2023-02-22 42:57

【740】甘えが満たされないと「邪魔」される

久しぶりに『「甘え」の構造』のお話です

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おはようございます。先送りせずすぐやる人になるポッドキャスト第740巻ですね。
えーと、2月21日火曜日7時30分に収録中です。
なので、これは明日の水曜日にアップするということになりますね。
ほぼ1日後にアップされる予定です。
これがリテイクにならず、うまく収録されればということですけどね。
最近リテイクほとんどないので、多分今日もうまくいくのではないかと。
こういう目測こそ怪しいんですけどね。
当てにならないというか。
やっぱりですね、1タスク2タスクがあったとしても、予定立てるというのは本当に微妙な行為ですよね。
この現在やっていて、ほぼ9割方うまくいくだろうなと思いながら喋っているこれでさえ、どうなるかわからないのにですね。
その次のタスクがどうなるかがわかっていると思うところが甘い。
今日はその甘えの話をしたいと思うんで、今のこの言葉につながったんだろうなと思います。
で、甘え。久しぶりですね。
あのドイタケオさんの甘えの構造の甘えです。
で、ドイタケオさんは精神分析家ですから、あれは精神分析の文脈なんですが。
彼はですね、一時ナルシシズムとかいう言葉を使ったんでは、わからなくなってダメだろうと考えたんですね。
だから甘えとか、普通の日本人でも聞けば意味が大体即座にわかる言葉を使って臨床心理というものを説明するという、かなり野心的な試みですね。
その中で例えば、ヒステリーでは嫉妬という概念が非常に大事になってくるんだけど、
それをひがみとか、そういう和語に直していったわけですよ。
その仕事はすごく重要だったと思うんだけど、定着したとは思わないです、私は。
やっぱり一時ナルシシズムとか言っちゃってますし、和語になってないですよね。
ウィニコットっていう、この番組でもおなじみのイギリス人がやっぱりかなり似た試みをしていて、
だから彼は偽りの自分とか本当の自分とか、割と普通の用語というものを使ってるんですよね。
あれ多分似たような発想から出てきたと思うんですよ。
あれに比べると、やっぱりほら、クラインの妄想分裂ポジションとかも絶対日常では出てこない用語じゃないですか。
欲打つポジションとか、一言で何を言ってるのか絶対わからない言葉ですよね。
そういう用語を避けたと、なるべく避けようと考えたということだったんだと。
で、ナルシシズムって言葉は、フロイトはさすがにその辺、たぶん心得てたんだろうと思うんですよね。
ナルシシズムっていうのは、ヨーロッパのドイツ圏あたりではたぶん通る言葉なんですよ。
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だから、あれが専門用語になっちゃうのは日本人にとってなじみがないからで、
そういう意味ではドイタキオさんの甘えっていうのは、すごい正しいやり方だったんではないかと。
今にしては、今にして僕が思ってもしょうがないんだけど、すごいなと思うんだけど、
あんなに魅了にせらにもなって、何の文脈だかわからずに大学生が読むほどになったんだけれども、
定着したとは思えないなって感じがちょっと残念ながらしますよね。
で、その甘え。なんで甘えのことを考えたかというと、
グッドバイブスファクトリーというこの番組ではあんまりCMが十分できていない、
倉園圭三さんとやっているグッドバイブスをオンラインで常時グッドバイブス接続をしているためのオンラインコミュニティがありまして、
今の説明はすごい端折ったんだけど、要するにFacebook中心のオンラインコミュニティがあるわけです。
それで私と倉園圭三さんが主催という形をとっておりまして、スタッフに安部聖子さんという方がいらっしゃるんですが、
この方が言ってみればグッドバイブスファクトリー等のお母さん役なんですよ。
ウィニコットのいう環境としての母親役をやってくださっているというわけです。
ここでですね、月に1回、倉園さん主に、私もなんだけど一応、グループセッションをやっておりまして、
グループセッションで上がったお悩み相談に、倉園さんがことごとく答えていくというですね、これを月に1回日曜日、第2か第3の日曜日にやっているんですね、オンラインです。
2時間かけて、大体、実際にはそうだな、6人前後かな多くて、多い感じがする時で6、7人のお悩みを片っ端からセッション形式で答えていく。
その時の行われているやり取りがですね、私は毎回非常にこれは臨床だって思っても、臨床大好き人間なんで、私の今の書棚は臨床の実践の本ばっかりなんですよ。臨床心理師でもなんでもないくせにね。
だからこれを見ているのがまず非常にためになるし、しかも本に書いてあるような展開がそのまま展開されるというのを目の当たりにすることもあるんですよ。結構毎月毎月。
だから私はこれはめちゃくちゃそういう意味では安いんだけどなっていつも聞いてて。臨床心理ってだって1万円とかしますからね、普通に。1対1であるにせよ、1万円ぐらいはしますから。
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あれ、倉園さんの今日のgood vibesっていうのがあって、一応私も今ちょっと違う試みだけど毎週の連載みたいなのを私も出していて、しかも月に1回セッションがグループセッションだけど、グループセッションにはグループセッションの良さってありますからね。
で、その上オンラインで24時間、倉園さんにお悩みが相談できるという。これはテキストベースですけどね。これ全部で2000円ですからね。なんかもう冗談みたいだなっていうふうに毎回これを聞いているたびに毎回思う。
だって1回1万円ですからね。普通の世の中の臨床がそうですからね。倉園さんに臨床心理師というのとか公認心理師というそういった資格があるわけじゃないにせよですね。展開されていることはそういうことだと思うし。
しかも本当は1回1万円払ってすべてすっきりしましたってことはほぼないわけですよ。普通の経済においては。だから月に2000円っていうのは本当にすごい金額なんですよ。もっとも倉園さんのワンワンセッションつまりいわゆるカウンセリングみたいなものを受けるとなれば別料金になりますけれども。
グッドバイブスワクトに入ってきたとしてもですね。だからそういうことはあるんだけれども、にしてもこれが高いとは到底言えないというか破格な感じがします。この破格といった今の言葉に今日の甘えという概念が絡んでくるんですよ。
例えば今日今私は様々なことをここで言ったんですけどね。これは私が甘えているからできることなんですね。例えば皆さん、今これを聞いている皆さんにですね。甘えているからできることなんですよ。
これでですね私が自分の甘えを封じて、いやこれは先送りをしないとかすぐやるというポッドキャストなんだからここで自分のCMをするのはどうなんだろうって考え始めるとできなくなったりやりにくくなったり、これがフロイトが言ったことなんだけど言い淀んだりするんですよ。
言い淀んだりあるいは言い間違えたりする。言い間違えは彼はすごい厳しくというかこと細かに追っていきましたからね。こういう時に心の中にやましさがあったりすると言い方がね、なんというかもやっとしたりするじゃないですか。
テキパキ言えないとかすっきりはっきり言えないとかはっきり言えみたいなこと言うじゃないですか。あれができなくなるというのは心の中でブロックがかかる。こういうのを言うならば欲圧とか言ったりするわけですよね。欲しがかかっちゃうわけです。
今私ほぼ言い間違えることもなく言い切ったと思うんですよ。今みたいな間も許せてると。こういえば全部、少なくともドイ・タケオさんの言う甘えと関係があると思うんですね。
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そしてこのGood Vibes Factoryで私は久しぶりに甘えの話しようと思ったんですよ。やっぱり私たちはですね、甘えたいんですね。これは必須というか、永遠に変わらないことだと思うんですね。
倉澤さんだとしてもそうなんですよ。甘えたいというのはある。で、大事なことは甘えたいという気持ちというか心が月の半分だとしますね。半月みたいなやつね。半月が甘えたいだとすると。甘えたいなら甘えさせようというのがもう半分。
これでセットで心ができていると考えるのが甘えの構造なんだと。やっぱり私はそういうふうに解釈してます。この解釈って言ってるのも甘えですよ。
私が本当にどいたけおさんの甘えがわかっているのかどうかとか、精神分析家でもないのにそういうことを言えるのかとか言ったことを言い切ってしまうのは私が甘えたいという気持ちがあり、これを私が自分に許そうという意識があるからできることなんですね。
甘えの構造という心において、この構造を多分ですよ。多分というのは甘えだけどね。多分ですね。フロイトが言った一時なるし沈むというのがこの形なんだと僕は思うんですよね。
一時なるし沈むの成立と甘えの構造の成立は全くイコールではないかもしれないけど、これも甘えね。ほぼ重なると思います。
そしてこれを一時なるし沈むというちょっとネガティブな言い方をだいぶポジティブに捉えていったのが、例えばマイケル・バリントとか言った方の一時愛という言葉になっていくわけです。
一時愛というのは一時なるし沈むと僕はほぼ同じ概念だと思うんだけど、だいぶこれを肯定的に見ている。つまり甘えはいいと言えるのか、甘えというものは許されないかもしれないけどしょうがないよねぐらいの概念なのか。
そのへん個人の価値観の違いがあるので、フロイトとかクラインは厳しい時代に、第二次大戦前ですから、あれから第二次大戦が起きていくわけですからね、ナチズムとかね。
彼らはユダヤ人でしたからね、クラインもフロイトも。厳しい、なるし沈むではダメなんじゃないだろうかぐらいのニュアンスがあるところから、いやもうなるし沈むじゃないと生きていけないんだよって言っている。
例えばウィニコットがそうだと思うんですよね。万能感をずっと一生維持したまま人は生きていくし、破られると言ってみれば精神病状態か、あるいは神経症が非常に厳しくなって大変厄介なことになる。
このへんのニュアンスは精神分析全体であるいはカウンセリングとか臨床の世界ではおおむねみんな共有している考えだとは思うんです。
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つまり甘えなければ生きていけないよね。ただそれが基本的に問題はあるんだけどもしょうがないのか、十分オッケーでまさにそうだと言っていいのかっていうそういうスタンスの違いがあります。
このマイケル・バリントという人はですね、ちなみに仲井沙織っていう人がすごく日本ではだったと思いますね。取り上げていらっしゃる方だと。ちょっとね、僕名前とか簡単に間違えて後で痛い目に、これもお前なんだけど、あうんで、仲井先生だと思いますね。
非常に高明な先生です。この人もすごい人ですよね。なんと巨人みたいなところがあります。土井さんとか小野木さんが巨人であるのとはまた違った感じでですね、そういういろんな仕事をしている方です。
なんで僕がグッドバイブスファクトリーで甘えというものを久しぶりに思い出したかというとですね、みんな甘えてるんだよなと思ったんだけど、やっぱり問題は甘えさせるということに対する、甘えさせる機能と言っていいのか、あるいは甘えさせることを禁止しているかどうか。
甘えさせるのを禁止。甘えを禁止したがるのは長寿がというものの働きだと思うんですけどね。そんな甘ったれた音でどうするんだっていうあれですね。
私の家の近くにあった中学校ではもうそればっかりでしたね。そういう時代があったということですね。サッカー部とかでもヘロヘロ走ってると甘ったれてるんじゃねーみたいな。それが覚醒器で流れてくるためにこういうのがわざわざ聞こえてくるわけですよ。近隣の家にも覚醒器ですからね。
なんであれを覚醒器で言わなきゃならないんだろうって思うんですけど、川べりとかを走っている子供たちに、中学生だからね、めちゃくちゃ罵声を浴びせるわけです。ほぼこの種の言葉ですね。つまり甘えるなということを言うってのはどういうことかというと、一時ナルシシズムでは社会では通用しないぞっていう。
もうちょっと言うと、現実の世界で生きていくためには母子の甘えた世界というものから脱しなきゃいけないぞっていうこのメッセージなんですね。
倉園さんがファクトリーの中で、最近のセッションの中でおっしゃってたことを言うと、人が作った社会のルールというのかシステムというのか、そういう競争的なものであり厳しさをことさら強調するものであるし、罪と罰がある世界でもあるわけですね。
精神分析の世界で言うところの父親的世界ですね。これは男社会と言ったりもするし、昔は本当にそうだったんだけど、最近はそうじゃなくて、社長以下全部女性ですというのであったとしても関係なく、ここはやっぱり社会の厳しさみたいなもの、あるいはその社会だけで通用しているルールみたいなもの。
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そういったものが幅を利かせている世界で、私たちは、倉園さんは前回のセッションでは割とはっきりおっしゃったんだけど、これに適応するようには作られていない。自然にそういうものに適応するようにはなっていないから、ここに行くとみんな傷ついちゃうと。
だから法務と彼は言うんだけど、法務に戻ってきて、そういう適応できない私というものをあるがままの状態で受け入れてもらう。この受け入れてもらうというのはつまり甘えるということですね。
受け入れてくれよというのが甘えたいという気持ちであり、受け入れさせてあげようというのが甘えさせるということですよ。これを母親機能と精神分析の世界で法務で言おうと。
ここでジェンダーの話になっちゃうんだけど、そういうことじゃないってことですよ。この甘えさせるのは父親でも全然よくて、何ならゲームとかテレビとかでいいんですよ。機能を果たしさえすればいいわけです。
そして一番いいのは自分の心の中に甘えさせるという機能を持つことなんですよ。あるがままに認めると。
このように言うと甘えさせるというのは当然だし、簡単なことなんじゃないかと思われるはずなんですが、実際にはなかなかこれが簡単にいかないのは皆さんよくご存知の通りだと思うんですね。
パワハラナって言っている段階ですでに甘えがあるんだけどね、本当は。こういうことを言っていると問題発言になりかねないので、ここは軽くスルーしますが、
要はパワハラナ上司というものに傷つけられましたというのは、これはさっきのいわゆる父親的世界に適合できないといった話ですよね。
そこで家に帰ってきましたが、なぜか家でも一人で悶々としてさっきのパワハラナ上司に言われた言葉がいつまでたっても頭から消えずに、
お風呂に入ってもお菓子を食べてもつらい、だめだというとき、私たちは実は自分を甘えさせるということに失敗しているんです。
心が、さっき言いましたね、半月なんですよ。甘えたいという気持ちはある。だけど甘えさせてあげるという機能が自分の心の中で働かない。
働かないために甘えたいという気持ちだけがうずくんです。残ってしまう。心は半分だけでは機能しないんですね。
やっぱりワンセットなんですよ。甘えたいという心、これはもうあるんです。ない人がいると思っている人もいらっしゃるんだけど、そんな人はいないんですよ。
少なくとも私とか倉園さんにはあるし、私が知っている限りは明らかにどう見ても独立心が強いとみんな思うんだろうなって思う人でも明らかにあります。甘えたいという気持ちはですね。
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全くないと思われたいと思っている人も結構いるのはわかります。見ていてわかりますけれども、ないと思われたいというのがもうすでに非常に甘えています。
だから甘えたいという気持ちははっきりとあるんですよ。
それはいいんです。ここはダメだというのは言っている人はいないと思う。問題なのはもう半分甘えさせたいという気持ちを自分の中に機能として持って、
つまり母親機能というものを自分の心の中で持って甘えさせたいという気持ちを満たしてあげるということが自分で自分にできなければ、
大人としては困ることが多くなってくる。そういうときにカウンセリングとかを受けたりするんですけどね。
例えば一人暮らししているとこういうのってあると思うんですよ。甘えたいというのは例えばお腹空いたって言うわけです。
一人暮らしを始めちゃうとお腹空いたって言ってもご飯を作ってくれるお母さんはこの辺にまたジェンダー問題がありますけどお母さんはいない。
お父さんもいない。お兄ちゃんもいない。お姉ちゃんもいない。自分で作るしかない。
つまりお腹空いたに対してじゃあご飯を作るっていうのを自作自演でやるわけですね。
この自作自演ができるってことがつまり甘えたい半分と甘えさせてあげるもう半分。
退屈だって言ったらじゃあテレビを見るっていうふうになるでしょ。
自分そんなことを意識してないと思うんだけど、なるんですよそういうふうに。
例えば寂しいって言ったらじゃあ誰かに電話をかけようとかね。
そういうふうに自分が甘えたいと言ったら自分を甘えさせてあげるわけです。
これでワンセット。
実にたわいのない話と言えばたわいのない話なんですね。
でもこれが意外にできないという人は結構いらっしゃいますよね。
そしてできないという時には必ず甘えたいしかないんですね自分の中で。
甘えさせてあげる部分の方が機能としては弱くなっている。
停止していることは考えにくいのでやっぱり弱くなっている。
かなだ弱くなっている。
どうして弱くなるかという話なんですが、
これも倉園さんがセッションの中で必ず1回につき1回は口にする。
本当はもっとするけど。
鏡の法則って言ったんですよ。
人の甘えを否定すると自分の甘えをなぜか、これも不思議なんですが否定するんです。
人の心ってそうできているんですよね。
人の甘えは許せないけど俺は甘えるんだっていうのってできないんですよ。
面白いことなんですけどもね。
都合よくいけば人に対しては例えば人が甘ったれているのは全部死刑に相当するけど、
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自分が甘えるのは全ての人が認めるべきだって言っておけば楽だと思うんですけど、
こういう言い分ってなかなか世の中一般で全然通りそうな感じしないじゃないですか。
すでに感じがしないですよね。
人っていうのは不思議と法の下に平等なんですよ。
あるルールを気づいちゃうとそのルールはみんなが守らなきゃいけないような感じになってくるんですよね。
多分これが人間社会の倫理みたいなものあるいは法意識みたいなものを形成するんでしょうね。
私今でもよく思い出すしこの番組でも何回か喋った気がするんですけれども、
ある小学校5年の時だったと思いますね。
担任の先生が給食を全部食べてしまわないとおかわりしちゃダメだっていうルールを作っちゃったんですね。
僕は別に構わないで全部食べるんで必ずそうしてからおかわりしてたんですけど、
ある日その先生が鶏肉残したというのにも関わらず多分何か好物があったんでしょうね。
おかわりしたんですよ。
その先生鶏肉ダメだったんですよ。
で、それをめちゃくちゃ生徒がいろいろ騒ぎ立てた時の先生の取り乱しをまだ忘れられないんですよね。
法のもとに平等なんですよ。
先生なんだから適当に言いくるめれば良さそうに当時の私はそう思ったんだけど、
それができないんですよ意外とね。
こういうことが起こるんですよ。
だから人の甘えに駄目なしをしていると自分を甘えさせると
自分の甘えに駄目なしをしていると自分を甘えさせる能力が極端に下がる。
で、どいたけおさんがですね、この甘えというキーワードにはいくつかのリンクする概念があるんだけど、
その中の一つに邪魔をされるっていうのがあって、これが実によくできてるなって思うんですよ。
今のように人の甘えに駄目なしをしまくるとするじゃないですか、
その人って結局何をしているのかというと、
昔だと思うんだけど、親なり先生なり先輩なり何でもいいんですけど、
そういう人たちに甘えは駄目だ、甘えというのは許されないんだということを常々言われてきたんじゃないかと。
いろんな理由がありますけどね。
つまりトラウマがあるってことなんですよね。
一時ナルシシズム。
自分がとても無力だった時代、子供だった時代にですね、
自分は甘えたいとお水を持ってきてもらったり、病院の時には熱測ってもらったり、
様々なことをしてもらうのが当然だというふうに子供は普通はいきますが、
残念ながらですね、それを良しとしないというか、そうできないという環境があるわけです、世の中には。
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結構あるわけですね。
そうすると甘えの世界が不成立になってしまい、甘えていては生きていけないんだという考えが正しいことになっちゃうんですね。
そうすると甘えにダメ出しをするのは当然だという形を取りますよね。
その人の心理の中で、心の中でね、さっき言った甘えたいという判決はあるんで、
もう半分が機能しなくて当然なんだという世界観ができちゃうわけですよ。
そして精神分析ではおそらく、少なくとも土井武夫さんの本を読んでいると確実にそう伝わってくるんだけれども、
この半分甘えたいという気持ちだけになってしまっているような人が精神病というんですよ。
非常に不思議な感じがされるかもしれないんだけど、甘えたいという主観だけを持った人に世界がどう見えるかということをちょっと考えてみてほしいんですね。
というか考えてみるまでもなく、答えを皆さんに今考えてもらうところはないんで、
ここでも一気にネタバレなんですが、さっきの邪魔なんですよ。
邪魔されるっておかしな表現なんですよ、実によく考えてみると。
僕昔ね、あの字は一体何なんだと思ったんですよ。
邪魔の魔って悪魔の魔でしょ。
何なのっていうか邪魔の邪は邪悪の邪じゃないですか。
めちゃくちゃまままましいじゃないですか。
で、ああいう言葉に反応しちゃうのは、うちがやっぱ寺だったからなんですよ。
あれ仏教用語でそういうことを全部解説してくるんだよね、うちの父親ってのはね。
多分坊主ってそういうことが好きなんだよね、結局ね。
あれ仏教用語で仏道修行というものを、要は邪魔するんですよ。
そういう様々な煩悩がね、これを邪魔という、だから魔なんですね。
で、邪魔をされるっていう、あるいは邪魔をするっていう表現は本当におかしい表現で、
例えば勉強の邪魔だとかって言うじゃないですか。
いや、邪魔をしようという意図を持っている人はいないよって、
まあいるかもしれないけれども、普通に考えるといないわけですよね。
食事中に、私が例えば話しかけた料理中に、うちの奥さんにね、話しかけたりして邪魔しないでしょうね。
話そうとしているのであって、邪魔しようとしているわけじゃないわけですね。
邪魔をするという表現を取った時、その人は被害妄想に陥っていると、
これは野井武夫さんが本に書いていることです。
ある人の主観の中で甘えたいという気持ちが、だけでなく、
その人の中で強いと。
その人にとっての世界は、ものすごく周りの人たちは加害者的になっていかざるを得ないんですね。
なぜなら甘えというのは、常時完全に満たされることは絶対ないじゃないですか。
いい大人がですね、一番原始的に考えてみると赤ちゃんですから、
何にもしないでも全てをしてくれるっていう状態が、これがデフォルトなんです。
甘えたいだけってそういうことですよね。
甘えたいだけなんだから、自分がすることは何かあってはダメなんですよ。
でもまさかそんな風に生きるわけにはいかないので、ここ普通に生きているようにしているんですよ。
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本人もまさか自分が甘えたいだけの存在だなんて思っていないんですけど、
あくまでも気持ちの上、心の中の話ですね。
情緒ではそうなんですよ。
甘えたいというのは、自分が甘えたいだけの存在で、
情緒ではそうなんですよ。
甘えたいというのが突出している。
なぜならその人は、自分で自分を甘えさせるという機能を停止させたから、
さっき言った通り、ダメ出しをそこにかけたから。
甘えを見るたびに、世の中の甘えを見るたびに、あれは甘えだ許せないっていうのをやっていると、
自分の心の中でもそういう風に働くんですね。
だから私の甘えも全部ダメってことになってしまうんだけども、
でも甘えたいという気持ちは満たされずに残るから、
でも甘えたいという気持ちは満たされずに残るから、
これがほぼ意識されないままで、ものすごく辛さとして残ってしまうわけです。
だから例えば、電車の中で本を読もうとする。
全ての人が静かにしていなければいけないとか、そんなルールはないわけじゃないですか。
子供は泣いちゃダメだとか、そういうルールはないわけですよ。
で、静かなところで本を読みたいとその人は思っている。
それはそれでいいんだと思うんです。
その人はしかし甘えたいという気持ちが全てのために、
騒いでいる子供がいたりすると、私は邪魔をされたって感じを抱くんですね。
というかその感じ以外は何も抱かないということもあり得るわけです。
人の甘えは許せないわけですから。
自分の甘えは満たされていないわけですから。
甘えを満たすということが悪なわけだから、甘えは甘えとして残るわけです。
電車は静かであってほしいというのは、ある意味甘えですよね。
それはその人の主観の世界ですね。
その人がいなければ、別に誰もいなければ極端に言うと、
子供が騒いでいたからと言って、ただそれは子供が騒いでいるというだけなんですよ。
ところがその人の世界の中では、静かであるべきだという甘えがあるために、
その甘えが満たされないまま放置されているために、
子供は私の邪魔をしているということになっていくんですね。
これが極端に進むのが被害妄想という、
一番統合失調症で典型的に見られる態度というのか、
世界なんですね。そういう世界が出現していくわけです。
非常につらい世界だと言えると思うんですね。
満たされない甘えが随時登場してくるわけですね。
極端に言うと自分の欲求は全部ダメなんですよ、極端に言うとね。
よほど恵まれた条件だけが許されるわけですよ。
許されるというのかな、満たされるわけですね。
例えば電車でトイレがしたくなった、もうこの段階でダメですよね。
電車にトイレがないケースがほとんどだから。
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電車でトイレがしたくなった、この段階でもう被害に遭っているわけです。
この形でしか自分のというものを認識できなくなるのが精神病なんだということを
土井さんは書いていて、私はセッションを聞いていてつくづくそうだろうと思ったんです。
甘えが満たされるのが自然だと思えない世界に生きていると、
人間には欲求というものがあるわけですから、甘えが満たせない世界に生きていると、
常に世界は私に対して敵意を持っているという印象を抱かざるを得ないんですね。
さっきも言ったように、電車の中で本を読もうとしたら子供が泣いていた。
これは今しゃべったようなこと、ただそれだけの現象なんだけど、
甘えというものが一切満たせない人にはそうは絶対感じられない。
子供は意図的に私の読書の邪魔をしているという感じの方が、
遥かに強く迫ってくるわけです。
この辛さを24時間抱えながら生きていかなければならないという、
なんと言えばいいんですかね、これは。
宿命的な何かみたいに、宿命じゃないんですけどね。
観点を変えれば実に簡単に解決する問題ですよね。
つまり、子供が電車の中でタミクスで泣くのはしょうがないでいいと思うんですよね。
これはつまり甘えさせるということですよね。
こうすれば、もううるさいかもしれないけれども、ほぼ解決するじゃないですか。
つまり、甘えたいという欲求があって、甘えさせるという機能を人が持つことで、
それを意識することで、自分の甘えというもの、
つまり自分は静かなところで読書がしたかったと、
それはそれで受け止められる話なはずなんですよ。
これが自分があるということだと土井さんは言っていて、まさにそうだと思うんですね。
つまり、子供は子供の世界で生きていて、自分は自分の世界に生きているという、
こういう観点が取れること。
ちょっとニュアンス変わっちゃうんだけれども、人は人、自分は自分ということなんですよ。
これが言えるようにならないと、ものすごく大変なんですね。
全ての世界が関わりを持ってきて、しかもその関わりの中では、
常に自分は攻撃されているという関わりになってしまうわけです。
倉野さんがよく書き上げ塾で、
クリエイトというのは、この感覚を持てるか持てないかというのがすごく大事と言っている感覚というのが甘えの感覚。
つまり、私はこういうものが書きたいのだというのは、何らかの形で甘えなんですよ。
要するに甘えたいということですからね。ある意味では書きたいという欲求がある。
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欲求があり、しかもその書いているものがみんなにケチョンケチョンに言われて、
あらゆる人に批判されてもいいとは少しも思っていないわけじゃないですか。
受け入れてほしいと普通思うわけですよね。
書いたもの、表現したものがですね。これが甘えなわけです。
それを自分で満たしてあげないことには書けないですよね。
さっきのように邪魔が入るという観点だけを取っていたらですね、常に邪魔が入りますよね。
私がこういうことを書けば、誰それはこういうことを言ってくるに違いないという邪魔が入りますよね。
自分の思考が邪魔をし始めるわけです。
集中してものを書く妨げになってくると。
甘えたいんだけれども甘えを受け止めるということが許されていない以上、当然そういうことになるわけですよ。
この世界ってどういう世界かというと、つまり主観は許されないという世界なので、
そうですよね。さっきの泣いている子供は主観的世界の中で泣いているわけじゃないですか。
ここは電車という客観的空間として静かであることが正解なのだから、
泣き止まなければいけないというのが、要するに主観が許されない世界ですよね。
こういう観点の中でものを書こうとするとどういうことが起きるかというと、
例えば私のさっきから最初の方でやたらエクスキューズしたものがまさにそれに相当するわけですよ。
精神分析家という資格を持っていなければ、
ドイ・タケオさんの甘えについて言及することは許されないんだって誰かが言うかもしれないじゃないですか。
そういうふうに思ったら、私このポッドキャストでしゃべるということはできなくなるんですよ。
だからさっき甘えだと言ったわけです。
そしてこの時に私が取る視点として、現実的に私が今取った視点はどういうことかというと、
いや、それはそのように言う人はそのように言っていいだろう。
けれども私は私が言わんとすることを言ってもいいだろう。
これが人は人、自分は自分という意味での自分なんですよ。
自分の領域というものが自然と固まってくるような観点が取れるかどうかってことですね。
それはもうちょっと言うと、その人が精神分析の世界に通じていくというか、
その人が精神分析の世界に通じていて、精神分析家として臨床を何十時間も何百時間もやっている人でなければ、
甘えについてのイチジナルシズムとの関連についてしゃべったりしてはいけないんだとある人が思うのは、
その人があるがままに思っていること、あるがままのその人がそのように思うのは、
それはそれとして全く認められると。
これがつまり甘えを受け止めるということですよね。
その人があるがままの態度では、佐々木賞後がやっているようなことは認められないのであれば、
それはそれでOKなんですよ。
それはその人の主観的世界としてあるがままに認められる。
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これが甘えの世界というものです。
だから私は私の主観的世界の中で、私があるがままに言いたいと思うことをあるがままに言うことができる。
あるがままに認めるというのは、つまりそういうことだと思うんですよね。
主観的世界というものは、それはそれとして認められると。
それは客観的に正しいわけではないんですよ、どっちも。
どちらかが客観的に正しくなければいけないというのが、つまりナルシズムに対するダメ出しであり、甘えが認められない世界なんですね。
で、この甘えが認められない世界にはまり込むことはとてもありますよね。
往々にして実によくあることなわけです。
客観的世界に統一されなければいけないというわけですね。
その世界では自分のあるがままの表現というものは停止させられる。
それがつまり超自我といったものの世界なわけですよ。
だからこの超自我が猛威を振るっている世界では、ものを書いたり、あるいはネット全体に発信するとかいったことが怖くなってくるわけです。
クローズなところでだけはものが言えるとか書けるというのは正しくなければいけないという、
少なくとも間違いには条件がつけられなければダメだという考え方。
ここでならお子さん泣いていいですよっていうあれですよ。
そういうのがまさにナルシズムが否定された世界なわけです。
だから我々はその分自由を失って甘えというものが半月の中で残ってしまって、
これが疼くんですよ。
だから私が正しいんでしょうか?それともやっぱり向こうが正しいんでしょうか?というこの論点になってしまう。
どっちもそれでいいんだという論点が取れないんですね。
それは甘えだから。
ファクトリーのセッションの中で私が一番面白いなって思ったのが、
藤子不条さんみたいな人なのかな。
昨日松本玲司さんが亡くなりましたね。千葉哲也さんが悲しんでいらっしゃった。
あの世代の人たちですごいですよね。
毎日哲也で自分の作品を仕上げるためなら寿命縮めてもいいんだ。
その割に松本玲司さんって画体もカチッとしていて、
強い方だったんでしょうね。85歳まで生きられて。
でも手塚さんみたいな人はやっぱり寿命縮めてましたもんね。
だからそこまで情熱を持って、ストイックにやってこそ本物になれる。
こういう正しさ、これはナルシジズムの否定としてこれを受け止めた場合、
そういう意見もあるよねということで、それはそれとして、
つまりそれを言いたい人があるがままの世界ではそう言うのであればそれでよくて、
でも私みたいにはっきり言って50歳になるまで1日も哲也をしたことがない。
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そして一度にかける原稿の最大時間量は長くても1時間半までだと。
こういうめちゃくちゃ甘い考えの人間が別にそれで普通にプロとしてやってると、
いやプロとしてやっていないと言われるかもしれないし、
いやそれプロになってないでしょって言うのかもしれないんですけれども、
そこがさっきのあれなんですよ。人は人、自分は自分なんですよ。
これは私が甘えているから言えることなんですよ。
こういうふうであるからこれでやってられるわけですよね。
こういうふうであってはできないという考えっていうのは、
私が自分の甘えを許せないって考え方だと思うんですね。
私が私の甘えを受け止めることができないと。
私が私の甘えを受け止めることができないって観点に入ったときは、
さっきと全く同じ話をしますけども、私が長自我の見方をしている。
この長自我の見方をしているというのはストイックでいけそうに思うじゃないですか。
この観点を取れば徹夜ででも仕事ができそうに思うじゃないですか。
ところが僕が今まで見ている限り、この長自我に座を渡してしまった観点を取ると、
驚くべきことだと僕は思うんですけど、自分で料理を作ることもできなくなる。
非常に僕はこれが人間は甘えを受け止めなきゃ生きていけないんだなって思うんですよね。
昔私は一人暮らしでいたときそうだったんですよ。
何にもできなくなっていた頃があったんですよ。
あれは欲打つ状態だと思います。
私はああいう体験を経て、この長自我のストイシズムというものには
一個だにしたくないってやつなんですよね。
帰り見たくない、あの種の観点に同意できないと思うようになった。
掃除など、風呂の掃除など、そんなのは今では全然何の苦労もいらないんですよね。
それに長自我の関与する余地は一切ないんですよ。
今日もきれいにしなければいけないと、そう思っているわけではないってことなんですよね。
だって風呂の掃除とかそうですけど、うちの奥さんに言わせれば
あなたの掃除になってないっていう風にズバッと言われますからね。
つまりこれが正しさなんですよ。
正しい掃除が私にはできないわけです。
でも私の中ではこれでいいわけです。
さっきも言ったような話です。
だから全部この形に戻ってきちゃう気がするんですよね。
そうしないと、一番最初の方に申し上げた通り、
自分が亡くなると何が起きるか、邪魔が入る。
あらゆる人は何の意図も持っていない。
例えば交差点のど真ん中でUターンしている人は
交差点の真ん中に来てUターンがしたくなっただけなんですよ。
それを見て、あの車はどうなっているのか、
邪魔しているよって思うっていうのは、
42:02
甘えというものが全く受け止められない世界に生きているから
そうなるわけですね。
でもそういうことを言う人は心狭いと思うかもしれないけど、
もし運転している時に、ここで頑張ってあと2秒縮めれば
非常に重要な何とか会議に間に合うという時は
邪魔されているって思うじゃないですか。
つまり人は妄想分裂ポジションに入りやすいシチュエーションってあるわけです。
これがもう一歩行くとですよ。
なんでここで信号が赤になるんだって言うじゃないですか。
明らかに信号が赤になってこいつを邪魔してやろうという意図はないですよね。
でもそこまで言う人もいるじゃないですか。
いや、政府が陰謀で俺の行く手を遮ってる。
これ統合失調症って言われてしまいますよね。
で、ドイツ案はこれらを全て甘えられない病理であると言ったわけです。
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