許すというテーマについて
グッドバイブス ミッドナイトラクザ by 倉園佳三
こんばんは、ただいま7月21日金曜日の午前2時4分です。 今日はですね、あの前回の続きというかね、あの話の続きではなくてね
流れの続きというか、要は今週の月曜日ね、7月17日に佐々木さんとリアルなぶっちゃけ相談をね、あのやったんですけども
その懇親会の時かな、確か懇親会だったと思うんですが、ある方がですね、その私がこのいろいろお話ししている、まあポッドキャストとかセミナーとかね
そういう中で、その最も響いてね、最も効果絶大だなと思ったのは、許すというね話なんですよ、というふうにおっしゃった方がいたんですね。
まあ要はその方のお話によるとですよ、まあ誰かの言動とかね、そういうのに対して許せないと思いますわね。
その瞬間その方はね、そのように思った自分が許せないというふうに感じてしまうらしいんですね。
そこで最初にこのね、許すというのを自分に適用して、そういうふうに思ってしまった自分をまあ許そうと。
そうするとね、その瞬間にこのなぜか相手の言動も許せるという話をしてくださったんですよ。
で私はね、これを伺って、マジですかっていうふうにね、ちょっと驚きの反応をしたんですね。
というのももうこの番組でもそうなんですけども、なかなかね、この許すというテーマで私がちょっとこのポッドキャストでね話そうという気になるっていうのもなかなか難しいし。
セミナーとかでね、昔で言うとグッドバイブス勉強会とかでこれを真正面からね、このテーマだけを取り上げてお話した回というのもなくはないんですが。
まあそう簡単にはですね、ワントレでもそうですね、ワンオワンのセッションでもなかなか許しましょうというようなアドバイスはね、そうから始めには私はしないようにしていて。
なぜかというと、まあこれはそう簡単ではないからなんですね。
本当に難しいかどうかは分かりません。でも僕らは間違いなく心の奥底でね、奥底じゃないかな。
まあ心のわかりやすいところかもしれない。そこで許すなんてやっぱどうやってできるのか全く想像もつかないっていうぐらい、多分難しいという実感をしているわけですね。
だとすると、実際に難しいか簡単かはね、どうでもよくて、やっぱり僕らの大半がこの許すは難しいというこの感覚を持っている以上ね、なかなかこれをですね、そう簡単にはアドバイスとかお勧めすることはできないなというそういう感覚が僕の中にあるんですね。
まあ特にね、このワンオンワンのワントレとかはね、その最たるものなんですが、私とその受講者の方がね、ゴールを共有していないと、なかなかその実践するとかね、そのなんていうのかな修正するというのはうまくいかないんですね。
だから受講者の方が許したいんだっていうふうにそのゴールを持ったときに初めてこの話がね始められる。いやでも今まだそこはやりたくないというね、そういう感覚があるとすれば、これはもうそこがゴールになってませんからね。
私としてはこれがそのこの懇親会でおっしゃった方の言う通りだと思ってるんですよ。最も響いて最も効果がある。私はですね、これは究極のメソッドだと思うんですね。で、これはグッドバイブスのメソッドではないんですよ。もういろんなあらゆるところでこの話はされています。
僕の感覚だとね、人類がこれまでたどり着いた中でね、最も優れた知恵だと思っているんですね。だからこそ私もこれを最強のメソッドだと思うんですが、でもこれをその受講者の方もしくはね、そのセミナーを聞いてくださる方、あるいはこのポッドキャストを聞いてくださっている皆さんのね、中にこのゴールがない状態でこの話をするというのはね、なかなかちぐはぐというか、その噛み合わないというかね、そういう意味ではないんですね。
たぶんうまくいかないんですね。私は一生懸命お話しするとは思うんですが、なんかこうスカスカっと通り過ぎていってしまうというか、まさにこのゴールが共有されていないという状態での、なんていうのかな、ある種の空論のような感じに聞こえてしまうんじゃないかなとね、そんなふうにいつもいつも思っているわけですよ。
これがまさにね、私の意味づけ、私のイリュージョンなんだと今回ね、ちょっとこうものすごくその実感したんですね。いや、そんなことないかもなっていう、そういう感じがしたんですよ。私が怖がりすぎているのかな、伝わらないかもしれないな、難しいよなっていうね、これはもうもちろん自分がそれを実践してきた、その経験の中でね。
ここを受け入れるのって本当に厄介だなっていうのがあるのでね。でもそんな簡単にね、その本当に気軽な感じだったんですよ、その方はね。一番効果あるのって許すですよ、みたいなそんな感じね。マジですかって言ったんですよ。
だから私もですね、この勇気を振り絞ってというかな、そこまでする必要はないんだけども、私のね、この思い込み、意味づけを手放してね、まさにこの私がね、実感しているようにこれが最強だというふうにね、究極だというふうに感じてくださる方をね、現実に目撃しましたんでね。
その方のその存在というかな、その方のその一声、この言葉に勇気をいただきながらね、これここに信頼を抱きながら、今日は久々にこの許すという話をね、してみようかと思っています。
でまぁあの久々なんでね、一応ちょっと順を追ってお話しようかなと思うんですが、まず最初になぜ許すのかということですね。これはもういつもこの番組でお話しているように、罪悪感を完全に手放すためです。
いつもは僕は許すという言葉を使わずにね、罪悪感を持たない、罪悪感を手放すという言い方をしているんですが、これはすなわち許すということですね。
許せないという感覚
というのも、この罪悪感と私が言う場合には、これは自分と他人ですね、自他に見る罪という意味なんですね。一般的には罪悪感というのは自分が抱くものというふうに使われることが多いんですが、これは自分だけでなく他の人の言動を罪と見てね、許せないと感じる心。
要はこれ自覚するのはとても難しいんですけどもね、僕らが他の人に見ている罪というのは、もともと自分の中にあった罪悪感の投影に過ぎないんですね。これは本当に難しい。そんなわけないだろうと。自分の中に罪悪感なんかなかったよと。
単にこの周りの人たち、この中にある罪を僕は見ているだけなんだというふうに思うんですが、でもこれはですね、やはり先に自分の中に罪悪感があり、それが投影されているというこの仕組みは多分逃れられないんですね。
要はだからつまりここで言う罪悪感というのは自他の区別はないってことですね。どちらに持っても同じなんですよ。自分に持ったものが投影されて他の人にその罪を見るというこのメカニズムがある限り、どちらの罪悪感かというのはあまり意味がないんですね。必ず自分が抱いた罪悪感は外に投げられるということ。
そしてじゃあなぜこの罪悪感を手放すのかというと、これは前回お話ししたのかな。罪悪感というのはいわゆる価値マックスと真逆の概念なんですね。
要はこの罪の意識というのは一つは絶対に消せない、汚れのようなものね。よくその汚れみたいなことを言いますよね。そして汚点でもあるし、汚れでもあるし。
例えばそのコミュニティの中でね、位置づけを見てみると、この罪を犯した人というのは最下層を意味しますよね。上にいるはずがないわけです。
だから罪悪感と価値マックスというのは全く共存しないんですね。真逆の概念だと僕は思っています。
要は僕らはその罪の意識によって自分の価値を著しく損なっているということなんですね。
これをやめたいんですよ。なぜならば、そのグッドバイブス、私が提案するグッドバイブスというのはまさにこの価値マックスな本来の自分をね、こちらを思い出すこと。
そしてこちらの自分でできるだけ長い時間暮らしていくということがゴールなのでね、これを著しく邪魔している、阻害しているのが罪悪感ということですね。
もっと簡単にね、僕らが抱くこの許せないという感覚ね、この罪悪感が僕らに何をもたらしているのかを知る簡単な方法というのがあるんですね。
これを最初にちょっとお話しするのがいいかなと思います。なるほどね、そういうことかっていうこの感じ、これを実感していただけるとても簡単な方法があってね。
最初にあなたがもしハッピーだとしたらね、幸せだとしたら、どんな言葉がイメージされますか?
自分の心をその覗いたときに、今幸せだなと思うときに、自分の心の中にある一つのキーワードみたいなね、そういうものを思い浮かべていくわけですよ。
心の中にどんな言葉があるかなと。
簡単に言うと幸せなので、幸せだなっていう幸せという言葉がありますよね。
それからきっと喜び、嬉しさとかね、そういうのがあるでしょうね。
あともしかしたら感謝みたいなものもあるかもしれない。
で、ある方にこの質問をしたところ、信頼という言葉が返ってきたケースもありましたね。
幸せだなと思っているとき、信頼という言葉は似合いますね。
他にはなんだ?静けさ、穏やかさ、そして平安とかね。
さまざまなこの幸せにまつわるキーワードみたいなのを思い浮かべてほしいんですね。
これちょっと考えてみてください。私がハッピーだったら、どんな感じになっているだろう?心はっていうね。
ここに許せない人が現れたとします。
その瞬間、なんだよこいつ許せねえってなったときに、その今挙げた言葉がどうなっているか。
多分ですけども、全部僕らは一挙にね、今言ったような言葉まとめて捨ててますよね。
それが多分許せないという感覚なんですよ。
何をしてるんだ?要はですね、相手は私に何かひどいことをしたんですね。
いつも私が言っている攻撃ですね。何か私は攻撃を受けたんですよ。
この人に対して許せないと思っていて、私はこの人に何をしてほしいかというと、罪悪感を抱いてほしいんですね。
あなたはこんだけ私にひどいことをしたんだよ、傷つけたんだよ、攻撃したんだよっていうことをね、分からせたいわけですよ。
そのとき何をすればいいか。私がどれだけ幸せでなくなったかっていうことをこの人に見せるということなんですね。
それが一番効きますよね。だから今挙げたハッピーだったら私の心の中にどんなものがあるだろうっていう今挙げたやつを全部いっぺんに手放すわけ。
ここに例えば笑顔とかもあったと思いますね。絶対笑わないですよね。意地でも笑うものかと思いますよね。
そして穏やかさ、静けさ、平安、これらのものを一瞬にして多分捨てますね。
これも油断して見ていると、気を抜いて見ていると、この相手によってそのようにさせられたっていうふうに僕らは取ってしまうんだけども、これは違いますよね。
私の中に許せないという意志が湧き起こり、そしてこの相手に罪悪感を持たせたいというものすごい強い欲望がね、欲求がふつふつと湧き上がってきて、
ハッピーだったら許せない状態
その手段として私は幸せな状態というのを全部手放すわけです。
そうするとそれを見た相手はね、うまくいけばですよ、この人がこんなになっている、やばい、俺のせいだ、罪悪感っていうふうになってほしいというね、これは完全にこちらの目論みなんだけども、
要はそれが成功するかどうかは別として、僕らは一瞬にしてね、そのさっき挙げた笑顔、喜び、それから嬉しさ、感謝、信頼、静けさ、平安、そのようなものを全部一瞬に手放すんですね。
これはもう自分が許せないと思った時に何をしているかっていうのを振り返ってみればね、その通りだなってわかります。
許せないと思いながらも喜びは持ってます、みたいなことは絶対ないはずですね。
許せないと思いながら笑顔だけは絶やしていません、これも多分ないでしょうね。
竹中直太さんが笑いながら怒る人ってギャグを昔やってましたけど、あんなことはないんですよ。
つまり僕らはですね、許せないという思いが心を支配した時に幸せを犠牲にしているってことですね。
もう本当に捨ててるんですよ、自分の意思でね、ブワンと捨てるんですよ。
じゃあこの今挙げたようなハッピーだったらこうなのにというこの要素を全部捨てる、つまりそれを犠牲にして何を手に入れてるんだろうっていうね、それと引き換えに何をしてるんだろうっていうことをよく吟味してみると、これね、答えが思いつかないんですよ。
一つはリベンジとかあるかもしれないけど、リベンジというのは一つの行動ですよね。
それによって何を手に入れようとしてるんだっていうこの得られるものまで掘り下げていくと、これだけ多くのね、そのハッピーの要素を一挙に手放しながら手にできているものが何もないということに気づくんですよ。
ある感じがするんですけどもね。
そしてこれはまあさっきも言ったようにそうさせられてるって感じなので、自分は本当はそんなことしたくないのに無理やりそうさせられてるんだよっていう感覚の中でやっているんでなおさら分かりづらくなっている。
でもこれはそんなことはないんですね。私の選択なんですよ。
自分に罪の意識を持たせないことへの意識変革
なぜかというとここにもう一つ許せないという心を抱かない、つまり許すというもう一つのパスがあるからなんですね。可能性があるからなんですよ。
そしてこれは不可能じゃない。不可能じゃないから私は今この話をしているんですよね。
でもそちらを選ぶのではなく、一挙にこの手放すという方を選んでいるのは誰だ。これは私なんですよ。
そしてそこには目的があるはずなんですね。この幸せの要素を一瞬にして全部手放して犠牲にしても何かが手に入ると信じているんですよ。
だから許せないという心を抱き、何かそれよりも大事なものを得ようとしているんですね。
じゃあそれは何だ。何を手に入れているんだっていうふうにこの尋問してみると見つからないんですよ。
復讐とかいろいろあるんですけども、それによって何を手にしているってそこまで突き詰めていくと多分何も手にしていないんですね。
なぜこんなおかしなことをするんだろうかっていうね、これがまさにこの僕らがね、罪悪感許せないという心、これを持った時に自分にもたらされているものなんですね。
だから私はそんなものはいらないと思ってこの罪悪感を手放す、罪の意識を手放すというふうにお勧めしているわけなんですね。
じゃあ具体的にどうすればいいか。まず今日はこの許すためのステップっていうここを重点的にちょっとお話したいんだけども、
そもそも僕らにとって罪の意識というのが必要なのかっていうね、ここから始めないとうまくいかないんですね。
いつも私がお話しているこの許すというこれはですね、言辺の許可というこの許すではなくて恩者の謝ですね、こちらの許すを使っているんだけどもこの2つは違うということ。
最初の言辺の許すはですね、罪はあるとここから始まるんですね。でも多めに見てやるよっていうこれが許すなんですね。
だから罪は消えていないわけで。でも私が言うこの赤辺のね、恩者の謝この許すはですね、罪はないっていうところに前提を置いているんですね。
だからこの許すというのは悪事を許すとかではなくてそもそもそれは罪ではないっていうね、もっと言うと僕らにとって罪と罰の仕組みが必要ないっていうね、ここに立つということを意味するわけですね。
だから本当にそうかっていうところを自分に確かめなきゃいけない。僕らはなぜこの許すことが難しいかというと罪と罰の仕組み、この罪と罰という意識、これは僕らには欠かせないことだと思っているわけですね。
こんなものを人生からなくしたら大変なことになるとなぜか信じ込んでいるんですよ。
この思考体系というのからこれを崩さないことには私が言うところのこの赤辺のね、恩者の謝で表す許す罪ではないというね、この取り組みはまずできないんですね。
だからまず3つの問いを自分に投げかけるわけですね。
一つ目は罪の意識がなければ私は自分の間違いを改めたり修正したりしないだろうかっていう問いなんですね。
どうでしょう。私は罪の意識がなくても自分の間違いは改めたいなと思うし修正したいなと思える。だからここはクリアします。
そんなことはない。
二番目、罪と罰の仕組みがなければね、僕は簡単に人を傷つけたり人から何かを奪ったりするだろうか。
つまり私は罰が怖くて人を傷つけたり何かを奪うことを自分で制御しているのかっていうことですね。
そんなことはない。僕は罪と罰の仕組みがなくても人を傷つけたくないし、おそらくもう何かを奪ったりすることはないでしょうね。きっとね。
だからここもクリアです。NOです。
最後に私が間違ったときね、それを静かに指摘されるよりも厳しく怒られつけてほしいか。
絶対そんなことはありえない。いやいや絶対静かに言ってくれればいいですよ。大丈夫ですよと私は言います。
つまりこの3つの答えは全てNOなんですね。
罪の意識がなければ僕は自分の間違いを改めたり修正したりしないのか。NOです。なくてもします。
罪と罰の仕組みがなければ僕は簡単に人を傷つけたり人から何かを奪うのか。NOです。そんなことはしません。
そして最後、僕が間違ったときそれを静かに指摘されるのではなく厳しく怒られつけてほしいと思うのか。
NOです。嫌です。怒られつけられたくはありません。
この3つがNOだとしたら僕に罪悪感は必要ないということになりますね。
つまり自分に対してその罪の意識を持つことが必要かということね。いらないですね。
無駄としたら私はですね、全く罪の意識を持たずに済むわけですね。
つまりこの罪と罰の仕組みというのを自分に適用しなくてはならないか。全然いらないわけです。
そんなものがなくても修正するし、間違いは改めるし、人を傷つけたり奪ったりしないし、どらってみたいなことも要求しないしね。
でも実はこれだけでは十分じゃないんですね。
他の人に罪悪感を持たせることへの疑問
あともう3つの問いが必要です。そこに答える必要があります。
じゃあその3つは何かというとね、さっきは私はでしたね。死後はね。今度は他の人が変わります。
他の人が間違った時はしっかりと罪の意識を感じて欲しいか。どうでしょう。
他の人が間違った時は罰を与えないと気が済まないと思うか。どうでしょう。
自分が別として他の人は罪と罰の仕組みがなければ悪事を働くと思うか。この3つの問いなんですね。
私はさっきすんなりと私は罪の意識がなくても大丈夫みたいなことを言いました。
でもこの他の人がになった瞬間に多分最初の問いよりも答えるのが難しいと感じるはずですね。
いやーやっぱ自分は大丈夫なんですけど、他の人が間違った時はやっぱり罪の意識が感じて欲しいかなとかね。
私は別に怒鳴られたくないんだけど、他の人が間違った時はやっぱり怒鳴られないと治らないと思うかなとかね。
私は別に罪の意識がなくても傷つけたり奪ったりしないけど、他の人は罪と罰の仕組みがないと悪事を働くんじゃないかっていう風な疑念が浮かんでくるわけですね。
これが僕らがおそらく罪悪感を手放したくない大きな理由なんじゃないかと思っています。
自分に関してはおそらくほとんどの人が必要ないっていうことを自覚してるんですよ。
でもここでもし罪悪感なくていいねってなったら、他の人もそうなるっていう風に想像しますよね。
そうするといやいやいや、ちょっとそれは危ないんじゃないって思うわけです。
だからここでこの2番目の3つの問いは脳を選びにくいんですよ。
そうすると仕方ないですよね。他の人にも罪悪感を持って欲しい、罪の意識を感じて欲しいって思うんだとしたら、
最初のその3つの答え、私はってやつも修正しなくちゃならない。
ああそうかそうか、自分だけ持たない、他の人に持たせるってのはちょっとまずいよなと。
じゃあわかりましたと、私も甘んじて罪と罰を受け入れますに変更しなくてはならないんですね。
ここに最初の難関があるということ。
でもよく考えれば自分が必要ないと言っているのであれば、他の人も必要ないでいいはずなんですね。
ここの一つの自分を見る目、そして他人を見る目、ここの差っていうのかな、違い、ここが大きいんですよね。
だからこの問いはあえて2つに分けてあるんですね。
まずは自分についてどうなんだ、罪と罰なくても良さそうだよね、いけそうだよねという感じがする。
でもこれが他の人となった瞬間に、いやいやいやそう気軽に手放してもらっては困るとなる。
このおかしさに気づけばいいんですね。
これはどう考えてもおかしいですよね。
だって例えば10人の人がいて、自分はどうでしょうって10人全員私には必要ありませんと言ったとしたら、
自分を中心にして他の9人には必要だって言わなくていいはずなんですよ。
だからまずはこの問いをじっくり考えて両方NOと選ぶという、これが最初のステップですね。
私にも他の人にも罪の意識、罪と罰の仕組みこれは必要ないっていう風に受け入れられればいいんですね。
ここの一つのヒントとして、間違いというのは修正によって消すことができるんだけども、
これは緑の本、グッドバイブスご機嫌な仕事の最後の章に書いた話、間違いは修正によって消すことができるんだけども、
罪というのはこれは経験、自分の経験から多分すぐにわかると思います。
罪はどれだけ罰を与えても、多分永遠に私たちの中に残り続けるんですね。
そうやって見てみると、この罪悪感の正体というのがちょっと見えてくるね。
偽りの自分と罪悪感の関係性
罪悪感というのは、つまり忘れずにずっと心に留めておきたいという願望なんですね。
この願望はどちらの自分が持っているか、この番組でよく言う偽りの自分と本来の自分。
これは間違いなく偽りの自分の願望なんですよ。
そしてこの忘れずにずっと心に留めておきたいという、この心が私たちを実在しない過去に縛り付けているわけね。
ここのために過去が必要なんですよ。
この許せない思い、これをずっと心に留めておくために、僕らは過去を必要とする。
それによって様々な過去のいろんなものに僕らは縛り付けられる。
そしてこの心に留めておきたいという思いが、まさに復讐の心を生み、僕らを様々な攻撃に駆り立てるということね。
この辺でやっぱり大きな矛盾を感じるはずなんですよ。
さっきね、人は罪悪感がなければ悪事を働くというふうに感じたじゃないですか。
でもよくこうやって見てみると、罪悪感があるから僕らは復讐の心を持ちね、そして様々な攻撃に駆り立てるわけですね。
どちらなんだよっていうね、これどうもねじ曲がっている感じがしますよね。
そして、なんでこの偽りの自分はね、この罪悪感を忘れずにずっと心に留めておきたいというふうに思うのか。
これは正確に言うとね、本来修正によって消すことができる間違いを、その間違いにあえて罪というラベルを付けてね、
そして忘れずにずっと許さないというこの心をね、留めておきたいのかっていう。
なんで偽りの自分がこの願望を抱くのかっていう。
なんで偽りの自分がこの願望を抱くのか、ここがすごく大切なポイントね。
そもそもこの偽りの自分というのは、一つ意識、そして私が言うところの価値マックスの本来の自分、ここに意を唱えるために生まれた存在だからなんですね。
これは以前この番組でもお話しましたが、要はこの偽りの自分はね、等しく価値マックスでは嫌なんですよ。
自分だけが特別でありたい、そして自分だけが特別に愛されたいというね、この思いを抱いた瞬間に生まれたのが僕らの中の偽りの自分なんですね。
で、これはまさにこのバラバラ意識が前提でないとこの願望は果たされませんよね。
みんなのその価値が等しくマックスというのはダメなんですよ。
うんやいや、そうじゃなくて俺だけ特別でなくちゃダメでしょっていうことはもう一つではない。
つまりこの偽りの自分が望んでいるのはバラバラ意識の世界。
で、このためにはこの元々一つであったものを分離させなきゃいけないんですね、僕らはね。
これが偽りの自分がの正体でありゴールでもあるわけ。
一つであった僕らをバラバラにしたいわけ。
そして等しくあった僕らをね、等しくない状態にしたいわけね。
罪悪感はこのために欠かせないツールだということ。
僕らは罪人とは一つになりたくないですよね。
そしてさっき言ったようにこの本来の自分の価値も罪によって汚すことができるわけですね。
だから持ってこいのツールなんですよ、この罪悪感というのはね。
だから偽りの自分はこのただの間違いを罪と見てね、ずっと心に留めておくということをやるわけですよね。
これがまさに僕らが作った罪と罰の仕組みのもう一つの側面でもあるということね。
この話をするとね、よく極端な例が引き合いに出されるんですね。
そうは言ってもって言ってね。
今日はここの話はね、僕はあまり意味がないと思ってるんで、あえて具体的な例はあげませんけども。
重要なのはね、僕はこの話を社会の仕組みにしようとかは全く考えていないわけね。
そして今この時点でね、冒頭に言ったように私は慎重にこの話をしている。
だから広く一般に通用するとも思っていないわけです。
しかもなおかつこれはあくまで個人の心の在り方の話をしてるんですね。
だからここでこの極端な例を引き合いに出すということにね、あまり僕は意味を感じない。
要はね、この罪悪感がなければ人は簡単に悪事を働くと言いますわね。
だからこの話をすると何を最初に思い浮かべるかというとね、
この罪悪感を持たなくなった人たちは大丈夫なのかっていうこの不安なんですね。
よりもっと悪いことをしてしまうんじゃないか。
でもよく考えてみてほしいんだけども、
罪悪感と幸せな人生
この番組で散々この罪悪感を手放しましょうという話をしている。
で、私もそれを実践している。
でも完璧にこれをやることはものすごく難しいんですよ。
もうやってみればすぐにわかりますよね。
そして私がこの番組でお話をしているのは、
幸せであることを目的にして罪悪感を手放そうとしているわけですね。
この幸せであることを目的にしても簡単ではないのに、
悪事を悪事と感じないために罪悪感を手放せるはずがないんですよ。
そもそもだからやっぱりこれは本当に空論断ですね。
そうではないんですね。
たぶん一見すると、この罪悪感を持っていないように見える人がいると思います。
これはそうではないんです。
それはその人がもうすでに抱えきれないほどの罪悪感を持っていて、
パンパンになっているその器が。
だからそこから先増えていく罪悪感は、
もう中に入れることができずに、外にそのまま投影しているだけなんですよ。
そしてこの罪悪感をパンパンに抱えた人が、
もう抱えきれずにそれを外に投影するというのはどういうことかというと、
自分の中ではなく、自分の外に悪がある。
そしてこの悪が攻撃していいんだっていうね。
これがその投影の正体。
つまり僕らの攻撃の源なんですよ、これが。
だから罪悪感を持っていないように見える人は、
罪悪感を感じていないんじゃなくて、
感じすぎて、そして抱えすぎて、もうこれ以上持てない。
自分の中に入れたら大変なことになるという、
そういう状態で外に投げているだけなんですね。
そしてこれが自分の外に悪があるというこのイリュージョンを生み出し、
心象を生み出し、だから攻撃していいんだって。
これが悪事なんですよ、つまりね。
そしてそれをやっているのは本来の自分ではなくて、
偽りの自分ですよね。
この偽りの自分はさっき言ったように、
このバラバラ意識の前提を持つために、
罪悪感というのはもう欠かせないツールとして使う。
これが罪悪感を手放すはずがないんですよ。
だから罪悪感がなければ人は簡単に悪事を働くという、
この前提は成り立たないんですね。
そもそもそんなことはありえない。
まず手放せるはずがない。
やってみればわかりますからね。
もうどれだけ難しいか、この罪悪感を手放すことがね。
だからこの辺りを整理していくと、
成り立てた問いですね。
二段階の問い。
この一段階目はそんなに難しくなく、
クリアできるはずなんですね。
自分に罪悪感は必要か。
いや、なくても大丈夫だよね。
他の人にはどう?ってね。
ここはうーと思うんだけど、
今言ったようなお話を踏まえて、
そっかそっかそっか、なるほど。
そういう仕組みであるならばね、
なんていうのかな。
これは取り越し苦労というかね。
そもそも自分が大丈夫なのに他の人はダメっていう、
僕らの中の恐れや不安から生まれる意味付けっていうのかな。
判断解釈。
ここはそのように考えなくてもいいんだな、
罪と罰の仕組みを超える
みたいな感じで、両方NOとね、
こういうふうに通っていくわけですね。
これが最初のステップです。
必要ないということですね。
で、ここからね、いよいよその許すトライに向かっていくんですが、
もう一度このね、三つぐらい前提をね、
しっかりと確認しておきましょう。
一番目は、この罪と罰というのはね、
もともとこの宇宙の深な場所にあったものではなくて、
僕らが生まれながらにね、
この罪と罰という意識を持って生まれたのではなくて、
おそらくある意図のもとに人が作った仕組みだってことですね。
これをしっかりと認識しておくこと。
この意図というのはね、おそらくまあ、
僕らがまあ想像すればわかるように、
困った奴の行動を修正したい、コントロールしたい、制御したいということですね。
ここに罪と罰が効くんだろうと、
そういうことでこれを多分取り入れたんだと思います。
で、これをさっきね、無効にしたんですよ。
必要ないということをね、少なくとも自分自身に必要ない。
そして私から見たこの他の人ね、
これにもおそらく私がそう言うんだったら、
他の人も同じだから必要ないだろうということでね、
この一番をしっかりと認識しておく。
これはその罪と罰のね、仕組み、もしくは罪の意識、
これはですね、自分の意思に関わらず、
必ず人として持たなければならないものではなくて、
これを自分の人生に採用するかどうかは自分で決めていいという、
そういう意味でもありますね。
先ほどの問いにNOと答えられるのであれば、
いらないということですからね。
これが一番目。
罪と罰はある意図の下に人が作った仕組みに過ぎない。
これを採用するかどうかは自分の意思で決めていいという、
これが一番目ですね、前提としてね。
二番目。
これは先ほど言った偽りの自分と本来の自分の関係を表しているんだけども、
僕らは罪悪感という幻想か、幻想なんですね。
つまり偽りの自分が作り出したものだからね。
もしくは現実、このどちらか一方しか見ることができないということ。
もし、罪悪感を持つという偽りの自分側につくとするならば、
僕らはずっと幻想、罪という幻想を見ることになります。
そちらではなくて、ここに罪悪感を持ち込まない、
罪と罰という仕組みを使わないということになったときに、
現実、つまりそれは間違いである。
修正によって消せる間違いであるというふうに見ることができるということ。
このどちらか一方しか見ることはできないんですね。
場合によってはこれは間違いで、
場合によっては罪みたいな見方をすることができないということですね。
幻想か現実のどちらか一方しか見ることができないということです。
罪悪感を持てば幻想を見る。
手放せば現実が見られるということ。
これが2番目。
そして3番目はですね、
これは許す目的について、なぜ許すのか。
これを確認します。
これは言辺の許すの罪を帳消しにする、
これではないということね。
ここは非常に大きいんですよ。
この言辺の許すの罪を帳消しにする行為だと思って捉えると、
許すというのは不可能です。
罪悪感というのはどれだけ罰を与えても消えないものだから、
だからそれを許すみたいな罪と見ないということは不可能なんですね。
そうではなくて、
自分と他の人とこの世界もでしょうね、
これをまさにこの罪と罰の仕組みから解放するということ、
そしてさっき言った、
このありのままの現実を見るという、これが目的なんですね。
つまり罪のない世界を見るということ、
これがもともとあった世界なんだからね、
僕らが作り出した罪と罰という仕組みをこの世界に被せて見ているだけなので、
このベールというか、この余計なものを取り外して、
もう一度改めて現実を見てみるということ、
この3つをしっかりと前提として持っておくわけですね。
そしてここから実践になるんですが、
僕らはずっと、
今日まで年の数だけ、年の年数だけ、
許さないという感覚を持つのが当たり前として生きてきましたから、
そしてそれはなぜかというと、
罪と罰の仕組みの中にどっぷり使って生きていたからですよね。
ここから抜け出すのには、そう簡単なことではない。
これはさっき言った通りです。
だから罪悪感を持たないと悪事を働くみたいなことは、
まずまず起こり得ないのね。
手放せないから。
だから何とかして、
この長年培ってきた習慣というのを変えていくしかないんですね。
これは、じゃあ許すという世界、
つまりさっき言ったようなね、
罪と罰のベールをかけない現実がどうのように見えるかという、
この成功体験を積んでいくしかない。
これはおそらく、
本来僕らがそのように見ていた世界であるはずなんですね。
後付けでこの罪と罰の仕組みの中に、
許すことの重要性
入ってから僕らはね、
この罪と罰を被せた世界しか見てこなくなってしまったんでね、
これを元に戻すということ。
そのためにやるんだから、
やっぱりこの長年の習慣を修正していくには、
とても時間がかかる。
そして、これを身につけていくために必要なのは、
一瞬でも許してみて、
罪と罰のない世界を、
実際にこの、
五感もしくは心で感じることなんですね。
そのために、
10秒だけ、
自分と他の人とこの世界のすべてを許す、
というトライをするんですね。
10秒だけ。
もうほんのね、
10秒だけやってみるということ。
10秒でも、
実際に本気でやったらね、
この許した世界というのが、
10秒間見ることができるんですね。
だから、
1,2,3って10までカウントしながら、
もう文字通りね、
さっき自分と他の人とこの世界。
つまり、
自分がこの許せないと思っているすべてを
許していくわけです。
10カウントの間にね。
で、ここの時に、
おそらくこの悔しさとかね、
意気通りみたいなのが湧き上がってくるはずなんですよ。
なんでこいつ許さなければならないんだ。
でも、10秒だから大丈夫なんです。
10秒過ぎたら、
また許さない状態に戻せばいいだけなんでね。
本当にこの短い間と割り切って、
えっと、1,2,3と数えながら、
まあ、だからきっと
10個ぐらいしか許すことができないのかもしれないんだけどもね。
例えばね、
電車の中に乗ってこれとかやるのは
割とおすすめなのね。
私は結構これをよくやってます。
どういうことかというと、
なんかこいつ許せねえなみたいな人が
電車に乗ってくる時があるんですよ。
で、
その時にね、
10秒やってみようって言って
1,2,3
目の前にいるそのお客さん、乗客の顔を見ながらね、
一人ずつ許していくわけですね。
10秒間やってみるとどうなるかって。
おそらくこれならね、
そんなに抵抗を感じる必要はないと思いますね。
さっき言いましたけど、
10まで行ってね、
うわあ、やっぱムカつくみたいなことに戻ればいいだけなんでね。
うん、
10まで行って、
10まで行って、
10まで行って、
10まで行って、
だから10カウントなんですよ。
最初に10秒だけ許してみる。
全てをね。
で、この時のコツというかね、
どうやってやるかというのは、
一つはですね、
まず全身の力を抜く。
スッと力を抜くんですね。
で、1,2、うん、許していく。
それからできれば、
その間息をね、深く吸って吐く。
深呼吸ですね。
スーッと思いっきり吸ってね、
そしてゆっくりフーッと吐き出す。
それをやりながら力を抜く。
力を抜いて、許す。
許すってやっていくわけですね。
それから心のイメージとしてはね、
全てのこだわりを一遍心の中から全部放り出すような感じね。
ある種のね、
これはね、いい意味での諦めのような心ね。
何を諦めるかというと、
咎めること、そして裁くこと。
もう一つ罰を与えること。
これを諦める。
このようなこだわりみたいなものをね、
心の中から解き放つような感じをイメージするとうまくいきます。
そしてもう一つ、
僕の背中にね、過去が張り付いているっていう、
そういうイメージを持つわけですね。
先ほど、この偽りの自分のね、お話をしたように、
この許せない思いを心に留めておきたいっていうのが、
僕らの中にあるわけね。
これは何かというと、過去ですね。
過去の罪悪感と負担
過去の原影っていうのかな、
過去はもう存在しませんからね。
その原影が僕らの背中に張り付いているんですね。
これが許せない思いでもある。
全ての罪悪感、全ての許せないことは全部過去にあります。
これを僕らはずっと背中に背負って生きているわけですね。
これだけでも相当重い。
これを引っ込み出すような感じね。
まとめると、まず全身の力を抜いて、
それから深呼吸をしながら、
自分の心の中にある、
咎めたい、さばきたい、罰を与えたい、
このようなこだわりですね。
これをスーッと解き放っていく。
簡単に言うと、諦めるってことですね。
このようなことをしても何の意味もないんだっていうね。
さっき言いましたよね。
幸せの全てを手放して、
何を俺は得ようとしているんだ、何も得られない。
だから咎めること、さばくこと、そして罰を与えることを、
諦めのようなね、境地というのかな、
そういう感じで手放していくということですね。
そして最後に過去をひっぺかす。
これをやりながら許すっていう風に言ってみるわけです。
この10秒の間にね、
悪くないなっていう感覚がもし得られたらですよ。
苦しいなって思うんだったらもうやめた方がいい。
でもそうじゃなくて、なんか悪くないぞ、
これなんだ、やばいぞっていう感じがしたら、
何度でもこの10秒トライっていうのをね、
思い出した瞬間にやってみてください。
そしてこの10秒はいくらでも延長できます。
よし、今回20秒いってみようかな、30秒いってみようかな、
何だったら1時間ちょっと全部許してみるかな、
みたいなことまでいけると思います。
少しずつ少しずつこの時間を伸ばしながらね、
そしてこのトライをやる頻度を増やしながら、
10秒許す、10秒許すっていうトライをやってみるわけですね。
で、この間にね、どんな感覚が得られるか、
ここはですね、ちょっと今回はね、
あえて全部お話ししたいなと思っています。
えっとですね、これは偽りの自分がこの一つ意識とね、
本来の自分というのを葬るために作り出した
一つのツールであるというお話をしましたよね。
だからこの許すということによって、
それを使わずに済むんですね。
それをするとどうなるかっていうと、
おそらく僕らはもう恐ろしいイリュージョンを作り出す必要がなくなりますね。
よく佐々木さんが言ってましたけどね、
この悪夢にうなされるみたいなことがあったとしたら、
悪夢を見なくなるっていう効果もきっとあると思います。
そして何よりもね、
誰かの攻撃に怯えるということがなくなりますね。
なぜならば、多くの僕らが予感している攻撃というのはね、
自分が犯した罪に対する罰ですからね。
やらかしたぞと攻撃されるんじゃないか。
そしてもう一つは自分が感じた罪悪感を投影することによって、
私が誰かを攻撃する、その反撃ですからね。
これが僕らが怯えている攻撃、罰か反撃かなんですよ。
この攻撃に怯えることがなくなったら、
僕らが心の中に作っているこの分厚い壁とかね、
重たい鎧みたいなものも役目を負いますね。
これを持たずに済むということ。
これは先ほどのイリュージョンを作り出す必要はないというのと
ほぼほぼ同じ意味なんですけどもね。
このイリュージョンから、恐怖のイリュージョンから、
僕らはこの鎧や壁を作るわけだから。
そしてもう一つ、
善と悪、もしくは安全と危険、
このように僕らは世界を二つに分担して見ていたはずなんですね。
これを持たずに済むということ。
そして見ていたはずなんですね。
これは、悪、そして危険には、
僕らは罪のラベルを貼ったもの。
ここに許すというこの十秒間をやることによってね、
この二つの分担されていた世界が、
ふっともう一度一つになってね、
このもともとさっき言った、
善悪や安全と危険の二分化の解消
この罪というラベルを貼り付けない現実というのはね、
どういうものだったか。
これは僕らが分担した世界が一つになって、
おそらくこの調和という元の姿を取り戻すはずです。
それから過去ですね。
これまで一度も存在したことがない過去。
過去はかつてあったことはあるんですよ。
でも一度も今ここに過去が存在したことはないんですよ。
これをね、ようやくないものだって認めることができます。
なぜか、過去を持っておく理由がないからですね。
ここに僕らは咎めたい、許せない、
そのこの思いをとどめておきたいというね、
この願望から僕らは過去を必要としてたので、
これを許すといった瞬間にもう持たずに済みますよね。
そうするとどうなるか。
おそらくこの時間という概念がね、
まさに長さ、重さ、それから温度みたいな、
そういうメジャーするためのね、
メモリぐらいの意味しかなくなりますね。
そして本来の自分は、
罪悪感によって閉じ込められてましたからね、
最初にお話ししたようにね、
罪悪感と本来の自分は完全に真逆の概念。
僕らが大事に罪悪感を使って日々生きていると、
この本来の自分がなかなか出てこられない。
これが解き放たれるんですね。
本来の自分というのがようやく、
この罪悪感の呪縛みたいなものから解き放たれて、
その時何が起こるかというと、
時間の縛りからの解放
ここで愛とは何かっていうのを思い出すことができると思います。
つまりこの許すという行為はね、
僕らが愛とは何かを思い出すための一つのきっかけみたいなものですね。
確か緑の本では一つ意識にたどり着くための
ルワープゾーンだみたいなことを書きましたね。
架け橋なんですよ。
そして最後にこの番組でもね、
いつもいつも取り上げるこの平安というキーワードね。
この本当の意味に気づけると思いますね。
そうかと。これが私の探し求めていた心なのかと。
これが平安か。
つまり平安というのはですね、
この許すというここを通らなければ、
本当の平安というのは多分得られないということなんですね。
だから私はもっともっとこの話を本当はしなくてはいけないんだけども、
ここに抵抗があるというそういうケースが少なくないので、
何も仕方なくこの許しを使わずにどうすれば平安になれるかなって
いうこともね、いつもいつもお話ししているつもりなんだけども、
でもそれはですね、やっぱり100%ではないんですね。
本当の真の平安というのはこの許しというのを通して
ようやく僕らがたどり着ける心でもあるということ。
これらのことが全部実感できる、
まさに究極の最強メソッドなんですね。
だからよかったらですね、
この10秒トライぜひやってみてください。
そして今私がね、これ予告みたいなものなのかもしれないんだけども、
このようなことが感じられますよと今お話ししたね、
6つぐらいのことかな。
イリュージョン作り出さなくていい。
そして攻撃に怯えずにね、防御全部解き放すことができますよ。
世界は善悪、安全、危険の2つに分断されずに1つになって調和になりますよと。
そして過去がないものってことが認められてね、
僕らはある種の時間の縛りみたいなものからも解き放たれる。
そして本来の自分が現れてね、愛とは何かっていうのを思い出せる。
そして最後に平安ってこういうことだったのかっていうことに気付ける。
これらのことがね、すべて多分起こるはずです。
これを得るのにね、許すということね、
やらなければならないことが本当に重たいんですよ。
やらなければならないことが本当に重たいのかなっていうね、
本当にきついことなのかなっていうね、
これも1つのトレードオフとして参考にしていただければなと思いますね。
まさに究極の最強メソッドなんですね。
だからさっきね、冒頭に僕らは幸せを犠牲にして罪を見ようとしているという話をしましたね。
幸せから想起されるキーワード、これらを一挙に手放しながらね、
そして罪を見ようとする。
そうではなくて、罪悪感というね、たった1つの犠牲なんですよ。
これを払って抜くで、勝ちマックスな本来の自分を思い出すということですね。
で、最後にね、この手の話をすると、
私もよく言われたんですが、それはキレイ事だよと。
そんなに許せるんだったら苦労しないよという意見があるんですけども、
ここで私はあえてね、キレイで何が悪いんだということをお伝えしたいなと思います。
本来の自分というのはね、このキレイという言葉では表せないぐらい美しいんですよ。
しかもおそらくそれはキレイ事だよという言葉にね、既に多分罪の意識、この汚れが混ざってますよね。
幸せを犠牲にしてでも許したくないというこの意志がね、表れてますよね。
だからそれはキレイ事だよということでね、潰しておきたいなという感じがここにありますよね。
まさにそんな世界から自分を救うために許すということ。
ここが多分この話の本質なんですね。
キレイ事でいいんですよ。そのようなキレイな存在なんですよ、僕らはね。
この認識をどうしても持てない。これは罪の汚れが混ざってるからね。
そしてそのような自分を犠牲にしてでも許したくないという、この何も得られない思いをどうしても大切にしたいというね、この強い意志の現れ。
ここから自分を救いましょう。そのために許すと。
そんな風に捉えていただければいいかなと思います。
この許すについてはね、これからもちょっと度々取り上げていこうと思います。
この17日のイベントでね、私に勇気をくださった方、本当にありがとうございます。
今日はそんな感じですかね。
そしてこれはちょっと緊急のお知らせなんですけども、今週の日曜日、あさってですね、
ありのままを見るデッサン教室というのを加藤さつきとやるんですが、これがちょうど今夏休みなのでね、
今日実はこの矢部聖子さんと加藤さつきとね、話しているうちに、ある一ついいナインスな企画を思いついたんですね。
この親子でね、このデッサン教室に参加したいという方はですね、今回ご招待しようと思っています。
一応機材費500円を一人だけね、いただく、それだけでご招待しようと思っていますので、いわゆる受講料はね、無料で構いません。
なので、もしね、ご予定があえば、そうなんですよ、今日思いついたんでね、あさってというね、急なスケジュールだけがちょっとね、問題なんですが、
それなら行けるということであればですね、ちょっと夏休みの一日をですね、お子さんと一緒にこのデッサンで過ごしてみるというのに使ってください。ぜひね。
もしですよ、そのお子さんにこの絵を描く宿題みたいなのがあったらですね、この日に出来上がってしまいますんでね、
そんな風にも活用していただけるんじゃないかと。
よくありますよね、工作でも絵でもなんでもいいんで一つ作ってきなさいみたいな、自由研究ではないんですけど、この自由課題みたいなね、
ここに使えるということであれば、ぜひぜひ活用してください。
そんなわけでですね、このファミリーご招待という感じかな、このファミリーなので、親子でも兄弟でもご夫婦でも構いません。
ご家族でお越しいただければ、もちろん恋人同士でもいいですよ、パートナーとかね、席は入れてないんだけど同棲してますみたいな、なんでもいいんで、
その家族、ファミリーという感じのね、ふくりだよねっていうのがあれば、どなたでも歓迎しますので、
お子さんと言ってもね、自分が50の子供で80の親がいるんだよね、そういう方も実際にいらっしゃるんですけど、デッサン教室にね、
そういう組み合わせでも構いません。
とにかくファミリーは皆さんご招待します。500円の機材費だけで。
PTXにね、そのメニューを作っておきましたのでね、ファミリー割引というところから人数を指定してお申し込みください。
これもね、日曜日にありますので、よかったらぜひご参加ください。
10秒だけ許せない自分と他の人とこの世界のすべてを赦してみる
じゃあ今日はですね、もろもろこの罪と罰の仕組みは私に必要ないというね、この辺の認識から始めて、そして10秒だけ許してみてください。
さっきお話したようなね、体の力を抜くとかいろんなコツを使いながらね、
よっしゃ10秒だけこの世界を許してみよう、この世界のすべてを許してみようというトライをね、
やりながらどんな世界が見えているかっていうのを確認しながら、実感しながらですね、いい一日をお過ごしください。
ありがとうございます。