2021-12-01 37:57

【GMV 505】発達障害っぽい?

ニードをニーズに変えすぎる
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今週の土曜日、オンラインセミナー、グッドバイブス勉強会シーズン2の最終会話をやります。
まだ残席ありますので、よろしければお願いします。
あと、今月26日に書き上げ塾第5期、第1回が始まります。
残席は残り少ないので、気になっている方はチェックしてみてください。
昨日はロングスリーパーさんからのツイートをネタにさせていただきました。
今日のツイートでは、発達障害と成長性の連続性を図示されていました。
図示していたのは、ある本からの引用です。
私は、本の引用が分かりやすくていいなと思っています。
2軸があって、簡単に2軸に分かれません。
一方には、横軸に知性の発達、横軸に関係性の発達。
主に特に知性ですね。
いわゆる算数とかIQとか、そっち系の話です。
横軸にそれをとると、成長発達の人はど真ん中にくる。
ここが平均的に一番多くなるわけですが、
上の発達が強い、つまり横軸が関係性で縦軸がIQじゃないといけない。
上のIQの伸び率が高く関係性の発達があまり伸びてこないという人が発達障害とみなされやすい。
このみなされやすいが大事で、
このちょうど反対側の関係性の発達がすごく進んでいるけど、
IQがもう一つという人のところには何の病名もないんですよね。
と見えますよね、私たちの目には。
異常に頭のいい小学生って目立っちゃうんですよ。
03:04
いるじゃないですか、時々。
小学校、高学年なのに美跡いけますみたいな。
その子がただ頭がいいだけならいいんですよ。
そうじゃなくて、誰とも口を聞かず友達作りませんという話になると、
私たちはそこに何か目印をつけたくなっちゃうんですね。
この逆は誰も心配しないというバイアスがあるんですよ。
友達いっぱいいるんだけど算数全然できなくて、
めちゃくちゃ正常そうな感じがするじゃないですか。
これが反対側なんですよ。
だからこれはつまり正常発達との連続性というのは、
つまりバイアスがかかってますよということでもあるんですね。
どんな病名でもそうですけれども、
そこには私たちが普通はこうであるだろうと勝手に思う像からの逸脱度で問題を測るんです。
しかもここに連続性があるということをあの本では強調されてたけど、
ここに不連続性があるということをむしろ強調したいというケースもあるわけですよ。
例えば製薬会社さんとかね。
これは必ずしも製薬会社の陰謀だという話ではないというか、全然そうではないです。
うつ病はなぜ増えたの本にあるんですよね。
名前ちょっと忘れましたけれども、
産管系の抗うつ剤がすごくいい薬が出たというキャンペーンが始まるとともに、
その国のうつ病の発症率は上がるという、これ相関関係ですよ。間違いなく。
別にそのこと自体が大問題だという人もいらっしゃると思うんですけど、
これはだからうつ病が作り出されているという話ではないんですよ。
詳しくはブログとかでもう一回取り上げればいいんですけどね。
昔取り上げたんですが、大変よく調べられて書かれている本です。
要するにマクロとミクロは違うんですって意味なんだけど、
マクロ的には製薬会社さんに力がかかればですね、
自然とその病名は増えていかざるをえないという構造について書かれているんですね。
これは何も病気が作り出されているわけじゃないんだけど、
でもその病気は増えていくっていう不思議な現象といえば、
僕らの目には不思議に見える、不思議ではない現象なんですね。
予算をつくし、何なら国もそこに予算をいっぱい取り入れて、
そうすると潤沢な資金でキャンペーンを張りやすくなるし、
どっちを進めるとなれば、お医者さんは同じ薬の効き目ならば、
よりメジャーになっている薬の方をおそらくは進める。
06:04
無難ですしね、多くの人が飲んでいるわけでもあるわけですから。
そして手遅れにならないうちに、アメリカの医療機関が
今大谷翔平さんとかが活躍されているじゃないですか。
今じゃないですけどね。
あるんですよ。
ペインイズントオールウェイズ。
なんかそういうですね、
痛みは常に明瞭な兆しを伴うわけではないっていう、
ただの文章みたいなんだけれども、
そうではなくて、あれは強力なキャンペーンで、
私もネバダ州立大に行っていた時に、
あのキャンペーンをどこかでやたらと目にしたんですよね。
ペインイズントオールウェイズ。
そういうやつなんですよね。
オービアスで。
いつも痛みは明らかではない。
あれは多分自殺防止キャンペーンだったと思うんですけどね。
エンゼルスの球場とかに貼ってあったりとか、
エンゼルスの球場とかに貼ってあったりします。
大きく。
ああいうキャンペーンを打つには、
当然エンゼルスの球場に大きく弾幕を貼るにはお金がかかりますよね。
例えば、アメリカの処方の仕方って、
処方のシステムって日本のとすごく違って、
私薬手に入れるのに異常な苦労をした記憶があるんですが、
そういうキャンペーンがあるかないかで、
その薬の入手の用意度は全然違ってきますよね。
例えば、新しい薬でも抗不安薬でも何でもいいんですけど、
アメリカではそういうのってすごくメインでした。
当然そういうふうにあちらこちらで言われていて、
自殺の予兆というのを見逃しちゃいけないということを盛んに言われていれば、
そういうものに対する人々の注意力が上がっていきますよね。
そうすると自然とその病名も増えてくる。
耳にする機会も増えるっていう話があるわけですね。
発達障害とかHSPとかもそうですし、
うつだってそうなんだと思うんですけど、
私が高校の頃はほとんど聞いたことがなかったんですよ。
ほとんどそんな人は見かけることはないみたいな話でした。
それが大学卒業してしばらく経ってからは、
うつの話はある意味では本屋さんなんかに行っても膨大にあるみたいな、
そのまま増える一方、考えてみるとそれって不思議じゃないですか。
それは少しも実はすごく不思議だと思ってそのお医者さんも調べたんだけど、
別に実は不思議な話ではなくて、
実はそういうことがこれから起きるということを予兆することもできるみたいな、
09:01
そういう話だという本があったんですね。
あれは全くあの通りだと思います。
私はそれを2000年にちょうど言って、
アメリカでそのままの光景を日に日にそういうものを目視する機会が増えていくんですよ。
そういう現象というのがある意味外国にいた時の方が分かりやすいかなという気がします。
大難幕とかもガンガン張り替えられると気が付くんですよね。
あんまり国内にいると広告がどんどん張り替えられても目を引かないんだけれども、
やっぱり外国にいるとそういうのが読めないのが読めると嬉しいとかそういうこともあるので、
やだらと目に付くようになっていくんですよ。
考えてみればそこにはたくさんお金がかかっているはずですけど、
たくさんお金がかかっているはずですから、当然増えるわけですよね。
Isn't always obviousであれば、気づく人が増えれば、
当然手当てする人も増え、手当てする人が増えれば、
薬もたくさん出回って、その病名もたくさん耳にするようになると、
そういうからくりといえばからくりなんですよ。
長々と喋ってきたんですけど、
発達生涯というのはそういうふうに途中から増えてきたんです。
とにかくそれは僕が子供のときから感じて、
記憶ではほぼ確実。
小学校時代にその病名、私聞いたことがなかったですからね。
発達生涯なんだから、基本的には子供の間で聞く言葉の話ですけど、
私は学習生涯という言葉をギリギリ聞いたことがあるぐらいで、
発達生涯というのは聞いたことがなかった。
独自生涯というのはありましてね、
昔から一応聞いたことがあった分の別として、
でもADDだとかADHDが先に有名になりましたけど、
私がすでに高校卒業の頃から耳は本出てたと思いましたけども、
本当にそういうのを子供の頃に耳にする機会はほとんどなかったのに、
今うちの娘も当たり前のように知っていると、
そういう時代の変遷があるわけですよね。
でも考えてみれば、私が子供の頃に発達生涯の子はほとんどいなくて、
今はたくさんいますというのはおかしいので、
そこには理由がなくはないわけです。
いきなり飛躍するようなんですけど、
ずっとここのところをニードー・ニーズに変えるという、
これもセミナーで話しているほどここでは喋っていないかもですけど、
一つの母親機能としてニードー・ニーズに変えてくれるという話を
心の中の機能ですよ。
お母さんがやってくれたのも大昔には、
私が子供の頃にはやってくれたでしょうけど、
今はやっちゃくれないですよね。
私のニードー、私がニーズに変えなければならない。
その時、私の心の中にインストールされた母親機能というものがあって、
一つの意味付けなんですね。
だから意味付けとニードー・ニーズに変えるというのは、
12:03
基本的にはとても関係性が深い。
年関係の一番最初にやることの一つにニードー・ニーズに変える。
つまりお腹が空いたと私が感じたり考えたり言ったりいうことはもちろんできないので、
しなくてもお母さんがお腹が空いていると、
この子はお腹が空いていると理解してくれて、
しかも食べ物を与えてくれる。
これがニードー・ニーズに変えるのの一番の原型で、
これを繰り返しやられているうちに自分でもだんだんわかってできるようになっていく。
つまり自分の中に母親機能というものがインストールされていく。
そういう流れなんですよね。
それはだから寝たいというのも同じで、
赤ちゃんって寝たいにも関わらず叫ぶじゃないですか。
あれはおかしいですよね。
眠りたいならば静かにしていればいいんだけど、
眠りたいとはわかっていないので叫ぶ。
そうすると子守唄でも歌ってくれる。
つまりこれがニードー・ニーズに変えるということで、
その時意味付けが伴っているわけですよ。
ウッドバイウスでいうところの意味付けと、
これはほぼ同じ意味だと思うんですが、
つまりあなたは眠いんだという意味付けですよね。
眠いだけじゃないかもしれないじゃないですか。
ぐずるということは痒いのかもしれないし、
なんだかわからないわけですよ。
怖いのかもしれないし。
だけれどもあなたは眠いんだという意味付けをされるわけですよね。
そうすることによって、
私は眠いのかと理解して眠るんですよ。
これを最初の頃は自分じゃできないから、
人にやってもらうんですよね、人間は。
だから意味付けとニードー・ニーズに変えるというのは
セットに近くて、
一番最初の頃はこれを繰り返し繰り返しやってもらわないと
なかなかできるようにならないと。
なかなか眠れるようにならない赤ちゃんは多いですね。
うちの子でさえちょっと手間がかかったのが、
この寝つかせるということも比較的難しい。
考えてみると私たち、
なぜ自分が寝られるのか分かってない気がするんですよ。
しかも絶対起きてなきゃいけないときに寝ちゃったりするじゃないですか。
大学の授業中とか、
あれは絶対起きてなきゃいけないわけじゃないかもしれないけど、
起きてようと思っていても起きてられなかったりしますよね。
この母親機能というものは、
常に完璧なわけではないんですよね。
そこにもまた大事なポイントがある。
私は最近増えてきたと言われている発達障害は、
一つには図の通り関係性の発達が十分でないのに、
知性の発達が進調したと。
非常に納得感が高いんですが、
一つはニードをニーズに変えすぎているというふうに感じるんですね。
ニードというのは、
15:01
何でもかんでも闇雲にニーズに変えればいいというものではないと思うんですよ。
当然。
どんな時でもお腹が空いたことを自覚した方がいいかというと、
もし空いていればですよ。
血糖値が下がってきているというのが、
例えば一つとニードだとすれば、
誰もそれを言わないからそれはニードですよね。
血糖値が下がっているから、
これからちょっとコーラでも欲しいという人はいないと思うんですよ。
違う言い方をするはず。
だし、わからないはずだから。
ニードをニーズに変えるということは、
適切な意味付けをするということなんですけれども、
これを過剰にやるという人がいるんですよ、多分。
あらゆる自分のニードをニーズに変えるということは、
ことごとくニーズに変えていってしまう。
で、手に負えなくなる。
つまり、いろんなニードが発生しうるわけじゃないですか。
ある意味では、例えばちょっと物音がうるさいとか、
ちょっと温度が高すぎるとか、
ちょっと温度が低すぎるとか、
ちょっと足が痛いとか、
いろんなニードを見つけようと思えば見つけられるわけですよね。
で、あらゆることがニーズになっていくとですね、
普通に考えても、まず注意力というもの、
集中力というものがほぼ発揮できなくなりますよね。
ニードがいちいちニーズにどんどん変わっていたら、
たまったものではないですよね。
だって、私たちが抱える不快感というのは、
山のようにそれこそあるわけなんだから、
そのどれはスルーしてよくて、
そのどれはスルーしてはいけないかということを、
ほぼ選択できない状態に置かれたら、
ニードをニーズにするだけで一日終わってしまうはずですよ。
だから、この感じがですね、
ジゾイド感が高まっていくんですね。
なぜなら、このニードがニーズに変わるというのは、
自分の身体からの信号が一番多いはずなので、
この人は自分の身体にかかりっきりになってしまうでしょう。
で、もう一つこのニードがニーズに変わるというやつが、
やたらと起こると、もう一つが、
僕はOCDっぽくなるかなと。
だから、その脅迫症っぽい人と、
ジゾイドっぽい人というのは、
似たところがあるんですよ。
私はジゾイドっぽい人間だと思うんですね。
かなり分裂気味だと思うんですね。
で、私と一緒にしようとしている小橋裕祖さんは、
脅迫っぽいところがあるんですよ。
で、多分ほとんど同じだという感じに抱かれている人も、
いっぱいいると思うんですよね。
で、専門的には違うんですが、
要するに脅迫症というのは、
小橋さんは別にそうじゃないですけど、
手を洗うのがやめられないのが一番有名ですね。
あと、そうですね、
18:01
私の中でも脅迫症っぽいものとして、
静電気恐怖症みたいなものがある。
あれは恐怖症ですけどね。
でも、これもジゾイドっぽいので、
なぜジゾイドっぽいか。
自分の中で完結している問題だからですね。
人関係ないじゃないですか。
一見したところ。
関係性が発達していないと、
発達障害っぽく見えると。
頭ばっかり良くて、
お友達が全然いないみたいなのが
発達障害っぽく見えるんですよ。
このことと、
どうして手が洗うのをやめられないとか、
静電気が怖いとか、
あるいは、
やたらと忘れ物をするとか、
関係してくるのかというと、
関係してくるのか、
強引に関係付けているのか、
ちょっと難しいところなんですが、
なるべく頑張って、
フロイトに寄せて考えてみるとですね、
つまり私は、
今のように、
ひたすら症例だけを追っていても、
普通の人にとっては、
あんまり意味ないんじゃないかと思うからですね。
自分は発達障害なんだ、
ということが分かったところで、
それだけでは十分じゃないと思うんですよ。
自由度の人は別ですよ。
でも、普通に健常に仕事をしている人が、
自分は情報も忘れっぽくて、
集中力がない。
当たり前に聞く話じゃないですか。
ここに病名付けてみたところで、
そんなに意味あるかなって思うんですよね。
チェックリストでも作った方が早いって思っちゃったのは、
つまりライフワーク的なのは、
そういうところからも来るんですけど、
脅迫症、
つまり、
ドアノブ触れない問題、
同じ儀式を繰り返しちゃうようなやり方を従う、
ということと、
静電気恐怖症みたいになるということと、
対人関係が苦手であるということが、
なんで関係してくるんだろうと、
別にはっきりした結論があるわけじゃないですよ。
思うとですね、
僕は、
ニードをニーズに変えるという件について、
要は、
社会からの乖離度がひどいからなんだろうなって思ってるんですよ。
ニードをニーズに変えるというのは、
つまり、
社会生活が遅れれば十分なんですよね。
ところがこれが、
過剰に進行したり、
やたらスルーするということが起こると、
その人は、
社会生活を行う上で、
苦労するはずなんですね。
例えば、
私なんかの場合、
静電気が起こりそうになった前に、
手を打っておくというニーズが、
発生してしまうんですよ、どうしても。
これでも、アメリカに行って非常にびっくりしたんですけど、
アメリカ人の大半は、
あそこはすっごい乾燥してるんですよね、
日本に比べれば。
頻繁に静電気で私、
結構、気がね、
遠くなりそうだったんですよね。
アメリカのトランス、
その国で私は酷くて、
砂漠の上に街があるのかよ、
21:01
ぐらいな感じのリノってところもそうだったんですけど、
僕の家なんか、住んでたアパート、
借りてたアパートですけど、
ほぼ砂漠の上でしたから、
何かというと静電気が起きるんですよね。
で、それが嫌になって帰ってきたぐらいのところも、
ないわけじゃないんですけど、
みんなこれを無視してるんですよ。
つまりニーズになってないんですよ、
静電気を避けるの。
だって静電気、バチッていうの食らったからって、
別に痛いだけじゃないですか。
だから、アメリカ人のおじさんとか、
エレベーターとか、
ドア押さえててくれるんですけど、
その時バチッとかって言ってるんだけど、
気づいてないんですよ、本当に。
気づかなさそうな人ではありましたけど、
私がびっくりしたのは、
気づいてねえっていうのに驚いたんですよね。
彼の中では、そのようなニードは、
ニードのまますぐ捨てていいものなんですよね。
ところが、
私はそれをニードにしちゃうから、
当然触れなくなりますよね。
そういうようなことがあるんですね。
これってどういうことかというと、
社会生活を送る上で、
このニードをニーズに変えなくていい、
っていうものはあるわけです。
でもそれをいちいちニーズに変えていくと、
社会的な不適合を起こし得るケースが
発生するんですね。
私のこの静電気恐怖症みたいなものであって、
ドアノブだってそうじゃないですか。
触れないと日常生活に支障をきたしますよね。
ニードというのはつまり、
多くの場合、漠然とした不快感として認識されるので、
これを重要に変えて、
この漠然とした不快感を満たそうと、
それをニーズに変えて満たすということなんだけども、
これをですね、
ありとあらゆる機会を捉えてやっていると、
明らかに何かおかしなことになっていくんですよ。
これがどういうふうに出るかによって、
少々症例が変わって見えるだけであって、
実は同じような話なんではないのかと。
つまり、まず人間関係ですよね。
関係性と関係のないニードにばっかり着目するということ、
それ自体が発達障害っぽさを
生むんですよね。
だって、例えば学校の授業を受けていて、
どこに集中しろというのを先生が指定するわけじゃないですか。
これが社会における関係性というものですよね。
だからニードが発生するとすると、
勉強をするとか、
黒板に注意を向けるとか、
そういうニーズになるべきなんですよ。
その時に静電気のことを気にするとか、
時計の針の動きを気にするとか、
たまたま自分がその時に空想した何とかの話のストーリーを
最後までまとめるようにするとかやるから、
注意力が散漫であると言われるわけじゃないですか。
24:00
これはつまり、
どのニードに着目するべきだと人が言っているのを
どの程度無視するかということと関係があるし、
人によっては無視せざるを得ないほど
自分の不快感というものが気になるわけじゃないですか。
そうすると自分の不快感というものが
気になり始めるということでもあると思うんですよね。
特に自分の身体というもののニードを
いちいちニーズにどんどん変えていくということをやると、
ジゾイドっぽくなるか、脅迫っぽくなるかの
いずれかになりやすいような気はします。
理由は自分の身体は24時間自分とふっついているからだし、
その身体からの信号は
ある意味止めどがないからですよね。
だって血糖値というのは断続的に変化しているし、
体温も断続的に変化しているし、
脈拍も断続的に変化しているから、
これが快適でない限りは何らかのニーズを
満たすということになってくると、
四六時中食べたり、エアコンの温度調節したり、
音を気にしてみたり、あるいは薬を塗ってみたり、
しなくちゃならないわけですよね。
しかも全部他人とは関係のない話なので、
つまり関係性の外にある話であって、
自分自身だけで完結する話だから、
それをずっとやっている人というのは、
すごく関係性の中から浮き上がってくるはずなんですよ。
この時に一つの取り方として、
例えば引きこもるというのがあるじゃないですか。
あるいは偽りの自分を発達させるというのもありますよね。
外面についてはもう一つの人格に全部任せておいて、
自分は内側に引きこもって、
自分のケアをしてあげるということをやる。
これがスキゾイドだし、ジゾイドだし、
あるいは本当に身体のケアを四六時中している。
私これ結構面白いことに、
昔テニスをやっていた時に、
テニスを習っていたり、一緒にやる仲間の人の中に、
必ず一人ぐらいはこういう方がいらっしゃるんですよ。
ここがすごい面白いなと。
あんまり野球をやっていた時、
こういう感じじゃなかったなと思ったんですよね。
とにかく四六時中、身体のケアをしながらテニスをやっているし、
テニスのプレーチも常に身体のケアをしているんですね。
すごく強迫っぽいんだろうなというのは感じていたんですけど、
そういう方が割とどういうコミュニティに行っても、
一人ぐらいはいらっしゃっていて、
上手いんですよ大体テニスがね。
だからそのケアをしながらバシッと打たれたりして、
この人何か得体が知れないけど上手いなということで、
ある種の注目を浴びるんですよね。
そういう方がいたりしますけれども、
これは常に身体からの信号に、すごくケアをしなければいけないという、
何かあるんですよね。
母親的に言うならば、わからないですねこれはね。
27:03
母親機能が過剰に暴走しているような不十分なような、
不思議なものが感じられるんですね。
手を洗うのがやめられないというのは、
めったに見ることがないので、
だってその人家の中で手を洗っているでしょうからね。
こういうのっていうのは、
例えば今、消毒するためのアルコールがあちこちに置かれていますが、
こういったところからも刺激されるという気はします。
当然、あれをするというのは、
すごく適当にやる人から非常にまめまめしくやる人まで、
別れると思いますから、
発達障害ということを考えてみたときに、
当然あるわけじゃないですか。
あ、シュッシュやるの忘れると。
その時にその人は、
自分の何かに気を取られているというふうによく言うじゃないですか。
気を取られているということは、
その人は自分の中の何らかのニードを何らかのニーズに変えたために、
社会生活のニードは無視したということになりますよね。
これが多分目につくんじゃないかと思うんです。
だからそういうふうに考えると、
ADDというものとOCD、つまり脅迫症というものと
ジゾイドというものは、
とっても近いところがどこかにあるなと。
要するにニードというものの取り扱いに苦慮しているという、
そしてそのニードは対外自分自身のニードというもの。
多分ある種の発達障害の人に言わせれば、
ニードって全部自分自身のものでしょうって感じていらっしゃると思うんですよね。
人のニードを満たしてあげるっていうのは全くありえないじゃないですかっていう人っていらっしゃると思うんですよ。
ここまでいくとラベルぐらいはつくでしょうね。
普通に考えると割と正常性バイアスみたいな話に出てくるんですけれども、
駅で誰かが倒れていましたと。
全く目にも入らないとすると、ちょっとあれだってことになりますよ。
もしその人のことが目に入って、
なんかちょっと困ってそうだなと思うんだけれども、
諸事情があって手が出せないという、こういうケースはあり得ると思うんですよ結構。
だけれども、倒れているというふうに認識するけど、
基本的には全く何も感じることがないっていう場合、
これは事故中とかでは済まされるものではない気がするんですよね。
全然この人の他人のニードというものが全く眼中に入ってこないというのは、
すっごく独特の精神機能であって、
僕らって普通はそういうふうにはなってないんですよ。
私もこれ、どっちかというとジゾイドっぽい人間なんで、
分かるような気がしてたんだけど、
子供って分かったんですよ。そうではないということに。
30:00
例えば子供を抱っこしてて、暴れて落としそうになった時に、
人のニードだから放っておこうと思って、
子供を落とすと人に罰せられるから頑張ろうとかって思わないんですよ。
ほとんど自分と同じ扱いになるんですね。
こういう機能が心理には働くんですよ。
それは自分の子供だからじゃないですかっていう人もいるかもしれないんですけど、
私の感じではそうじゃないと思うんですよね。
自分の肉体でないんだから、
ここの認識は全く違うものが働くなっていう感じがむしろするんですよね。
そうすると、自他を分けるというのはむしろ分けているのであって、
つまり自分の母法や機能は自分の身体のケアだけをするんだって頑張らせるっていうのはですね、
一つの方針であって、
絶対それがもともとそうであったからではないんですね、あれはきっと。
もちろんこの種の方針には意味がないわけじゃないと思います。
ただ、これは方針というか、
違いはないような気がしたんですよ、自分の子供のことを考えてみたとき。
多分なんですが、泳げる泳げない、その他は別として、
自分の目の前でたとえば溺れてる人がいて、
しかも自分しかそこにいなければ何とかしようと大概の人はすると思うんですよ。
自分の子供とかじゃなくても。
この時にもそうなんですけれども、あえて自分がそうでないかも、
徹底的に検証して、その存得について考えるということは、
母親機能とは別個のところでやることだなという気がします。
つまり、ニードー・ニーズに変えるというのは、
普通は反自動的に起こってしまうことのはずで、
そうでないと困るわけですよね。
逆に言うと、発達障害系の人っていうのは、
ニードー・ニーズに変えるのをやめられないみたいな感じがします。
どっちかというと、自動的にどんどん変わっていってしまう。
よくこの話の流れで、ライフハック系で言うならば、
メモの処理が追いつかない系の話なんですよ。
例えば、エバーノードに自分の素晴らしいアイデアが
10万個入ってますみたいな話なんですよ。
なぜそんなにそういうことになって、普通の人はならないのかというと、
自分でニードーだと思ったものを全部ニーズに変えるという
努力をされているからだと思うんですね。
アイデアってそういうものですよね。
何かしらのニードー・ニーズに、
つまり何かしらの漠然とした不満感、不充足感、
あるいは不全感というものがあって、
それに対する解決策なりを言語化したのがアイデアですよね。
そうすると、ニードー・ニーズに変えるというのは、
多いほどアイデアが増えるんですね。
これを絶え間なくやっている間に、
収集がつかなくなっていくわけですよ。
どんどんアイデアが湧き上がってきてしまって、
代わりにそのアイデアを実行する時間がないとかって、
33:03
すごい、発達生涯の売れが増えるようなすごい仕事術に
あったと僕は思うんですね、その種の話が。
これが、つまり、普通の人は無視できるニードー、
無視できないという、そういう心の機能を
作ってしまったっていう話だと思うんです。
これは、不思議に思われるかもなんですが、
手を洗うのをやめられないのと、
めちゃくちゃよく似ているように見えるんです。
だからそのアイデアが引き続き、
日の目を見ることはきっとないだろうなと。
手を洗うのをやめられないようでは、
なかなか仕事にならないじゃないですか。
どこかでやっぱり、これを断ち切るためには、
細かいニードーをいくつかは捨てるっていう感じを
持ってるんですけどね、私たちは、当然。
だから、途中、何度か言う通り、
途中というか、このGood Morning Vibesでは
よく言う通り、グッドイナフマザーでないと
まずいんですよ。
パーフェクトなお母さんは、
すべてのニードーを満たしてしまうでしょう。
そんなお母さんいませんけどね。
つまり、お母さんだって忙しいので、
時々はギャーギャー泣いていても放置する。
ニグレクトとは違って、
眠れないんならもう放っておいて、
眠るのまで放っておくとか、やるじゃないですか。
場合によっては、全く苦手なお母さんが
ニードーの満たし方をする。
眠いのに無理やりミルク飲ませると、
その後ゲーするとか、
そういうことが起こるはずなんですよね。
起きなきゃダメなんですよ。
起きないほうがいいっていうふうに
思いっかねないところが、
私たちの今の社会の一つの特徴だと思うんですけれども、
ニードーを非常に適切に、理想はそうなんですよ。
原則として、ニードーは適切にニーズに変えて、
適切に満たすべきなんですよ。
原則としては。
ただこれを常に完璧にやっていると、
子どものニードーは、
自分でニーズに変えるという能力を見失うというのが
一つ問題としてあって、
もう一つが、あらゆるニードーを捉えようと頑張ってしまう。
これは何が原因かは分からないですけどね、結局。
全部放置されると、
つまりニグレットに近い状態に置かれると、
むしろそういうふうになるのかもしれないし、
全部自分でやらなきゃダメだなと思って、
やりすぎちゃうってこともあるのかもしれないし、
分からないんですけれども、
ただ、
絶え間なくこれをやるというのは、
全然いいことではなく、
どっちにしても限度があるって部分ですね。
非常に極端な場合には、
時間が1秒進むごとに、
その時間を認識しなければいけない、
そういう病理もあるんですけどね。
時計をずっと見ていて、
ずっと時間のことを、
しゃべってみたり、
書いてみたりすると、
それは、
わずかな変化が起きるということは、
36:00
何かしらのニードがあるということで、
何かしらのニードに気づいているということは、
何かしらニーズを満たさなきゃいけないということで、
やめられなくなってしまうんですね。
そういうことって、
実際には、
ニードを無視できないということになれば、
起こる話なので、
やめられなくなってしまうんですね。
ニードを無視できないということになれば、
起こる話なので、
僕らは、
本当は、
そういう機能を持っているということなんですよ。
グッド・イナフであると。
自分の中の母親はね、
完璧な母はいないから、
自分の中の心の中にも、
完璧な母というものが機能しない。
機能させようとすると、
完璧に狂った機能になっちゃうんで、
100%無視するか、
100%捉えようとするか、
どっちも絶対ありえない話なので、
発達という話は、
関係という要素と、
つまりファクターですよね。
関係性というファクターの
不全であるという話だったら、
結局、
自分一人で完結するニードに
かまけすぎちゃいけないということなのかなと。
そうやってですね、
見てみると、
たぶん、
エバーノートとか、
エバーノートとか、
タスクリスモのタスクとかには、
自己完結しているタスクというものや、
自己完結しているメモというものがあって、
それを全部捨ててみると、
ライフハック的にはですよ、
ライフハック的には、
全部捨ててみると、
この方面に、
なんていうんですかね、
この方面の暴走というものに、
若干歯止めがかかるのかな、
というふうに思います。
なので、
ライフハック的には、
ライフハック的には、
若干歯止めがかかるのかなと、
それは私がGoodVibesで
少し経験してきたことだと、
そういう印象を持っています。
37:57

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