いますけども、お早めにお願いします。
今日はですね、きのうちょっとツイッターで拝見して、
ここのところなんか、いろいろ気になることが、あちらこちらから散発的に出てきて、これどうしよう、あれどうしようというのがあったんですけれども、
例えばなんだ、全然関係ないようなんですけれども、
バイオウノーにテーブルテニスのコンピューターのやつ、簡単なやつですよね、ブロック崩しみたいなやつ、
あれをさせるとすぐに覚えて、ゲームを楽しんでいるのか分かりませんが、始めると。
それを映像を見たんですよね、バイオウノーって大丈夫なんだろうかという話もあると思うんですけれども、
そうそう、そういうようなのを見てですね、そっちの話もしたいかなと思ったんですけど、
最近そっちあまり追ってないんですよ、やっぱりこう、自分のこう、ある種、冬も来てますしね、冬は得意じゃないんで、
そういうようなこともろもろがあったりしまして、結局なんだかんだ追っているのが、
カウンセリング系いっぺんと、今は多分この時期も抜けると思うんですけどね、
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だから、いろんな話はなんとなく入ってくるんだけど、そっちを終えてないっていう感じもあります。
利用可能性ヒューリスティックとか、今も猛威を振るっている感があるわけですよ、火事のこととかね、
あんなに同じものを何度も何度も見せつけられると、火事がすっごい起きているように思うじゃないですか、
人間の脳というのは、あれはね、2件しか起きていないっていうことを知っている人はみんな知っているし、
そんなにそんなにあるものじゃないはずなんですけれども、やっぱりああいうふうに見ると、
私たちは見た回数に応じて現実は起きていると、動画全盛でそのような理屈が成り立つはずはないんだけど、
思い出しやすいことは普通に考えればね、思い出しやすいことは起きやすいし、
起きやすいということは、つまりそれが起きる確率はとても高いというふうに思うんですよね。
それとちょっと派生して、私が子供の頃、岡田幸子さんという、私は正直そっちをあまりにも詳しくなさすぎるので、
全く知らなかったんですけれども、岡田幸子さんが自殺されたというニュースが入ったときに、
僧然となったというか、僕の周りの友達も男の子ばかりですけどね、僧然となって、
中学1年か小学校5年か、ちょっとその辺すら私には曖昧で、そもそもその方がどなたかを私は本当に知らなかったんですよ。
知らないということはあり得ないぐらいの人だったらしいんですけど、知らない人もこの世の中にはいるんですよね。
そういう感じだったので、私にはよくわからないことだったんだけれども、
その後、急に年間統計の自殺者が増えたということがあったりして、
これも利用可能性ヒューリスティックだけではないですけれども、非常にですね、
この種の人の脳のとても現実的というか原始的な部分ですよね。
見ているものが動画であれば、同じことを何度も繰り返すことは分かっているんだけど、
分かっていないところがあるんですね。この分かっていないところを精神分析とかでは思いっきり問題にしているわけですよ。
私たちが分かっている部分では、そんなものは分かっているに決まっているわけですよ。
動画で何度も再生しているだけで、同じことが何回も起きているわけではないということは、
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当然分かっているんだけど、分かっていない部分があるからこそ、こういうことはよくあることなんだと。
同じものを何度も見ているくせに、いろんなところで起きていることのあちらこちらの映像を
一つ一つ見ているんだと思っている部分があるわけですよ。脳の中ではね。
つまり私たちの中では。そういう非常におかしな誤解をしてしまうんですよね。
なぜならば、それは人間が進化してホモサフィエンスが生まれた時にこの世にビデオはなかったからですよ。
それにそもそもテレビがなかったわけですよね。
つまり自分が見聞きする半径と自分が見聞きできる回数に限りがあったから、
しょっちゅう見るものはしょっちゅう起こるんですよ。
それよかったはずなんだけど、今の時代はそれじゃ大変なわけですよね。
例えばこういつも山火事が起きているような気が。山火事なんて僕はこの目で見たことはないですよ。
あの辺りでリアルな山火事を見たことはないですよ。
常に映像ですよね。
でも山火事というのは常に起きているような錯覚を抱くんですよね。
東京ドーム何個分とかのよくわからないことを言い出すじゃないですか。
そう言われてもさっぱりわからない。
だから地球全体の山がいずれは火事で燃え尽きてしまうんではないかという風に思っちゃいますよね。
思っちゃう人はね。
少なくともそういう人でなくても私たちだって心のどこかではそう思いかねないところがあるわけですよ。
分かってない部分があるということですね。
分かっている部分と分かっていない部分が同居してあるということですね。
その分かっていない部分の問題なんですよね。問題というのは常に。
分かっている部分だけで動けるんだったら苦労はないわけです。
先送りだってそうじゃないですか。
一言で言えばこれをやった方がいいと思うことをやれる。
それが全てであればそうするから誰も少人数制であろうと何であろうと
そんな先送り対策というものはこの世にほとんどいらなくなると思うんです。
でも僕らが先送りしちゃうということは少なくともどっちかというと
本当は分かっていない部分があってそれは間違いなく自分の中にあって
その分かっていない部分が判断を盗人にしてみると判断を混乱させるんですよねきっと。
こういうことが言われていたりするわけだけれども定欲無視されてもいて
利用可能性ヒューリスティックというのは認知心理学だったり社会心理学だったり経済行動だったり
の用語ですしほぼ同じことを精神分析でもカウンセリングでも言うけれども
ほぼ定欲無視されてやっぱり小規模のビルでは火災が簡単に起こせるから
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いつどこにいても気をつけなければいけないというようなことになっていくというね
とてもこうある意味ではそうです。
だから上手いこと何かが利用されているって感じを抱くんですけどね。
で、そういう多分バイオ脳のテーブルテニスもそうで
バイオ脳ですからねもう人間の脳の大半の機能は持ってないわけですよ。
でもテーブルテニスで勝ちたいと。
でもテーブルテニスで勝ちたいと。
そういう脳が私たちの脳の中に絶対ありますよね。
それがイリュージョンであろうとテーブルテニスで勝っても意味が別にあるわけじゃないじゃないですか。
私たちの脳ならばそこまで分かるけれどもバイオ脳にはたぶんこれに頑張ったところで
意味がないとかそんなことはわかるはずもないですよね。
でも頑張ったところで意味がないとかそんなことはわかるはずもないですよね。
もないですよねでも頑張っちゃうそういうところがあるわけですよねきっと 私たちもそれがイリュージョンであろうとなんであろうと
そういうことをちょっと思いながらですねえっと見てみていたりして あの話を少し追ってみたいなと思った次第なんですが
実際に私が今から話したいことは全然そっちじゃなくてこれもツイッターね あのいつもですね
多分グッドモーニングバイブスを聞いてくださっている方からの 投稿だったんですけど面白かったんですよ私も動画も見ちゃったんですけど
えっと 要は
この番組でも時々言う パーフェクトマザーというやつですねその概念を取り上げてくださってたんですけど
完璧な母親というものですね 完璧な母親っていう話をしているときのこの完璧な母親というのは
架空の存在なんですよ まああの動画も架空の存在でしたけどねあれは母親じゃなかったけど
で
ああいったものもこれからの時代に出てくるんだと思うんですけれども パーフェクトマザーというのはですね
究極的にというのかな 実際には存在できないんですねここがすごい大事なところで
作り出そうと 最新の技術を駆使しようと
できない なぜできないかというとそれは生身の母親でなければいけないからだって私は思うんですよ
あの 生身の母親がパーフェクトであるというのは原理上無理なことなので
というのは生身の母親がそこにいるってことはすでにダメなんですよ だけど生身の母親じゃなきゃいけないんですよここが非常に大事なんだと
私は思っているんですねここを多分 あのウィニコットという人はそういうことを言うんだろうなぁと思うんですよ
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これ非常に私にはわかる気がするんですよね えっと
人間じゃなくてもこの際いいんですよね例えば犬とか猫とかが えっとなんかよく人に懐いている猫とかが膝に抱かれて気持ちよさそうに寝てるじゃないですか
猫なので
自我意識があるはずはないんですよね つまり猫は
ここは私でありこの膝に乗っているのが私であり 膝は他人のものだという概念を持てません
でも何かこうすっかり預け切って満足そうな猫っての写真とか今いっぱいありますよね この自他の境界が全く感じられない時にパーフェクトなんだと思うんですね
環境が 膝を提供している人が
つまりパーフェクトな母親なわけですよ つまり時々そういう言い方をする人がいるじゃないですかこの環境は完璧だみたいな
なんかこうすごい良いリゾートのホテルのキャッチコピーみたいな ここだったらもう完全に自分を忘れる
つまり自分と 環境の間に
なんていうんですかね境界線を引くことは 一つの心理的負担になるわけですよね
私たちはその負担のことを多分よく知ってるんですよ だから環境と一体になるってすげー気持ちがいいと
でも赤ちゃんの場合多分 そういうことは本当にしばしば起こってるんですよね
自我意識がとても弱いかほとんどないからまあそういう時期の話なんですよだから 5歳児とかでは全くないってことです
0歳1日目とか 0歳7日目とかよくてもそういう時期の話ですね
この時に完璧な母親という概念上なんですけれども 幼児はニードを持つことさえ許されないというのかな
もうだからお腹がすくうとかぐずるとかがない瞬間の話をしているわけです 自分は不快だみたいな感覚すらないと
なんかこうお腹が空いて幼児が泣き始めると あっおっぱいが欲しいって言っておっぱいをあげるとこれがまあニードが母親が
つまり 満たされないというニードっていうものが
つまり 空腹という概念はなくお腹が空いたという意識も何もなくなんだけれども何かが
何かがダメだ 私たちはこの何かがダメだっていう時に心が傷ついたって言うんですけど
何かがダメだと その時にお母さんがこれは空腹なんだという風にその子のニードをお母さんの方でニーズに変えてあげておっぱいをあげると
でもこれはパーフェクトじゃないんですよ ニードが発生しちゃったからね
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ニードが発生する前にニードが満たされる でもこれをずっとやっているとつまり何が起きちゃうかというと
子供はいつまで経っても自我意識を持てないんですね だからパーフェクトな母親ってのはダメなんですよ
パーフェクトな母親がそこにいたのでは ニードが発生する余地もないわけです パーフェクトなんで
パーフェクトということは欠落がないってことなんで 欠落がないということは空腹という深い感を覚えちゃダメなんです
それはもうすでにパーフェクトではない だからこんなことは論理的に無理ですよね
何よりもいけないのはそこに本当はお母さんがいるってことなんです 居ちゃダメなんですね
いるってことはつまり自他が別々だというその可能性を示唆しますよね そんな可能性を赤ちゃんが意識するかどうかは知りませんが
もしこの世に赤ちゃんしかいなくてしかもパーフェクトであるならば 人というものは誰もいない私もいない相手もいない母親もいない誰もいないんですよ
でも赤ちゃんは生きてはいる でもこのような生き方は
人間の生き方ではないですよね だからこういう生き方というのは原理上
あっていいものでもないしあり得るものでもない だけれどもパーフェクトであることは確かなんですよ
だからこのパーフェクトマザーというのは
ゼロゼロではあるみたいな話なんです つまりそういう概念を
検討することはできても実在することはできないっていうようなやつなんですね
当然のことながらこういうお母さんを求めても無駄なわけですよね
ここに大きなポイントがいろんなポイントがあるんですけど そもそもこのパーフェクトマザーという概念は
それに対応する概念があるわけです グッドイナフマザーですね これは実在するわけですよ
というかすべてのお母さんはグッドイナフなんですよ これにいやいやそんなうちの母は
そのワーストですぐらいの人もいらっしゃると思いますよ でもそれは言い分であってこれは理論であって
自分のお母さんのことを言ってるわけではないんです だけれども生身の人じゃないと困るんですよ
概念とはいえこれは単なる理論じゃないので 本当にどう育てられたってことと深く関わってこないとダメなので
生身のお母さんじゃないものをここに持ってきたんでは意味がなくなってしまうんですね 例えばもしかするとですよ
赤ちゃんがこれも人道上許されませんが赤ちゃんの血糖値が下がったことを何らかの形で 感知する機会がありその機会が感知されると
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例えば血中に直接ブドウ糖を送るようにすることで赤ちゃんはニードそのものを 意識する前に満たされてしまうという環境を作って
そうすれば 人の手を煩わせることなく赤ちゃんを育てられるみたいなのって人道的じゃないでしょう
でもこれは論理的には可能なのかもしれない パーフェクトマザーというのはそういうような意味ですよ
例えばなんかもう sf ですよね 核戦争後の地球で赤ちゃんだけが生きていけばいいと
でも人間はそこにはいないんだともうそれに近い世界ですよね そういう世界で自分という概念は多分発生しないと思うんですよ
いらないですよね 自分と他人がいなくて自分しかいないんだから
これがパーフェクトマザーという概念なんだと思うんですね でもこれは概念ですよね 今の話がそもそも架空の sf みたいな話でしたし
リアルには意味を出さないというか リアルにこれをやるのはそもそもいいことでも何でもないわけです
ただ つまりそこには何が言いたいかというと
生身の母親っていうのはつまりそういうものではあり得ないから 実際に居ちゃうよねってことなんですよ
居ちゃうよねと 居ると何があるかというと 居ると傷つくよねってことなんですよ
完璧でありそこに自分と他人 途中言った通り自分というその境界線は心の負担になります
なぜならば環境は完璧ではないのだから 自分で何とかしなければいけないからその分負担になるわけですよ
この負担が赤ちゃんのように 猫なんかはいいんですよ身体能力十分高いから赤ちゃんのように
全く実務スキルゼロに等しい存在にとって 環境が完璧でないということはつまりトラウマになるんですよ
ここをミニゴッドが言ったんですね これがトラウマになりうると本当に
つまりお母さんというのは本当に居ちゃいかんのですが本当に居ますよね絶対 だから絶対にトラウマみたいな
そういう事故は起きるんだと 起きないわけにはいかないし起きなければいけないんだみたいな
含みがそこにあるわけですね 人為的にやってるんだから完璧じゃないですよね
ぐずって泣いているのは 眠いのかもしれないのにわざわざおっぱいを用意して叩き起こすと
明らかに赤ちゃんからすると不当な仕打ちなんですよこれは 不当な仕打ちを受けてるから赤ちゃんはイライラするし腹が立つし
もしかすると心に傷が付くと 心の傷ってだからここで言ってるのは環境がパーフェクトじゃないって言ってるんですよ
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で私たちも同じなんですよ多分 って言ってるんだと思うんですね
私たちも環境がパーフェクトじゃないと言っては心が傷ついた感じがするんですよ
で私たちは自通能力があるから いろんなことは自分でやれますけれどもでもやっぱり
心理的負担は自他というものがある以上あるから 環境というものが完璧でない以上自分というものがそこに発生しちゃうから
なぜなら自分で何とかしなければいけないってことこれは暗に意味してますからね
寒い黙っていても 当時はやめにしてこれからは暖かい季節がすぐやってくる
できれば1秒後にやってきてほしいけどそうはなってくれないから暖房つけるとかは少なくともしなきゃいけないわけじゃないですか
昔の時代ならもっと大変だったわけですよね とにかくでもピッとやるだけでもピッとやるのは自分だからその負担はあるわけですよね
この負担を自分で背負い込まなければならない その分傷つきうるわけですよ
でそれが傷なんですよ要するに言ってしまえば これを今事例が甘かったので多分これを聞いてもただの
ものすごく面倒くさがりな奴だというだけになっちゃうでしょうけれども 全部同じだと思うんですね考えようによってはこれが全部同じだというのは
多分受け入れられてなくて 非常にひどい目とその程度のことはって言うんでしょうけれどもそれはものすごく
個人差があるんですよね 自分の無気力感というものを
でも大事にしている方にしてみるとですね もう部屋が寒いというだけでも許せないんですよ
同僚の隣の人が 上司にきついことを言われた許せないんですよ
そういうことはあってはならないんです 環境はパーフェクトじゃないと
マザーは完璧でないと自分の周り自分というものの心の負担になるようなことは 極力なしにしてほしいと私たちはみんな思っているわけですよね
隣の人が怒られても心が傷つくわけですよ なぜなら環境がそれは環境の傷だからね
えっと 私のニードが発生しちゃいましたから何かザワッとしたと何かもうザワッとしちゃダメなんですよ
なんかザワッとしたら すぐに誰かがそれをニーズに変えて
例えばカウンセラーみたいな人が予報からやってきてあなたが今ザワッとしたのは 実は高校こういう子供の頃に似たような先生に厳しいことを言われたのを思い出したんですとか
あるいはこの上司が言ったことはこの場ではこういう関係のことでやむを得なかったんだけど 世間一般的に見るとこれは正しくないですねあなたが正しいんですとか
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言ってもらうことによって 心の傷ということつまり上司というものは本当の意味では他人じゃないと信じたい
隣にいる同僚も本当の意味では他人じゃないと信じたい つまり環境と自分は一体であると信じたいわけです
これすごくグッドファイブスの文脈のようでそうでもないようで混乱を招きそうなんですけど 究極的にはこれが僕は一つ意識だと思うんですよ
ただこれはすっごく自分にとって都合よく解釈してますよね つまり大人になっても本当は環境と自分の一体化というのは自分の観点をチューニングすることで取り戻せるんだけれども
幼児の頃はそれはできない だから幼児には幼児らしい一体の在り方というものがあるんだけど
ついつい私たちはこれをいくつになってもできれば適用したいなと思っているわけですね
でもグッドファイブスで言えばそんなことをしなくても何とでもなるんだと つまりそんなことをしなくても
環境がパーフェクトだと信じることができるんだと こういう話なんですね
つまりそういう言い方をするならばどんな状態でも ok なんですよ
自分が ok だから だけれども私たちはそう思ってない時にはですね
自分は ok じゃないんだから 環境が完璧であってほしいということで
AI とか VR とかを駆使したくなるんですよ
でもこれが要するに言ってみればですね 余計な環境設備であって
過剰な環境整備なんだとある意味ではグッドファイブスは言ってる感じがするんですね
とはいえ
この欠落感が 劣等感でもいいですが
あまりにも信仰している人には とてもじゃないけど無理なので
代わりにカウンセラーが例えば環境としての母親になってくれると
でもそのカウンセラーは絶対にパーフェクトであっちゃいかんわけですよ
そのカウンセラーがパーフェクトであるとなると その空間に行って
猫が膝の上に座っているような時はその人は自然でいられるけれども
外に一度出たら途端にもう大パニックになってしまうじゃないですか
何が起こるかわかんない これが誤解だという これがイリュージョンだというのがグッドファイブスだけど
そして結局精神分析でもそう言うんですけど
そうではないんですよね その人にとっては
すぐに破綻するわけだから すぐに環境は大破綻するわけだから
とてもじゃないけどそんなところでやっていけないと
だから代わりにパーフェクトマザーをカウンセラーにやってもらうわけですね
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そういう意味なんですよね カウンセラーはパーフェクトでは決してない
だからいつか必ず何かをやらかす これが何よりも大事なんだけど
それはあくまでも完璧だという誤解を一度設定した上で誤解なのかな
難しいんですけどそこも お母さんも完全ですっていう誤解を一度設定した上で
お母さんがやらかすというのが普通に生きる私たちにとっては多分必要な転換だと思うんです
で私たちがいわば弱ってる時 例えば私が冬とか冬児とかで弱ると
環境に過剰に期待することになるわけです やっぱり
完璧であってほしいと 朝起きた時寒くないようであってほしいとか
勝手なわけですよ そういう勝手さがあるじゃないですか
ミニコットが見たところの幼児には つまり母親が完璧であってほしいというのは勝手な要求ですよね
幼児はそういう要求をしないけれども 仮にぐずるということでその要求を結局してますね
それと全く同じことが 私たち成人になってもやるわけですよね
ぐずるわけじゃないですか布団の中でいつまでもぐずぐずと 外に出ようとしないとかね
これは非常に典型的だと思います 環境としての母親というもの
布団はそうなんだけど つまりあれは女性とか男性とかは全くどうでもいい話なんですよ
実際布団がなくたって死ぬわけじゃないですよね それどころか心に傷もつきませんよね
でも私たち多分なんだけど 例えば親が
結構理不尽な親でね そういうことをうちの親もやりそうな面もあったんだけど
寒くても布団一枚で寝なさいみたいな健康のために 理不尽じゃないですか
人によってはこれでひどく傷つくわけですよ でも多分死ぬわけじゃないですよね
この辺の話ってもちろん今の話は私はいいと思って言ってるわけじゃないです
全然良くないなと思うけれども つまりこの辺の話って
何かと何かが混同されている感じはあるんですよ 心の傷というものを
あたかも客観的なもののように言う でも絶対そういうことはないんですよ
あくまでもウィニコットが言った幼児と母親の一体化というのは
完璧な母親と環境としての母親は 全部幼児の視点を取ってるんですよ
一つ残らず徹底的にものすごく主観的に それを外から見ちゃダメなんですよね
第三者はそこにいないんです 第二者もいないんです 第三者どころか
第一者もいないんですよ 誰もいないんですよ そういう主観なんです
もう布団の中の私たちですよね
この観点から見る限り心を傷つける事態とか 客観的に見てすらまずいとか言う描写は不可能なわけです
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逆にだからこそ
母親は完璧であってほしいとか 私は万能であるとか言う
観点も取れるわけです 客観的に見ればそんなことはありえない
幼児が万能なはずはないんですよ しかし
生きていられるということはそういうことであって
一定の条件を与えられているからやっぱり私たちは生きているんで その条件は普通与えられているケースが
大半なんですよね 過酷な状態と比較してみれば地球に生まれてきたということはすでに
万能なんですよ そして環境は完璧に限りなく近い
これが最近これもテレビでやってましたけど 月に生まれたということになったらそうはいかない
水もないですしね 重力が足りませんしね 多分大変だと思いますね
冬山どころではないですよね そういうことなんですよこれは
俺は自力で自立して生きていける これがエリプスですけどね 先日話した宇宙蝉の家で暴走したものですけれども
自力でやっていかなきゃいけないんだと人は っていう面はあるでしょうね
最早期の赤ちゃんとかに比べれば でも自力でやっていくって言ったってその人は
宇宙のど真ん中にいて自力でやっていけるわけではないんですよ どれほど自分が強いと思ってても
こういうといかにも変ですよね 誰も宇宙のど真ん中で一人で生きていけるわけないというのは分かっているじゃないですか
でも人は不思議なことにね 客観的にこの俺は自力で生きていける強さを持ってるがあいつは弱いって平気で言うんですよ
うちの父なんか平気で言い出しそうなところがあるんですよ どんなにその人がお金があって
体も健康でスキルにもすごい恵まれていて そういう風に言ってみるとうちの父は外資ってどれもあんまないんだけどね
そういう自信だけはある これ大事なんですけどね
つせみの家のお父さんもちょっとそういうところがあるんですよ 自力っていうことにすごいこだわってるけど
自力がすごく不足している面がどこかあるんですよね そういうデモケースっていっぱいあります
脅迫神経症を呼びやすいんですよね この自力に物凄くこだわるというのがOCDですね
同じことを繰り返し従う 同じ生き方を従う 成功法則にすごくこだわると
なぜならそれは自力でないということが明らかだからじゃないですか
自力でないからこそ同じ方法にこだわるわけですし 方法というのはすでにその時の所有の条件が恵まれていたという風に
庵に言ってるようなものです 何度も何度も生まれるなら何度も何度も地球に生まれるべきなんですよ
何度も何度も生まれるのに木星に生まれたり火星に生まれたらすぐ死んじゃうじゃないですか
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つまり所有の条件を変えなければうまくいくというのは自力じゃないわけですよね
すでに所有の条件が自力でないものを物語っているので ここをだからお金で置き換えようというわけじゃないですか
お金があればパーフェクトマザーの代わりにあらゆるグッズを用意して一人で生きていけると
でもお金があれば一人で生きていけるという段階ですでに すげー無理な話をしていますよねお金は人からもらうものですからね
じゃなきゃむしり取ることになってしまうので そうすると多分一人では生きていけなくなると思うんですよ
これもまた話が盛大に脱線してるんですけど最近あの 顔を変えてなんか30日ぐらい闘争していた実に
不思議な方だなぁって思ったんですけれども
イギリス人かなんかの英語の先生を殺害してって 流れが全体的によくわからないなと思ったんだけど
ただ一つ言えることはおよそ犯罪というものを犯した場合 社会から追われるような側になると
いかに人間が一人では生きていけないかというのが まざまざと浮かび上がるものだなと
ある意味ではもう フェリー借りるということが彼にとっては致命的な結果になったわけですよね
それだけやっぱり私たちは人に依存しているわけですよね この気候全体に非常に依存しているわけですよね
だから甘えていないとどうにもならない 結局その甘えというものに戻ってくるときに
私たちは環境がパーフェクトであることを期待すると でもそうすると甘えられないんですよ
なぜならば甘える主体が消滅してしまいます 環境がパーフェクトであってはニードすら発生しないんですから
環境を多分パーフェクトに近づければ近づけるほど私たちはそういう事態に陥る
甘えるというのはやっぱり自家意識あってこそのものなんですよね
だから上手に甘えるというのと上手く甘えられないというふうに分かれるんですよ
結局自我意識はそこにあるから 完璧に甘えるということはどうやったってできない
原理上無理だので上手く甘えるより他はなくて
それの一つの僕は考え方の一つとして 一つ意識とか愛による選択とか
結局この愛による選択であれバラバラ意識で攻撃するのであれどっちでも甘えてはいますから
ただ後者の甘えはすごく周りにとって負担の大きな甘えになるとそういうような話ですね