2021-11-01 51:56

【GMV 488】人の顔色をうかがうリスク

このリスクについて私たちは無頓着すぎる
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日、出版記念セミナーをやりまして、おかげさまですごく部屋に対して人の感じがちょうどいい感じでありがとうございました。
すごい良いお部屋でした。
これはリアルなセミナーをかなり僕も久しぶりにやったので、
前はこれほど良いところでやることはなかったわけじゃないけれども、そうあることじゃなかったなぐらいに良い感じのところで。
新しいんですよね。
人望帳でやったんですけれども、出版記念セミナーの1回目としては良い感じだったかなと思います。
ああいうのを自分なりに、リアル良かったんですけど、オンラインでもやっていきたいというのはちょっとあったりして、
それについては、昨日の今日なのでまだ何かを固めたわけじゃないんですけれども、
リアルとは別にやっていくのもありかなと。
結局遠方の方は東京でやる限りは大変ですからね、という方もいらっしゃるんじゃないかと思うんですよ。
オンラインの方でもちょっと考えていこうかなというふうに思っております。
リアルでやってみて、内容のこともあるんですけれども、情報を伝えるだけならば、
Zoomで何も問題はないと言われればそうなんですけれども、
身体勢というのは雑な言い方かなとも思うんですけど、体を使って、体を見てもらってというのかな。
それだってZoomでやれないわけじゃないんですけど、立ち上がってあれこれしないですね。
ホワイトボードでダイレクトに書くというのは、その感触というのが、
やっぱり、なきゃないでなんとかなるんですが、あればあったでいいもので、そこら辺だなと思います。
一番いいのはですね、あれが充実した売れ行きを示して、地方にそれで行けるぐらいなのがいいんですけど、
夢物語なので、地道にできる環境からやっていくのがいいのかなと。
そうすると、東京でリアルで、昨日は倉津のフェイゾさんとやらせていただいて、
LINEでは機会を見つけて単独でもやっていくと。
こっちは安くでもいいと思うんですよね。自分の本の話ですし。
というようなことを考えました。
昨日のような話って、そうは言っても、これは昨日来ていただいた方にむしろ喋っている感じもあるんですけど、
それだけでなくて、私の本の話でもそうですが、顔色をうかがってしまうとか、顔色をうかがうこと自体は、
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普通に僕だって今でもないわけじゃないんですが、それがつらいみたいな話になった時に、
Amazonのレビューをいただいた方も、要するにつらいわけですよね。
つらいから目の前にいるかどうか確実じゃないけれども、
サイコパスみたいな人がいるかもしれないではないかって話になっているということは、
ある意味、その方にとっては顔色をうかがう相手は潜在的に全員サイコパスなわけじゃないですか。
これはつらいですよね。来る人来る人サイコパスじゃたまったもんじゃないんですよ。
そういうつらさをなんとかするということになってくると、
これはやっぱり1対1っていう形式が必須だなって僕は思うんですよね。
そこに第三者はいない。
カウンセリングの一つの大事なポイントは、
これも現在のように情報を伝えるだけなんだからって話になりやすいんですけど、
それは全くそうじゃなくて、2者しかそこにいないっていうことが何より必須なことなんですよ。
それがある種の危険性を帯びるんですけれどもね。
第三者がそこにいない形、これをカウンセリングというのであって、
ここではカウンセリングが何を言ったから意味があり、
何を言ってくれないとかいう話では全くない意味ですね。
1対1になるということが全然違う意味になるので、
昨日のようなので、私にっていうのもあると思うんでそこは考えていきますけれども、
今、倉園圭三さんが101セッションというのを定期的にセットされているので、
どうもこういう問題が話をいくら聞いてもきついという方は、
ぜひ受けていただくといいと思います。
これは1対1になるというだけじゃなくて、僕も受けたことがあるんで、
十分この種の話ならば有効性あるだろうと思います。
それと、この種のことをやるのが怖いっていうのは絶対あると思うんですね。
私も極力あまり意識しないように、とんちゃくしないようにしてきたんですが、
たとえタスク修道の話だって、十分それについて話を持ってますって人のところに
聞きに行くのは嫌なもんだと思うんですよ。
それは精神分析で言う言葉を使えば、相手が父親になっちゃうからなんですよ。
その段階で嫌なんですよ、たぶん。
父親になってしまうということは、
批評され、批判され、時には説教され、傷つけられるっていうのを
意識せざるを得ないわけですよね。
まして、自分のある意味、カウンセリングというのは
弱みを晒しに行くようなものであって、
いいようにされてしまうと。
ここに含みがあるんですよね。
私、最近フロイトの本を読んでいて、
フロイトはこの種の失敗をよくやらかしているわけです。
彼はその種の失敗から理論を練り上げていったっていう側面があるから、
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だから精神分析っていうのはすごいんですけれども、
フロイトも風貌からしてそうですけど、
父親ですよね、完全に。
あんなお父さんのところに行って、
すいません、ちょっとセックスの問題で、
ちょっと不能になっちゃいましたみたいに、
嫌ですよね。非常に嫌ですよ。
だから逆に、そこからですね、
そんな告白をしてしまったら、
そいつ殺してやりたくなるみたいになりかねないわけですよね。
そこで逆に、フロイトは偉大なんだってむしろ思っちゃう。
これ理想化ですけれども。
そういうことって普通に起こるはずの出来事であって、
だから一番まずかったと僕が思うのは、
あんなフロイトさんに、
親が子供にカウンセリングするなんてのは、
感覚的に考えてもそれはまずいだろうと、
私が娘のカウンセリングするなんて論外だろうとは思うんですよね。
人生相談みたいな形にそうでなくたってなるじゃないですか、
家庭の中でなるときには。
それと別にカウンセリングするなんてって、
しかも料金を取るとか言ったってですね、
親子なわけですよね。
だからもうしっちゃかめっちゃかな感じもしますけど、
そういうことまでやっていると、
その辺がやっぱり逆にすごいんですよね。
今じゃ絶対タブーでやれっ子ないと思うんですし、
当時だってなんか思うところは絶対あっただろうと思うんだけど、
でもやったことは確かなんですよね。
だからそういうことを読んでいくとですね、
僕らが受けに行くのが嫌だとか怖いとか抵抗があるのは
当たり前なんですけれども、怖いことはないです。
受けた私が受けたということが結構やっぱり
一つのポイントなんだと思うんですよね。
もちろん精神不適じゃないですから、
そんなにインテンシブなセッションで、
毎週毎週5回1時間ずつとかやったわけではないです。
僕そんなにお金ないですしね。
だけれども、
これはもうそんなことを今受けられるケースは少ないと思いますんで、
1回や2回ということであれば、
そんなに大変なことは起きないんですよ。
逆に言うとそんなにものすごい重度の人がですね、
これをやり始めると、
そんなに大変なんですけれども、
そうじゃないならば、顔色をうかがうという程度であるならばね、
顔色をうかがうというのは精神病でもなんでもないですからね、
ごく普通に誰でもやると、
中に同行して辛くなるという程度の話でもありますから、
これはお勧めしておきたいかなと思います。
で、その話なんですけどね、
顔色をうかがうという話。
昨日話してても思ったんですけど、
昨日も盛んに喋った言葉にニードっていうのがあるんですね。
ニードというのは、つまり赤ちゃんが血糖値が下がってもお腹空いたとは言えない。
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そもそも何かが食べたいという考えを持つことすらできない。
そこでお母さんがこの子が泣いているのはミルフが欲しいんだろうと解釈をしてあげると、
これがニードをニーズに変えるということで、
この働きが心の働きだって話だったんですね。
で、一気に話を飛ばして結論に飛ばしちゃうんですけど、
ニードというものは僕らみんな持っているわけですよ。
これはもう間違いなく持っているはずなんです。
いちいち全部を言葉に変えて、いちいち全部の欲求をその都度その都度満たすのは大変です。
だからニードというものは持っている。
ちょっと心がモヤッとすると言っても放置してそのまま先へ進むということはやっていると思うんですね。
で、例えば昨日久しぶりに緊急宣言の明けでも東京に行ってきたんですけど、
例えばなんかすげえ騒いでいる若い人たちがいると。
僕が久しぶりにこの感触を味わったなと思って、
なんか新鮮な感じをまず受けたんですね。
で、前によくこういうのでイライラしていたというか、
とにかくざわついたりしていたけど、
あれはどういう風に考えたんだろうと思ったら、
ナルシシズムという言葉がパッと噛んだんですよ。
そういう感じをまず抱いたんですね。
この若い人たちは、傍若無人と言うじゃないですか。
傍若無人というのはナルシシズムという感じに僕には思えるんですけれども、
つまり人はですね、それに対して何とも思わない人もいればですね、
多分見下したくなるという感情を持つんですね。
この見下したくなるという感情を持つときに、
その相手はナルシシズムに入っている。
つまり若い人たちがですよ。
ナルシシズムになってしまっているという感じを抱くんだと思うんですね。
ナルシシズムって言っては何なんだろうと。
日本では自己愛となぜか訳されるんですが、
自己愛、ナルシスというのは、
確かに自分の美しさに惚れ込んで死んじゃったんですけれども、
あの人は美しいんですよ、本当に。
大々美しくもなければですね、自分の体に惚れませんよね。
でも美しかったとしても自分の体に惚れるのはおかしいだろうということで、
病理だって話になっていくんですが、
よく一般に私たちが思い上がっているという時は、
これを意味しないと思うんですよね。
美しくないのに自分美しいと思い込んでいることを思い上がっているとかって言うわけじゃないですか。
ナルシシズムの場合そうじゃないんですよね。
彼は本当に美しいんですよ。
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これ大事なポイントだと思うんですよね。
自分で自分が気持ちよくなっちゃうといったって、
そいつが無能であるか有能であるかによってだいぶ違ってくるんですよ。
ただ今僕そいつって言いましたね。
ここに見下している感じがありますよね。
つまり本当にその人が有能でかつ美しかったとしても、
自分で自分に惚れ込むのは変だって感じを僕ら抱いているんですよね。
そこに多分ナルシシズムっていうものの病理をフロイトは見たんだと思います。
だからナルシシズムって言葉を精神分析の中に取り込んできたんだと思うんですね。
自己愛というのは不思議な言葉なんですよ。
ナルシシズムという言葉のどこにも自己はなくて愛もない。
これは藤山直樹さんって方がよく書いてることなんですけど、
確かにどこにも自己はないし、愛すらないんですよね。
その時に僕が同時に出てくるのが、
日本人だとこれを若い人たちが甘えているって言うだろうなって思ったんですよ。
そうするとナルシシズムと甘えってのは多分関係があるように見えるよなって思うんですね。
昨日は甘えって話をよくしたんですけど、
これはもう私が勝手に言ってることですが、
ドイタケオさんは全然言ってないですし、
ドイタケオさんは絶対甘えとナルシシズムについては書いてますよ。
そうじゃなくて、私が昨日言って、
かつこれは世の中で言われてはいないのかもしれないと、
精神分析のサークルでは言われてないのかもしれないと思いながら、
おっかなびっくり喋ってたのが、私たちは甘えというニードを持っていると。
極端に言うと、日本人は自分たちのニードのことを甘えと表現したんだと。
そういう話をしたんです。
ニードというのは、さっきも最初に言った通り、
赤ちゃんはお腹が空いたとは言えない。
お腹が空いたという認識すらなく、
おっぱいが欲しいとも思ってはいない。
でもそういうニードは持っている。
壊れた時計は直すという、電池を入れ替えるというニードがあるんですよ。
でも時計は自分は止まっているから電池を入れ替えて欲しいなとは言ってないんですよ。
そのニードは、時計を見て止まっている。
これ電池変えなきゃと思った人がニーズに変換してあげるんですね。
甘えというのはそういうものであって、
私たちは甘えたいという自覚は持ってないんですよ。
だけれども、この甘えというものが何らかの形で電池切れのような状態で
機能しなくなると甘えたいという気持ちが他人に見えてくるんですね。
その人にではなくて。
壊れた時計のように、私はぐずるとか、
ふてくされるとか、むちくれるとか、
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何でもいいんですけど、そういう態度になる。
つまり壊れた時計みたいになっちゃうわけですね。
そうすると周りの人が、あ、こいつは甘えたいんだなとわかると。
まったく時計と同じなんですよ。
つまり僕は甘えたいというニードを持っていて、
通常はそれを満たされている。
電池がちゃんとある時計になっている。
だから正常っぽく見えて、何にも問題がないように見える。
でも突然止まったと。
なんかこいつはおかしなことをやり始めた。
本来の時計の動きじゃない動きを始めたと。
いった時に周りの人が、あ、こいつは甘えが切れたんだなと気づくことができると。
その時誰かが電池変えるんですよ。
この時に、なぜ俺が甘えさせなきゃいけないんだって話をするってことは、
なんで俺が電池変えなきゃいけないんだろうってことを言ってるのと同じなんですよ。
それは僕はないと思うんですよね。
なぜないのかというのは、グッドバイブスで説明する方がよっぽど簡単というか、
シンプルで一つ意識です。
愛の選択だ。
愛の選択と恐れと不安による選択のどっちがいいですかっていう話をすればいいんだけれども、
その前提を僕は喋らずにきているんで、
ここでなんで私が電池変えなきゃいけないんですか。
なんで私が甘えが切れたやつの甘えを供給してやらなきゃいけないんでしょうかっていう話が出てきちゃうわけですよね。
それは一言で言うならば、みんなデフォルトでは甘えているからなんですよ。
だから人の甘えが途切れたら甘えさせてあげるということに、
この世の仕組みみたいになっている、そういう話なんだと思うんですね。
だけれどもその切れ方が尋常じゃないと。
生まれてからずっと甘えが切れてしまっていますっていうような柔度の人もいる。
そういう人のためにカウンセラーという人が特別に甘えをどんどん供給するという仕事をしてくれる、
そういうような構図があるんだと思うんですね。
多分その人を放置しておくと社会的に困ったことになってしまうから、
このことが社会にはっきりと認識されると今度は別のややこしい問題、
その甘え供給する人に保険で医療体制を賄うべきでしょうかみたいな議論が始まって、
ややこしくなっていくんですけど、
そういうところまで行かなくてもこの話の前提としてそういう部分があると思うんですね。
こういう話を抽象的にしていても人は眠くなるんだなということを
昨日しゃべっていて気づいたので事例を出したわけですね。
事例として僕が一番気に入っている事例は、
エンジニアさんが一人で仕事場に籠って仕事をしている時に奥さんがいなくなると
そのエンジニアは動揺すると。奥さんが戻ってくるのを待っちゃうと。
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この事例がいいと思っていたんだけど、
その事例よりも福満茂樹さんの漫画ですね。
アイスソーダを飲みたいんだけど、メロンソーダだったっけな。
あれ本当は実話にあるんですけどね、彼の。
飲みたくもないアイスコーヒーを頼もうと。
なぜならソーダを頼むと子供っぽくてバカだと思われるのが恥ずかしいからと言うんですけど、
これが甘えられない時の人の行動なんです。
っていう話の方が分かりやすいんですね、きっと。
この話どうして甘えられないかというとそれは非常に簡単で、
彼はメロンソーダを飲みたいわけですよ。
これがニードなわけですね。
そしてそれが心の中でスッとニーズに変換された。
簡単なことですからね、普通に正常な人ならやれます。
問題はこっからなんですね。
このメロンソーダを心ゆくまで誰にも咎められずごくごく飲むということをしたいというニードが次に彼の中で発生するんですが、
これを表現することが彼はできない。
なぜならばそれをすると幼稚で馬鹿な奴だと思われるという不安が走るので、
ここでニードが止まってしまう。
その代わりに他のニーズにこれを書き換えるんですよね。
これは明らかに変な行動なわけですよ。
自然の行動としてはお腹が空いたミルクが欲しいと言うんだったらば、
そういうふうに表現すればこと足りるはずなのに、
ここで急に妙に複雑な話が始まってしまう。
アイスコーヒーというのは何なのかというと、
アイスコーヒーというのは結局社会一般に大人が飲むものとして格好がつく飲み物なんですね。
わざわざ書いてあるんですけど、少しも飲みたくないけどアイスコーヒーを頼もうって書いてあるんですね。
これが甘えられないという問題なんです。
この時、もちろんふくみつさんは漫画なんで、
特にそれ以上のことはないんだけれども、
ふくみつさんのこれは芸風の一つなんですね。
ふくみつ漫画の芸風の一つなんですよ。
甘えられない男というものが、いかに苦しんで笑える行動をとっているかということを、
彼は切々と書いていて、それを非常に今受けているわけですね。
この甘えられないというところに、その人が現れるんですよ。
甘えられないということを苦しむということは、これ苦しいんですよ。
ちょっとだと思いますよ。
でも、せっかく自分のお金を払ってファミレスで物を頼むんだから、
一番飲みたいものが飲みたいに決まっていますよね。
飲みたくもないものを、なぜ飲まなきゃならないのか。
その飲みたくないものを飲むときに、明らかにその人は何かを自覚しますよね。
一言で言うと、それは甘えを自覚するんです。
21:03
って話を昨日したつもりなんですけどね。
甘えを自覚するんですよ。
自分は甘えていたんだと。
ここでみんなに温かい目で、自分が飲みたいものを飲むという、
自分を受け入れてもらいたいと思っていたんだということを気づくはずなんです。
その行動が差し止まってしまったときに、
アイスコーヒーを飲まされてしまっているときに、
そのときに彼は自分というものに気づくので、
つまり人は甘えられないというときになって、
初めて自分が甘えたいと思っていたことに気づき、
そのときに自分というものが現れると、
土井武夫さんが言ったんだと思うんですね。
だから僕たちは甘えにまつわるところで自分を発見するんですよ。
自分は甘えたいと思っていたとは、後にならなきゃ気づかない。
でも後になればですね、その自覚がちゃんとつけば、
自分というものが発見できる。
だってメロンソーダを飲みたかったのは自分ですよね。
他の誰でもないわけですよ。
この他の誰でもないところに自分が現れるんですよ。
これ自分の肉体じゃないですよね。
私はここでグッドバイブスとほぼ同じことを言っていると思うんですけど、
自分の肉体はアイスコーヒーだっていいのかもしれないんですよ。
自分はアイスコーヒーは飲みたくないんですよ。
この自分というのは非常に情緒的なものであって、
形のないものであって、目には見えないものなんです。
だから私たちは普段そんなことを意識しないし、
肉体の中のこの辺に自分というものがあるんだろうぐらいに漠然と思っていて、
そしてそれで何の差し支えもないですけれども、
自分というのは実はそんなに簡単にはっきりするものじゃないから、
はっきりさせなきゃ困るという時には結構困るものなんですよ。
甘えられないことがあまりに長く続いていると、
自分なのか自分じゃないのかが分からなくなってくるということが出てくるはずなんですね。
この福光さんのシーンは分かりませんけれども、
アイスコーヒーを飲む自分というのがいるわけですよね。
これをやや迫害的に見るのは非常に簡単なことですよね。
アイスコーヒーを無理やり飲まされている。
でもこう言い始めちゃったらその人はもうほとんど病理ですよね。
勝手に被害妄想を抱いている。
自分でメロンソーダを頼めずに、自分でアイスコーヒーを頼んで、
自分でそれを飲んでいるはずなのに、無理やりアイスコーヒーを飲まされている。
その人の主観の中でそのように捉えるのはそんなに不思議なことじゃないですよね。
だって飲みたくもないアイスコーヒーを頼んだというのは何か強制されている気配があります。
これをこの延長線上に多分党市長賞みたいな迫害妄想というものが出てくる。
そういう言い分で私はもうそういう知人あるいは親友からも聞きます。
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完全にそれはその人が自分で選択しているんだけれども、
本人の中にその自覚がゼロになって、ゼロにはならないにせよとっても少なくなってくると、
今の言ったような流れの中で完全に自分は迫害されていると思い込むわけです。
その時にもはや自分は迫害されているなどとは思わず、ただ迫害されていることになってしまうんですね。
自分が消えちゃうんです。
もともとその自分ってどこにあったのって話になってくると困るじゃないですか。
あくまでもメロンソーダを頼むとカッコ悪いと思ったと、代わりにアイスコーヒーを頼んだと、
その時に自分がっていう性がつくんだけれども、別にそこにこれといった何かがあるわけじゃないですよね。
自分の肉体がなのかというと非常に微妙です。
自分の肉体がアイスコーヒーを頼んだのかというと、多分そんなことはないですよね。
その人の何か思考だったり情緒だったりがアイスコーヒーを頼んじゃったんですよ。
肉体は決してそんなことを求めてなかったと思うんですね。
だから自分の肉体じゃないんですよ。
ということは肉体は自分じゃないんですよね、この場合には。
明らかにそうじゃない。
甘える甘えさせる甘えたいは全て情緒の問題だけです。
ここに何か情緒的でないものがあるように思うと、わけわかんなくなってしまうんですよ。
何で俺が甘えさせなければならないんだっていった時には、何か特別な行動がまとめられているわけではないわけです。
現にこのコーヒーもそうですよね。
それはちょっと頼むというのも行動といえば行動ですけど、ほんのわずかなことです。
問題になってくるのは甘えさせるというのはあくまでも情緒の話だけをしているはずです。
昨日も夫婦間の話というのが出たんですけれども、これはもう私も頻繁に経験することでした。
例えば、何でもいいんですけど鍋の蓋を閉めてなかったみたいな話もそうですが、前にも言ったよねって話が出たんですよ。
前にも言っただろうと、これを言うのは100回目であろうと、その言葉の意味は同じなんですけれども、問題になってくるのはこの時に何かが起きているということなんですね。
これを行動面でだけ捉えるという話をすると、なぜそこでそれほど責められなければならないんだって話にきっとなると思うんですよ。
たかだか鍋にシャモジを突っ込んでいるだけじゃないかって話をしてしまうと思うんですね。
27:00
議論のポイントは、そこには本当はないはずなんてことは、100も承知でありながらお互いがだんだんスカレートしていくわけですよ。
これを言ったのは100回目だとかね。100回目だろうと1000回目だろうと、たかだか鍋の蓋の話じゃないですか。
という議論をしている限り、2者の間では絶対に問題解決しないんですよね。
でもだからといってこれを3者関係に持っていくのは明らかに無理があります。
3者関係に持っていって裁判でも起こすのかと。
被告人は100回も言われたのに鍋の蓋を閉めませんとか、そういう話を客観的なジャッジをしてもらうために誰かに持っていくのかと。
そういうことは現実的にないので、現実的には何をやるかというと、うちの夫はもう100回も言っているのに鍋の蓋を閉めないのよと、
これで第3者にジャッジしてもらっていると気になるわけですよ。
私もよくやってました。まだやってないわけじゃないです。
つまり、奥さんの話を外に持っていくということは、自分の見方をしてほしいということですよね。
夫の話を喫茶店でするというのも自分の見方をしてほしいと。
普通、特に女性はこの辺うまいので、ほぼ確実にしてくれます。
だから私も女性にこの種の話は持っていきます。
本音でどう思っていようと、うまいこと見方してくれるんですよ。
これでは全然客観的判定にはなっていないですよね。
どっちが悪かったのかの判断はできていない。
鍋の蓋の閉め方はどちらでもいいというのが現在の世論の体制であるみたいな話はしてくれないわけですよ。
それにしてくれたとしても、それによって奥さんが今度からはそれは言わないことにしますということにはならないわけですよね。
つまり正しさというのはこの場合、この種の場合、ほぼ何の役にも立たないので、
二者関係というのは難しい意味ですよ。
たぶん正しさみたいな話で議論をし始めると。
だけれどもこれはみんなが意識しているように、
当然これは見方をしてほしいというこの情緒からしても明らかな通り、
最終的には甘えの問題でしかないはずなんですね。
夫が妻に甘えているという構造を今までそういう言われ方が多かったのは、
これは男女が不平等で夫の方が偉いことに少なくとも建前上かなり長いことになっていたからなんですけれども、
これは両者同時に甘えているのは確実で、
これが前にも言ったことであろうと、100回目であろうと、1億回目であろうと言っているだけなわけですよ。
言っていることが相手がその通りにしてくれるという期待を勝手にするのは完全に甘えなんだけれども、
そういうふうな態度にはならない。
また言われた方もそうで、真摯に反省はしない。
多くの場合、もっと違う言い方があるだろうとか、そんなことでそんなに、
30:03
僕はこれをよく言うんですけどね、そんなことでそんなに言わなくてもいいじゃないかって言うんですよ。
これが甘えなんですね。
だから完全に甘えなんですよ。赤の他人には絶対そういう言い方しませんからね。
多分赤の他人にはこれ言ったの10回目だよねって言わないんですよね、そんなことでは。
うちの奥さんでもよほどの人でないと。
で、よほどの人って傍若無人なんですよ。ナルシシズムなんです。
赤の他人にこれを平気で言える人っていうのはバーチャルの世界に生きています。
そこに人がいないんですよ。
で、というのはどういうことかというと、例えばこれを言ったのは10回目ですよねと、
いきなり電車のおじさんにも言えちゃうみたいな人ってすさまじいじゃないですか。
で、なぜそんなことができるんだろうと考えると、その人はある意味ではバーチャルの世界に生きているから。
自分が言ったということは、周りの人はその通りに動くべきであると。
限定条件として意識している。もはや意識していないわけですよ。
最初に言いました通り、甘えというのは自覚がないので、
破られたとき初めて甘えられなかったということをその人は多くの場合、憎悪なんですね。
私が言った通りに人は動くべきだという甘えは全く自覚されません。
憎しんであればとか、そういうのは自然と含み込まれていきます。
だから夫に対してはあんた鍋の蓋を閉め忘れてるでしょうとは言えても、
例えばですが、うちの母が同じことをやったとき、うちの奥さんが同じように言えるか。
絶対無理ですよね。うちの奥さんじゃ絶対無理です。
黙って鍋の蓋を閉めると。
つまり甘える相手は選んでいるということです。
そしてそれは自覚はないということですね。
破られたときにイラッとする。イラッとしたときに少し自覚ができるわけです。
この自覚も私は甘えたかったんだなという自覚に至ることは滅多にないので、
あいつ何度も言ったのにぐらいの自覚なんですよ。
私が何度も言ったのに、ここに私が現れるんです。
何か甘えられなかったときに私は現れる。
もうちょっとここを頑張って江戸井さんの本とかを10回ぐらい読んでればですね、
私は甘えたいんだなって甘えられなかったから腹が立つんだなと。
甘えられなかったということは自分のニーズが満たされていないときに自分のニードが放置されている。
赤ちゃんが鍋の蓋開いてて泣くことはないですが、これが赤ちゃんだとしましょう。
鍋の蓋を閉めるということにすごくご終身な赤ちゃんだとしましょう。
お母さんが忘れたと。泣くと。
このときに私というものが現れるわけですよね。
私は鍋の蓋を閉めておいて欲しい人なんだという、そういう私が現れるんですが、
33:05
破られたということになってくると、私は優しくしてもらえないんだということになります。
泣けばミルクが来るのが当然です。赤ちゃんであれば。
けれども夫婦関係であれば、一度言っておいたことは相手がやってくれて当然だと
赤ちゃんのような情緒なんですね。
もう少しこれを一般化して言うと、私は夫に優しくされて当然だと思います。
つまりそれは優しくされたいということです。
優しくされたいということは甘えたいということですね。
優しくされたいのは誰だって話ですね。自分ですね。
このとき自分が現れるというときに、甘えたいという感情をニードですね。
ニードを自覚したときに、その人が自分というものを持つことができると言ったのはどいさんなわけですね。
この自覚が全くないと自分というものが非常にあやふやなものになってしまって、
自分が何を望んでいるのか分からなくなっていくわけですね。
自分が望んでいることは単純なんですよね。
優しくされたいということであって、これはもう完全に基本的には甘えなわけです。
甘えと同じだということですね。
優しくされたいと願うのは勝手じゃないですか。全然自由ですよね。
何にも問題はないです。でも相手が優しくするかどうかは分からないことです。
これが破られたからということで裁判を起こすみたいな審議になってしまうということは、
何かがきっちりと見失われていると。
もしですよ、この番組ならではの言い方で申し訳ないんですけど、
もしバーチャルだということが本当だったらどうするかと。
そんなふうに人は思わないかもしれませんが、この鍋の蓋が開いているというのは実は実態ではない。
VRの眼鏡でかけていると鍋の蓋は開いているけど、実は閉まっている。
なんでこういう話を私がしているかというと、さっき傍若無人と言いました。
若い人たちがそこにいて、私たちがなぜ彼らが騒いだり踊ったりしていると大声を出したり、
何かバッと振り回したりすると腹を立てるのかというと、私たちは環境になっちゃうからなんですね。
環境としての母親というのもこのポッドキャストで何度も言っていますけど、
私たちにとって母親は環境です。泣くミルクが出る環境ですよね。
まるで自動販売機のようです。優しい世界なわけです。
若者の人たちが自分たちが中心で、周りは環境になると。
でも人によっては、俺は環境じゃねえと怒るわけですよね。
これがナルシシズムという問題というか、その時に腹を立てる人が出やすいという現象を生むポイントなんですが、
36:00
彼らはまるで夢を見ているようなところがある。
でも僕らもまるで夢を見ているようなところがあるわけです。
現にですね、鍋の蓋を閉めろと、これで10回目だよねと言ったとき、言ったわけじゃないですかね。
言ってないのかもしれないけど、言ったことにしましょう。
その人本当にいるんだろうかとは思わないんですよね、私たちは。
でも夢の中でもきっとそういうことを言ってますよね。
ここは非常に僕は重視するべきポイントだと本当は思うんですよ。
忘れちゃいますけどね。
奥さんは冷たい態度を取った。
その奥さん本当にいるんでしょうかってことなんですよ。
奥さんが口を聞いてくれませんと。
その奥さんは本当に口を聞いてくれてないですか。
僕はこれは問うべき問いだと思うんですよね。
もしある種の人が毎日奥さんと会話しているのに、
うちの奥さん全然話をしてくれないんですって言ったら、
病院に連れて行かれますよね。
昔のギャグで言えば。
今は簡単に病院なんか連れて行ってもらえませんけどね。
私たちは現実だと思っているわけですよ、それを。
現実だと思っているということは思っているだけなんですよ、実は。
それが現実だと思っている上に、現実に甘えてもいるので、
全くそういうことに気づいていないわけですね。
それがいいのか悪いのかって話ばかりするんですよ。
それが本当に起きたのかどうかって話がまずその前にあるはずなんですよ。
さらにその前に、私たちはそれをどういうふうにどの程度期待したのかって話もあるはずなんですよ。
鍋の蓋が開いてたら閉めればいいって話もあるはずなんですよ。
そういう選択は絶対取れないと。
開けた人が閉めておくべきだったと考える。
それもしかも現実だったと思い込んでいる。
こういう思い込みが何層にも何層にも積み重なっているはずなんですよね。
その中で自分ってものがいたんだけれども、見失われてしまう。
だってもしその鍋の蓋が開いていたというのが全部夢だったとするならば、
蓋が開いているのも自分だし自分の夢だから。
開けていた相手と夫というのも実際には実在せず夢だったということになるんで自分ですよね。
自分の領域がもっとずっと広いんですよね。
自分の領域っていうのはこういうふうに広がったり狭くなったりしている。
いつも変化しているのに、僕らはそれをなぜか一定の大きさを持った。
一定の存在だとでも思い込んでいるわけですよね。
そうして甘えは許されないとか甘えは許さないというふうに思っている。
この話はすごく昨日しゃべったところからさらにずっと先の方というか、
僕の頭の方までいって全然話が繋がっていないようにも思われると思います。
39:05
僕の中では繋がっちゃってるんですけれども、繋がってないというふうに思われると思いますけれども。
でもですね、リアルに考えた時に私たちが相手に対して怒ると、
その人本当にいるのかっていうのは大事な問題だと思うんですよ。
1万回も言ったっていうのは本当なのかと。
まあ多分これは嘘ですよね。
大事なのは優しくされなかったってこと。ここだけなんですよ。
これにしたって、相手は自分が優しくされてないというそのワールドはバーチャルかもしれないんですよ。
これにしたって。
だから私たちが何かカチンとくるものがあったとか、
奥さんが冷たいだとか、厳しすぎるとか、わけのわからないイチャモをつけてくるとか、
全て一番の大前提のところのさらにその手前から疑っていかないと、
すぐ自分というものが見失われてしまって、
何望んでるのか全然わからなくなってしまうところに連れて行かれると、
私はそれが一番嫌だと思うんですよね。
みんなそれで苦しんで直してもらおうと思って、
プラゾンの授業のセッションを受けに行ったりするわけじゃないですか。
一番嫌なのはそれだと思うんですよね。
ここの筋道をきっちり追うこととかではないと思うんですよ。
現に起こることというのは何かざわっとすること。
若者を見るだとか、奥さんが言うだとか、上司に怒られるだとか、
家老いを伺うというような話。
どんどん一つ一つの出来事のどこから本当に起きたことで、
どこまで自分の情緒が関与しているのかということを全然見もしないで、
悪いことが起きたとかサイコパスだとか、
どんどん現実というものを固定していった先に、
現実がなかったらどうするんだよということって、
私はよく考えるんですよ。
夢の中でこういうことを僕はしているからなんでしょうね。
夢の中で人の顔色を伺い、夢の中で飲みたくもないアイスコーヒーを飲み、
これは本当に寝ているという意味ですよ。
すっごいバカくさいじゃないですか。夢の中ですからね。
でも変わらないんじゃないかということなんですよ。
本当はアイスコーヒーを飲まずにメロンソーダを頼んでも、
メロンソーダを頼んでも実はみんな何とも思わなかったら、
夢でやったことと全く同じになってしまいます。
だから私が何を望んだのか、人がどのように捉えたのかというのを
精査していくということが必須だと思うんですよ。
なぜ私が甘えさせなければいけないのかの答えはこれだと思うんですね。
現実であるのかそうでないのか、本当のところ僕らはほとんどの場合見失っているので、
そこを見極めなきゃいけないと思うんですね。
めんどくさいというのは危険極まりないと思います。
現実なのか夢なのか、現実なのか現実でないのか、
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起きていることなのかイリュージョンなのかを見極めずに動いてしまうということを
めんどくさいからと、たったそれだけの理由でそれをやり続けるというのは
ある意味、投稿主張の人と何も変わらないわけじゃないですか。
いきなり迫害妄想を抱いたり、いきなり被害妄想を抱いたりしていて、
いつかとんでもないところに自分が連れていかれていても、
全然不思議がないという話になってしまうんですよ。
あれほど映画マトリックスが受け入れられたにもかかわらず、
僕らはこの辺のことを全く含み込んでいこうとしないところがありますよね。
昨日もその質問が出て、母と子の間にハイフンを打ってユニットというのを
母と子の間のハイフンはおかしいんじゃないでしょうかって言われると。
ここにどういう現実を見るかっていうのはすごい大事だと思うんですね。
イチャモンをつけられるという表現が俗にありますけれども、
母子って間にハイフンを打つんですよ。
精神分析では母子ユニットと一つっていうことを強く強調するためにですね、
母と子は二人で一人。
これ、当然、助権拡張論的なところから攻撃を受けます。
でも母子というのはこの場合情緒の話をしているので、
父子である可能性はあるんですよ。
母子と言っているのはおそらく情緒的には母子と感じられる。
なぜならそういうふうに社会では認定されてきたし、
実際子供は母親から生まれてくるから、母子と感じられるっていう部分を強調するために
このワンユニットっていうことを言ったんですね。
そのハイフン変だっていうイチャモンをつけられるっていうことが
セミナー中に起きたらどうなるか。
まずそのセミナーはリアルに行っているのか、夢じゃないのかっていうことを問うてもいいぐらいなんですよ。
問わないですけどね、多くの場合。
でも多分我々は夢と現実とそんなにきっちり区別できないと思ってるから
マトリックスという映画を受けたわけじゃないですか。
そしてその人はイチャモンをつけたのか、攻撃をしたのかどうかってのを正しく見るべきなんですよ。
それが僕らにはわからないからですね。
僕らは甘えているわけですよ。
母子ユニットと書いてみんな受け入れてくれるだろうと僕は甘えているわけですよ。
そのようなことは考えません。
イチャモンをつけられるまでは初めてその時になって
ああ、そういうことを僕はこの聴衆の人たちに勝手に期待していたんだと
僕は期待していたわけですね。
ここに私が現れるわけです。
その前はそのような前提を自分が持っていたことには当然気づいていない。
気づいていないからショックを受けるんだけれども
その時気づく私は、だって他の誰もそんなことを期待していないわけですよね。
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星っていうところにハイフンを打っていいでしょうっていう風にみんなに期待したのは私だけです。
世界の中で。
だから自分というものは世界の中でこの瞬間にふっと現れる何かのわけですよ。
その前はいなかったわけです、そんな人は。
だから甘えるということは自分なんですよね。
そういうことをずっと追っかけていくとですね、人の顔色をうかがわなくなるんですよ。
なぜなら危険だから。
人の顔色をうかがうということは現実じゃないところの中で生きちゃうということになるんです。
イチャモンをつけられることを警戒して生きるということは
現実じゃないところで生きるということになるんです。
ずっとVRつけているようなものです。危険だと思うんです。
これをずっとやっている方が安全だというのはとんでもなく無理があるような気がします。
夢の中で飲みたくないものを飲んだり
夢の中で自分は素晴らしい人だと思ってずっと夢を見て生きていくのは危険ですよね。
自分が大金持ちだという夢を見ていながら
無有病者みたいにどんどん買い物をしていくのは危険ですよね。
それとそれに近づいていきたくないんですよ、私としては。
それに間違いなく近づいていく方向に行くと思うんですね。
夢を見ながらずっと生きていくというのは
自分が罵ってる相手は実在しているんだろうか?
考える価値はあると私は思うんですよね。
自分が顔色を伺っている相手は実在しているんだろうか?
いるとして相手はそれをやると喜ぶんだろうか?
全然精査しないですよね、我々は。
どういうわけなのか知りませんが。
そういうものだと決めつけて行動した方が安全だというふうに思っていますよね。
これは大きな誤解なんだと思うんですね。
イリュージョンの中にどっぷり浸って生きる方が遥かに安全ですってことを
ある意味で私は何度も何度も抗議として言われている気がするんですよ。
パワハラの上司はいると思って生きている方が安全なんですとか
サイコパスだらけだと思って生きている方が安全なんですとか
私にはどうしてもそうは思えない。
そういうことをやるというのはリスクが高すぎるというふうにやっぱり思います。
ただこれは最終的にはその人にしてみると
確率と価値観の問題なんですと言われてしまえば
その議論そのものは難しくなりますけれども
価値観と確率の問題だというのも一つの夢だということは
可能性として含み込むべきだと思うんです。
夢の中でもその人は交通事故に遭うかもしれないと思う訳だと思うんですよね。
夢の中で交通事故には絶対会いませんよね。夢なんて。
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この切り分けというのか見極めというのかを
しようとしないということが面倒だったり
その方がむしろ安全だからという話というのが
受け入れられないというところから顔色を伺うというのは
手放せるというふうに思うんです。
その時に私たちは多分必ず一番最初の前提として
甘えているというところから出発すると。
今朝も娘を起こしましたが起きてくれるだろうと思い込んでいる訳ですよ。
不登校になっていかなくなれば動揺するというのがそういうことですよね。
そのように娘が起きて学校に行ってほしいと思い込んでいるのは誰だ?
私ですよね。
他の家の子が不登校で学校に行かなくなったとしても
私そのことで困らないじゃないですか。私は現れない。
こういう思い込みばかりが私たちが織りなしているワールドなんですよ。
これを減らしていきたいと。
昨日話したのは結局そういうことなんですよね。
これを激減させることができると。
私がクラウドさんのセッションで学んだのは結局そういうことなんですよ。
無くすることができると。
いろんなことが言われるわけじゃないですか。
長いのでもうやめますけれども。
いろんなことが言われるんですよ。娘の育て方とかでもね。
目の前で喧嘩をしない方がいいとか。いろいろ言われる。
女の子は思春期になったらお父さんを嫌うとか。
どうして私たちはその言った人の言語というものがリアルだと信じることができるのか。
もうちょっと言うと目の前にその人本当にいるんだろうかってなぜ思えないのか。
私は自分が作り出しているものがあまりにも多いと思うんですよ。
みんなそうなんですけれども。
ある意味この見ている世界って全部自分が作り出しているはずなんですよね。
目をつぶれば消えちゃうわけですから。
それなのに正しいとか何かが言われると傷つくとかそんなことまでリアルだと思って
疑いの余地を挟ませたくないと思っちゃうんですけど。
それをやめようって思っているうちに私みたいに顔色を伺いまくるような人間がいつしかそうしなくなったということなんですね。
いつしかそういうことは一切やめるようになっていたと。
なっていたということはどこかでやめたんですけれども。
昔から自分はそういうことに対する疑いがなかったわけじゃないんです。
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本当にガイスコーヒーって言っておいたほうが世の中の受けがいいかどうかは疑わしいっていうのをずっともちろん思っていたわけです。
福道さんだって思っているからああいう書き方をするんだと思うんですよね。
そこがもうあと一歩押し込んでいかないと。
やっぱり何ていうのか分からないんですけれども。
何ていうのか分からないというのは究極的に言うと
ニードでしかないという言い方になるんですけれども。
究極的にはニードでしかありませんが、
自分のニードがすっかり見えなくなっていくんだろうなと。
そしたらそれはもう生きていないのと変わらないわけですよね。
それがやっぱり僕が感じるところの最大のリスクだと思うんです。
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