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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
実は、テイク3で、今日は早くも悩みが出ているんだなって思うんですけど、
まずですね、4月16日にグッドワイブズ勉強会シーズン3を開催しますので、
お時間があればぜひご参加いただきたいと思います。
少しですね、私はシーズン3に入ってから、かなりはっきりと、
これは参加してほしいなって思うような気持ちが強くなってきています。
今でももちろんそう思ってたんですけど、3になってからですね、
僕の中ではこの会は、このコロナ禍のオンラインセミナーとしてかなりありだなって思っています。
本当はもっと高くて、もっと人がいっぱいだといいなと思うんだけれども、
実はですね、多くの人がまだ十分浸透しきっていないオンラインセミナーというもので、
これだけの人を私たちが人とお話しできているというのは、それだけでも結構価値でして、
継続的にですね、考えてみるとオンラインで対面に近い感じだけれども、
実際はかなりリモートでお金をいただきながらお話を伝えていくという、
この形式って全然コロナ前は一般的じゃなかったと思うんですよね。
全く受け入れられない形式だったような気がするんですよ。
ことの良し悪しはともかくとしまして、というか良くないんですけどもはっきり言って、
でもコロナというもので、オンラインでやらなきゃいけないのに本当はと、
これも本当はオンラインでやらなきゃいけないということはないんだけど、
オンラインを使う必要がある場面では使うべきなのにという状態で、
なかなか進まなかったことが世の中にはたくさんありますよね。
つまりオンラインじゃなくてもできる間はリアルにやっておけばいいんですよ。
国会であろうと、アンポリであろうと。
だけどできなくなることというのは何もコロナだけが原因じゃないですよね。
今回の紛争は紛争じゃなくて戦争ですね、すみません。
まさにそういうことだったし、オンラインじゃなくてもどうにもならないじゃないかというケースで、
オンラインが使う形になってませんでしたっていうのは、
この間に及んだら少し遅いと思うんですよね。
こういうことはパンデミックと戦争だけじゃないと思うんですよ。
多々あると思うんですよね。
だからこの速度を加速させたことは確かだなと思うんです。
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本当は何もなくても加速すればいいんでしょうけれども、
何にもないとあんまり加速ってしないですよね。
そういう意味では加速はしたんだなって感じを抱くんです。
Zoomでセミナーって難しかったですからね、そもそも。
そういう意味でもこれはありだなって今は思うようになってます。
コロナが収束すれば当然リアルでやりたいやつはやっていきたいんですけれども、
しない間はこれはこれでやるっていうのがいいんじゃないかと。
そういう形が浸透していくのがいいんじゃないかと。
そういう気持ちもわりと強く出ているので、
そういう動機も強くなったのかなと思っている次第ですね。
今日はグッドバイブスで自分が得てきたものを考えるようになったので、
その話はお祝いするとして、その話をしようとしてテイク3になってるんですよ。
他にもしたい話がいくつかあってテイク3になってるんですけれども、
まずですね、今日は自己発信をこれからは進めていきたいと。
昨日メンタルっていうのを喋ったと思うんですが、はっきり覚えてないんだけど、
メンタルっていうのは私がずっとやってきたことだし、今後もこれを軸にやっていきたいんですけど、
その一環に自己発信っていうのがあるなと。
今のオンラインでっていうのと深く関わるんですけど、
なぜならばこれがそうなんだけど、オンラインじゃないとできないからなんですよ。
パンデミックとかそういう大きな最悪でなくてもですね、
自己発信って普通の人には最悪と何の関係もなく、そうホイホイとできなかったんですよ。
でも今できるんですよね。今こうやって私がやっているように。
これは私が特別だからできるとかではなんらないんですよ。
誰でもこれと同じことはすぐできるんですよ。
お金も全然かからないと言ったら言い過ぎでしょうけれども、
多分ほとんどの人はこれをするためのお金もないってことはないでしょう。
聞いてもらえる云々って話が出てきちゃうんですけど、
それは全然違う話だなと最近思うようになりました。
というのは最近っていうのは本当に最近で、
グッドモーニングボイスにしてから思うようになったんですよ。
ボイスは声なんで。
で、情報発信って言うじゃないですか。
これ聞かれている方には馴染みの深い言葉だと思うんですけど、
情報発信でいいっていう人は情報発信がいいとかね、それでいいんですよ。
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私はそれをもう自己発信だと思うんだけど、別に情報発信でいいんですよ。
しなくなっちゃうというのが一つの問題で、
しなくなんないようにしましょうと。
これを強制することはもちろんしませんしでいいませんが、
しなくなんないようにしましょうと。
で、したくないんですっていう話も分かるんですよ。
したいですっていう人がいる一方でしたくないんですって人もいますからね。
それはしょうがないと思うんだけど、
今の時代はやっぱりなるべくしたらいいというのは思います。
で、自己表現ってあるじゃないですか。
自己表現というべきだと本音では思っていますが、
私自身が実は自己表現という感覚を持たないところがあるんですね。
これはもう個性なのか弱点なのか分からないんですし、
恐れど不安かも分からないんですけど、
自己表現とは僕は言いたくないというのがあって、
自己発信と言いたいと。
そういうふうにもうこれはですね、
これがいい言葉じゃないかもしれなくても、
自分にはこれしかしっくりこないっていうふうに思ってもらえればいいと思います。
情報発信でもいいんだけど、
情報発信だと事故がそこにない感じがして嫌なんですね、私はね。
で、みんな事故は実はついて回ってくるんで、
情報だけ発信ってできないので、
必ずそこには事故が乗っかってくるんで、
なんでって言われるとちょっと困るんですけれども、
必要だっていうふうに私はここのところを思ったんですね。
で、特にメンタル弱いですみたいなお話をされる方は、
ぜひこれをちょっと考えてみてほしいと。
私はそれをこう長々と考えてみて、
こういうふうになってくるんですけど、
自分の中で自分の中で自分の中で自分の中で自分の中で
自分の中で自分の中で自分の中で自分の中で
こういう風になってこういう風になって、
こうだからこうなんだなっていうようなのがあるんだけど、
これはもう自分の頭の中だけでは繋がっているような因果律ってやつで、
ここでお話ししてもぐちゃぐちゃした感じがただするだけだと思うので、
ここではご説明というか言葉にはしませんけれども、
こういうのも含めて事故発信なんですけどね。
事故を発信する。
ブログでも、これのようなものでも、YouTubeでも、顔出しでも顔出ししなくても、SNSでも何でもいいんですけど、何でもいいんですよ。
ストックが大事とかそういうことではないんです。それについてこれからちょこっとだけ説明しますけど、
ストックとPVは全然大事じゃないと思ってやれるような自己発信がいいと思うんですね。
まずお金に関わる話は、お金はこれによって得るというのは大事なんだと思うんですが、
どうしても出だしはそんなに儲からないんですよ。
昔だってそんなに儲かったわけじゃないんですよ。
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一部特殊なやり方と成功を収めた人のみが儲かるものであって、
儲かるのは全然いい話なんですよ、儲かるんだったら。
ただ普通は儲かんないので、儲かると思って始めると、多分ですが不安になってしまうんですね。
この不安っておかしな不安だと僕はよく思うんだけど、
普通にある不安で、つまり例えば発信してもPVが5だったら恥ずかしいとか、
ダメだとかいろいろあるんですよね。
ダメだってのは結構根強いような気がします。根深い。
4しかPVがつかないと自分はダメな人間なんだと感じちゃうみたいな、
そういう雰囲気があってそこを払拭することがまず大事だなと思うんですよね。
大事だというか全てと言ってもいいぐらいかなと思います。
とにかく自己発信をするということの価値っていうのは、
これはGood Vibesの言い回しを使いますが、自己の価値はMAXだということなんですよね。
それを信じられるような形でやらないと、
やる価値がそれこそ半減しちゃうような気がします。
それがPVに左右されたり収益に左右されたりは決してしないという感じを実感するためにやりたい。
でもあんたはこれCMのためにやってるでしょって言われると思うんだけれども、
人によってはですね。そういう側面はあっていいんですよ。
お金が儲かる側面も承認欲求が満たされる側面もあっていいんですよ。
ただそれ以外の価値は見えてきにくいんですね。
だからそれだけになっちゃったような感じがするんですよ。
承認欲求を満たすためにやってますみたいな。あるいは収益になるからやってます。
でもそうじゃない部分があって、見えにくいんだけどあって、
その大きさは非常に大きいものなので、利き手がいるだけでもすごいという言い方を表現されることも多いのですが、
どうしても僕らだからと言ってPV1でいいかって言われるとそうは思えなくなるんですよね。
ここが自分の価値マックスというのが信じられなくなるというのと同じことなんだけれども、
自己発信というのをせずにいると、
これはさっき言ったぐちゃぐちゃした因果律と全く同じ話になっていくんですが、
自己犠牲になってしまう気がするんです。
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これがまたややこしいんだけど、
でも例えばこれをPVのためとかにやるじゃないですか。
そうするといずれ必ず私たちは相当来ない将来に自己犠牲になっていくんですよ。
今日はこれを説明する気力というのかな。
頭の整理がついていないのと時間が十分じゃないのですっ飛ばしますが。
自己発信をせずにいると、日常生活でという意味ですよ。
言いたいことを言わずにずっと暮らしていると、
自己犠牲感が強くなっていくと私は今のような時代は思う。
これが一つ。
もう一つはPVとか証人欲求のために情報発信なり自己表現なりということをやっているつもりでいると、
自己犠牲感が強くなっていく。
私はGood Vibesを実践するにあたって最初に考えたのが、
一番気をつけるべきは自己犠牲を。
これは自己犠牲ではないんだという。
自己犠牲というものが1%でも入ったらダメなんだということを気をつけたんですね。
一番最初にクラゾンさんの文を読んだ時に、
ブログで読んだ時にですね。
これが最初だったと思うんですけど。
お話を聞いた時も思ったんですよ。
これを自己犠牲というものが1%でも入り込んだらアウトだと思ったんですね。
一番よく、時々ですね。
よく聞くんではないんですよ。
入っちゃうんだよなって思うのが、
私は何をされても平気で痛くはないんですっていう訴えなんですよ。
私の本人もそれに近い訴えをいただきましたけど、
こういう感じに傾いたらアウトだなって私は思うんですよ。
本人価値マックスなのに、犠牲になることはないんですよ。
もうちょっと違う言い方をするならば、
つかずに平安であるというのがデフォルトであって、
それがしかも永続するという前提に立った場合、
あるいは一つ意識という前提に立った場合、
自分が何かによって損なわれるということはないわけだから、
犠牲になるとか犠牲になった感じを抱くとか、
何をされてもというような感覚を抱くという段階で、
本当はそうはならないことになっちゃってる。
だからイリュージョンなんですよね。
ある意味付けなんですね。
そういうふうに仮定したとしても、
それを見失うんで、私たちは。
イリュージョンによって現実を見失うんで、
犠牲になった感じを抱くケースはたた起こるんだけれども、
そうなった時には、
これはグッドバイブスだからやむを得ず犠牲になっているんだという思考に流れたら、
もう全然違う話を始めちゃったと思うべきだと思うんですよね。
そうはなってないはずだから。
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なぜ自己発信というものが自己犠牲になっちゃいやすいかというと、
承認欲求を満たすということを一つ考えてみた場合ですね。
承認欲求を満たすというのは、
人が承認してくれるという欲求を満たしたいわけですよね。
そういう欲求を私たちは一つ意識とバラバラ意識の混在の中では、
当然発生するものだと思うんですね。
私たちはつまり、他人というものを求めていますけれども、
他者の存在というものを肯定したいと思っていますけれども、
だから当然肯定されたいと思っていますが、
同時にバラバラだという意識も抱えているわけだから、
自他の区別というものをつけているわけですからね。
他人が承認してくれると嬉しいと、安心だというのもあるし、
他人になるということもあるし、
これも安心だと同じですけどね。
単純に嬉しいということもあるし、さまざまあるんですよ。
私たちはでも個別意識というもの、バラバラ意識というものを抱えているから、
自分と他人の価値観は異なる。
これは個別じゃなくても一つ意識の中でも両立できるんだけれども、
とにかく異なるという意識はあるんですね。
そして異なるというところに、
いだかなくて本当はいいんだけど、異なるというところが恐怖になるんですよ。
だから最初のパンデミックみたいな話も、戦争みたいな話もそうですが、
異なることが怖いわけですよね。
異なることは恐怖になりうると考える。
だから承認されると嬉しいんですよ。
安心だし。
でもこれを押し進めていくということは、
他人が承認してくれるために自分を表現するということは、
つまり自分を表現しないという話になりますよね。
だから犠牲になっている感じがするんだと思わざるを得ない。
結局こういうのが好きなんでしょうと言っておいて、それを書くと。
結局タスク首都よりGTDがいいんでしょうと言ってGTDについてしゃべるということを、
タスク首都についてしゃべりたい人が言ったら自己犠牲ですよね。
こういうからくりで自己表現とか情報発信とか、
そういったものは自己犠牲感を伴うんですけれども、
伴いやすいんですけれども、
だから承認欲求だけがそこにあると思わない方がいいと。
ただこの話、よく自分が言いたいことを言うのか、
人が言ってほしいことを言うのか問題になりやすいんですが、
ここには大きなイリュージョンもありまして、
私たちは人が言ってほしいことが分かっているとでも思っているんですよね。
この話、よく著者さん、ライターさんの集まりなんかで出るんですけど、
これは嘘なんですよ。
自分が言いたいことを言おうとして何らかの形で拒絶されると、
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どうせあいつらはGTDがいいんだって思おうとするんだけど、
必ずしもそっちを出したからといって大受けするとは限りない。
つまり僕らは必ずしも自分が出したいことも、
人が求めていることもはっきり分かっているわけではないんです。
はっきり分かっているわけではないわけだから、
承認欲求が満たされるというのは結局結果であって、
満たす方法になるものが、よく巷では言われているし、
嘘だとは思わないんですけど、ある程度あると思うんですが、
そのある程度分かっている人が分かるようになったのは、
かなり個人的な努力と感性によるところが大きくて、
全く同じように真似をしてみても、
同じような結末が待っているとも限らないんですよね。
それほど明瞭に言語化されているほどの方法論ではないってことですね。
人が求めているものはこうだからこういうタイトルにしましょうというのは、
他の人がやってみてもそうそううまくはいかないんです。
そういう名人芸的なところが出ちゃうっていうことです。
すっげえあれに特化して学べば何とかなるのかもしれない。
ただ、それをやるとやっている真っ最中からも多分
自己犠牲感が出ていくと思うんです。
目指したいところは真逆なんですよ。
自己発信して目指したいのは、
自分の価値がマックスだということを
信じられるようになるためであって、
他者との関係性も中で信じられるようになることであって、
本当にこれが承認欲求を満たすってことと、
ニアミスするのはよくわかるんですよ。
全く同じような感じがすると思います。
でも、出だしのところが大きく違うじゃないですか。
自分が発信したい自分を表現するというのが出発点だしゴールでもあるんで。
だから承認されるかどうかは、
結果論になっていくんですね。
ここを見失わないようにしていれば、
自己発信というのはしなくなっちゃうことはないんじゃないかなと。
自分が570も続いてこれが来たのは、
これが自己発信だからであって、
もちろんPVは気になるし、CMもするんですよ。
だからお金がどうでもいいわけじゃないんですけれども、
それは結局は結果であって、
結果でこれが結末に過ぎないというのは、
奇麗事に近いんだけれども、
100%奇麗事であったらいけないんですよ。