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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
最近ですね、ここ数回は、自分が何をしていくといいのかというようなお話をしているつもりなんですが、
一つ、こういうのがすごくあったというのがですね、全然肩書きにならないんですが、
誤解を解きたい人というのがあります。
これも非常にいろんな意味で微妙だし、誤解を解く活動家という名前を考案したいわけではないので、
結局それを意識して持ちながらやることの活動の名前としては、違う名前を使うということにならざるを得ないと思うんですけど、
それにしても、誤解を解くということについて言うと、自分ははっきり言って少し過剰なところがあるなと思うんですね。
例えば、退化がなくてもそうしたいというのを抑えるのに苦労するし、
今後抑えなくなると思うんだけど、抑えるつもりはもうないんですが、
昔は抑えようとしていたことも、数年前までは抑えようとしていたんですよ。
退化がなければ抑えておこうというぐらい、つまりやりたくなっちゃうということなんですね。
衝動的な感じを抱くんです。衝動ではないと思うんですけどね。
誤解を解くというのは、ただ一方で微妙で、なぜあなたにそれを誤解だと言い切れるかって言われると、
自明だという感覚がある以外に言えることはあまりないんですね。
これが正しさ問題だし、諸々あるんだけど、
ただ自分について言うと、誤解をしていたなということを発見するほど、
えがたいものもないところがあるんです。
私の人生では数度それがはっきりとした形を持っていて、誤解していて本当に良かったと。
これグッドワイブス的になりますけど、そうなんですよ。
例えばタスクシュートがそうでした。
私はタスクシュートについても誤解していたし、タスクシュートがあるということを知らないという誤解もありました。
この辺のことを喋ってきたつもりなんですが、今後もこの方向性で行くことにしたらいいかなと思うんですね。
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今、タスクシュートを例に挙げましたけど、タスクシュートはその辺でアレンジがうまくいってたというか、
開発者の橋徹夫さんは誤解を広めたくないという性格というべきなのか、考え方の持ち主と言えばいいのかな。
私が誤解を解きたいという性質を帯びているから、マッチングとしては悪くないんですよね。
そう考えてみたら、一緒にずっとやってきたのは無理ないなと思えてくるんです。
あともう一つ大きなアレンジとしてうまくいっていたのが、タスクシュートというのは誤解されがちだなというのもあるんですね。
これはGTDに比べて大きな弱点の一つでしょうがないんだけれども、
ことの性質上、どちらかというと誤解されやすい方法論なしツールでもある。
パッと見の印象とその中でやっていることのマッチがミスマッチなんですね。
GTDはそれも私は誤解なんだと思うんだけれども、
入り口として普通の人のものの考え方としてああいうものが好きであれば、
多分ああやるというのはイメージがつかみやすい。
つかみやすいがゆえの誤解もありますが、広まりやすくはありますよね。
そういうことがあるわけですよ、すでに。
でもこれも言ってみればGTDそのものでもあるし、
もうちょっと言っていくと当然類似を意識する人はいらっしゃるでしょうけど、
仏教だってそうなんですよ。
仏教というのは、言ってみれば人は知覚の段階で全部誤解しているというのが肝だと思うので、
それがまた救いになるという考え方だし、
そういうことなんですよね、さっきも言ったことですが。
私がタスクシュートを使い始めて初日にすごいびっくりしたのが、
このツールを私は完全に誤解していたということだったんですけど、
もっと大事だったのが、こういうものがあるということは当然なんですが知らなかったということなんですね。
知らないという誤解って大きいものだと思うんです。
私は時間管理というものを長らく、それこそタスクシュートの前から、留学する前からですね、
延々こうチャレンジし続けていたんだけど、
そういうふうにやっている人はよくご存知だと思うんですが、
無理なんだろうなってどこかで思っているという気がするんですよ。
06:03
私はそういう気がしていたんですよね。
こんなことは無理なんだろうなって思っていたんですよ。
だけどタスクシュートに出会って、無理じゃないんだっていう発見があったんですよ。
この無理なんだというのは誤解なんだっていう発見なんですよね。
これが大事だったと思うんです。
こっちのほうが大きい。
この自分が思い描いた通りの世の中の姿をしていないというのは、
やたら言われることなんだけど、
日々やっぱりですね、誤解をし続けていると、そうは思えないんですよね。
世の中は自分が思い描いている通りの姿をしているような気がして、
しかもそれに失望してしまうと、希望がなくなるんですよ。
世の中で生きるというのは、時間管理なんて諦めるしかないんだと、
そういう世の中を脳内でしっかり描いて、
そういう眼差しで持って、世の中を見ると、
いろんなものはあるんだけど、フランク・クリップ・ランナーとか、
そうですね、私がやっていたので言うと、新潟キャノテックさんのだとか、
いろいろあるんだけども、どうせこういうものを全部ローダス・ノーツとかね、
そういうものですよ。
そういうものに期待はするんだけど、最初からでも失望と絶望も入り乱れているわけですよね。
また前と同じようなことになるんだろうなと。
ところがタスクシュートで、そうじゃないってことを知るってのは大きくて、
何しろあれは大橋さんと他何名しか知らないものだったから、
知っているはずがないんでしょうがないんだけど、
でも知らないものが世の中にあり得るということになりますよね。
自分が知っている世界で、世界の全部ではないと。
それは自明なようですが、自分が知っている世界で、
それは自明なようですが、なかなかそうは思えなくて、
この種の誤解を私たちは世界に対していつも押し付けている感じがするんですよね。
実際そうしていると思うんです。
だから誤解しているという発見は素晴らしいんですよ。
世の中にはもっと希望が持てるっていう話になりますから、自然と。
世の中に失望しているというその確信が日に日に強まっていくと、
嫌になっちゃうじゃないですか。
この嫌になっちゃうというのに対して、
実はこんなに良いものが普通にあるんですっていう話になると、
途端に自分のそれまでの発想というものが良い形で粉々になるという、
そういう体験ができると一番良いという気がするんです。
そういう体験を、結局こういう言い方なんですけど、
共有してもらうために誤解を解くというのが自分の仕事になっていけばいいかなと。
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そんな風に思ったんですね。
それが昨日、自己発信と言っていた時に意識していた話だったと思います。
私はこの経験何度かしているというのは、もちろんグッドワイブスがそうだけど、
その前に、つまりタスクシュートより前にアトピーがあったわけです。
アトピーも同じなんですよ、タスクシュートと。
それまで私、病気がちだとされていた子供だったので、
当然ですが1970年代中盤に生まれた者としては、
医者にかかります。これはもう徹底的にかかる傾向がある。
もう医者に行っては薬をもらって、寝てそれを飲むと。
基本的に治るわけじゃないですか。
今思えばそこにも様々な誤解があるんだけど、
科学振興みたいなのが最大級に高まっていた時期ではあるんですよね、ある程度。
今よりずっと強かったような気がします。科学振興ですよね、あれは。
なぜなら中身についてよく分かっていないままやっていることだから。
処方してくれる人は中身についてもよく分かっていたと思うけど、
飲む方法はもう、お医者様の薬を飲んでおけば治るくらいの勢いなんですよ。
しかもそれが科学的であればある程良いことになっていたんですよ。
1980年代前半くらいからピークだった気がします。
今よりもずっと強かったと思いますね。
とにかくそうやって薬で治すわけだから、
つまり薬で治らない病気は大変なわけですよ。
薬で治すんだから、もうそれしかないんだから、
薬で治らない病気を自分が抱えてしまったということになると、
不思議なんですけどね、まず最初に感じることは、
世の中から追放されたような気になるんですよね。
僕みたいに病気勝ちっていうふうなレッテルを一旦貼られた者としては、
医者を使うことによって初めて社会の中にいられる感覚がだんだん固まってきて、
それは家族ぐるみで固めちゃうんですけどね、固まってきて、
そうしていないとダメな感じになっていくっていうのがあって、
アトピーっていうのがまさにそれに相当するんですよ。
何やっても治らないっていう病気になるんですよ。
さっき言った通り、だんだん失望していくじゃないですか。
あれやこれやの両方があるんだけど、
本当に数え切れないぐらい試してきたんだけど、
一向に良くはならなかったわけですね。
そうすると、これ治らないんだろうなって思い始めるじゃないですか。
というか、とっくに思うんだけど。
これも今思い出したんですけど、こうなってくると次に何が起こるかというと、
これはもう家族にもよるんでしょうけど、特に母がちょっとひどかったんですけどね、
12:00
今思うとあれは問題だなと思いますが、
病人とは罪人であるみたいな扱いになっているんですよ。
しかもうち宗教でしたからね。
そういうことをあからさまに言う人も神徒さんですけど、いますからね。
父はそういうことを言うタイプじゃなかったけど、
前世で悪いことをしたとか言うじゃないですか。
そういうふうになっていくと、自分が悪いことをしているから、
この病気に取り憑かれているんだみたいにだんだんなっていくんですよ。
オカルトですけどね。
宗教とオカルトって全然違うんだけど、そうなりやすい問題ってあるんですよ。
そうは言っても化学振興なので、薬塗りますわね。
フルコートとか、かなり強めのやつをね。
そっちの副作用で悪化していくわけですね。
なんか絶望的な感じがするじゃないですか。
実はこれ全然絶望する話ではないんだけど、
絶望的な感じになっていっちゃうんですよね。
気持ちの上で。
欲打症みたいなのが合併して出てくるんですね。
さっきのタスクシュートと出る構図は同じで、
要はこの問題を解決する方法はこの世の中にはないんだと。
専門知識を持っている化学振興なので、
お医者さんは基本的にこれを相手にしていないんだと。
相手にしていないんだと。
それはですね、大学病院とかに通うようになるとよくわかるんですよ。
全然窓外れな検査をいっぱいさせられて、
例えばあなたの家にはダニが多いとかね、
わけわかんない話になっていくんですよ。
全然そういうことじゃないんだけど、
確立していない何かがそこにあるものだから、
もううちはダニが多いことになっちゃうんですよね。
僕はあの時、行くたびに6回くらい採血されて、
やたら精密な検査をしてあげるダニなんですよ。
ダニのはずないわけですよね。
うちとかそんな別にすっごい汚い家だったとかではないし、
寺なんて通気性いいから、
そんなに他の普通の人よりもはるかにダニが多いから、
あなたがアドビーになっている。
でも家族になっているのは私だけなんですよ。
そういう世界に入っていっちゃうんですよね。
そういうことを母も聞いているわけじゃないですか。
そうすると僕が怒られるという話になっていくんですよ。
中学生くらいでしたかね。
こういう流れの中で、
不意に見つかったんですね。
ラッキーなことに。
最初が温泉で、これでほぼ治っちゃったんですよね。
依然としてよくわからん話なんですが、
でもこれで治っちゃって、
もう一つが糖質制限ですね。
これでほぼ完全に治ったんだけど、
つまりそうなると、
さっきのタスクシュートと同じで
ガラッと物の見方が変わるじゃないですか。
世の中にはこれを治す方法はないっていう誤解で
私の頭の中は埋め尽くされるんだけど、
15:02
善傷しますよね、当然。
なぜならば治ったんだから。
つまり治ったから、
なぜならば治ったんだから。
つまり治る方法も、治す方法も、
治るという事実もあるわけですね。
ある方が現実なんで、
切り替わらなきゃならなくなるわけです。
それがどういう理由でどう治ったのかは、
究極的にはわからなくても、
何らかの方法で治るということは、
それまでの私の判定というものも
世の中に対する一つの確定した物の見方みたいなものが
覆る。これがつまり誤解を解く上で大事なんですね。
誤解を解くという事の効果として大事。
一番手前の所にあるのが知らないという誤解なんですよ。
これでは治らないという誤解はその先にあるものであり、
まず知らない事にはどうしようもないですよね。
あり得ないという誤解が一番最初にあるんですよね。
治す方法は存在しないという誤解。
ここから来る。ここが一番遠い。
絶望感も強いし。
だから知らしめるという誤解の解き方があって、
普通そういう言い方はしませんけどね。
広く周知するみたいな。
それが最初の役割になるはずだなと。
実は誰にとってもそうなんじゃないかなと。
で、アトピーでしょ。
様々あるんだけど吸っ飛ばしてタスクシュートでしょ。
様々あるんだけど吸っ飛ばしてグッドファイブスなんですよ。
これは私が他人を怖がるのは必然だっていう。
つまり他人を怖がらないという。
私は存在しないという。
今までの構造とちょっと違うんですけど。
他人をみんなが怖がってるじゃないですか。
他人すなわち怖いものなのではなく、
他人を怖がる私というもの。
これに対する固定的な見方が確立していたわけですね。
それがこんなにも面倒くさい事態を引き起こしているというのも
基本無視していたわけです。
この二つの重大な誤解があって、
そのまま突っ込んでたから、私は。
当然それに対しても、
いい加減言いたけばいいようなものなんですけど、
この二つだけじゃないですからね。
あとビットタスクシュートの二つだけじゃないんだけど、
やっぱり人間ってそういうところがあると私は思うんですよね。
人間だけじゃないかもしれないけど、
つまりこの世の中のものの見方として、
勝手に確定してしまう。
ただ三つ目の場合、私に対する視点として勝手に確定してたんですけどね。
私とは他人を怖がるものであって、
それはしょうがない。
それをタスクシュートを使うことで、
むしろ日々強化していくわけですよ。
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要するにやらかさないように、
あの手この手を打って怖がるわけだから、私は。
怖がらないように、怖い目に合わないようにしてあげようと。
これを強化すればするほど怖くなっていくという副作用もあるし、
あとこれをどれほど強化しても防ぎきれないという問題もあるし、
これがつまりグッドバイオスで解かれたわけですが、
この誤解を解くということで、
やっぱりさっきの二つと全く同じことが起こるわけですね。
まず、あり得るという可能性について検討できるというのと、
もう一つは、
実際にそれがあり得た場合には、
実際にその可能性について検討できるというのと、
もう一つは、
実際にそれがあり得た場合には、
想像以上に副産物がでかい。
これは時間管理の時もアトピーの時もそうだったんですけど、
治すためにもっと真剣になってもよかったと思えるぐらい、
やっぱり得られるものは、
連鎖反応的に得られるところがある。
例えば、これも不思議なんだけど、私の場合ですよ。
グッドワイブスで、
大人に対する大人恐怖とはちょっと違うんで、
例えば、人の目を見ていたり、
顔を合わせるといきなり怖くなるというのとは違うんで、
大人不安みたいなものなんですが、
神経症みたいなものですよね。
ここから解放されると、
私は糖質制限なしでもアトピーは出なくなっちゃったんですよね。
何でなのかは、何となく内的には説明できるんですけど、
これを納得いくようには説明できないです。
多分、それを今トライすると、
グッドワイブスをやればアトピーが治りますみたいに聞こえちゃうと思うんですが、
そうではないので、
私の場合には大人不安の神経症みたいなものがとても強くあって、
それがありとあらゆる問題を著しくややこしくしていたんだけど、
それが全部なくなった途端に、
一時中継続していた緊張感がガクッと下がったので、
それが多分神経症として現れなくて済むっていう意味なんですよね。
もうちょっと踏み込んで言うと、
人と会うということは、
体に痒みを覚えうるような話であるっていう私の感覚があって、
それに体がある意味応えてくれていた、
そういうことだと思いますね。
それがなくていい状態になったので、痒みという反応がなくなっていく、
そういう流れなのかなと。
こういうことはあるんですよね。
一番私に分かりやすい心身症の事例として、
2つあるのは、はっきりと見たこともあるということとしては、
夫婦仲が悪い子は、学校に行きたがらなくなるという心身症があるんですね。
21:06
あれは、自分がいる間は離婚が決定打にならない、
そういうふうにまでは子供は考えないんですけど、
ある程度そういう感覚があって、
だから家から出られないし、学校に行くように教養されても、
子供が気にしているのは、両親が別れてしまうことだったりするわけですね。
この話は前もしたとは思うんですが、
私がそれをなぜ見たかというと、見たんですけれども、
でも子供は、なだめられて大丈夫だからというか、
何が大丈夫なのかというのはずれているんですけど、
親に言わせれば、学校に行っても大丈夫だからと言っているんだけど、
子供が心配しているのは家庭の心配だから、
そういう話は通らないんだけど、学校に行くわけですよね。
そして、行くようになってしばらくして離婚されたという家庭があって、
非常に子供っていうか心身症ってすごいなって思うんですけど、
これは心身症というか、体に出ているというよりは、
でも熱出たりするから体に出ていなくはないんですけれどもね、
行動に現れる形をとっていますが、でも近いんですよね。
行動と体に出るというのはタイアップするみたいなものが心身症だと思います。
自分はそれから解放されてみて、
つくづく二度と対人不安感を持つのは、
何があろうとやめようという、こういう気持ちになれるんですね。
なぜならば、それには多分アトピーがついてくるでしょうからね。
それで考えると相当嫌じゃないですか。
他人が不安なだけでは済まなくて、
あれにまつわる諸々の不快感を全部取り戻していくことに取り戻すというか、
お祓いをした悪霊が全部帰ってくるみたいな感じになるんですよ。
だからわりと強引にでも少し強気にでも、
そういうのは振り払いたいって思えるようになるんですよね。
心身症まで来ると、精神的な問題というものが
すごく具体的で嫌なものになっていくので、
その辺が少し真剣になれるかなという、
そういう副産物の効果もありました。
だから誤解しているというのは、
一番最初に一番手前のところであるのは、
この世にそれに対するソリューションはないという誤解なんですよね。
グッドバイブスが言う、今78億円でしたっけ、
個性と役割があるという話は、
なんだか最初に聞いたときに、
えらく多いなと思ったわけですよ。
人口がそうだから当然なんだけど、
そんなに役割あるだろうかと思ったんだけど、
一方で、私は賛同少なくとももっと多いですが、
24:03
重要な経験をしているわけじゃないですか。
この世には見たこともないソリューションがありました。
その見たこともないソリューションを考案している人が当然いました。
一番最近のが倉園さんだし、タスクシューター大橋さんだし、
都市政権も当然考案した人はいるわけですよね。
そういう人のことはもちろん知らないわけで、
その人たちが何の情報も発信せず、
自分だけのものとしてのソリューションを抱えていらっしゃった場合、
私はそれを享受することはできないんですよね。
自分でも考案できそうに後から考えると平気で思うんだけど、
とんでもないことで、私は党出政権でアトピーなのだと全く思いませんでしたし、
タスクシュートなんていうのは多分、
私が一生かかっても考えつくことはなかったと思うんですよね。
それくらい人の思考の癖ってものがあって、
私が考えることはいつもGTDみたいだったわけですよ。
GTDのことを知る前からGTDみたいなことはずっと考えてたんですね。
あれがだからとっつきやすいってことなんですよ。
そういう思考回路は持ってたわけですね。
でもそういう近い思考回路を持っちゃうと、
タスクシュートみたいな発想には至れないんですよね。
ずっとGTDみたいなことを、あのアリューみたいなものを、
多分1000種類くらいは考案しては失敗してるんですよ。
この変な執念深さがあって、タスクシュートに出会えたとも言えなくもないんだけど、
そういうことがあったんですよね。
だから自分じゃ考案できないんですよ。
これが多分人は一人じゃ生きられないってことなんだろうなと思うんですよね。
レッドワイブスもそうで、
私は寺にいたんだから、
ああいう発想を持てても良さそうなものなんですよね。
どこがどう違うっていうのは難しいんですけれども、
結局それは、
例えば私の場合で言うと、
寺に住んでるってことがむしろハンディになってしまうんですね。
イリュージョンというもの一つとっても、
イリュージョンということについては、
家でも死ぬこと言われてるわけですよ。
なんなら毎朝5回唱えるんですよ。
5回唱えるとイジシカがかかっちゃうんだけど、
5回唱える中に書いてあることは、
イリュージョンだってことばっかりなわけですよね。
それを何遍唱えようと何回確認しようと、
心の底では自分の中では、
わかんないことだろうなって思ってる自分がいるわけですね。
そういう幼い頃から繰り返し繰り返し、
偉い人がこれを発見しました、
イリュージョンです、イリュージョンです、
っていうのをずっとやってると、
27:01
偉い人にはわかることなんだろうなっていう風に、
僕の頭の中では固まるんです。
こういう風に固まってる人は、はっきり言って、
神徒さんにもいっぱいいますよ。
いつかわかればいいことだってことにしちゃうんですよね。
今は自分にはまるで関係のないことみたいに考えてしまう。
だから言ってることの内容そのものは
グッドバイブスとそれほどは違わないというか、
告示してるという面もあるんだけど、
これをイリュージョンだと思ってみるというのを、
日常生活の中に入れるっていう発想はなかったわけですよ。
私にはね。
自分に当てはめるという発想はましてやなかったわけですよ。
自分の対人不安はイリュージョンだと、
イリュージョンなのはわかってるんだけど、
でも私は対人不安を持つ人だっていう方が強くて、
圧倒的に優勢で、
そうは考えないんですよ。
だからお経の本に書いてあるっていうのではダメなのですよね。
ここが非常に大事で、
目の前の人がそれを喋ってくれるっていうのがまずいるんですよ。
父が喋ってくれそうなものだとは思うんですが、
父はどっちかというとやっぱり、
人が面倒くさいのはしょうがないくらいな人だったりするんですよ。
性格ってありますからね。
そこでは全然仏教的じゃなかったりもするわけですよ。
日常生活の会話の中では。
だから解けないんですよね。
要は、それでは。
私はむしろそれを固めていたわけで、
タスクシュートも同じなんですね。
時間管理というものはできないんだと。
そういう確信を持っちゃっているので、
フォア下ができるんですよって言ってくれたわけじゃないんですよ。
私がその衝撃を受けたというのは、
使った初日に、
何だろうな、何つ言えばいいかな。
自分のことは何も知らない。
これもウッドバイブ素敵ですが、
ということを時間に関してだけですが、
突きつけられるんですよね、あの通路は。
あなたは何のために生きていて、
何をしようとしているのかを全く分かっていないっていうのが、
通路の側から猛烈に目の前に置かれ続けるっていうんですかね。
例えば、時間が大事だと言って、
時間を使っていることのために私は生きているんだって、
例えばそういうふうに考えているとするじゃないですか。
そうやってタスクシュートをいざ見てみると、
あなたは食べて寝るために生きているんですよっていう答えが返ってくるんですよ。
だってそれが圧倒的な大量に使っている時間ですから。
普通に自然に過ごしているつもりなのに、
明らかに、例えば私は本を書くために生きていたいんだみたいに思っていたとするじゃないですか。
30:00
本を書いているのはわずか、私の場合だけど、
24時間のうちの35分とかで、
あとは食事、食事、睡眠みたいな世界にドーンとなっているわけですよね。
これ否定のしようがないんですよ。
事実としてそうなんで。
もし、時間を使うことのために生きているとか、
時間を使うことによって生きているっていうなら、
明らかに僕は食べるために生きているか、食べることによって生きているか、
その両方がなんですよ。
あれを見るとね。
そういうふうに見るだけで、
時間管理についての考え方もガラッと変わるんですよね。
GTDでは出てこないですから。
睡眠のためにとか、食事のためにって。
そういうのは最初からそもそもリスト上にないはずですからね。
ある人もいるかもしれないけど、僕は全然ないんですよ。
毎日食べてましたから。
食べなきゃと思って、それが気になることにして、
心の中でモヤモヤするなんてことは決してなかったんで。
そういうことなんですね。
だからそういうふうにして、アプローチもソリューションもあり、
しかもそれを考案する人がいると。
だから78億もいるっていうことには、相当の可能性があっていいわけですよね。
仮にそれらの人とダイレクトにつながることはないにしても、
地球の裏側みたいなこともあるわけだから、
国内に限って言ったって1億じゃないですか。
1億じゃないですか。
だから自己発信って大事だなって思うんですよ。
発信してもらわないとわからない。
藤子藤英さんが昨日亡くなったというニュースを見ましたけど、
彼は漫画道ですごい発信してくれたじゃないですか。
漫画家になるっていうことについての発信を。
あれは私は情報発信というよりはやっぱり自己発信だと思うんですけども、
私はあれを何回読んだかわからないくらい読んでるんですね。
なぜかわからないです。
私は漫画家になりたいと思ったことはないんで。
なれると思うこともなかったんで。
これもイリュージョンかもしれませんけどね。
つまり誤解かもしれませんけど。
何にしてもなかったんで。
ただあれが一番僕は読んだ漫画だとは思います。
僕はもともとAさんは好きで、
これは別に比較する必要は全然ないんですが、
Fさんよりははるかに好きだったので、
Aさんの漫画は一刻書きのものを除いてはほぼ全部間違いなく読んでると思うんですね。
Fさんのは断片的にしか多分読んでないんですよ。
それはまあいいんですが。
あの漫画道なんかがそうで、
つまり足りてないとよく思うんですね。
私が子供の時なんかひどいもんだったけど、
今でもこれほど発信のできる時代なのに、
例えば人々はどうやって働いているのか、
たとえ少なくとも漫画道に書かれているようなレベルでは全然わかるようになっていない。
だから僕らは小さい頃からですね、
33:01
なりたい職業、プロ野球選手とかになっちゃうんだと思うんですよね。
プロサッカー選手とか。
周りなりにも見ていて面白そうだと思える職業って、
あれぐらいしかないんですよね。
それぐらい発信されてきてないですから、
日々例えば郵便局の奥の方にいる人はどういう仕事の仕方をしているのか、
僕らは全く知らないに等しいですよね。
さすがにこの年になると想像がつくけど、
遅すぎるじゃないですか。
職業って早い人には15、18の段階で意識しなきゃならないんですが、
はっきり言って私15とか18の頃に、
わかっていた職業としては唯一たった一つ、
あ、二つだ、二つしかなかった。
父の坊さん。
これはもうなる気が当時全くなかったから、
花から選択できない。
でも知ってはいましたから、何してたのかはね。
内側からよく見ていてよくわかっているのはあれしかなく、
もう一つが学校の先生ですよね。
これもなりたいかなりたくないか分からないにしても、
ほとんどの子供たちが一応、
まあそれだって相当表面的だけど、
それにしてもその人と接し、
その人の仕事場というものを目の前で見ているケースとしては、
この二つ、親の職業とか、
学校の先生ぐらいしかないんですよね。
だから今でも結局、
一位YouTuberとかになっちゃうと思うんですよ。
YouTubeは見てるから。
これはつまり、発信されているものが少ないっていう意味でしかないと思うんです。
私が一番必要としていたのは、
私が一番必要としていたものを三つとっても、
アトピー等、つまり糖質制限とかスクシュートとかドバイオスじゃないですか、
それ知っている方がよっぽどよかったんだけど、
学校の先生とかしか知らないんですよ。
だから僕らがやりたいと思うこととか、
なりたいと思うことがないですとか、
なりたいわけじゃないんだけど、
とりあえず教職の免許だけは取っておきますとかいう話になってしまうと思うんです。
あるいはお医者さんとか、
お医者さんもある程度はかかったことがないという人は稀でしょうから知っているし、
しかもお医者さんはいい生活ができそうだってことも知っているから、
こういう理由しか職業って選べないじゃないですか。
そういう風にならないようにってことはないんだけど、
つまりこれは一つの誤解だと思うんですよね。
世の中にYouTuberと医者と教師とサラリーマンだけしかいないってことはないわけですから。
こういう誤解をちょっとずつでも解いていくには、
細かく発信していくしかないような気がします。
残念ながらブログとか今はSNSもありますけど、
あまりにも情報が断片的すぎて、
しかも独特のネガティブさに彩られたりしていて、
さっぱりわかんないんですよ。
人が結局仕事中何をしているのか、
36:01
もう全然わかんないような気がします。
前よりはそれでもずっとマシなんですけど、
私が子供の頃は今よりもさらに遥かにひどかったですから、
ネットがなかったんで、
本当にサラリーマンというのは、
はっきり言えば、
満員電車に乗るっていうシーンしか見ないぐらいな、
そういう人たちの集団だったし、
あとはやっぱり学校の先生でしょ、
プロ野球選手になりたいって、
そういう話になっちゃうんですよ。
それじゃたまったもんじゃないというか、
あまりにも情報不足なので、
だから私たちは誤解しちゃうと思うんですよね。
大きくなったら、
一部一握りの人たちだけはプロ野球選手になれて、
他の人たちはみんな満員電車に乗る毎日になると、
嘘ではないかもしれません。
結局何もありえないというのとよく似てると思うんです。
私がずっと抱いていた失望感と似てると思うんですよね。
そこには誤解しかなくて、
大きな大きな誤解があって、
中身について何も知らないのに、
何もかも分かったような気になり、
しかも失望感が漂うというね、
大きな大きな誤解があって、
中身について何も知らないのに、
何もかも分かったような気になり、
失望感が漂うというね、
それを何とかもっとできるんじゃないかなと思うし、
そのやり方の一つが多分、
みんなで自己を発信するということになっていくんじゃないでしょうか。