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2021-12-02 27:32

【GMV 506】つい自分を傷つける

何を攻撃しようと自分の攻撃は含まれる
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は何かちょっとこれを撮るのに苦労しててですね。
色々な問題のある時間に差し掛かりつつあるんですが、
まあしょうがないですね。
これがこれで最善だったと思うしかない。
こういう時に僕はタスクシュートの機能を話しましたが、
リピートタスクと実行記録ですね。
そして実行順ですね。
やったものが最善であると考えるべきだと思っているんですよ。
これを現実の中でやったことが最善でなかったと考えるのは、
まず自分が前傾で世界は背景であるという考え方に基づくんですよ。
世界というのはこうであったが、
私はAとしてAというコードを取るべきではなく、
Bであるべきだったというのは、
自分だけ世界の主人公で、
世界そのものは全背景になっちゃうんですよ。
もう一回同じように動けと。
で、私だけは違う動きをする。
その方がベターだぞというわけじゃないですか。
これを言うっていうのは相当だなと思うんですよね。
今度一度ぜひそれを考えた時に、
太陽と地球の大きさ比較というのをやってみてほしいんですよね。
太陽と地球の大きさというふうに、
動画とかを検索すると出てくるので、
黒点とか、太陽の爆発した時のプロミネンスというんですか、
今ではもっと話題になっているコロナとかでもいいんですけど、
あれよりはるかに地球とか小さいですからね。
その地球を歩いては一周ほぼできないのが私たちのサイズじゃないですか。
私たちが自分が世界の主人公で、
全世界を背景であると考えた時の背景というものの大きさを思ってみてほしいんですよ。
僕はこれはタスクシュートと関係があると思っているんですけどね。
コードAはBよりもいいというためには、
全世界をもう一回単なる舞台装置に切り替える必要がある。
私はそれができないはずだと思うんですよね。
例えば、私が全系になってしまうと、
私の仕事のパートナーである大橋哲夫さんとか、
倉園圭道さんが背景になっちゃうんですよ。
彼らはもう一回同じことをしなきゃいけないのに、
私だけ違うことができる世界があるって言うわけじゃないですか。
僕はそれを世界線って言ってるんだと思ってるんですけど、
すごくそれって無理のある主張だと思うんですよ。
もう一つ、今度は太陽系と銀河系を大きさ比較してみてほしいんですよ。
みんな頭の中では知っていることですよ。
もはや太陽系が見えなくなるほど銀河がデカいんですよ。
これも私だけが全系で、
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これを背景とするって言ってるサイズの比較になるんですよ。
無理があると思うんですよね。
でも私たちの主観って、私が世界の中心であり、
私だけが意思を持っている世界に生きているじゃないですか。
これをナルシシズムって言うんですよ、きっと。
こういうことなんで、今この収録しているのはこれがベストなんですよ。
そうでも思わないと、とてもじゃないけど、
何て言うんですかね、収集がつかないって感じがしますね。
これで苦労しているのは何かというとですね、
今年の26日に書き上げ塾の第5回、第5期が始まるんですね。
これ昨日、倉園さんと収録していて、
なるほどと思ったんですが、
年末年始の前に第1回の企画を設定してしまうというのがいいんじゃないかということなんです。
年末年始をどう過ごすのかが人によって様々なんで、
これがいいって言っても全員に十分効果が上がるかどうかというのは別かもしれないけど、
この設定してすぐ書き出せるかどうかというのも一つの要因ですよね、書き上がるかどうか。
なるべく書き上げるというのを良しとしているので、
それに沿った形で設定する方がいいだろうということもあるとは思うんです。
だから26日に企画を設定しスムーズに書ける形を整えたら、
すぐ年末年始を迎えてここで少しは書くというのが理想的なんじゃないかということですね。
残り2石か残3石、最大でも今の段階でそのぐらいしかないと思うんですが、
よろしければぜひ26日のその前に企画のことをちょっと頭に置いてみて、
つまり本を一冊書くのでその中心にするべきコンセプトですね。
これを考えて26日には固めると。
これは一つの理想です。
何事も理想通りにいくかどうかは別ですが、
とりあえずそういうことを目論でやりますということですね。
今日ちょっと考えたのは、
昨日その収録があったので収録をするとネタが増えるんですね。
ネタが増えれば喋れるかというとそういうものではないんですが、
ネタが増えたことは増えたので、
喋ろうと思えばテーマだけはたくさんあります。
その中の一つに、
久しぶりに怒るということについて改めて考えてみたんですが、
この怒るというのを他人に向けないというか、
攻撃を手放すというのがグッドバイブスにありますけど、
これはですね、ある例外を自分は持ちがちだなと思っているんですよ。
怒ってもいいやと思っている相手がいるということですね。
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中でも身内というのが一つなんですけどもっと重要な例外として、
自分というのがあるなと思うんですよ。
ここを攻撃するのを絶対的に手放すというのを、
しばらくはテーマにしたいなと思いました。
考えてみると、
攻撃を手放すといった時の攻撃対象はいつも外部にいるんですね。
いつも外部にいる人を攻撃すまいと思っているんですよ。
でも自分を攻撃するのに関しては結構無頓着なんですね。
まず表現しないからというのもありますよね。
自分に向かってよく書いたりもされてますよね。
俺本当にダメでみたいなのを言ってはいけないみたいな。
でも言ってはいないんですよ、私の感じでは。
ああいうものを自己肯定感云々の話の中で読むと、
いつもそういう釈前としなさがあって、
親にもお前は本当にダメな奴でと言われてっていう話あるんだけど、
僕は言われた記憶はほぼない。全くないわけじゃないですよ。
ほぼないんですよ。
でも言われなくてもある攻撃ってあって、
こっちの問題の方が私にとっては問題。
この言ってないし言われてもいない攻撃、
でもそれは確かに攻撃であるという攻撃、
これを習うことならゼロにするというのを今考えてるんですね。
人を攻撃するという問題の中に自分の攻撃を必ずそこに含んでいるから、
一歩間違うとこのテーマはここ数日裏テーマでもないかやってきたことでもあるんですけど、
人の攻撃と自分の攻撃はほとんど一緒になっているんですよ。
これが実はHSPとか発達障害とかのところでも全くスルーされてきているような気が実はするんです。
自他の攻撃は同時に同量で実は起きているはずなんですよ。
甘えの本の中でもそういうことを書いてたんだけど、
やっぱり批判されているときにここがスルーされているんですよね。
人を攻撃する必要があるんだって主張はわからなくはないんです。
こういう人もいるんだからっていう話ですよね。
でもこれをやっちゃうと自分を同量で同時に攻撃することになるっていう部分はほぼ論点として浮上してきてないんですね。
この話はGood Vibesでは図式的にされているし、
私も甘えの本の中で顔色をうかがう本の中で図式的にしたんだけど、
そうやって順を追っていかないと自覚されないんですが、
だから私は、だからじゃないんだけど、精神分析では母子ユニットってあるじゃないですか。
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母子ユニットっていうのは何度も言っているつもりでもありますが、
子供の側の視点ですよ。子供の側の視点で、子供の側の主観ですよ。
その世界では母親っていうのはまだいなくて、なぜなら母親という概念がまだないから。
自分がお腹の中にいたらしょうがないじゃないですか。
それは自分だと思っちゃってますよね。しょうがないですよそれは。
魚が水槽の水も自分だと思っているに違いないですよ。
まさか自分と水は別物だと思う能力はないんでね。
しかもそういう風に思う理由もないじゃないですか、別に。
それは外から見ればそうなんだけど、外からは彼らは一生見ることはないんだし、
外から見るなどという事態が事実上発生するってことは、ほとんど死ぬってことなんでね。
そんな風に思う必要も、検討する理由も何にもないわけですね。
私たちだってある意味そうなわけですよ。空気は自分だとほぼ思ってますよね。
習うから、酸素と窒素とかって言うし、空気の存在というものを意識することもできますが、
通常は無視してますよね。空気がなくなったらとかって、
それは思考実験としてはあるかもしれませんが、基本考えないことですよね。
なので、自分というものと外部というものがある程度根前一体となっていて、
これ一つ意識の話に繋がっていきますけど、そういう話をしなくてもですね、
かなり純科学的にも、そういう面ってどうしても切り捨てることはできないと思うんですよ。
池谷裕二さんだったかな、面白い話書かれていて、脳の中からなのか、何なのかわからないですけど、
神経、ニューロンですよね。一個を取り出して、どうやったんだろう、あれ考えてみると。
まあいいんですけど、外のシャーレに置くと、それは生きてるって言うんですね、しばらくは少なくとも。
で、それは自分なのだろうかって考えるわけですよ。
ニューロンの、私たちは多分脳科学者とかじゃないから、爆線とニューロンの信号の集合体によって、
私という意識がなんかふわっと持ち上がってくるみたいに、なんとなく思ってるじゃないですか。
もっと詳しい人だと、この説明は全然ダメだって思われると思うんですけど、
頭の中の小人って問題がありますよね。
私ってのはどこにいるんだって考え始めると、はまるんですよ。
なぜならば、ニューロンの信号の集合体によって私が浮かび上がるって考えた場合、
じゃあそのニューロンの信号を一個取り出すと、私はどうなるんだって話になっちゃうじゃないですか。
ニューロンが外に出てきたということで、私から、私と肉体から切り離されたとき、
そのニューロンは単独でもとりあえず生きてるとするとですね、
私はここに生きていて、そのニューロンは外に出ていて、
これはどういうことなんだろうって話になっちゃうじゃないですか。
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それは集合じゃないからっていう説明もできなくはないんですけど、
髪の毛一本でも同じですよね。
私から切り離された私の肉体は私なのかっていう、
あの問題をもう少し、私側に引き付けるのが多分神経系を取り出すっていう考え方なんですよね。
で、こういうふうなことを考えてみてもそうなんだけれども、
私の領域って最終的な線って、すごい曖昧なところがあるはずで、
で、お母さんと自分っていうのもそうで、
赤ちゃんの主観で言葉もない時期、そして何が何だか分かっていないときに、
私とお母さんっていうのはなくて、私なんですよね。
自分の肉体も相手の肉体も一緒に私なんですよね。
こういう私が一個になっちゃってる状態っていうのがあったときにですね、
まあ分離するときに傷つくんですけど、
その前に果たしてこのお母さんというものが苦しんだとき、
私の苦しみになるんだろうかというと、当然なるはずなんですよね。
当然。
生まれてきて子宮の中にいるときはもう完全にそういう状態で、
お母さんの苦しみと私の苦しみはほとんど一致しちゃうじゃないですか。
ずれてるのかもしれないけど、そのずれというものを認識する手段がないですよね。
だから、私というものが苦しんでるとか、
何か私というものが母親というものと混ぜ一体になっているときに、
母親が許せない、そういう感情はわからないんですけれども、
とにかく何か不愉快なことがあるってなって、
例えば大体赤ちゃんがいることなんて足をバタバタさせるとか、
泣きあわないとかそんなことなんですけど、
その世界全体が悪くなったとき、私は私を攻撃してますよね。
これしかできないですよね。
あるいは何者もそこにいなくて、
これはウィニフォットが好む言い方だったんだと思うんですけど、
誰もそこにはいなくて、誰も何もしていないんですよ。
でも生きてるんですね。
そういう世界っていうのが多分あって、
それもやっぱりそこでは何も起きていなくて平安なんですけど、
これ平安に近い状態だと思うんですよね、
グッドバイブスっていうところの平安に。
大体子供寝てますわね。
そのとき、子供っていうのは母親という存在をまだ知らないから、
何にもないんですよね、そこには。
私はいないし、母親もいないって言い方をするんですよ。
しかし生きてるわけですよ。
そこに生き物はいますからね。
でもこういうのっていうのはですね、
別に僕らはよく知ってる世界だと思うんですよ。
例えば夜の海の静かなところの状態でも
生き物いっぱい生きてるわけじゃないですか。
でもそこに私がいると思ってる存在は、
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人が泳いでれば別ですが、いないわけですよね、そんな存在は。
そういう世界ってあって、
で、怒ったり攻撃してるときは何かが起きてるんだよ。
やっぱりそこに私がいるわけじゃないんですよ。
で、こういうふうな状態のことを考えてみると、
世界を傷つけることと私を傷つけることっていうのは
同じ意味になっちゃうんですよね。
で、この同じ意味になっちゃうということを考えてみると、
私が誰かを攻撃するということは、
常に私が自分を攻撃するということと、
ほとんど同時に起こることなので、
だから確かにそこから分離しなければいけないとか、
戦わなきゃいけないという話が
沸き起こりそうなシチュエーションってあるんですけど、
そのときですら、むしろそういうときほどですね、
切実に自分を攻撃するということを
その中に含むんだと思うんですよね。
含まないわけにはいかなくなると思うんですよ。
だってこのシチュエーションは赤ちゃんとお母さんになって
当然敵をされるわけじゃないですか。
どうやって逃げるのか分かんないんですけれども、
母親、ひどい母親だと。
一刻も早くこの母親から去らなければならない。
ところで私はゼロ歳です。
どうするんだってことなんですよ。
だってそういうシチュエーションがあり得ないというわけにはいかないですよね。
私の本が批判されたシチュエーションが
そういうものである以上、
世の中には人を攻撃したくて仕方がない人がいるとか、
言葉が得なサイコパスの人がいるとか
そういう話だったと思うんですね。
そうするとお母さんがそういう人である可能性というものも
排除できなくなりますよね。
お母さんがサイコパスである可能性、
十分あり得るということになります。
で、逃げるに逃げれないというシチュエーションも
当然あるということになりますよね。
その時はもうそこにいることになっちゃうわけですよね。
この抜き差しならない状態の時に
私と母親がしかし根前一体となっている中で
戦いが起こってしまったら
両者が傷つくより他、選択の取りようがないと思うんですね。
だからこの攻撃をするということの中には
必ず私自身を攻撃するという意味を
例えばこれがサイコパスであろうとも
人を攻撃したくて仕方がない人であろうとも
そのお母さんが自分の子供を攻撃しちゃったら
例えばお腹の中にいる自分の子供を攻撃しちゃったら
自動的に自分を攻撃することになってしまいますよね。
ここを逃れることができないシチュエーションってあると思うんですよ。
で、そうなってくると
私たちがどんなに成長して
どんなに人と分離しているように見えても
やっぱりこの問題は何らかの形で再現されていると思うんですよ。
そこにいる人を攻撃するということになってくると
当然のことながら
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まず自分自身というものの
ニードですよね。
ニーズじゃないんで攻撃は。
絶対にニーズになりませんから。
喉が渇いたからお水くださいというのがニーズですから。
攻撃というのはそうではありませんから。
不愉快だ。
お前を不愉快にしてやるって意味ですから。
例えば相手が怒ってきたとしても
私に対してアマゾンで一度星をつけた。
星を1つけるというのは
元々の意味としては
ミシュランと同じで星をくれたという意味だったはずだったと思うんですけど
いつしか3が平均になって
1は悪いという意味
つまり良くない音をつけた意味になったんだけど
これは変換されたんじゃないかなと思うんですけど
まあいいんですが
1というものをつけた。
私がニーズとして出すものがあるとすれば
星5にしてくださいとかですよ。
だいたい攻撃するときってそうじゃないじゃないですか。
今私がやっているような
もうちょっとひどいやり方になるんだけれども
あいつはふざけているとかそういうことを言うわけでしょう。
これはニーズじゃないですよね。
ニードを外に出すんですよね。
ニードを外に出すということは
すでに自分を攻撃しているのと同じことです。
だってニードというものを
私は自分のためを思うならば
自分のニードを
誰かにニーズに変えてもらって満たしてもらう。
一番甘えているやり方ですけど
次に一番いいのは
自分自身を甘えさせて
自分のニーズに変えてからそれを収める。
なんだけどどっちもやらないで
誰かにニードをぶつけるっていうのは
その後何が起きても
いいってことになっちゃうんですよ。
これ自体がすでに甘えなんだけれども
しかも自分に対してかなり
結果としてはまずいやり方を
わざわざ選択するということになるはずなんです。
これはよーく考えてみると
気に食わないから自分のお腹を殴ってる
っていうのとかなり近いと思うんですよね。
シチュエーションはもう少し見えにくくなってるけれども
そういうことをしていることに違いはない。
僕らはそういうことをするってことなんですよ。
それを覚えておいた方がいい気が今するんですね。
人を攻撃したくなるんですよね。
ということは自分だって攻撃したくなるんですよ。
いろんな意味で。
で、しちゃうんですよね。しかもね。
だけれども自分の体を殴って
素晴らしいことが起きるっていうことは
多分考えにくいんですよ。
私アトピーだからよくわかる気がするんですよ。
自分の体がかゆいとき
もう心ゆくまでかきむしりたいって思ったことが
人生で1万回くらいもあるんですよ。
それをしちゃうこともあるんですよ。
ただ、やっていい結果を招いたことだけはないんですよ。
我慢できないからするっていうのはそういうことなんですけどね。
私は生まれつきに等しいぐらいアトピー持ちだったから
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こういうことが起こってしまうんですよね。
自傷行為とはまたちょっと違うのか
それともある意味同じなのか難しいんだけれども
体の中にあるかゆみを発生させる悪いやつを
抉り取りたくなるって感じなんですよ。
その感じとあの腹を立てたやつを
ギャフンと言わせてすっきりしたいっていうのは
同じ感じがするんですね。
そしてそれってつまり私の感じでは
自分に対する攻撃を必ず含んでしまう。
だってかゆみをかくっていうのも
本当はそうじゃないじゃないですか。
表面的にはかゆいところをかきたいだけであって
自分を攻撃したいわけではないし
そういう意図もないんですよ。
結果は自分を攻撃してしまうだけなんですね。
これをゼロにしたいと。
そのためにはやっぱりですね
かゆみを抑える方が先だとは思いますよね。
今私がそれをせずに住んでいるのは
つまりかゆくないからなんですが
ここで難しいんですよね。
難しいっていうのは何が難しいかというと
鶏が先か卵が先かちょっと何とも言えないんです。
グッドバイブスをするようになったから
頭が良くなりましたっていうのは
かゆくなくなりましたってことなんですよ。
実際そうだし。
だけれどもかゆくなくなるから
攻撃せずに住むんですよ。
ここはぐるぐる回っちゃってるんですね。
かくとかゆくなるっていう事実があるんで。
だから倉園さんは
肉体は本体ではない
っていうお話をされるんですけれども
どっちにしても
鶏が先か卵が先かなんですね。
えーと
体が本体であると
例えば痛みとかが
それを強く言ってくるときに
体が本体であるという方向に
引っ張られるわけですよね。
体が本体でなくてもいいって思えるときってのは
つまり体に異変がないときであることが
多いんですよ。
本当は異変があるときにも
そういう風に
信じようという風に持っていくほど
良いと思うんだけれども
異変が強いほど
それを信じるのは難しくなっていくんですね。
しかも
病気の問題っていうのが別途ありますからね。
だからこの問題は
どうしてもぐるぐる回っちゃうんですけれども
鶏卵問題
みたいなところがあるんだけれども
それにしても
最悪
最悪というかやってしまいますが
私も頻繁に
攻撃したときに
昨日そのことを尋ねたんですよね。
攻撃した後どうするかっていう。
攻撃したときに
だから
結果として
気分が良くなったり
状況に対しては
ベターな選択だったとしても
自分に傷を与える。
それは人が
自分に与えるというよりは
自分が自分に与える。
かゆいところを書くようなものであって
書き方が緩いほど良いですけれども
傷つかずに
済ませるというのは困難で
深刻になればなるほど
24:00
激しくなって
いってしまうと
これを
やめるだけで良くなるというのは
確かにあるはずなんですよね
いろんな意味で
心身ともに
良いからこれをせずに済むというのは
もちろんあるわけですよね
だから
良くするのが先なのか書かないのが先なのか
っていうそういう問題に
今私はそういうところに
到着しつつあるって感じなんですよ
あとは
理想を言えば
書かずに済む状態が
常にあるっていうのが良いなと
少なくとも楽だなとは
思うんですよ
これが楽だと思っている時点で
少々イリュージョンではあるんですけど
昨日のリピートタスクのところでも
何度か
お話しした話なんですけれども
同じように
同じことをやろう
っていうことの中には
同じじゃない部分
に対するスルーがあるはずなんですよね
この話
この感じと僕は今
事象を含む
攻撃は必ず事象を含むっていうのと
似てるなって思ってる部分が
どっちもある種の錯覚に基づいている
と思うんです
私たちはリピートっていう時には
かなりそれに対しては
記憶に頼ってます
やることが3度目でリピートだっては
思わないですからね
なんで記憶に頼るかというと
楽だからですよね
人を攻撃した時もそうなんですよ
自分がそれで全く傷つかずにするなら
実に楽です
でもそういうことは不可能なんですよね
原理的に
一番いいのは
この錯覚に最初から
気づいていることなんだけど
そういうのが一番難しい時ほど
事象行為に
一番走りやすい時だから
そういう意味で
ニワトリ卵になっている感じが
するんですよ
この話は明日以降
もし覚えていたらなんですけど
大体明日になると気分変わってるんですが
投影
っていう話との
兼ね合いでまたどこかで
お話ししたいと思っています
投影っていうのがあります
多分これが最大の理由だと思います
自分が嫌いな
自分の嫌いな部分
自分の嫌な部分を人に投影しておいて
そいつを攻撃する
そうすると一番自分にとってはいいような気がする
でもこれ完全に
事象行為になるじゃないですか
自分が一番嫌だと思っている部分が
仕事でミスすることだと
仕事をミスしている人を見つけて
めちゃくちゃ攻撃する
すっごく事象的ですよね
この投影っていうことが
結局この問題の
元にあるんだろうな
という感じがします
投影があるということは
母子関係がそこに間違いなくきっとあるんだと
父子でもいいんですけれども
あるんだろうと思うんですよ
お母さんが子供に自分の姿を投影するというのは
ごくごく自然なことですし
お母さんが起こっている内容が
27:00
その子の欠点ではなく
その子の欠点である場合もありますが
お母さんご自身の欠点であるということが
ほとんどだったりするので
いろんな意味でこれは
必ず
自分に対する攻撃を
含むというよりは
そのものだと言ったほうがいいのかもしれない
だから
辞めれば間違いなく楽になるんだけど
辞められないというのが
一つの
ハードルなんですね
27:32

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